都電21系統跡コース(2)  

コース 踏破記  

<<都電21系統跡コース(1)の続きです>>  

日光街道の左手に真正寺があります。小さなお寺ですが、それなりに由緒があるようです。

真正寺門前町

ェ文元年(1661年)真正寺が浅草から当地に移転してきた時に、真正寺門前町も同時につくられた。東西二十間三尺、南北二十四間二尺(面積約千六百平方メートル)ほどの土地であるが、本区におけるただ一つの門前町である。町奉行支配地で、寛延二年(1749年)三月に類焼の後、家作と畑地に分けられた。明治二年(1869年)地名を下谷真正寺町と改めたが、同十二年(1879年)下谷通新町に合併された。

Shinsho-ji Temple Monzenmachi (Temple Town)

In 1661 when Shinsho-ji Temple moved from Asakusa to this area, this monzenmachi formed at the same time. The town area totaled about 1600mxm. It was the only monzenmachi in Arakawa City.




真正寺の先に巨大な観音様が立つ円通寺があります。観音像は高村光雲の作だそうです。ちなみに、上野恩賜公園の西郷隆盛像も高村光雲が手がけました。

百観音 円通寺

延暦十年(791年)、坂上田村麻呂が開創したと伝える。また、源義家が奥州を鎮定したとき、討ちとった四十八の首を寺域内に埋めて塚を築いたので、このあたりを小塚原とよぶようになったという。江戸時代、下谷の広徳寺・入谷の鬼子母神とともに「下谷の三寺」とよばれた。秩父・坂東・西国霊場の百体の観音像を安置した観音堂があったことから「百観音」の通称で親しまれたが、観音堂は安政二年(1855年)の大地震で倒壊した。境内には、石造七重塔・彰義隊士の墓・永仁四年(1296年)銘をはじめとする板碑四墓(区指定文化財)などがある。

Hyakkan'non Entsu-ji Temple

It is said that this temple was founded in 791 by Sakanoue no Tamuramaro, a military commander of the Heian period. Also, when Minamoto no Yoshiie, another military commander during the Heian period, conquered Oshu (present-day Fukushima, Miyagi, Iwate, Aomori, and part of Akita Prefecture), he built a mound on the temple grounds by burying the heads of the 48 adversaries he had defeated. Therefore, this area is called Kozukappara (literally "small mound field"). The temple was popularly known as "Hyakkan'non (100 kan'non/Avalokiteshwara)" because it had Kannon-do (hall) that housed 100 Kan'non statues from hallowed grounds in Chichibu, Bando and Saigoku. However, the Kan'non-do collapsed in the earthquake in 1855. On the temple grounds, there are a seven-storied stone pagoda, graves of Shogitai worriers and four stone stupas (Itabi) inscribed with the year 1296 (designated cultural property of Arakawa City).




円通寺には歴史上の様々な遺跡が残されています。

百観音円通寺は東都の古刹にして

延暦十年(西暦791年)坂上田村磨将軍により開創せらる。本尊・聖観世音菩薩(聖徳太子 一刀三礼御作)。屋上聖観音像全長12m原形一尺八分。当寺蔵。高村光雲大正十二年作。八幡太郎義家奥羽征伐して賊首四十八を得て還り、ここに埋め首塚四十八基を築いた。それから、この地を「小塚原」と呼ばれる。旧町名「通新町」は円通寺新町に由来する。寛永三年三代将軍家光放鷹の日、円通寺の松に止まる。「鷹見の松」と名づけらる。上野戦争(慶応四年五月十五日)彰義隊士の遺体二百六十六を上野で火葬し当寺に収骨した。太政官の許可状に「懇に供養すべし」を口実に、大ぴらに賊軍の法要ができる当時日本唯一の寺であった。その因縁で旧上野黒門を帝室博物館より明治四十年十月当寺に下賜さる。




上野寛永寺の黒門は、門前で戦死した彰義隊士の供養を行った縁で移設されたとのことです。

旧上野の黒門

この黒門は、元、上野山内にあった。寛永寺の八門のうちで表門にあたる。慶応四年(1868年)五月十五日に旧幕臣の彰義隊と新政府軍が戦った上野戦争では、黒門前でも激しい攻防が繰り広げられた。無数の弾痕が往時の激戦を今に伝えている。戦いの後、埋葬されずにいた多数の彰義隊士の遺体を当時の円通寺住持だった仏磨和尚と神田旅篭町の商人三河屋幸三郎が火葬した。以来、円通寺は旧幕府方の戦死者供養の拠点となった。その機縁で、黒門が明治四十年(1907年)に帝室博物館より円通寺に下賜された。




彰義隊士の墓地には、墓石が雑然と置かれています。何のために若き命を捧げたのでしょうか?

彰義隊士の墓

慶応四年(1868年)五月、寛永寺に集結した彰義隊は新政府との激戦の末、上野の山から敗走した。累々と横たわる隊士の遺体をみた円通寺の仏磨和尚は、官許を得て、ェ永寺御用商人三河屋幸三郎とともに遺骸を火葬して円通寺に合葬した。これが縁となって、明治四十年、寛永寺の黒門が円通寺に移された。昭和六十年に修復工事が行われている。

Graves of the Shogitai Warriors

The Shogitai Warriors (on the Bakufu side) who were killed in the Battle of Ueno, which took place in May 1868 at the end of the Edo period, were buried here. Having assembled at Kan'ei-ji Temple, a family temple of the Tokugawa Shogunate, the troops were defeated in a fierce battle with the new government's troops and ?ed from the mountains of Ueno. The priest Butsuma of Entsu-ji Temple, who saw the bodies of the soldiers strewn everywhere, obtained official approval to c????te the corpses and bury the ashes on the grounds of Entsu-ji Temple, jointly with Mikawaya Kozaburo, a purveyor of Kan'ei-ji Temple. By v??ue of this event, the black gate of Kan'ei-ji Tmple (designated cultual property of Arakawa City) was transfered to Entsu-ji Temple in 1907.




境内には鎌倉時代の板碑が残っています。板碑(いたび)とは、主に供養塔として使われる石碑の一種で、板石卒塔婆とか板石塔婆と呼ばれ、特に典型的なものとして知られる武蔵型板碑は秩父産の緑泥片岩を加工して造られるため、青石塔婆とも呼ばれています。戦国期以降には急激に廃れ、既存の板碑も廃棄されたり用水路の蓋などに転用されたりしました。現在でも残っているのは貴重といえます。

板碑四基(永仁四年十月碑銘他)

円通寺の板碑四基の内、三基は鎌倉時代末期の紀年銘をもち、区内に現存する板碑の中でも古い時代に属する。とりわけ永仁四年(1296年)十月日銘は、日慶寺の正応二年(1289年)銘に次いで二番目に古い年号を有し、南千住における鎌倉時代に人びとの生活を知るうえで貴重である。また、嘉暦四年(1329年)正月二十九日銘は、薬研彫りで精巧な彫刻が施され、造形的にも優れている板碑といえる。




境内の中に築かれた小山の上に七重塔が建っています。見た目は六重塔みたいですけど。



日光街道の左手にはお寺が多いですね。真養寺もそのひとつです。

東龍斎清寿の墓(真養寺)

万治二年(1659年)当地に開かれた運千山自性寺を前身とする日蓮宗の寺。元禄二年(1689年)、下谷三枚橋の付近にあった広布山真養寺を合併し、運千山真養寺と称するようになった。境内に、開基である木材石材商の吉田勘兵衛が寛文十一年(1671年)に建立した宝塔がある。勘兵衛は、横浜の新田開発に貢献した人物である。明治四十年(1907年)、日光街道拡張の際に境内を分断された。街道の西側にある墓地内には、金工・東龍斎清寿の墓がある。清寿は江戸前の粋な味を刀の鐔に施すことで知られた。




千住大橋の手前に素盞雄神社があります。素盞雄神社は、南千住・三ノ輪・三河島・町屋など61町にも及ぶ区域の総鎮守です。旧暦の夏にあたる六月に挙行される天王祭は、人や物の行き来が盛んな街道の夏に流行する疫病を激しい神輿振りにより御祭神の神威をより一層振り起こして祓う悪疫退散・除災招福・郷土繁栄を願う祭禮です。春と秋に稲の収穫を祈念感謝する農村型の祭禮に対して、京都の祇園祭と同様に都市型の祭禮といえます。宵宮祭・例大祭は61ヶ町総代をはじめ、氏子崇敬者の参列のもとで厳粛な祭儀が斎行されます。このおごそかな祭典を境として、氏子61ヶ町が勇壮華麗な祭一色へと染まっていきます。都内でも珍しい二天棒の神輿で神輿振りをする事で知られています。神輿の担ぎ棒は4本や6本を井桁に組んで担ぐことが多いなか、天王祭の神輿では2本のみで担ぎます。屋根の鳳凰が地面につくほど神輿を左右へ倒して激しく振る神輿振りは、荒々しくかつ勇壮・荘厳な情景です。

素盞雄神社

小塚原・三の輪・下谷通新町・三河島・町屋など、区内で最も広い地域を氏子圏とする鎮守で「てんのうさま」とも呼ばれる。石を神として尊崇する信仰は全国各地にみられるもので、当社も石神信仰に基づく縁起を有する。延暦十四年(795年)、荊石(けいせき)が微妙な光を放ち、その光のうちに翁の姿をしたニ神(素盞雄命・事代主命)が現れて神託を告げたという。そのためその石は「瑞光石」と呼ばれ、出現したニ神を祭神として祀る。宝暦年間(1751年〜1764年)頃まで行われていたという千住大橋綱曳は、その年の吉凶を占う当社の神事で、「東都歳事記」(天保九年)にその雄壮な様が描かれている。

Susano'o Shrine

This is a guardian shrine with the largest area of Ujiko (parishioners) in Arakawa City, including not only nearby areas but also Arakawa and Machiya Towns. It is commonly referred to as "Tennosama". According to the history of the shrine, in 795, a hallowed stone suddenly gave off a beautiful light that indicated a good sign, and two deities in the form of old men (Susano'o-Okami and Asuka-Okami) appeared in the light pronouncing divine. messages. People began worshipping the two deities. The stone that gave off that auspicious light is called "Zuiko Seki". In June every year, the Ten'no-sai Festival is held in which a huge Mikoshi (portable shrine) is swayed from side to side. Until the middle of the 18th century, a quaint tug-of-war ritual was held on the Senju-ohashi Bridge to divine harvest.




案内板には18世紀の千住大橋の様子が描かれた挿絵が添えられています。小川に架かる小さな橋のように見えますが、実際は当時としては長大な橋だったのでしょう。


Senju-Ohashi Bridge Tug ofWar, Toto-saijiki (Owned by the Arakawa Furusato Museum)


千住は、松尾芭蕉が奥の細道に旅だった出発点として知られています。芭蕉はそこで初句を詠み、矢立初めとしました。矢立とは、筆と墨壺を組み合わせた携帯用の筆記用具一式をいいます。

奥の細道 矢立初めの地 千住

行く春や 鳥啼き魚の 目は泪

ここ千住は日光道中の初宿。当社(素盞雄神社のこと)より少し北上したところに架かる千住大橋は、江戸で最初に架けられた橋です。浮世絵のなかの大橋も行き交う人々で賑っていますが、旅を住処とした漂泊の詩人・松尾芭蕉も、ここ千住から「奥の細道」へと旅立ちました。この紀行から百三十年後の文政三年、千住宿に集う文人達によって旅立ちの地の鎮守である当社に句碑が建てられました。「奥の細道」矢立初めとなる一節を刻んだこの碑は、江戸随一の儒学者で書家としても高名な亀田鵬斎が銘文を、文人画壇の重鎮である谷文晁の弟子で隅田川の対岸関屋在住の建部巣兆が座像を手がけています。

矢立とは携行用の筆記具のことで、「行く春や」の句は、「奥の細道」の本文に「これを矢立の初めとして」と記されています。




隅田川に架かる千住大橋のアーチには、「大橋」というプレートが掲げられています。元祖、隅田川に架けられた橋という自負が感じられます。

千住大橋

文禄三年(1594年)、徳川家康が江戸に入った後、隅田川に初めて架けた橋。架橋工事は伊奈備前守忠次が奉行を務めたが、工事は困難を極めた。忠次が熊野神社(南千住六丁目)に祈願したところ、エ事は成就し、以来橋の造営の度に残材で社殿の修理を行うことが慣例となったと伝えられる。また、この架橋を機に、江戸中期まで行われていた小塚原天王社(現素盞雄神社)天王祭の神事「千住大橋綱引」が始まったという。当初は今より、200メートル程上流に架けられた。単に「大橋」と呼ばれたが、下流にも架橋されると「千住大橋」と称されるようになったと伝えられている。千住大橋は、日光道中初宿、千住宿の南(荒川区)と北(足立区)とを結び、また、江戸の出入口として位置付けられ、多くの旅人が行き交った。旅を愛した松尾芭蕉もここから奥の細道へと旅立ち、真山青果の戯曲「将軍江戸を去る」では、最後の将軍徳川慶喜の水戸への旅立ちの舞台として表現されている。現在の鋼橋は、昭和二年(1927年)、日本を代表する橋梁技術者増田淳の設計により架け替えられた。ブレースドリブ・タイドアーチ橋の現存する最古の例である。「大橋」のプレートは、400年にわたる千住大橋の歴史を伝えている。




案内板に添えられた図によりますと、川幅と橋の長さが相当なものであったことが分かります。隅田川には護岸もなく、自然な流れが見えます。現在の風景とは全く違いますね。



千住大橋の袂に石碑が置かれています。なかなかに読み取りにくい彫文です。

千住大橋

”千住大橋”は”千住の大橋”とも呼ばれている。最初の橋は、徳川家康が江戸城に入って四年目の文禄三年(1594年)に架けられた。隅田川の橋の中では、一番先に架けられた橋である。当初は、ただ”大橋”と呼ばれていたが、下流に大橋(両国橋)や新大橋がつくられてから”千住”の地名を付して呼ばれるようになった。江戸時代の大橋は木橋で、長さ六十六間(約120メートル)、幅四間(約7メートル)であった。奥州・日光・水戸三街道の要地をしめて、千住の宿を南北に結び、三十余藩の大名行列がゆきかう東北への唯一の大橋であった。松尾芭蕉が奥州への旅で人々と別れたところもここである。現在の鉄橋は関東大震災の復興事業で昭和二年(1927年)に架けられ、近年の交通量の増大のため、昭和四十八年(1973年)新橋がそえられた。




千住大橋を渡ったところに小さな公園があります。奥の細道に関する様々な案内板が立っています。矢立の句も更に詳しく解説されています。元禄二年3月27日(1689年5月16日)、松尾芭蕉は門人曾良とともに、千住大橋付近から俳諧紀行「おくのほそ道」の旅へ立ちました。その後、千住地域は芭蕉の俳諧を追慕する地となり、文政三年(1820年)には琳派絵師の酒井抱一が顕彰したのをはじめ、現在までいくつかの芭蕉の記念碑と像が建立されています。

史跡 おくのほそ道矢立初の碑

千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ

行春や 鳥啼き魚の 目は泪

是を矢立の初として、行道なをすすまず。人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送るなるべし。


現代語訳です。

千住というところで舟から上がると、いよいよこれから前途三千里ともいうべき長い旅に出るのだなあ、という感慨で胸がいっぱいになって、この世は夢幻だという思いはするものの、いざこうして別れ道に立つことになると、いまさらながら離別の涙を流すのであった。

春はもう過ぎ去ろうとしている。去り行く春の愁いは、無心な鳥や魚までも感ずるらしく、心なしか、鳥は悲しげに鳴き、魚の目も涙にうるんでいるようにみえる

この句を旅中吟の書きはじめとして、行脚の第一歩を踏み出したのだが、まだ後ろ髪をひかれる思いで、いっこうに歩みがはかどらない。人々は道中に立ち並んで、われわれの後ろ姿の見えるかぎりはと、見送ってくれているらしい。




公園の先にある足立市場前交差点脇に奥の細道の小さな記念広場があります。ここには、かって江戸の三代野菜市場として知られたやっちゃ場がありました。

平成十六年は芭蕉生誕三百六十年に当たり、当地旧日光道中の入口に石像の建立が実現しました。千住は奥の細道への旅立ちの地であり、矢立初の句「行く春や鳥啼き魚の目に泪」の句が残されています。此の先の旧道は元やっちゃ場の地であり、明治以後は正岡子規・高浜虚子も訪れていて、特に高浜虚子は青物問屋の主人で為成善太郎(俳号菖蒲園)を直弟子として活躍させています。又虚子の命名による「やっちゃ場句会」も開かれていました。芭蕉像に到る足下の敷き石はやっちゃ場のせり場に敷かれていた御影石です。もしかしたら芭蕉と曽良の旅立ちを見送っていた敷き石が有るかも知れません。遠い江戸の遥かな空へ夢とロマンを掻きたてます。人生は人それぞれにさまざまな旅立ちがあります。奥街道を旅する事で何かを感じるかも知れません。遥かなる奥の細道へ。



足立市場は天正年間に始まったといわれる歴史ある市場です。当時は川魚・青物・米穀を扱い、江戸三大青物市場のひとつで、幕府の御用市場でもありました。その後、青果部門を分離・移転し、現在は鮮魚を約30%、マグロ類を約8%、冷凍品や塩干加工品を約62%扱っており、小さな単位を卸売する店もあるなど、種類や量が豊富なことが特徴です。市場には新鮮な魚介類を供する食堂が必ず備わっています。市場の従業員とか、買い出しのお客さん相手の魚料理が食べられます。遅い時間だったためか、お客さんは少なめです。



河原稲荷神社は千住七福神の一社で、福禄寿が祀られています。何年か前のお正月にも詣でましたね。



境内の狛犬も特徴的です。台座も他の神社の狛犬と違いますね。

狛犬

狛犬は高麗犬とも書く。コマというのは異国を意味しているので高麗の字を宛てたようである。狛犬は石などで造り、御殿や神社の前に据え置くもの。鬼魅を避けるためといふ。起源については種々の説があって一定しない。一般に狛犬を唐獅子と言ったりするように、本来は獅子ではないかと思われる節がある。当神社の狛犬は足立区内最大の狛犬で自然石を組み上げた上に鎮座させている阿吽(あうん)の一対。口を開けている方が阿で雄という。口を閉じているのが雌。何でも大きなものが好きな「やっちや場」の旦那衆が造りあげたものである。残念ながら石工は疎か献納者の名も刻んでいない。良く似た兄弟狛犬がある。浅草寺隣り三社祭で知られる浅草神社の狛犬。台座の石組みもそっくり同じ手法でダイナミックなノミ捌きも同じ石工の作としか思えない。皆様も是非浅草神社でご覧下さい。




境内にはやっちゃ場の記念碑も置かれています。河原稲荷神社はやっちゃ場の鎮守であったため、一帯の関係だったのでしょう。境内の神輿庫には千貫神輿が奉納されていて、その大きさは圧巻です。金銅の金具で一面に装飾された木造漆塗の大型神輿で、屋蓋は照り起り露盤上に鳳凰が据えられ、降棟の先端は円形の蕨手となり頂に飛燕がついています。胴部の前と左右面の中央には浮彫りになった登龍立浪の打出金物が飾られ、基部上は玉垣を巡らし四隅に高欄、中央に鳥居がついています。基部の後方右側に「明治未四年五月吉祥日」と制作年代を示す陰刻銘があり、明治初期の作品ですが、江戸神輿の形式を受け継ぎ、細工や装飾も見事で美しい総高238.5センチ・胴部高123.0センチと大きく、通称千貫神輿と呼ばれていますが実際の重量は四百五十貫であり、この大袈裟な通称はむしろその豪壮な装飾から生じたのでしょう。九月十四・十五日は千住の祭りで、稲荷神社は千住の中心河原町の市場の鎮守なので、神輿は宮を出て市場内に入り町内を渡御するのが大祭の慣わしとなっています。河原稲荷の祭礼では昔はやっちゃ場の各問屋に力自慢の若衆が大勢いたので二天で担いだ神輿といわれています。

千住市場創立三百三十年碑

明治三十九年五月二十二日、千住市場創業三百三十年の祝賀祭が盛大に挙行された。その模様は広場に三百三十台の盤台を積み上げ、神宮皇后の山車と大蕉の山車を造り、各々に太鼓を備えつけ、これを打鳴らして町中を引き廻した。他に千貫神輿と呼ばれる大神輿を二天で担ぎ、少年は中神輿、子供は小神輿の三基の神輿が市場中を練り歩いた。神社境内には四米もの記念碑を「浅草北口睦」の十七名の人達が建立した。「浅草北口睦」とは、吉原遊郭を中心にして南千住寄り一帯で橋場・今戸・吉野地方今戸・日本堤などの青果商の同業組合である。記述の頭取とは会長・組合長で、伍長は取締幹事長の様な役職である。因みにこの祭りで問屋が三軒潰れた。昔からやり出したらとことんやるのが河原気質と云い、お祭りともなれば当番の問屋が二・三軒潰れた。千貫神輿は現存する。




歩道横の小さなスペースに案内板が立っています。坂本龍馬が伴侶になって千住に腰を落ち着けていたら、幕末の歴史も随分と変わっていたことでしょう。

千葉灸治院跡地 千葉道場での龍馬と千葉佐那

1853年千葉道場に入門した坂本龍馬は千葉定吉の次女佐那と恋仲になり、両家は婚約を結ぶも、龍馬は江戸を出立し京都で横死する(1867年)。佐那は龍馬の形見の袖を生涯離さず、この千住の地に灸治院を開業し、私が龍馬の妻ですと語っていたという。




都電21系統の終点である千住四丁目電停は、荒川に架かる千住新橋の手前にあったようです。現在、同じ名前のバス停があるところの付近でしょうか?



ということで、都電21系統跡を歩き終えました。都電21系統は、都心から北千住まで延びていた唯一の路線で、当時の沿線の住民にとっては都心への貴重な足となっていたことでしょう。面白い歩きが楽しめました。




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