- 都電22系統跡コース(1)
- コース 踏破記
- 今日は都電22系統跡を歩きます。都電22系統は新橋から南千住までを結び、その路線は主に中央通り・江戸通り・吉野通りを通っていました。都心を南北に縦断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。また、多くの都電がこの区間を重複して走っていました。
都電22系統
都電22系統の全長は8.7kmで、昭和46年3月18日に廃止となりました。
都電22系統の電停(路上の駅)は、新橋・銀座七丁目・銀座四丁目・銀座二丁目・京橋・通三丁目・日本橋・室町一丁目・室町三丁目・本町三丁目・小伝馬町・馬喰町・浅草橋・浅草橋駅・蔵前一丁目・蔵前三丁目・厩橋・駒形二丁目・浅草・隅田公園・聖天町・吉野町二丁目・吉野町三丁目・山谷町・泪橋・南千住でした。
都電22系統の起点は、中央通り・第一京浜(いずれも国道15号)と昭和通り・外堀通りが交わる新橋交差点に位置していた新橋電停です。交差点のどの辺りにあったのか分かりませんので、道路標識のある辺りとしましょう。
かって汐留川が流れていた跡地に造られた東京高速道路の高架手前に広場があり、銀座柳の石碑が置かれていて、西条八十作詞・中山晋平作曲の「銀座の柳」の歌碑が刻まれています。明治二十年頃に街路樹として銀座の街に植えられた柳は街の発展と共に銀座の名物となりました。その柳を歌ったこの歌は全国を風麗し、これを記念して昭和二十九年4月1日にこの歌碑が建立されました。歌碑の横には、2本の銀座の柳二世の木が枝を広げています。
銀座柳の碑
植えてうれしい銀座の柳
江戸の名残りのうすみどり
吹けよ春風紅傘日傘
今日もくるくる人通り
広場には、かって汐留川に架かり地名の由来ともなった新橋の親柱も保存されています。
新橋親柱
新橋親柱は、かつて新橋と銀座の間を流れていた汐留川に架けられていた橋で、昭和三十八年(1963年)、川の埋め立て工事とともになくなりました。現存する新橋親柱は、大正十四年(1925年)に、長さ20m・幅27mの鉄筋コンクリートで作られた橋の一部です。地域名の由来を今に残す貴重な遺構です。
Minato City Cultural Asset Pillar of the Shinbashi Bridge
This cultural asset is a pillar of Shinbashi Bridge. This area is called Shimbashi, which is the origin of this bridge. With the urban development of the Tokyo-Olympics held in 1964, the river was buried and the bridge disappeared.
銀座八丁目の中央通りに面した敷地に、地上12階建ての耐火木造ビルが建設されています。完成は2021年秋の予定で、高さ約56m、延べ面積2451uの商業テナントビルになります。耐火木造で12階建ての商業施設は日本初とのことです。デザイン監修は高輪ゲ−トウエイ駅を手がけた隈研吾氏が担っています。銀座に木造の高層ビルとは素敵ですね。
というのは歩いていた時の状況で、この建物は既に10月15日に竣工しました。商業施設の名称は、「HULIC&New GINZA 8」だそうです。
銀座でビアホールといえば、銀座ライオンですね。ビールの本場ドイツ流のホールには格調高い雰囲気があります。お店の前にビアホールの歴史が解説してあります。
生ビールの殿堂としての風格
この建物は、昭和九年、当時の大日本麦酒株式会社の本社社屋として新築され1階でビヤホールを開店しました。建築設計者は、新橋演舞場などを設計した菅原栄蔵氏で、1階の内装は、直営ビヤホールということで特に力を入れて、独特の工夫をこらし、完成時には、建築の専門家を含めて多くの人々から絶大な称賛を受けました。壁面と柱に使用した2種類の色タイルは当時類例を見ないものであり、カウンター周りは、ドイツから輸入した大理石が使われています。正面と左右壁画には、初めて我が国でつくられたガラスモザイクの壁画を大小10面取り付けました。正面の大壁画は、タテ2.75m・ヨコ5.75m、約250色のガラスモザイクが使われています。ひとつひとつの小さなガラスモザイクの制作は、色調を整えるのに苦心をし、数百回の工程を経て約3年の日時を費やしたと言わ れています。この壁面に描かれているものは、ビール麦の収穫をする婦人たち、幸せの象徴であるアカンサスの花、そして遠くに見える煙突は当時の恵比寿ビール工場であると語られており、古代と現代を織り交ぜた、不思議かつ大変縁起の良い作品と言われています。戦後、約6年間米軍に接収され、米軍専用ビヤホールとして使用されましたが、昭和二十七年1月接収解除となり、再び庶民に愛されるビヤホールとして営業を再開しました。
This building was built in 1934. This beer hall was designed by Mr.Eizou Sugawara who was one of the best architects in Japan and it took three years to finish its construction. Colored tiles used for the walls and pillars were innovative in those days and marble imported from Germany was used for the counter. Ten wall paintings on both sides and the large painting in the front, for which glass mosaic tiles were used, were made after much trial and error. This beer hall, which has preserved the interior decoration of those days, has come to be loved as a symbol of "beer culture". This building was taken over by U.S. Army for 6 years and used as a designated beer hall for them until 1952. After the release, it restarted as a beer hall loved by all common people.
花の銀座四丁目交差点にやってきました。晴海通りを境に京橋寄りの北側一帯が「銀座四丁目」にあたり、交差点の名称はこれに由来しています。晴海通りの新橋寄りの南側一帯は「銀座五丁目」となり、旧町名は「尾張町」でした。銀座四丁目交差点は、江戸時代は「尾張町四ツ辻」、昭和初期までは「尾張町交差点」と呼ばれていました。交差点を取り囲むように三越・和光本館・三愛ビル・銀座プレイスが建っています。
銀座三越のライオン像もコロナ予防のために大きなマスクをしています。マスクに三越のロゴが入っているのはご愛嬌です。
銀座レンガ通りは、銀座一丁目から四丁目の間にある通りを指します。銅板で作られた標識や煉瓦を敷き詰めた街並みがトレードマークになっています。銀座レンガ通りには、明治初期に造られた「銀座煉瓦街」の名残りがあります。銀座煉瓦街は、明治五年(1872年)に起きた大火災「銀座大火」によって荒れ果てた銀座の街を復興・発展させるために造られた街です。当時は通りのすべての建物を煉瓦造りにするだけでなく、様式も「ジョージアン・スタイル」に統一しました。ジョージアン・スタイルとは、イギリスから取り入れた建築様式で、シンメトリーを基調とした優雅な外観が特徴です。その後、銀座は近代産業育成の影響もあって、さらに欧米化が進んでいきました。モダンな雰囲気や華やかさは、このような時代背景が大きく関連しています。
日本の道100選 銀座通
明治近代化のシンボル・銀座
中央区日本橋1丁目〜港区新橋1丁目
沿道の銀座商店街は明治初めの日本初のレンガ街を出発点として、西欧風の新しいタイプの繁華街として発展してきた。しゃれたデザインの街並みは、近代日本の象徴としてモダンなストリートライフを生み出してきた。
歩道の脇に銀座の地名の由来を記した石碑が建っています。「銀座」の地名は、江戸時代の「銀座役所」に由来します。慶長八年(1603年)に江戸幕府を開いた徳川家康は、駿府にあった銀貨鋳造所を現在の銀座二丁目に移しました。その場所の正式な町名は新両替町でしたが、通称として「銀座」と呼ばれるようになったのです。日比谷入江といわれるように、江戸時代以前の銀座周辺は海の中でしたが、銀座は江戸前島という東京湾に大きく突き出した半島の先端部の低湿地帯に位置していました。それらの低湿地帯と日比谷入江・築地一帯を埋め立てることから江戸の町造りは始まったのです。「銀座」という座組織は幕府のために銀貨をつくる組織で、銀の買い入れや管理・事務を取り扱う役所と、銀貨の鋳造を行う工場とがありました。ちなみに金を扱う金座は現在の日本銀行本店のところにありました。「銀座」は銀を特権的に扱うために相当な利益がありましたが、「銀座」役人が幾つもの不正事件をおこし、寛政十二年(1800年)に「銀座」は日本橋蠣殻町に移転させられてしまいます。しかし銀座という通称だけは残りました。その他にも、銀座には「朱座(朱を扱う)」、「大判座(幕府から特権を受けて贈答用の金貨を鋳造する)」、「分銅座(計量用の秤に用いる標準のおもりを制作・販売する)」などがありました。大正期にできた銀座通連合会のロゴマークには8つの分銅があしらわれています。銀座は主に職人たちの住む町でしたが、尾張町周辺はたいへんな賑わいをみせました。現在の銀座通りとみゆき通りの交差点には、恵比須屋・亀屋・布袋屋といった呉服店が軒を並べ、日本橋の三井越後屋に匹敵する商売繁盛ぶりだったといいます。また、銀座には観世・金春・金剛の能役者たちの拝領屋敷があり、周囲には関係者たちが居を構えました。金春流の師匠たちがのちに金春芸者となり、現在の新橋芸者たちのルーツとなりました。さらに木挽町地域には芝居小屋が建ち並んでいました。
銀座発祥の地
銀座役所跡
慶長十七年(紀元2272年、西暦1612年)、徳川幕府此の地に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置す。当時町名を新両替町と称せしも、通称を銀座町と呼称せられ、明治二年遂に銀座を町名とする事に公示さる。
銀座一丁目の外れ近くにきらびやかなビルが建っています。銀座・有楽町の商業施設の建設ブームの先駆けとなり、2014年10月30日にオープンした「KIRARITO GINZA(キラリトギンザ)」という名前の商業施設です。「ブリリアント ライフステージ」というキーワードを軸に、人生において「キラリと輝く瞬間」である結婚式の式場が入る商業施設として「銀座で最も幸せな場所」となる願いを込めて命名されました。銀座通りの建物では前例がない100平方メートルのオープンテラスを4階部分の通り沿いに設け、エリア最大の屋上ガーデンが設けられています。ダイヤモンドのブリリアンカットをモチーフに、光の反射で時間とともに表情を変えるファサード(建物の正面)とし、建物全体がキラキラと輝く演出が施されています。地下一階には、「俺のフレンチ」と「俺のイタリアン」のお店が向かい合っています。気分によってフレンチかイタリアンが選べていいですね。今日も入口前には大勢の人達(圧倒的にご婦人方が多いようですが)が列をなしています。ランチにはまだ早い時間だと思うのですが。
東京高速道路の高架手前に、大正時代に設置された京橋の親柱が保存されています。立派な外観ですね。親柱の横に「煉瓦銀座の碑」が置かれています。明治五年(1872年)の大火の後、街の不燃化が計画され、銀座煉瓦街が建設されました。以後この煉瓦街と街路樹の柳は銀座の名物となりました。煉瓦街も柳も街の発展とともに姿を消しましたが、その後煉瓦が発掘されたのを契機に昭和三十一年(1956年)、当時のままの「フランス積み」という方式で再現し、そこに煉瓦の碑が建てられました。碑のそばには明治七年(1874年)に設置されたガス燈の実物が復元されています。
煉瓦銀座の碑
明治五年二月二十六日(皇紀2532年、西暦1872年)
銀座は全焼し延焼築地方面に及び焼失戸数四千戸と称せらる。東京都府知事由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企画建策し、政府は国費を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築を完成す。煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店街形成の濫觴となりたり。
警察博物館前の広場に京橋のもうひとつの親柱が建っていて、その横に石碑が並んで置かれています。碑文には古めかしい説明文が書かれています。
京橋親柱の碑文
京橋は古来より其の名著える創架乃年ハ慶長年間なるが如し明暦以降数々架換へられ大正十一年末現橋に改築せらる此の橋柱は明治八年石造に架換へられたる時の擬寶珠欄干の親柱として橋名の書ハ明治の詩人佐々木支陰乃揮毫に係るものなり
左手に東京駅を望む八重洲通りと中央通りの交差点が、日本橋三丁目交差点です。ここはかって都電の「通り三丁目電停」があった場所です。先日歩いた王子駅前発着の都電19系統の終点(起点)にもなっていました。江戸の商業地のパイオニアとして、東海道に面した通一丁目〜四丁目が成立したのは、江戸開府から間もない慶長八年(1603年)のことでした。日本橋から続く街道沿いの細長い町域で、江戸から明治・大正・昭和への時代変遷の中、中央通りは絶えず首都東京を代表する目抜き通りとしての顔を持ちづづけました。「通り三丁目」の町名は、都電廃止後の昭和四十八年の住居表示で消滅しましたが、この交差点界隈だけは「通三丁目」の俗称が定着し、現在も八重洲通りには同名のバス停が立っています。
最近、東京駅周辺のどこから眺めても視界に入る建物が「東京ミッドタウン八重洲」です。六本木・日比谷に続く3番目の複合施設で、2018年12月に着工し、2022年8月末に竣工予定です。
日本橋・京橋地区では、あちこちで大規模な建て替え工事が進行中です。新装なったT&Dホールディングスが入居する東京日本橋タワー敷地の広場には、様々な紙製品を取り扱う「はいばら」も装い新たに斬新なデザインの建物に戻ってきました。建物は2016年度のグッドデザイン賞を受賞しています。「はいばら」は、文化三年(1806年)の創業以来、200年以上続く老舗で、和紙(白和紙・友禅・千代紙)、和小物・便箋・金封・のし袋などの商品を取り扱っています。初代須原屋佐助が江戸日本橋に小間紙屋を開業したのが始まりといわれています。また、「雁皮」を原料とする「雁皮紙」を江戸の庶民に最初に売り出したことで有名です。竹久夢二が欧州に旅立つ時に、四代目当主がこれを援助するなど、夢二と関わりがあり、夢二の作品を絵封筒や便箋、千代紙などで売り出し、現在でも、それら夢二の手がけた商品を販売している。夢二の他にも、柴田是眞・河鍋暁斎・川瀬巴水・川端玉章・伊東深水などの絵師とも交流が深く、彼らの残した下絵を多く所有し、一部はうちわ絵などとして復刻され、店頭に並んでいます。
コレド日本橋の裏手から日本橋川岸までの一帯では、現在大規模な再開発が進められています。ここには2026年3月竣工を目指して、ホテル・オフィス・商業施設・住宅・カンファレンス施設・ビジネス支援施設などで構成する地上51階・地下5階・高さ約284m・延べ面積約373,800uの超高層ビルが新設されることになっています。
解体・改修を含め、全体で27棟もの建物が再開発の対象になっています。野村證券本社やコレド日本橋も改修されるんですね。ちなみに、日本橋の老舗洋食店「たいめいけん」も昭和四十八年(1973年)に建てられた6階建てのレンガ柄の本店ビルの取り壊しに伴い、2020年10月に一時休業しました(現在は仮店舗で営業中で、2025年に新店舗で再開する予定だそうです)。
日本橋は東海道のみならず、中山道や日光街道など、江戸期に五街道と呼ばれた主要街道の起点とされましたが、現在もここには日本国道路元標が置かれ、都心から各方面に向かう国道の起点となっています。街道の起点ということは、同時に里程の起点でもあり、江戸時代に全国の街道筋に築かれた一里塚はこの日本橋を起点として距離が測られていました。 橋は慶長八年(1603年)の架橋といわれています。家康が江戸城東側にあたるこの付近一帯を埋め立て、町割を施した際に架橋されたのでしょう。名称の由来については諸説ありますが、諸国へ通じた起点という意味のようです。現在の橋は明治四十四年架橋の石造二連アーチ橋で、欄干の中央に麒麟、両端に獅子をあしらった青銅製の装飾がつき、平成十一年から国の重要文化財の指定も受けています。
その日本橋の袂に人魚の銅像が鎮座し、横に案内板が立っています。
日本橋魚河岸跡
日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩千魚を荷場げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。この魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心とLて、本船町・小田原町・安針町(現在の室町一丁目・本町一丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変なにぎわいをみせていました。なかでも、日本橋沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した舟が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用Lて運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売場を開いて売買を行ってきました。この魚河岸は、大正十二年(1923年)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。現在、魚河岸のあったこの場所には、昭和二十九年(1954年)に日本橋魚市場関係者が建立した記念碑があり、碑文には、右に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぷりをうかがうことができます。
Remains of the Nihonbashi Riverside Fish Market
Fresh fish and other seafood for consumption in the capital were unloaded for three centuries at the market that operated along the bank of the Nihonbashi River between the Nihonbashi and Edobashi bridges. The Nihonbashi Riverside Fish Market originated in the early Edo period as a sales point for fish left over from the supplies sent to the shogun and daimyos lived in Edo castle town by the fishers of Tsukudajima. The riverbank later became the core of a very busy fish trading district sprawling across the Honfuna-cho, Odawaracho and Anjincho neighborhoods (the present Muromachi 1-chome and Honmachi 1-chome area). The center of activity was the market area along the Nihonbashi River where numerous boats docked, fully laden with fish from nearby coastal waters. Lined with fish shops that throbbed with negotiations in the high-spirited style characteristic of Edoites, with daily transactions totaling as much as a 1000 ryo (equivalent to about 16 kilograms of silver), it was one of the liveliest spots in the city of Edo. During Edo period, the seafood brought in along the Nihonbashi River was sold to dealers aboard the hiratabune (flatboats) pulled up to the wharf along the riverbank, then displayed on stands at shops on the street side of the riverbank warehouse buildings for sale to the food trade. When Tokyo was rebuilt after the Great Kanto Earthquake of 1923, the market was relocated to Tsukiji on the Sumida River, and the Tsukiji Fish Market of Tokyo Metropolitan Central Wholesale Market continues to flourish as the city's seafood wholesaling center. As a reminder of the prosperous trading era of this site, a historical monument was erected in 1954 by people who had been affiliated with the old market, with a summary of the more than 300 years of history from the founding to the relocation of the Nihonbashi Riverside Fish Market.
日本橋には多くの自治体がアンテナショップを開いています。多くは県が主体となっていますが、中には市が単独で出店しているところもあります。
日本橋三越の向かいの路地に「伊勢定本店」の看板が掛かっています。如何にも日本橋の食の老舗といった感じです。伊勢定は「江戸前の蒲焼」に拘り、裂きたて・蒸したて・焼きたてを信条としています。材料の鰻は天然より旨い養殖うなぎを目指し、餌から管理した純国産のうなぎのみを使用しています。お米はうなぎの旨味に負けない長野県産のコシヒカリを使用しており、ふっくらとした生粋の江戸前蒲焼を堪能できます。
室町三丁目交差点を右折して中央通りから離れ、江戸通りに入ります。
現在は上空に首都高速の高架が通る昭和通りを横断します。
小伝馬町交差点近くに付近の名所・旧跡と旧町名を記した案内板が立っています。十思公園には別の機会に訪れることになります。
日本橋小伝馬町 Nihonbashi-kodemmacho
名所・旧跡案内 Scenic Spots and Places of Historical Interest Information
旧石町時の鐘 Kokucho Time Bell
明治維新まで江戸の人々に時を報せていた時の鐘。もとは石町(日本橋室町)にあり、近くに長崎屋があったことから、「石町の鐘はオランダまで聞こえ」の川柳があります。
伝馬町牢屋敷跡 The Remains of Demmacho Prizon
江戸時代最大の牢屋で、敷地は2,618坪(8637.4u)あり、明治八年(1875年)市ヶ谷囚獄ができるまで270年間存続。大安楽寺境内の刑場跡には地蔵尊があり山岡鉄舟筆による陽鋳銘がある。
吉田松陰終焉の地 The Place of Shoin-Yoshida's Death
幕末の長州藩士で兵学・洋学に通じ、萩に松下村塾を開いた松陰は、安政の大獄に連座し伝馬町獄に入牢となり、安政六年(1859年)この地で処刑されました。
以上、全て日本橋小伝馬町5−2十思公園内にあります。
町名案内 Origin of Town Name
日本橋本町 Nihonbashi-honcho
江戸時代初期、徳川家康が最初に地割を行った地で、江戸又は日本橋の中心的地域であることから生まれた町名です。
日本橋小伝馬町 Nihonbashi-kodemmacho
名主宮辺又四郎が伝馬役をつかさどったことに由来します。
日本橋大伝馬町 Nihonbashi-odemmacho
馬込勘解由が、家康に道中伝馬役を命ぜられて、ここに屋敷が置かれたことに由来します。
日本橋馬喰町 Nihonbashi-bakurocho
天正年間(1573年〜1591年)博労頭高木源兵衛・富田半七らが住んでいたという記事がありますが、それが町名の由来であるか明らかではありません。
JR総武快速線の馬喰町駅と都営浅草線の東日本橋駅の間を通る新道通り沿いは、都内のみならず日本国内でも最大の現金問屋街といわれる「横山町・馬喰町問屋街」です。江戸時代に馬喰町の公事宿に泊まる旅人のために小間物問屋などが集まって店を開いたのが始まりといわれています。現在の加盟店舗は繊維・衣料・生活用品の大小商社合わせて約300社あり、平日は仕入れにきた小売業者が大勢訪れます。「衣料品関連でないものはない」と言わしめる街です。問屋街なので基本的には業者のみの販売になりますが、個人で買える店もあります。江戸通りの脇に石碑が建っています。
手づくり郷土賞
いきいきとした楽しい街並み三十選
日本橋馬喰町二丁目は靖国通り(浅草橋交差点から東は京葉道路)と神田川に挟まれた狭い地域です。狭い割には名所・旧跡が多いですね。
日本橋馬喰町二丁目 Nihonbashi-bakurocho 2-chome
名所・旧跡案内 Scenic Spots and Places of Historical Interest Information
郡代屋數跡 The Remains of Gundai Residence
関東各地の幕府直轄地を支配した関東郡代の執務所兼住宅跡。幕府開設以来、代々伊奈氏が世襲し、徴税・勧農・訴訟の裁断・教育などを管理しました。
日本橋馬喰町2丁目付近
両国広小路記念碑 A Monument of Ryogoku-Hirokoji
明暦の大火(1657年)の教訓から避難路としで両国橋が架けられ、橋一帯が「火除け地」に指定されました。この火除け地が両国広小路となり、江戸を代表する盛り場として発展しました。
東日本橋2−26
順天堂発祥の地 The Birthplace of Juntendo Univ.
順天堂の創始者佐藤泰然(1804年〜1872年)は、長崎遊学でオランダ語と西洋医術を学び、天保九年(1838年)江戸に帰り薬研堀に居をかまえ、蘭方塾を開設しました。
東日本橋2−6−8
講談発祥の地 The Cradle of Storytelling
元禄(1688年〜1704年)の頃、講談の先祖・赤松清左衛門は浅草見附(浅草橋橋詰)の町辻で太平記を講じ、江戸講釈の発祥となりました。
東日本橋2−6−8
賀茂真淵県居の跡 The Remains of Mabuchi-Kamono's House
国学者で歌人。日本橋の浜町に住んだ。遠江(静岡)の神職の出で、京に出て荷田春満の門に入り、元文三年(1738年)江戸に下った。古典を通して古代精神を追究し、国学の基礎を築いた。
日本橋久松町9先
富塚碑 A Monument of Tomizuka
大正八年(1919年)椙森神社境内に富くじ興業を記念して建立された。現在の碑は、昭和二十九年の再建。富くじはェ永年間(1624年〜1644年)に神社仏閣の普請修理費捻出のために始まったもの。
日本橋堀留町1−10−2
神田川に架かる浅草橋を渡ります。橋の上流・下流には多くの屋形船が係留されていますが、宴会のお客さんは戻ってきたのでしょうか?浅草橋はかなりの年期が入っていて、親柱も朽ちそうになっています。現在の浅草橋は昭和五年1月に竣工しました。ちなみに、浅草橋親柱の橋名板は関東大震災の復興当時からのものです。東京大空襲の戦禍にも耐え、架設以来90年以上も実用に供されているとは驚きです。そろそろ架け替え時では?
<<写真多数のため、都電22系統跡コース(2)に続きます。>>
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