都電23系統跡コース(1)  

コース 踏破記  

今日は都電23系統跡を歩きます。都電23系統は、江東区の福神橋交差点から中央区の勝どき駅前交差点までを結び、その路線は主に浅草通り・清澄通りを通っていました。都心を東西に斜断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。  

都電23系統

都電23系統の全長は8.7kmで、昭和47年11月12日に廃止となりました。

都電23系統の電停(路上の駅)は、福神橋・柳島・十間橋・押上駅・業平橋・吾妻橋二丁目・吾妻橋一丁目・駒形橋・厩橋一丁目・石原町一丁目・墨田区役所・東両国緑町・千歳町・森下町・高橋・清澄町・江東区役所・平野町・深川二丁目・深川一丁目・門前仲町・越中島・新佃島・月島通三丁目・月島通八丁目でした。


都電23系統の起点となる福神橋電停は何処にあったのでしょうか?福神橋は北十間川に架かる明治通りの橋です。橋の南詰は浅草通りの起点となる福神橋交差点になっています。都電24系統と共用していた福神橋電停は名前からして、この交差点付近にあった筈です。



ネットで見つけた当時の福神橋電停の写真では、電停の川向かいに花王の建物が写っています。現在の福神橋バス停から眺めた構図と一致していますので、福神橋バス停の前の浅草通り上に福神橋電停があったと結論付けます。



ということで、都電23系統跡の歩きを始めます。正面には東京スカイツリーが見えますね。左手には香取神社の旗がはためいています。折角ですので、立寄ってみることにします。



香取神社はスポーツ振興の神として崇められています。天慶の昔、平将門が乱を起こした際に追討使となった俵藤太秀郷は、この香取神社に参拝し戦勝を祈願しました。乱はめでたく平定することができ、神恩感謝の奉賓として弓矢を奉納し、「勝矢」と命名されました。この古事により、1000年の時を経た今も「勝矢祭」が守り伝えられています。歴代の天皇を始め、源頼朝や徳川家康などの武将達、また剣豪の誉れ高い塚原卜伝や千葉周作をはじめとする多くの武道家達の篤い崇敬を受け、武道修行の人々は香取大神を祖神と崇めていました。このような由来から、香取神社はスポーツ大会や試合の勝利を願う多くの参拝者が訪れ、祈りを奉げています。



大きな神社には、境内の敷地の中に中心となる御社殿とは別に幾つかの小ぶりなお社を祀っていることがあります。このような神社は、「摂社」または「末社」と呼ばれるもので、総称して「境内社」といいます。摂社はその神社のご祭神とゆかりのある神様、末社はご祭神より古くからその地でまつられていた神様のお社である場合が多いようです。香取神社にはそういった境内社が多く祀られています。

水神社
御由緒
天明六年(1787年)、香取神社十三代神職香取正武がその年の洪水を記念し災害防止氏子住民の安体を祈願し石祠をもって建設した。江戸名所絵図にもみえる。
三峯神社
御由緒
享保年間(1716年〜1735年)の創立。有名な亀戸梅屋敷園主・安藤喜右エ門が園内にお祀りしていたのを、明治の末当・香取神社に移した。火防・盗難除の御利益あらたかで梅屋敷講を受継いだ亀戸三峯講の多くの崇敬者もふえ、近年本社参詣も盛んである。
熊野神社
御由緒
熊野の神の総本社で曾ては「蟻の熊野詣で」の諺通り、貴賤老若男女をとわず全国から参詣者があつまり、信仰絶大にして盛況を極めた。当社は元梅屋敷隣りの北の方に位し、熊野入りと称して亀戸村の水利を司どっていた。大正十三年北十間川通りが拡張されるに伴い、香取神社の境内に移転鎮祭した。




さらに。

福神社
御由緒
元々御本社の相殿に奉齋されていた大國主神と併せて明治年間に至り七福神の内の恵比須大国神として境内に鎮祭した。事代主神は大國主神の御子神である。正月ともなると亀戸七福神の内恵比須大国様として多くの参詣を得ている。
御神徳
富コ円満・商亮繁昌の守護神として御神コあらたかである。




さらにさらに。。

稲足神社
御由緒
寛文九年(1670年)創立。明治以前は普門院の主管であったが、明治元年香取神社神職の奉仕となる。明治三十五年、香取神社隣接地に所在していたが境内に移転。琴平神社は宝暦年間香取十二代神職香取政幸の鎮祭する処で、稲荷神社は元渡辺稲荷神社と稱え、明治十二年当社に合祀。
御神徳
供に産業発展・家運隆昌の御神コあらたかである。




さらにさらにさらに。。。

天祖神社(入神明宮)
御由緒
昭和六十三年の香取神社改築に伴い、移転され境内神社として祀られるようになった。当神社の創立は江東区内では最も古く口伝によると、この地が四辺海に囲まれていた頃漁船がしぱしば風浪の危難に会う毎に伊勢の大神を折念すると災害を免かれたという事で太平榎塚に小祠を営み、鎮祭されたという。江戸名所図絵に書かれている神明宮は当社である。尚、境内から多量の(石に垂:いわ)が出上(明治四十年)し、考古学的にも有益な資料とみることができる。現在香取神社にて保管。




らっきょの形をした黒御影石に碑文が書かれています。読みづらいですね。

亀が井の由来

亀戸を代表する香取神社は、壱千参百有余年の歴史を誇り、古くは藤原鎌足公を初め、多くの武将や土着の人々の篤い崇敬を受け、郷土の守護神として今日に至っております。この度、亀戸の地名の起りとされている亀が井戸を再興し、併せて恵比寿様・大国様の石像を祀り、この井戸の聖水を掛けながら参詣する人々が御神徳を戴き、明るく健康で楽しい生活が出来ますようにと願い、氏子・崇敬者を初め、多くの皆様方のご協賛により建立いたしました。




もうひとつのらっきょの形をした黒御影石があります。

勝石の由来

亀戸香取神社は天智天皇四年(665年)、藤原鎌足公が東国下向の際、亀の島に船を寄せられ、香取大神を勧請し太刀一振を納めて旅の安泰と御神徳を仰ぎ奉りましたのが起こりであります。鎮座1350年記念事業の一環として、この故事に基づいて太刀一振を冠した「勝石」を建立いたしました。ご参拝の皆様に香取大神の御神徳が授かりますよう氏子並びに崇敬者が心をこめての寄進によるものです。四年に一度の神幸大祭に際し平成二十八年七月二十四日、関係者相寄り盛大に除幕式が挙行されました。勝石に触れ、願いを掛けることによって勝運と幸運を授かるお力と心(パワースポット)として末永く崇敬を集められますことを祈念申し上げております。




東京では練馬大根が有名ですが、亀戸大根もよく知られています。

江戸・東京の農業 亀戸大根

このあたりで大根づくりが始まったのは、記録によると文久年間(1861年〜1864年)の頃とされ、当香取神社周辺が栽培の中心地で、以来、明治時代にかけて盛んに栽培されてきました。当地は荒川水系によってできた肥沃な粘土質土壌であったため、肉質が緻密で白く冴えた肌の大根づくりに大変適していました。亀戸大根は、根が30cm程度の短い大根で、先がクサビ状にとがっているのが特長。明治の頃は「おかめ大根」とか「お多福大根」といわれましたが、大正初期になって産地の名をつけて「亀戸大根」と呼ばれるようになりました。しかし、宅地化が進んだ大正時代の終り頃から産地は江戸川区小岩や葛飾区高砂などに移っていきました。秋から冬にかけてタネをまいて早春に収穫となる亀戸大根は、当時は他に大根などの全くない時期で、新鮮な野菜の出始めの頃なので根も葉も共に浅漬けにして美味しいことから、江戸っ子から大いに重宝がられました。

THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Kameido Daikon

Cultivation of Daikon (Japanese radish) in this district dates back to the years 1861-1864. With its center around the area of this shrine, it had been abundantly grown toward 1900s. The fertile clay soil formed by the Arakawa River was just fit for its production. Sown in fall to winter, the Kameido Daikon was harvested and shipped in early spring when the supply of fresh vegetables became scarce. Root and leaves were all eaten as fresh tasty pickles and relished by all the Edoites.




境内に、歌川広重の挿絵が入った案内板が立っています。子供達の仮装が面白いですね。道祖神は塞(さえ)の神とも言われ、幸いの神・歳の神などと記されることもあります。「さえ」とは「さえぎる」の意味で、本来は悪霊や疫病など邪悪なものが集落に入り込んでこないように、辻村境や峠などに祀ってきたのが始まりです。これに猿田彦神話や道の神思想などが結びついていきました。

紙本淡彩道祖神祭図 歌川広重筆 一幅

道祖神祭図は、本紙を掛け軸に表装したものです。本紙は縦33.6cm、横40.6cm。表装は縦158.0cm、47.0cmです。香取神社の道祖神祭は、毎年正月十四日、氏子の子供たちが宝船をかつぎ、亀戸から両国の辺りまで練り歩いたもので、享保のころから始まり、明治初期まで続きました。その光景は「江戸名所図会」の挿し絵に載せられ、「東都歳事記」にも記載されています。本図は人物や宝船を墨で描き、朱・青で淡彩を施しています。作者は浮世絵師・歌川広重(1797年〜1858年)で、嘉永五年(1852年)以降、広重の円熟期に描かれた作品とみられます。本図は、江戸時代の香取神社の古い行事の様子をよく伝え、作者が著名な広重であること、また戦災を免れて区内に伝えられたことなどから、貴重な作品といえます。




都電23系統跡の歩きを再開します。ホームセンターと巨大スーパーが合体したオリンピックのお店の入口近くの境橋脇に小さな祠が建っています。かなり年季が入っていますね。

六字名号供養塔 伝祐天書
祐天堂由来

昭和四十一年に設けられた当時の説明板等に拠りますと、その由来は、元禄年間に祐天上人が千葉方面に往来の途中、この付近の川の中や川岸に多くの水死者のあるのを見て、非常に心を痛め、その霊を懇に回向されました。その際に、これらの仏に戒名を与え祐天上人、自らが筆を取って石にその戒名を記された供養塔をここに残されました。後年、この供養塔を奉った祠が、この祐天堂であります。それ以来、この付近では水死者もなく、またこの付近の子供たちが水辺で遊んでいても溺れたためしが無かったと言い伝えられ、この付近に住む人々によって、水難除・安産・子供の守護の祠として崇め奉られ今日に至ります。(近年では、この祠に、交通安全祈願をなさる方も多いと聞きます。)また、毎年七月二十四日を由縁の日と定め、祐天上人の遺徳を仰ぎ、精霊の供養を営む日と定められてまいりました。




祠の横に古めかしい道標が立っています。「木下川」といいますと、水が流れる川を思い浮かべますが、どうも川の名前ではなく、遙か昔には実際に流れていたかもしれませんが、単に地名に「川」という字が付いているだけのようです。読み方も「きのしたがわ」ではなく、「きねがわ」と読むみたいです。荒川に架かる「木根川橋」も、「木下川」からきたのかもしれません。

木下川やくしみち道標

高さ71センチのこの道標は、ここ境橋から、木下川薬師堂(葛飾区東四ッ木一丁目)へ至る木下川薬師道(現在の仲居掘通り)を示すものです。

刻銘は、正面に  木下川
         やくしみち
    右側面に、本石町
         賽暦十一年辛巳孟春
    左側面に、あつまもり

あつまもりとは、吾妻権現社のことで境橋を渡った右手北十間川沿いにありました。本石町は日本橋の町名で、この道標の建てられた賽暦十一年(1761年)頃には、きっと江戸町人の参詣が盛んだったことがうかがえます。




かって、横十間川に架かる柳島橋の手前に都電柳島車庫がありました。当時の写真を見ますと、かなり大きな規模だったようです。今では車庫の痕跡はどこにも残っていませんが、浅草通りと北十間川を跨いでいる水色の歩道橋の南側にあったとのことです。都電廃止後は小学校になり、現在は老人ホームが建っています。柳島の地名の由来ですが、昔、この地に柳の木が多かったことによるといわれています。江戸時代には、広くは両国橋の辺りにまで柳島の呼称が及んでいた事もありましたが、明治時代になってからは概ね大横川より東の現在の蔵前橋通りの天神橋周辺の地域を指すようになりました。都電が走っていた頃、この辺りの浅草通り沿いには柳並木が続いていて、風に揺れる柳の葉はなかなかに風情があったそうです。



柳島橋の高欄には、歌川広重の浮世絵のレリーフが取り付けられています。名所江戸百景「柳しま」のレリーフだそうです。よく判別できませんが、右上の文字は「柳しま 妙見社」でしょうか?池波正太郎原作の鬼平犯科帳の「唖の十蔵」の一節には、長谷川平蔵の命により小野十蔵率いる捕り手が盗賊の小川や梅吉らを捕らえようとした場所が天神川に架かる柳島橋と書かれています。当時、西詰には妙見堂、東詰には堀左京亮の下屋敷がありました。捕手から逃れた小川や梅吉は東詰にあった堀左京亮の下屋敷の塀を乗り越えて逃走しました。

二人は天神川にかかる柳島橋へかかる。このとき、茶店を出た十蔵たち四名がするすると二人へ追いつき、「小川や梅吉!!」叫びざま、十蔵が編笠をはねつけ、「神妙にしろ!!」「あっ・・・・・」若い男がたまぎるような声を発し、梅吉と共に橋を駈けわたろうするとき、対岸から同心一名、捕手三名が十手をふりかざし、猛然と肉薄して来た。「畜生め!!」梅吉がそれまでの温厚な願望をかなぐり捨て、野猿のように歯をむき出し、「粂、逃げろ!!」と、わめいた。・・・



柳島橋を渡った先に法性寺というお寺があり、入口の横に年代物の石碑が建っています。お寺と関係があるのか、なんで石碑を建てなければならなかったのか、よく分かりませんねぇ。尚、柳島橋の高欄に取り付けられていた歌川広重の浮世絵のレリーフに記されていた「妙見社」とは、この法性寺のことのようです。

昔ばなし柳塚

この石碑は落語界の一派、柳派の記念碑と考えられています。剥落が激しいため建立年代や人名などが読み取りにくい部分が多いですが、社長・頭取・監査・会計等の役職名が記されています。江戸時代、睦会と称して運営されていた落語は、明治十七年(1884年)三遊派、柳派に分裂して覇を競うようになりました。同二十二年(1889年)には三遊派の記念碑「三遊塚」が区内の木母寺に建立されています。やがて大正六年(1917年)になって、寄席が会社組織となり、三百人余りの芸人が月給制度の下に統一されたため、派閥は解消されましたが、統一に反対する百五十人もの芸人が睦会を結成して対峙しました。




押上駅前交差点にやって来ました。今でこそ東京スカイツリーが交差点の先に聳えていますが、当時は下町でよく見かける普通の交差点だったんでしょうね。



交差点の先に春慶寺というお寺があります。山門も境内もなく、都心のビルの中にお寺が入居しているようです。墓地はどこにあるのでしょうか?普賢堂と書かれた菩薩様ご安置の参拝所のガラス戸の前に、座布団にお座りになられた象の置物があります。「見返りの白象さま」だそうです。見返りの意味はよく分かりませんが、この白象は菩薩様をお乗せする役目を果たしているとのこと。

見返りの白象さま縁起

お釈迦さまゆかりの地インドでは、象は仏菩薩の御使いとされ、大地をしっかり踏みしめて歩く態度が「実践力」を象徴するものと尊ばれてきました。仏法御守護の普賢菩薩様は、六本の牙をもった白象にお乗りです。六本の牙は六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)つまり人間の身心を、白い色は清浄をあらわしています。普賢様は精進努力する者を励まし、懺悔反省する者に活路を示し、よき方向に導く開運の菩薩様です。推古天皇の御世に百済より渡来し、当山に鎮座まします普賢様がお乗りの聖象は「見返りの白象さま」としてその意をよく表しています。白象さまの頭に載く小判は努力した者が得られる天財(菩薩の恵)、鈴は天啓(菩薩の声)であります。皆様、白象さまと共に善き日々をお過ごしください。




春慶寺は、池波正太郎の時代小説である鬼平犯科帳にも登場するようです。「五鉄」とは、堅川に架かる二ツ目橋の北側にあった軍鶏なべ屋のことで、鬼平とその配下の密偵たちは五鉄に集まり、軍鶏なべをつついていました。日本橋人形町で1760年から続く老舗鶏料理店「玉ひで」がモデルとされています。何故、左馬之助が盗人の次郎吉をもてなすのかといいますと、次のような伏線がありました。尚、おまさは女密偵で、少女の頃に若き日の長谷川平蔵にひそかに思いを寄せ、のちに平蔵の密偵となった人物です。

平蔵の剣友・岸井左馬之助の元に或る日一人の男が現れた。宗円と名乗る老僧から短刀を預かったという。事情を尋ねると、旅の道すがら息も絶え絶えの宗円と遭遇し、死に際の頼みとこれを託されたのだという。「そうか宗円坊はそれほどまでに俺のことを・・・」。もとより直情の男である左馬之助は、旧知の友の死を看取り供養までした上に形見を届けてくれたことに感激し、心からのもてなしを申し出るのであった。この旅の男、実は明神の次郎吉という盗人であったが、次郎吉もまた左馬之助のひたむきな真心に胸を打たれていた。五鉄で酒を酌み交す二人。「もしやあの男は・・・」。密偵・おまさは次郎吉の顔を覚えていた。平蔵の命を受け探るうち、櫛山の武兵衛一味による押込みの企てが明らかになる。

鬼平情景 春慶寺

元和元年(1615年)、真如院日理上人によって浅草森田町に創建され、寛文七年(1667年)に本所押上村に移転してきました。江戸時代から押上の普賢様と親しまれ、多くの参拝客で賑わっています。鬼平犯科帳では平蔵の剣友・岸井左馬之助の寄宿先として多くの作品に登場します。なかでも「明神の次郎吉」は、春慶寺が主な舞台になっていて、寺域や押上周辺の当時の様子が描かれています。左馬之助が盗人の次郎吉を荷車に乗せ、蛍が飛んでいる横川沿いの道を五鉄に向かい、もてなす下りは実に微笑ましい情景です。その左馬之助を何度も演じた俳優・江守徹の揮毫による石碑が平成十五年に建てられています(左側の写真左下隅の石柱)。




おしなりくんは、東京スカイツリーができた時に地元の商店街が生み出したマスコットキャラクター(いわゆるユルキャラ)です。当初はスカイツリーの周辺を闊歩していましたが、最近ではあまり見かけません。おしなりくんの家もシャッターが下ろされていますね。お昼寝中でしょうか?



押上は今でこそ下町の人口密集地ですが、江戸時代には大名の下屋敷はあったものの、江戸市中でも寂しい場所だったようです。「みりん堂」というお煎餅屋さんの脇に案内板が立っています。

鬼平情景 西尾隠岐守屋敷

遠江国横須賀藩三万五千石で、城中で将軍に諸事を取り次ぎ、礼式を管理した奏者番の職にあった西尾隠岐守の抱屋敷です。敷地はおよそ一万三千坪あり、津軽家上屋敷がおよそ八千坪といいますから、その1.6倍はあったことになります。当時、周辺は押上村・小梅村と称され、長閑な田園地帯が広がり、その中に寺社仏閣が点在していました。内河川が発達していたことから四季折々の変化を舟で楽しむ江戸市民の人気の行楽先でした。しかし、夜ともなると、明かりもめったに見えない実に寂しい土地となり、大名の下屋敷は博奕場に変わり、盗賊の盗人宿も加わって、脛に疵を持つ者が身を隠す恰好の場所になります。鬼平犯科帳では、賭場や盗人宿への経路としてたびたび登場します。




「みりん堂」ではいろんなお煎餅を販売しています。鬼平のお煎餅もレア商品ですが、このお店でしか買えないのが「おしなり焼」です。おしなりくん人気にあやかったのでしょうけど、今も売れていますかね。ちなみに、みりん堂という店名は、醤油だれに味醂を隠し味にしたことに由来しているそうです。



業平橋はかって大横川に架かっていた橋です。大横川は上流区間が埋め立てられ、現在は親水公園になっています。業平橋という名前は、諸説ありますが、在原業平が亡くなった場所に建てられた業平塚に由来するといわれています(業平塚は全国各地にあり、在原業平の没地ということではないようです)。在原業平は、平城天皇の孫にあたる貴族であり、また平安時代初期から前期にかけての歌人でもあり、「古今和歌集」の30首を始め、勅撰和歌集に87首が入集している、六歌仙・三十六歌仙の一人です。恋多き美男子だったようで、男女の恋愛を中心に描かれた全百二十五段からなる「伊勢物語」は古くから在原業平の物語であるとみなされています。在原業平は、当時湿地帯が広がる辺境だったこの地に左遷されました。そして、はるばる隅田川の畔までやってきた時に鳥の名に託して都の恋人を偲んで詠んだ歌が隅田川に架かる言問橋の名前の由来になったといわれています。伊勢物語の中の「東下り」には次の一節があります。

なほ行き行きて、武蔵の国と下総の国との中に、いと大きなる川あり。それをすみだ川といふ。その川のほとりに群れゐて、「思ひやれば、限りなく遠くも来にけるかな。」とわび合へるに、渡し守、「はや舟に乗れ。日も暮れぬ。」と言ふに、乗りて渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さる折しも、白き鳥の嘴(はし)と脚と赤き、鴫(しぎ)の大きさなる、水の上に遊びつつ魚(いを)を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡し守に問ひければ、「これなむ都鳥」と言ふを聞きて、

  名にし負はばいざこと問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと

  訳:(都という言葉を)名にもっているのならば(都のことをよく知っているだろうから)、
    さあ、尋ねよう、都鳥よ、私が恋しく思う人は(都で)無事でいるかどうかと。

と詠めりければ、舟こぞりて泣きにけり。




歩道の脇に墨田区の名所を記した観光案内(Points of Interest)板が立っています。

隅田公園

隅田川をはさんで、墨田区と台東区にまたがる臨水公園。墨田区側は旧水戸藩屋敷の日本庭園を含む都内有数の桜の名所として知られる。園内には、「牛嶋神社」「常夜灯」「墨堤植桜之碑」「藤田東湖の詩碑(正気之歌)」等がある。

Sumida Park

This park lies in both Sumida and Taito. The Sumida side contains a Japanese garden, once part of the feudal residence of the powerful Mitoclan, that is renown for its cherry blossoms. Within the park are Ushijima shrine, stone lantern, and two memorial stele. One is dedicated to the planting of cherry trees, and another is a poem (Shoki-no-uta) by Fujita Tohko.

勝海舟銅像

墨田区役所の脇に、右手を突き出した海舟の像があります。この海舟は、新しい日本を思い描き、アメリカを目指そうとする姿を捉えたものです。また、区役所1階アトリウムには、「勝海舟コーナー」があります。

Statue of Kaishu Katsu

Next to the Sumida Ward Office is a statue of Kaishu Katsu with his right arm extended. The pose depicts Kaishu envisioning a new Japan as he prepares to depart for the United States. There is also a Kaishu Katsu exhibit in the building's first-floor atrium.

大横川親水公園

大横川を整備した総延長1,800mの親水公園です。錦糸町と押上、業平を結び、橋などを境としてエリアごとに人工のせせらぎや釣堀、広場など特徴ある施設が設けられています。

Oyokogawa-shinsui Park

Oyokogawa-shinsui Park is a water park with the well-maintained Oyokogawa River of a total length of 1,800 meters. The park connects Kinshicho, Oshiage, and Narihira. Within each area divided by a bridge or other borders, you will find unique facilities such as an artificial brook, a fishing hole, and an open space.

小さな博物館・すみだ工房ショップ

小さな博物館では、墨田区を象徴する産業と文化に関する職人技や珍しいコレクションを展示しています。工房ショップは、工房と店舗が一体化し、「ものづくり」の現場公開と販売を行う新しいスタイルのショップです。

Sumida Small Museums/Sumida Manufacturing Shops

The Sumida Small Museums exhibit the special artisan skills and rare collections that relate to Sumida's symbolic industries and culture. The Sumida Manufacturing Shops are new-style shops that combine a manufacturer within a shop, opening their monozukuri (literally means "manufacturing things") spot to the visitors while selling their products.

牛嶋神社

本所牛嶋の総鎮守社。境内には「なで牛」があり、心身快癒の祈願物として信仰されています。また、5年に1度の大祭では、鳳輦(ほうれん:牛車)を中心とする古式豊かな行列が、氏子五十町安泰祈願巡行を行います。

Ushijima-jinja Shrine

The precincts of Ushijima-jinja Shrine, the head Ushijima-jinja shrine, include a statue known as Nadeushi, or the "Touching Cow", which visitors touch while praying for physical and emotional healing. Once every five years, a procession incorporating a number of ancient rites centering on an elaborate ox-drawn cart winds its way through the surrounding area to pray for the peace and safety of its residents.

如意輪寺

嘉祥二年(849年)、慈覚大師円仁の創建とされ、境内に水戸家の家臣雪斎の書による聖徳太子の石額があります。

Nyoirinji Temple

It is said that this temple was founded by Jikaku-Daishi Emnin in 849. There is a stoneframed "Shotoku-Taishi" calligraphy by Sessai, a vassal of Mito TOKUGAWA family in the precincts of the temple.

福厳寺

延徳三年(1491年)の創建。三大将軍家光が寄進したという朱塗りの門により「赤門寺」と呼ばれています。赤穂浪士討ち入りを手助けした、大石三平の墓があります。

Fukugonji Temple

It was founded in 1491. It is called "Akamon-Dera" (Red Gate Temple) due to the vermillion-lacquered gate donated by the 3rd Shogun, lemitsu. You can find the grave of OISHI Sampei who helped the attack on KIRA's mansion by the 47 ronin from Ako, in the precincts of the temple.




石原一丁目交差点で蔵前橋通りと交差した先に横網町公園があります。横網町公園は、昭和五年(1930年)9月1日、関東大震災のメモリアルパークとして造られ、公園内の東京都復興記念館は、昭和六年(1931年)8月18日に開館しました。横網町公園は、東京市が陸軍被服廠の敷地跡を買い受けて大正十二年(1923年)に造営整備に着手した、正にそのときに関東大震災が発生しました。東京市の遭難死者は58,000人に上り、東京市は犠牲者の霊を追悼るために被服廠跡に震災記念堂を建設しました。また、災害に対する不断の準備とその予防知識を普及するため、附属施設として東京都復興記念館を建設しました。



北斎通りは、以前は「南割下水通り」と呼ばれていました。その名前の由来は、江戸時代に通りの中央に掘割が設けられていたからと言われています。日本を代表する画家である葛飾北斎がこの地で生まれたこともあって、現在は「北斎通り」の名前が付いています。余談ですが、この地がかって下総国葛飾であったことから、「葛飾」の画家名を名乗ったそうです。引っ越し魔ともいわれ、90歳で没するまでに90回以上も転居したそうです。



東京都江戸東京博物館は両国の国技館の隣に位置し、江戸・東京の歴史・文化に関わる資料を収集・保存・展示し、「江戸と東京の歴史や文化を伝える博物館」として平成五年(1993年)3月28日に開館しました。建物は地上7階・地下1階の鉄骨造構造で、地上部分の高さは約62mあり、明暦三年(1657年)の「明暦の大火」で焼け落ちた江戸城天守閣とほぼ同じだそうです。隣接する国技館との調和を考え、高床式のユニークな構造の建物になっています。



両国のちゃんこ鍋「割烹吉葉」の店名は、第43代横綱だった吉葉山に由来します。相撲部屋から割烹へ土俵ごと生まれ変わった総檜造りの建屋の中では、力士たちが稽古を重ねた本物の土俵を囲むようにして食事ができるようになっています。食事中に始まる相撲甚句や津軽三味線などの土俵での生ライブも人気です。



両国の馬車通りは、かっての旧千葉街道の道筋に当たり、明治十八年(1885年)に菊川に馬車会社ができてこの道を走って営業をしたのがその名前の由来になっています。ちなみに、横浜の関内駅にほど近い吉田橋から東京藝術大学馬車道校舎のある本町通り交差点まで続く「馬車道通り」は、慶応二年(1866年)に発生して町の大半を焼き尽くした大火(通称・豚屋火事)を契機に行われた町の整備により「日本大通り」などと共に誕生した通りで、外国人の馬車が行き交い、明治二年(1869年)に開通した東京〜横浜間の乗合馬車の発着所が吉田橋のわきに設けられたことなどから「馬車道」と呼ばれるようになりました。外国文化の入口でもあった馬車道は、ガス灯・アイスクリーム・近代街路樹・乗合馬車など様々なものの日本における発祥の地としても知られています。ちなみにちなみに、浅草の「馬道通り」は、江戸時代から遊客が馬を利用して吉原へ通う道筋であったことに由来します。ちなみにちなみにちなみに、浅草・松屋から言問通りを経て紙洗橋に抜ける道を「馬道」と呼んでいます。その昔、浅草寺に馬場があって、僧が馬術を練るためにその馬場へ行くときにこの道を通ったのが由来となっています。



<<写真多数のため、都電23系統跡コース(2)に続きます。>>




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