- 都電23系統跡コース(2)
- コース 踏破記
- <<都電23系統跡コース(1)の続きです>>
首都高7号線が上空を通る堅川に架かる二之橋北詰の脇に、小林一茶の案内板が立っています。
小林一茶居住の地
江戸時代後期の俳人小林一茶は、宝暦十三年(1763年)五月、信濃国水内郡柏原宿(現長野県上水内郡信濃町大字柏原)で本百姓小林弥五兵衛の長男として生まれました。本名は小林信之、幼名は弥太郎といいます。三歳で母くにと死別し、八歳の時迎えた継母とは不和となり、一茶の生涯と作品に大きな影響を与えました。十五歳の時に江戸へ奉公に出て、苦労多い生活の中で俳譜に親しみます。やがて葛飾派の溝口素丸や小林竹阿に師事し俳譜を学び、各地を巡歴しながら多くの俳人と交流し俳諧への理解を深めていきました。一茶は文化元年(1804年)十月、それまで住んでいた本所五ツ目大島(現江東区大島)から本所相生町五丁目(現緑一丁目一番の一部および二・三番)の借家に移ります。家財道具が運び込まれた日に一茶は
寝始る其夜を竹の時雨哉
という句を詠んでおり、居宅の周辺には竹が植わっていたことがうかがわれます。一茶は五年ほどこの地を拠点に活動しましたが、文化五年十二月に旅から帰ると、留守中に借家が他人に貸し出されてしまっていました。
行年を元の家なしと成りにけり
以後弟子や後援者の家を転々とし、文化十年に故郷に戻りました。晩年は妻と三男一女の死、度重なる病、住居の類焼などに悩まされながらも句を詠み続け、文政十年(1827年)六十五歳で亡くなるまでの作品教は約二万句に及びました。主な著作に「父の終焉日記」、「七番日記」、「おらが春」などがあります。子供や小動物への慈愛に満ちた作品がよく知られていますが、自らの境遇、都市や農村の日常に生きる人々の姿、政治や社会に対する思いを平明な言葉で句に詠んでおり、当時の社会状況や日常生活の実情を今日に伝えるものともなっています。
新大橋通りと交差する森下駅前交差点の近くに観光案内板が立っています。
深川神明宮
深川の地を初めて開いた深川八郎右衛門が創建した「深川発祥の神社」。ご祭神は伊勢の皇大神宮のご分霊・天照大御神さまです。境内の寿老神社には深川七福神の1つ・寿老神さまをお祀りし、初詣は七福神めぐりの参詣で賑わいます。夏の祭礼、ことに三年に一度の本祭りは「宮神輿の巡幸」と「町神輿の勢ぞろい」が行われます。
Fukagawa Shinmeigu Shrine
This shrine was established by Fukagawa Hachiroemon, who is credited with establishing the surrounding area, as a "shrine originating from Fukagawa". It is dedicated to Amaterasu-omikami of the Kotai-jingu Shrine, which is part of the famous Ise-jingu Shrine. Within the grounds is also Juro-jinja Shrine, dedicated to Jurojin (God of Health and one of the Seven Lucky Gods), and many people visit during their new year's pilgrimage. Every three years, during the Summer Festival, a parade of mikoshi (portable shrines) is held to deliver blessings to the neighborhood.
田河水泡・のらくろ館(森下文化センター)
漫画「のらくろ」の作者・田河水泡(本名:高見澤仲太郎)は、幼年期から青年期までを江東区で過ごした本区ゆかりの漫画家です。平成十年(1998年:案内板では1988年となっていますが、印字ミスのようです)、遺族から作品や書斎机などの遺品が江東区に寄贈されました。これを機会に、日本の漫画界に大きな足跡を残した田河水泡の功績を永く後世に伝えるため、平成十一年(1999年)11月11日、「田河水泡・のらくろ館」を開設しました。
Tagawa Suiho Norakuro Museum (Morishita Culture Center)
Suiho Tagawa (real name : Nakataro Takamizawa), the author of the manga series "Norakuro", spent his childhood in Koto City. In 1988 (Its correct year is 1998), his relatives donated many of his works and even his office desk to Koto City. In recognition for the large impact he left on the Japanese manga industry, the Suiho Tagawa/Norakuro Museum was opened on November 11, 1999 (Heisei Year 11) as a way to continue telling his story for years to come.
続いて。
芭蕉記念館
「古池や 蛙飛びこむ 水の音」という俳聖・松尾芭蕉(1644年〜1694年)の有名な俳句は、この深川・芭蕉庵で生まれました。芭蕉記念館はこの庵があったゆかりの地に開館しました。江戸時代に俳諧師として活躍した芭蕉に関する品や、俳文学関係の資料を展示しています。
Basho Museum
Matsuo Basho (1644-1694) was a Japanese haiku poet perhaps best known for his work: "Old pond/Frog jumps in/Sound of water". He wrote some of his best poetry at Basho-an in Fukagawa, and Basho Memorial Museum was established here in honor of his roots. Items from his time as a Haikai-shi (master of the literary form of haikai) during the Edo period and documents related to the study of haiku literature are on display here.
新大橋
新大橋は、元禄六年(1693年)に隅田川3番目の橋として、当時、「大橋」と呼ばれた両国橋の次に架けられた橋であることから、新大橋と名付けれらました。現在の新大橋(昭和五十一年(1976年)架橋)は、直線を生かした漂々しい姿が美しく、清洲橋とともに「新東京百景」の一つに選定されています。
Shin-ohashi Bridge
Shin-ohashi Bridge was built in 1693 as the third bridge over Sumida River. Since it was built after Ryogoku Bridge, which was called "Ohashi" (Big Bridge) at the time, it was named Shin-ohashi, which means "New Big Bridge". The current Shin-ohashi, which was built in 1976, has an elegant architecture based on the simple beauty of straight lines, and is registered in "One Hundred Famous Views of Modern Tokyo" alongside Kiyosu-bashi Bridge.
続いて続いて。。
工匠館 −たくみのやかた− (森下文化センター)
地域に息づく「伝統技術」とその背景にある歴史や技を紹介する展示施設です。江東区にはたくさんの伝統技術が残っています。工匠館では、区の無形文化財(工芸技術・生活技術)の保持者として認定された職人の作品や、伝統技術を支える歴史や技・道具といった工匠の世界を取り上げて展示しています。
Takumi-no-yakata (Morishita Culture Center)
This is an exhibition space dedicated to the history and the legacies of traditional crafts from the region. Many traditional crafts remain in Koto City, and works by renowned artisans who are charged with preserving city-designated intangible cultural properties (crafts and lifestyle techniques) are displayed here. History, skills, and tools supporting traditional techniques are also displayed, giving visitors a holistic view into the world of artisans.
長慶寺
寛永七年(1630年)創建。万治三年(1660年)本所奉行徳山重政が寺地を除地としたため、徳山家を中興開基としています。境内には江東区登録文化財であり、発句塚・時雨塚・短冊塚とも呼ばれた「芭蕉翁句塚跡」があります。句塚は戦災で失われ、現在は台石が残るのみとなっています。
Chokeiji Temple
Chokeiji Temple was first built in 1630. In 1660, Tokuyama Shigemasa removed the land's property tax on his authority as Honjo Bugyo (an Edo period government worker), and the temple is thus considered to have been revitalized by the Tokuyama family. "Basho-ou Kuzuka Ato" (Remains of the Haiku Hill of Basho) sits within the temple grounds and is a Koto City Registered Cultural Property. The actual "Haiku Hill" was lost during the war, and only the foundation stones remain.
森下駅前交差点先の右手に細長い鉛筆型のマンションが建っていて、その1階に魚三酒場常盤店(森下店とも呼ばれます)があります。魚三酒場というと、門前仲町の富岡店が有名ですが、実はここ常盤店と新小岩店も同じ魚三酒場なのです。まだお昼時でお店は開いていませんが、コロナ渦でも開店前には行列ができそうです。
清澄庭園は、明治時代に三菱財閥の創業者であった岩崎弥太郎が関宿藩主久世家下屋敷の庭園跡を手に入れ、社員の慰安・貴賓を招待するなどの目的で造園したものです。「深川親睦園」として、隅田川の水を引き、泉水・築山・枯山水を主体にした回遊式築山泉水庭としました。この造園手法は江戸時代の大名庭園に用いられたもので、1979年に東京都の名勝に指定されました。また「清澄庭園」は、関東大震災では災害時の避難場所としての役割を果たし、多数の人命を救いました。
仙台堀川に架かる海辺橋を渡った右手に(表面だけで、舞台の大道具のようですが)小さな庵と芭蕉の像があります。歩道に面して、採茶庵跡と書かれた石碑が立っています。
採茶庵跡
芭蕉の門人鯉屋杉風は、今の中央区室町一丁目付近において代々幕府の魚御用をつとめ、深川芭蕉庵もその持家であったがまた平野町内の三百坪ほどの地に彩茶庵を建て、みずからも彩茶庵と号した芭蕉はしばしばこの庵に遊び、「白露もこぼさぬ萩のうねりかな」の句をよんだことがあり、元禄二年奥の細道の旅はこの彩茶庵から出立した。
案内板も立っています。
採茶庵跡〜奥の細道はここから〜
採茶庵は、江戸時代中期の俳人杉山杉風の庵室です。杉風は、名を市兵衛、または藤左衛門と称したほか、屋号を鯉屋、俳号を採茶庵、五雲亭などとし、隠居したのちは一元と名乗りました。家業は魚問屋で鯉上納の幕府御用もつとめ、小田原町一丁目(中央区)に住んでいました。松尾芭蕉の門人でもあり蕉門十哲に数えられ、「常盤屋句合」・「角田川紀行」などの著作があります。また、芭蕉を経済的に支援したパトロンとしても知られています。採茶庵があった場所については、杉風の娘婿である隋夢の遺言状に「元木場平野長北角」と書かれています。平野町は、海辺橋南詰から万年町二丁目(深川1−8)を挟んだ一画でした。説明板が建っている海辺橋のたもとより140メートルほど南西に位置します。芭蕉は奥の細道の旅に出る前、住居としていた芭蕉庵を手放し、しばらくは採茶庵で過ごしました。門人たちと別れを惜しんだのち、舟で隅田川をのぼり、千住大橋のたもとから奥州へと旅立っていきました。
Site of Saitoan
Saitoan was the hermitage of Sugiyama Sanpu, a disciple of haiku poet Matsuo Basho. Sanpu was one of Basho's top ten most gifted disciples. Saitoan was originally located 140 meters south of this sign at what is now 1-8 Fukagawa. Basho stayed at Saitoan before departing on the journey that led to his masterwork, Oku no Hosomichi (The Narrow Road to the Interior).
葛西橋通りと交差する深川一丁目交差点の手前に3つのお寺が並んで建っています。一番手前の心行寺は雙修山養源院と号し、元和二年(1616年)に八丁堀に創建され、寛永十年(1633年)に現在地に移りました。寺名の養源院は、延宝元年(1673年)に錦帯橋を架橋した第二代岩国藩主吉川広嘉(1621年〜1680年)の正室です。心行寺は、深川七福神(福禄寿)のひとつとして親しまれています。
浄土宗 心行寺
双修山養源院と号し、元和二年(1616年)京橋八丁堀寺町に創立、開山は観智国師の高弟光蓮社団誉一路屋道上人、周防岩国城主吉川監物の室養源院殿の発願開基による。寛永十年(1633年)現在地に移転、当時境内地は、間口42間奧行42間総坪数1764坪、影窓院・正寿院の二末寺があった。大正十二年関東大震火災の厄にかかり、昭和七年再建された本堂庫裡(くり)も昭和二十年戦災のため再度烏有(うゆう)に帰した。現本堂は、浅香富三氏設計により奈良平安朝樣式に現代風を加味し、昭和四十三年に落慶した。本堂両脇間に観無量寿経変相図(曼荼羅)ならびに三尊来迎図(守屋多々志画伯模写)がある。
史跡
開基養源院殿墓 五重石塔 宝筐印咒塔
五世鶴屋南北墓 松本交山墓 工藤琳甫墓
悟道軒円玉墓 深川七福神福祿寿堂
福禄寿が安置されているのは、心行寺の六角堂です。福禄寿は、一説には、中国の北宋で仁宋が治世した時代の嘉祐(かゆう)年間(1056年〜1063年)に実在した道士であると言われています。
福禄寿は、星宿の神、南十字星の化身ともいわれて、長寿をつかさどる人望福徳の福神であります。背丈が低く、頭がきわめて長く、白髪童顔の姿をし、年齢数千年といわれ、長寿をつかさどる福神、杖を右手に、左に長命の鳥、鶴を従え長命と円満な人格を人々に授ける福神であります。また福(幸福)と禄(財)と寿(長命)の三つの福徳を授ける福神ともいわれています。
境内の奥には、地蔵とふたつの石塔が立っています。左から五重層石塔、真ん中が影窓院(ようそういん)地蔵、右側の木に隠れているのは宝篋印咒塔(ほうきょういんじゅとう)です。
五重石塔は、元亨四年(1324年)3月24日の銘があり、江東区に現存する最古の金石文となっています。
五重層石塔
空風火水地五層の石塔で、「元亨四年」の銘がある。元亨四年は1324年で、江東区内に現存する最も古い年号を記録している。
塔頭(たっちゅう)とは、 禅宗で大寺の高僧の死後、弟子がその徳を慕って墓の塔の頭(ほとり)に構えた寮舎をいいます。また、大寺院の敷地内にある小寺院や別坊といった脇寺を指すこともあります。
影窓院地蔵
「御府内備考続編」によると、この石造地蔵菩薩立像は、当寺に影窓院と正壽院の二つの塔頭があり、影窓院にあったので、この呼称がある。結縁地蔵として緑むすび、願いごと成就の地蔵尊として江戸時代から参詣の人々で大いに賑った。
宝筺印咒塔(ほうきょういんじゅとう)は、文化文政年間に江戸の名妓といわれた川口直が夫・忠七の菩提を弔うために建立したものです。
宝篋印咒塔(北州塚)
文化文政の頃江戸の名妓であった川口直が、その夫忠七の菩提を弔うために建てたものである。川口直は、大田蜀山人作詩の清元「北州」に、あの甲高い節付けをしたので有名で、又隅田村から小梅村の境まで、独力で楓樹を植えた。幕末の頃、その紅葉は向島の名物でもあった。 芸妓をやめて日本橋薬研堀に「川口」という料亭を開き、後、浅草橋に移って胡麻味噌の石焼き豆腐を呼び物にして、非常に繁昌した。夫の忠七は、「竹明」と号して笛の名手であった。
心行寺の隣には法乗院があります。深川えんま堂(ゑんま堂)として知られ、寛永六年(1629年)に開かれた真言宗豊山派のお寺です。えんま堂には日本最大の閻魔大王座像が安置され、本堂1階には江戸時代に描かれた「地獄極楽絵」が展示されています。境内には「日本三大仇討ち」で知られる曽我五郎の足跡石があるなど見どころも豊富です。曽我五郎の仇討ち話は長くなるので省略します。
法乗院の隣に陽岳寺があります。陽岳寺は、今川家・武田家・徳川家と戦国時代に三家に仕え、海上から支援した向井将監源忠勝が開基となったお寺です。向井氏は伊勢湾を支配する海賊衆で、武田信玄が水軍を編成したときに配下となり、武田家滅亡後に向井正綱は徳川家康に仕え、江戸入府時には二千石の御船奉行となりました。その子忠勝は大坂冬の陣で戦功をたて、子孫代々左近将監を務めるように命じられました。御船奉行は江戸防衛が役目で、江戸湊沿いに屋敷を構え、忠勝は隅田川沿いに霊巌島を築く工事も手がけたといわれています。
陽岳寺 (向井忠勝)
向井忠勝(1582年〜1641年)は、60歳で没しました。戒名は、陽岳寺殿天海玄祐居士です。陽岳寺は、寛永十四年(1637年)に創建され、開山は文室祖郁禅師で、開基は忠勝です。慶長二年(1597年)16歳で、後の将軍秀忠に仕え、大坂冬・夏の両度の戦いには水軍を率い、摂津尼崎へ出陣しました。寛永二年(1625年)父の跡を継ぎ、子孫は代々船手頭の職を世襲しました。
陽岳寺の先の油掘川公園に「とみおかはし」と記されたコンクリート製の橋の親柱の一部が保存されています。かつて永代寺(現・深川不動堂)・富岡八幡宮の北側を流れた十五間川(通称「油堀」)に架かっていた富岡橋の跡です。現在、十五間川は埋め立てられ、首都高速9号深川線が走っています。昨年の晩秋に「東京の河川を歩く」の油堀川編でも通りました。都電も富岡橋を通っていたんですね。
深川地域の案内板が立っています。
深川東京モダン館
この建物は、昭和七年(1932年)に東京市深川食堂として建築され、その後、内職補導所・福祉作業所として転用されました。そして、平成二十年(2008年)に関東大震災の復興建築物かつ唯一東京市営食堂の建造物として現存していることから、国登録有形文化財となりました。現在は江東区の文化と観光の拠点として、まちあるき案内事業をはじめ、展示や講座などの事業を行っています。
Fukagawa Tokyo Modan Kan
This building was first constructed as Fukagawa Cafeteria for Tokyo City back in 1932. It then went through several iterations, eventually becoming a Registered Tangible Cultural Heritage of Tokyo in 2008 for its connections to reconstruction efforts after the great Kanto earthquake of 1923, and for being the sole city cafeteria building still in existence. It currently functions as an information centre for tourists, a gallery and classrooms.
富岡八幡宮
江戸三大祭りの一つに数えられる「深川八幡まつり」で有名です。 3年に一度催される本祭りでは、50基余りの神輿がまちなかを練り歩く神輿連合渡御が行われます。担ぎ手に水を掛けることから別名「水掛け祭り」とも称されるその光景は勇壮無比です。富岡八幡宮は、勧進相撲発祥の地であり相撲と縁が深く、「横綱力士碑」・「大関力士碑」などが境内にあります。
Tomioka Hachimangu Shrine
This shrine is famous for being the site of Tomioka Hachiman Matsuri, one of the Three Great Festivals of Edo. The largest of the celebrations, the "Hon-Matsuri", is held every 3 years and features a parade of fifty-some portable shrines around town. The carriers of the shrines are dowsed in water as they proceed, which is a spectacle to behold. It is also known as the site of origin for sumo wrestling.
さらに。
深川不動堂
深川不動堂は、千葉県成田市にある成田山新勝寺の東京別院で、「深川のお不動様」と呼ばれ、古くから親しまれて来ました。毎日定時に(お)行われる「護摩祈祷」は太鼓4台を使用し、迫力と荘厳さを備え、多くの方が訪れます。また、日本一の天井画(大日如来蓮池図)・「四国八十八ヵ所巡拝所」・1万体のお不動様の祀る「祈りの回廊」等見所も豊富です。
Fukagawa Fudodo Temple
Fukagawa Fododo Temple is the Tokyo branch of Narita-san Shinshoji Temple from Narita City, Chiba prefecture, and has been a beloved local structure since olden times. The greatly impressive Goma Fire Ritual is held daily at scheduled hours and features the beating of four taiko drums. The temple also houses one the greatest ceiling art of Japan, the Shikoku Pilgrimage, and a prayer hallway decked with 10, 000 Buddha statues.
深川七福神めぐり
深川七福神は、3つの神社と4つの寺院にまつられています。
【おすすめのルートと徒歩所要時間の目安】
門前仲町駅(4分) ⇔
富岡八幡宮(惠比須神)(5分) ⇔
冬木弁天堂(并財天)(5分) ⇔
心行寺(福禄寿)(10分) ⇔
圓珠院(大K天)(10分) ⇔
龍光院(昆沙門天)(15分) ⇔
深川稲荷神社(布袋尊)(10分) ⇔
深川神明宮(寿老神)(3分)⇔
森下駅
The Seven Lucky Gods of Fukagawa
The Seven Lucky Gods of Fukagawa can be found in 3 shrines and 4 temples. The recommended route to visit all of them is :
Monzen-nakacho Sta. <->
Tomioka Hachimangu Shrine (Ebisu, Protector of Crops) <->
Fuyuki Bentendo Temple (Benzaiten, Goddess of Music) <->
Shingyoji Temple (Fukurokuju, God of Wisdom) <->
Enjuin Temple (Daikokuten, God of Prosperity) <->
Ryukoin Temple (Bishamonten, God of War) <->
Fukagawa Inari-jinja Shrine (Hotei, God of Happiness) <->
Fukagawa Shinmeigu Shrine (Jurojin, God of Health) <->
Morishita Sta.
さらにさらに。。
法乗院(深川ゑんま堂)
法乗院は、寛永六年(1629年)の創立で、江戸時代から「深川の閻魔さん」と親しまれてきました。近年復興した閻魔さまは、高さ3.5m、幅4.5mの巨大な座像にハイテク技術を内蔵し、光や音とともに閻魔さまの声で仏の教えが語られます。また、左手には金色の地蔵菩薩をいただいています。
Hojoin Temple (Fukagawa Enmado Temple)
Hojoin Temple was built in 1629 and has been a familiar local establishment since the Edo period. Many people refer to the Temple as the "Enma of Fukagawa". The newly installed statue of Enma (God of the Underworld) measuring 3.5m in height and 4.5m in width is outfitted with technological enhancements. Visitors can experience receiving advice and Buddhist teachings here by making an offering, which triggers lights, sounds, and the voice of Enma to echo through the temple.
清澄庭園
下町の名園、都立清澄庭園が、昭和五十四年(1979年)3月に指定された都の名勝第1号であることはあまり知られていません。清澄庭園は、広大な池を囲んで、大小島々の配置の景観が美しく、都内随一といわれる名石奇岩に恵まれた、四季を通じて眺望の良い庭園です。とくに新緑の頃と雪景色は素晴らしいものです。
Kiyosumi Gardens
Not many people know that Kiyosumi Gardens became the first Tokyo Metropolitan Government Designated Place of Scenic Beauty in March, 1979. It features a large pond with exquisitely placed islands and rock formations. Kiyosumi Gardens is scenic throughout the year, but is especially beautiful in the early spring when new greenery emerges, and when it snows.
「黒船」というと、すぐにペリー艦隊を思い浮かべてしまいますが、門前仲町交差点先にある大横川に架かる黒船橋の由来とは関係ありません。すぐ近く(江東区牡丹)にある黒船稲荷神社にちなんで命名されたという説が有力のようです。桜の時期の橋からの景色は、東京でも最高のお花見スポットのひとつといわれています。
黒船橋の袂に三層の塔が建っています。
門前仲町の火の見櫓
江戸時代、江戸の市中には火災の早期発見のため多くの火の見櫓が立っていました。高さ三丈(約9m)ほどの櫓の上部には半鐘が取り付けられ、いち早く火災の発生を知らせてくれました。深川の南部にも佐賀町下の橋際(佐賀二)・富吉町(永大一)・門前仲町などに火の見櫓が立てられていました。なかでも門前仲町の櫓は今の門前仲町の交差点付近、かっての富岡八幡宮一の鳥居近くにありました。周辺は永代寺富岡八幡宮・三十三間堂といった江戸名所が集まり、現在同様に門前町としておおいににぎわっていた場所です。この櫓は深川一の繁華街を守ると云う大きな役割をはたしていました。「災害のない街」を願う気持ちは今も普も変わりません。
とあるお店の窓ガラスに「富岡八幡宮例大祭」のポスターが貼ってあります。恐らくは去年(令和二年)用のものだと思いますが、「令和三年に延期」という文字が空しく思えます。まさか、令和三年も中止になるとは思ってもみなかったことでしょう。都電23系統跡を歩いていた時点では一縷の望みもあったと思うのですが、現実には今年の八月はコロナの感染爆発でお祭りどころではありませんでしたからね。
越中島には東京海洋大学のキャンパスがあります。東京海洋大学は、海洋の研究・教育に特化した大学です。平成十五年(2003年)10月に共に120年以上の歴史を持つ東京商船大学と東京水産大学が統合し開学しました。2004年4月から学部生の受け入れを開始しました。工学部では乗船実習が義務となっています。旧東京商船大学は長年日本商船隊を支えた船乗りを輩出し、水産立国の礎を築いた旧東京水産大学とともに、現在でも海に関連する科学・工学的な専門分野における教育と研究でその良き先達となることを目指しています。越中島キャンパスには海洋工学部が置かれ、船舶職員の養成とロジスティクスの分野の教育と研究を行っています。海洋工学部(東京商船大学)の前身である私立三菱商船学校は、明治八年(1875年)11月に設立され、1925年に東京高等商船学校に改組されました。海洋科学部(東京水産大学)の前身である大日本水産会水産伝習所は、明治二十一年(1888年)に設立されました。両学部とも120年以上の歴史を持っています。当初、商船学校は永代橋袂の霊岸島(現在の中央区新川)に繋がれた成妙丸を校舎としていましたが、後に水産伝習所の校舎があった越中島に移設されました。東京高等商船学校は明治・大正・昭和を通して難関校として有名で、俗に「陸士・海兵・高等商船」と受験生から呼ばれ、陸軍士官学校・海軍兵学校と並び称されるほど全国から秀才が集まっていました。
敷地のフェンス越しにドーム型の古めかしい建物が見えます。
第一観測台
明治三十六年(1903年)6月建設。赤道儀室と呼ばれ、内部には当時東洋一と言われた天体望遠鏡を備え、教育研究に使用された。平成九年(1997年)12月国の登録有形文化財に指定された。
第二観測台
明治三十六年(1903年)第一観測台と同時に建設。子午儀室と呼ばれ、内部には子午線測定用の望遠鏡を備え、教育研究に使用された。平成九年(1997年12月国の登録有形文化財に指定された。
古びたコンクリート塀に何やらプレートが貼り付けてあります。塀がくすんでいるのは年月のせいばかりではなく、空襲時の炎のせいかもしれません。
東京大空襲のときに構内の樹木を守った塀
清澄通りに面したコンクリート製の塀は関東大震災後につくられました。昭和二十年(1945年)3月10日の東京大空襲のときには、通りの向かいにあった糧秣廠が焼けて炎が大学の敷地に降りかかり、構内の樹木は燃えてしまいましたが、この塀によって根元の部分は守られました。そのため焼けた樹木も生き返り、現在のような大木になっております。平成二十四年(2012年)6月29日にアルミ鋳物製の柵として改装された際、構内の樹木を守った塀として一部残すことにしました。
Portion of the original fence that protected the campus trees from the Great Tokyo Air Raid
The original concrete fence was built after the Great Kanto Earthquake. On the 10th of March 1945, when the Great Tokyo Air Raid erupted, many of the trees in the campus were burnt down by the blazing fire from a food-storage warehouse on the other side of the Kiyosumi Street. Thanks to this fence, however, the roots of the trees were not damaged, and new trees grew again. On the 29th of June 2012, when the original concrete fence was replaced with a new aluminum fence, this part of the old fence was intentionally left unremoved to commemorate its role as the protector of the campustrees.
東京海洋大学は晴海運河に面しています。その一画に明治丸記念館があり、巨大な帆船の明治丸が保存されています。明治丸は、明治政府が英国グラスゴーのネピア造船所に燈台巡廻業務用に発注し、明治七年に竣工した鉄船(現在の船はすべて鋼船)で、翌明治八年に横浜へ回航されました。一等飛脚船同様の出来と言われたこの船は、特別室やサロンを備えた豪華な仕様の新鋭船で、単に燈台業務ばかりでなく、ロイヤルシップの役目も兼ねていました。明治天皇はじめ多くの高官が乗船し、わが国近代の重要な場面で活躍しました。なかでも明治八年、小笠原諸島の領有権問題が生じた際に、日本政府の調査団を乗せ、英国船より早く小笠原に到達しました。このことによって、小笠原諸島はわが国の領土となったのです。その後の沖ノ鳥島・南鳥島の領有を含め、日本は領海と合わせて世界第6位となる447万平方キロメートルの排他的経済水域を確保することとなりました。その約3分の1に当たる約150万ヘイホウキロメートルが東京都小笠原村に属しています。また、明治九年、明治天皇が東北・北海道巡幸の際、青森から乗船され函館を経由し7月20日に横浜に安着されました。この日を記念して昭和十六年に「海の記念日」が制定され、平成八年に国民の祝日「海の日」となりました。およそ20年間を燈台巡廻船として活躍した明治丸は、明治二十九年年に商船学校(東京海洋大学の前身)に譲渡されました。それからは係留練習船として昭和二十年までの約50年間に、5000余人の海の若人を育てました。大正十二年の関東大震災や、昭和二十年の東京大空襲では、被災した多くの住民を収容し、災害救援にも貢献しています。昭和五十三年には、わが国に現存する唯一隻の鉄船であり、鉄船時代の造船技術を今に伝える貴重な遺産として、国の重要文化財に指定されました。船としての重要文化財指定は明治丸が初めてです。その後、老朽化が進んだため、再び平成二十五年12月より、東京海洋大学と文部科学省により大規模修復工事が行われました。平成二十七年3月に竣工し、その美しい姿がよみがえりました。
相生橋は隅田川派川に架かる橋で、上流の永代橋に相対する橋として名付けられました。形式は、大正八年に市電を通すため改築した先々代の橋の姿にならい、トラス橋としました。トラス橋は、細長い部材を三角形に組みたでて橋桁とした橋です。新しい相生橋は、隅田川や中の島公園とともに多くの人々の憩いの場として親しまれるよう整備されました。橋の長さは149.1m・幅員36.8mです。平成十年12月19日に全線開通しました。
相生橋
佃島が埋立てられて月島となって人々が住む町が開けるとともに、交通の便や水道が必要になった。そこでまず深川との間にこの相生橋が架けられた。明治三十六年(1903年)のことであった。その後改修され、中の島で大橋と小橋とに分かれるようになった。隅田川がここで左右に大きく分岐するところの左側にあたっていて、川が湾曲するするため、上流から流れてきたものが滞留したところである。関東大震災の時も、今次の大戦の空襲のあとにも、さまざまなものが山のように集まった。ことに震災の時までは木橋であったため、橋も延焼した。現在の橋は、大正十五年(1926年)11月に、 震災復興事業の最初の架橋として完成した。
初見橋交差点の手前にド派手な看板の「肉のたかさご」があります。昭和二十二年に「高砂牛肉店」として創業して以来、基本方針である「品質本位」を掲げ、精肉店として70余年、初代の教え「一両の客より十文の客を大切にせよ」の教えをもとにお客様に寄り添って今日まで営業しているとのことです。特に、「東京やき豚」と「ローストビーフ」は東京みやげの新定番として好評なようです。JALショッピングでも取り扱われています。ローストビーフに惹かれるのですけど、今日のところはパスします。
月島にはまだまだ少なからぬ昭和の名残りが残っています。清澄通りに面した小さな店構えですが、魚仁は月島の人気居酒屋です。一見して下町のお魚屋さんのような外観の店内には長机と簡易イスが置いてあり、昭和の雰囲気が満点で、いつも多くのお客さんで賑わっています。メニューは刺身の盛り合わせ・鰤大根・鮪ホッべ刺・マグロの脳天などといった多彩な海鮮ものが揃います。どれも下町価格で、ボリューム満点です。また、もつ煮込みやチャーシューなど、煮つけなども揃っています。魚仁の昼間の外観は活気にあふれた魚屋さんそのものです。「うまいぜぇ!日本一!!」の看板が掲げられた店舗では威勢の良い店員さんが新鮮な魚介類を次々と売りさばいています。夜になり、店頭販売が終わると居酒屋に早変わりし、店舗の外までテーブル席が張り出して、気軽に立ち寄りたくなる大衆居酒屋の趣となります。私も随分前に一度だけお邪魔しましたが、東南アジア系の女性店員の元気溢れる接客が印象に残っています。
勝どき駅前交差点に着きました。都電23系統の終点の「月島通八丁目電停」は交差点近辺にありました。新宿駅東口からやって来た通常運転の都電11系統の終点にもなっていました(延長運転の時は新佃島が終点で、月島通八丁目電停から新佃島の区間は都電23系統とルートが重なっていました)。「月島通」は、現在の勝どき交差点付近の道路名で、その後清澄通りに吸収されました。ちなみに、「月島」という地名は、築地と同様に海に新たに築かれた島「築島」が由来といわれていますが、江戸時代から江戸湊(現在の東京湾)内にあった月見の名所「月の岬」から名付けられたという説もあります。
ついでに、勝どき駅前交差点角に位置する超高層マンションの1階にある「かねます」に立寄ってみます(見るだけです)。立ち飲み屋さんですが、お料理のレベルはあの伝説の料理人であるはエル・ブジの料理長フェラン・アドリアでさえも虜にしたとか。北千住の「徳多和良」と並ぶ立ち飲みの名店です。
ということで、都電23系統跡の歩きを終えました。「都電を歩く」シリーズでは初めての区間もあって、見所が多かったですね。尚、業平橋から福神橋までの区間は、この後の都電24系統のルートと重なっています。
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