- 都電24系統跡コース(1)
- コース 踏破記
- 今日は都電24系統跡を歩きます。都電24系統は須田町から福神橋までを結び、その路線は主に中央通り・浅草通り・国際通り・雷門通り、そして再び浅草通りを通っていました。都心を東西に斜断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。また、須田町電停から吾妻橋二丁目電停までの区間は都電30系統と、吾妻橋一丁目電停から福神橋電停までの区間は都電23系統と重なっていました。
都電24系統
都電24系統の全長は6.7kmで、昭和47年11月12日に廃止となりました。
都電24系統の電停(路上の駅)は、須田町・万世橋・旅篭町・末広町・黒門町・広小路・上野公園・上野駅南口・上野駅・稲荷町・清島町・菊屋橋・田原町・雷門・浅草・吾妻橋一丁目・吾妻橋二丁目・業平橋・押上駅・十間橋・柳島・福神橋でした。
都電24系統の起点となる須田町電停には、都電全盛期に10系統もの路線が集まっていました。都電24系統の須田町電停が須田町交差点のどのあたりにあったのか分かりませんが、進行方向から考えると、恐らく交差点付近の靖国通り上にあったと見るのが妥当なように感じます。須田町(現・神田須田町)は江戸時代から中山道など8つの街道が集まり、神田川の舟運もある交通の要衝だった上に青果市場もありました。明治時代後期になると路面電車(のちの市電・都電)が開通し、甲武鉄道(現在の中央線)の万世橋駅も開業して東京有数の繁華街となりました。その後、青物市場が移転し、万世橋駅の廃止などもあり、現在は主にオフィス街となっていますが、明治時代創業の老舗の飲食店もまだ数軒残っています。
「須田町」の町名は、神田川沿いの砂洲にひらかれた農地である「洲田」に由来するといわれています。
都電24系統は須田町から中央通りに入り、神田川を万世橋で渡ります。現在の万世橋は架橋後100年近くになろうとしていますが、親柱は重厚そのもので威風堂々とした趣があります。
万世橋
現在の万世橋と昌平橋の間に江戸城の見附の一つである筋違門がありました。明治五年(1872年)に門が撤去され、その石材を用いて架けられたのが萬代橋(萬世橋)です。石造アーチの形状は眼鏡橋と通称され、東京名所として錦絵などにも描かれました。明治三十六年(1903年)、現在の位置に新たに万世橋が架橋された後、石造の萬世橋は1906年に撤去されました。現在の橋は関東大震災後の昭和五年(1930年)に架けられました。甲武鉄道(後の中央線)のターミナル駅として万世橋駅が明治四十五年(1912年)に開業すると、橋の周辺は交通の要衝として大変な賑わいを見せました。
Manseibashi Bridge
Sujikai-mon Gate, one of the outer gates of Edo Castle, stood between current-day Manseibashi Bridge and Shoheibashi Bridge. The gate was demolished in 1872, and the stone used to build Yorozuyobashi Bridge (Manseibashi Bridge). The stone arch structure, popularly known as a meganebashi ("spectacles bridge" or two-arched bridge), has been depicted in color prints as a Tokyo sightseeing spot. In 1903, Manseibashi Bridge was rebuilt in its current-day location before the stone Manseibashi Bridge was demolished in 1906. The current-day bridge was built in 1930, after the Great Kanto Earthquake. After Manseibashi Station opened as the Kobu Railway (later the Chuo Line) terminal station in 1912, the area around the bridge became a very busy transport hub.
万世橋を渡ると、中央通りに沿って秋葉原電気街が続いています。秋葉原は第二次世界大戦後、闇市として発展しました。高度経済成長とともに、多様な電子機器や部品を取り扱う店舗などが建ち並ぶ日本一の電気街として発展しました。その後、バブルの崩壊や大型家電量販店・ディスカウントストアの台頭などによる家電市場の衰退で電器店は主力商品をパソコンに移していきました。これによって、パソコンマニアが集中し、秋葉原は一転してオタクの街として変貌を遂げました。世界的な観光地としても注目されるようになりましたが、2010年代以降はネット販売の普及と地価上昇、それに昨今のコロナ禍などでオタク向けの小売店が軒並み閉店し、代わって大資本によるコンセプトカフェが進出し、区画整理の推進などもあって今ではオフィス街に変貌しつつあります。
アキバの中程の中央通りに面するドンキ秋葉原店8階にAKB48劇場があります。AKB48専用のライブハウスで、2005年12月8日にデビュー公演が行われました。ドンキと劇場とは意外な組み合わせですが、これには建物の8階が構造上ドンキにとって営業しずらかった点と、逆に天井高や広さがライブハウスの設備に適合していたことから選ばれたそうです。私は入ったことはありませんが。
歩道脇に町名の案内板が立っています。
神田元佐久間町
ここはかつて神田元佐久間町と呼ばれていました。江戸時代、この界隈には豊前小倉藩小笠原家の中屋敷がありました。明治二年(1869年)十二月に発生した火事で、このあたりは様相を一変します。神田相生町から出た火は、現在の外神田周辺を焼き尽くしたといわれています。明治新政府は、神田佐久間町一丁目内にあった神田柳屋敷などに火除地(防火のための空き地)を設置しました。そのため、そこに住んでいた人々が代地として小笠原家屋敷跡に移転してきたのです。明治三年(1870年)のことでした。神田元佐久間町の町名が生まれたのはこの時です。新たに生まれたこの町を神田佐久間町と区別するため「元」が付けられたのです。明治四十四年(1911年)、いったん元佐久間町と改称されましたが、昭和二十二年(1947年)、千代田区ができたときに町名はふたたび神田元佐久間町となりました。この町名は、一帯が住居表示の実施によって外神田五丁目となる昭和三十九年(1964年)まで使われていました。
Kanda-Motosakumacho
This neighborhood was once the location of many samurai residences, but in the early Meiji Period, at the end of the 19th century, it was transformed into an alternate site for people relocated from nearby towns to make way for firel reaks. It is said that the townspeople chose the name Motosakumacho to differentate it from the town of Sakumacho, from where they had been moved.
もうひとつ旧町名の案内板が立っています。亀は万年といいますが、末永くこの地に住み続けたいとの思いで名付けられた町名とのことです。ちなみに、「亀は万年」という言葉は、中国の仙豪`梵(せんがいぎぼん)という禅宗の僧が残した言葉の「鶴は千年亀は万年、我は天年」に由来しています。「千年、あるいは万年生きられるかわからないが、天から授かった寿命を全うしよう」という意味だそうです。
神田亀住町
江戸時代のこの界隈は、武家屋敷が立ち並ぶ地域で、幕末のころには一帯が豊前小倉藩小笠原家の中屋敷となっていました。神田亀住町は、もともと神田川の北岸に江戸時代からあった、神田六軒町・柳原大門町・神田八軒町・上野町代地が、明治二年(1869年)に合併してできた町です。その名前は、未永く生活できる場であってほしいという願いを込めて名付けられたといいます。この年の十二月、現在の外神田一帯に大きな被害をもたらした火事がありました。火災後、神田亀住町は新政府により火除地(延焼をくい止めるための空き地)にされたため、翌三年(1870年)、小笠原家の屋敷跡を代地として与えられ、神田川北岸より移転してきました。明治四十四年(1911年)の町名変更で、町名はいったん亀住町となります。昭和二十二年(1947年)にふたたび神田亀住町に戻されますが、昭和三十九年(1964年)の住居表示の実施で、神田栄町や神田元佐久間町と合併して現在の外神田五丁目になりました。町内にある亀住稲荷神社は、豊前小倉藩の中屋敷内にあった稲荷と神田八軒町にあった稲荷を一緒に祀ったユニークな社です。町の人々はこの神社に深い愛着をいだき、稲荷のための保存講を組織し、管理・運営を続けるなど、いつの時代も大切にしてきました。
Kanda-Kamezumicho
This neighborhood was once the location of many samurai residences. In 1869, Kanda-Kamezumicho was created as an amalgamation of surrounding towns. However, after a major fire struck that same year, the town was moved to this area. It is said that the name "Kamezumi", which literally means "where turtles live", expresses the wish of the residents to be able to live here for a long time.
中央通りに面したお店の前で、キティちゃんがパンダになっています!
中央通りは、上野公園に突き当たって右手に方向を変えます。上野公園の高台を背にして、かって聚楽台という飲食店がありました。聚楽台は、1959年から2008年まで上野駅前の「西郷会館」2階で営業していたレストランでした。和食・洋食・中華・寿司など「何でもあるファミリーレストランの先駆け的存在」として上野の名物でした。店内にはタイル画などの装飾や、滝を模した水流の演出もあり、客席の一部は座敷席となっていました。店内には1000リットルと500リットルの生ビールのタンクが備えられていて、「工場直送生ビール」の広告が出されていました。西郷会館の老朽化による取り壊しに伴い、聚楽台は2008年4月21日に閉店しました。西郷会館の跡地には2012年9月にUENO3153という飲食店街が開業しましたが、残念ながら聚楽台の復活はありませんでした。
上野駅は、古くから「東京の北の玄関口」として発展してきました。上野駅といえば、井沢八郎の「あゝ上野駅」が浮かんできます。この歌は、作詞を行った関口義明が上野駅で見かけた集団就職の少年たちを題材に詞を書き、農家向け家庭雑誌「家の光」の懸賞に応募して1位入選を果たして生まれた曲です。歌手を志して青森県から単身上京し、当時無名だった井沢八郎自身の人生も重なり、発売後まもなく「金の卵」と呼ばれた集団就職者などから支持と共感を得て、高度成長期の世相を描いた代表的ヒット曲となりました。いわゆる団塊の世代を中心に「心の応援歌」として多くの人々に勇気と感動を与えた楽曲です。初めて知ったのですが、歌手の工藤夕貴って、井沢八郎の娘さんなんですね。
上野駅交差点で中央通りから浅草通りに入ります。浅草通りに面して下谷神社の深紅の大鳥居が聳えています。毎年5月の初旬に行われる「下谷神社大祭」は、東京の下町で一番早い夏祭りとして知られ、祭り好きの人々の人気を集めています。期間中は神社周辺に100を超える露店が立ち並び、多くの見物人で賑わいます。千年以上の歴史を持つ神社のお祭りだけあって、神輿渡御も盛大です。若い担ぎ手が多く、かなり荒っぽいですが。
下谷神社
天平二年(730年)、上野の忍ヶ岡に創建されたと伝えられる。寛永四年(1627年)、寛永寺の建立のため山下に移された(現在の岩倉高校あたり)。しかし土地が狭く、延宝八年(1680年)に広徳寺前通り(現在の浅草通り)の南側に移る(現在地の近く)。その周囲には武家の屋敷や長屋が建ち並んでいた。本社は下谷の鎮守として広く信仰を集め、「下谷稲荷社」・「下谷惣社」などとよばれた。稲荷町という地名も、本社に由来する。江戸時代には開帳・人形芝居などがおこなわれ、祭礼の時には盛大な行列がみられた。「下谷神社」と改称したのは明治五年(1872年)である。関東大震災の後、昭和三年(1928年)の区画整理により、東南に五十メートルほどの現在地に移る。新築された拝殿には、池之端に住んでいた日本画の巨匠、横山大観により雲竜図の天井画が描かれた(平成十二年、台東区有形文化財)。
The Shitaya Shrine
According to tradition, the Shitaya Shrine was originally built on the Ueno plateau in 730, and moved to the east foot in 1627 because of construction for the Kaneiji Temple. However, since the land was small, it moved near its present location in 1680. The Shitaya Shrine was the guardian god of Shitaya area and was believed in widely. A part of this area therefore was named "Inari cho" for "Shitaya Inari" which is the former name of this shrine in Edo period. The name was changed to "the Shitaya Shrine" in 1872 and it moved to its present location for rezoning in 1928. A great Japanese-style painter Yokoyama Taikan who lived in Ikenohata drew pictures of clouds and dragons on the ceiling of the new main hall.
神社の由緒書きには古めかしい文体で社歴が紹介されています。
郷社下谷神社 御由緒ノ概要
本社ノ創立ハ聖武天皇ノ御宇ニ在リト傳フ。古来上野忍ヶ岡ノ地ニ鎮座ス。天慶三年、田原藤太秀郷當社ニ参籠シ、朝敵追討ノ祈願ヲナシ、社殿ヲ造営ス。寛永四年屏風坂下ノ地ニ遷座シ、延寳八年、稲荷町ノ地ニ遷座ス。昭和三年九月、此所ニ換地シ、新ニ社殿ヲ造營シ、昭和九年四月本遷座ス。
下谷神社の境内には、日本を代表する俳人である正岡子規の句碑もあります。明治二十七年(1894年)から8年間、下谷神社の近くに住んでいた子規は、境内に門弟や友人を集めてよく俳句を詠んでいました。平成十三年(2001年)、子規没後100周年を記念して台東区内に11基の句碑を建立することになりました。下谷神社の境内にある句碑もそのひとつです。碑には「寄席はねて 上野の鐘の 夜長哉」という、「寄席発祥の地」に因んで詠んだ句が刻まれています。
寄席発祥の地
現在の下谷神社は、明治五年以前は「下谷稲荷社」が正式名称でした。江戸時代、寛政十年(1798年)6月に初代山生亭花楽が下谷稲荷社(現下谷神社)の境内で五日間の寄席興行を行いました。これが江戸における最初の寄席興行といわれております。落語自体はもっと前から存在しましたが、それ以前の落語は、身分の高い方の前で一対一で話をしたそうで、寄席の定義というのは一般の人を対象に、木戸銭をとって落語を聞かせることだそうです。馬喰町で櫛職人をしていた京屋又五郎という人が、山生亭花楽と名乗り「風流浮世おとし噺」の看板を掲げ、下谷稲荷社(現下谷神社)の境内の賭け小屋で、一般の人を対象に木戸銭を取って落語を聞かせました。これが江戸における最初の寄席興行といわれており、寛政の後の文化・文政の時代には百数十軒にも増加したそうです。山生亭花楽の名前の由来は「山椒は小粒でピリリと辛い」をかけて付けられたそうです。山生亭花楽は後に三笑亭可楽と名前を変え現在は9代目です。平成十年(1998年)寄席発祥二百年を記念して、都内四つの亭席・落語協会・落語芸術協会を始め落語関係者の協力により境内に記念碑が建てられ、同年4月10日、落語関係者二百名参列の下、除幕式が執り行われました。
旧浅草通りに沿って多くの仏壇・仏具店が建ち並んでいます。近くにはお寺が散在しているからなのでしょう。ここにも旧町名案内板が立っています。地下鉄銀座線の稲荷町駅の名称は、下谷神社から由来しているんですね。
旧町名由来案内 旧南稲荷町
明暦三年(1657年)の江戸大火後、江戸各地の寺院がこの付近に移転してきた。そして、唯念寺・成就寺・宗源寺・西蓮寺の各門前に町屋が形成された。この頃、唯念寺の門前町屋は、町内に稲荷神社があつたので、俗に稲荷町一丁目と呼ばれていた。また、成就寺の門前町屋は稲荷町といっていた。明治二年、これら門前町屋は、隣接する辻番屋敷を合併して下谷稲荷町と名付けられた。稲荷神社は、現在の下谷神社である。明治五年、下谷稲荷町は現在の浅草通りで南北にわけられるとともに、下谷江島町をあわせて、下谷南稲荷町が認生した。その後、明治四十四年に下谷の二字をはずして南稲荷町となつた。
菊屋橋交差点から北に延びる道路に沿って、かっぱ橋道具街があります。近年、外国人観光客にも人気で、飲食店関係者はもちろん、料理好きの人達にも重宝されています。ちなみに、菊屋橋という名称は、下谷と浅草を結ぶかっての新寺通り(現在の浅草通り)と、南北に流れていた新堀川が交差するところに架かっていた菊屋橋に由来します。
菊屋橋交差点の角に面して、「ニイミ」というテーブルウエア・調理機器・厨房用什器備品を扱う専門店のビルが建っています。店名は知らなくても、屋上に巨大なコックさんの像が鎮座するお店といえば分かるでしょう。コックさんの正式な名称は、「ジャンボコック像」で、高さ11m・重さ10tもあるそうです。ちなみに、コック像のモデルとなったのは、ニイミ店の二代目店主だそうです。現在の三代目社長室には、1/10サイズのオリジナルモデルが置かれているとのこと。巨大な像をどうやって屋上に取り付けたのでしょうかね?
寿四丁目交差点を左折して一旦浅草通りから外れ、国際通りに入って直ぐの次の雷門一丁目交差点を右折して雷門通りに進みます。
雷門は浅草のシンボルです。深紅の山門に吊された大提灯は、浅草を訪れた観光客が例外なく大提灯をバックにして写真に収まっている筈です。浅草寺の雷門は、慶応元年(1865年)に火災により焼失しましたが、松下電器の創業者である松下幸之助によって昭和三十五年(1960年)に再建されました。その後は、約10年ごとに大提灯の修復が行われてきました。現在の大提灯は、令和二年(2020年)4月17日に掛け替えられたものです。大提灯は約1年かけて造られ、高さ3.9メートル・重さ約700kgの大きさです。山門を護る雷神様の前に雷門の案内板が立っています。
雷門(風雷神門)
天慶五年(942年)、平公雅によって創建されたのが始まり。門の正面向かって右に「風神」、左に「雷神」を祀る。このことから「雷門(風雷神門)」と呼ばれる。ともに鬼面蓬髪、風袋を担いで天空を駆ける風神と、虎の皮の褌を締め連鼓を打つ雷神の姿は、お馴染みのものである。また、門の裏側には、向かって右に「金龍」、左に「天龍」の龍神像が祀られ、これら四神は、浅草寺の護法善神として、伽藍守護・天下泰平・ 五穀豊穣の守り神とされる。現在の門は、慶応元年(1865年)の浅草田原町の大火で炎上した門に替わり、昭和三十五年に松下幸之助氏のご寄進により復興された。浅草寺参詣の入口にあたる「総門」として、また、東京・浅草の顔として全国的に有名。
Kaminarimon Gate
The Kaminarimon Gate ("thunder gate"), standing at the entrance to the processional road leading to Senso-ji, is Asakusa's most famous landmark. Inside the gate on either side are enormous wooden statues of the protective Buddhist deities Fujin (wind god) and Raijin (thunder god), from which the gate gets its name. The original gate was erected in 942 but burned down several timesover the centuries. The one standingtoday was built in 1960, donated by Japanese entrepreneur Konosuke Matsushita (1894-1989).
雷門の奥には、浅草寺に続く仲見世参道が延びています。土産物店や参道に付きものの団子屋さんなどが軒を連ねています。雷門の前の広場の入口には浅草寺の案内板が立っています。英語表記の案内文を最後まで読んだ外国人はまずいないでしょう。
聖観音宗総本山 金龍山 浅草寺(あさくさかんのん)
御本尊 聖観世音菩薩(御秘仏) 慈悲の仏さま 浅草寺ご本尊の観世音菩薩さま
観音さまは、多くの仏さまの中でも最も慈悲深い仏さまであり、人々の苦しみを見てはその苦しみを除き、願いを聞いては楽しみを与えてくださいます。特に浅草寺ご本尊の観音さまのご利益・ご霊験は古今無双であり、ご示現より今日まで千四百年近くにわたり計り知れぬほどの人々を救われ、ご加護なさってきました。観音さまのご信仰とは、観音さまに「慈悲」のお心を頂いて生きること、すなわちすべてに「あたたかい心」で接して日々を過すことと申せましょう。
*ご参拝の際には合掌して「南無観世音菩薩」とお唱えしましょう。
縁起(由来)
時は飛鳥時代、推古天皇三十六年(628年)三月十八日の早朝、檜前浜成・竹成の兄弟は江戸(隅田川)に漁撈中、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得した。郷司土師中知(名前には諸説あり)はこれを拝し、聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依し、その後出家し、自宅を改めて寺となし、礼拝供養に生涯を捧げた。大化元年(645年)、勝海上人がこの地においでになり、観音堂を建立し、夢告によりご本尊をご秘仏と定められ、以来今日までこの伝法の掟は厳守されている。広漠とした武蔵野の一画、東京湾の入江の一漁村にすぎなかった浅草は参拝の信徒が増すにつれ発展し、平安初期には、慈覚大師円仁さま(794年〜864年、浅草寺中興開山・比叙山天台座主三世)が来山され、お前立のご本尊を謹刻された。鎌倉時代に将軍の篤い帰依を受けた浅草寺は、次第に外護者として歴史上有名な武将らの信仰をも集め、伽藍の荘厳はいよいよ増した。江戸時代の初め、徳川家康公によって幕府の祈願所とされてからは、堂塔勝の威容さらに整い、いわゆる江戸文化の中心として、大きく繁栄したのである。かくして都内最古の寺院である浅草寺は、浅草観音の名称で全国的にあらゆる階層の人たちに親しまれ、年間約三千万人もの参詣者がおとずれる、民衆信仰の中心地となっている。
SENSO-JI (Asakusa kannon Temple)
History and Mission of Senso-ji
In 628, Japan's capital was at Asuka (present-day Nara Prefecture) and what would become Tokyo was still mostly uninhabited grasslands. Two fishermen, Hinokuma Hamanari and his brother Takenari, were on the Sumida River one day when they heard a command from the heavens to cast their net. When they brought the net up, they saw that they had caught a golden statue of Bodhisattva Kannon.
Hearing of this from the Hinokuma brothers, village headman Haji Nakatomo decided that he would become a devout believer in Bodhisattva Kannon. He took vows as a Buddhist priest, remade his home into a temple and spent the rest of his life practicing Buddhism. This episode marks the birth of Tokyo's oldest temple and the start of Senso-ji's history.
In 645, the renowned Buddhist priest Shokai visited Asakusa and built a hall for the worship of Bodhisattva Kannon; that makes him the actual founder of Senso-ji. After having a mysterious dream one night, Shokai decided that Bodhisattva Kannon should be hidden from human view, and it has remained so ever since. Word of blessings bestowed by Bodhisattva Kannon spread far and wide, and many people who had heard of this came to worship at Senso-ji from all over Japan. As a result, Asakusa flourished and grew into a large district.
In the mid-ninth century, Ennin (794-864), the highest-ranking priest of Enryaku-ji, the head temple of the Tendai School of Buddhism, visited Senso-ji, created a statue of Bodhisattva Kannon identical to the hidden one and called its spirit into the new statue. Senso-ji, thus further developed by Ennin, attracted devout faithful not only among commoners but also famous samurai and persons of culture. Designated a sacred site of prayer for the shogunate by shogun Tokugawa Ieyasu (1543-1616), founder of the Edo shogunate, Senso-ji reached a peak of prosperity.
Over the intervening centuries until today, Senso-ji has remained a center of culture and worship in Tokyo. It continues to be influential in people's lives, and with millions of people visiting it every year, it is one of Japan's most familiar temples.
Senso-ji and Asakusa are intimately linked. The two names are written using the same Chinese characters (浅草) but pronounced differently, "senso" being the Chinese pronunciation and "asakusa" the native Japanese pronunciation.
About Bodhisattva Kannon
Over the years, Buddhism, which originated in the fifth century BCE, diverged into two main branches: Hiinayaana (today called Theravaada), which holds that adherents should faithfully follow the teachings of founder Buddha Shakyamuni to reach enlightenment themselves, and Mahaayaana, which teaches that the faithful should not only seek their own enlightenment but also help the suffering. Mahaayaana Buddhism spread from India to China and Korea and eventually to Japan. In that process, according to various interpretations of the Buddha's teachings, various figures of worship emerged, such as Buddhas, who had already achieved enlightenment, Bodhisattvas, who were the people's saviors as they continued religious practice in order to attain enlightenment and become Buddhas, and so on. Believers in Buddhism gave these figures concrete forms, creating sculptures of them which they worshipped.
Bodhisattva Kannon is one among many Bodhisattvas, and since early times has been widely worshipped by Japanese in particular. Bodhisattva Kannon is also the most merciful of the Bodhisattvas, sent to relieve human misery on earth. Many Japanese believe that their hopes and pleas will reach this deity.
In particular, the Bodhisattva Kannon worshipped at Senso-ji has been an unparalleled source of benefits and miracles over the centuries, and has saved and protected countless people since its appearance in this world.
Faith in the Bodhisattva Kannon, which has supported Senso-ji and drawn many people to this temple, consists of opening one's heart and living by the merciful spirit of Bodhisattva Kannon and at the same time showing mercy to others in daily life. We hope that visitors to Senso-ji will join their hands in prayer, receive the merciful spirit of the Bodhisattva Kannon into their hearts and pray that they can bestow that mercy upon others.
吾妻橋は隅田川に架かる橋です。かってはアサヒビール本社の奇抜な形状の建物が見えるだけの観光スポットでしたが、今では東京スカイツリーが並んで見え、記念写真に収まる観光客が後を絶ちません。
鬼平情景 吾妻橋(大川橋)
江戸時代、両国橋・新大橋・永代橋に次いで隅田川に架けられた四番目の橋です。安永三年(1774年)、長谷川平蔵二十九才の時、町人からの幕府への願いが受け容れられ、架橋されました。民営のため武士を除く利用者から渡賃二文を徴収して維持費に充てました。長さ八十四間(約150メートル)・幅三間半(約6.5メートル)あり、正式名は大川橋です。吾嬬神社ヘの参道にあたるとして吾妻橋への改名願いが出されましたが、それが叶ったのは明治九年(1876年)になってからです。鬼平犯科帳でも数々の作品に登場します。なかでも人気の、亡父遺愛の銀煙管が鍵となる「大川の隠居」では、平蔵を乗せた友五郎の櫓さばきも巧みな舟が、吾妻橋をくぐって大川を遡っていく名場面に出てきます。
<<写真多数のため、都電24系統跡コース(2)に続きます。>>
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