都電25系統跡コース(1)  

コース 踏破記  

今日は都電25系統跡を歩きます。都電25系統は日比谷から西荒川までを結び、その路線は主に日比谷通り・本郷通り・靖国通り・京葉道路・都道477号亀戸葛西橋線、そして亀戸浅間通りから先の荒川西岸までの区間は専用軌道を通っていました。都心を東西に斜断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。  

都電25系統

都電25系統の全長は10.4kmで、昭和43年9月29日に廃止となりました。

都電25系統の電停(路上の駅)は、日比谷・馬場先門・和田倉門・大手町・神田橋・美土代町・小川町・淡路町・須田町・岩本町・豊島町・浅草橋・両国・東両国二丁目・東両国三丁目・東両国緑町・緑町二丁目・緑町三丁目・江東橋・錦糸掘車庫・錦糸掘・亀戸駅・水神森・亀戸六丁目・亀戸七丁目・亀戸九丁目・浅間前・小松川三丁目・小松川四丁目・西荒川でした。


都電25系統の日比谷電停はどこにあったのでしょうか?日比谷交差点では、東西に延びる都電8系統や都電11系統などの路線と南北に延びる都電2系統や都電5系統などの路線が交差していました。当然、両方の日比谷電停が同じ場所にある筈がありません。当時の写真を見ますと、東西に延びる路線の電停は日比谷交差点の祝田橋寄り、南北に延びる路線の電停は日比谷交差点の内幸町寄りに位置していたと思われます。特に都電25系統の日比谷電停の名称は最初は「日比谷公園電停」、次に「日比谷電停」、最後は再び「日比谷公園電停」に戻っていますので、日比谷公園に面した現在の東京ミッドタウン日比谷前辺りに電停があったものと思われます。



日比谷交差点を渡り、皇居の内堀に沿って進みます。右手にマッカーサー総司令官がGHQ本部を置いた旧第一生命保険本館があります。古代ギリシャ・イオニア様式のデザインは今でも活かされていますが、「DNタワー21」という複合ビルの一部になっています。マッカーサーが執務していた部屋は現在でもマッカーサー記念室として保存されています。



旧第一生命保険本館に隣接して帝国劇場があります。帝国劇場は日本初の西洋式演劇劇場で、明治四十四年(1911年)3月1日に竣工しました。初代のビルは荘厳なルネサンス様式でしたが、関東大震災で火災により外郭を残して焼け落ちました。その後修復され、昭和三十九年(1964年)まで演劇場や映画館として使用されました。現在の建物は昭和四十一年(1966年)9月29日に落成し、最上階の9階には出光佐三による古美術コレクションを展示する出光美術館が置かれています。かっては日本レコード大賞の発表会も行われましたが、現在は年間10作品ほどの演目が上演されています。上演予定のポスターには人気俳優がずらりと並び、演劇好きの方にはたまりません。



馬場先門交差点の角に、昭和九年に竣工したギリシャ・ローマ風の重厚なクラシック様式の明治生命館の建物があります。こちらも旧第一生命保険本館と同様にGHQが接収し,アメリカ極東空軍司令部が置かれました。建物全面のギリシャ風柱が印象的で、柱頭部はコリント式の装飾が施されています。



和田倉門交差点には東京駅丸の内口から皇居に延びる行幸通りが貫いています。行幸通りは、皇室行事や外国大使の馬車列などに利用される由緒ある道路です。秋には和田倉門から先の皇居区間で見事なイチョウ並木の紅葉を見せます。今の季節は葉を落とした寂しい姿を見せていますが。



和田倉門交差点角に東京海上日動の本館ビルがあり、その西広場に奇妙な銅像が置かれています。よく見ますと、2枚の石の板が狭い間隔で並んだ上の台座に銅像が置かれています。これは「くぐりえびす」という彫刻だそうで、像は右肩に釣竿・左腕に鯛を抱えて古来から大漁を祝う海の神として敬われてきた七福神の一神の恵比寿様です。石版の隙間を潜り抜けると幸せになれるという言い伝えがあるそうです。隙間の幅は28.5cmなので、細身の人が横向きになってようやく通れるほどです。私は試しませんでしたが、お腹が引っかかってレスキュー隊のお世話になること間違いなしです。



東京海上日動ビルに隣接して、2020年11月に竣工した全銀協(全国銀行協会)の真新しいビルが建っています。全銀協は、日本国内で活動している銀行を直接の会員とする組織で、銀行業の発展のためにさまざまな活動をしている組織です。エントランス横に何やらプレートが置かれています。

東京銀行集会所(東京銀行協会ビルヂング)の原位置と部材保存について

東京銀行集会所は、大正五年(1916年)に竣工した横河工務所設計によるイギリスのヴィクトリアン・カントリーハウスのイメージをもつネオ・ルネッサンス・スタイルの建築(地下1階・地上3階、レンガ造)でした。平成五年(1993年)には、外壁と内装の一部を保存しつつ東京銀行協会ビルヂングとして建替えられました。その際、西面外観は一部に当初部材を再利用しながら再現され、南面外観は西面と調和するデザインがなされていました。今回の建替え(2020年竣工)においては、当初の東京銀行集会所の原位置を外構舗装に示すとともに、西面2階のバルコニー手摺に使われていた石材と東京銀行協会ビルヂングの濃赤色タイルの一部を保存展示しました。

Tokyo Bankers' Association (Tokyo Ginko Shukaisho) was a Neo-Renaissance style building (1st basement / 3rd floor, brick construction) with the image of a Victorian Country House in the United Kingdom designed by Yokogawa Engineering Office completed in 1916 (Taisho 5). In 1993 (Heisei 5), it was rebuilt as a building of the Tokyo Bankers Association Building. At that time, the exterior of the west surface was partially reproduced by reusing the original materials, and the exterior of the south surface was designed in harmony with the west surface. In this rebuilding (completed in 2020), the original location of the Tokyo Bankers' Association (Tokyo Ginko Shukaisho) was shown on the exterior pavement, and we saved and exhibited a part of the stone used for the handrail on the second floor of the west side and part of the dark red tiles of the Tokyo Bankers Association Building.




案内板には写真が添えられています。平成五年(1993年)に建て替えられた際には初代の東京銀行集会所の建物の外観は維持されていましたが、現在のビルには何の痕跡も残されていませんね。


左側の写真が東京銀行集会所、右側の写真が東京銀行協会ビルヂングです。


大手町交差点の角に、日本歯科大学の創立100周年を記念して2006年に建てられた記念碑があります。日本歯科大学は、東京歯科大学・日本大学と並んで歯学部御三家といわれています。世界最大の歯科大学って、本当かな?

日本歯科大学発祥の地

中原市五郎は、この地に、明治四十年六月(1907年)、公立私立歯科医学校指定規則に基づく、わが国最初の歯科医学校として、私立共立歯科医学校を創立した。わが国の歯科医療は黎明期にあり、「学・技両善にして人格高尚なる歯科医師の養成」を建学の目的とした。国民の生命と健康を守るため、歯・顎・口腔の医学を教導し、数多くの優れた歯科医師を輩出し、歯科医療の発展と患者の福祉に尽力した。明治四十二年に現在の千代田区富士見一丁目に移転し、日本歯科医学専門学校を経て昭和二十二年に日本歯科大学に昇格した。日本歯科大学は、私学として「自主独立」という建学の精神を継承し、生命歯学部と新潟生命歯学部の二学部をはじめ、大学院二、附属病院三、短期大学二、博物館一を有する世界最大の歯科大学となった。




神田橋を渡った右手に石碑と案内板があります。



石碑は、かってこの辺りにあった物揚場を後生に伝えるために設置されたもののようです。

物揚場跡

日本橋川水運の物揚場標石ここに出土す 往時をしのぶよすがとして後世に伝える




町名由来板に町の歴史が書かれています。

千代田区町名由来板 内神田一丁目

江戸時代、神田橋のたもとのこの界隈には、荷揚げ場がありました。徳川家康は江戸に入るとすぐに江戸城の築城と町づくりを始め、城を囲む御堀(現・日本橋川)はそのための建築資材などを運ぶ水路として活用されました。古い地図を見ると、神田橋付近に「かしふねあり」と記され、ここが水運の拠点だったことがわかります。神田橋は江戸城外郭門のひとつで、上野寛永寺や日光東照宮への御成道(将軍の参詣経路)となっていました。このような要所であったため、ここには明治のころまで建造物は何もありませんでした。明治初期の地図には交番と電話があるだけです。明治五年(1872年)、いったん美土代町となりますが、空き地の状態は第二次世界大戦後まで続きました。そして昭和四十一年(1966年)、内神田一丁目に編入されました。昭和五十八年(1983年)、神田橋土木詰所の敷地となっていたこの場所に、内神田住宅が完成すると九十世帯が住むようになり、平成五年(1993年)、千代田区のもっとも新しい町会として、内神田住宅町会が誕生しました。さらに平成十六年(2004年)、町会名は神田橋町会と変わりました。

Uchi-kanda 1-chome

In the Edo Period, this neighborhood near Kanda-bashi Bridge was the site of a loading dock, and was used for the transportation of building materials used for Edo Castle. This area used to be a traffic crossroads, and there were no buildings up until the Meij Period. In 1983, with the completion of a housing project, it became the youngest town association in Chiyoda.




日比谷通りは神田橋で終点となり、そこから先は本郷通りとなります。内神田一丁目の先の狭い町域が美土代町です。美土代町はもとは神田橋から南北に細長く延びる町域でしたが、昭和四十一年の住居表示で大半が内神田一丁目の一部となったものの残地は旧町名のまま残り、現在も美土代町交差点北東側が神田美土代町の町名になっています。字面も読みも美しいこの町名は、古くこの付近一帯に神社の神田(しんでん=みとしろ)があったと伝えられることに由来するもので、神田の地名がそもそもそうした伝承に由来することから、神田美土代町という現在の町名表記は同義語をふたつ重ねているという解釈にもなるようです。

千代田区町名由来板 美土代町

江戸時代、この地域一帯には、身分の高い武士たちの屋敷が立ち並んでいました。特に元禄年間(1688年〜1704年)には、五代将軍徳川綱吉の側近として活躍した柳沢吉保が屋敷を構えていました。そのほか、老中や若年寄を輩出した由緒正しい武家の屋敷が軒を連ねていたこともはっきりしています。一方、この界隈には武家屋敷だけでなく、商人や職人が住む町屋もありました。なかには、商売上手なアイデアマンも少なくなかったようで、湯女を置くことで大繁盛した「丹前風呂」が始まったのも、この周辺からだったのです。江戸時代の美土代町周辺は重要な武家屋敷地であると同時に、新たな風俗・流行を生み出すこともできる、懐の深い町だったといえるでしょう。そんな町に美土代という名がついたのは明治五年(1872年)のことです。かつて、この周辺に伊勢神宮にささげるための稲(初穂)を育てる水田「みとしろ」があった故事にちなんで生まれた名前でした。ちなみに、神田という名前も同じ故事に従ってつけられたとされています。明治期の美土代町は、一丁目〜四丁目まである広大な町域をもっていましたが、時代が下るにしたがって、その範囲を縮小していきます。現在の千代田区神田美土代町が誕生したのは昭和二十二年(1947年)のことでした。

MITOSHIROCHO

During the Edo Period, this neighborhood was home to many high-ranking samurai. The name, which was given in 1872, came from the fact that in the nearby area was a rice paddy (mitoshiro). The first ears of rice grown here every year were offered to the Ise Shrine, Actually, it is said that the name for the Kanda ("god's paddy") area itself came from the same origin.




小川町交差点を右折して靖国通りに入ります。歩道の脇に町会が作成したと思われる町名案内板が立っています。

小川町一丁目(南部)

江戸時代、小川町は神田の西半分を占める広大な地域をさす俗称でした。古くは、鷹狩に使う鷹の飼育を行う鷹匠が住んでいたことから、元鷹匠町と呼ばれていましたが、元禄六年(1693年)に小川町と改称されました。五代将軍綱吉が「生類憐みの令」を施行、鷹狩を禁止したため改称されたという話も伝わっています。小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからともいわれています。江戸城を築いた室町時代の武将太田道灌はその風景を「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹をあらひこそすれ」と詠んでいます。安政三年(1856年)の絵図にも見られるとおり、この界隈には旗本で寄合の近藤左京、同じく旗本で寄合の津田英次郎らの屋敷がありました。慶応三年(1867年)のころには、武家地のほかに雉子町や四軒町といった町が見られ、職人の町として移り変わっていきました。明治五年(1872年)、雉子町は周辺の武家地を編入し、西側の四軒町は美土代町四丁目となります。雉子町には、俳人正岡子規が勤めていた日本新聞社のほか、書店や印刷所、銭湯などがありました。美土代町四丁目には、新聞雑誌取次所や産婦診療院、踊指南所などがありました。大正十二年(1923年)の関東大震災後、震災復興都市計画により、町の様子や町名も改変します。昭和八年(1933年)、ここに小川町一丁目が誕生しました。さらに昭和二十二年(1947年)、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名も神田小川町一丁目となりました。

Ogawamachi 1-chome(Southern district)

In the Edo Period, the name Ogawamachi was used to indicate a huge area comprising the western side of Kanda. The name came from a body of water in the area, which was featured in a poem written by a famous warlord. High-ranking samurai once lived here, and in the late Edo Period it became a town of craftsmen.




須田町交差点の手前に旧神田市場の案内板が立っています。私は神田青果市場は秋葉原駅の北方にあったのが最初だと思っていたのですが、江戸時代から明治・大正年間までは神田川沿岸のこの地に青果市場があったんですね。千住の青物市場も隅田川沿岸にあったし、東京の河川は物流の要だったようです。

神田市場(神田須田町一丁目)

中世の神田川右岸は、水田が多い農村地帯だったようです。幕府が編集した江戸の地誌である「御府内備考」には、町が整備される前、この周辺が須田村と呼ばれていたという記述があります。江戸初期の慶長年間(1596年〜1615年)にも、この界隈を中心に「神田青物市場」の起源とされる野菜市が開かれたこともわかっています。水運を利用して神田川沿いの河岸や鎌倉河岸から荷揚げされた青物が、一万五千坪(約4万9500u)におよぶ広大なこの青物市場で商われていました。当時の市場では、店が店員の住まいを兼ねていました。つまり、現在のわたしたちが考える市場と違い、当時は市場の中に町があるといったイメージでした。巨大な市場でしたので、中にある町も須田町だけでなく、多町・佐柄木町・通新石町・連雀町なども市場の一部をかたちづくっていたのです。そして、これら五町の表通りには、野菜や果物を商う八百屋が軒を連ね、連日のように威勢のいい商いが行われていたということです。青物市場の別名である「やっちゃ場」は、そんな威勢のいい競りのときのかけ声から生まれた言葉なのです。江戸、そして東京の食生活を支え続けたこの市場は、昭和三年(1928年)には秋葉原西北に、平成二年(1990年)には大田区へと移転しました。それでも、現在の須田町町内には、東京都の歴史的建造物に指定されるような老舗商店が数多く営業しています。須田町は、江戸からつづく活気あふれる商いの伝統が、いまだに息づく町なのです。現在の須田町中部町会は、この青果市場の中心であった連雀町と佐柄木町のそれぞれ一部が、関東大震災後の土地区画整理事業によって合併し、誕生しました。

Kanda-ichiba (Kanda-Sudacho 1-chome)

In the Middle Ages, this area along the right bank of the Kanda River was an agricultural village with many paddy fields, and was called Suta Village. It was the original site of a large and bustling Kanda Vegetable Market, which sustained the people of Edo and Tokyo. Though the market moved out in 1928, there are still many long-established shops, still in business, that have been designated as historical buildings.




案内板の隣りに、わりと新しい石の台座の上に「神田青果市場発祥の地」と彫られた古い石柱が立っています。碑文の文字は浮き出しているように彫られていて、結構読み取りやすくなっています。

旧 神田青果市場の由来

この市場は慶長年間に今の須田町附近、当時は八辻ヶ原と称していたこの地一帯において発祥したものである。年を追って益々盛大となり徳川幕府の御用市場として駒込、千住と並び江戸三代市場の随一であった。ためにこの市場には他市場で見られない優秀なものが豊富に入荷した。そして上総房州方面の荷は舟で龍閑町河岸へ、葛西、砂村方面のものは今の柳原稲荷河岸から水揚げされた。当時の記録によるとこの市場の若い衆達が白装束に身を固めてかけ声も勇ましく御用の制札を上に青物満載の大八車を引いて徳川幕府賄所青物御所を指してかけて行く姿は実に「いなせ」なものがあったと云う。巷間江戸の華といわれた、いわゆる神田っ子なる勇肌と有名な神田祭はこの神田市場にそのことばの源を発しているものといわれた。こうして繁栄をきわめたこの市場は江戸時代から明治、大正、昭和へと漸次その地域を拡大してこの地を中心に多町二丁目、通り新石町、連雀町、佐柄木町、雉子町、須田町にわたる一帯のものとなりその坪数は数千坪に及んだ。この間大正12年9月関東大震災にあって市場は全滅したが直ちに復興し東洋一の大市場とうたわれた。惜しい哉この由緒ある大市場も時代の変遷と共にこの地に止まるととができず、昭和3年12月1日を期して現市場である神田山元町東京都中央卸売市場神田分場へと移転した。当時数百軒に及んだ問屋組合頭取は西村吉兵衛氏であった。風雪幾百年永い発展への歴史を秘めて江戸以来の名物旧神田青果市場は地上から永遠にその姿を消した。父祖の代からこの愛する市場で生きて来たわれわれは神田市場がいつまでもなつかしい。あたかも生れ故郷のように、尽きない名残りをこの記念碑に打ち込んで旧市場の跡を偲ぶものとしたい。




須田町交差点の先で中央線と山手線・京浜東北線の高架を抜け、昭和通りと交差します。その先に三角形の広場があり、その由来を記した石碑が建っています。

岩本町馬の水飲み広場

この場所は、江戸時代より房総や東北方面からの物資輸送(米・野菜・魚介類・材木等)のために荷車を引く牛馬の水飲み場として、また、街道を往来する人々の休息の場として、重要な役割を果たしてきました。




浅草橋交差点の手前に「おさかな本舗 たいこ茶屋」のお店があります。茶屋といっても、お茶を飲むところではありません。お刺身食べ放題の行列の絶えないランチバイキングで有名を博した居酒屋さんです。私もよく通いましたが、コロナ渦で営業自粛が続き、一時期は大変だったそうです。現在はランチバイキングで入店するには整理券を事前に入手しておかないといけないらしく、遠方からのお客さんは入りにくくなりました。夜は居酒屋になりますが、ドラマ半沢直樹を始め、数多くのテレビのロケで使われてきました。ディナータイムにも行ってみたいものです。



靖国通りは浅草橋交差点で終点となり、そこから先は京葉道路になります。隅田川に架かる両国橋を渡ります。両国橋は江戸時代に隅田川で2番目に架けられた橋で、その当時は武蔵国と下総国のふたつの国をつなぐ橋だったので、いつしか「両国橋」と呼ばれるようになりました。人が集まる場所でしたので、両国の花火が打ち上げられるようになったといわれています。両国橋の親柱には人工衛星の形をした大きな石球が置かれています。これは地球儀をイメージして作られたのだそうです。



両国橋を渡った先の右手に両国橋児童遊園という名前の小さな公園があり、案内板や石碑が置かれています。奥の巨大な石碑には「表忠碑」と彫られ、日露戦争での戦没者を奉った慰霊碑です。満州軍総司令官大山巌元帥陸軍大将の筆になるものです。左側の石碑に刻まれている「日の恩や 忽ちくだく 厚氷」は、忠臣蔵四十七義士のひとりであり、討ち入りの日を決定する重要な情報を入手したと言われる大高源五の句碑です。大高源五は俳人でお茶も嗜むことから、吉良上野介義央の在宅の日の情報を上野介のお茶の師匠でもある山田宗偏から入手しました。その際に詠んだとされる辞世の句と言われています。中央の石碑には両国橋の由来が書かれています。

両国橋

両国橋の名は、武蔵と下総との二国を結ぶ橋であるところからこう呼ばれたが、正式の名は、ただ”大橋”であった。しかし新大橋なども造られたため、両国橋が正式の名となった。江戸一の大火である明暦の振袖火事(1657年)では、橋がなくて逃げられず多数の死者が出た。そのため、大火のあと、この橋が架けられた。回向院は、その人々を弔うために建てられた。のちに勧進相撲がもよおされることとなったのである。この橋が架かったため、本所・深川が江戸の新市街として発展することとなった。橋詰の両側は、賑やかな遊び場としても開けた。幕末からは川開きの花火もあって、江戸の市民には喜ばれた。現在の橋は、昭和七年(1932年)に完成した。




右端の案内板には両国橋を架橋した際に川底に打ち込まれた「百本杭」について記してあります。土木機械のない時代、流れの急な河川に長い橋を架けるのは大変な工事だったことでしょう。

両国橋と百本杭

両国橋の風景を持徴づけるもののひとつに、百本抗があります。昭和五年(1930年)に荒川放水路が完成するまで、隅田川には荒川・中川・綾瀬川が合流していました。そのため隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して、川岸が浸食されました。両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には、数多くの杭が打たれました。水中に打ち込んだ抗の抵抗で流れを和らげ、川岸を保護するためです。夥しい数の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになり、その光景は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになりました。江戸時代の歌舞伎では、多くの作品の重要な場面に「両国百本抗の場」が登場します。「十六夜清心」でも、冒頭に「稲瀬川百本杭の場」がおかれています。稲瀬川は鎌倉を流れる川の名ですが、歌舞伎の中では隅田川に見立てられることがあります。観客は「百本杭」という言葉から、この場面が実は隅田川を舞台としていることに気づくのです。百本杭はそれほど人々に知られた場所だったのです。また、明治十七年(1884年)に陸軍参謀本部が作成した地図には、両国橋北側の川沿いに細かく点が打たれ、それが百本抗を示しています。明治三十五年(1902年)に幸田露伴は「水の東京」を発表し、「百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出でたるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本抗の辺はまた特に深し。ここにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり」と富士見の渡の南側から見られた様子を綴っています。このほか、本所向島に親しんだ多くの文人が、百本杭と往時の記憶について書き留めています。しかし、明治時代末期から始められた護岸工事で殆どの抗は抜かれ、百本杭と隅田川がおりなす風情は今では見られなくなりました。




葛飾北斎は、生涯の殆どを墨田区で過ごしました。といっても、一箇所に定住していたわけではなく、生涯に93回も転居したそうで、一日に3回引っ越したこともあるといわれています。北斎が転居を繰り返したのは、北斎が絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたからです。最終的に、93回目の引っ越しで以前暮らしていた借家に入居した際、部屋が引き払ったときとなんら変わらず散らかったままであったため、これを境に転居生活はやめにしたとのことです。私はまだ20回しか引っ越しをしていませんが。。。案内板に北斎が描いた両国橋近辺の浮世絵の解説が記してあります。

すみだが誇る世界の絵師 葛飾北斎 が描いた風景をたどろう
両国納涼 一の橋弁天 −絵本隅田川両岸一覧−

狂歌絵本「隅田川両岸一覧」三巻のうち、中巻の一枚です。納涼の人々で賑わう、昼間の両国橋の様子が描かれています。手前は当時、江戸屈指の盛り場であった両国広小路であり、掛け小屋や茶屋などが並んでいるのがわかります。絵本ならではの横長の構図が、この絵の大きな特徴と言えるでしょう。真ん中の上方に見える小さい橋が、今の竪川(両国一丁目と千歳一丁目)に架かる一之橋。森のあたりが一の橋弁天で、現在の江島杉山神社です。右の三角の建物は幕府の御船蔵です。

Trace the footprints of KATSUSHIKA HOKUSAI, a world class painter of SUMIDA.
Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River: Ryogoku Noryo Ichinohashi Benten

One of the prints from the second of the three-volume comic tanka picture books, Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River. This print is a depiction of a crowd of people enjoying the evening coolness on Ryogoku Bridge before it gets dark. At the forefront is the Ryogoku Main Street, a prominent amusement area during the Edo Era, and makeshift theaters and tea houses, etc., can be seen side by side. The main feature of this print is probably its size, which is wider than it is high as is typical with picture books. The small bridge that can be seen higher up in the center is the Ichinohashi Bridge, which spans the present-day Tatekawa River (Ryogoku 1-chome and Chitose 1-chome). The area around the forest is Ichinohashi Benten, which is currently the Ejima Sugiyama Shrine. The triangular building on the right is the Shogun's boathouse.




公園の隣のビルに、「山くじら ももんじや」の看板が掛かっています。「山くじら」とは、猪の肉の隠語です。肉食が禁じられていた江戸時代後期、猪の肉を食べさせる店では「山くじら」という看板を出し、動物の肉を大っぴらに食べさせていました。また、ももんじや(屋)とは、江戸時代の江戸近郊農村において、農民が鉄砲などで捕獲した農害獣の猪や鹿を利根川を利用して江戸へ運び、その他、犬や狼に狐・猿・鶏・牛・馬などの肉を食べさせたり、売っていた店のことをいいます。格子越しに中を覗いてみますと、猪君が鉤に逆さ吊りされています。お店の飾りのようにも見えますが、フサフサとした毛皮を見ると本物のようです。衛生上問題ないのでしょうか?



お店の前に墨田区の案内板が立っています。

江戸の味 ももんじや (Momonjiya)

享保三年(1718年)創業の猪料理店です。「ももんじ」とは「百獣」のことで、四つ足の動物の肉を扱う店を「ももんじ屋」と総称しました。現在は、この「ももんじや」を店名にしていますが、正式には「ももんじやの豊田屋」です。しかし、屋号の豊田屋はどこにも掲げられていません。もとは漢方の薬屋でしたが、薬の一種として出した猪が人気商品となり、料理店へ転身しました。猪の肉は、冷え性や疲労回復に効果があり、肉食が禁じられた江戸時代でも「山くじら」と称して食べられていました。猪は丹波や鈴鹿などから仕入れたもので、味噌仕立てのすき焼にします。その他、鹿刺し、狸汁など、他ではめったに味わえない珍しい肉料理が味わえます。




両国二丁目交差点に面して回向院の入口があります。お寺の由緒書きには、江戸時代の雰囲気を伝える史蹟記念碑墓地があると書かれています。

諸宗山 回向院

明暦三年(1657年)、江戸大火(振袖火事)に依る死者十万八千余人を弔うために建立された。

安政大地震(1855年)の死者二万五千人余を初めとして、江戸府内の無縁佛・天災地変に因る死者も埋葬され、近くは大正十二年の関東大地震の死者十万余人の分骨も納骨堂に安置されています。

江戸時代の雰囲気を伝える史蹟記念碑墓地がある
  明暦三年 大火石塔
  安政二年 大地震石塔
  鼠小僧次郎吉墓
  水子塚 (寛政五年)松平定信建立
  猫に小判の話 猫塚
  勧進相撲発祥の地記念 力塚
  呼び出・定火消墓・木遣塚
  諸動物供養塔
  竹本義太夫墓
  岩瀬京傳・京山・加藤千陰墓




回向院の前に墨田区の案内板が立っています。

江戸の町(Eko-in Temple) 回向院

明暦三年(1657年)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は十万人以上、未曾有の大惨事となりました。遺体の多くが身元不明、引取り手のない有様でした。そこで四代将軍徳川家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。有縁・無縁・人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震・関東大震災・東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者・海難事故による溺死者・遊女・水子・刑死者・諸動物など、ありとあらゆる生命が理葬供養されています。




回向院の境内には、かって大鉄傘と呼ばれた国技館が建っていました。

国技館(大鉄傘)跡

相撲は、もともと神事であり、礼儀作法が重んじられてきました。現代の大相撲は、江戸時代の勧進相撲を始まりとします。回向院境内にある「回向院相撲記」には、天保四年(1833年)から国技館に開催場所が移されるまでの七十六年間、相撲興行本場所の地であった由来が記されています。国技館は、この回向院の境内に明治四十二年(1909年)に建設されました。三十二本の柱をドーム状に集めた鉄骨の建物は大鉄傘とも呼ばれ、一万三千人収容の当時最大規模の競技場でした。日本銀行本店や東京駅の設計で著名な辰野金吾が設計を監修しました。相撲興行は、戦後もGHQに接収されていた国技館で行われました。しかし、メモリアルホールと改称された後は本場所の開催が許されず、明治神宮外苑や浜町公園の仮設国技館での実施を経て、台東区に新設された蔵前国技館における興行に至ります。一方、接収解除後のメモリアルホールは、日本大学講堂となりますが、老老朽化のため昭和五十八年(1983年)に解体されました。そして同六十年(1985年)、地元の誘致運動が実を結び、JR両国駅北側の貨物操車場跡に新国技館が完成、「相撲の町両国」が復活しました。大鉄傘跡地は現在複合商業施設となっていますが、中庭にはタイルの模様で土俵の位置が示されています。




同じような内容ですが、もうひとつの案内板が立っています。ビルの中庭には、タイルの模様で大鉄傘時代に使われていた土俵の跡が描かれています。思ったよりも土俵は広いのですね。

大相撲(Site of former Kokugikan Arena)
旧国技館跡

旧国技館は、天保四年(1833年)から回向院で相撲興行が行われていたことから、明治四十二年(1909年)に、その境内に建設されました。建設費はニ十八万円(現在の価値では七十五億円程度)です。ドーム型屋根の洋風建築で、収容人数は一万三千人でした。開館当時は両国元町常設館という名前でしたが、翌年から国技館という呼び方が定着し、大鉄傘と愛称されました。しかし、東京大空襲まで、三度の火災に見舞われるなど御難続きで、戦後は連駐軍に接収されました。返還後は日大講堂として利用されていましたが、昭和五十八年(1983年)に解体されました。左手奥の両国シティコアビル中庭の円形は、当時の土俵の位置を示しています。




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