- 都電25系統跡コース(2)
- コース 踏破記
- <<都電25系統跡コース(1)の続きです>>
本所松坂町といえば、忠臣蔵ですかね。歩道脇に古びた石柱が建っています。裏面には何やら書かれていますが読み取れません。播州赤穂の四十七士が主君の無念を晴らす為にここにあった吉良邸に討ち入ったのは五代将軍綱吉の時代でした。松坂町という名は吉良家の所領が松坂だったことに由来するそうです。その本所松坂町の地名が無くなることを惜しんで建てられた石碑とのことです。
吉良邸跡は現在本所松坂町公園になっています。都電25系統が通っていた京葉道路からは少し離れるのですけど、ついでに立寄ってみます。
吉良邸跡まで約百メートル
ここから約百メートル先になまこ壁に囲まれた東京都指定史跡「吉良邸跡」(本所松坂町公園)があります。元禄十五年(1702年)十二月十四日、赤穂四十七士が討ち入ったところで、「忠臣蔵」で知られるところです。
本所松坂町公園の前には立派な板碑が建っています。「赤穂義士遺蹟 吉良邸跡」と読めます。案内板には公園の由来が書かれています。
本所松坂町公園由来
この公園は「忠臣蔵」で広く知られる、赤穂義士の討入があった、吉良上野介義央の上屋敷跡です。その昔、吉良邸は松坂町一・二丁目(現、両国二・三丁目)のうち約8,400平方メートルを占める広大な屋敷でしたが、年を経て一般民家が建ちならび、いまではそのおもかげもありません。昭和九年三月地元町会の有志が、遺跡を後世に伝えようと、旧邸跡の一画を購入し史蹟公園として、東京市に寄付したもので、昭和二十五年九月墨田区に移管されました。周囲の石壁は、江戸時代における高家の格式をあらわす海鼠壁長屋門を模した造りで、園内には、元吉良邸にあった著名な井戸や稲荷社などの遺蹟があり当時をしのばせております。また内部の壁面には義士関係の記録や絵画が銅板で展示されております。
公園内には、葛飾北斎が描いた「新板浮絵忠臣蔵 第十一段目」の絵と共に、解説文が記されています。
新板浮絵忠臣蔵 第十一段目
「元禄赤穂事件」を描いたシリーズの一枚です。当時の人形浄瑠璃や歌舞伎の演目にも盛んに取り入れられた「仮名手本忠臣蔵」の大詰め、吉良邸への赤穂浪土討ち入りの場面が浮絵の様式で描かれており、軒先や建物のラインが奥行を感じさせます。赤穂浪士に囲まれて孤軍奮闘しているのは、吉良側の剣豪・小林平八郎と思われます。この夜吉良上野介を護って討ち死にした小林平八郎は、自分の曾祖父であると、北斎自ら語っていたそうです。
A print from the series depicting the Genroku Ako Incident. This uki-e print depicts the climax of Kanadehon Chushingura, which was performed frequently in puppet shows and Kabuki at that time, showing the forty-seven Ronin raiding the Kira Residence, and the lines of the building's eaves and the building itself express a deep perspective. The person putting up a solitary fight against the forty-seven Ronin is Heihachiro Kobayashi, one of the Kira master swordsmen. It is said that Hokusai used to speak of Heihachiro Kobayashi, a man who bravely died protecting Kozukenosuke Kira that night, was his own grandfather.
討ち入り後の引き上げの様子を描いた絵です。
この錦絵は、討入りをとげた義士団の引きあげを描いたもので、表門組が左手の一団大星由良之助(大石内蔵助)裏門組が右手の一団大星力弥(大石主税)の一隊である。これから、義士団は両国橋のたもとで奉行・服部彦七の役目上の渡橋拒否にあい、両国橋は渡らず永代橋を渡っていったといいます。
園内には吉良上野介の座像が置かれています。結構穏やかな表情をしていますね。
吉良上野介義央公座像建立の経緯
平成二十一年六月、吉良邸跡保存会の会合で、吉良上野介像を製作、園内に設置しようとの提案があり、当両国三丁目町会長市川博保氏、吉良邸跡保存会長山田繁男氏及び両国三丁目町会顧問岡崎安宏氏の三者で検討、その結果、時代の推移と共に吉良公への歴史的認識とその評価が変わってきたこの時期に、大変に意義あることと考え、製作を決定する。岡崎安宏氏の知人で横浜在住の造形作家米山隆氏に製作を依頼し、製作に当っては岡崎安宏氏が監修、企画協力を山田繁男氏が担当する。愛知県吉良町に吉良家の菩提寺華蔵寺があり、1690年頃吉良上野介五十歳の時、自らが造らせたと言われている寄木造り(檜材)の座像が現存している。姿・形についてはこれをモデルに、そのほかは愛知県歴史編纂委員会の調査資料を参考にする。吉良上野介の位は従四位上なので束帯は黒、後襟袍の下に緑・藍・紅・白の襟があらわされている。表襟は白色で、左手に太刀、右手に朱塗り平板の笏(しゃく)を持ち正面で足裏を合わせて座す。頭部に巾子冠を被り、頭髪は黒一部白髪である。据え付けた台座は御影石を使用する。本像制作に当たって、両国三丁目町会・吉良邸跡保存会・東京両国ライオンズクラブが資金提供を行い、平成二十ニ年十二月十二日に墨田区へ寄贈する。また、本像の上屋については、愛知県吉良町(現西尾市吉良町)が、吉良上野介義央公座像建立に感銘をうけ建設し、様式については、園内の修景に配慮した銅葺屋根、無垢の木材を用いた温かみのある設えとする。平成二十三年三月に吉良邸跡保存会を通じて墨田区へ寄贈する。
首洗いの井戸もありますね。雪が降っていたとの話もありますので、首を洗った義士もさぞ冷たかったことでしょう。
忠臣蔵(Site of former residence of lord Kira)
吉良邸跡
吉良上野介義央の屋敷は広大で、東西七十三間・南北三十五間で、面積は二千五百五十坪(約8400平方メートル)だったとされています。吉良上野介が隠居したのは元禄十四年(1701年)三月の刃傷事件の数ヵ月後で、幕府は呉服橋門内にあった吉良家の屋敷を召し上げ、代わりにこの本所ニツ目に屋敷を与えています。現在、吉良邸跡として残されている本所松坂町公園は、当時の八十六分の一の大きさに過ぎません。この公園内には、吉良上野介座像、邱内見取り図、土地寄贈者リストなどの他、吉良上野介を祀った稲荷神社が残されています。
本所松坂町公園から京葉道路に戻る途中に、時津風部屋の建物があります。両国には国技館があり、この辺りには相撲部屋が集まっています。建物の前に案内板が立っています。「双葉山道場」の看板には気がつきませんでした。
相撲部屋(Tokitsukaze Stable)
時津風部屋(時津風一門)
師匠は、十六代・時津風正博(元前頭・時津海)。昭和十七年(1942年)、当時現役であった第三十五代横網・双葉山定次が、その実績を評価され二枚鑑札の形で現役力士のまま弟子の育成を許され、「双葉山相撲道場」を開いたのが、現在の時津風部屋創設につながっています。幕内最高優勝十二回(内、全勝八回)、いまだに破られない歴代最高記録の六十九連勝など、輝かしい成績を残した双葉山は、太平洋戦争終戦直後の昭和二十年(1945年)十一月場所後に引退、十二代・時津風を襲名、双葉山道場の名を時津風部屋に変更しました。二葉山道場の看板は、現在も掲げられています。十二代・時津風は、昭和四十三年(1968年)十二月十六日、満五十六歳で死去するまでの間、約十一年間にわたり、第三代相撲協会理事長を務めるとともに、一横綱(鏡里・・・十三代・時津風)、三大関(大内山・北葉山・豊山・・・十四代・時津風・(?)第八代相撲協会理事長)をはじめ、多くのカ士を育成しました。
京葉道路に面したビルの前に、伊藤宗印屋敷跡の案内板が立っています。両国は相撲だけでなく、将棋も盛んだったんですね。
江戸の町(Site of former residence of Ito So-in)
伊藤宗印屋敷跡
明治十二年(1879年)に十一世名人を襲位した八代伊藤宗印がここに屋敷を構えていました。将棋でいう名人とは、将棋指しの家元の第一人者が名乗った称号です。江戸時代には大橋家本家・大橋家分家・伊藤家の三家が持ち回りで世襲していました。三家ともはじめは本所に屋敷を構えましたが、間もなく転居し、明治に入って宗印だけが戻ってきました。宗印はここで棋士の育成を始めます。後の名人関根金次郎もこの屋敷で腕を磨きました。さらにその関根に弟子入りしたのが本所生まれの名人木村義雄です。木村はこの屋敷でめきめきと頭角を現わし、現在の将棋の隆盛を築き上げました。本法寺(横川1−12−12)にある墓碑は駒形をしたものでしたが、戦災により破損してしまいました。
都立両国高校の前に国産マッチ発祥の地の石碑が置かれています。日本で初めてマッチを生産した新燧社の所在地を記念する石碑で、新燧社は明治九年(1876年)に本所柳原町(現在の墨田区江東橋)に設立されました。碑文にあります「SAKERHET TANDSTICKOR」とは、スウエーデン語で「安全爪楊枝」という意味らしいです。何故スエーデンかといいますと、実はスウェーデンは世界一のマッチ大国なのです。最初に摩擦マッチを発明したのはイギリス人のジョン・ウォーカーでしたが、ちょっとした摩擦や低温度でも自然発火してしまうという問題がありました。1855年になってスエーデンで発火剤(箱側)と燃焼剤(軸側)を分離させたスウェーデン式安全マッチが発明されました。分離発火型の安全マッチは特許も取得され、これによってスエーデンが世界を席巻するマッチ大国になったのです。碑文を見てスエーデン語だと分かる人はいるのでしょうかね?ところで、両国高校附属中学校って、どういう形態なんでしょうか?大学の教育学部附属とは違って、都立の中高一貫校ということらしいです。附属中学は平成十八年(2006年)に開校し、中高一貫校に移行しました。中学受験においては都立中高一貫校の中でも高い難易度を維持していて、小石川・武蔵と共に「都立中御三家」と呼ばれているそうです。
錦糸町は東京の東部を代表する繁華街です(北部は赤羽、西部は八王子)。四つ目通りを挟んで、JR錦糸町駅ビルと娯楽の殿堂楽天地が並んでいます。楽天地は、昭和12年(1937年)に江東楽天地という名称で錦糸町駅前に開業しました。周辺の映画館を集め、遊戯施設の他、吉本興業と提携した江東花月劇場も誘致され、総合レジャー施設となりました。戦後はキャバレーや場外馬券売り場も設けられ、大人の娯楽施設として発展してきました。中年以降の年代には、天然温泉とボーリング場が記憶に残っているかもしれません。現在は、地下にスーパーの西友、残りのフロアは錦糸町パルコとなっています。温泉や映画館も健在です。
錦糸町駅前に「魚寅」という魚屋さんがあります。刺身・切り身・干物・練り製品に寿司と、魚なら何でも売られています。名物は店頭で販売されている鮪と蛸のぶつ切りです。品が良いのと値段が安いのとで、ぶつ切りコーナーには常に行列ができる盛況ぶりです。東京スカイツリーのソラマチにも出店しています。
私は行ったことはありませんが、2階にはお寿司割烹があるみたいです。お値段はそこそこするみたいですけど、一度は三崎港直送の鮪を味わってみたいものです。
横十間川に面して巨大な箱形の建物があります。城東地区の医療の拠点である都立墨東病院です。昭和三十六年(1961年)に設立され、現在は765病床数の規模があります。尾身茂新型コロナウイルス感染症対策分科会長が研修医として勤務したことがあるそうです。
亀戸駅の手前に、京葉道路を高架で横断する鉄道があります。JR東日本が運行する総武本線の越中島貨物支線で、越中島貨物駅と小岩駅とを結んでいます。現在も運行されているとのことですが、私は列車が走っているところを一度も見たことがありません。
亀戸駅先の水神森交差点から南方向に緑道が通っています。かって都電29系統と都電38系統が走っていた線路跡に造られた緑道です。緑道の両側には植樹がなされ、お散歩やひとときの憩いに活用されています。緑道の東側にはサンストリート亀戸という複合商業施設がありましたが、現在は再開発がなされ、プラウドタワー亀戸クロスという大規模なマンション群が建設中です(2022年1月時点では竣工済のようです)。敷地内には2022年4月末に「KAMEIDO CLOCK」という商業施設もできるとのことです。
ちなみに、「KAMEIDO CLOCK」のマスコットキャラクターは「カメクロちゃん」だそうです。亀戸の”時”を司る亀とのことで、甲羅は自在に変化する時計になっていて、亀戸の歴史をよく知っている上に、これからの未来についても日々考えているのだとか。ゆるキャラグランプリ大会に出場したらと思ったのですけど、残念ながら大会は2020年10月をもって終了したのだそうです。
この後もずんずん歩いて旧中川を越え、荒川西岸まで行ったのですけど、どうしても終点の西荒川電停の場所が分かりません。荒川に架かる小松川橋の上から眺めてもそれらしい場所が見つけられません。仕方なくその日は探すのを諦めて帰りました。帰宅後にネットで調べてみますと、都電25系統は京葉道路を小松川橋のところまで直進していたのではなく、その手前の亀戸九丁目交差点を右に折れて南下していたということが判明しました。更に、浅間神社の角を左折し、現在の首都高七号小松川線と平行するように専用軌道を走っていたのです。なので、翌日亀戸九丁目交差点から終点の西荒川電停まで歩き直しました。
亀戸九丁目交差点で右折し、その先で左折して亀戸浅間通りに入ります。専用軌道がどこから始まっていたのか分かりませんが、旧中川を渡る鉄橋は既に専用軌道だったようなので、浅間神社の少し先辺りかなと思います。
浅間神社の朱色の鳥居は印象的です。
亀戸浅間神社
亀戸浅間神社は、社伝によれば大永七年(1527年)に創建されました。祭神は木花咲耶比売命(このはなさくやひめのみこと)です。もともとこの辺りの地は高貝洲(こうがいす)と呼ばれていました。これは日本武尊が東征した時に海が荒れ狂ったため、弟橘媛が海に身を投じ、その際に身につけていた笄(こうがい:髪を掻き揚げて髷を形作る装飾的な結髪用具)が亀戸浅間神社のあるあたりに流れ着いたことによるものです。のちに景行天皇(第十二代と伝えられる)がその地に笄塚を建てたとされています。この笄塚の場所に富士塚が築かれ、江戸時代には多くの信仰を集めました(境内「亀戸の富士塚」文化財説明板を参照)。本殿は安政二年(1855年)の江戸大地震、大正十二年(1923年)の関東大震災で被災しました。現在の本殿は昭和初年に建立されたもので、平成十年(1998年)の大島・亀戸・小松川防災再開発事業にともなって、今の位置に移動しています。境内には亀戸の富士塚や享和元年(1801年)在銘の富士せんげん・亀戸天神・六阿みだ・あさくさ道道標(いずれも区指定有形民俗文化財)など救多くの文化財が残されています。また、かつて神社境内のそばを通っていた城東電気軌道の線路も残され、関東最大の茅の輪を作る(茅の輪くぐり)神事が年二回行われるなど、亀戸東部地域の歴史や民俗を伝える鎮守として、人々の信仰をあつめています。
富士せんげん道道標(みちどうひょう)は相当に年季の入った石柱ですね。
富士せんげん・亀戸天神・六阿みだ・あさくさ道
道標 享和元年在銘
この道標は、浅間神社・亀戸天神社・常光寺(六阿弥陀)・浅草へ至る道しるべです。享和元年(1801年)10月、良歓が願主となり、本所六ツ目の地蔵講中が建てました。竪川沿いの佐倉街道と、浅間神社に至る道との分岐点に、正面を東に向けて建っていたと推測されます。当時の絵図に見られるように、浅間神社から北西方向に道なりに進むと水神社に行き当たり、左手に折れると亀戸天神社へ、右手に折れると常光寺に至ります。浅草へは、常先寺から北十間川沿いの道をたどったものと思われます。道標は角柱型で、頂部は若干盛リ上がっています。正面の縁・両側面・背面はノミ切り仕上げで、一定の幅でノミ筋を残しています。正面中央は一段低く彫り、表面を砥石による磨き仕上げとして、銘を刻んでいます。道標は、浅間神社ほかへの江戸時代以来の古い参詣道を示すとともに、江東区域の名所を表示するものとしても貴重な石造物です。また、近代以降、道の改変が行われていることから、江戸時代以来の古道を確認するための手がかりを与えてくれる、地域の資料として重要なものてす。
境内には都電25系統の元となった城東電車の案内板も立っています。「今の江東デパート(旧白木屋)」とあるのは、錦糸町の丸井錦糸町店の場所辺りと思われます。
城東電車は
大正二年 城東電気軌道株式会社設立
大正六年 錦糸町・西荒川間開通
昭和十七年 市営となる
昭和十八年 都制施行とともに都電となる
昭和四十三年まで浅間神社前を走っていました。大正時代に作られたイギリス製のレールです。亀戸九丁目町会より寄贈されました。
柵の内側に置かれているのが大正時代に作られたイギリス製のレールでしょうか?現在のレールにある側面の窪みがないようなので、相当に重量があったのでしょう。
境内の隅に八基の供養塔が納められた地蔵堂があります。地蔵堂の前には長大な案内板が立っています。
竪川と六ツ目と地蔵尊
万治二年(1659年)江戸幕府は、本所奉行に、隅田川から旧中川への灌漑と排水のため開削工事を命じた。工事は隅田川と旧中川から打ち上げる狼火によって始められた。狼火は東西水路の標的として、延長4958m・川幅36m・水深1.2mの工事が進められた。この川は江戸城から東側を見て縦に流れる河川であるため、竪川と名付けられた。隅田川と旧中川を結ぶこの竪川に六つの橋がかけられた。一之橋・ニ之橋・三之橋・・・六之橋と名付けられ、これがその付近の地名やそこを通る道の名前ともなった。此の六つの橋は、本所と深川、亀戸と大島を結び、これらの地域の町並化に大きな役割を果たした。最も東にある亀戸九丁目にかかる六ツ目の橋のある一帯は「六ツ目」と呼ばれ、今でもお年寄り達は往時を懐かしみ「六ツ目」と呼んでいる。竪川に沿って北側に造られたこの道は、佐倉道(後に千葉街道)と云い、日本橋から竪川と旧中川の合流点、六ツ目から逆井の渡しを経て小岩・市川・船橋・佐倉に至り、江戸と下総(千葉県)を結ぶ交通路で、成田山から遠く鹿島・香取神宮への参拝の人々で賑った。逆井の渡しは亀戸村と逆井村(後に西小松川村)を結ぶ渡しで、渡し船は二艇あって一艇を亀戸村、一艇を逆井村持ちになっており、佐倉街道を往来する人を運んだ。明治十二年(1879年)両村の協力で木橋が架けられて渡しは廃止された。街道は明治の末まで重要な役割を果たしてきたが、大正に入り東京から千葉への道や橋が整備され、往来が減少していった。昭和十年(1935年)新千葉街道(現国道14号、京葉道路)の完成により、街道はますますさびれていった。街道沿いの商家の人達は、住み慣れた街道から新しい国道沿いに移り住む様になった。第二次大戦が激しくなった昭和十八年、戦火の延焼を防ぐため、重要な工場や学校の周囲と旧千業街道沿いの竪川に面した全ての家に対し強制疎開が命じられた。古い伝統と歴史のある川沿いの家は全て取り壊された。昭和二十年三月十日、B29の絶え間ない爆撃により、強制疎開も空しく江東一帯は火の海となり一夜にして焼け野原となった。戦争は多くの人命と財産を奪った。奇跡的に旧中川沿いの九丁目の一部と浅間神社の周辺は焼け残った。神社の社殿に立つと見渡す限りの焼け跡の果てに、古老の言い伝えの通り富士山が違く遥かに望めた。戦後、焼け跡は区画整理と道路の整備拡充のため、工事は急ピッチに進められた。この工事等によって旧街道の辻や町角、橋の袂に置かれていたと思われる如意観音像や赤子抱く地蔵尊、戦火を被った法華経供養塔含む八基の仏像は行くあてもなく浅間神社へ置き去られた。神社境内には六之橋の北詰に東向きに建てられ、逆井の渡しから来る人に道を示した道標(江戸時代、文化財)が社殿の左手の稲荷神社の鳥居の横に移し建てられている他、多くの文化財が残されている。江戸時代より、多くの人達から崇め親しまれてきた八基供養塔は、神社境内外の社務所のわきに並び置かれた。これら仏像は、戦後半世紀もの間かえりみられる事なく風雨に晒されていた。東京都の再開発計画地区に該当する浅間神社の移転に対応すべく、地元有志により平成二年崇敬会が結成された。長い間無造作に置かれていた八基の供養塔は、崇敬会の手により、新しく造られた地蔵堂に安置され、かってのこの地の地名の「六ツ目」をとって「六ツ目地藏」と名づけられた。それ以後毎月二十四日をお地蔵様の日と選び、今でも「六ツ目」と呼んでいる老人会・浅間寿会の人達によって「六ツ目地蔵」は守られている。毎月二十四日のお祭りの日には老人会の人達で天幕(テント)が張られ、お茶菓子を持ち寄り、お参りに来る人々へお茶をもてなしている。老人達はお地蔵様と古き昔を語りながら、やがてやって来る神社移転後の地蔵堂がどの様な地蔵堂に(建)て替えられるか話しているに違いない。
旧中川に「亀小橋」という真新しい橋が架かっています。橋の袂の歩道には、かっての都電25系統が旧中川の鉄橋を疾走した様子が描かれています。50年以上も前に姿を消した都電の勇姿をよくぞ再現して頂いたものです。
旧中川に面した小松川神社の前に「逆井の渡し跡」の案内板が立っています。
逆井の渡し跡
江戸時代、幕府は防衛上の理由から近郷の川には容易に橋を架けませんでした。そのため中川を渡るには、常に渡船によって越えなければならなかったのです。逆井の渡しは、江戸から亀戸村(現亀戸七丁目)を経て、下総国(千葉県)の佐倉へ通じる街道の中川に設けられた渡し場でした。この渡し場につ いて「新編武蔵國風土記稿」西小松川村の項に「中川 村の西を流る、幅四十間許、対岸は亀戸村なり、ここに渡船場あり、元逆井村にありし渡しなるをもて、今も逆井の渡しとよべり、船二艘あり、一は亀戸村の持、一当村の持」と記されています。また、この付近は風景に勝れ、歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれています。
小松川さくら公園の中に古ぼけた倉庫のような建物が残されています。かっての江戸川区役所の文書庫とのことです。
江戸川区役所旧文書庫
小松川さくらホールと小松川さくら公園一帯は、明治十一年(1878年)に成立した南葛飾郡の役所があったところです。昭和七年(1932年)に東京市と周辺5郡が合併して東京35区が誕生しました。このとき、郡役所の庁舎が江戸川区役所になりました。現在小松川さくら公園に残る鉄筋の2階建ての建物は、大正十三年(1924年)に郡役所の倉庫として建てられました。当時はめずらしい中村式のコンクリートブロック建築でした。江戸川区役所となってからは、行政文書を収める文書庫でした。昭和二十年(1945年)3月、小松川地区は大きな空襲に襲われました。区役所は火炎に包まれ、全焼しています。その最中、文書庫に納められた戸籍簿などを守るために、2名の当直職員が20個の麻袋に詰められた重要書類を炎の中から運び出し、庁舎脇の用水路に沈めて守りました。区役所は被災後しばらく第七高等女学校(小松川高校)校舎で業務をおこない、昭和二十三年に現在地(中央一丁目)に新築移転しています。郡役所跡地を江戸川区が購入し、保健相談所を建設するとき、建物の陰に隠れて残っていた文書庫も保存されることになりました。平成元年(1989年)に文書庫の補修工事がおこなわれました。平成三年(1991年)「世代を結ぶ平和の像」が製作され、平成七年にここに設置されました。毎年開催している東京大空襲の犠牲者追悼の集会にあわせて区民の寄贈品を集めた戦争資料展も開催してきました。江戸川区は平成七年に平和都市宣言をし、犠牲者の追悼、平和教育の推進などさまざまな平和への取り組みをおこなっています。平成三十年3月、東京大空襲の被災地であるこの小松川に、常設の江戸川区平和祈念展示室を設置しました。戦争の悲惨さを語り伝え、恒久の平和こそ人類の大きな責務であることを心に刻みたいと念じております。
終点の西荒川電停はどこにあったのでしょうか?線路の延長線上には、現在都営小松川三丁目第2アパートが建っています。恐らくは、この敷地の中に西荒川電停があったものと思われます。
ということで、長かった都電25系統跡の歩きを終えます。ついでに、荒川土手の千本桜を見物していきます。といっても、今はまだ2月の下旬です。桜の木は固い蕾のままで、咲き出すのはもう少し暖かくなってからでしょう。千本桜とは数多くの桜の木という意味で、桜の木がきっちり千本植わっているということはありません。私が確認したところでは、「1040」番目のプレートがありましたので、恐らく千本以上桜といった方が正確かも。どうでもいいことですが。。。
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