都電26系統跡コース  

コース 踏破記  

今日は都電26系統跡を歩きます。都電26系統は江戸川区の今井橋北詰辺りから首都高7号小松川線の荒川大橋の東詰辺りまでを結び、その路線は今井街道の直ぐ西側の専用軌道を通っていました。東京の東端部を分断されたように走り、荒川に阻まれて都電25系統との接続も叶わず、戦後早々に廃止されました。  

都電26系統

都電26系統の全長は3.2kmで、昭和27年5月19日に廃止となりました。

都電26系統の電停(路上の駅)は、今井橋・瑞江・一之江・西一之江・松江・東小松川・東荒川でした。


都電26系統の今井橋電停は何処にあったのでしょうか?当時の写真とか利用していた人の話を総合すると、東京都と千葉県を分ける江戸川に架かる今井橋の陸橋部分の下辺りに電停があったようです。なので、現在、都営バスの今井停留所がある場所付近に都電26系統の今井橋電停があったものとします。



都電26系統は今井橋電停を発車して直ぐに新中川で行く手を阻まれます。というのは現在の地図を見ての話で、実際には新中川を渡る区間は都電26系統が走っていた時代には陸続きでした。かっては中川放水路と呼ばれていた新中川は、東京東部で度々発生した浸水被害を防ぐために開削された人工の川なのです。その完成は昭和三十八年(1963年)のことで、都電26系統が廃止されたのは昭和27年(1952年)ですから、都電26系統は何の障害もなく地上を走っていたことになります。



時代は遡れませんので、新中川に架かる瑞江大橋を渡ります。橋の袂に魚釣りの恰好をした少年の像が立っています。「東京の河川を歩く」で新中川を歩いた時にもこの少年像を見かけましたが、その時はマスクはしていませんでした。1年の間に世の中はコロナ渦で激変したことを改めて感じます。



瑞江大橋の袂には石碑も置かれています。一部が煉瓦で覆われていて、大きな石板には「瑞江葬儀所 ← 入口」と書いてあります。「入口」とあるのは、瑞恵大橋の袂から延びる明和橋通りの奥に瑞江葬儀所が位置しているからです。瑞江葬儀所は東京都の公営火葬場です。都内には葬儀のみ行なう斎場は多くありますが、殆どは火葬場を併設していません。ちなみに、都内の火葬場は23区内では公営2ケ所(臨海斎場と瑞江葬儀所)と民営の7ケ所、23区外では公営8ケ所と民営の1ケ所となっているそうです。瑞江葬儀所には葬儀用の式場はなく、火葬設備のみ設置されています。1938年に使用が開始され、開設当初から他の模範となりうる理想的な火葬場として運営されてきた近代火葬施設の草分け的存在でもあります。1975年には新施設が運用を開始し、火葬場の特徴であった煙突をなくし、設備の無公害化・燃料のガス化・控室の個室化・火葬受付件数の設定を行いました。私は未だお世話になっていませんが。



ふと歩道の路面を見ますと、何やら敷石に絵が描かれています。よく見ますと、路面電車のようです。これは大正十四年から昭和二十七年まで走っていた城東電車(後の都電26系統)を描いたとのことです。



環七の陸橋を通り抜けた先の歩道上の敷石にトロリーバスが描かれています。昭和の不景気の時代が始まり、城東電車を運行していた城東電気軌道の経営は悪化しました。バス会社や鉄道会社との合併を繰り返し、最終的に昭和十七年(1942年)に東京市の市電(現在の都電)の一部に組み込まれました。その後、荒川放水路を跨いで都電25系統と接続をはかりましたが実現せず、都電としての運行を取りやめ、架線から電気を取り入れて道路上を走行するトロリーバスに転換しました。都電26系統は昭和二十七年(1952年)に都電としては最も早く廃止され、トロリーバス「101系統」に転換されました。トロリーバスは道路橋で荒川放水路を渡り、亀戸・押上・浅草を経由し、上野公園まで運行し、ようやく乗り換えの不便は解消することになりました。しかし、わずか16年後の昭和43年(1968年)に東京都のトロリーバス事業は全廃され、通常のバスに置き換えられることになりました。現在、今井〜亀戸駅前を結ぶ都営バスは、都電時代の「26」の数字を受け継ぎ、「亀26系統」として運行されています。



一之江小学校手前から斜め左手に細い路地が延びています。これが城東電車の軌道跡のようです。見た目には住宅街のただの路地にしか見えませんが。



路地の先は突き当たりになっていて、そこには妙覚寺というお寺があります。お寺の敷地の中を電車が通った筈はありませんが、よく見ますとお寺の敷地内には妙覚寺が運営する一之江保育園が併設されています。この保育園の開設が昭和二十七年ということですから、ちょうど都電26系統が廃止された年になります。恐らく、都電廃止と同時に、跡地を保育園に転用したものと思われます。



妙覚寺の裏手には「一之江境川親水公園」があります。「一之江境川」という名前は、東一之江村と西一之江村との境を流れる川ということに由来します。



一之江境川は、江戸時代中期に水元の小合溜井を水源とし、仲井堀を通って現在の江戸川区一之江一丁目二番の地先で分流し、南に流れて松江・船堀五丁目を経て、旧東船堀村と旧二之江村との境(現船堀六丁目と七丁目)で新川に合流していました。昭和三十八年(1963年)に新中川が開削されるまでは、両流域の村々の用水または 舟運路として大いに利用されていました。昭和三十年(1955年)以降、流域の都市化に伴って一之江境川に家庭排水などが流れ込むようになり水質が悪化しました。その後、江戸川区内の下水道の整備により排水路としての役割を終えることになりました。一之江境川親水公園は平成四年に着工し、“街のなかで自然と親しめる水辺の小道と魚や水生生物がすむ清流”として平成八年に完成しました。一之江一丁目の最上流地点から、せせらぎゾーン・であいのゾーン・にぎわいのゾーンを含む全長3.2kmの親水公園で、水は人工の川である新中川から取水したものをそのまま使用しています。水深40cm〜60cmで、魚や昆虫が生息できるように5か所に1mの深場を設け、2箇所に粘土質の荒木田を敷いた浅瀬を設けています。子供たちが遊べる場所では本流の流れを迂回させ、水道水を循環ろ過した水を流しています。「清流よ永遠なれ」と大書された石碑の形がちょっと歪ですね。これは漢字の「江」を模したものだそうです。石碑の脇に置かれた小さなプレートにその経緯が書かれています。

一之江境川親水公園

この記念碑は、一之江境川の源流・利根川流域の石を江戸川区の「江」の字にデザインしたものです。「江」は松江の「江」一之江の「江」でもあり、私たちのまちのシンボルにふさわしいものであります。この川がいつまでもこの地を訪れる人びとに親しまれることを願ってやみません。

ICHINOE SAKAIGAWA RIVER SHINSUI PARK

May our dreams flow with this stream.




かって、この一之江境川には城東電車の軌道が通っていました。城東電車が廃止された後はトロリーバスがその役割を受け継ぎました。鉄橋を模した橋桁の前にその経緯を記した案内板が立っています。

城東電車とトロリーバス

城東電車は大正二年に創立し、江戸川線は大正十四年に東荒川〜今井間で開通しました。車両が一両で「マッチ箱電車」と呼ばれたり、発車合図のベルの音から「チンチン電車」と呼ばれ、昭和二十七年まで運行していました。城東電車廃止の翌日より、無軌軸電車(トロリーバス)が走り、昭和四十三年までの約17年間運行されていました。トロリーバスはレールのない電車で、屋根についた集電装置で架線から電力を得て走っていました。




案内板には当時の写真が添えてあり、左側の写真が一之江境川を渡る城東電車と思われます。右側の写真は都電26系統の軌道跡を走っているトロリーバスでしょうか?



案内板の近くの石碑に貼られたプレートには、城東電車の歴史が書かれています。

一之江境川親水公園地誌

城東電車

城東電車は私営の路面電車で、明治四十四年(1911年)3月、当時の本所区錦糸町と瑞江村大字上今井の間に敷設の許可がおり、大正六年(1917年)12月に錦糸堀〜小松川間が開通、大正十年1月には水神森〜大島間が開通しました。そして、大正十四年12月に東荒川〜今井橋間が開通し、翌大正十五年3月には小松川から西荒川までが延長されて、東荒川との間には連絡バスがはしりました。昭和十七年(1942年)に東京市の市電となり、翌年の都制施行によって都電とよばれましたが、昭和二十七年に東荒川〜今井橋間は廃止され、上野公園〜今井間を走った都内初のトロリーバスにかわりました。この路線は、昭和四十三年から都営バス路線として今も運行されています。




城東電車の車両の模型を収めたガラス箱の台座に「一之江境川親水公園地誌」と書かれた銅板のプレートが貼られています。車両の説明かと思ったのですが、内容は今井街道の沿革について記されているだけです。

一之江境川親水公園地誌

今井街道

中川(旧中川)の平井の渡しから南東に進み、東小松川村・西一之江村・東一之江村を経て今井の渡しに達する道筋を行徳道とよんでいました。今井から渡し舟で行徳へ渡り、成田参詣に向かう人びとでにぎわったようです。同じ道筋を江戸へ向かうときは、浅草の観音様への参詣路になりました。中川の平井の渡しに平井橋が架けられたのが明治二十二年(1889年)、江戸川の今井橋(当時は下江戸川橋)は明治四十五年で、千葉街道とともに東西を結ぶ幹線道路となりました。平成六年春、沿道にハナミズキが植えられ、地元では「はなみずきロード」ともよばれています。




親水公園を出て再び住宅地の軌道跡と思われる路地を進みます。所々植樹されて緑道みたいになっていますね。



行く手に人工の小川が流れています。ここは小松川親水公園の一部です。小松川は、かって上小松村(現葛飾区新小岩付近)から流出した自然河川で、西小松川村と西船堀村の境で新川に注いでいました。当時すでに東西に分かれていた小松川村の境を流れていたので、「小松川境川」と呼ばれました。江戸時代には舟が自由に行き来し、農業用水はもとより肥料(肥船)や農作物を運ぶ川として重要な役割も果たしていました。ここに暮らす住民は農業中心であり、江戸への野菜供給地として特産品の小松菜などを大量に生産・出荷していました。元禄五年(1692年)、松尾芭蕉は「秋に添うて 行かばや末は 小松川」という句を詠んだそうです。これは深川芭蕉庵から小名木川にそって秋景色をたずね、末は小松川まで行こうという意味とのことです。昭和三十年(1955年)以降、流域の都市化にともなって小松川境川にも家庭排水などが流れ込むようになり、水質が悪化しました。その後、下水道の整備によって排水路としての役割を終えることになりました。小松川親水公園は、古川親水公園に続いて江戸川区で2番目にできた親水公園です。菅原橋から中川まで、全長は3,930メートルあります。全体は5つのゾーンに分かれ、滝に始まり、せせらぎ、水しぶき、飛び石、釣り橋に冒険船など変化に富んでいます。水遊びができない季節でもウオーキングをしたり、アスレチックで遊んだりと四季を通じて楽しめます。また、桜の名所でもあります。



小松川親水公園の先に仲台院というお寺があります。将軍徳川吉宗公が放鷹(飼いならした鷹を山野に放ち、鶴・白鳥・雁などの獲物を捕らえる狩猟方法)のために享保二年(1717年)にこの地に来たときに、仲台院が将軍の御膳所(休息や食事をする場所)にあてられて以来、幕末まで将軍の御膳所でした。吉宗公の小松川御成から、寛延四年(1751年)に大御所として薨去するまで、吉宗・家重・家治の三代で100回以上もこの地で鷹狩りがおこなわれました。江戸近郊での鷹狩りのために設けられた休憩所は、御腰掛・御膳所・御小休所・御休息所・御立寄所・御弁当所などと呼ばれる施設が指定されていました。ほとんどが寺院や神社や名主の居宅でした。江戸川区内では燈明寺(平井聖天)・勝曼寺・正円寺・城立寺などが御膳所をつとめていますが、その大半は仲台院でした。隣接して綱差役(鷹狩りに使う馬を飼育したり、野馬に餌づけをして手馴づける役)の加納甚内の屋敷があったためと思われます。加納甚内の墓は仲台寺の墓地にあり、重要な史跡となっています。また、将軍吉宗公が昼食に出された「すまし汁」の菜に、小松菜の名を与えたのはこの仲台院であるといわれています。お寺の門前に案内板が立っています。

仲台院

浄土宗で、無量山西方寺と号します。鎌倉光明寺の学僧、應誉良道上人が天文八年(1539年)一宇を建立して、阿弥陀如来をまつったのがはじまりです。当寺は、享保二年(1717年)に将軍御膳所(休息や食事をする場所)にあてられて以来、幕末まで将軍の御膳所でした。吉宗は頻繁にこの地へ来て、鷹狩りをおこないました。自ら紀州(和歌山県、吉宗はもと紀州藩主)から呼び寄せた綱差役(獲物となる鳥の飼育などをする役)加納甚内がこの地にいたこと、当時この地には鶴が多く飛来していたことによると思われます。吉宗・家重・家治の三代で百回以上もこの地で鷹狩りをしており、その大半は仲台院を御膳所にしています。

■木造阿弥陀如来立像(区指定有形文化財)
本尊の木造阿弥陀如来立像は、技法から鎌倉時代の制作と推定される秀作です。寄木造りで、脚部を別材でつくり、体部に差込む珍しい形式をもち、彫刻技術もすぐれています。

■加納甚内の墓(区登録史跡)
墓地の南西隅に加納甚内の墓があります。甚内は綱差役として将軍鷹狩りの御用をつとめたほか、新田開発者でもありました。享保年間に幕府が新田開発を奨励していた時、甚内はこれに応じ、西小松川村の菅野を開発しています。この新田は「綱差新田」、明治以後は「綱差耕地」と呼ばれ、荒川が開削されるまで残っていました。甚内は寛保三年(1743年)に亡くなりましたが、その子孫は代々甚内を称して、綱差役が廃止されるまで、その役を世襲しました。




さて荒川の堤防が見えてきました。都電26系統の終点の東荒川電停はどこにあったのでしょうか?ネットで調べた限りでは、現在の首都高7号小松川線の高架が荒川を跨ぐ土手際にあったようです。高架下の「かぶとむし児童遊園」の辺りに都電の折り返し所があったとの記述もあります。



ということで、荒川の土手下で都電26系統跡の歩きを終えることにします。都電26系統は、都心の道路に敷かれた路面レールを走っていた他の系統とは違い、専用軌道を走っていたため、沿線には住宅が連なっていてあまり見所はなかったように思います。でも、一之江境川親水公園に展示されていた都電26系統の痕跡はとても興味深く見れました。何より、前身がローカルな城東電車というのがロマンを感じますね。




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