都電27系統跡コース  

コース 踏破記  

今日は都電27系統跡を歩きます。都電27系統は赤羽から三輪橋(現在の都電荒川線三ノ輪橋電停)までを結び、その路線は北本通りを通った後、王子駅から三輪橋までは現在の都電荒川線の専用軌道と同じ線路を使っていました。現在の荒川線の北半分が都電27系統の一部ということになります。  

都電27系統

都電27系統の全長は10.1kmで、昭和45年1月27日に廃止となりました。

都電27系統の電停(路上の駅)は、赤羽・岩淵町一丁目・志茂町三丁目・志茂町一丁目・王子北町・宮掘・神谷橋・王子四丁目・王子三丁目・王子二丁目・王子駅・栄町・梶原・荒川車庫・尾久六丁目・小台・宮ノ前・熊ノ前・下尾久・町屋二丁目・町屋一丁目・三河島八丁目・三河島・三河島二丁目・三輪橋でした。


都電27系統の赤羽電停はどこに位置していたのでしょうか?ネットの情報では、JRの赤羽駅前ではなく、環八通りと北本通り(きたほんどおり)が交差する赤羽交差点の王子寄りの手前にあったそうです。「交差」といっても、環八通りは赤羽交差点が起点となっていて、北本通りは赤羽交差点で直角に曲がっていますので、厳密には「交差」ではなく「交点」といった方がいいかもしれません。場所的には現在の東京メトロ南北線・埼玉高速鉄道線の赤羽岩淵駅出入口2の地上付近の北本通り上になります。JR赤羽駅からはかなり離れた北東の位置になりますので、JR線(当時は国鉄)との乗り換えの利便性の観点からいうとJR赤羽駅前が一番ですが、線路が引けなかった何かの事情があったのでしょうか?



北本通りを進んで行きますと、右手に巨大な煙突が見えてきます。北区の清掃工場です。角張った煙突と窓の付いた突端が特徴です。私はこの形が気に入っているのですが、現在の施設を全て取り壊し、新たに550億円をかけて同規模の焼却施設を建設する工事が始まっています(私が歩いた時は未だ計画段階でしたが)。2022年に着工し、竣工は2029年の予定とのことです。ちなみに、平成二十九年(2017年)から建替え工事が行われている目黒清掃工場は、2023年3月に竣工する予定です。尚、都内23区の清掃工場の運営は各区が行うのではなく、東京23区清掃一部事務組合が一括して担当しています。そうでないと、工事中のゴミの処理など、建替えがスムーズにいきませんもんね。



北区清掃工場の向かいに志茂東公園があります。隅田川に向かって細長く延びた特異な形状をしています。ここには、かって赤羽発電所がありました。公園内に立てられた案内板に添えられた当時の地図を見ますと、赤羽発電所の本体施設は現在の北区清掃工場の敷地内にあり、そこから北本通りを横切って隅田川まで発電所の水路が設けられていたことが見て取れます。その水路の跡を埋め立てて志茂東公園が造成されたのです。発電所は鉄道省の所管で、用途は一般の民生用ではなく、鉄道への電力供給を目的としていました。地図上では現在の隅田川が「荒川」と記載されていますが、今で言う荒川(荒川放水路)は既に昭和五年(1930年)に完成していました。実は、現在の隅田川は昭和四十年頃までは荒川区までが荒川で、墨田区からは隅田川と呼んでいたそうです。現在は岩淵水門から先が荒川と隅田川とそれぞれ独立した呼称になっています。

赤羽発電所跡

鉄道省は、電車運行の給電能力を高めるため、赤羽発電所を大正九年(1920年)に起工し、大正十二年二月一日から運転を開始しました。現在の北清掃工場のあたりに発電所が位置し、志茂東公園は水路部分にあたります。荒川から水路で水を引き込み、石炭ボイラーで高圧蒸気に換え発電を行う火力発電所です。敷地面積は5500坪、二本の大きな煙突が印象的な施設でした。当初は6000キロワットのタービン二台でしたが、大正十四年十一月に一台増設し、設備容量18000キロワットの発電所として稼働しました。昭和五年(1930年)さらに大規模な川崎発電所の運転が開始され、その後、新潟県千手水力発電所等も運用されると、赤羽発電所は、渇水時等の補給発電所として運用されました。昭和三十三年十一月に廃止され、北清掃工場(昭和四十三年完成)が赤羽発電所跡地につくられました。




案内板に添えられた当時の発電所の外観(左側の写真)と地図(右側の写真)です。



東京メトロ南北線の王子神谷駅の地上出口から庚申通り商店街に入る角地に小さなお堂があり、「庚申塔」と書かれた大きな看板が掲げられています。お堂の中には2基の庚申塔と観音像が安置されています。この場所にはかつて塚があり、その塚上に観音堂が建てられていたことから「観音塚」と呼ばれていたそうです。この塚には色々と言い伝えが残されており、境内に立てられている「観音塚之由来記」にはその伝承について詳細に書かれています。しかし、由来記は昭和五年に書かれたものですので、表面の塗装が剥がれてしまっていて判読し難く、文体も古語調で読み取れませんが、概略次のような内容のようです。

鎌倉時代の貞永(じょうえい)年間(1232年〜1233年)、四条天皇の時代に、30代の女性の修業者がこの地にささやかな庵を建てて住み着き、苦しむ村人の救済を行っていました。しかし、晩年には身体を動かすこともままならなくなり、読経ばかりを唱える日々となりました。そして、この尼が亡くなってからも庵からは読経と鐘の音が夜毎に聞こえてきたことから、村人たちが尼を弔うために庵の傍らに庚申塔の石碑を建てて祀りました。



都電27系統が北本通りを走っていた理由に、沿線の需要が高かったということが考えられます。現在の北本通りは路線バスが溢れていて、王子三丁目バス停には行先表示が驚くほど沢山並んでいます。時刻表もベタベタ貼ってあり、どれが自分の乗るバスの時刻表か探すのが大変な状況です。恐らく、都電27系統が走っていた頃も利用者は多かったのではないでしょうか?



王子駅にやってきました。現在の荒川線は王子駅前電停から明治通りに出るとJR線のガード下を抜けて飛鳥大坂を飛鳥山電停に向けて登って行きます。都電27系統は北本通りから王子駅電停に入っていましたので、現在の荒川線とは逆向きの線路が繋がっていたことになります。今はその痕跡はどこにも見当たりませんが。



都電27系統の王子駅電停から終点の三輪橋電停までの区間は現在の荒川線に引き継がれていますので、当然のことながら途中の電停の名前も同じということになります。でも、50年の月日は何某かの変化を生むもので、一部電停の駅名が変わっているところもあります。王子駅(→王子駅前)・荒川車庫(→荒川車庫前)・尾久六丁目(→荒川遊園地前)・熊ノ前(→熊野前)・下尾久(東尾久三丁目)・町屋一丁目(→町屋駅前)・三河島八丁目(→荒川七丁目)・三河島(→荒川二丁目)・三河島二丁目(→荒川区役所前)・(新設:荒川一中前【副電停名:ジョイフル三ノ輪前】)・三輪橋(→三ノ輪橋)といったところです。

尾久六丁目電停は、王子電気軌道で開業された当時は荒川遊園前電停という駅名でした。東京都に移管後、尾久六丁目電停へと改称され、住居表示実施に伴い西尾久七丁目電停に変わり、その後で今の荒川遊園前電停となりました。

町屋一丁目電停から町屋駅前電停への変更は昭和五十二年(1977年)のことです。東京メトロ千代田線の町屋駅が開業したのは昭和四十四年(1969年)ですので、その後の駅前再開発で電停が移動・整備された時点で改称されたものと思われます。

都電27系統が運行されていた当時は三河島を冠した電停名が3つありましたが、これらが現在の駅名に変わったのは住居表示の実施に伴い、町名の変更を反映したためです。

都電荒川線の終点三ノ輪橋電停付近から都電の線路の北側を線路と並行して延びている三ノ輪銀座商店街(通称:ジョイフル三ノ輪)は、都電荒川線の前身である王子電気軌道の開通が大きく影響して形成された商店街です。時代が移って、立地する南千住一丁目の人口減少による購買力低下が影響してジョイフル三ノ輪は寂れてきたということで、活性化対策の一環として新たな電停の設置が要望されました。これは、ジョイフル三ノ輪の一方の端にある三ノ輪橋電停から遠い側では空き店舗が目立ち、買い物客も途中で折り返してしまうという傾向が見られたからです。新たな電停で商店街を挟むことにより、都電を利用してやってくる買い物客に配慮するとともに、利用客を商店街全体に回遊させることを狙いとしたものでした。商店街の組合長を代表者として東京都に請願して都議会で認められ、電停が新設されることになりました。電停名そのものは、荒川区立第一中学校の略称名が採用されましたが、副名称として商店街の名称が付与されました。こうして平成十二年(2000年)11月11日、荒川一中前電停が開設されました。ただし、その効果はあまりなかったとされています。その理由は、元々商店街を利用していたのは地元の人達で、都電を使って訪れる買い物客は殆どいなかったからと推測されています。



王子駅を出ますと、線路は急カーブして東方向に向かいます。明治通りと交差する梶原電停までは住宅地の中を通る専用軌道となっています。一部側道もありますが、線路の両側には植栽がなされ、見た目には郊外電車の線路と変わりませんね。



明治通りを越えますと、都電27系統の線路は熊野電停までほぼ一直線に延びています。道路の中央に線路を設置し、車道と線路を分離した「センターリザベーション」と呼ぶ形態です。歩道から電停の乗り場までの横断歩道には踏切設備がないため、電車は専用軌道区間よりもゆっくりと走り、歩行者は車や電車に注意しながら横断歩道を渡ります。



現在の荒川線の早稲田方面行き梶原駅の北側に延びる梶原銀座商店街は、「ショッピングロードかじわら」という愛称で親しまれています。荒川線とのコラボで、ショッピングロードかじわらの入口ゲートには都電を模したオブジェが取り付けられていますし、排水口のマンホール蓋には都電荒川線がデザインされています。入口近くの和菓子屋「都電もなか本舗 菓匠 明美」で販売されている「都電もなか」は遠方の人にも人気となっています。ただ、「都電もなか」は昭和五十二年に商品化されましたので、都電27系統が走っていた頃は未だ存在していませんでした。



現在の都電の車庫は荒川車庫のみとなっています。車両の入出庫や運転手の交代も荒川車庫前電停で行われています。都電27系統の電車も荒川車庫を基地にしていたようです。昭和の都電車庫の景色と全く同じですね。



線路から車庫への引き込み線は上・下2本あります。そのため、三ノ輪橋方面に行く電停は2ケ所に設けられています。手前が降車専用で、その先が乗車専用です。乗車専用の乗り場で降車しようとすると怒られます。どっちで降車しても問題ないと思うのですが。



車庫に隣接して、「都電おもいで広場」という昔の都電の展示場が設けられています。土日祝日のみの公開ということと、コロナ渦で長期休業中のため中に入ったことはありませんが、都電マニアにはたまらない施設です。展示されている5501型式の車体ですが、希少な上に数奇な運命を辿ったものです。PCCカーと呼ばれ、1930年代のアメリカ合衆国で開発された路面電車車両の規格を採用して日本で生産されたただひとつの純正車両です。北アメリカの路面電車事業体や鉄道車両メーカー・機械メーカーが参加した電気鉄道経営者協議委員会によって開発され、多数の新技術が用いられた高性能電車がベースになっています。製造後、10年以上の間運用されましたが、運転時の操作方法が他の車両と異なることと、日本にない特殊な機器を備えていたため、運転と保守が難しく1967年に廃車となりました。その後、上野公園で保存・展示されましたが、野ざらしで置かれたことと、塗装の塗り替えなどのメンテナンスが満足に行われなかったことで劣化が進んでいきました。その後荒川車庫に戻され、一度は修復がなされたものの、倉庫代わりに使われて腐食が進んでいきました。2007年に再度車体を修復し、ここに展示されることになったのです。コロナ渦が終息して展示場が再開されたら一度行ってみたいものです。



荒川遊園前電停が最寄り駅の荒川遊園は、大正十一年(1922年)に開園した23区内で唯一の公営遊園地です。平成三十年(2018年)12月から長いことリニューアル工事が行われて長期休園していましたが、今年2022年春(開業日は未定のようです)に再オープンする予定です。



今年の1月末に、「荒川区ウオーキングコース:都電とバラの花ルート(往復)」を歩いていた時に、工事中の荒川遊園を見たのですが、建物は大方完成しているものの、園内の整備は未だ竣工にはほど遠い状況でした。どうでもいいのですが、右側の写真に写っている都電32系統ですが、当時の運用区間は早稲田から荒川車庫までした。それ故、行き先表示に「三輪橋」となっているのはあり得ないと思うのですが。。。



宮ノ前電停の「宮」は尾久八幡神社のことです。電停も神社の真ん前に位置しています。神社の創建は不明ですが、鎌倉時代末期の正和元年(1312年)に尾久の地が鎌倉の鶴岡八幡宮に寄進された頃だろうといわれています。「新編武蔵風土記稿」によれば、旧上尾久村・旧下尾久村・旧船方村の鎮守だったそうです。



尾久八幡神社の前の歩道に古ぼけた板に書かれた案内板が立っています。八幡堀は、八幡神社を取り囲むように、王子・上中里・田端・日暮里と流れていた用水です。酒井新三郎抱屋敷と亀太郎屋敷との間(現在の西尾久3−4の周辺)を経て、荒川(現在の隅田川)に注いでいました。農業での活用の他、荒川を往復する船が八幡堀まで入り込んで交易を行い、神社の西側では下肥の積み下ろしも行っていたということです。案内板は古びて読みづらくなっていますが、次のように記されています。

八幡堀プロムナード

江戸時代、この地域には、石神井川から引かれた「八幡堀」と呼ばれる農業用水路が流れていました。昭和六十年に尾久宮前小学校の子どもたちが、今は見えない川となってしまったこの水路について学習をはじめ、それがやがて地域ぐるみの取り組みとなり、手づくりの絵本「ぼくらの音無川」にまとめられました。こうした地域活動は高い評価を得て、第四十回読売教育賞の中で最優秀賞を受賞しました。荒川区は、こうした貴重な財産を永く将来に伝えたいと考え、この水路を「八幡堀プロムナード」と名付けて整備を行いました。東京都も、この都道付近が水路跡の一部であったことから、道路の整備に合せて、水路をイメージした歩道の整備を行いました。この地域の歴史に関する活動を記念し、ここに古地図のレリーフを設置します。




案内板の隣には、銅製のプレート描かれた古地図と設置した経緯が書かれています。

尾久村絵図

荒川区立尾久宮前小学校の四年生が社会料の学習をする中でこの地図の水路に目をつけました。そして、尾久村は江戸時代に米づくりが盛んだったことや農業用水を確保するために苦心したことなど先人の??があったことを知りました。消えてしまった八幡堀とその水路を、再び町によみがえらせようと願った子どもたちの気持ちは、保護者と地域の人々の心を動かし、多くの人々の協力を得て、八幡堀ブロムナードとしてその姿の一部を実現することができました。このことは東京都はもとより、日本各地に知れわたり地域の中で育つ子どもの理想の姿として、大きな評価を得ました。




尾久八幡神社の境内にふたつの案内板が立っています。ひとつは八幡堀について、もうひとつは上尾久村の村絵図についてです。どうせなら、さっき見た案内板と古地図の横に並べて立てておけばいいのにね。

八幡神社と八幡堀

八幡神社の創建は不詳だが、鎌倉時代末期の正和元年(1312年)に、尾久の地が鎌倉の鶴岡八幡宮に寄進された頃に遡ると考えられる。また、神社に残る棟札(荒川区指定文化財)から、至徳二年(1385年)には社殿が再建されたことが確認できる。江戸時代に幕府が編纂した地誌「新編武蔵風土記稿」(文政十一年成立)には、上尾久・下尾久・船方三村の鎮守と記されている。八幡堀は、王子・上中里・田端・日幕里と流れる用水が八幡神社をとり囲んでいたもので、酒井新三郎抱屋敷と亀太郎屋敷との間(現在の西尾久三・四周辺)を経て、荒川(現在の隅田川)に注いでいた。川を往復する船が八幡堀まで進み、交易で賑い、神社の西側では野菜や下肥の積みおろしも行っていたという。

Hachiman Shrine and Hachiman-bori Moat

Although it is unknown when Hachiman Shrine was founded, it is thought that the date of construction can be traced back to the time when the land of Ogu was donated to Tsurugaoka Hachimangu Shrine in Kamakura in 1312, in the late Kamakura period. Also, it can be confirmed from Munafuda (wooden plate) housed by the shrine that the shrine was rebuilt in 1385. The geographical book edited by the Shogunate during the Edo period, "Shinpen Musashi Fudokiko" (created in 1828), describes that the shrine was the local deity of three villages - Kamiogu, Shimo'ogu and Funakata. The moat that surrounded the shrine was called Hachiman-bori, which was a part of agricultural water that flowed from Oji to Kaminakazato, Tabata, Nippori and Ogu. Hachiman-bori was bustling with trade with boats traveling back and forth along the river, and the west side of the shrine was also used for loading and unloading night-soil fertilizer for agriculture.

八幡神社と上尾久村村絵図

上尾久村村絵図(荒川区指定文化財)は、神社を中心とする上尾久村の江戸時代の様子が窺える。図中には、農業用水の流路、七名の領主名と各領主付農民、村内の社寺などが記され、隣村の田端や中里との間で取り決められた用水に関する記述が三ヶ所ある。制作年代は記されていないが、嘉永元年(1848年)以後のものであると推定される。このほか享保十四年(1729年)銘の手水鉢(荒川区登録文化財)や南北朝期の至徳二年(1385年)銘をはじめとする棟礼(荒川区指定文化財)等を所蔵。同社の創建年代は不詳だが、棟礼の年号等から鎌倉時代末期には鎮守として勧請されていたと考えられる。

Hachiman Shrine and Kamiogu Village Picture Map

The Kamiogu Village Picture Map (designated cultural property of Arakawa City, not open to the public), housed in Hachiman Shrine, describes essential points of the village around the shrine. It depicts the flow path for agricultural water, the names of the seven lords and farmers working for their lords, and shrines and temples in the village. There are three quotes of agreements regarding irrigation water with the neighboring villages, Tabata and Nakazato. The year the map was drawn was not written, but estimates put it after 1848. The shrine also houses a stone wash basin inscribed with the year 1729.




尾久橋通りの上空に架設された舎人ライナーの高架が荒川線の上空を横切る地点の手前(早稲田方面行き)と先(三ノ輪橋方面行き)に熊野電停があります。混雑する尾久橋通りと交差していますので、今でも電車が横断するには信号待ちをすることがあります。道路が整備されていなかった当時は、電車も車も運転には大変な思いをしたことでしょう。



町屋二丁目電停の目の前に「竹隆庵岡埜町屋店」という和菓子のお店があります。



ここの名物は都電荒川線をモチーフにした「都電小町」と「ゆうゆう都電」です。「都電小町」はチョコレート餡とカスタード餡の2種類があります。パッケージには都電の絵が描かれています。「ゆうゆう都電」のパッケージは都電を模した紙箱になっています。都電の旅を楽しんだ後に頂くとよい思い出になりそうです。



精米所もありますね。23区でコイン精米所は初めてみました。籾殻付のお米って、何処で手に入れるのでしょうね?



尾竹橋通りと交差する町屋交差点にやってきました。都電27系統が走っていた当時は、交差点の前後に町屋一丁目電停が位置していたそうですが、現在の町屋駅前電停という名前に変わったのは駅前再開発で両電停が同じ場所で向かい合うように移動した時点だと思われます。当時の商店街は「センターまちや」という大きなビルに集約されたそうです。



町屋電停の裏に今川焼きと鯛焼きの博多屋さんがあります。昭和三十四年創業で、60年以上も町屋で愛され続けている名店です。 私もお散歩の途中で今川焼きを買ったことがありますが、コスパ抜群で餡たっぷり。とても美味しかったです。店頭売り専門ですが、買い求めるお客さんでいつも行列ができています。只の今川焼きでなく、「都電今川焼き」にしたらもっと売れるかも。箱形では食べにくいでしょうけど。



都電荒川線は、現在「東京さくらトラム」と改称されていますが、これは荒川線の実態を知らない人が名付けた名前と思います、沿線には荒川自然公園などの桜の名所はありますが、線路脇にはあちこちに薔薇の花が植えられているのです。なので、カタカナ名にするのなら、「東京ローズトラム」の方が合っています。そもそも都電をわざわざ「トラム」と言い換える必要はないと思うのですが。。。

都電荒川線沿線のバラマップ

荒川区では、区の中央部分を東西に走る都電荒川線を「みどりの軸」と位置付け、バラによる緑化を推進しており、北区境から三ノ輪橋の停留場間に約13、000株を植栽しています。色とりどりに咲くバラを是非お楽しみください。

Toden Arakawa Line Trackside Rose Map

The Toden Arakawa Streetcar Line runs along the central part of the City from east to west along the "green corridor". The streetcar strives to add more green space to the city using roses, and has planted about 13,000 rose bushes between Minowabashi Station and the Kita City border. Please enjoy the beautiful rose blooms.




晩杯屋もありますね。都電27系統が走っていた頃はなかった筈ですが。それにしても、コロナ渦で営業自粛や営業時間短縮が要請されている中、よく頑張っています。私もコロナ渦が収まったらまた行かなくっちゃぁ。



三河島電停(現在の荒川二丁目電停)から直ぐのところに「ゆいの森あらかわ」という真新しい建物の荒川区立の複合施設があります。「ゆいの森あらかわ」は、中央図書館・吉村昭記念文学館・ゆいの森子どもひろばが一体となった、赤ちゃんから高齢者まですべての世代の方が利用できる、これまでにない新しい発想の魅力ある施設です。荒川区の中央図書館と位置づけられる図書館は、約60万冊の蔵書や約800席の座席を備え、新たな発見と読書の楽しみを提供しています。また、荒川区出身で「戦艦武蔵」や「三陸海岸大津波」・「ポーツマスの旗」などで著名な作家の吉村昭氏を記念する吉村昭記念文学館では、郷土愛の醸成や文学に親しむきっかけを提供しています。ゆいの森こどもひろばでは、科学実験やワークショップ等を通じて、子どもたちの夢や生きる力を育んでいます。さらに、災害時は帰宅困難者の受け入れや、乳幼児を中心とした避難所としても活用できるよう、免震構造を採用し、発電機や備蓄倉庫も備えています。



三河島電停に隣接して荒川自然公園の広大な敷地が広がっています。荒川自然公園は、東京都下水道局三河島水再生センターの上につくられた公園です。そのため、都電を降りた後、坂道を登って公園に入ることになります。公園内は自然が豊かで、景色の美しさから東京都を代表する景勝地「新東京百景」にも選ばれています。公園は北側と南側の大きくふたつのエリアからなり、交通園やアスレチック、それに無料のプールなど、子どもたちが楽しめる施設が充実しています。



終点の三輪橋電停の手前に大関横町があります。その由来を記した石碑と案内板が線路脇にあります。石碑には次のように記されています。

大関横丁由来之碑

下野國黒羽藩主大関増業公は智徳兼備の英傑にして藩政を行うに、教育を以てし自ら一千余巻の書を著しているが、特に黒羽藩日本書紀三十巻同文字錯乱備考三巻より六吏兵随二十三巻を経て、止才枢要五百二十九巻に至るものを体系の根幹とした。中でも止才枢要は百七十六巻を傳記資料篇三百五十三巻を本文とする科学的編慕法による構想雄大、内容充実世界に誇る。可き不朽の名著と云はれる在職十三年にして病の為引退して此処箕輪の別邸乗化亭に住み、括嚢斉と号し奇方歌道茶道等に精通し、人心救済に(尽)力したが、弘化二年(1845年)三月十九日、六十五才の生涯を終った。大正十三年(1924年)二月十一日特旨を以て正四位を贈られた世人大関公の偉徳を讃へて此地を呼ぶに大関横丁と稱へた。




案内板には次のように記されています。荒川区の案内板はとても見やすく、分かり易く書かれていますね。

大関屋敷跡

下野黒羽藩主大関氏は、寛文元年(1661年)、幕府からこの地に下屋敷を拝領した。その範囲は、現在の南千住一丁目〜八丁目・十・十一番の一部の辺りと推定される。面積は抱屋敷を含めて、八千百坪(約ニ万六千七百平方メートル)であった。黒羽藩十一代の増業(ますなり)は、膨大な図書の編集と藩政改革で知られる。文政七年(1824年)の隠居後、この下屋敷に閑居した。また、十五代の増裕は若年寄兼海軍奉行の要職にあり、軍艦奉行勝海舟とともに幕末に活躍している。

Site of the Ozeki Residence

The Ozeki Clan, the feudal loads of the Shimotsuke Kurobane Domain (present-day Otawara City, Tochigi Prefecture), were given a suburban residence in this area from the Shogunate in 1661. The area was about 26,700 square meter. Kurobane Lord Masunari Ozeki is known for compiling a huge number of books and reforming the domain government. After his retirement in 1824, he lived peacefully in this suburban residence. Also, Kurobane Lord Masuhiro Ozeki assumed a key position in the Edo Shogunate and played an important role in the final days of the Shogunate with the warship magistrate Katsu Kaishu.




都電27系統の終点の箕輪橋(現在の三ノ輪橋)電停に着きました。箕輪橋電停は、手前に降車専用のプラットフォームがあります。乗客を降ろした後、今度は引き込み線を通って乗車専用のプラットフォームに向かいます。転轍機は見えますが、駅員さんはいません。自動で切り替えているのでしょうか?



今日は祝日。第126代天皇徳仁様の誕生日である2月23日です。電車の前後には国旗が掲げられています。膨大な数の都電の電車に国旗を取り付け・取り外すのは大変な作業ですね。バスはもっと大変でしょうけど。



乗り場の手前には「三ノ輪橋おもいで館」があります。文字もレトロですが、建物も年季が入っていますね。館内の壁には都電全盛期の路線図が貼られています。都電26系統の路線が孤立しているのがよく分かります。



都電関連の古本(?)が売られています。一冊買おうかと思ったのですが、高すぎて止めました。館内では記念スタンプも押せます。ミーハーなもんで、記念に持ち帰りました。



ついでに、都電の線路と並行して延びている「ジョイフル三ノ輪」商店街に立寄ってみます。



「ジョイフル三ノ輪」商店街一帯は、江戸時代には伊勢亀山藩主石川日向守の屋敷だったそうです。

石川屋敷跡

伊勢亀山藩主石川日向守屋敷は、新開地一帯(現在のジョイフル三の輪あたり)にあって、総坪数一万千四十坪(約三万六千四百平方メートル)にも及ぶ広さであった。万治元年(1658年)、主殿頭憲之の時に、三河島・三の輪・小塚原三か村のうち一万五百三十坪(約三万四千七百平方メートル)の地を拝領し下屋敷を造築。寛文五年(1665年)三河島村重右衛門の所有地五百十八坪(約千七百平方メートル)を買上げ、屋敷・庭園を造築した。この石川屋敷では、四月から七月までの間に限って鉄砲稽古をしたという。

Site of the Ishikawa Residence

The suburban residence of the Ishikawa Clan, lords of the Kameyama Domain (present-day Kameyama City, Mie Prefecture), was located in the Shinkaichi area (present-day the Joyful Minowa area) and covered the area of about 36,400 square meter. In 1658, at the time when Ishikawa Noriyuki was the lord, he built the suburban residence on about 34,700 square meter of bestowed land belonging to three villages Mikawashima, Minowa and Kotsukappara. In 1665, he purchased about 1,700 square meter of land owned by Mikawashima village farmer Juemon and built a suburban residence and garden. During the Edo period, the Ishikawa Residence was used for gun practice from April to July.




ジョイフル三ノ輪商店街の中に惣菜店の「きく」があります。テレビのグルメ番組でも紹介されましたが、このお店の名物は紅ショウガの天ぷらです。ビールのおつまみに合います。



ということで、都電27系統跡の歩きを終えます。現在の荒川線として残っている区間がありますので、都電の歩きとしては過去と現在を行き来するような不思議な感覚です。この後、都電32系統では荒川車庫前〜早稲田間の現在と全く同じ区間を歩きます。「昭和の都電跡を歩く」の最後に只ひとつ生き残った現在の荒川線を歩くのですが、都電27系統跡と都電32系統跡を歩いた後では書くことがなくなりそうです。いや、新たな発見がありそう。




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