都電29系統跡コース  

コース 踏破記  

今日は都電29系統跡を歩きます。都電29系統は須田町から葛西橋までを結び、その路線は主に靖国通り・京葉道路・水神森から専用軌道・大島一丁目から明治通り・境川交差点から清洲橋通りを通っていました。都心を南北に斜断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。  

都電29系統

都電29系統の全長は8.8kmで、昭和47年11月12日に廃止となりました。

都電29系統の電停(路上の駅)は、須田町・岩本町・豊島町・浅草橋・両国・東両国二丁目・東両国三丁目・東両国緑町・緑町二丁目・緑町三丁目・江東橋・錦糸掘車庫・錦糸掘・亀戸駅・水神森・竪川通・大島三丁目・大島一丁目・北砂町二丁目・北砂町一丁目・境川・南砂町二丁目・北砂町四丁目・南砂町六丁目・北砂町七丁目・葛西橋でした。


すっかりお馴染みになった須田町交差点からスタートします。



JRのガードを越えた先の靖国通り沿いに巴商会の本社があり、歩道に面したショーウインドウに様々な展示がされています。巴商会は明治四十三年(1910年)5月に創立されたボイラー事業を核とする会社です。循環式外釜を備えた巴風呂を開発し、以来、入浴・家事・観光・医療など、日本のお湯が出るすべてのシーンを支えています。大正から昭和にかけての宣伝ポスターにお風呂の移り変わりが見てとれます。当時は一軒家しか風呂場を備えられませんでした。日本で複数階の集合住宅に内風呂が可能になったのは、ガスを使った循環式外釜を備えた家庭風呂が実現できたからなんでしょう。ちなみに、日本に於ける集合住宅の元祖である同潤会アパートには、地下に共同浴場があったそうです。集合住宅に本格的に内風呂が普及しだしたのは昭和三十年代に入ってからのことでした。



現代ではお湯を沸かすのにガス(一部は電気)を使っていますが、大正時代は薪で沸かすのが一般的だったので、お風呂は1階にしか設置できませんでした。「ひとくべ」とは「ひと焚べ」とか「ひと焼べ」と書くように、「燃やすために火の中に薪などを入れる」ことです。今の若い人は意味が分からないかも知れませんが。

日本に3台のフォードのトラックで宣伝

大正十三年(1924年)荷馬車が東京の物流を担っていた時代。日本にたった3台しか輸入されていなかったフォードのトラックを導入した華々しい風景。国鉄神田駅の完成が大正八年(1919年)ですから、市民が鉄道を実用に使い始めてたった5年、写真の奥に見えるのは神田駅のガードです。現在もその面影は垣間見えます。当時から巴の釜は効率が良く「ひとくべで沸く巴風呂」と宣伝していました。




当時、うら若い女性がお風呂を沸かすことは殆どなかったと思いますよ。

映画にも登場した巴風呂

青春映画の傑作といえば「青い山脈」。その「青い山脈」で寺沢新子役を演じ、青春スターとして活躍した杉葉子さんが巴風呂の前でほほ笑むシーンです。青い山脈の中では水着姿も披露したプロポーション抜群の彼女。そんな彼女が誰のために巴風呂でお風呂を沸かしていたのか、今では思い出のワンシーンというところでしょうか。




銀幕のスターがお湯を沸かすこともなかったと思います。

銀幕のスターとの共演

昭和二十七年から三十五年ころの映画「トラ・トラ・トラ」の山本五十六役やテレビドラマ「非情のライセンス」等に出演した、国際的俳優の山村聡さんが当社製中圧ボイラーMBS型を操作しているシーンです。左に写るスリムで縦長のボイラーのフォルムと当時若かった山村聡さんの老け役の渋い演技、まさに共演というところでしょうか。




お風呂を沸かすのに家庭で石炭を使っていたんですね。石炭は薪よりも火力が強いので便利ではあったのでしょうけど、量の調節が難しいので入れすぎると石川五右衛門になってしまいそうです。

薪燃料から石炭燃料へ

昭和三十五年頃、風呂釜の燃料が本格的に薪から石炭に変わっていった時期です。循環式風呂釜は湯船に上下2つの穴が開き、上の穴から熱い湯が出るタイプの風呂釜で、よくかき混ぜないと“上は熱いのに下は水”なんて経験がありました。時代は浅岡ルリ子さんに続く新進気鋭の青春女優として笹森礼子さんが銀幕やテレビで活躍していました。そのキュートな笑顔に当時の男性は釘付けになったことでしょう。




昭和通り・清洲橋通り・江戸通りと交差します。歩道の脇に東神田の町名由来板が立っています。東神田は千代田区ですが、江戸通りの先は中央区、神田川を挟んで北側は台東区、さらに隅田川の先は墨田区になっています。

千代田区町名由来板 東神田
(旧・橋本町、江川町、富松町、久右衛門町)

現在の東神田界隈には、かつて橋本町・江川町・富松町・久右衛門町といった町がありました。江戸城の東に位置するこのあたりは、江戸時代のはじめには多くの寺院が集まる寺町でしたが、あいつぐ大火でこれらの寺はあちこちに移転しました。天和二年(1682年)の大火(八百屋お七の火事)の後、願行寺は駒込に、法善寺と本誓寺は深川に移りました。その跡地に開かれたのが橋本町です。橋本町の町名は、牛馬の売買や仲買をする幕府の博労役の橋本源七がこのあたりに土地を与えられたことにちなんだといわれています。この町の南に接する馬喰町(現・日本橋馬喰町)にも博労が住んでおり、馬市が盛んに開かれていたそうです。江川町は宝永年間(1704年〜1711年)に開かれた町で、伊豆韮山の代官江川家の屋敷があったことから名付けられた町です。富松町・久右衛門町は、享保三年(1718年)の火災ののち、神田川北岸よりこの地に移ってきた町です。関東大震災(大正十二年・1923年)後の復興計画にあたり、江戸時代から連綿と続いてきた町名が大きく変わることになりました。昭和九年(1934年)、橋本町・江川町・富松町・久右衛門町が合併して東神田になり、昭和十三年(1938年)には東神田町会が成立しました。昭和四十年(1965年)、住居表示の実施により、東神田は東神田一丁目と東神田二丁目に再編されました。

Higashi-Kanda

This area, to the east of Edo Castle, was once the site of many temples, but they moved away one by one following fires. This neighborhood was once composed of several different towns, but in 1934 they were amalgamated into what was given the name of Higashi-Kanda, or east Kanda.




ちなみに、都営地下鉄浅草線の馬喰横山駅の構内には、馬喰横山町の町名の由来となった馬のモニュメントと案内板が置かれてます。

「駅名由来」 馬喰横山駅

寛永図によると、橋本町(現在の日本橋本町)の辺りを横山片町と記してある馬喰町南北は、共に古く横山村の域内であり、その横山片町の北側はすべて寺院であった。馬喰町の博労師のことは、天正十八年の日記に「たかさと云う馬くろ、ゆいしょ申出る、馬場の地の絵図いたす」とあり、後世まで町名主の家とした馬喰を博労とも当時は書いたが本来は伯楽を本字とした。伯楽とは、馬医とか、牧人・馬商等を総呼する言葉である。いずれにしても馬に関係する家業の人々が始めた町であった。横山町は馬喰町の南側にあり、西側に本町・大伝馬町、東側は両国広小路になっていた。北条の役帳に「五貫三百文、江戸横山分」と記してあり、小さな村名と想われるが、初めは、横山何某の所有地であった。このように由緒ある馬喰町・横山町の二つの地名を合せて馬喰横山駅となった。




浅草橋交差点で靖国通りは終点となり、ここから先は京葉道路となります。それを区切るのが南北に走る江戸通りです。



両国橋は隅田川にかかる橋です。その橋名は、貞享三年(1686年)に国境が変更されるまでは隅田川が武蔵国と下総国との国境であり、その両国を繋ぐ橋であったことに由来します。その後は江戸川が国境となり、現在の東京都と千葉県を分けています。



両国といえば、花火と相撲ですね。橋の欄干には両国の二大名物を図柄化した装飾がなされています。



両国橋を渡った先の右手に両国橋児童遊園という名前の小さな公園があり、案内板や石碑が置かれています。奥の巨大な石碑には「表忠碑」と彫られ、日露戦争での戦没者を奉った慰霊碑です。満州軍総司令官大山巌元帥陸軍大将の筆になるものです。左側の石碑に刻まれている「日の恩や 忽ちくだく 厚氷」は、忠臣蔵四十七義士のひとりであり、討ち入りの日を決定する重要な情報を入手したと言われる大高源五の句碑です。大高源五は俳人でお茶も嗜むことから、吉良上野介義央の在宅の日の情報を上野介のお茶の師匠でもある山田宗偏から入手しました。その際に詠んだとされる辞世の句と言われています。中央の石碑には両国橋の由来が書かれています。

両国橋

両国橋の名は、武蔵と下総との二国を結ぶ橋であるところからこう呼ばれたが、正式の名は、ただ”大橋”であった。しかし新大橋なども造られたため、両国橋が正式の名となった。江戸一の大火である明暦の振袖火事(1657年)では、橋がなくて逃げられず多数の死者が出た。そのため、大火のあと、この橋が架けられた。回向院は、その人々を弔うために建てられた。のちに勧進相撲がもよおされることとなったのである。この橋が架かったため、本所・深川が江戸の新市街として発展することとなった。橋詰の両側は、賑やかな遊び場としても開けた。幕末からは川開きの花火もあって、江戸の市民には喜ばれた。現在の橋は、昭和七年(1932年)に完成した。




右端の案内板には両国橋を架橋した際に川底に打ち込まれた「百本杭」について記してあります。土木機械のない時代、流れの急な河川に長い橋を架けるのは大変な工事だったことでしょう。

両国橋と百本杭

両国橋の風景を持徴づけるもののひとつに、百本抗があります。昭和五年(1930年)に荒川放水路が完成するまで、隅田川には荒川・中川・綾瀬川が合流していました。そのため隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して、川岸が浸食されました。両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には、数多くの杭が打たれました。水中に打ち込んだ抗の抵抗で流れを和らげ、川岸を保護するためです。夥しい数の杭はいつしか百本杭と呼ばれるようになり、その光景は隅田川の風物詩として人々に親しまれるようになりました。江戸時代の歌舞伎では、多くの作品の重要な場面に「両国百本抗の場」が登場します。「十六夜清心」でも、冒頭に「稲瀬川百本杭の場」がおかれています。稲瀬川は鎌倉を流れる川の名ですが、歌舞伎の中では隅田川に見立てられることがあります。観客は「百本杭」という言葉から、この場面が実は隅田川を舞台としていることに気づくのです。百本杭はそれほど人々に知られた場所だったのです。また、明治十七年(1884年)に陸軍参謀本部が作成した地図には、両国橋北側の川沿いに細かく点が打たれ、それが百本抗を示しています。明治三十五年(1902年)に幸田露伴は「水の東京」を発表し、「百本杭は渡船場の下にて、本所側の岸の川中に張り出でたるところの懐をいふ。岸を護る杭のいと多ければ百本杭とはいふなり。このあたり川の東の方水深くして、百本抗の辺はまた特に深し。ここにて鯉を釣る人の多きは人の知るところなり」と富士見の渡の南側から見られた様子を綴っています。このほか、本所向島に親しんだ多くの文人が、百本杭と往時の記憶について書き留めています。しかし、明治時代末期から始められた護岸工事で殆どの抗は抜かれ、百本杭と隅田川がおりなす風情は今では見られなくなりました。




葛飾北斎は、生涯の殆どを墨田区で過ごしました。といっても、一箇所に定住していたわけではなく、生涯に93回も転居したそうで、一日に3回引っ越したこともあるといわれています。北斎が転居を繰り返したのは、北斎が絵を描くことのみに集中し、部屋が荒れたり汚れたりするたびに引っ越していたからです。最終的に、93回目の引っ越しで以前暮らしていた借家に入居した際、部屋が引き払ったときとなんら変わらず散らかったままであったため、これを境に転居生活はやめにしたとのことです。私はまだ20回しか引っ越しをしていませんが。。。案内板に北斎が描いた両国橋近辺の浮世絵の解説が記してあります。

すみだが誇る世界の絵師 葛飾北斎 が描いた風景をたどろう
両国納涼 一の橋弁天 −絵本隅田川両岸一覧−

狂歌絵本「隅田川両岸一覧」三巻のうち、中巻の一枚です。納涼の人々で賑わう、昼間の両国橋の様子が描かれています。手前は当時、江戸屈指の盛り場であった両国広小路であり、掛け小屋や茶屋などが並んでいるのがわかります。絵本ならではの横長の構図が、この絵の大きな特徴と言えるでしょう。真ん中の上方に見える小さい橋が、今の竪川(両国一丁目と千歳一丁目)に架かる一之橋。森のあたりが一の橋弁天で、現在の江島杉山神社です。右の三角の建物は幕府の御船蔵です。

Trace the footprints of KATSUSHIKA HOKUSAI, a world class painter of SUMIDA.
Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River: Ryogoku Noryo Ichinohashi Benten

One of the prints from the second of the three-volume comic tanka picture books, Panoramic Views on Both Banks of the Sumida River. This print is a depiction of a crowd of people enjoying the evening coolness on Ryogoku Bridge before it gets dark. At the forefront is the Ryogoku Main Street, a prominent amusement area during the Edo Era, and makeshift theaters and tea houses, etc., can be seen side by side. The main feature of this print is probably its size, which is wider than it is high as is typical with picture books. The small bridge that can be seen higher up in the center is the Ichinohashi Bridge, which spans the present-day Tatekawa River (Ryogoku 1-chome and Chitose 1-chome). The area around the forest is Ichinohashi Benten, which is currently the Ejima Sugiyama Shrine. The triangular building on the right is the Shogun's boathouse.




公園の隣のビルに、「山くじら ももんじや」の看板が掛かっています。「山くじら」とは、猪の肉の隠語です。肉食が禁じられていた江戸時代後期、猪の肉を食べさせる店では「山くじら」という看板を出し、動物の肉を大っぴらに食べさせていました。また、ももんじや(屋)とは、江戸時代の江戸近郊農村において、農民が鉄砲などで捕獲した農害獣の猪や鹿を利根川を利用して江戸へ運び、その他、犬や狼に狐・猿・鶏・牛・馬などの肉を食べさせたり、売っていた店のことをいいます。格子越しに中を覗いてみますと、猪君が鉤に逆さ吊りされています。お店の飾りのようにも見えますが、フサフサとした毛皮を見ると本物のようです。剥製なのでしょうか?



お店の前に墨田区の案内板が立っています。

江戸の味 ももんじや (Momonjiya)

享保三年(1718年)創業の猪料理店です。「ももんじ」とは「百獣」のことで、四つ足の動物の肉を扱う店を「ももんじ屋」と総称しました。現在は、この「ももんじや」を店名にしていますが、正式には「ももんじやの豊田屋」です。しかし、屋号の豊田屋はどこにも掲げられていません。もとは漢方の薬屋でしたが、薬の一種として出した猪が人気商品となり、料理店へ転身しました。猪の肉は、冷え性や疲労回復に効果があり、肉食が禁じられた江戸時代でも「山くじら」と称して食べられていました。猪は丹波や鈴鹿などから仕入れたもので、味噌仕立てのすき焼にします。その他、鹿刺し、狸汁など、他ではめったに味わえない珍しい肉料理が味わえます。




両国花火資料館は、江戸花火の歴史や芸術性を紹介・展示している江戸情緒溢れる資料館です。平成三年(1991年)、花火の歴史や芸術性の理解を深める施設として、日本の納涼花火大会発祥の地である両国に創立されました。享保十八年(1733年)、八代将軍徳川吉宗が前年に起こった飢饉の死者への供養として水神祭と施餓鬼会を行ない、その例祭で花火を打ち上げて両国川の川開きを行った事から、両国は花火発祥の地と言われています。館内には、花火の歴史や花火玉の断面の模型、それに花火を打ち上げる花火師の舞台衣装「半纏」が展示され、花火師の心意気が感じられるようになっています。また、係員が現在の花火の製造方法をビデオを使って丁寧に説明してくれるサービスも行っています。夏の花火シーズンには企画展や特別展示なども行なわれ、花火の歴史から現在までを視覚的に楽しむことができます。花火の絵葉書なども販売され、お土産品として人気になっています。曜日限定で開館しているため、残念ながら今日は休館日になっています。



両国花火資料館の建物に隣接して、円筒を半分に割ったような形の屋根が特徴的な回向院の山門があります。

回向院(Eko−in Temple)

明暦三年(1657年)、江戸史上最悪の惨事となった明暦大火(俗に振袖火事)が起こり、犠牲者は十万人以上、未曾有の大惨事となりました。遺体の多くが身元不明、引取り手のない有様でした。そこで四代将軍コ川家綱は、こうした遺体を葬るため、ここ本所両国の地に「無縁塚」を築き、その菩提を永代にわたり弔うように念仏堂が建立されました。有縁・無縁・人・動物に関わらず、生あるすべてのものへの仏の慈悲を説くという理念のもと、「諸宗山無縁寺回向院」と名付けられ、後に安政大地震・関東大震災・東京大空襲など様々な天災地変・人災による被災者、海難事故による溺死者・遊女・水子・刑死者・諸動物など、ありとあらゆる生命が埋葬供養されています。




参道の入口横には回向院の由緒を記した案内板が立っています。鼠小僧次郎吉の本来の墓は南千住の小塚原回向院にあり、両国の墓は明治時代に建てられた供養墓となっています。鼠小僧次郎吉は鈴が森で獄門(斬首刑)になったそうですが、なんで小塚原刑場近くに墓を作ったのでしょうかね?ちなみに、江戸時代の刑場は北に小塚原刑場、南に東海道沿いの鈴ヶ森刑場(南大井)、西に大和田刑場(八王子市)があり、三大刑場といわれました。鼠小僧次郎吉の墓のすぐ隣に「猫塚」と書かれた碑があります。名前のとおり、猫の供養のために建てられた塚です。「猫に小判の話」とは、「文化年間、日本橋に住む時田半治郎という人がいて、家計が窮迫したうえに病気となって苦しい毎日を送っていたところ、日頃かわいがっていた猫が小判をくわえてきて長年の恩にむくいた。それ以来、時田家の家運が次第に開けて、病気も治り家運が挽回し繁栄していった。時田家では、この猫を徳として感謝していたが、猫が死ぬとその霊を回向院に埋葬し、墓をたてた」というお話です。

諸宗山 回向院

明暦三年(1657年)江戸大火(振袖火事)に依る死者10万八千余人を弔うために建立された。

安政大地震(1855年)の死者二万五千人余を初めとして、江戸府内の無縁佛・天災地変に因る死者も埋葬され、近くは大正十二年の関東大地震の死者十万余人の分骨も納骨堂に安置されています。

江戸時代の雰囲気を伝える史蹟記念碑墓地がある。
 明暦三年 大火石塔
 安政二年 大地震石塔
 鼠小僧次郎吉墓
 水子塚 (寛政五年)松平定信建立
 猫に小判の話 猫塚
 勧進相撲発祥の地記念 力塚
 呼び出 定火消墓 木遣塚
 諸動物供養塔
 竹本義太夫墓
 岩P京傳・京山・加藤千陰墓




回向院の境内には、かって大鉄傘と愛称された旧国技館がありました。収容人数一万三千人のドーム型建物を造ったほどですから、境内は相当に広かったのでしょう。

旧国技館跡

旧国技館は、天保四年(1833年)から回向院で相撲興行が行われていたことから、明治四十二年(1909年)に、その境内に建設されました。建設費は二十八万円(現在の価値では七十五億円程度)です。ドーム型屋根の洋風建築で、収容人数は一万三千人でした。開館当時は両国元町常設館という名前でしたが、翌年から国技館という呼び方が定着し、大鉄傘と愛称されました。しかし、東京大空襲まで、三度の火災に見舞われるなど御難統きで、戦後は進駐軍に接収されました。返還後は日大講堂として利用されていましたが、昭和五十八年(1983年)に解体されました。左手奥の両国シティコアビル中庭の円形は、当時の土俵の位置を示しています。




大鉄傘については、もうひとつの案内板が置いてあります。明治時代にこのような巨大で難しい構造の建物を建てたのは信じられませんね。

国技館(大鉄傘)跡

相撲は、もともと神事であり、礼儀作法が重んじられてきました。現代の大相撲は、江戸時代の勧進相撲を始まりとします。回向院境内にある「回向院相撲記」には、天保四年(1833年)から国技館に開催場所が移されるまでの七十六年間、相撲興行本場所の地であった由来が記されています。国技館は、この回向院の境内に明治四十二年(1909年)に建設されました。三十二本の柱をドーム状に集めた鉄骨の建物は大鉄傘とも呼ばれ、一万三千人収容の当時最大規模の競技場でした。日本銀行本店や東京駅の設計で著名な辰野金吾が設計を監修しました。相撲興行は、戦後もGHQに接収されていた国技館で行われました。しかし、メモリアルホールと改称された後は本場所の開催が許されず、明治神宮外苑や浜町公園の仮設国技館での実施を経て、台東区に新設された蔵前国技館における興行に至ります。一方、接収解除後のメモリアルホールは、日本大学講堂となりますが、老朽化のため昭和五十八年(1983年)に解体されました。そして同六十年(1985年)、地元の誘致運動が実を結び、JR両国駅北側の貨物操車場跡に新国技館が完成、「相撲の町両国」が復活しました。大鉄傘跡地は現在複合商業施設となっていま すが、中庭にはタイルの模様で土俵の位置が示されています。




両国といえば、国技館と忠臣蔵ですね。歩道の脇に「本所松坂町趾」と書かれた古びた石柱が建っています。裏面には何やら書かれていますが読み取れません。播州赤穂の四十七士が主君の無念を晴らす為にここにあった吉良邸に討ち入ったのは五代将軍綱吉の時代でした。松坂町という名は吉良家の所領が松坂だったことに由来するそうです。その本所松坂町の地名が無くなることを惜しんで建てられた石碑とのことです。京葉道路から樫川方向に入った路地に面して、吉良邸跡の(ごく)一部に造られた本所松坂町公園があります。公園といっても遊具などはなく、吉良邸内の様子を復元したものです。園内には吉良上野介義央の彫像とか、討ち取った上野介の首を洗った井戸とか、もろもろの展示がされています。毎年12月14日の義士祭の日には、本所松坂町会の人達によって慰霊祭が行われています。京葉道路に面して「忠臣蔵」という店名の居酒屋さんもありますね。劇酒場と謳っていますので、入店するには討ち入りの衣装を着ないといけないかも。



大横川親水公園に架かる(実際は地続きですが)江東橋の先に両国高校附属中学校があります。高校の附属中学って、どういう形態なんでしょうか?大学の教育学部附属とは違って、都立の中高一貫校ということらしいです。附属中学は平成十八年(2006年)に開校し、中高一貫校に移行しました。中学受験においては都立中高一貫校の中でも高い難易度を維持していて、小石川・武蔵と共に「都立中御三家」と呼ばれているそうです。



錦糸町は東京の東部を代表する繁華街です(北部は赤羽、西部は八王子)。四つ目通りを挟んで、JR錦糸町駅ビルと娯楽の殿堂楽天地が並んでいます。楽天地は、昭和12年(1937年)に江東楽天地という名称で錦糸町駅前に開業しました。周辺の映画館を集め、遊戯施設の他、吉本興業と提携した江東花月劇場も誘致され、総合レジャー施設となりました。戦後はキャバレーや場外馬券売り場も設けられ、大人の娯楽施設として発展してきました。中年以降の年代には、天然温泉とボーリング場が記憶に残っているかもしれません。現在は、地下にスーパーの西友、残りのフロアは錦糸町パルコとなっています。温泉や映画館も健在です。



錦糸町駅前に「魚寅」という魚屋さんがあります。刺身・切り身・干物・練り製品に寿司と、魚なら何でも売られています。名物は店頭で販売されている鮪と蛸のぶつ切りです。品が良いのと値段が安いのとで、ぶつ切りコーナーには常に行列ができる盛況ぶりです。



私は入ったことはありませんが、2階にはお寿司割烹があるみたいです。お値段はそこそこするみたいですけど、一度は三崎港直送の鮪を味わってみたいものです。



横十間川に面して巨大な箱形の建物があります。城東地区の医療の拠点である都立墨東病院です。昭和三十六年(1961年)に設立され、現在は765病床数の規模があります。尾身茂新型コロナウイルス感染症対策分科会長が研修医として勤務したことがあるそうです。



亀戸駅の手前に、京葉道路を高架で横断する鉄道があります。JR東日本が運行する総武本線の越中島貨物支線で、越中島貨物駅と小岩駅とを結んでいます。現在も運行されているとのことですが、私は列車が走っているところを一度も見たことがありません。



亀戸駅先の水神森交差点から南方向に細長く公園が延びています。都電29系統は水神森交差点で右折して専用軌道に入っていました。その線路跡に造られたのが亀戸緑道公園です。緑道の両側には植樹がなされ、お散歩やひとときの憩いに活用されています。緑道の東側にはサンストリート亀戸という複合商業施設がありましたが、現在は再開発がなされ、プラウドタワー亀戸クロスという大規模なマンション群が建設中です(2022年3月時点では竣工済のようです)。敷地内には2022年4月末に「KAMEIDO CLOCK」という商業施設もできるとのことです。



ちなみに、「KAMEIDO CLOCK」のマスコットキャラクターは「カメクロちゃん」だそうです。亀戸の”時”を司る亀とのことで、甲羅は自在に変化する時計になっていて、亀戸の歴史をよく知っている上に、これからの未来についても日々考えているのだとか。ゆるキャラグランプリ大会に出場したらと思ったのですけど、残念ながら大会は2020年10月をもって終了したのだそうです。



公園には、この敷地がかっての都電跡に整備されたということが書かれた案内板が立っています。一部ですが、当時使われていた線路も復元・展示されています。

亀戸緑道公園

この緑道公園は、昭和四十七年(1972年)11月に都電が廃止され、その後みどりといこいの散歩道として建設されたもので、清掃等についてはみどりの協定により、地元のみなさんにお願いしています。




線路には引き込み線があり、その先にはかって都電で使われていた車輪の複製が2組展示されています。引き込み線は展示用に造られたもので、この地点は堅川に架かっていた都電専用橋のすぐ手前に当たりますので当時はなかったものと思われます。専用橋は、都電廃止後に人道橋に造り変えられ、その後軌道敷跡が亀戸緑道公園になってから竪川親水公園と一体改修されて現在の姿になりました。

堅川専用橋と堅川人道橋の歴史

かつてこの場所には、路面電車が走るための「竪川専用橋」が水神森〜大島間の開通に合わせ、大正十年一月より架設されていた。当初の運営は大正二年十月に設立された城東電気軌道(株)で、昭和十七年二月に東京市営、同十八年七月に都営となった。ところが、昭和二十年の大空襲により甚大な被害を受けた。しかし復興に努め、昭和二十四年には区内全域が開通した。「チンチン電車」と呼ばれて親しまれ、便利だった都電も昭和三十年代の高度経済成長政策の頃から、自動車交通の急激な発達により道路が渋滞し、輸送力低下による赤字決算の連続となった。その結果、昭和四十七年、区内全線が廃止された。そして、昭和五十年、この橋は歩行者専用橋として改修され「竪川人道橋」と呼ばれるようになり、同五十四年、橋の南北の軌道敷は緑道公園に生まれ変わった。以来、この橋は平成七年の景観整備工事にて都電をモチーフに修景され、地域の歴史を伝えるモニュメンタルな橋として地域に親しまれてきたが、老朽化が進んできたこともあり、竪川河川敷公園の大規模改修に合わせ一体整備されることとなり、平成二十三年に橋は撤去され、現在の姿となっている。なお、モニュメントのレールの一部は「25系統」の亀戸九丁目で使われていたものを再使用しており、車輪は当時の写真等を参考にオブジェとしてデザインされたものである。




遊歩道の脇に、かって竪川専用橋を渡っていた都電の姿をモチーフにした欄干の模型が置かれています。デザインは素晴らしいのですが、作り込むには大変な手間がかかったことでしょう。紙切り細工でもできるかな?



欄干の模型の横に案内板が立っています。添えられた写真には、専用橋上を走る都電の勇姿が見えます。竪川はドブ川のようで、橋も貧弱な造りに見えます。昭和三十年頃の風景とのことですが、戦後の混乱期からようやく復興を始めた時代を反映していますね。

橋の記憶

ここには、かつて川があり、橋がありました。橋には都電が走っていました。時の流れとともに、都電は廃止され、高速道路が建設されました。やがて、川は埋め立てられ公園となり、役目を終えた橋が撤去されました。長年、みなさんに親しまれた橋の思い出を次の世代に伝えていくため、ここに「橋の記憶」を設置します。

経緯  大正10年 1月  路面電車の専用橋として架設
    昭和46年 3月  高速道路の開通
    昭和47年11月  都電の廃止
    昭和50年 2月  歩行者・自転車専用橋として再整備
    昭和59年 4月  堅川河川敷公園の開園
    平成23年 9月  橋の撤去




今日は2月の最終日ですが、ナント桜の花が咲いています。標札には「カンザクラ」と記されています。カンザクラは早咲きで知られる河津桜よりも開花は早く、花の色は淡い紅色です。青空にピンク色の桜の花が映えますね。



緑道に隣接して小さな神社が鎮座しています。神輿庫もありますので、地元の人達に信仰されているのでしょう。

亀出西部 子安稲荷神社 縁起

江戸時代元禄年間の中頃、村民によって宇迦能魂之神(うかのみたまのかみ)を祀り、護国豊穣と子孫の繁栄を願い鎮座されました。氏子は現在の大島三丁目・四丁目の一部と南五ツ目(大島二丁目の堅川沿いの一部)でした。明治の末期(四十三年)香取神社の社掌兼務となり、旧高砂鉄工所(現ミッドランドアベニュー)門前近くに鎮座されておりましたが、昭和三十年頃工場拡張工事の際、現在地にて町会の守護神として祀ってくれる様にと願い出あり、大島三丁目町会役員・世話人・氏子相談の上、当地にお祀りすることになりました。現在は、商売繁盛・学問・安産・子育ての神として崇拝を受けております。
平成六年六月吉日 灯籠、狛犬の奉納
平成二十七年七月吉日 社殿大改修を施工 大島三丁目町会並びに亀出西部氏子会員にて奉納する。




新大橋通りを渡ったところにダイエーのお店があります。懐かしい店名ですね。ダイエーは昔は全国チェーンの一大スーパーマーケットでしたが、バブル崩壊後の1990年代から経営不振になり、平成二十七年(2015年)1月からイオンの完全子会社となってイオングループに入りました。現在でも都内のところどころにダイエーの名を冠したお店はありますが、大島にもあるんですね。ダイエーは創業者の中内功が生まれ育った阪神地区を中心に店舗を展開し、ショッピングセンターや総合スーパーといった業態を日本で初めて導入して、戦後の日本の流通・小売業界を発展させた代表的な企業として知られています。創業以来一貫して「価格破壊」をスローガンとし、「よい品をどんどん安く」や「お客様のために」をスローガンに、「主婦の店」という商号で一世を風靡しました。残念ながら、ダイエー大島店は「店舗建て替えのため本日をもって閉店」という垂れ幕がかかっています(注:2022年3月の情報では、建て替え計画はなくなり、跡地には50階建ての超高層マンションが建つみたいです)。営業最終日とのことですので、店内を見ていこうと思います。おんや、お魚売り場に大量のサーモンの切り身が並んでいますね。最近はサーモンは高値の花と化しましたが、最終セールとあって爆安で売られています。お散歩の途中ですが、つい大量買いしてしまいます。今日の晩ご飯はサーモンのお刺身と白ワインで決まり!



大島緑道公園の遊歩道はダイエーの先で弧を描き、明治通りに出ます。



さらに、進開橋で小名木川を渡ります。小名木川は、隅田川と旧中川を結ぶ運河で、徳川家康の命令で開削されました。天正十八年(1590年)頃、江戸城を居城に定めた徳川家康は、兵糧としての塩の確保のため行徳塩田(現在の千葉県行徳)に目を付けました。しかし行徳から江戸湊(当時は日比谷入江付近)までの江戸湾(東京湾)北部は当時砂州や浅瀬が広がっていて船がしばしば座礁していたため、大きく沖合を迂回する他ありませんでした。また、沖合を迂回した場合でも風向きによっては湾内の強い風波を受けて船が沈むことがあり、安全とは言えませんでした。そこで家康は小名木四郎兵衛に命じて行徳までの運河を開削させたのが小名木川の始まりです。運河の開削によって行徳から江戸まで安全に塩を運べるようになると共に、航路が大幅に短縮されました。そのため、小名木川は、別名「しおのみち」とも呼ばれました。



小名木川を渡った右手に巨大な商業施設があります。亀戸駅の手前の京葉道路を高架で横断していた日本貨物鉄道(JR貨物)の越中島支線の貨物駅で平成十二年(2000年)に廃駅になった小名木川駅跡地に立地するイトーヨーカ堂の大型ショッピングセンター「アリオ」です。アリオとしては都内三番目の店舗ですが、貨物駅の跡地に立地するのは初めてとのことです。



砂町といえば「砂町銀座商店街」ですよね。砂町銀座商店街は明治通りと丸八通りを結び、全長約670mの両側に約180店が軒を連ねています。戸越銀座商店街・十条銀座商店街と共に、都内の三大銀座商店街に数えられています。今もなお昭和の色影を色濃く残した下町の商店街です。毎月10日には「ばか値市」と呼ばれる大安売りを行っていて、平日で1日延べ15,000人、休日になると延べ2万人が訪れます。砂町銀座商店街の名物は激安が売りの「魚勝」で、お昼前の開店と同時に買い物客が店内になだれ込み、押すな押すなの大混雑となります。他のお店にない珍しい魚介類もあり、早い者勝ちです。午後二時過ぎになると売り場は閑散とし、残り物は割引になってお得です。お婆さんが店番をする「あさり屋さん」の浅利めし、「手作りの店さかい」のマグロメンチ、「増英蒲鉾店」の超塩辛いすじなどなど、お惣菜や食材も大人気です。



砂町銀座商店街入口の横に「海幸」があります。お昼時には行列ができる寿司居酒屋さんです。新鮮で美味しい魚介類を使った丼ものが人気ですが、品数限定のランチメニューは直ぐに売り切れになります。



境川交差点を左折して清洲橋通りに入ります。交差点の名前に残る境川の周辺は、江戸時代に砂村新田と呼ばれていました。万治二年(1659年)、砂村新左衛門が宝六島(現在の南砂一丁目付近)を中心にして436石の新田を開拓したことから、開拓者の名前をとって名付けられました。小名木川から水を引いて中川に注ぐように、新田の中央に幅約19mの水路を設け、砂村新田の八右衛門・久左衛門・亀高・大塚の4ヵ村の南を境にして流れていたことから、境川という名前で呼ばれていました。その後、田畑の減少や舟運の減少等に伴って、境川は水路としての必要性が薄れ、廃川となって昭和五年(1930年)に清洲橋通りへと変わりました。



清洲橋通りに面した公園のトイレの衝立に、都電29系統の在りし日の電車の絵と共に、都電の歴史が記されています。案内板の費用の節約という意味もあったのでしょうけど、何もトイレの衝立を使う必要はなかったと思うのですが。。。

新橋〜品川間を最初の都電(当時市電)が走ったのは1903年。チンチン電車とよばれた都電は、東京の風物詩でもあり、沢山のお客さんを乗せ、のどかに走っていました。1967年、銀座線の廃止にはじまって、交通渋滞の激しい路面から都電は次々と姿を消してゆきました。前の通りを走っていた都電も、1972年に姿を消しました。



仙台堀川親水公園と交差し、荒川西岸の手前にある旧葛西橋交差点の近く、現在の旧葛西橋バス停の辺りに都電29系統の終点だった葛西橋電停があったようです。都電29系統が開通したのは昭和三年(1928年)のことで、昭和五年(1930年)に完成した荒川放水路の工事は殆ど終わっていました。なので、荒川の手前で終点とならざるを得ませんでした。



ということで、都電29系統跡の歩きを終えました。須田町から水神森の区間は他の路線も通り、水神森から境川までの区間は都電38系統と共有していましたが、境川から葛西橋までは都電29系統のみが走っていました。東京東部の下町を巡るどこか懐かしい路線跡の歩きでした。




戻る