都電31系統跡コース  

コース 踏破記  

今日は都電31系統跡を歩きます。都電31系統は三輪橋から都庁前(現在の東京国際フォーラム)までを結び、その路線は主に昭和通り・国際通り・【千束一丁目交差点〜金竜小前交差点】・かっぱ橋道具街通り・新堀通り・蔵前通り・江戸通り・永代通り・都道407号丸の内室町線を通っていました。都心を南北に縦断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。また、クランクが多い路線としても知られていました。  

都電31系統

都電31系統の全長は7.4kmで、昭和44年10月26日に廃止となりました。

都電31系統の電停(路上の駅)は、三輪橋・三輪車庫・竜泉寺町・千束町・入谷町・合羽橋・菊屋橋・三筋町・蔵前一丁目・浅草橋駅・浅草橋・馬喰町・小伝馬町・本町三丁目・室町三丁目・新常盤橋・丸ノ内一丁目・降車口・乗車口・都庁前でした。


都電31系統の起点だった三輪橋電停は、現在の都電荒川線の起点となっている三ノ輪橋電停から狭い通路を抜けた先の日光街道上にありました。水天宮と千住四丁目を結んでいた都電21系統の電車が行き交う中、その合間を縫って都電31系統の電車が折り返しをしていました。都電31系統が運転に都合がよい三輪車庫を起点とせず、そのひとつ先の三輪橋を起点としたのは、旧王子電軌の都電27系統との接続を意識していたのかもしれません。



ところで、「都電荒川線入口 いらっしゃいませ 三ノ輪橋商店街」と書かれた看板の上にはレトロなビルが建っています。現在は「梅沢写真会館」として使われていますが、実はこの建物は旧王電ビルヂングなのです。王電は「王子電気軌道」の略です。都電荒川線の前身である「王子電気軌道」によって、昭和二年(1927年)に建てられた、王子電気軌道の本社ビルだったのです。王子電気軌道は、電気事業(電灯電力事業)と軌道事業(路面電車)と路線バス事業を行っていて、「王子電車」・「王電」とも呼ばれ、この本社ビルも「王電ビル」と呼ばれていました。昭和二年当時は周辺に高い建物は少なく、この4階建ての王電ビルの存在感は圧倒的だったとのことです。この建物は太平洋戦争をくぐり抜け、往時の姿のまま現存している貴重な存在です。



日光街道の歩道脇に、現在荒川線の電停の名前として残っている三ノ輪橋の案内板が立っています。この付近に川が流れていたなんて今では想像もつきません。

三ノ輪橋(音無川)

三ノ輪橋は、石神井川の支流として王子から分流した音無川が、現在の日光街道と交差するところに架けられた橋である。橋の長さは五間四尺(約十メートル)、幅三間(約六メートル)であったという。音無川は、日暮里駅前を経て、台東区(根岸)との区境を通り、常磐線ガード手前を右折、その左角は私立池谷小学校(明治三十六年廃校)跡、そして現日光街道を横ぎり、日本堤の北側を流れて山谷堀にいたるものであった。明治四十一年、三ノ輪が属する十六番分水組合が廃止され、音無川は農業用水としての役目を終えた。現在は暗渠となり、橋の名前は、都電荒川線の停留所名として残されている。

Minowabashi Bridge (Otonashi River)

The Minowabashi Bridge was built on the point where the Otonashi River, which branched off the Shakujii River at Oji, intersected the current Nikko Kaido Road. The bridge had been about 10 m long and about 6 m wide. The Otonashi River was used as agricultural water. It passed by Nippori Station, hugged the boundary with Taito City, and crossed National Route No. 4 before reaching the San'ya-bori canal. In 1908, the Otonashi River finished its role as agricultural water and is now a closed conduit. The name of the bridge remains today as the name of the stop on the Toden Arakawa Line.




同じく、三の輪橋の由来を記した案内柱が立っています。「三の輪橋」と「三ノ輪橋」の呼称の違いについて調べてみたのですが、分かりませんでした。

三の輪橋(みのわばし)

かって石神井用水(音無川)と日光街道が交叉する地点に架かって いた。江戸時代には市中と市外の境界に位置して、現在の台東区域と荒川区域を結んでいた。昭和初期に石神井用水は暗渠となったため 三の輪橋も撤去されて、現在は都電荒川線の停留所にその名が残る。




三ノ輪橋交差点で日光街道を離れ、国際通りに入ります。都電31系統は、都電21系統と共に三輪車庫が管轄していました。三輪車庫は、三ノ輪橋交差点脇の日光街道に面していました。その跡地は、現在台東区立根岸図書館と都営アパートになっています。



国際通りに面して西徳寺があります。門前には「第十七代目中村勘三郎墓所」の石碑が建っています。十七代目中村勘三郎は歌舞伎役者として有名ですが、私的には十八代の方が馴染みがあります。惜しくも平成二十四年に五十七歳の若さで亡くなりましたが、十八代の墓所も西徳寺にあります。



西徳寺の斜め向かいに、酉の市発祥のひとつといわれる長國寺があります。酉の市は、鷲神社・酉の寺・大鳥神社など鷲や鳥にちなむ寺社の年中行事として知られ、関東地方を中心とする祭りです。多くの露店で威勢よく手締めして「縁起熊手」を売る祭の賑わいは、年末の風物詩となっています。酉の市発祥については諸説ありますが、15世紀初めの応永年間に始まるとされ、武蔵国南足立郡花又村(現在の足立区花畑)にある大鷲神社(鷲大明神)の花又鷲大明神を産土神とする近在住民の収穫祭が江戸酉の市の発祥とされています。門前に詳細な案内板が置かれています。

浅草「酉の市」発祥の寺
「酉の寺」・鷲在山・長國寺と鷲妙見大菩薩

当山は江戸時代、寛永七年(1630年)に日乾上人によって開山されました。山号を鷲在山、寺号を長國寺と称し、法華経(本門流)の寺です。宗祖を日蓮大聖人として開運招福の守り本尊である鷲妙見大菩薩が安置されています。開山当時より鷲妙見大菩薩の開帳が11月酉の日に行われ、多くの参詣者を集めて門前に市が立つようになりました。それが浅草「酉の市」の発祥です。長國寺の門前市であった浅草「酉の市」は、吉原などの隆盛とともに賑わいを増し、市で売られる縁起熊手等も持て囃され、江戸庶民にとっては春を迎えるための欠かせない行事となりました。鷲妙見大菩薩は七曜の冠を載き宝剣をかざして鷲の背に立つお姿から、「鷲大明神」「おとりさま」と呼び親しまれました。また「絵本江戸土産」では「破軍星」とも言われ、開運招福・商売繁盛・武運長久の御利益を授ける尊仏として厚い信仰を集めてきました。1年の無事に感謝し、来る年の幸いを願う「酉の市」は江戸時代から続く伝統と文化を今も変わらずに受け継いでいます。当山、長國寺では明治初年の神仏分離令で「酉の寺」長國寺の一部が新たに鷲神社として分割されましたが、現在も11月酉の日には多くの善男善女を集めて、鷲妙見大菩薩の御開帳の法要を行ない「酉の市」を開いております。

The Temple of Chokoku-ji and the Origin of Asakusa Tori no Ichi Fair

The temple of Chokoku-ji was established in 1630, in the early years of the Edo period, and it was dedicated to Nichiren, the Buddhist priest who founded the sect that is named after him. Enshrined in the temple is a statue of Washimyoken Bodhisattva, who holds a sword in his right hand and has an aureole incorporating the seven stars of the Great Bear constellation. Familiarly known as Otori-sama among the people of Edo (now Tokyo), the statue stands on the back of an eagle (washi), hence its name, and it is reputed to bring good fortune and prosperity to all people who worship it. The Washimyoken Bodhisattva was unveiled in November on the day of the Tori (Rooster), according to the lunar calendar. The event attracted so many people that an open-air market came into being, and this is the origin of the present Asakusa Tori no Ichi (Asakusa Fair of the Rooster) and the reason Chokoku-ji is also known as Tori no Tera (Temple of the Rooster). Held in front of the main gate of Chokoku-ji two or three times each November, the fair prospered during the Edo period together with the adjacent Yoshiwara pleasure quarter. A highly decorated bamboo rake was particularly popular as a charm to bring prosperity in business. In 1868, after a government ordinance separated Shintoism from Buddhism, one'part of Chokoku-ji became Otori Shrine, which holds its own Tori no Ichi at the same time as Chokoku-ji's fair. The Asakusa Tori no Ichi fair is still flourishing today and represents a continuing tradition from the Edo period, when townspeople came to the temple of Chokoku-ji to give thanks for the health and safety of their families and to pray for good fortune and happiness in the year to come.




長國寺の隣には、同じく酉の市発祥のひとつといわれる鷲神社があります。鷲神社の酉の市(浅草酉の市)は関東三大酉の市のひとつで、熊手店が約150店舗・露天が約750店も出店され、毎年70万人〜80万人の人出で賑わいます。

鷲神社

鷲神社は、江戸時代「鷲大明神社」と称されていたが、明治のはじめ「鷲神社」と改称された。祭神は天之日鷲命・日本武尊の二神。草創は不明である。社伝によれば、天之日鷲命の祠に、日本武尊が東国征伐の帰途、熊手をかけて戦勝を祝った。この日が十一月酉の日で、以後、この日をお祭と定めたという。酉の市は、江戸中期より冬の到来を告げる風物詩と して発展し、足立区花畑を「大鳥」、浅草を「新鳥」と称した。浅草はとくに浅草観音・新吉原・猿若町芝居小屋を控え、賑いをみせた。一の酉、二の酉、年によって三の酉とあり、世俗に三の酉があると火事か多いと言われる。酉の市は、当初、農産物や農具の一種として実用的な熊手を売る市であった。その後、熊手は幸運や財産を「かきこむ」といわれ、縁起物として商売繁昌開運の御守として尊ばれてきた。また、八ツ頭は、人の頭になる、子宝に恵まれるといわれる。

OTORI SHRINE

There are two gods to which the Otori Shrine is dedicated Amenohiwa-shi-no-mikoto and Yamato-takeru-no-mikoto. According to the legend of the shrine, Yamato-takeru-no-mikoto felicitated his victory on his way back from his expedition by hanging a rake on the small shrine for Amenohiwashi-no-mikoto. It occurred on the Day of the Cock in November, so that the day was subsequently chosen as the date of the festival. The Cock Fair was developed in the middle of the Edo era, as the poetical feature foreboding the arrival of winter. There is the First Cock Fair, the Second Cock Fair and, depending on the year, the Third Cock Fair. The year having the Third Cock Fair is said to have many fires. Originally, the Cock Fair was a fair to sell rakes for practical use as a kind of agricultural product or implement. Subsequently, a rake was said to be useful in collecting fortune and assets. Therefore, it has been regarded as the charm for bringing about commercial prosperity or luck.




鳥居の前には酉の市についての詳細な解説を記した石碑が置かれています。

浅草「酉の祭」「酉の市」起源発祥の神社
「おとりさま」・鷲神社と鷲大明神

鷲神社は江戸時代以前より比の地にまつられ、江戸時代は鷲大明神社と号し、福運を招き、強運にあずかる守り神として鷲大明神がまつられ、大明神と伝われるとおり神様をおまつりしてあります。鷲大明神は天日鷲命と申され、開運・商売繁盛にあらたかな神として古くから崇敬されております。その発祥は景行天皇の御代、日本武尊が東夷征討の時、鷲大明神社(鳥の社)に立ち寄られ、戦勝を祈願し、志をとげての帰途社前の松に武具の「熊手」をかけて勝ち戦を祝い、お礼参りをされました。その日が十一月の酉の日であったので、この日を鷲神社の例祭日と定めたのが「酉の祭」即ち「酉の市」の起源・発洋です。その后、日本武尊が併せまつられ、浅草「酉の祭」「酉の市」は次第に賑いを増し、酉の市に商われる縁起熊手も年毎に人気となり、江戸の庶民の春(正月)を迎える行事として益々盛大に華やかさを加えたのです。特に吉原遊廓の隆盛と共に賑い「吉原のおとりさま」とも云われました。江戸時代からまつられている「鷲大明神」天日鷲命は、鷲の背に乗るお姿から「鷲大明神・おとりさま」といわれ、江戸の数々の火事、関東大震災、第二次大戦の戦禍にもお守りされ、三百年以上にわたり鷲神社に安置されております。天日鷲命は、「東都歳時記」に”開運の守護神なり”とあり、日本武尊と共に福運・強運・商売繁昌・武運を司どる神様として厚く信仰されております。

「酉の祭・酉の市」

歳末にあたり一年を神に感謝し、新年を迎えるにあたり福運を願う祭りである浅草「酉の市」は、江戸の昔の華やかさとその伝統を今に伝えると共に多くの善男善女の厚い信仰を集め、今に受け継がれております。「酉の市」は江戸時代には「酉の祭」とよばれ、人と神が和楽する祭りを意味しております。又、「市」は「斎く」で神様をお祭りするために「身を清めてつつしむ」ということです。このように「祭」・「市」も本来は「清浄な神祭」を表わしております。縁起熊手にも神社で使われる四手(紙で作った四垂れ)や神様を祭る場所であることを示す注連縄がつけられております。この事からも「酉の市」の「市」は神社の御祭神と参詣する多くの善男善女の人々が共に和み楽しむ神社の祭を表わしており、佛教・寺とは何のかかわりのない祭なのです。江戸時代の「酉の市」は鷲大明神社(鷲神社)として開かれており、当時は神佛混淆といい神社と寺が一緒に運営されておりました。別当長國寺(別当とは単に僧侶が神主を兼ねる僧職のこと。)は寛文九年に元鳥越より現在の所に移転して鷲大明神社(鷲神社)の別当となりました。明治元年「神佛分離令」が出され、鷲大明神社と長國寺は分離されることになり、長國寺の別当を廃し、鷲大明神社は、社号を鷲神社と改め、当時の長國寺住職・田中常繁氏は鷲神社神主となり、本来の姿になったのです。その后、長國寺は明治四十三年、それまでの山号の本立山を鷲在山と改めており、更に大正十二年の関東大震災后に南向きの本堂を鷲神社と同じ西向きに改めております。このように 「鷲大明神社」「鷲大明神」といわれるように「おとりさま」は神様をおまつりする神社であり、その御由緒により十一月の酉の日に「酉の市」が齊行され多人の参詣者が集い、鮮やかな感動をよび、人と祭りのふれあいを感じさせるのです。

"TORI-NO-ICHI" CELEBRATION OF THE OHTORI SHRINE

"Tori-no-Ichi" Festivals of the Ohtori Shrine in Asakusa. Tokyo are held twice or thrice every November since the Edo era. That Festivals appellation is called the first Festival "Ichinotori", the second Festival "Ninotori", the third Festival "Sannotori". The origin of "Tori-no-Ichi" Festivals of the Japanese mythology of the Ameno-Hiwashino-Mikoto and the Yamato-Takeruno-Mikoto are worshiping as god, also the Ohtori Shrine commonly are called "Otori-Sama" and the Festivals on the days be bustling by worshipers, that days celebrate the Festival all day long. And this worship is that invoke a providence, give thanks to a divine favour, both it is that pray good fortune and good news in future and keep out of harm's way. They are borught about its when we live the daily life purely, righteously, vigorously, harmoniously. Then the 300 rake stalls in the yard of the Ohtori Shrine sold lucky rakes bedecked with colorful symbols of good fortune, belived to bring wealth to the purchasers.

Anticipating Spring,
The beginning of it all,
Year-end fairs.

"Haru wo matsu,
Koto no hajime ya,
Tori-no-Ichi"
by TAKARAI, Kikaku (Haiku)



Counted as one of Basho's ten great students, he is famous for his fresh and penetrating insights into the society of the Edo. The "Tori-no-Ichi" Festivals occurred several times, in the end of the year. It was the one time all year that the gates of the Yoshiwara Pleasure district were opened to let the public in to walk its streets. Without the "Tori-no-Ichi" market, the small merchants and farmers would not be able to pay off their annual debts. At the same time, goods bought at this market--good luck charms, food-stuffs, etc. -- constitute the first shopping in preparation for new year celebrations. While being the last big event of the year, it is also the first event in the course of new years preparations. It thus forms the bridge, both economic and psychological, between the old and new years, emphasizing the continuum of time in society from year to year.




千束一丁目交差点は五叉路になっています。国際通りは南東方向に折れ、西方向に金美館通り、東方向にせんわ通りが延びています。都電31系統は国際通りから分岐し、真っ直ぐに南下します。



この辺りには五叉路が多いのですが、次の交差点を右折し、更に次の交差点を左折します。これがクランクが多いといわれた都電31系統の特徴です。レールの上に車体が乗っかった電車が直角に曲がるというのは大変なことです。勿論直角に曲がるのではなく、ある程度線路がカーブしていたとは思いますが。



交差点を左折した先に台東区立の金竜小学校があります。金竜小学校は、大正元年(1912年)9月2日に旧東京電車株式会社跡地(現在の生涯学習センター)に金竜尋常小学校として設立され、昭和六十二年(1987年)に現在地に移転しました。敷地を隔てるフェンスの内側が盛り上がっていますね。ここには「金竜の里」と呼ばれるビオトープが設けられています。

金竜小学校ビオトープ概要

金竜小学校ビオトープ「金竜の里」は学校内につくられた身近な自然の見本園で、生きものの四季のくらしが観察できる場所です。池の中には、生物がすみやすいよう特殊なブロックがあります。池の水をきれいにするために、池に空気を送ったり、滝やせせらぎをつくりました。「金竜の里」に多くの生きものが訪れるように、トンボや蝶が好む植物を植え、トカゲやコオロキの隠れ家をつくりました。みんなで「金竜の里」にどんな生きものがくるかを観察したり、生きものを呼ぶためのいろいろな工夫をしましょう。

金竜山(金竜の里の左下隅にある山)の下には、大きな秘密が隠されています。それは直径6メートル、深さ38メートルの下水道のマンホールがあります。このマンホールから、横に4キロメートルの下水道管がつながっています。




金竜小学校前交差点で言問通りを越えた先から「かっぱ橋道具街通り」が始まります。かっぱ橋道具街は、食器具・包材・調理器具・食品サンプル・食材・調理衣装などを一括に扱う道具専門の問屋街です。河童をマスコットにしていますが、「河童橋道具街」ではありません。一般的には、かっぱ橋道具街とか合羽橋道具街と呼ばれています。



食器や笊の専門店はもとより、



中華や居酒屋の店舗用品の専門店もあります。



特に、包丁は国際的にも認められ、わざわざ購入するために海外から日本を訪れるシェフも多いのだとか。アウトレット専門のお店もありますね。プロでなくても一度は訪れてみたいものです。



かっぱ橋道具街の中程の歩道脇の小さな広場に、商店街振興組合が建立した金色に輝く「かっぱ河太郎像」が置かれています。

かっぱ河太郎像の碑

古来合羽橋は商売とは深い縁で結ばれていた。今から約二百年前の文化年間、商人として財を成した合羽屋喜八は、このあたりの水はけが悪く、僅かな雨で度重なる洪水に人々が難儀をしていることを見かね、私財を投げ出し、治水のための掘割工事を始めた。ところが工事は困難を極め、なかなか捗らない。その様を見ていた隅田川の河童達が喜八の侠気に感じ、夜な夜な現れては人知れず工事を進め、さしもの難工事もついに完成した。そして、その河童を見た人は、なぜかそれから運が開け、商売が繁盛したという。この故事に鑑み、合羽橋道具街の誕生九十年を迎えるにあたり、ご来街のお客様ともども幾久しい商売繁盛を祈念し、台東区の協力を戴き、この地に かっぱ河太郎像 を建立する。




同じ広場に「歴史と文化の散歩道」の案内板が置かれています。十年以上前にも見ましたが、文字も図も保存状態がいいですね。「かっぱ河太郎像」の碑文と内容は殆ど同じですが、こちらの方がより詳しいようです。「隅田川の河童達が喜八の侠気に感じ」と「喜八に助けられたことのある隅田川の河童たち」ではニュファンスが随分と違いますけど。。。

かっぱ橋の由来

合羽橋の由来には二つの説がある。その一つは、今から160年ほど前の文化年間のころ、この一帯は、水はけの悪い土地でたびたび出水を起こしていた。そこで、合羽川太郎(本名:合羽屋喜八)は、私財を投じて排水工事に着手したが、工事はことのほか難航した。昔、川太郎に助けられたことのある隅田川の河童たちは、これを見ていたく同情し工事を手伝ったおかげで、掘り割り(当時は新堀川と呼ばれた)は見事に完成した。この故事にちなんで「合羽橋」としたというものである。もう一つの説は、今の金竜小学校のあたりにあった伊予新谷の城主、加藤家下屋敷に住む侍や足軽が、内職に作った雨合羽を近くの橋で乾か したことで、「合羽橋」と呼ばれるようになったというものである。




菊屋橋交差点で浅草通りと交差し、都電31系統は新堀通りに入ります。合羽屋喜八が苦労の末開削した新堀川の跡地にできた道路です。



新堀通りに面して、歩道脇の植え込みの中に「新堀小学校之跡」と彫られた石碑が建っています。その横に案内板がフェンスに取り付けられています。

記念碑碑文

新堀小学校は明治三十四年六月尋常小学校としてこの地に開校され、前を流れる新堀川に面したることから、新堀の名を校名に冠したものである。大正年間には新堀実業補習学校(夜間)をも併設されたこともあるが、昭和二十年三月戦災を蒙って校舎の復旧開校に至らぬまゝ終戦を迎えたが、昭和二十二年四月廃校に至ったのである。現在の台東区立台東中学校(”現在”とは、案内板が立てられた当時のこと)がその校地である。新堀の校名を永久に残すため、教職員並びに卒業生あいはかってこれを建てる。




三筋二丁目交差点の手前に都立白鴎高等学校・附属中学校があります。「高等学校の附属中学校」とは妙な取り合わせですが、これは両国高校・附属中学校と同じように、中高一貫校のの意味です。母体となった白鴎高等学校は、明治二十一年(1888年)12月に「東京府高等女学校」として創立されました。都立高の中では日比谷(1878年)、戸山(1888年9月)に次いで3番目に古い歴史を持っています。明治三十三年(1900年)に「東京府立第一高等女学校(府立一女)」と改称し、戦前から名門の高等女学校としてその名を全国に馳せていました。東京府全域から才媛が通学し、「浅草の一女・小石川の二女(竹早)・麻布の三女(駒場)」と並び称された学校でした。平成十七年(2005年)に附属中学校を設置し、都内初の公立の中高一貫校となって現在に至っています。歴史ある学校ですので卒業生には有名人も多く、「ベルサイユのばら」の作者の池田理代子、自由学園設立者の羽仁もと子、女優の沢村貞子、俳優の野沢那智、変わったところでは若手棋士の佐々木勇気・三枚堂達也などを輩出しています。



白鴎高等学校の敷地内には、かって台東中学校がありました。その記念碑が歩道脇に置かれています。

台東中学校 沿革

昭和二十二年四月一日
新制中学校として都立第一女子高等学校(現・都立白鴎高等学校)内に設置

昭和二十二年五月七日
第一回新入生百六十五名で開校式並びに入学式を挙行

昭和二十四年四月十一日
旧新堀小学校校舎を修復し授業を開始する

平成十四年三月二十五日
台東区立台東中学校閉校式。五十四年の歴史を終える




春日通りと交差し、蔵前四丁目交差点で蔵前橋通りに突き当たると、都電31系統はクランク状に左折し、江戸通りで右折します。これもほぼ直角に方向を変えています。運転手さんも大変でしたでしょうけど、乗客も左右に大揺れしたことでしょう。



蔵前一丁目交差点脇に小さな広場があり、「天文台跡」の案内板が立っています。

天文台跡

この地点から西側、通りを一本隔てた区画(浅草橋三丁目二十一・二十二・二十三・二十四番地の全域及び十九・二十五・二十六番地の一部)には、江戸時代後期に、幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳などを行う施設として、天文台がおかれていた。天文台は、司天台、浅草天文台などと呼ばれ、天明二年(1782年)、牛込藁店(現・新宿区袋町)から移転・新築された。正式の名を「頒暦所御用屋敷」という。その名の通り、本来は暦を作る役所「天文方」の施設であり、正確な暦を作るためには観測を行う天文台が必要であった。その規模は、「司天台の記」という史料によると、周囲約93.6メートル、高さ約9.3メートルの築山の上に、約5.5メートル四方の天文台が築かれ、四十三段の石段があった。また、別の史料「寛政暦書」では、石段は二箇所に設けられ、各五十段あり、築山の高さは9メートルだったという。幕末に活躍した浮世絵師・葛飾北斎の「富獄百景」の内、「鳥越の不二」には、背景に富士山を、手前に天体の位置を測定する器具「渾天儀」を据えた浅草天文台が描かれている。ここ浅草の天文台は、天文方高橋至時らが寛政の改暦に際して、観測した場所であり、至時の弟子には、伊能忠敬がいる。忠敬は、全国の測量を開始する以前に、深川の自宅からこの天文台までの方位と距離を測り、緯度一分の長さを求めようとした。また、至時の死後、父の跡を継いだ景保の進言により、文化八年(1811年)、天文方内に「蕃書和解御用」という外国語の翻訳局が設置された。これは後に、洋学所、蕃書調所、洋書調所、開成所、開成学校、大学南校と変遷を経て、現在の東京大学へ移っていった機関である。天文台は、天保十三年(1842年)、九段坂上(現・千代田区九段北)にも建てられたが、両方とも、明治二年に新政府によって廃止された。

THE RUINS OF AN ASTRONOMICAL OBSERVATORY

On the west side of this spot, covering the entire area in 21, 22, 23, 24 and some area of 19, 25, 26 of Asakusabashi 3-chome, there used to be an astronomical observatory which was a facility for the Edo feudal government to practice such things as astronomy, calendrical art, surveying, editing topography, and translating foreign books in the second half of the 18th century. The astronomical observatory was moved from Ushigome and rebuilt in 1782. It was originally a facility of the Tenmon-gata public office, which made calendars. It was needed for astronomical observations to produce accurate calendars. According to a historical document called Shitendai-no-ki, the astronomical observatory was about a 5.5 square meters (about 6 yd. sq.) and was built on an artificial hill which was approx 9.3 meters (about 31 ft.) in height. The circumference of the hill was about 93.6 meters (about 103 yd.) and there were 43 stone steps with handrails on both sides. The Katsushika-Hokusai (an 'ukivoe artist) drew a scene called Torigoe-no-Fuji (Mt. Fuji seen from Torigoe) in his Fugaku-Hyakkei series (100 scenes of Mt. Fuji), showing Asakusa Astronomical Observatory with Konten-gi, an instrument to measure astronomical positions, against Mt. Fuji. This observatory was abolished by the Meiji Government in 1869.




その隣には、「旧浅草蔵前」の旧町名由来案内板も立っています。

旧町名由来案内 下町まちしるべ 旧浅草蔵前

本町は、付近の九カ町を整理統合して昭和九年(1934年)にできた。蔵前という町名が初めて付けられたのは元和七年(1621年)の浅草御蔵前片町である。この付近に徳川幕府の米蔵があつたことから付けられた。米蔵は全国に散在した幕府直轄領地から送られた米を収納するため造られた倉庫で、三ヶ所あつた。大阪・京都二条の御蔵とあわせ三御蔵といわれた。その中でも特に浅草御蔵は重要であつた。米蔵の用地は元和六年に鳥越の丘をけずり、その土砂で隅田河岸を整地し造成された。当時、六十七棟もの蔵があったことから約六十二万五千俵(三万七千五百トン)の米を収納することができた。この米は、幕府の非常備蓄米としての役割と領地を持たない旗本・御家人に支給する給料米であつた。




江戸通りに面して須賀神社が鎮座しています。須賀神社は、推古天皇8年(600年)に創建されたといわれ、江戸時代には「牛頭天王社」・「祇園社」・「蔵前天王社」・「団子天王社」などといろいろな名称で呼ばれていましたが、明治元年(1868年)に「須賀神社」と称することになりました。「団子天王社」の由来は団子を奉納する祭礼があったことによるそうです。江戸時代には須賀神社周辺には札差(幕府から旗本・御家人に支給される米の仲介を業とした者)が軒を連ねていて、氏子にも札差が多かったために金品の寄進が多く、祭礼は大いに賑わったといわれています。



浅草橋といえば「人形の吉コ」と「人形の久月」ですね。今日は3月1日。ひな祭り直前です。ひな人形の販売は終わったようで、次の端午の節句に向け五月人形の即売会が開催中とのことです。気が早い。。。



江戸通りが神田川を渡るところに浅草橋が架かっています。ここには江戸時代に浅草見附が置かれました。

旧町名由来案内 下町まちしるべ 旧浅草橋

浅草橋という町は昭和九年(1934年)に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、榊町、新須賀町、新福井町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとつになってできた。町名は神田川に架けられた橋の名にちなんでいる。江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永十三年(1636年)のことである。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。




ここには郡代屋敷も置かれていたそうです。

郡代屋敷跡

江戸時代に、主として関東の幕府直轄領の、年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった場所です。関東郡代は、天正十八年(1590年)徳川家康から代官頭に任命された伊奈忠次の二男忠治が、寛永十九年(1642年)に関東諸代官の統括などを命じられたことにより事実上始まるとされます。元禄年間(1688年〜1704年)には関東郡代という名称が正式に成立し、代々伊奈氏が世襲しました。その役宅は、初め江戸城の常盤橋門内にありましたが、明暦の大火(1657年)による焼失後、この地に移り、馬喰町郡代屋敷と称されました。寛政四年(1792年)に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねることとなり、この地に居住しました。文化三年(1806年)に関東郡代制が廃止され、さらに屋敷が焼失した後には、代官の拝領地となって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。




浅草橋交差点は、西方向が靖国通り、東方向は京葉道路となります。都電31系統はそのまま直進して新常盤橋方向に進みます。



小伝馬町交差点の近くの歩道脇に「三縁史蹟」の石碑があります。読み取り辛いのですが、小伝馬町の三大史跡を記しているようです。

都重宝指定

石町宝永時鐘
江戸傳馬町牢屋敷跡
吉田松陰先生終焉之地




その横に手書きの案内板が植栽に埋もれて立っています。

都重寶 石町時の鐘

江戸時代當初の時の鐘で初め江戸城にあり、二代将軍秀忠の時是を石町に移し、地元四百十町より集めた鐘楼錢で維持され、幕末まで石町時の鐘として親しまれた。鐘楼櫓下では蕪村等が夜半亭と号して俳諧の集ひをしていたことは有名である。傳馬町牢に於ける處刑時もこの鐘を合図に執行されたが、定時に鳴るべき鐘が處刑者の延命を祈るが如く、その都度遅れたとあって、一名情けの鐘とも傳へらる。現鐘は旧楼燒損後寳永八年に改鋳したもので、銘に寳永辛卯四月中浣鋳物師大工椎名伊豫藤原重休とある。昭和五年九月石町寳永時鐘を楼建設会に依り十思公園に移され、二十八年十一月都重寳に指定さる。

傳馬町牢屋敷跡

大安楽寺、村雲別院、身延別院、十思小学校及び十思公園を含む一帯の地は江戸時代の傳馬町牢屋敷跡である。牢屋敷は慶長の頃常盤橋際より移り、明治八年五月市ヶ谷囚獄が出来る迄存した。幕末の時牢屋頭に大番衆石出帯刀御(たく:木ヘンに豕)御用山田淺右衛門がつとめた。當時勤王志士九十六名が處刑されている。

吉田松陰先生終焉之地

長門の藩士吉田松陰先生は兵学に通じ憂國慨世の念篤く萩の松下村塾で多くの人士育成は遂に有爵者六名、贈位者十七名、有位者十四名といふ著名士を出した。先生は國事を論じた罪により安政六年七月傳馬町牢に囚はれ、同年十月二十七日時三十歳にて惜しくも最期をとげた。




新常盤橋の手前に常磐小学校があります。公立の小学校にしては校舎はレトロでお洒落な外観をしています。都の歴史的建造物に指定されているそうです。

東京都選定歴史的建造物 中央区立常盤小学校
Tokyo Metropolitan Government Selected Historical Structures Tokiwa Elementary School

所在地 中央区日本橋本石町四丁目4番26号
設計者 東京市              
建築年 昭和四年(1929年)      

常盤小学校は明治六年に開校し、現在使用されている建物は、関東大震災を機に、耐震・耐火性の高い鉄筋コンクリート造の校舎として建て替えられたものである。震災復興期の小学校建築には、装飾性を加味したスタイルと、機能を重視したインターナショナルスタイル(国際建築様式)の二つの傾向があったが、この校舎は前者の代表作である。アーチのついた出入口、半円形の窓とその窓台、半円形の庇など幾何学的な装飾が特徴で、建築樣式としては表現主義と呼ばれる。ビルが株立する中で、今なお往時の景観を残している。




都電31系統は新常盤橋交差点で外堀通りと交差し、新常盤橋を渡ってJR線の高架に沿って永代通りに出ます。永代通りに入ると右折し、ガードを潜った丸の内一丁目交差点で左折します。都電31系統の線路で3回目の最後のクランクになります。後は東京駅丸の内口への一本道になります。



東京駅丸の内広場にやってきました。都電31系統が走っていた頃は、丸の内地区のビルは高さ制限で低層の建物が並んでいました。現在では丸ビル・新丸ビル共に超高層ビルに建替えられ、丸の内地区の景観は一変しています。



一方であまり目立ちませんが、東京駅も大改修が行われ、大正三年(1914年)創建された当時の外観に戻りました。外観だけでなく、基礎構造にも耐震化などの強化がなされています。これらの改修内容について記した案内板が立っています。

東京駅丸の内駅舎では、お客さまの安全と重要文化財である建物を地震から守るため、免震工法を採用しています。地震発生時に建物全体がゆっくり動くことがありますので、ご注意ください。(最大30cm程度)

At Tokyo Station Marunouchi Building, seismic isolation design has been used to protect our customers and this building as an important cultural property from earthquakes. If an earthquake occurs, the entire building may sway slowly, so please use caution. (Maximum displacement about 30cm)




復原工事の概要が記されています。「復原」という言葉が使われていますが、「復元」とどう違うのでしょうか?どちらも「もとの姿に戻すこと」という意味ですが、対象が文化財の場合は厳密に使い分けられています。「復元」とは、遺跡で発掘される建物の痕跡(遺構)から上部構造を推定して建てることを意味します。遺跡で竪穴建物や古代建築が建てられたり、近世城郭の天守や御殿が建てられるなど、新築の建物に「ふくげん」するのが「復元」です。これに対して「復原」は、文化財建造物の修理の際に用いる言葉です。多くの場合、建物は長い年月の間に増改築や改造が行われています。「復原」は建物の改造の痕跡をもとに、改造前の姿に戻すことを意味します。例えば、屋根が瓦葺きから後世に銅板葺きに変わっていたものを、新築でなく改築という形で元の瓦葺きの姿に「ふくげん」するのが「復原」です。

国指定の重要文化財である丸の内駅舎を未来へ継承すべき貴重な歴史的建造物として、残存している建物を可能な限り保存するとともに、創建当時の姿に復原した。

【広場側】


保存:中央部と南北ドーム及び2階南北切妻部等の既存外壁、既存レンガ躯体と鉄骨を保存した。
復原:3階外壁は新躯体を設置の上、化粧レンガ、花崗岩、擬石で復原した。
   屋根は天然スレート、銅板で創建時の姿に復原した。

Designated as an important cultural property of Japan, the Marunouchi Station Building was restored to its original design while conserving the existing elements to the greatest extent possible as a precious historical property to be passed down to future generations.

Plaza side


Conservation: The central area and north and south domes and other existing exterior walls and existing bricks and steel frameworks were conserved.

Restoration : The 3rd floor exterior walls were restored with decorative brick, granite, and artificial stone after installing new framework. The roof was restored to the original design with natural slate and copper sheet.




屋根にも拘りがあります。特殊部分には銅板が使われています。

銅板葺き【どうばんぶき】


屋根の棟類や尖塔は基本的に木下地に0.4mm厚の銅板をはぜ組みして葺く。その他の飾り部は銅板に熱を加えなましながら打ち出し成型する。パラペットの徳利部分については、へら絞りといった現代の技術による復原としている。緑青塗装などのエイジングは行わず、 銅板素地の仕上げとし、経年により風合いが変化していく。

Copper roofing


The ridges and spires on the roof are generally installed using 0.4mm copper sheets seam-jointed to a wood base. For other decorative portions, heat is applied to copper sheets, which are then hammered into shaped while cooling. The bottle-shaped portions of the parapet are being restored using a modern technology called spin forming. Aging of the components using patinas, etc. will not be conducted. Leaving the copper sheeting uncoated, we look forward to the changes in texture as the years pass.




その他の屋根は天然スレートとのことです。

天然スレート 【てんねんすれーと】


屋根は天然スレートと銅板の構成で葺かれている。創建時の古写真から天然スレートは全て一文字葺きで葺かれていたことが判明し、それをもとに復原した。中央部屋根には、創建時に使用されていたものと同様宮城県雄勝産スレートを葺いている。また南北ドーム部には、戦後の改修時に葺かれていた良質な登米産を生かし取り、一部は加工を施し再利用した。

Natural slate


The roof is covered with a composition of natural slate and copper sheeting. From old photographs, it was clear that the natural slate was all installed as dutchlapped roofing, which became the basis for restoration. For the central area roof, slate from Ogatsu in Miyagi Prefecture was used, which is the same slate that was used in the original design. Additionally, in the south dome area, good quality slate from Tome that was installed during post-war repairs was removed for later use. A portion of this was processed and reused.




石材についても拘っています。

花岡岩【かこうがん】


窓周り・柱頭飾り等には稲田(茨城県)産、腰壁・玄関廻り等には北木島(岡山県)産が使用されている。柱頭飾(左写真)は、戦災復興工事時(昭和二十年9月から昭和二十二年3月)に3階レンガ壁を撤去した際、3階から2階部分に移設したもので、今回の復原工事 で元の3階に戻した。

Granite


The granite used for the areas around windows and column capitals is from Inada (Ibaraki Prefecture), and that used for the spandrel walls and areas around the foyer is from Kitagishima (Okayama Prefecture). When the 3rd floor brick wall was removed during the war-damage reconstruction period (September 1945-March 1947), the column capital decorations (photograph below) were moved from the 3rd floor to the 2nd floor. However, with this restoration work, they have been returned to their original place on the 3rd floor.




煉瓦は東京駅の外観上重要な要素です。

化粧レンガ【けしょうれんが】


創建時の化粧レンガはプレス成形によって製造されており、きわめて平滑かつ級密で、角が鋭利であることが特徴である。また、15mm(五分)・45mm(一寸五分)の2種類の厚さのものがあり、「下駄歯積み」の構造レンガに対応して一段毎に交互に積まれ剥離防止を図っている。今回復原した化粧レンガは創建時と同様の表面の肌合いと色を再現できた厚みは15mmに統一した。

Decorative bricks


At the time of original construction, decorative bricks were manufactured by press-forming. These bricks were exceptionally smooth and detailed, with characteristic sharp corners. There were two thicknesses-15mm and 45mm-made to correspond to structural bricks in Getappa-zumi, method, in which each layer is stacked alternately to prevent separation. The decorative bricks restored here have been recreated with the same texture and color as the original design. The thickness of the bricks was consolidated at 15mm.




最後はアルミサッシです。さすがに創建当時はアルミサッシはなかったんですね。

アルミサッシ【あるみさっし】


創建時の外部建具は木製であったが、今回工事では水密・気密等の性能及びメンテナンス性を考慮して、アルミ製にて復原している。ガラス厚さも創建時と同じ3mmとしており、ホテル客室等については遮音・断熱性能等確保のため、二重サッシとしている。

Aluminum sash


The exterior fittings in the original design were made of wood, but for this construction, watertight and airtight performance was considered and restorations were made with aluminum fittings. The glass thickness was kept the same as the original design at 3 mm. For the hotel guestrooms, double glazed sash windows were used to ensure soundproofing and insulation performance.




東京駅南口から有楽町に向かって、JR線のガード下は飲食街になっています。個性的なお店が並ぶ中、つけ麺でブレイクした六厘舎のお店もあります。あれっ、こんな所に六厘舎のお店があったっけ?と思いながら看板を見ますと、「孫鈴舍」と書かれています。六厘舎のパクリかなと思ったのですけど、実はこの店は六厘舎の創業者である三田遼斉さんと六厘舎の精鋭たちが店名未定のままリニューアルして始めたお店なのだそうです。2018年6月当初は「孫作」という名前でオープンしました。「孫作」は六厘舎の代名詞である魚介豚骨スープではなく、魚介を使わないスープになっています。スープのベースは豚骨と野菜で、今までのスタイルを改めて新たなつけ麺を開拓しようという事のようです。その「孫作」が店名と場所を変えて2020年1月31日にこの場所でオープンしたのが「孫鈴舎」という訳です。一度濃厚な豚骨ベースのつけ麺を味わってみたいものです。



終点の都庁前(今は東京国際フォーラムですが)電停にやってきました。電停の場所は東京国際フォーラム東交差点の手前にあったのではないかと思います。



ということで、都電31系統跡の歩きを終えます。他の系統と違って、裏道を通ったり、クランクが多かったりと、かなりマニュアックな路線のように感じます。「孫鈴舍」のつけ麺に後ろ髪を引かれつつ、家路につきます。




戻る