都電32系統跡コース  

コース 踏破記  

今日は都電32系統跡を歩きます。都電32系統は荒川車庫から早稲田までを結び、その路線は王子駅から飛鳥山までの区間の明治通りを除き、都電専用軌道を通っていました。都心の西側を半周し、現在の荒川線と同じ線路を走っていました。というか、現在の荒川線は、都電27系統の赤羽〜三ノ輪橋の一部と都電32系統を合体させて存続されたものなのです。  

都電32系統

都電32系統の全長は7.6kmでした。

都電32系統の電停(路上の駅)は、荒川車庫・梶原・栄町・王子駅・飛鳥山・滝野川一丁目・西ヶ原四丁目・新庚申塚・庚申塚・巣鴨新田・大塚駅・向原・日ノ出町二丁目・雑司ヶ谷・鬼子母神・学習院・面影橋・早稲田 でした。


都電32系統と現在の荒川線の電停名を対比してみますと、基本的に殆ど変わっていないことが分かります。電停名が完全に変わったのは、地名変更によって「日ノ出町二丁目電停」が「東池袋四丁目(サンシャイン前)電停」になっただけです。「雑司ヶ谷電停」が「都電雑司ヶ谷電停」になったのは、東京メトロ副都心線の雑司ヶ谷駅が新設されたからでしょう(もっとも、間違いやすいことに副都心線の雑司ヶ谷駅の最寄り電停は鬼子母神前になりますが)。あと、細かいところでは、「荒川車庫」・「王子駅」・「大塚駅」・「鬼子母神」に「前」が付加された位でしょうか。「学習院」に「下」が付加された理由は分かりません。何れにしても、都電32系統が運行されていた当時から50年もの長い間実質的には何も変わらず存続していることはある意味驚きです。



都電の電停は基本的に1電停1ホームになっています。三ノ輪橋行きと早稲田行きで電停の場所がずれることはあっても、ひとつの電停で複数のホームがあるところはありません。ですが、荒川車庫では、三ノ輪橋に向かって降車専用と乗車専用のふたつのホームが設置されています。つまり、荒川車庫電停は3ケ所にホームが設置されているのです。これは、早稲田方面からやって来て荒川車庫に入庫する電車の乗客を荒川車庫前のホームで降ろし、空の状態で車庫に入るためにするためだと思われます。逆に、荒川車庫から出庫して三ノ輪橋に向かう電車は、荒川車庫の先にあるホームで乗客を乗せるようになっています。じゃあ、三ノ輪橋方面から荒川車庫に入庫する電車は?というと、1ケ所のホームで乗車・降車を行っています。車庫より先に行く乗客は一旦ホームに下りて次の電車に乗るのです。では、荒川車庫の手前に位置するホームから早稲田行きの始発の電車にはどうやって乗るのでしょうか?恐らく、荒川車庫から早稲田行きの始発はないのではないかと思います。実際に見てないので断定はできませんが、荒川車庫を出庫する始発は全て三ノ輪橋行きではないでしょうか?ちなみに、荒川車庫の乗車専用の乗り場で降車しようとすると怒られます。降車専用のホームで降り損ねると次の荒川遊園地前電停まで行くしかないのです。蛇足ですが、長らくリニューアル工事が続いていた荒川遊園地は、2022年4月21日(木)にオープンするそうです。勿論、都知事は記念式典に出席してテレビに出まくりするでしょうね。。。



荒川車庫には都電の営業所が併設されています。都電の電停には基本的に窓口がなく無人なので、車内に忘れ物をした時などはここに来る方が早いかもしれません。



荒川車庫に隣接して(というか、同じ敷地内に)「都電おもいで広場」が設けられています。都電全盛期に活躍し、今は廃車となった車両が展示され、土日祝日のみ公開されています(コロナ渦で長期休業中でしたが、どうやら再開されたみたいです)。中に入ったことはありませんが、都電マニアにはたまらない施設です。展示されているのは、昭和二十九年に製造され、独特の流線型の車体と低騒音・高加速の高性能を持ち、三田車庫に配属されて都電1系統(品川駅前〜上野駅前)で使用された5500形(5501号車)の車両と、昭和三十七年に製造され、都電としては珍しい2つ目のライトが特徴の旧7500形(7504号車)の車両の2両です。5501型式の車両ですが、希少な上に数奇な運命を辿ったものです。PCCカーと呼ばれ、1930年代のアメリカ合衆国で開発された路面電車車両の規格を採用して日本で生産されたただひとつの純正車両です。北アメリカの路面電車事業体や鉄道車両メーカー・機械メーカーが参加した電気鉄道経営者協議委員会によって開発され、多数の新技術が用いられた高性能車両がベースになっています。製造後、10年以上の間運用されましたが、運転時の操作方法が他の車両と異なることと、日本にない特殊な機器を備えていたため、運転と保守が難しく1967年に廃車となりました。その後、上野公園で保存・展示されましたが、野ざらしで置かれたことと、塗装の塗り替えなどのメンテナンスが満足に行われなかったことで劣化が進んでいきました。その後荒川車庫に戻され、一度は修復がなされたものの、倉庫代わりに使われて腐食が進んでいきました。2007年に再度車体を修復し、ここに展示されることになったのです。一方、旧7500形は、当初は青山車庫、その後は都電の路線縮小に伴って荒川車庫に配属され、引退前の数年間は主に朝ラッシュ時の通学輸送に活躍して「学園号」の愛称で親しまれました。5500形の車両の中には、模擬運転台・模擬装置操作台・都電荒川線(東京さくらトラム)沿線をイメージしたジオラマ・歴史的資料の展示ケースが設置されています。



前置きが長くなりましたが、荒川車庫電停から都電32系統の歩きを始めます。都電32系統は殆どの区間で専用軌道を走っていましたが、荒川車庫〜梶原間と、高戸橋交差点〜早稲田間は、道路の中央に線路を設置し、車道と線路を分離した「センターリザベーション」と呼ぶ形態をとっていました。歩道から電停の乗り場までの横断歩道には踏切設備がないため、電車は専用軌道区間よりもゆっくりと走り、歩行者は車や電車に注意しながら横断歩道を渡っていました(今もそうですが)。



梶原電停の北側に延びる梶原銀座商店街は、「ショッピングロードかじわら」という愛称で親しまれています。荒川線とのコラボで、ショッピングロードかじわらの入口ゲートには都電を模したオブジェが取り付けられていますし、排水口のマンホール蓋には都電荒川線がデザインされています。入口近くの和菓子屋「都電もなか本舗 菓匠 明美」で販売されている「都電もなか」は遠方の人にも人気となっています。ただ、「都電もなか」は昭和五十二年に商品化されましたので、都電32系統が走っていた頃は未だ存在していませんでした。



王子駅電停は、都電の停留所にしては立派な造りです。普通の電停は無人か待機の駅員がいるだけですが、王子駅電停には何故か改札の駅員が配置されています。時間帯にもよりますが、入場口で改札をしてから電車に乗り込む方式になっています。王子駅電停は乗降客が多いので、電車の中で運転手さんが改札するよりも、入場口で済ませた方が効率的なのでしょう。現在の王子駅前電停はJR線の高架横にあります。王子駅電停を発車した電車はすぐに左折して明治通りに入っていきます。JR線の高架をくぐると、左にカーブした急坂になります。ここから飛鳥山電停までは一般の車との併走区間なので、線路内にも車が入り込んできます。



明治通りに入ると直ぐに急坂が始まります。左手には明治通りに沿って崖が続いています。崖の上から降りてくる(崖の下から登って行く)飛鳥山公園モノレールは、飛鳥山公園山頂(山ではありませんが)とJR王子駅横の飛鳥山公園入口とを結ぶスロープカーです。愛称は、施設名があすかパークレール、車両名がアスカルゴとなっています。車両名は、ゆっくり上がる様子がエスカルゴ(カタツムリ)に似ていることから、飛鳥山公園と組み合わせて命名されました。飛鳥山公園入口から山頂までの高低差は約18m、レール延長は48mとなっており、片道約2分の乗車時間です。世界最短のモノレールとしてギネスブックに載ってもいいくらいの短さです。2009年7月17日から運行が始まり、高齢者・障害者・小さなお子様連れなど、誰もが飛鳥山公園を利用しやすくなりました。無料で乗車できることもあり、たちまち大人気になりました。冷暖房も完備され、車イス・ベビーカーにも対応しています。



急坂は飛鳥大坂という名前ですが、坂上の音無橋交差点で右折する車が線路内に入り込みますので、電車が坂の途中で止まってしまうことがあります。私が乗っていた電車は坂の途中で停止し、動き出そうとしたのですが馬力が足りず坂を登れませんでした。運転手さんは何回かトライした後で進むのを断念し、指令所に助けを求めました。指令所の答えは一旦バックしてから、勢いを付けて登れでした。運転手さんは電車をロックさせてから後部の運転席に移動してバックした後、再び前方の運転席に戻って出力マックスで進み出しました。また先方に車が入り込んできたらどうなるかと思いましたが、無事に坂を登りきりました。乗客からの拍手は起きませんでしたが。。。



飛鳥山公園を左手に見ながら、明治通りは飛鳥山交差点で右にカーブして池袋方面に延びていますが、交差点からそのまま直進する道路が本郷通りになります(本郷通りの起点は飛鳥山交差点です)。都電32系統は飛鳥山交差点で斜め右方向に進み、専用軌道が始まる飛鳥山電停の方に曲がっていきます。



ついでに飛鳥山公園に立寄ってみましょう。八代将軍吉宗が王子権現に飛鳥山一帯の地を寄進したのは享保八年(1723年)のことで、江戸庶民への開放と桜の植樹が進められました。現在も春になると花見の名所として多くの人が集まる光景は江戸時代から続いた春の風物詩でもあり、都電時代には美しい車窓風景となって乗客の目を楽しませたことでしょう。飛鳥山公園内にはかっての都電の車両が展示・開放されています。車両は、戦後の都電の主力車両として290両が製造された6000型ですが、昭和四十年代の都電廃止・撤去の進行に合わせて大半が廃車となり、荒川線存続時に生き残ったのは、わずか13両のみとなっていました。6080号はそのうちの一両で、昭和五十三年の廃車後に北区へ譲渡され、飛鳥山公園に設置されました。以来、子供たちに親しまれる公園のシンボルとなっていましたが、雨ざらしの状態で損傷が進んだことから、平成十七年に大掛かりな整備が行われ、現在はすっかり化粧直しのされた美しい外観に甦っています。保管場所に屋根は付いていますが、横殴りに雨には無防備な状態ですね。

都電6080について

この都電6080は、昭和五十三年4月まで飛鳥山公園脇の荒川線を走っていた車両です。荒川線の前身は「王子電気軌道株式会社」といい、通称「王電」の名で親しまれた私営の郊外電車でした。明治四十四年8月、大塚⇔飛鳥山上間2.45kmの開業がはじまりで、その後王子を中心に早稲田・三の輪・赤羽を結ぶ路線が完成し、昭和十七年当時の東京市に譲渡されたのです。この車両は6000型と呼ばれており、戦後はじめての新造車で昭和二十四年に製造されたものです。青山・大久保・駒込の各車庫を経て昭和四十六年3月荒川車庫の配属となり、現役を退くまで都民の足として活躍していました。北区では都電のワンマン化を機会に交通局から譲り受け、子供たちの施設として設置したものです。




飛鳥山公園の敷地内には明治時代の実業界に君臨した渋沢栄一の邸宅がありました(現在でも邸宅跡が一般に公開されています)。渋沢栄一は都電32系統の元となった王子電気軌道の設立にも尽力しました。東京の都市交通機関創設を目指した松本錬蔵らは明治三十九年(1906年)に王子を中心に大塚〜三輪間の軌道敷設・営業を出願しました。翌年免許を得ますが、日露戦後の不況で資金難に直面し、渋沢栄一などの後援を得て漸く明治四十三年(1910年)に王子電気軌道を創立しました。翌年開業し、沿線と隣接地域への電灯電力供給事業も開始し、資金難が続く中で事業は少しずつ進捗しました。景気回復と共に増資も行い、関東大震災の被災も軽微に収まり、昭和五年(1930年)に電車は三輪〜早稲田間の直通運転を開始しました。これが都電32系統の元祖となりました。



庚申塚電停は当時も今も巣鴨地蔵通り商店街の入口(出口)に位置しています。毎月4の付く日のとげぬき地蔵尊の縁日には大勢の乗降客で混雑します。とげぬき地蔵尊の由来として、江戸時代に毛利家の女中が針を誤飲した際に地蔵菩薩の御影を飲み込んだところ、針を吐き出すことができ、吐き出した御影に針が刺さっていたという伝承があり、「とげぬき地蔵」の通称となったと伝えられています。そこから他の病気の治癒改善にもご利益があるとされ、現在に到るまでその利益を求めて高齢者を中心に参拝者が絶えません。巣鴨地蔵通り商店街には、特に女性の高齢者が多く訪れることから、「おばあちゃんの原宿」とも呼ばれています。それでは「おじいちゃんのXX」ってあるのでしょうか?



大塚は戦前の城北エリアの商業の中心地でした。JR大塚駅の東側には、かつて白木屋デパート大塚分店もありました。駅南口側に残る三業通りの名もかつて三業(料亭・待合茶屋・芸者置屋の三業種の総称)地として賑わった花町の名残です。そんな大塚駅には2ケ所の電停がありました。ひとつは都電32系統が発着していた大塚駅電停、もうひとつは都電16系統が使用していた大塚駅電停です。現在の荒川線の大塚駅前電停のすぐ横の駅南口広場端の都営バス降車専用停留所付近の路上に都電16系統が使用していた大塚駅電停がありました。都電32系統に引き継がれた旧王子電気軌道の路線は山手線高架下の現在地に大塚駅電停が設けられましたが、運営母体が異なっていたた都電16系統の折り返し場所となった大塚駅電停と旧王子電気軌道の大塚駅電停との間の線路の接続は行われませんでした。



大塚駅電停からひとつ先の向原電停までの線路脇の道路は、「大塚バラロード」と呼ばれているのだそうです。都電荒川線は、現在「東京さくらトラム」と改称されていますが、これは荒川線の実態を知らない人が名付けた名前と思います、沿線には荒川自然公園などの桜の名所はありますが、線路脇にはあちこちに薔薇の花が植えられているのです。なので、カタカナ名にするのなら、「東京ローズトラム」の方が合っています。そもそも都電をわざわざ「トラム」と言い換える必要はないと思うのですが。。。それにしても、「バラ」は和語で「いばら」が転訛したものとされていますので、「大塚バラロード」でなく「大塚ローズロード」の方が妥当なのでは?



天祖神社は、元亨年間(1321年〜1324年)に、当時の領主の豊島景村が伊勢神宮より分霊を勧請し、巣鴨村の鎮守として創建しました。天祖神社の入口は都電の線路の裏側にあります。境内には樹齢六百年、高さ二十五メートルの一対の大イチョウがそびえ、子供に授乳している子育狛犬が見る人の心をなごませます。

天祖神社御由緒

天祖神社は今からおよそ六百数十年前、即ち元亨年間、当時武蔵国豊島郡の領主であり、豊島氏中興の祖といわれた景村のとき、巣鴨鎮護の神として祀られた、と伝えられている。江戸時代、鬼子母神の信仰が旺んになり一時十羅刹女神を併せ祀ったこともあるが、明治になって分離された。当神社は神明宮ともまた神明社ともいわれていたが、明治五年、ご祭神の伊勢の皇大神宮が天津御祖の大神であるところから、天祖神社と改称され今日に至っている。当社の例大祭は九月十七日であって、この日は旧暦の神嘗祭(伊勢の三大祭の一つ)にあたり祭儀が古くから巌修され、毎月七日、十七日、二十七日は通称縁日として昔から門前市をなす賑わいを呈している。天明年間改築された旧社殿は昭和のご大典記念事業として昭和八年に造営され壮麗を極めたものである。その後第二次大戦も終りに近い昭和二十年四月の大空襲によってその一切が烏有に帰した。その際境内にあった樹齢五百年を数えるご神木夫婦銀杏も戦火を被り、近年ようやく芽吹いて繁茂するようになったものである。昭和二十五年復興奉賛会が結成され同年ひとまず拝殿が造営された。その後区画整理がはじまり造営は一時中断され、境内も三分の一に縮小されることとなった。三十八年にいたって区画整理が完了をみたので氏子・崇敬者の協賛を得て造営工事に着手することとなり、昭和三十九年八月、改めて復興奉賛会を結成して翌四十年八月起工し、ご本殿の造営、幣拝殿の修復、社務所並びに参集所の建設及び一連の附帯設備工事を完了し、昭和四十三年九月、明治維新百年の意義ある年にあたり、造営竣工奉祝臨時大祭を執り行い、ここにようやく境内輪奐の美をみるに至ったものである。




境内には、「夫婦銀杏」と呼ばれ、地域で親しまれている一対の大銀杏の樹が聳えています。その名の通り、雄木と雌木が対となって植わっているのが特徴です。戦災で樹勢がすっかり衰えてしまったため、高さを約半分にし、大きな枝も全て切り落として保全に努めるなどした結果、今の姿を保っています。

ご神木 夫婦鴨脚樹
推定樹齢600年
樹高三十米 太さ六米

「縁結びの大イチョウ」として知られる当社の一対の大樹は、向かって右が雌、左が雄であります。この地の有為転変を何百年と眺めてきたこの樹々ですが、昭和二十年四月十三日の城北大空襲の際に米軍による爆撃で被災。今も大きく黒焦げた跡が残っております。枯れることを懸念された時期もありましたが、素晴らしい生命力で再び蘇り、今また大きく枝葉を広げております。

This is a gingko tree of matchmaking, said to be more than 600 years old. The tree survived the Tokyo air raids in 1945, and has since revived.




境内に、国歌「君が代」にも詠まれているさざれ石が置かれています。さざれ石は、漢字では「細石」と書きます。本来は字のとおり小さな石のことを意味しますが、神社や国歌で歌われているさざれ石はこれとは少し異なります。小さい石と石の間に炭酸カルシウムや水酸化鉄といった成分が入り込み、石同士がつながって長い年月をかけて大きな岩になった石灰質角礫岩のことです。つまり国歌の歌詞にある「巌となりて」は、小石が結びつき合ってこの大きな岩になることを指すのです。さざれ石はこのように、長い年月で大きさを変える、つまり成長するために神霊が宿る石として信仰されてきました。

さざれ石(天然記念物)

国歌君が代に詠まれている「さざれ石」。小さな石灰岩が凝集したもの(石灰質凝集岩)。
産地 岐阜県揖斐郡春日村
昭和五十五年十一月十五日 サンシャインシティーより分割奉納されたもの




狛犬は、普通は拝殿前など境内の目立つところに鎮座しているのですが、天祖神社の子育て狛犬は大鳥居の真横に置かれていますので、余程注意して見ないと気がつきません。


右側の写真が子育て中の狛犬です。


日ノ出町二丁目電停(現在は東池袋四丁目電停)を過ぎ、専用軌道は続きます。線路は歩けませんので、路地を巡ってなるべく線路沿いの道を歩きます。左手には12ヘクタールに及ぶ広大な雑司ヶ谷霊園の敷地が広がっています。墓石を横目にして歩くのですが、昼間ですので怖いことはありません。墓地の柵に案内板が立てられています。雑司ヶ谷霊園は明治七年(1874年)に開設されましたので、江戸時代にはお墓の代わりに一面農地や雑木林や草原が広がっていたことでしょう。

御鷹方御組屋敷道

この道は明和九年(1772年)「武蔵国豊島郡雑司谷村絵図」によれば
御鷹方御組屋敷道
と記されており霊園西側約九千坪の敷地に徳川八代将軍吉宗が鷹狩りのための鷹の飼育調練に用いた御鷹部屋があったことと、その北方約四百メートルに鷹匠や同心などの住まう約一万五千坪の組屋敷があったことに由来する。




雑司ヶ谷霊園は、明治政府の自葬禁止・神葬地設定・火葬禁止(明治八年に解除)・旧朱引内の埋葬禁止・墓地令などの法令・布告・布達に伴って共葬墓地の必要性が生じ、東京府が東京会議所に命じて雑司ヶ谷旭出町墓地を造営し、明治七年(1874年)9月1日に開設されました。明治九年(1876年)、東京会議所から東京府が管理事務を引き継ぎ、明治二十二年(1889年)に東京市の管轄となった後、昭和十年(1935年)に「雑司ヶ谷霊園」に名称変更されました。現在は東京都公園協会が管理しています。墓地には、ジョン万次郎・小泉八雲・夏目漱石・島村抱月・竹久夢二・泉鏡花・東條英機・永井荷風・サトウハチロー・金田一京助・東郷青児・大川橋蔵・いずみたく・初代江戸屋猫八・羽仁もと子など著名人の墓が多くあり、夏目漱石の小説「こゝろ」の舞台にもなっています。



鬼子母神電停の直ぐ近くに大島神社が鎮座しています。雑司ヶ谷では鬼子母神が有名ですが、大島神社は元々は鬼子母神のある法明寺の境内にありました。明治時代の神仏分離令により、「大鳥神社」として独立し、隣接するこの地に移転しました。

沿革

正徳年間鬼子母神境内に鷲明神として創祀せらる。明治維新、神仏分離の令に依り、大門齦タ木の料亭の料亭蝶屋地内に大島神社と改稱・仮遷座す。此れを憂い、旧幕臣・矢嶋昌郁氏 自己の宅地を社地として奉献。永久鎮座の地漸く定まる。その後、境内地を漸次拡張し現状となる。




神社の境内でよく見かける案内板ですが、大島神社の周辺は「雑司ヶ谷ナス」の産地だったようです。

江戸・東京の農業 雑司ヶ谷ナス

江戸時代、清戸坂の北側一体は雑司ヶ谷村の畑(現在の雑司ヶ谷墓地は一部)で、坂の道ぞいには雑司ヶ谷清戸村百姓町があり、江戸への野菜供給基地としてナスのほか、ダイコンや青菜などを生産していました。とくに、味がいいと評判になった雑司ヶ谷ナスは、江戸時代後半から大正時代の中頃までもてはやされていました。ナスの栽培には、下肥(人糞尿)や馬糞が多く使われていました。ナスはその用途が広いため需要も多くて、キュウリと並んで夏野菜のなかで重要な地位を占めていました。大正時代の中頃まで、伝統的栽培技術は引き継がれ、その後、年毎に早く収穫できる技術が開発されたことから、昭和の初めにはタネまきの最盛期は、2月15日前後となりました。文献によると当時北豊島郡(現在の荒川・板橋・北・豊島・練馬の各区)におけるナスの作付け面積は、約200へクタールと記されています。

THE AGRICULTURE OF EDO & TOKYO
Zoshigaya Nasu (Egg plant)

During Edo Era, the area to the north of Kiyotozaka was the farming area of Zoshigaya village (the present Zoshigaya cemetry). Along the hilly road lied Hyakusho-machi (i.e. farmer's town) of Kiyoto village where they produced a lot of vegetables to ship to Edo. The tasty Zoshigaya egg plant enjoyed its reputation from the latter half of 1800s to 1920. Manure and horse dung were commonly applied to the culture of egg plant.




雑司が谷七福神は、雑司ヶ谷の町おこしのために南池袋一丁目町会長の渡辺隆男氏が2010年に「雑司が谷七福神の会」を結成し、2011年初詣より「七福神巡り」が始まりました。私も巡ったことがあるのですが、23区内の七福神巡りとしては新しい方だと思います。大島神社には惠比壽神が祀ってあり、隣の鬼子母神と共に七福神巡りの一社となっています。

雑司が谷七福神 大島神社 惠比壽神

七福神の中でも日本古来唯一の神様で伊邪那岐・伊邪那美の御子です。鯛と釣り竿を持った姿は「釣りして網せず」ということで、暴利を貪らない清い心をしていると言われ、商売繁昌の神として愛されています。皆様もハイ「えびす顔」ですよ。




大島神社の裏手に鬼子母神(きしもじん)が鎮座しています。なので、わざわざ反対側の参道から入る必要はないのですが、参道入口から連なる欅並木が美しいので回り道して鬼子母神に行くことにします。参道は両側の家屋に挟まれて狭い小路のような通りになっています。



参道の入口に欅並木の案内板が立っています。

東京都指定天然記念物 鬼子母神大門ケヤキ並木

鬼子母神堂は、江戸時代から子授け、安産の御利益があるとされ、多くの参詣者を集めてきました。江戸後期には、将軍の御成もあったほど大いに繁盛しました。参道には名物の大きなケヤキ並木とたくさんの茶店・料亭などが並び、参詣土産には、現在も造られている「すすきみみずく」などが売られていました。かっては大径のケヤキが多く、荘厳な風景をかもし出していましたが、現在は徐々に若いケヤキに植え替えられ、巨木は四本のみです。毎年十月に行われるお会式(おえしき)には万灯行列が周辺を練り歩き、往時のにぎわいを伝えています。

Natural Monument (Plant) Kishimojin Daimon Keyaki Namiki

Kishimojin-do has welcomed many worshipers since Edo period as it is known that couples will be blessed with children and have an easy delivery when they pray for it at this temple. At the end of Edo period, it flourished so much that even Shogun visited. Along the approach with the famous row of Japanese zelkovas, there were many tea shops, restaurants and souvenir shops. Some souvenir shops still sell Susukimimizuku today. Japanese zelkovas, Zelkova serrata(Thunb.) Makino, with large diamneter used to stand there and offered a majestic view, but they have been slowly replaced by young Japanese zelkovas and only four giant Japanese zelkovas remain today. During Oeshiki festival every October, Mando parade is conducted around that area and many people [missing sentence?]




鬼(角のつかない鬼の字)子母神の由来については次のようないわれがあります。

鬼子母神は安産・子育(こやす)の神様として広く信仰の対象となっていますが、その生涯には深いいきさつがあります。鬼子母神はインドでは訶梨帝母(カリテイモ)と呼ばれていました。王舎城(オウシャジョウ)の夜叉神の娘で、嫁いだ先で多くの子供を産みました。しかしその性質は暴虐この上なく、近隣の幼児をとって食べるので人々から恐れ憎まれました。お釈迦様は、その過ちから訶梨帝母を救うことを考えられ、その末の子を隠してしまいました。その時の訶梨帝母の嘆き悲しむ様は限りなく、お釈迦様は、「千人のうちの一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん」と戒めました。そこで訶梨帝母は初めて今までの過ちを悟り、お釈迦様に帰依し、その後安産・子育の神となることを誓い、人々に尊崇されるようになったとされています。法明寺の鬼子母神像は、鬼形ではなく、羽衣・櫻洛をつけ、吉祥果を持ち幼児を抱いた菩薩形の美しい姿をしているため、とくに角のつかない鬼の字を用い、「雑司ケ谷鬼子母神」と尊称されています。



鬼子母神~堂に祀られている鬼子母神の像は、室町時代の永禄四年(1561年)5月16日に雑司の役にあった柳下若挟守の家臣、山村丹右衛門が清土(文京区目白台)の地の辺りで掘り出し、星の井(清土鬼子母神〈別称:お穴鬼子母神〉境内にある三角井戸)で像を清め、東陽坊(後に大行院と改称し、その後法明寺に合併された)に納められました。東陽坊の一僧侶がその霊験顕著なことを知り、密かに鬼子母神像を自身の故郷に持ち帰ったところ、意に反してたちまち病気になったので、その地の人々が大いに畏れ、再び東陽坊に戻したとされています。その後、信仰はますます盛んとなり、安土桃山時代の天正六年(1578年)に村の人々が「稲荷の森」と呼ばれていた此の地に堂宇を建て今日に至っています。現在のお堂は、本殿が寛文四年(1664年)の徳川四代将軍家綱の代に加賀藩主前田利常公の息女で広島藩主浅野光晟(みつあきら)に嫁した自昌院殿英心日妙大姉の寄進により建立され、その後現在の規模に拡張されています。昭和三十五年に東京都の有形文化財の指定を受け、昭和五十一年から五十四年にかけて江戸時代の姿に戻す解体復元の大修理が行われました。また、平成二十八年7月には国指定の重要文化財になりました。

国指定重要文化財 雑司ヶ谷鬼子母神堂

雑司が谷の鬼子母神は、永禄四年(1561年)に清土(現在の文京区目白台)で掘り出された鬼子母神像を、天正六年(1578年)に現在の場所に堂を建てて安置したことにはじまる。寛永二年(1625年)には社殿の造営が始まり、正保三年(1646年)には宮殿が寄進された。江戸時代前期から将軍の御成りがあるなど、武家から庶民まで、子育て安産の神として広く信仰され、現在でも多くの参詣者が訪れている。現在の鬼子母神堂は、手前から「拝殿」・「相の間」・「本殿」の3つの建物で構成される「権現造り」。本殿の開堂供養は寛文六年(1666年)に行われたことが記録にあるが、屋根裏の束に書かれた墨書から、寛文四年に上棟されたことが判明している。拝殿と相の間は元禄十三年(1700年)に建てられた。広島藩二代目藩主浅野光展の正室満姫の寄進により建てられ、その建築には広島から呼び寄せた大工が従事している。そのため、本殿の三方の妻を飾る染や組物の彫刻には広島地方の寺社に用いられている建築様式が見られる。拝殿は、江戸時代中期の華やかな建物ではあるものの、装飾を簡素なものに変えるなど、幕府による建築制限令への対応をうかがわせる特徴がみられる。これらのことから、江戸時代の大名家による寺社造営の実像を示す事例であり、本殿と拝殿とで異なる特徴を持つ建造物であることから、歴史的・意匠的に価値が高いという点が評価され、平成二十八年7月25日に重要文化財に指定された。

Nationally Designated Important Cultural Property
Zoshigaya Kishimojin Temple

Zoshigaya Kishimojin Temple dates back to 1578 when it was newly built to enshrine a Kishimojin statue at the site today. The Statue was unearthed in 1561 in Seido, now Mejirodai Bunkyo City. The construction of main buildings began in 1625 and kuuden or a small cabinet for housing the statue was donated to the temple in 1646. Kishimojin in Zoshigaya has been worshiped as a Buddhist goddess of easy delivery and raising children by a wide range of people from samurais to commoners alike. The temple was visited even by shoguns in the early Edo period and still is by a number of pilgrims today. Today's Kishimojin Temple represents gongen style, consisting of three buildings, from front to back, an oratory "haiden", a paved room "ai-no-ma" and a sanctuary "honden". A record shows an inaugural memorial service or kaido-kuyo for the sanctuary was held in 1666, while it was proven by another record written in Indian ink on a short pillar in the attic that the framework of the temple was raised in 1664. The oratory and the paved room were built in 1700 by a donation from Princess Man. As she was the legitimate wife of Asano Mitsuakira, the second lord of the Hiroshima domain, the construction was carried out by carpenters from Hiroshima. Because of this, there are the same architectural styles found in the beams and carved timberwork that decorate gables on the three sides of the sanctuary as in those of temples and shrines in Hiroshima. The oratory is gorgeously built in a typical style of the mid-Edo period, but some of its decorations were replaced with simpler ones, which may be the temple's response to a decree issued by the Tokugawa shogunate to restrict florid architecture. As described above, Zoshigaya Kishimojin Temple shows the real picture of temple/shrine construction by a feudal clan in the Edo period, as well as the features of the time in which the styles of its sanctuary and oratory differ from each other. Consequently, for its design and historical significance, the temple was designated as an important cultural property on July 25, 2016.




鬼子母神の境内には立派な銀杏の大木が聳えています。神社の銀杏の木は真っ直ぐに伸びているのが多いのですが、鬼子母神の神木である大銀杏の木は枝が横に張っています。豊島区の景観重要樹木の第一号に指定されているそうです。樹齢600年以上なのだとか。

東京都指定天然記念物
雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ

イチョウ(銀杏・公孫樹)は、一属一種のイチョウ科に属する、裸子植物の落葉高木である。耐寒耐暑性があり、社寺の境内樹・庭園樹・公園樹・街路樹などに広く植栽されている。中国原産といわれ日本へは、遺唐使の帰国によってもたらされたという説もある。雌雄異株で、四月に開花し十月に種子(銀杏)は成熟し、黄葉する。樹高30メートル、幹周8メートルの雄株で、都内のイチョウでは、麻布善福寺のイチョウに次ぐ巨樹であり、樹勢は盛んである。応永年間(1394年〜1428年)に僧日宥が植えたと伝えられている。古来「子授け銀杏」と言われ、戸張苗堅の「櫨楓」によると、婦人がこのイチョウを抱く光景がみられ、注連縄を張るようになったのは、文政年間(1818年〜1829年)の頃という。

Plant
Zoushigaya Kishimojin no Icyou

This is an outstanding giant ginkgo tree at Kishimojin-do in Zoushigaya. The trunk circumference is 6.63 m, the height is 32.5 m and the branches reach out 10 m in all directions. It is the second biggest ginkgo tree after the one in Zenfuku-ji (designated a national monument by government/Minato-ku). The ginkgo in Zoushigaya was designated a natural monument by the government in 1930, however it was unlisted in January 1946 and designated again by Tokyo metropolitan. It was called Kosazuke Konsouju (the ginkgo that gives children) and people believed it had miracle power. But now it is called Kosodate Icyou (the ginkgo that raises children). This is probably because the power of the ginkgo tree was similar with Kishimojin's. It offers a quiet view, in contrast to the nearby busy downtown of Ikebukuro.




鬼子母神は大島神社と同じく、雑司が谷七福神の一社で、大黒天を祀っています。今日は3月4日で、さすがに初詣の参拝者はいませんね。

雑司が谷七福神
鬼子母神堂 大黒天

鬼子母神の夫でインドから伝来しました。大黒天の持つ小槌の「ツチ」は大地の「土」に通じ、物はすべて大地より生み出される。つまり「宝」を打ち出すという豊作の神でもあり、日本の出雲の大国主命の「大国様」と合わされ親しまれています。




千登世橋は明治通りと目白通りとの立体交差橋で、都内でも土木史的価値の高い橋として「東京都の著名橋」に指定されています。東京は台地と谷が入り組んだ地形が多く見られますが、この周辺も目白台地と関口台地の境目になっており、明治通りはその切通の間を通っています。荒川線の線路は千登世橋の下を明治通りに沿って走っていて、橋の上から見る都電の走る風景は何か懐かしさを感じさせます。



千登世橋の東側の端に、スコップとハンマーを持った二人の労働者の銅像と石碑が置かれています。石碑には、千登世橋の下を走る都電の絵と橋の歴史を記した碑文が添えられています。

千登世橋は、昭和七年に橋長28.0m、有効幅員18.2mの一径間鋼ヒンジアーチ橋で架設された。この橋は、明治通りと目白通りとの立体交差橋で、都内でも土木史的価値の高い橋として「東京都の著名橋」に指定された。著名橋整備事業として、千登世小橋と共に親柱・高欄・橋側灯及び橋詰空間など、歴史的原型の保全を行い、文化遺産継続の願いをこめて修景を施したものである。



銅像の台座下部に、「来馬良亮君」と書かれた肖像レリーフが添えられています。来島良亮(1885年〜1933年)は、大正〜昭和時代前期の土木技術者です。大正五年に内務省に入省し、雄物川や利根川の改修工事を指揮しました。昭和二年に東京府の土木部長となり、都市計画案を策定しました。台座の側面には来島良亮の功績を記した碑文があり、また台座の前には都内の道路網が描かれています。来島良亮が策定した道路計画図なのでしょうか?

東京府土木部長 来島良亮君像

故従四位勲四等来島良亮君ハ山口縣ノ人ナリ。明治四十五年(1912年)東京帝国大学ヲ卒業シ内務技師ニ任せらる。利根川及雄物川ノ改修ニ功アリ。秋田市會議員ニ挙ケラルルコト二回。昭和二年(1927年)、東京府土木部長ニ補セラル。居ルコト6年、力ヲ都市計畫ノ諸事業、河川港湾ノ改修、府縣道ノ改良ニ致シ、業績顕著ナリ。環状道路ノ如キモ亦君ノ労苦ニ負フ所多シ。八年9月、再ヒ内務技師ニ任セラレ北海道庁技師ヲ兼ヌ。偶疾ヲ獲、十一月卒ス。享年40有九。近者知友胥謀テ、地ヲ此ニ相シ紀念碑ヲ建ツ。




都電32系統が千登世橋をくぐり抜けると、「学習院」電停があります。明治通りを挟んだ反対側は崖になっていて、学習院大学の敷地が崖の上に広がっています。現在の電停名が「学習院下」になっているのも頷けます。寄り添って歩くのは大学生のカップルかと思いきや、お友達の女子学生のようです。



都電32系統は高戸橋交差点で直角に左折し、専用軌道から新目白通りの中央に敷設された線路に入ります。ただし、道路併走方式ではなく、車道と線路を分離した「センターリザベーション」方式ですので、線路の両側には仕切りが設置されています。



終点の早稲田電停のひとつ前が面影橋電停です。面影橋とは風流な名前ですね。



面影橋は新目白通りと平行して流れる神田川に架かる橋です。橋の名前には由来があります。

面影橋の由来

目白台から続く鎌倉街道と推定される古い街道沿いにあり、姿見の橋ともいわれていました。橋の名前の由来には諸説あり、高名な歌人である在原業平が鏡のような水面に姿を映したためという説、鷹狩の鷹をこのあたりで見つけた将軍家光が名付けたという説、近くにいた和田靱負の娘であった於戸姫が数々の起こった悲劇を嘆き、水面に身を投げた時にうたった和歌から名付けられたという説などが知られています。なお、姿見の橋は面影橋(俤の橋)の北側にあるもので、別の橋だという説もあります。




終点の早稲田電停にやってきました。三ノ輪橋電停のように、乗車と降車で線路が分かれていないので、ホームがやけに長くなっています。



電停の入口から見ますと、1本の線路の両側にホームがあり、それぞれ乗車専用と降車専用になっています。ラッシュ時には乗り降りの操作で運転手さんも忙しいでしょうね。



ということで、都電32系統の歩きを終えました。都電唯一の現役路線ですので、50年前の景色を想いながらの歩きでした。ホームの壁には、セピアカラーの都電写真館のポスターが貼ってあります。電車がやけに今風ですね。いつの時代に撮ったのでしょうか?







戻る