- 都電33系統跡コース
- コース 踏破記
- 今日は都電33系統跡を歩きます。都電33系統は浜松町から四谷三丁目までを結び、その路線は主に浜松町一丁目交差点〜神谷町交差点・桜田通り(国道1号線)・外苑東通りを通っていました。都心を東西に斜断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。
都電33系統
都電33系統の全長は5.7kmで、昭和44年10月26日に廃止となりました。
都電33系統の電停(路上の駅)は、浜松町・御成門・神谷町・飯倉一丁目・飯倉片町・三河台町・六本木・竜土町・新坂町・青山一丁目・権田原・信濃町・左門町・四谷三丁目でした。
都電33系統の始点となる浜松町電停は、JRの浜松町駅前ではなく、新橋駅と浜松町駅の中間地点に位置する第一京浜(国道15号線)上の浜松町一丁目交差点付近にありました。そこから西方向に直進し、神谷町交差点で桜田通り(国道1号線)に合流していたのです。浜松町一丁目交差点には、都電1系統が通っていたので、それを使えば新橋とか品川に行くことが出来ました。
浜松町一丁目交差点先の左手に日本赤十字社の本社があります。日本赤十字社は、昭和二十七年(1952年)に制定された日本赤十字社法によって設立された認可法人です。日本赤十字社の前身である博愛社は、1877年の西南戦争時に設立されました。明治十九年(1886年)にジュネーヴ条約に調印した日本政府の方針により、翌年の明治二十年(1887年)に日本赤十字社と改称しました。名誉総裁には皇后雅子様が就任しておられます。
道路に面した石垣の内側に幹の細い木が植わっています。鈴懸の木だそうです。戦時色の濃かった昭和十七年(1942年)に発売された佐伯孝夫作詞・灰田勝彦歌唱の歌に「鈴懸の径」という曲があります。もともとは同じメロディーで「マロニエの径」として作詞され、その歌詞はとても暗く感傷的な内容だったのですが、当時の日本というのは軍部に支配された状態で検閲が行われており、戦意をかきたてる勇ましい歌詞の曲は許可され、感傷的な内容の歌詞は発行・発売が禁止されていました。「マロニエの径」もそういう理由で却下されてしまい、書き直さざるを得なくなり、それならばいっそ方向を全く変えて若者たちが学校で歌う学園歌に変更してしまおうということになり、あらためて全く異なる歌詞が書かれました。学園歌に変えたので戦争のことを歌わずに済んだことで戦時中にも関わらず歌詞内容に戦時色・軍隊色が感じられない数少ない曲となりました。最初の発売から10年以上も後になって、鈴木章治が音楽の潮流の変化に合わせて4拍子にアレンジし、1954年頃に鈴木章治が率いるジャズバンドであるリズムエースの演奏で吹き込んでヒットしました。多くの人はこのクラリネット演奏の方に馴染みが深いでしょう。
「ヒポクラテスの木」
鈴懸の木
(スズカケノキ科プラタナス属)
この鈴懸の木は、昭和五十二年(1977年)、ギリシャ赤十字社から日本赤十字社創立100周年の記念として苗木が寄贈され成長したものです。世界医学の祖ヒポクラテスは今からおよそ2500年前、鈴懸の大木の下で、弟子たちに医の道を説いたといわれています。この原木は「ヒポクラテスの木」と呼ばれており、この鈴懸の木はその原木から苗木と種が採られました。この苗木と種は日本の各地の赤十字病院にも配られ、医療に携わる人たちの記念樹となっています。日本赤十字社からは、返礼としてギリシャ赤十字社に桜の苗木60本を贈っています。
もう一種類の木も植わっています。世界の赤十字社同士の連帯が感じられます。
糸杉
(ヒノキ科サイプレス属)
スイス人のアンリーデュナンは、ソルフェリーノの戦いにおける負傷兵士の救護活動を通じて、@戦時負傷者の敵味方の差別のない救護、Aそのための救護団体の平時からの組織化と国際的な条約の締結を提唱して赤十字思想を誕生させました。この糸杉の木は、アンリーデュナンによる赤十字思想の提唱から数えて100周年にあたる昭和三十四年(1959年)、イタリア赤十字社から日本赤十字社に、赤十字発祥のきっかけとなった戦地、北イタリアのソルフェリーノの丘の糸杉の種子が贈られ、成長したものです。
日比谷通りと交差する御成門交差点傍に案内板が立っています。お寺が初等教育の役割を果たしていた経緯から、増上寺がある場所に学校が設立されたのは自然な流れだったのでしょう。
東京都港区指定文化財
旧跡 日本近代初等教育発祥の地
(小学第一校・源流院跡)
わが国の近代初等教育は、明治五年(1872年)の学制発布に先立ち、同三年に東京府が府内の寺院を仮校舎として、六つの小学校を設立したことに始まり、その第一校は、六月十二日に開校した。第一校のおかれた源流院は、江戸時代初期からの増上寺子院で、当時、境内北辺の御成門東側のこの地にあった。大訓導(校長)村上珍休・教師・助教と生徒中の秀才が生徒を教えた。授業は主として句読(音読)・習字・算術で、生徒は八歳から十五歳までとし、机・硯箱・弁当は各自持参した。この小学第一校は、明治四年に、西久保巴町(虎ノ門三丁目)へ移り、その後、校名も、第一大学区第二中学区第一番小学、鞆絵尋常高等小学校、鞆絵国民学校、鞆絵小学校などと変わった。
御成門交差点の南西側には広大な芝公園の敷地が広がっています。芝公園は増上寺を中心とした緑地帯であり、明治六年(1873年)に開園しました。都内でも上野恩賜公園などと並ぶ古い公園です。元々は増上寺境内の敷地を公園としていましたが、戦後の政教分離の考えによって増上寺の敷地とは独立して宗教色のない都立公園として新たに遊具や運動施設などが設けられ、公園として整備されました。そのため、現在の公園の敷地は増上寺を取り囲むような形状になっています。公園内にホテル・学校・図書館などの施設が点在するほか、グランドや散策路などもあります。また、園内には前方後円墳の芝丸山古墳や丸山貝塚もあります。東側には港区役所、西側には東京タワーが建ち、特に東京タワーを正面に望む東側の散策路はデートスポットとして、またロケ撮影地として親しまれています。
御成門交差点の直ぐ先に、芝公園に隣り合って御成門小学校があります。学校の前の植え込みに、「御成門小学校開校由来碑」が置かれています。学校名が沢山あって、現在の御成門小学校が近隣の小学校と統廃合を繰り返しながら成立したことが分かります。その中の鞆絵小学校は、「日本近代初等教育発祥の地」の案内板にも記されていた通り、東京旧市内でも最も長い歴史を持つ公立小学校のひとつでした。統廃合を繰り返して現在の御成門小学校が成立した経緯は次の通りです。
- 昭和三十九年(1964年)
- 「南桜小学校」と「西桜小学校」が統合されて「桜小学校」が誕生。
- 平成三年(1991年)
- 「鞆絵小学校」と「桜田小学校」と「桜小学校」が統合されて「御成門小学校」が誕生。
- 平成五年(1993年)
- 「御成門小学校」に「桜川小学校」を編入。
- 平成七年(1995年)
- 「御成門小学校」に「神明小学校」を編入し、現在に至る。
近年、虎ノ門地区は大規模な再開発が行われていて、環状2号線の開通、虎ノ門ヒルズの竣工、地下鉄虎ノ門ヒルズ駅の開業など、劇的な変化を遂げています。
桜田通りに合流する神谷町交差点手前に光明寺があります。光明寺は、建暦二年(1212年)に天台宗の僧・了栄によって桜田霞ヶ関の地に真色山常楽寺(光明寺の旧称)として創建されました。天文九年(1540年)、疫病の流行に際し、常楽寺の本尊・阿弥陀如来像が光明を放って人々を救ったと信じられたことから、常楽寺を改め「光明寺」と称することになりました。天正十八年(1590年)、徳川家康の江戸入府の折、住職・証高が境内の紅梅に古歌を添えて献上すると家康は大いに喜び、「開運梅」と称せよと命じました。慶長九年(1604年)、江戸城を造営するために寺領を元々の霞ヶ関の地から現在の場所に移転しました。正保二年(1645年)、徳川三代将軍家光が光明寺を訪問した折、祖父の家康が光明寺の梅を喜んだという故事にちなみ、山号を真色山から「梅上山」に改めるよう命じました。明和九年(1772年)、明和の大火によって本堂・庫裏(くり:寺内の食事を準備する厨房のこと)などが焼失し、また境内に避難してきた人々が数多く焼死しました。当時の住職証山は焼死者を偲び、「焼死人之墓」を建立しました。境内の一画には石碑が建ち、その横には案内板も立っています。
港区指定文化財
旧跡 明和の大火死者供養墓
明和九年(1772年)二月二十九日の午後、目黒行人坂の大円寺より出火した火事は、強い西南の風に勢いを増し、麻布・芝から江戸城郭内・京橋・日本橋・神田・本郷・下谷・浅草などに延焼、千住まで達して、翌晦日の午後にようやく鎮火しました。いわゆる「目黒行人坂火事」で、明暦三年(1657年)一月十八日の「振袖火事」以来の江戸の大火であったといわれています。この火事で類焼した大名屋敷は169、町数は934、橋は170、寺は382にのぼったと記録にあります。死者は1万4700人、ほかに行方不明者も4000人を超えています。光明寺の過去帳によれば、境内の山の上に避難した男女90人が焼死し、寺の本堂・勝手・諸堂も残らず焼失したとあります。この供養墓は、この惨事に心を痛めた当時の住職が、焼死者の供養のために建立したものです。のちに墓は山の上から現在地に移されましたが、火災による惨事を現在まで記憶にとどめるものとして貴重です。
神谷町交差点を左折し、桜田通りを倉交差点に向かいます。桜田通りの右手には大型クレーンが林立した工事現場が広がっています。とてつもない広さで、どこからどこまでが工事区域なのか分かりません。「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」という名称の工事で、区域面積は約8.1ヘクタールに及ぶそうです。住宅・事務所・店舗・ホテル・インターナショナルスクール・中央広場・文化施設などが建てられる計画で、その延床面積は約86万平方メートルになるとか。第二の六本木ヒルズになることでしょう。
飯倉交差点の手前に、芝地区ちぃまっぷの案内板が立っています。
西久保八幡神社の貝塚
今から約3700年前の縄文時代後期のものといわれる貝塚が境内にあり、当時は東京湾がこの付近まで入り込んでいたことが感じられます。港郷土資料館内でこの貝塚の展示を見ることができます。
A shell mound at Nishikubo-hachiman Jinja Shrine
It is believed that the shell mound in the shrine is approximately 3700 years old from the latter half of the Jomon period. During that period, Tokyo Bay was larger than today. The exhibition of the shell mound is open to the public at the Minato City Local History Museum.
金地院(近藤周斎の墓)
徳川家康に招かれ、幕府の政策に関与したことから「黒衣の宰相」と称された崇伝が建立した寺です。新撰組局長近藤勇の養父である近藤周斎の墓があり、それを目当てに訪れる人もいます。
Konchi-in Temple (A tomb of Kondo Shusai)
Suuden, a monk called "a prime minister with black robe", established the temple. He was asked to take part in the government's administration by Shogun Tokugawa lyeyasu. There are also some people who visit the tomb of Kondo Shusai, the father of Kondo Isami. Kondo Isami was the head of Shinsen-gumi in which they promoted exclusionism.
緩やかな上り坂を上がり、倉交差点を右折して外苑東通りに入ります。
交差点の角に「ベラルーシの家庭料理」という看板を掲げたお店が建っています。ベラルーシってどこにあるのだろうと思っていましたら、ウクライナとロシアとの戦争(正確には紛争というそうですが)でロシアと共同戦線を張っている国なんですね。国民性はよく分からないのですが、ルカシェンコ大統領が独裁者みたいでそうなっているようです。ベラルーシ料理は主に野菜や豚肉をはじめとする肉類とパンから構成されています。料理は通常時間をかけて作られるか、あるいはシチューとして調理されます。通常ベラルーシ人は一日二度の食事を摂り、朝食は軽めで、夕食はボリュームがあります。小麦とライ麦のパンが食べられていますが、小麦の栽培に不適な土地のため、ライ麦のパンが多く消費されています。来賓や訪問客を迎えた家の主人は、スラヴ民族の伝統に従ってパンと塩を提供するのが歓迎の意思を示す伝統的なしきたりになっています。
ロシア大使館の警備は厳重です。ウクライナと交戦中の今は更に強化されていることでしょう。写真を撮るのもおっかなびっくりです。昔は入口の標識まで近づいて撮れたのですけど、今はカメラを向けるのもはばかれる雰囲気です。
つい最近まで、倉交差点と倉片町交差点の中間辺りの外苑東通りに面して古色蒼然たるレンガ塀の倉郵便局の建物がありました(正確には、日本郵政グループの飯倉ビル)。それがいつの間にか解体され、今はその跡地に巨大なビルが建設中です。神谷町で見た工事(C街区)と一体化した再開発が行われていて、その中心となるここA街区には64階建て・高さ330mの超高層ビルが(歩いた当時は)3階部分まで組み上がっています(2022年4月21日には上棟し、大坂の「あべのハルカス」を抜いて日本一の高さになりました)。すぐ近くに建つ東京タワーの高さが333mですから、少し遠慮したのかも。ただ、何年か後には、東京駅近くで建設が予定されている高さ390mの「Torch Tower」に追い越されますが。建物の名称は未だ発表されていませんが、今のところは「メインタワー」と呼ばれています。
倉片町交差点の手前に外務省の飯倉別館(飯倉公館ともいわれます)があります。外国首脳との会談や外相会談のほか、各種会議やレセプションなどの交流活動にも利用されています。建物は昭和四十六年(1971年)の完成ですが、今でも古さを感じさせません。「飯倉」という名称は、この辺りの歴史的名称「飯倉町」に由来しています。敷地内には、江戸時代幕末期の開国以来の外交資料を保管・展示する外交史料館が併設されています。平日は一般に公開されていて、閲覧室では、戦前・戦後期の外務省記録(外交記録)が所定の手続きを行った後で閲覧可能になっています。
六本木は美食の街です。場所柄高級店が多いのですが、このHOBGOBLIN(ホブゴブリン)というお店では松阪牛の食べ放題メニューがあると掲示されています。ホブゴブリンはイギリス人オーナーが手掛ける本場のブリティッシュパブとのことで、店名にもなっているホブゴブリンは、オックスフォード郊外ウィットニーで何世紀にもわたり伝統的醸造法でビールをつくり続けているウィッチウッド醸造所の主力エールだそうです。ホブゴブリンビールの他、りんごのお酒「アスポールサイダー」など、直輸入ビールは全て受賞歴のあるものを厳選しているとのこと。お食事は陽気なイギリス人シェフが作る本場のお料理が提供され、東京一大きいフィッシュ&チップスは絶品の味わいだとか。ブリティッシュパブで松阪牛の食べ放題って組み合わせがヘンだなと、ネットでいくら探しても出てきません。掲示を見たら、どうやら松阪牛の食べ放題をやっているのは「しゃぶ禅」というお店らしいです。ホブゴブリンのお店は1階にあり、しゃぶ禅は地下1階にあるみたいです。とんだ早とちりでした。。。
外苑東通りに面し、六本木の繁華街の中心に位置するロアビル(六本木共同ビル)は、1973年に竣工した地上13階建てで、「ROI」の文字を大きく壁面にあしらった外観が特徴です。1980年代後半の六本木ディスコブームを牽引し、一世を風靡しました。近年は1階に居酒屋・焼肉・焼き鳥・すし・串揚げなど約20店舗の飲食店が「六本木横丁」の名称で入居し、人気となっています。しかし、都が耐震性を満たしていないとの診断結果を公表したことによりビルの取り壊しが決まりましたが、未だ解体時期は示されていません。
六本木ドンキといえば、絶叫マシン騒動を思い出します。2005年9月、突如としてドンキの屋上からニョキニョキと黄色い鉄骨が顔を出しました。その鉄骨の正体は絶叫マシンのレールだったのです。ドンキはスイスのインタミン社製で、日本初となる遊戯機械「ハーフ・パイプ」を六本木店の屋上に設置すると発表しました。インタミン社は世界でも有数の遊戯機械メーカーで、東京ドームシティにあるアトラクション施設の「サンダードルフィン」も手がけています。ドンキの屋上に設置される筈だった「ハーフ・パイプ」は、スノーボードに模した12人乗りのライドがリニアモーター駆動による全長52メートルのU字型のレールを最大時速60キロメートルで、反復運動するというものでした。レールの両端はまさに天に向かっている感じで傾斜角度は90度近くあり、ドンキの建物と合わせると地上55mの高さから通行人や車が密集する地上を眺めることになるのです。絶叫マシン好きの若者にはたまらないスリルでしょう。しかしながら、事態は急転しました。計画を知った地元商店街から、「ハーフ・パイプ」が午前11時から翌朝の午前7時まで夜を徹しての営業では「騒音や乗客の叫び声が一日中街に響き渡る」などの反対意見が出され、区議会も巻き込んだ大騒動に発展しました。結局、計画は実現せず、設置された鉄骨も撤去と相成りました。実現していたら、六本木は絶叫の街として世界中に名を馳せたことでしょう。
六本木交差点で六本木通りと交差します。交差点の周辺には特色あるお店が集まっています。
六本木で待ち合わせといえば、喫茶・洋菓子販売のアマンド六本木店でした。現在は建替えられた店舗で営業していますが、どこかピカピカして馴染めません。以前の建物は前回の東京オリンピックが開催された昭和三十九年(1964年)にオープンし、当時の六本木の雰囲気によく溶け込んでいました。外飾がピンク基調なのは、戦後まもなく喫茶と甘味の店として誕生した際に、「復興の中で明るい気持ちになって欲しい」という想いから、当時では斬新な発想の「ピンク」を基調とした店作りにしたからとのことです。今では当たり前となった、おしぼりの提供・店頭にパラソルを置く・彫刻や絵画を飾るなどもアマンドが始めたといわれています。ちなみに、アマンドの店名の由来には「甘人(あまんど)」とか、フランス語の「アマンド(アーモンドの意味)」とか諸説あります。
アマンドの地下には「シシリア」というイタリアンのお店があります(入口は交差点の角にあります)。創業は昭和二十九年で、六本木の飲食店の中でも老舗の部類に入ります。定番のグリーンサラダとフロレンス風サラダに入っているホワイトアスパラガスが絶品だとか。
東京ミッドタウン(現在では日比谷と八重洲にもミッドタウンができましたので、区別するために東京ミッドタウン六本木と呼ばれています。なお、住所表記は赤坂になります。)は、かっての防衛庁本庁檜町庁舎の跡地の再開発事業として平成十九年(2007年)3月30日に開業した大規模複合施設です。オフィスや高級ホテル、さまざまなショップおよびレストラン・美術館・レジデンス・医療機関・公園・緑地など、多様な施設から構成されています。施設の中核をなす超高層ビル「ミッドタウン・タワー」は、地上54階・地下5階・高さ248mで、それまでの都庁第一庁舎に代わり都内では最高層のビルとなりました。広大な敷地は、1641年から1871年まで萩藩毛利家屋敷として使用され、明治時代に入ると1873年から陸軍の駐屯地となり、終戦後の1946年から米軍に接収されて将校宿舎として使用され、1960年に日本に返還され後、1962年から陸上自衛隊の檜町駐屯地となると共に、防衛庁の本庁舎も設置された経緯があります。
男性アイドルグループを多数抱えるジャニーズ事務所は、2018年に現在の乃木坂のSME(ソニー・ミュージック・エンターテイメント)乃木坂ビルに移転しました。このビルの地下3フロアには「ソニー・ミュージックスタジオ」があり、21世紀の多くの日本の音楽がここで録音されました。5室の録音スタジオと、12室のマスタリング・スタジオ、オーサリング・スタジオ(編集室3室とオーサリング・ルーム4室)からなるスタジオ・コンプレックスで、エントランスや廊下は全体が地上階までの吹き抜けとなっています。音響設計のピーター・グリューナイセンは施工に当たって、床材や壁材・空調のダクトから壁のクロスまで全てをアメリカから持ち込んだそうです。
SME乃木坂ビルと坂道を挟んだ反対側に乃木神社があります。乃木神社は、明治時代の軍人である乃木希典とその妻の乃木静子を祀っています。日光の東照宮もそうですが、歴史に名を残した偉人は神様(命)になるのです。神社の隣の丘陵地は、乃木夫妻が明治天皇大葬の日に自刃した邸宅の跡地で、現在は乃木公園となっており、敷地内に旧乃木邸が保存されています。
ちなみに、今を時めく人気アイドルグループの乃木坂46ですが、神社の前の「乃木坂」という坂は、乃木夫妻の葬儀の前までは「幽霊坂」と呼ばれていたのですが、葬儀を機に乃木坂に改称されたとのことです。幽霊坂46ではアイドルグループの名称としてはちょっと。。。
高台になった外苑東通りに面して乃木公園の入り口があります。ここは旧乃木邸の正門だったところでもあります。今でも当時の煉瓦塀が残り、明治期の豪勢な邸宅を偲ばせます。
公園附近沿革案内
この公園附近は、江戸時代の初期、青山常陸介忠成が家康の命をうけ、馬を乗り廻して賜わった土地で、力尽きて死んだ馬の塚を築き、駒留八幡といったという伝説がある。青山氏の敷地は現在の南北青山および赤坂七・八丁目を含む広大な地域であった。江戸時代末期このあたりは美濃郡上藩青山大膳亮の邸地で、明治維新後この一帯は新坂町と呼ばれ、名士の邸宅街となった。陸軍大将乃木希典は明治十二年この地を買い求め、同三十五年新築をした。大将は大正元年9月明治天皇のあとを追い、夫人静子とともに自害して果てた。邸宅はその遺言により、東京市に寄付され、整備ののち公園として開園された。現在では、旧乃木邸を含めて区立公園として管理している。
旧乃木邸は、地下1階・地上2階建てでしたが、傾斜地に建てられたことを利用して半地下も設け、実際は3階建てに相当していたとのことです。建物の前に幾つかの案内板が置かれています。(半地下の図面がないのですが、半地下は地下1階のことでしょうか?)
乃木邸の由来
乃木邸は明治十二年に買い求め、明治三十五年に改築されたものです。(此の建物は明治十九年にドイツ留学中、フランスの陸軍訪問の折にスケッチした(連)隊本部を参考に建てられています。)
旧乃木邸
旧乃木邸は、日清・日露の両戦役に従事し、明治天皇崩御と共に殉死された陸軍大将乃木希典の邸宅です。この邸宅は、フランス軍隊の建物を模して自ら設計したものと言われています。明治三十五年(1902年)に新築されたものです。本館は、木造の日本瓦葺きで、正面玄関から見ると全体が2階建てに見えますが、傾斜した地形が巧みに利用され、実際は半地下も含め3階建ての構造となっています。建築面積が168平方メートルの建物です。半地下には、台所・茶の間・納戸・浴室・書生部屋・女中部屋があり、1階は、応接室・客室・次室・来賓室・大将居室・夫人居室があります。屋根裏(2階のこと?)には、2人の令息の居室と物置・書庫が造られています。旧乃木邸と馬小屋は、大正元年9月13日乃木夫妻殉死後、遺言で東京市に寄付され、現在は港区が管理しています。また、夫妻の命日に合わせ毎年9月12日・13日に邸内を一般公開(無料)しています。
Former Residence of General Nogi
This is the former residence of Maresuke Nogi, an army general during the Sino-Japanese and Russo-Japanese wars who committed ritual suicide upon the death of the Meiji Emperor. It is said that Nogi designed the mansion himself, modeling it after French military-style structures. The building was erected in Meiji 35 (1902). The main building is a wooden structure with tile roofing. When seen from the main entrance the building appears to have two stories; however, the addition of a half-basement through skillful use of the sloping terrain actually makes it a three-story structure. The basement alone has a floor space of l168 square meter. The kitchen, tea room, storeroom, bath, houseboy's room and maid's quarters are located in the basement. A drawing room, guest room, anterroom, living room, and General Nogi's room and Mrs. Nogi's room are on the first floor. Nogi's two son's quarters are in the attic, along with closets and a library. Upon the deaths of General Nogi and his wife on September 13, Taisho 1 (1912) his residence was donated to the city of Tokyo as directed in his will and is now under the administration of Minato City. The residence is opened to the public free of charge on September 12 and 13 of every year in memory of the General and his wife.
東京都港区指定文化財
有形文化財 旧乃木邸及び馬小屋
旧乃木邸は、明治三十五年(1902年)に新築されたもので、乃木希典大将夫妻が大正元年(1912年)九月十三日、明治天皇御大葬の日、明治天皇に従って殉死するまでここに住んでいた。将軍が、ドイツ留学中に見たフランス軍隊の建物を模範にして建てたというもので、明治期の洋風建築が接客を目的とする豪華な建物か、和風住宅に洋風の応接室を付属させたものが多いのに比べこの邸宅は、軍人の家らしく、飾り気がなく簡素で合理的に作られている。建坪は168u、木造平家建、日本瓦葺で、傾斜地を巧みに利用し、建物全体に半地下構造をもつ。馬小屋は、平家建・日本瓦葺で、邸宅が新築される以前、明治二十二年(1889年)に建てられた。間口約12.5m・奥行約4.5mの細長い建物には、四つに区画された馬房や、馬糧庫等がある。住居が木造であるのに対し、馬小屋が練瓦造で立派だ、という評判のあったもので、馬をかわいがり大切にした大将の人柄が偲ばれる。
General Nogi's Residence and Stable
Erected in 1902, the Nogi residence was home to General Maresuke Nogi and his wife
until September 13, 1912, when on the day of the Emperor Meiji's funeral, the couple committed ritual suicide in order to follow their emperor to the grave. Built in the style of the French army buildings that impressed Nogi so much during his student days in Germany, the Nogi residence is noticeably different from many lavish Meiji Period homes built either entirely in Western-style or with Western-style drawing rooms. General Nogi's home is a simple, unadorned structure befitting a soldier. Making use of the slope on which the building stands, part of the wooden house, which covers 168 square meters and is roofed with Japanese tiles, is actually underground. The general's stable, also a single-story structure roofed with Japanese tiles, was constructed in 1889 before the house itself was built. The stable, 12.5 meters long and 4.5 meters wide, is a narrow building divided into four sections which were used to house the general's horses and to store feed. A sturdy brick structure, the stable bears witness to the great care the general took of his horses.
その馬小屋ですが、番所を思わせる立派な厩舎になっています。馬丁室や馬糧庫も完備しています。
厩(うまや)
明治二十二年に新築されたものです。
馬小屋の各房には名札が掲げられています。中でも、「壽號」は特別な馬だったようです。
愛馬の由来
正馬壽号は「ステッセル」将軍の愛用した「アラビヤ」産の牡馬で、明治三十八年一月五日水師営会見の際に乃木大将に贈らんとしたが、大将はその志を謝し直ちにこれを受けとることは軍規の許さない事なので後日を約してこれを「壽」号と名づけて戦役中乗用し凱旋後拂い下げを受け自分の馬として愛用した。大将は壽号を明治三十九年末に種馬として鳥取県赤崎町佐伯友文氏に贈られた。後大正四年五月同氏より島根県隠岐島村上寿夫氏に贈られ海士村渡辺淳三氏方で飼育中大正八年五月二十七日に終命した。馬齢二十三歳でその仔馬は二十余頭に及んでいる。副馬「璞」号は去勢馬で仔馬なし。
「御供待所」という標札の架かった小屋があります。主人の所用が終わるのを待つ供人のために、門の入口などに設けてある休憩所のことです。室内の壁には乃木将軍の経歴と二人の子息のことが記されています。乃木将軍が明治天皇に殉じたのも、子息の戦死が影響しているのかもしれません。
乃木将軍は言うまでもなく日清・日露の両役に武功輝き又高風清節徳望高き人格者として一世の崇敬をうけた。陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵に(叙)せられ晩年明治天皇の思召によって学習院長に任ぜられ、専ら華胄(かちゅう:貴族)子弟の薫育に盡(つく)したが大正元年九月十三日明治天皇御大葬の当日六十四才を一期として殉死し静子夫人も共に自刃した。将軍の殉死せらるるや遺言して自邸を東京市に寄附せられた。時の東京市長男爵阪谷芳郎は中央乃木会を設立してその旧邸を保存し、また隣接に乃木神社も建立した。将軍は嘉永二年十一月十一日麻布白ヶ窪の長府藩主毛利候邸に於て生れ(「少年乃木無人所載年譜」)、安政五年十一月将軍十才の砌(みぎ)り、一家と共に長門国長府に移った。幼名を無人とよび、慶応二年六月十八才の折文蔵と改名した。明治二年十一月二十一才の時藩命により佛式練兵教習のため伏見御親兵営に入隊し、その後京都市河東練兵場御親兵練武掛を命ぜられ、又豊浦藩陸軍練兵教官として鎮台兵の教育に盡したが明治四年十一月二十三才の時に陸軍少佐に任ぜられ、名を希典と改めた。明治八年二十七才の時、熊本鎮台歩兵第十四(連)隊長心得となり、同十年には西南の役に従軍、四月二十二日中佐に任ぜられた。将軍の父希次は同年十月東京に於て病没した。翌年十一年一月二十六日熊本鎮台参謀を免ぜられて歩兵第一(連)隊長となり、八月二十七日薩摩藩士湯地定之の四女静子と結婚したが、夫人は時に二十才であった。当時将軍は芝桜川町に住んでいた(「山路愛山著乃木将軍」)。翌明治十二年八月二十八日長男勝典が生れ、十一月に新坂町五十五番地に初めて邸宅を設けたのである。同十三年四月大佐に進み、翌十四年十二月次男保典が出生した。その後ドイツ留学、日清・日露両役に従軍、英国皇帝の載冠式参列等の事があり、その間那須別邸に自適されたこともあったが、本邸は依然として此地に在り、明治十二年以来三十四年間に及んだ。本旧邸は、素朴高潔であった将軍の日常を偲ぶのに最も良き記念物である。因みに長男勝典中尉は、明治三十七年南山総攻撃に於て戦死し、次男保典中尉は同年十一月三十日、203高地に於て
戦死した。時に長男は二十六才、次男は二十四才であった。大将夫妻及び両息子の墓はともに青山墓地にある。
乃木将軍の人柄を表す逸話が銅像になって置かれています。
乃木大将と辻占売少年像
今に伝えられる「乃木大将と辻占売りの少年」の話は、明治二十四年、乃木希典が陸軍少将の時代、用務で金沢を訪れた折りのことです。希典は金沢で偶然、当時八歳の今越清三郎少年に出会います。今越少年は、辻占売りを営みながら一家の生計を支えていました。この姿に感銘を受けた希典は、少年を励まし、金弐円を手渡しました。今越少年はこの恩を忘れることなく、努力を重ね、金箔業の世界で大きな実績を積み上げました。この銅像は、こうした乃木希典の人となりを伝えるものとして、昭和四十三年に旧ニッカ池(六本木六丁目)の縁に造立されましたが、このたび旧ニッカ池周辺が整備されることとなり、希典所縁のこの地に移建されました。
乃木将軍手植えの木も残されています。
月桂樹
明治三十五年頃「イタリア」に洋行した山口県の農学博士豊永直利氏より凱旋の際に寄贈されたもので、大将御手植えの木です。
乃木神社の境内に、乃木将軍が学習院院長に任命された際に明治天皇から賜った詠歌を記した石碑が置かれています。「やまとなでしこ」?
教育の碑
明治天皇御製 教育
いさをある人を
をしえの親にして
おほしたてなむ
やまとなでしこ
明治四十年一月に御祭神乃木将軍が学習院院長に任命された頃に、生徒心得の為に明治天皇より賜った御製であります。乃木将軍のような国家に勲功のある立派な人を学習院院長にして大切な皇国の未来を担う子弟の教育に當らせたいという明治天皇のお気持ちがこめられています。この碑は当時の御歌所所長・高崎正風氏が謹書したものを刻んだものであります。
外苑東通りは青山通り(国道246号)に突き当たる手前で左折し、クランク状に方向を変えて青山一丁目交差点で青山通りと交差します。青山通りに合流してから青山一丁目交差点で右折するよりも、こちらの方が電車の運転が容易だったのではないかと思います。
クランク状になった交差点の脇の青山ツインビルの裏側に細長い公園があり、その西端に赤坂消防署発祥之地碑があります。白い石に金属プレートが貼り込まれ、上に赤銅色の立方体の彫刻が乗ったユニークな形をしています。火消しの纏(まとい)をかたどったものだそうです。
赤坂消防署発祥之地
赤坂消防署は、この地に大正十五年に誕生し、以来昭和三十年までの間地域と一体となって、協力と和のもとに防災の拠点としてその任務を果たした。
青山一丁目交差点の北東側には緑濃い赤坂御所が位置し、南西側の角地にはホンダの東京本社ビルが建っています。通常のオフィスビルと違って、各階の外壁部分がバルコニー状の出っ張りと一体化した造りになっていて、窓ガラスが内側に引っ込んでいます。2階部分は植え込みのプランターになっていますが、3階より上のバルコニーは避難通路となっています。これは、大地震が発生した際に窓ガラスが割れて落下するのを防ぐために本田宗一郎氏が設計変更を命じたといわれています。また、本社ビル自体が交差点より引っ込んだ位置に建っているのも、交差点を右折したり左折したりする自動車の視界を確保するために、本田宗一郎氏が自動車ユーザーに配慮してビルの位置を決めたともいわれています。伝説的な経営者の考えることは常人には及びもつきませんね。
権田原交差点の角に、明治神宮による結婚式場として知られる明治記念館があります。建物は明治初頭に建てられた赤坂仮御所の別殿で、ここで大日本帝国憲法や皇室典範の草案審議の御前会議が行われました。その後、この建物は憲法制定の功績で明治天皇から伊藤博文に下賜されることになり、大井の伊藤邸内に移築されました。伊藤の死後、明治神宮外苑に再移築され、この時に「憲法記念館」となりました。昭和二十二年(1947年)11月1日に、リコーグループの創始者である市村清の主導で憲法記念館を「明治記念館」として開館しました。現在は、結婚式の会場のほか、宴会場・会議施設としても利用でき、レストラン等も併設されています。
信濃町駅の向かいに、町中華の代表格の「熱烈 中華食堂 日高屋」があり、その前の石垣の内側に案内板が立っています。滝沢馬琴が昼飲みに日高屋を利用していたとは思えませんが。
新宿区指定史跡
滝沢馬琴終焉の地
この地は、「南総里見八犬伝」の著者として有名な江戸時代後期の戯作者滝沢馬琴(1767年〜1848年)が、天保七年(1836年)から嘉永元年(1848年)に亡くなるまでの約十二年間暮らした場所である。馬琴は、江戸深川で旗本の用人の子として生まれた。名は興邦、後に解(とく)と改め、曲亭馬琴・著作堂主人・篁民(こうみん)などと号した。天保六年(1835年)に嫡男の宗伯が病死したため、幕府の御家人株を買い、翌年、神田同朋町の屋敷から四谷信濃町の四谷組同心屋敷へ転居した。四谷に移転してからは、(妹の)婿・妹・妻が相次いで亡くなり、自身も目を患い失明に近い状態であったが、(宗伯の)嫁の路に口述筆記させ「南総里見八犬伝」を完成させた。
Designated Historical Site of Shinjuku City
Death Place of Takizawa Bakin
Takizawa Bakin (1767-1848), the famous late-Edo period author of popular fiction such as Nanso Satomi Hakkenden (The Eight Dog Chronicles), lived the last 12 years of his life at this location from 1836-1848. Bakin was the son of a samurai in the service of a shogun's retainer who lived in the Fukagawa District of Edo. He was given the name "Okikuni" but later took on the name "Toku" and used various pennames, including "Kyokutei Bakin," "Chosakudo Shujin," and "Komin. The death of his son and heir, Sohaku, from illness in 1835 led Bakin to purchase a heritable
samurai rank in order to ensure his family name would continue. The next year, he changed houses and moved from Dobocho, Kanda to this location. The move was followed by the successive deaths of his son-in-law, younger sister, and wife. Due to his failing eyesight, he completed Nanso Satomi Hakkenden by dictating it to Sohaku's wife.
外苑東通りは中央線の上を陸橋で跨ぎ、信濃町駅の脇を通ります。外苑東通りの左手には慶應大学病院があります。歴史ある都内屈指の大病院で、石原裕次郎・夏目雅子・藤子不二雄・岡本太郎・遠藤周作・田中角栄・坂井泉水など多くの芸能人・著名人・政治家が利用しました。1981年5月8日、47歳の石原裕次郎は胸部大動脈瘤という難病で倒れ、慶應大学病院に運ばれました。生存率5%もない手術に15人の外科医が病院の威信をかけて挑みました。手術は成功し、その後石原裕次郎は慶應大学病院の屋上に姿を見せ、手を振った姿が印象的でしたね。
慶應大学病院の隣に巨大な煉瓦塀が異彩を放つ「信濃町煉瓦館」のビルが目を惹きます。何の建物なんだろうと不思議に思いますが、実は分譲賃貸マンションなのです(オフィスとしても使われています)。一見住居とは思えない外観や内装に工夫を凝らしたデザイン性の高い高級マンションで、なんといっても一際目を引くのは円形にくりぬかれた大胆なデザインです。また、煉瓦造りの壁面はアンティークな雰囲気を醸し出しています。信濃町煉瓦館は、慶應大学病院の旧食養研究所跡に建てられ、敷地は慶應大学病院の一部なんだそうです。
外苑東通りは四谷三丁目交差点で新宿通りと交差し、新目白通りにぶつかる鶴巻交差点まで延びていますが、都電33系統は四谷三丁目交差点の手前で終点となります。新宿通りには都電11系統と都電12系統が走っていました。
ということで、都電33系統跡の歩きを終えました。浜松町から六本木や赤坂を経由して四谷までを結ぶ路線は、ディスコ全盛時代だったバブル期には終夜運転しても需要があったことでしょう。廃止するのが少し時期尚早だったのかも。
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