- 都電34系統跡コース
- コース 踏破記
- 今日は都電34系統跡を歩きます。都電34系統は渋谷駅から金杉橋までを結び、その路線は主に明治通り・都道415号高輪麻布線(古川橋交差点〜新一の橋交差点の区間)・(*)都道319号環状三号線(新一の橋交差点〜金杉橋の区間)を通っていました。都心を東西に横断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。
注記(*):芝園橋電停〜金杉橋電停の区間は古川の北側を通っていたのか、南側を通っていたのか分かりません。
都電34系統
都電34系統の全長は6.3kmで、昭和44年10月26日に廃止となりました。
都電34系統の電停(路上の駅)は、渋谷駅・並木橋・中通二丁目・渋谷橋・下通二丁目・天現寺橋・光林寺・四ノ橋・古川橋・三ノ橋・二ノ橋・一ノ橋・中ノ橋・赤羽橋・芝園橋・金杉橋でした。
都電34系統の渋谷駅電停はどこにあったのでしょうか?ネットの情報によれば、現在都営バスのターミナルになっている渋谷駅東口広場にあったそうです。この電停には、都電6系統・都電9系統・都電10系統、それに都電34系統の計4つの系統の都電が発着していました。都電34系統以外は全て宮益坂(金王坂も?)を上って青山通りに進んでいました。
「かまぼこ屋根」で親しまれた東急東横線・旧渋谷駅ホームは、「4面4線の頭端式ホーム」で、ホーム下には国道246号線(玉川通り)、ホームの頭上には首都高速3号渋谷線が通っているという特殊な高架橋ホームでした。ホームは天井が高く、開放感に満ちていました。かつてホームや線路を支えた3本の鉄筋は、JR渋谷駅と渋谷ストリームをつなぐ国道246号横断デッキとして再利用されています。
渋谷ストリームは、東急東横線の旧渋谷駅ホーム南側の線路跡地及び周辺地域を再開発して2018年9月13日に開業した地上35階・地下4階建ての高層ビルです。低層階はカフェとレストラン、高層階はホテルやオフィスなどから構成される複合施設です。オフィスフロアはGoogle(アルファベット)の日本法人が一括して借り上げています。名称の「渋谷ストリーム」は、敷地に隣接して渋谷川が流れていることから、流れや小川を意味する「STREAM(ストリーム)」に因んで名付けられました。蛇足ですが、平成二十八年(2016年)2月、欅坂46のデビューシングルである「サイレントマジョリティー」のジャケット写真とミュージックビデオが渋谷ストリームの建設中の現場で撮影されました。
都電34系統の渋谷駅電停から天現寺橋電停まではかっての玉川電車の路線で、昭和十三年11月に東京市電に吸収されました。都電34系統は渋谷川の流路に沿ってつかず離れず長い距離を走っていましたが、これは他の都電にはない特徴のひとつでした。ちなみに、渋谷川は渋谷ストリーム脇にある稲荷橋から天現寺橋下の笄川合流点までの区間をいいます。そこから下流では川の名称が変わり、浜崎橋先の河口まで古川になります(地域によっては、古川を金杉川とも呼んでいます)。都電34系統のもうひとつの特徴は、渋谷駅電停から金杉橋電停までの16電停のうち、12電停の名称に「橋」が付いていたことです。如何に川筋に沿って走っていたかを示していますよね。そんな「橋」の付く電停のひとつに「並木橋」電停があります。現在は代官山から八幡通り方面に抜ける大きな橋が「新並木橋」として知られていますが、新並木橋の脇に架かる小さな橋が本来の「並木橋」で、江戸時代には幕府が設置した「御入用橋」として格式の高い橋に位置づけられ、当時は金王八幡宮から鎌倉街道を結ぶ「金王下橋」という名称で呼ばれていました。その後、明治時代に架け替えられ、六本木通り方面に登っていくと金王八幡神社の大鳥居があり、街道筋に並木があったことから並木橋に改称されたといわれています。並木橋の袂に鎌倉街道(中道)の案内板が立っています。
鎌倉道
この右手の細い道を古くから鎌倉道と呼び、源氏が鎌倉に幕府を開いて以来、東日本の各地に設けられた軍道のひとつといわれています。ここから西へ行くと、渋谷川を渡って台地をのぼり、猿楽塚の二つの築山の間を抜けて目黒川にくだり、さらに多摩川を渡って神奈川県にはいります。また、東に進むと青山学院の付近を通り、千駄ヶ谷方面に達し、さらに東北地方に向かっていたといわれています。大永四年(1524年)に相模の北条軍がこの鎌倉道を通って江戸に攻めのぼり、その時の戦火が渋谷地域にも及び金王八幡宮付近にあった城館が焼失したと伝えられます。
渋谷川の護岸と川底はがっちりとしたコンクリートで固められています。普段は殆ど水は流れていませんが、大雨の時などは水位が上がり、流れも速くなります。かってはドブ川だったのですが、現在では水質は大幅に改善されています。
清流の復活 −渋谷川・古川−
渋谷川・古川は、渋谷駅付近から渋谷区と港区の境までの区間を渋谷川といい、港区に入ると古川と名前を変えて、芝公園に沿って流れ、旧芝離宮恩賜庭園付近で東京湾にそそいでいます。渋谷川は昭和の始めごろまではかんがいの水源として、古川は小舟の舟運に利用されていましたが、都市化の進展や陸上交通の発展とともにその利用状況が大きく変化し、水質の悪化や水量の減少がみられました。そこで、平成七年(1995年)3月より東京都では清流復活事業を実施し、渋谷川・古川で清流の復活を行いました。この渋谷川・古川に流れている清流は、新宿区上落合にある落合水再生センターで高度処理した再生水を利用しています。東京都では、都民が水辺に親しむことができるとともに、水辺に多様な生物が生息できるよう、水質の向上や水量の回復により、心のやすらぐ水辺環境づくりをめざしています。
並木橋交差点の角に渋谷地区の町名案内板が立っています。八幡通りの名称は金王八幡神社に由来するんですね。
住居表示街区案内図
氷川町(ひかわちょう)
昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字永川裏・伊藤前で、渋谷町の大字として成立。昭和七年渋谷区の町名となる。同四十一年現行の東一丁目〜東三丁目となる。区役所出張所・学童館・児童遊園にその名をとどめる。区域内にかつて下渋谷村の鎮守氷川神社があり、9月29日の「大祭日には此処にて素人角力を執行す。氷川の角力とて古より有名」であった。また昭和十一年に神宮通一丁目(神南一丁目)に移転するまで、渋谷村役場・渋谷町役場・渋谷区役所の所在地であった。
中通(なかどおり)
昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。一丁目〜三丁目があった。もとは豊多摩郡渋谷町大字渋谷上広尾町・大字下渋谷字四反町・居村・伊藤前・伊勢山・大字中渋谷字並木・堀之内の各一部で、渋谷町の大字として成立。渋谷橋から渋谷駅前に至る明治通り沿いの南北に細長い区域。同時に設けられた上通とは渋谷駅前で、下通とは渋谷橋で接していた。昭和七年渋谷区の町名となる。同三十五年一部が恵比寿東二丁目となり、同四十一年残余が現行の渋谷二丁目〜渋谷三丁目・東一丁目〜東三丁目・広尾一丁目の各一部となる。
田毎町(たごとちょう)
昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。もとば豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字田子免・代官山の各一部で、渋谷町の大字として成立。山手線と渋谷川にはさまれた東横線の南北にわたる区域で、大部分を占めた田子免の語感をきらい田毎と改称。昭和七年渋谷区の町名となる。同三十五年一部が恵比寿東二丁目の一部に、同四十一年残余が現行の東一丁目の一部となる。
並木町(なみきちょう)
昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字中渋谷字並木前・長谷戸・大和田下の各一部で、渋谷町の大字として成立。山手線と渋谷川にはさまれ、渋谷駅から並木橋に至る南北に細長い区域。昭和七年渋谷区の町名どなる。同四十一年現行の渋谷二丁目〜渋谷三丁目となる。小字並木前の由来は、金王八幡神社から渋谷川に架かる並木橋を渡って猿楽町方面に行く道を鎌倉道といい、かつての鎌倉街道で、この道路沿いに並木があったことによる。
若木町(わかぎちょう)
昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字永川裏・羽沢の各一部で、渋谷町の大字として成立。命名は地域内に東京市種苗園があったことによる。昭和七年渋谷区の町名となる。同四十一年現行の東四丁目・広尾三丁目の各一部となる。種苗園の跡地は国学院大学・広尾高校・広尾中学校などになっている。
常磐松町(ときわまつちょう)
昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字常磐松・伊勢山・大字青山南町七丁目の各一部で、渋谷町の大字として成立。「盤」の字は皿は割れるので縁起が悪いということで、成立の際磐の字に改めた。常磐松と称する古木があって千両の値がつくほどの銘木であったが、第二次大戦で焼失し、現在あるのは戦後になって植えたもの。昭和七年渋谷区の町名となる。同四十一年現行の東一丁目・東四丁目・渋谷四丁目・広尾三丁目の各一部となる。常磐松小学校にその名をとどめる。
八幡通(はちまんどおり)
昭和三年〜昭和四十四年の大字名・町名。一丁目〜三丁目があった。もとは豊多摩郡渋谷町大字青山南七丁目・大字中渋谷字並木・並木前・大字下渋谷字常盤松・伊勢山・猿楽・田子免・代官山・長谷戸・鎗ヶ崎の各一部で、渋谷町の大字として成立。青山通りから並木橋を経て駒沢通りに至る道路(旧鎌倉街道)沿いの南北に細長い区域。青山通りに接していた一丁目の近くに金王八幡神社があったのが命名の由来。昭和七年渋谷区の町名となり、昭和四十一年〜昭和四十五年、現行の渋谷二丁目〜渋谷四丁目・東一丁目・猿楽町・鶯谷町・惠比寿西一丁目・代官山町の一部となる。
金王町(こんのうちょう)
昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字青山南町七丁目・大字渋谷宮益町・大字中渋谷字並木・堀之内の各一部で、渋谷町の大字として成立。渋谷氏の居城(渋谷城)跡に鎮座する金王八幡神社にちなんで命名。昭和七年渋谷区の町名となり、同四十一年現行の渋谷二丁目〜渋谷三丁目の各一部となる。金王八幡は渋谷八幡ともいい、江戸八所八幡のひとつで、渋谷区内現存の最古の建造物(江戸中期)。境内に金王桜・鎮座の松があり、「しばらくは花の上なる月夜かな」という芭蕉句碑もある。また、渋谷警察署の近辺は渋谷城の濠跡と伝える。
渋谷橋交差点に架かる歩道橋の袂に恵比寿・広尾地区の町名案内板が立っています。大字(おおあざ)とは、市町村内の区画名称である字(あざ)の一種です。明治二十二年(1889年)に公布された市制および町村制の施行時にそれまでの村名や町名を残したものです。一方、江戸時代からの村(藩政村)の下にあった区画単位は小字(こあざ)と言います。今でも地方の町には大字を冠するところがありますね。旧山手通りが駒沢通りに交わる交差点の名前が「鎗ヶ崎交差点」になっていますが、かっての町名の名残りなのでしょうか?
住居表示街区案内図
若木町(わかぎちょう)
昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字水川裹・羽沢の各一部で、渋谷町の大字として成立。命名は地域内に東京市種苗園があったことによる。昭和七年渋谷区の町名となる。同四十一年現行の東四丁目・広尾三丁目の各一部となる。種苗園の跡地は国学院大学・広尾高校・広尾中学校などになっている。
永住町(ながずみちょう)
昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字居村・新地・豊分・大字渋谷下広尾町の各一部で、渋谷町の大字として成立。小字居村は「永住」の意に解されることによる命名。昭和七年渋谷区の町名となる。昭和四十一年一部が現行の東三丁目の一部となり、一部は現行の広尾二丁目の西半部となる。
田毎町(たごとちょう)
昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字下淡谷字田子免・代官山の各一部で、渋谷町の大字として成立。山手線と渋谷川にはさまれた東横線の南北にわたる区域で、大部分を占めた田子免の語感をきらい田毎と改称。昭和七年渋谷区の町名となる。昭和三十五年一部が恵比寿東二丁目の一部に、昭和四十一年残余が現行の東一丁目の一部となる。
氷川町(ひかわちょう)
昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字永川裏・伊藤前で、渋谷町の大字として成立。昭和七年渋谷区の町名となる。昭和四十一年現行の東一丁目〜三丁目となる。区役所出張所・学童館・児童遊園にその名をとどめる。区域内に下渋谷村の鎮守氷川神社があり、9月29日の「大祭日には此処にて素人角力を執行す。永川の角力とて古より有名」であった。
上智町(あげちまち)
昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。豊多摩郡渋谷町大字渋谷上広尾町、大字下渋谷字居村の各一部が合併して渋谷町の大字として成立。地名の由来は、元禄十二年当地にあった戸田家抱地が上知されて御料地になり、上知と通称されていたことによる。昭和七年渋谷区の町名となる。昭和四十一年現行の東三丁目・広尾一丁目の各一部となる。
下通(しもどおり)
昭和三年〜昭和四十四年の大字名・町名。一丁目〜五丁目があった。もとは豊多摩郡渋谷町大字淡谷広尾町・渋谷上広尾町・渋谷下広尾町・麻布広尾町、大字下渋谷字広尾耕地・豊沢・新地・町田・居村・広尾向・四反町・長谷戸・鎗ケ崎の各一部で、渋谷町の大字として成立。天現寺橋交差点から恵比寿駅を経て駒沢通りに至る道路沿いの細長い区域。東から西へ一丁目〜五丁目があった。
中通(なかどおり)
昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。一丁目〜三丁目があった。もとは豊多摩郡渋谷町大字渋谷上広尾町、大字下渋谷字四反町・居村・伊藤前・伊勢山、大字中渋谷字並木・堀之内の各一部で、渋谷町の大字として成立。渋谷橋から渋谷駅前に至る明治通り沿いの南北に細長い区域。同時に設けられた上通とは渋谷駅前で、下通とは渋谷橋で接していた。昭和七年渋谷区の町名となる。昭和三十五年一部が恵比寿東二丁目となり、昭和四十一年残余が現行の渋谷二丁目〜三丁目・東一丁目〜三丁目・広尾一丁目の各一部となる。
新橋町(しんばしまち)
昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字豊沢・町田の各一部で、渋谷町の大字として成立。渋谷川に架かる橋の名による。昭和七年渋谷区の町名となる。昭和四十一年現行の恵比寿一丁目〜二丁目に二分される。区役所新橋出張所に名をとどめる。
丹後町(たんごちょう)
昭和三年〜昭和三十五年の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字四反町・代官山の各一部で、渋谷町の大字として成立。山手線と渋谷川にはさまれた恵比寿駅北方の区域で、丹羽丹後守の下屋敷があったのが命名の由来とされている。昭和七年渋谷区の町名となる。昭和三十五年惠比寿東二丁目(現行の東二丁目)の一部となる。
山下町(やましたちょう)
昭和三年〜昭和四十一年の大字名・町名。もとは豊多摩郡渋谷町大字下渋谷字広尾向・町田の各一部で、渋谷町の大字として成立。命名は当地が古くから山下と俗称されていたことによる。昭和七年渋谷区の町名となる。昭和三十五年西半部が恵比寿東一丁目の北半部(現行の恵比寿一丁目)となり、残余は昭和四十一年現行の恵比寿一丁目の西半部となる。
渋谷橋の先で渋谷川は蛇行しながら東方向に流れて行きます。川岸の右手に恵比寿東公園があります。渋谷川沿いに細長い形をした公園で、昭和三十三年3月25日に戦災復興区画整理公園として開園しました。タコの形をしたすべり台があるため、地域では通称「タコ公園」と呼ばれ親しまれています。春にはソメイヨシノやサトザクラなどが咲くお花見のスポットとしても知られています。
ちなみに、現在のタコの滑り台はあまり迫力がありませんが、平成二十二年の改修前はもっと大きかったそうです。改修を機に、それまでのタコの滑り台では小学生以下の子供は危険だろうということで小さい子供でも楽しめるよう小ぶりな滑り台にしたのだそうです。
「広尾散歩通り」がどこからどこまでなのかよく分かりませんが、地下鉄広尾駅から明治通りに交わるまでの商店街を指すのではないかと思います。ちなみに、この道は黒田長政が藩主を務めた福岡藩黒田家の菩提寺として知られる祥雲寺の参道だったそうです。広尾という町が祥雲寺の門前町として発展してきた経緯がありますので、歴史ある通りなんですね。明治通りから分岐する交番の向かいに、「88HACHIHACHIHIROO」と大書きした建物があります。前々から気になっていたのですが、よくよく見ますと、「HAKATA YAKINIKU」と書いてあります。焼肉屋さんだったんですね。おしゃれな空間で最高のお肉をリーズナブルに楽しめるというのがキャッチフレーズだそうです。焼肉って、博多の名物だったのかな?(ネットの情報によりますと、2021年5月末で閉店したとのことです)
明治通りと外苑西通りが交差する天現寺橋交差点手前に広尾公園があります。ここにはかって都電の車庫がありました。その跡地は都営アパートと公園になっています。
都電車庫跡
このあたりには、都電の広尾電車営業所がありました。営業所は大正7年8月(1918年)に開設され、都電の車庫も兼ねていました。都電の歴史は、明治15年(1882年)6月に新橋〜日本橋間を走った鉄道馬車が起源と言われています。同36年(1903年)8月に動力が馬から電気へと切り替わり、同39年3月に信濃町〜天現寺橋までの区間が開通しました。同44年8月に東京市がそれら事業を東京鉄道から買収し、市営化して東京市電が誕生することとなります。順次路線は延び、大正2年(1913年)4月には、天現寺・伊達跡間が開通します。さらに、同13年5月までに、玉川電気鉄道(のち、東京横浜電鉄に合併)の路線が渋谷から天現寺橋まで開通しました。この渋谷〜天現寺橋間及び渋谷橋〜中目黒間は、昭和13年(1938年)10月には、経営を東京市に委託(昭和23年3月に正式に都に売却)することとなりました。同18年7月の都政施行により、通称を都電と呼ぶようになりました。昭和30年代に入ると、都電は交通渋滞の誘因ともなったことから、渋谷界隈を走っていた都電も昭和42年12月から順次廃止されてゆきました。広尾電車営業所跡は、7系統(四谷三丁目〜泉岳寺前)、33系統(四谷三丁目〜浜松町一丁目)、34系統(渋谷駅前〜金杉橋)の廃止を受けて、同44年10月に、その役割を終えます。
交差点の角には天現寺があります。天現寺は享保四年(1719年)に小日向御箪笥町にあった普明寺を現在地に移築し、多聞山天現寺と改めて開山しました。渋谷川・古川と笄川の合流点に立地し、門前にある橋名は天現寺橋となっています。この他、明治通りと外苑西通りが交差する交差点の名前や、首都高速道路のランプ名に天現寺が冠されています。ちなみに、ランプ(ramp)とは、「斜面」や「傾斜路」などを意味し、一般道から首都高速道路の本線をつないで出入りするための道路をいいます。
天現寺橋の先に半円形の建物が見えます。ニュー山王ホテルは港区南麻布にある在日米軍の施設で、アメリカ海軍が管理しています。アメリカ軍関係者が東京を訪問する際の宿泊施設・在日米軍勤務者の保養所・社交場として使用され、駐日アメリカ大使館関係者も利用することがあります。施設内は英語とアメリカ合衆国ドルが用いられています。週末には満室になることもあります。ニュー山王ホテルにはある思い出があります。ある年のお正月に目黒区役所あたりを散歩していましたら、短パンにサンダル履きのアメリカ人が近寄ってきました。どうやら浅草あたりに遊びに行き、帰りにタクシーに乗ったところ、運転手と意思疎通ができなくなり、ここで下ろされたらしいです。手に持ったメモにはニュー山王ホテルの住所が書かれています。場所は天現寺交差点の近くみたいですが、私には初耳のホテルです。近くに人はおらず、このまま放っておくわけにもいかないのでホテルまで連れていくことにしました。でも、歩いて行くにはかなり距離があります。とりあえず中目黒駅まで行き、地下鉄に乗って広尾駅で下車してからホテルを探すことにしました。地下鉄の中で話を聞いてみますと、米海軍の軍属らしく、帰国の途中で東京に立ち寄ったみたいです。広尾駅で下りて天現寺方向に歩いていったのですが、なかなか見つかりません。彼も見知らぬ日本人に連れ回されて少し警戒しているようでした。ようやくニュー山王ホテルが見つかった時は安堵の表情がみてとれました。「今夜はビールが旨いぞ!」とか言っていましたが、こんなところに米軍の施設があるとは夢にも思いませんでした。
首都高目黒線の天現寺ランプ前に光林禅寺があります。格式の高いお寺とされ、墓地には大名・旗本・大企業の役員などのお墓が多くあります。2018年9月30日、光林禅寺において女優・樹木希林の葬儀が執り行われ、その後亡くなった夫の内田裕也と一緒に光林禅寺に埋葬されました。そんな有名人に混じって、光林禅寺には幕末時代の外国人のお墓もあります。ヘンリー・コンラッド・ジョアンズ・ヒュースケンという若者で、オランダ人ですが一家でアメリカに渡りアメリカ国籍をとった後、当時の日本がオランダ語を外交時の公用語としていたこともあって、英語とオランダ語がわかる人物としてアメリカ総領事ハリスの通訳として雇われました。ハリスと共に来日した後で日本語も習得し、日米修好通商条約の締結に貢献しました。英語とオランダ語ができる貴重な通訳として、ヒュースケンは各国から通訳を依頼され、プロイセン王国(現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とし、ドイツ統一の中核となった王国)の仕事も引き受けていました。万延元年12月4日(5日という記述もあります)、ヒュースケンは江戸城の周りを馬でまわって(ヒュースケンは乗馬が好きでした)午後6時頃にプロイセン王国の使節宿舎であった芝赤羽接遇所(北区の赤羽でなく、現在の赤羽橋の近くにあった)に到着し、プロイセン王国の使節らと夕食を摂ったあとも夜8時半頃まで雑談に興じ、その後幕府の3名の騎馬役人・従僕ら4人・馬丁2名を警護に付けて善福寺のアメリカ大使館への帰路につきました。しかし、その途中の夜9時頃、芝薪河岸にある中の橋付近で攘夷派「浪士組」所属の薩摩藩士8名に襲撃されました。腸を切断するほどの深手を負い、約200m先で落馬したヒュースケンはアメリカ公使館に運ばれ、ハリスはプロイセン王国使節団の医師と数名を呼び寄せました。また、既に駆けつけていた日本人医師らと懸命な手当をおこないましたが、翌5日(6日という記述もあります)に失血死で28歳の若さで息を引き取りました。ヒュースケンの遺骸はプロイセン王国が用意した棺に納められるとアメリカ国旗で包まれ、善福寺は土葬が禁じられていたために、土葬が可能な光林禅寺に運ばれて埋葬されました。
ヒュースケン墓
アメリカ総領事ハリスの通訳兼書記官として、安政三年(1856年)七月に下田に到着したオランダ人ヒュースケンは、その仮公使館が設けられるに及び江戸に入り、ハリスの片腕となって困難な日米間の折衝に活躍し、日米修好通商条約を調印にいたらしめ、また、日本と諸外国の条約締結にも尽力した人物である。万延元年(1860年)十二月、ヒュースケンは日本とプロシアとの修好条約の協議の幹旋のため、会場であった赤羽接遇所と宿舎の間を騎馬で往復していたが、五日午後九時ごろ、宿舎への帰路、中ノ橋付近で一団の浪士に襲われ、刀で腹部を深く切られた。その後宿所に運ばれ、プロシア使節団の医師らによる処置が行われたが、六日未明に死亡した。遺体は江戸光林寺に埋葬された。
光林禅寺の直ぐ先に、有栖川公園通りに繋がる新坂が延びています。あまりにも安直な名前ですね。
新坂
しんざか。新しく開かれた坂の意味であるが、開かれたのは明治二十年代と推定される。
明治通りは古川橋交差点が終端(起点)になっています。その古川橋の南側に山手線内最大戸数の再開発と謳って、白金ザ・スカイというプロジェクトが進行中です。2022年12月下旬に竣工し、2023年3月下旬に入居を開始する予定だそうです。高さ156m・地上45階の東棟と地上19階の西棟で構成され、総戸数1247戸の超高層マンションになるとか。憬れのシロガネーゼが大量に誕生して希少価値が下がるかも。ちなみに、白金は「しろかね」と読み、濁音は付きません。古くからの住民は女性誌によって作り出された「シロガネーゼ」に対して、「何だ田舎者が!地名も読めないのかっ!」と冷ややかな見方をしている人が多いとのこと。「シロカネーゼ」だったら少しは受け止め方は違っていたかもしれません。
古川橋交差点で左折し、麻布通りに入ります。麻布通りは都道415号高輪麻布線のうち、古川橋交差点から六本木二丁目交差点までの区間に付けられた名称です。
麻布通りを進むと、左手に麻布十番の駅があります。麻布十番駅には南北線と大江戸線の2本の地下鉄が通っています。地下鉄なので、地上にはガラス張りの出入口しかありません。出入り口の両側は長〜〜〜く延びる商店街になっていますが、大規模なビルや商業施設は少なく、雑居ビルや商店が多く建ち並んでいます。以前は鉄道の駅がなく「陸の孤島」とも呼ばれていましたが、現在では麻布十番駅もでき、複合施設や六本木ヒルズが近いなど人気の高い街となっています。ちなみに、「麻布」の地名は、その昔この一帯で麻を多く植えて布を織っていたことに由来し、麻がよく育つ土地という意味で「麻生」になり、これが転じて「麻布」となりました。「十番」の地名は諸説ありますが、元禄十一年(1698年)に五代将軍徳川綱吉が白金御殿を建築する際、古川を利用して建材を運び込んだ人足(労働者)が一番から十番のグループに編成され、この地域の人々が十番目に当たっていたことに由来するという説が有力です。麻布十番駅横の路上に奇妙なモニュメントが置いてあります。「微笑みのモニュメント 父と息子」なんだそうです。結構インパクトが強くて驚きました。何のために設置してあるのでしょうか?これは、麻布十番商店街が12ケ国の大使館の協力を頂き、「微笑み」をテーマにして作成されたものなのです。この「父と息子」はジンバブエ共和国の出展なのだそうです。
新一の橋交差点を右折し、主要地方道319号環状三号線本線に入ります。新一の橋交差点先に、高級食品を扱うNISSHINのお店があります。場所柄外国人の買い物客が多く、店内は欧米のスーパーのような雰囲気です。2階はワインなどのお酒類、3階は食品の売場となっています。お肉のパッケージには巨大なものが多く、コストコの売場みたいです(テレビでしか見たことはありませんが)。日本国内では滅多に見かけないような珍しい食品も沢山並んでいて、見るだけでも楽しいです。私は七面鳥の肉を使ったソーセージみたいなものがあったので買ったのですが、冷凍の品はカチカチだったのにスライスして食べようかと思って解凍したら常温ではブヨブヨになってしまいました。七面鳥の挽肉を袋に詰めて冷凍にしたような商品だったようです。どう調理してよいのか分からず、結局ゴミ焼却場の燃料になってしまいました。
桜田通りと交差する赤羽交差点を直進して金杉橋に向かいます。芝公園の南端に沿って進み、日比谷通りを越えると道路幅が減少します。本当にこの狭い道幅の道路を都電が通っていたのか疑問です。金杉橋手前の交差点の名前が将監橋(しょうげんばし)となっています。何かいわれのありそうな名前だなぁと思って帰ってから調べてみましたら、橋名の由来は岡田将監(おかだしょうげん)の屋敷が近くにあったからという説、岡田将監が橋を掛けたためその名がついたという説、金森将監(かなもりしょうげん)の屋敷があったので呼び名となったとか諸説があるようです。
都電34系統の終点である金杉橋電停はどこにあったのでしょうか?私は国道15号線(第一京浜)との交点にある金杉橋北交差点の手前にあったのだと思って歩きましたが、ネットの情報では国道15号線上にあったらしいです。銀座二丁目と五反田駅を結んでいた都電4系統は、国道15号線上にあった金杉橋電停から右折して都電34系統の線路に入っていたとのことです。更に言えば、私が歩いた古川の北側にある道路ではなく、古川の南側の道路を通っていたとのこと。となれば、金杉橋南交差点の辺りに電停があったのでしょうか?
金杉橋は、古川に架かる国道15号線の橋で、現在の橋は1971年に架替えられたものです。江戸時代に橋が架けられた際、近くにあったセンダンの木が光って見えるようであったことから金杉橋と名づけられたそうです。橋の下は東京湾で営業を行う屋形船の係留場所となっていて、川面には様々な船が浮かんでいます。
金杉橋の近くに芝地区旧町名由来板が立っています。案内板の挿絵には、橋の上に既にレールが敷かれているように見えます。明治三十五年(1902年)の芝金杉橋と表記されていますので、軌道式の乗合馬車か何かが通っていたようです。
芝地区旧町名由来板
This signboard guides the origins of old town names, each of which in most cases represents its own history of the beginning or the location.
湊町
寛文七年(1667年)、金杉橋の北側に多門を建設するため公用地となり土手を築きましたが、元禄九年(1696年)、多門建設計画の中止と共にこれを取り払い、その跡地は幕府御坊主の拝領町屋敷に下され、一時は同朋町と呼ばれました(当時、幕府御坊主を同朋と称した)。宝永年間(1704年〜1711年)以降、隣町の金杉同朋町をはじめ各所に同朋町があったので、海浜に接することから芝湊町と改称しました。また、俗に金杉川汐入の口にあるので潮尻とも称されました。
Minato-cho
This town site was seized by authority in the 7th year of the Kanbun period (1667), and thereafter became the residence for Bakufu Obozu (generally called Dobo; tonsured waiters with the duty to serve tea in the castle). Therefore the town would generally be called Dobo-cho. In the Hoei period (1704-1711) it was renamed Shibaminato-cho after its location near the sea (minato meaning "harbor") in order to be distinguished from other Dobo-choes that existed in several places.
土手跡町
将監橋と金杉橋との間、金杉川の北側に沿ったごく小域の町です。寛文七年(1667年)、金杉橋の北側に多門が建てられることになり、同年、芝浜松町四丁目・芝中門前三丁目・芝片門前二丁目の南の地先に土手ができました。その後、多門建設計画の中止に伴い、貞享二年(1685年)、土手は取り払いとなって、その跡地へ町屋を開設し、土手跡町と唱えるに至ったと伝えられています。
Doteato-cho
In the 7th year of the Kanbun period (1667) a scheme of building Tamon gate on the north side of the Kanasugibashi bridge was made, and a bank was built for a future gate. Thereafter the scheme was suspended and then in the 2nd year of the Jokyo period (1685) the bank was cleared away. It is said that trademen's houses were constructed at the bank site that where to develop into this town named Doteato-cho (doteato meaning "bank site").
新網町
むかしは芝浦と唱えた土地の一部で、漁業の盛んな地域でした。寛永三年(1626年)より、ここから幕府に白魚を献上したので、その褒美として同七年(1630年)、名主惣十郎の先祖伝右衛門を召し出し、海岸の百間四方の地を網干場に与えられました。同十一年(1634年)、町奉行に漁夫の住居にすることを願い出て市街地となり、網干場に与えられた地所なので新網町と称するようになりました。
Shin'ami-cho
Fishery was extensively carried out in this area. The fishermen had presented icefish to the shogunate government since the 3rd year of the Kan'ei period (1626), and consequently they were given an area of 3.3 square kilometers for drying nets as a reward in the 7th year of the same period (1630). Thereafter they were allowed to live in the area which eventually developed into this town, named Shin'ami-cho, meaning literally "new-net-town", because the land was originally given for drying nets.
ということで都電34系統跡の歩きを終えます。日比谷通りを越えた先のルートがイマイチはっきりしなかったことが心残りです。古川の北側のルートであれば芝公園グランド前交差点を直進していた筈で、古川の南側のルートであれば大きく回り込んで芝園橋交差点から金杉橋に向かっていたことになります。痕跡がないので、今となっては確かめようもありませんが。
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