都電35系統跡コース  

コース 踏破記  

今日は都電35系統跡を歩きます。都電35系統は田村町一丁目から巣鴨車庫までを結び、その路線は主に外堀通り・日比谷通り・東京都道402号錦町有楽町線・白山通り・旧白山通り・国道17号線を通っていました。都心を南北に縦断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。また、多くの都電がこの区間を重複して走っていました。  

都電35系統

都電35系統の全長は8.5kmで、昭和43年2月25日に廃止となりました。

都電35系統の電停(路上の駅)は、田村町一丁目・内幸町・日比谷・馬場先門・和田倉門・大手町・神田橋・錦町河岸・一ツ橋・神保町・三崎町・水道橋・後楽園・春日町・初音町・小石川柳町・八千代町・指ヶ谷町・白山上・曙町・南部原町・北部原町・駕篭町・西丸町・巣鴨駅・巣鴨車庫でした。


都電35系統の起点は西新橋交差点の辺りにありました。正確には分かりませんが、交差点の皇居寄りの日比谷通り上にあったものと思われます。この地点の住居表示は、戦前は桜田本郷町といわれ、その後、忠臣蔵で有名な赤穂藩主の浅野内匠頭長矩が切腹した一ノ関藩主田村右京太夫の屋敷があったのに因んで「田村町一丁目」と呼ばれていました。現在では新橋の西側に位置するとの味もそっけもない理由で「西新橋一丁目」になっています。かっては、日比谷通りと外堀通りが交わる西新橋交差点角に重厚な日石本館のビルがその偉容を誇っていました。日本石油(のちの新日本石油、現在のENEOS)が本社を置いていた建物は、平成二十三年(2011年)から解体が始まり、3年後の平成二十六年(2014年)に現在の西新橋スクエアが完成しました。日石本館の建物とは全く異なるデザインでありふれた普通のビルになってしまいましたが、高さが増した分建物の周りに公共スペースができて街の景観的には良くなりました。



日石本館の隣には、三井物産の本社ビルがありました。昭和十二年(1937年)に竣工した建物は、鉄骨鉄筋コンクリート構造の地下1階・塔屋2階付の地上8階建・高さ約31メートル・延床面積は約27、000平方メートルという、当時としては破格の大きさでした。昭和五十六年(1981年)に解体され、現在はその跡地に日比谷セントラルビルが建っています。建物は旧三井物産本社ビルと同じく東西に細長く、東面・西面各1本の細い縦連窓と、淡いピンク色のスペイン産花崗岩で仕上げられた外壁が特徴となっています。



三井物産本社ビルの隣には、NHK東京放送会館がありました。NHK東京放送局が現在の渋谷区神南のNHK放送センターに移転後、その建物は「日比谷国際ビルヂング」と改称され、オフィスに転用されましたが、再開発により昭和五十三年(1978年)に取り壊され、跡地にはショッピングモールやオフィスビル群からなる日比谷シティが昭和五十六年(1981年)に竣工しました。当時は冬季になるとニューヨークのロックフェラーセンターのようなスケートリンクが「日比谷シティ広場」に出現し、都内では珍しくビル街にスケートリンクがありました。現在このリンクはやはり冬季に日比谷シティフットサルとして利用されています。



内幸町交差点の角の日比谷公園内には、茶褐色のタイルで覆われ、中央に時計塔を配した日比谷公会堂のレトロな建物が建っています。現在は耐震性に問題があるとのことで、改修のために2016年から休館となっています。東京市長でもあり、中立な市政のための調査機関の必要性を訴えていた後藤新平の主張に安田善次郎が共鳴し、当時としては破格の350万円の寄附を得て「東京市政調査会(市政会館)」とそれに併設する公会堂として計画されました。建物の北側部分が公会堂(日比谷公会堂)で、残りが市政会館となっていました。公会堂では戦前から政治演説会や国民大会が数多く行なわれ、昭和三十五年(1960年)10月12日の浅沼稲次郎暗殺事件は日比谷公会堂で開催された立会演説会でおきました。



日比谷公会堂の向かいには、みずほ銀行の本店ビルが聳えています。正面入口前は、私が走った年の東京マラソン大会の給水ポイントになっていました。水の入った紙コップをテーブルから取るんですけど、走りながらでは一口飲むのが精一杯で残った水はコップもろとも回収容器に捨ててしまいました。ボランティアさんに申し訳なかったです。建物脇の半地下には宝籤売場がありますが、私はジャンボ宝くじで一回も当ったことはありません。



帝国ホテルと日比谷U−1ビルの境目の壁に「鹿鳴館跡」の碑が埋め込まれています。明治初期の外務大臣であった井上馨は、不平等条約の改正を早めるためには日本人が西欧文化を受け入れている様子を外国人に伝えることが必要だと考え、政府や貴族の社交場として鹿鳴館の建設を主張しました。イギリス人のジョサイア・コンドルが設計した鹿鳴館は、11,255平方メートルという広大な敷地を誇るレンガ造り二階建ての洋風建築として明治十六年(1883年)に完成しました。館内には、宴会場だけでなく洋式ホテルも併設されていたそうです。開館後は政府や貴族が外国の使臣(君主の代理または国家の代表として外国に派遣される使者で、大使・公使など)や紳商(教養・品位を備えた一流の商人)を招待し、連日のように園遊会や舞踏会・夜会・バザーなどの催しが開かれました。この華やかな生活が展開された時代は、後に「鹿鳴館時代」と称され、鹿鳴館を中心にした外交政策は「鹿鳴館外交」と呼ばれることになります。このような欧化主義が広まっていく一方で、自国民の文化や伝統を守りたいとする国粋主義の動きが盛んになり、条約改正反対に対しての熱が高まりました。その結果、井上馨の条約改正は失敗に終わり、鹿鳴館は明治二十七年(1894年)に華族会館として払い下げられることになります。その後、昭和二年(1927年)には現在の大和生命保険に売却され、昭和十五年(1940年)に建物は解体されました。

鹿鳴館跡

ここはもと薩摩の装束屋敷(琉球使節一行が将軍拝謁のため江戸にのぼった折に装束を整えるための屋敷)の跡であってその黒門は戦前まで国宝であった。この中に明治十六年鹿鳴館が建てられいわゆる鹿鳴館時代の発祥地となった。




帝国ホテル正面入り口の真ん前の歩道上に「農産陳列所・蚕病試験場跡」という案内板があります。ここは東京農工大の発祥地のひとつです。東京農工大は戦後の昭和二十四年(1949年)に東京農林専門学校と東京繊維専門学校が合併して新制大学として発足し、それぞれが農学部と繊維学部になりました。しかし、繊維学部の中心課題だった養蚕が日本では産業としては消滅状態になり、工学部となりました。しかしこれらふたつの学校は実はそのルーツを辿っていくと、明治七年(1874年)に今の新宿御苑に設置された内務省勧業寮内藤新宿出張所の農事修学場と蚕業試験掛に行き着きます。最初のルーツは同じ場所だったことになります。

農産陳列所・蚕病試験場跡

明治政府は農業振興のため明治七年(1874年)、内藤新宿勧業察出張所(現在の新宿区)に蚕業試験掛と農業博物館を設立しました。蚕業試験掛では蚕糸業の振興と蚕病研究を目的として試験や研究が行われ、博物館では農産物や農業関係の物品を収集・展示しました。明治十六年(1883年)、麹町区内山下町(現在地)に博物館の業務を継承する農産陳列所が設置され、その翌年に農商務省農務局の一分課として蚕病試験場が設置されました。陳列所では水陸の産物の他、関係の図書なども合めて5,000点近くが展示されていました。明治十九年(1886年)に北豊島郡滝野川村西ケ原(現在の東京都北区)へ移転して農務局蚕業試験場・東京高等蚕糸学校となり、研究が続けられました。さらに昭和十五年(1940年)、北多摩郡小金井町(現在の小金井市)へ移転し、戦後に東京農工大学繊維学部(現在の東京農工大学工学部)となり現在に至ります。

Remains of Agricultural Museum and Sericulture Laboratory

The Meiji government established a sericulture laboratory section and agricultural museum at the Naito Shinjuku Branch of the Division for the Promotion of Industry, (current-day Shinjuku City) in 1874 to stimulate agricultural industry. Experiments and research were conducted at the Sericulture Laboratory Section to stimulate the sericulture industry and to research silkworm diseases, while the museum collected and exhibited agricultural products and agriculture-related objects. In 1883, a new museum was established in then-Uchiyamashita-cho, Kojimachi-ku (current location with its address notation changed) to take over the work of the previous museum, and the next year the experimental station for silkworm diseases was established as a division of the Agriculture Administration Bureau in the Ministry of Agriculture and Commerce. The museum displayed nearly 5,000 items, including fisheries and agricultural products as well as related books, etc. In 1886, it moved to Nishigahara, Takinogawa-mura, Kitatoshima-gun (current-day Kita City, Tokyo) to become the Agriculture Administration Bureau's Experimental Station of Silkworm Diseases and Tokyo Imperial College of Sericulture, where the research continued. It moved again in 1940 to Koganei-machi, Tama-gun (current-day Koganei City), then after WWII, it became the Faculty of Textile in the Tokyo University of Agriculture and Technology (current-day Faculty of Engineering, Tokyo University of Agriculture and Technology) and continues to this day.




東京の御三家ホテルといえば、帝国ホテルとホテルオークラとニューオオタニですよね。最近の報道によりますと、ホテルオークラに次いで帝国ホテルも建て替えることになったようです。建て替えの対象となるのは、本館とタワー館と駐車場ビルで、新タワー館は2024年度から2030年度にかけて、新本館は2031年度から2036年度にかけて建て替え、それぞれオフィス・商業・サービスアパートメント・グランドホテルとして営業することになるそうです。尚、建て替え期間中もホテルの営業は継続するとのことです。帝国ホテルは、明治二十三年(1890年)に開業し、130年の歴史があります。これまでに数回の建て替えを行い、三代目の本館は竣工から50年を経過しているほか、1983年に開業したタワー館も竣工から38年を経過するなど、老朽化が進んでいます。帝国ホテルの建て替えといえば、(私は見たことはありませんが)フランク・ロイド・ライトが設計に携わったライト館が思い起こされます。大正十二年(1923年)7月に竣工しましたが、9月1日の開館式典の直前に関東大震災が発生しました。周辺の多くの建物が倒壊したり火災に見舞われたりする中で、小規模な損傷はあったもののほとんど無傷で変わらぬ勇姿を見せていたライト館はひときわ人々の目を引きました。昭和四十三年(1968年)に現在の新本館建設のため解体されましたが、震災にも空襲にも耐えたライト館の存続を訴える大規模な反対運動が起こりました。恐らく、今回の建て替えでは起きないでしょう。



東京宝塚劇場といえば、NHKの紅白歌合戦を思い出しますね。現在は、その跡地に二代目劇場を有する東京宝塚ビルが建っています。屋上から延びる尖塔が象徴的です。



帝国ホテルの向かいには、日比谷公園の日比谷門があります。週末などに噴水広場で行われるグルメイベントの主要出入口になっています。門の脇には日比谷花壇のお店があります。



東京ミッドタウン日比谷は、東京の都心部における複合用途型の街づくりブランドである「東京ミッドタウン」の第2弾として開発され、平成三十年(2018年)3月29日にオープンしました。地下4階・地上35階建ての建物は曲線を使った「ダンシングタワー」というコンセプトでデザインされ、明治期に華やかな舞踏会が多く開かれたかっての鹿鳴館を意識したそうです。



日比谷交差点の脇にザ・ペニンシュラ東京があります。運営は香港&上海ホテルズ社で、スエズ運河より東側で最高のホテルをキャッチコピーに1929年に第一号ザ・ペニンシュラ香港を開業しました。平成十九年(2007年)9月に開業し、客室数は47のスイートルームを含む314室あります。最も標準的な客室である「デラックスルーム」は54平方メートルの広さで、最高級の「ペニンシュラ・スイート」は347平方メートルの広さです。2019年に「The Okura Tokyo」内に730平方メートル(どんだけぇ!)の「インペリアルスイート」が完成するまでは都内最大級の部屋面積でした。館内のレストランとしては、24階にあるメインダイニング「Peter」の外、2階の中国料理「ヘイフンテラス」と地下1階の和食「つる家」があります。1階の正面玄関脇には、オールデイダイニングとしても機能するロビーラウンジ「ザ・ロビー」があり、午後はペニンシュラ名物のアフタヌーンティーが楽しめます。屋上にはヘリポートがありますが、これは一般の高層ビルの屋上にある非常用ヘリポートではなく、成田空港との間でヘリコプターによる送迎を行うことを想定して設置されたものです。そのため、豪華な内装を施した乗客用待合室なども用意されています。しかし、営業用のヘリポートとしての使用許可が下りていないため、まだ使用されてはいません。



皇居の日比谷濠に面して、巨大な方柱10本が並んで一際存在感を示しているのが第一生命館の建物です。初代ビルは昭和十三年(1938年)に竣工し、第一生命保険本社として使われました。戦後は米軍に接収されて連合国軍最高司令官総司令部の本部になりましたが、返還後、平成元年(1989年)から平成七年(1995年)にかけて順次DNタワー21として再開発されました。マッカーサー司令官が執務した部屋は現在でもそのまま残されているそうです。



DNタワー21に隣接して帝国劇場があります。帝国劇場は日本初の西洋式演劇劇場で、明治四十四年(1911年)3月1日に竣工しました。初代のビルは荘厳なルネサンス様式でしたが、関東大震災で火災により外郭を残して焼け落ちました。その後修復され、昭和三十九年(1964年)まで演劇場や映画館として使用されました。現在の建物は昭和四十一年(1966年)9月29日に落成し、最上階の9階には出光佐三による古美術コレクションを展示する出光美術館が置かれています。かっては日本レコード大賞の発表会も行われましたが、現在は年間10作品ほどの舞台演目が上演されています。上演予定のポスターには人気俳優がずらりと並び、演劇好きの方にはたまりません。



大正時代から”社交の殿堂”と称された東京會舘の跡地に建てられたのが丸の内二重橋ビルです。富士ビルヂング・東京商工会議所ビルと一体的に再開発され、2018年10月に竣工しました。日本外国特派員協会が入居したことでも知られています。日比谷通りに面した壁に取り付けられた木製の重厚な扉らしきものがいつも気になります。



馬場先門にやってきました。ここを右折すると鍛冶橋通りに繋がっています。寛永六年(1629年)に江戸城外堀に面して鍛冶橋門が築造され、門に附属する鍛冶橋は現在の丸の内二・三丁目と中央区の八重洲六丁目を結んでいました。「鍛冶」の名称は、外堀の門外の町名が南鍛冶町(現在の中央区八重洲二丁目・京橋二丁目)であったことに由来しているそうです。



馬場先門交差点の角に建つ明治生命館は、昭和九年(1834年)に竣工し、古典主義様式の最高傑作として高く評価され、平成九年(1997年)5月に昭和期の建造物としては初めて国の重要文化財に指定されました。戦後は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収され、アメリカ極東空軍司令部が置かれましたが、昭和三十一年(1956年)に返還されました。平成十三年(2001年)から改修工事が行われ、隣接地に30階建ての明治安田生命ビルを建設して一体的に利用することで、歴史的建造物を活用しながらの全面保存が実現しました。第一生命館と同様に歴史的建造物が後世に残るということは素晴らしいですね。



和田倉門交差点にやってきました。東京駅丸の内中央口から皇居前内堀通りまでを結び和田倉門交差点で日比谷通りと十文字に交差する道路は、天皇が行幸するため東京駅までの移動に利用した道路であるところから行幸通り(「ぎょうこうどおり」または「みゆきどおり」)と呼ばれています。和田倉門交差点から東京駅前の東京駅中央口交差点までの区間は、正式には東京都道404号皇居前東京停車場線と呼ばれる特例都道となっています。幅員約74mというこの都道の内側の車線はふだん通行止めになっていますが、皇室行事と外国大使の信任状捧呈式の馬車列が東京駅がら皇居に向かうときだけ使われています。



和田倉門交差点角に東京海上日動の本館ビルがあり、その西広場に奇妙な銅像が置かれています。よく見ますと、2枚の石の板が狭い間隔で並んだ上の台座に銅像が置かれています。これは「くぐりえびす」という彫刻だそうで、像は右肩に釣竿・左腕に鯛を抱えて古来から大漁を祝う海の神として敬われてきた七福神の一神の恵比寿様です。石版の隙間を潜り抜けると幸せになれるという言い伝えがあるそうです。隙間の幅は28.5cmなので、細身の人が横向きになってようやく通れるほどです。私は試しませんでしたが、お腹が引っかかってレスキュー隊のお世話になること間違いなしです。



東京海上日動ビルに隣接して、2020年11月に竣工した全銀協(全国銀行協会)の真新しいビルが建っています。全銀協は、日本国内で活動している銀行を直接の会員とする組織で、銀行業の発展のためにさまざまな活動をしている組織です。エントランス横に何やらプレートが置かれています。

東京銀行集会所(東京銀行協会ビルヂング)の原位置と部材保存について

東京銀行集会所は、大正五年(1916年)に竣工した横河工務所設計によるイギリスのヴィクトリアン・カントリーハウスのイメージをもつネオ・ルネッサンス・スタイルの建築(地下1階・地上3階、レンガ造)でした。平成五年(1993年)には、外壁と内装の一部を保存しつつ東京銀行協会ビルヂングとして建替えられました。その際、西面外観は一部に当初部材を再利用しながら再現され、南面外観は西面と調和するデザインがなされていました。今回の建替え(2020年竣工)においては、当初の東京銀行集会所の原位置を外構舗装に示すとともに、西面2階のバルコニー手摺に使われていた石材と東京銀行協会ビルヂングの濃赤色タイルの一部を保存展示しました。

Tokyo Bankers' Association (Tokyo Ginko Shukaisho) was a Neo-Renaissance style building (1st basement / 3rd floor, brick construction) with the image of a Victorian Country House in the United Kingdom designed by Yokogawa Engineering Office completed in 1916 (Taisho 5). In 1993 (Heisei 5), it was rebuilt as a building of the Tokyo Bankers Association Building. At that time, the exterior of the west surface was partially reproduced by reusing the original materials, and the exterior of the south surface was designed in harmony with the west surface. In this rebuilding (completed in 2020), the original location of the Tokyo Bankers' Association (Tokyo Ginko Shukaisho) was shown on the exterior pavement, and we saved and exhibited a part of the stone used for the handrail on the second floor of the west side and part of the dark red tiles of the Tokyo Bankers Association Building.




大手町交差点の角に、日本歯科大学の創立100周年を記念して2006年に建てられた記念碑があります。日本歯科大学は、東京歯科大学・日本大学と並んで歯学部御三家といわれています。世界最大の歯科大学って、本当かな?

日本歯科大学発祥の地

中原市五郎は、この地に、明治四十年六月(1907年)、公立私立歯科医学校指定規則に基づく、わが国最初の歯科医学校として、私立共立歯科医学校を創立した。わが国の歯科医療は黎明期にあり、「学・技両善にして人格高尚なる歯科医師の養成」を建学の目的とした。国民の生命と健康を守るため、歯・顎・口腔の医学を教導し、数多くの優れた歯科医師を輩出し、歯科医療の発展と患者の福祉に尽力した。明治四十二年に現在の千代田区富士見一丁目に移転し、日本歯科医学専門学校を経て昭和二十二年に日本歯科大学に昇格した。日本歯科大学は、私学として「自主独立」という建学の精神を継承し、生命歯学部と新潟生命歯学部の二学部をはじめ、大学院二、附属病院三、短期大学二、博物館一を有する世界最大の歯科大学となった。




日本橋川に架かる神田橋手前に大手町川端緑道が新設されています。

日本橋川環境絵巻

大手町川端緑道は、UR都市機構が進める大手町土地区画整理事業(施行面積:約17.4ha)の一貫として、日本橋川沿いに整備された延長約780mの歩行者専用道です。ここでは親水空間を取り巻く4つの「環境」(自然・都市・歴史・生活)をキーワードとして快適な歩行空間の創出が図られています。「自然環境」の面では、皇居から隅田川を経由して東京湾へ至る水と緑のネットワークの一部となる緑量を確保し、また皇居やその周辺に生息する生き物の中から出現頻度の高いチョウ類や鳥類を誘致指標種に設定し、食餌植物を織り交ぜた植栽計画で歩行者専用道内への誘致を試みています。「都市環境」の面では、保水性舗装の導入や浸透桝の設置、ポールスポット灯による木漏れ日のような夜間照明などにより、光や陰・温度や湿度などが快適にコントロールされる空間づくりを試みました。「歴史環境」の面では、江戸小紋をモチーフにした石張舗装、江戸後期の地図と現在の地図を重ねて表示した案内サインなどにより、まちの地歴を景観要素として活用することを試みています。「生活環境」の面では、周辺のオフィス街の人々に安らぎを提供する場として、四季の季節変化が楽しめる植栽や昼食時にキッチンカーが進入できる空間の整備などを行っています。そして、これら4つの「環境」と歩行者専用道内で想定される様々なアクティビティをちりばめた街の風景を一幅の絵巻物「日本橋川環境絵巻」として紡ぎ出すことを目指しました。さらに、その絵巻物を緩やかに蛇行する敷地形状と立地特性をきっかけにして丁寧に「折り込む」ことで、総延長が長い歩行者専用道空間のアクセントとして、賑わい拠点となる十箇所の見所をしつらえました。また、事業区域内で先行して整備される歩行者専用道は、上位計画に基づく街づくり展開を地区全体へリレーするための基盤として、一貫した整備水準を持続する軸空間としての役割を果たしています。今後、歩行者専用道で試みた様々なデザインは、連歌のように各街区に引き継がれ、事業区域全体が仕上がっていくことになります。




神田橋のすぐ先にある「神田橋公園」内に奇妙な彫刻が置かれています。最初は黄金の猿の像かと思ったのですが、コガネ虫を擬人化したものだそうです。ひょっとして本物の黄金でできているかも!

金銅鎚起 豊展観守像

この彫刻は、活気とやすらぎ・教育と文化の町として知られる千代田区に住む人々の豊かさと発展する町を観守する姿を、こがね虫と人間の擬人化により、造形表現をして製作されたものであり「彫刻のある町・千代田区」として潤いと個性のある歴史と文化を重視した新しいまちづくりを願う久保金司氏より、神田の魅力を記録した写真集、神田っ子の昭和史「粋と絆」の浄財をもとに本区に寄贈されたものです。




神田橋交差点を左折し、日本橋川に沿って都道402号錦町有楽町線を進みます。一ツ橋河岸交差点を右折して白山通りに入ります。左手に共立女子学園があります。鳩山春子などの当時の教育者34人により、明治十九年(1886年)に「共立女子職業学校」という技芸学校として設立されました。共立女子学園の講堂(通称、神田共立講堂)では、著名人を招き講演などが行われています。また1970年代には日本のフォークシンガーの聖地とされ、ここでは吉田拓郎・かぐや姫・アリス・ガロなどがコンサートを開催しました。現在は学校関係者以外には貸し出していませんが、2009年7月20日、再結成したアリスが一夜限りのライブを行いました。



共立学園の向かいには学士会館の建物があります。一般社団法人学士会が運営し、旧帝国大学系大学の出身者等を主な会員とする大学の枠を超えた同窓会組織となっています。学士会は、明治十九年(1886年)に帝国大学(現在の東京大学)の卒業生の同窓会組織として創立されました。名称に「学士」とありますが、会が創立された当時は学士の称号を与えられたのは帝国大学の卒業生に限られたためです。学士会館の館内には、会議室・飲食店・美容院などの設備があります。現在の建物は昭和十二年(1937年)に竣工しました。斬新かつモダンで重厚な雰囲気は90年近くを経た今も大切に継承されており、平成十五年(2003年)に国の登録有形文化財となりました。ドラマ「半沢直樹」などのロケ地にもなっています。



学士会館の敷地内には「東京大学発祥の地」の記念碑があります。

我が国の大学発祥地

当学士会館の現在の所在地は我が国の大学発祥地である。すなわち、明治十年(1877年)四月十二日に神田錦町三丁目に在っに東京開成学校と神田和泉町から本郷元富士町に移転していた東京医学校が合併し、東京大学が創立された。創立当初は法学部・理学部・文学部・医学部の四学部を以て編成され、法学部・理学部・文学部の校舎は神田錦町三丁目の当地に設けられていた。明治十八年(1885年)法学部には文学部中の政治学及び理財学科が移され法政学部と改称され、また理学部の一部を分割した工芸学部が置かれた。このようにして東京大学は徐々に充実され明治十八年までに本郷への移転を完了した。徒って、この地が我が国の大学発祥地すなわち東京大学発祥の地ということになる。明治十九年三月束京大学は帝国大学と改称され、その時、それまで独立していた工部大学校が合併され工科大学となり、その後東京農林学校が農科大学として加えられ、法・医・工・文・理・農の六分科大学と大学院よりなる総合大学が生まれ帝国大学と名付けられた。更に、明治三十年(1897年)には京都帝国大学の設立に伴い、東京帝国大学と改称された。爾後明治四十年に東北帝国大学、明治四十四年に九州帝国大学、大正七年に北海道帝国大学、昭和六年に大阪帝国大学、昭和十四年に名古星帝国大学が設立された他、戦後なくなったが大正十三年に京城帝国大学、昭和三年に台北帝国大学がそれぞれ設立された。昭和二十二年(1947年)に至って、右の七帝国大学はそれぞれ東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、北海道大学、大阪大学、名古屋大学と呼称が変更された。明治十九年七月創立の学士会は以上の九大学の卒業生等を以て組織され、その事業の一つとして、当学士会館を建設し、その経営に当っている。




学士会館の建物の前には、館内レストランの案内が掲示されています。学者の先生はグルメだといわれますが、メニューにもそれが表われているようです。



学士会館の敷地の外れに「日本野球発祥の地」と題したモニュメントが置かれています。ボールを握った手は手首で途切れており、何か不気味な感じがします。

日本野球発祥の地

この地には、もと東京大学およびその前身の開成学校があった。明治五年(1872年)学制施行当初、第一大学区第一番中学と呼ばれた同校でアメリカ人教師ホーレス・ウィルソン氏(1843年〜1927年)が学課の傍ら生徒達に野球を教えた。この野球は翌七三年に新校舎とともに立派な運動場が整備されると、本格的な試合ができるまでに成長した。これが「日本の野球の始まり」といわれている。1876年初夏に京浜在住のアメリカ人チームと国際試合をした記録も残っている。ウィルソン氏はアメリカ合衆国メイン州ゴーラム出身、志願して南北戦争に従軍した後、1871年九月にサンフランシスコで日本政府と契約し、来日。1877年7月に東京大学が発足した後に満期解約し帰国した。同氏が教えた野球は、開成学校から同校の予科だった東京英語学校(後に大学予備門、第一高等学校)その他の学校へ伝わり、やがて全国的に広まっていった。2003年、同氏は野球伝来の功労者として野球殿堂入りした。まさにこの地は「日本野球発祥の地」である。

The Birthplace of Baseball in Japan

Here in 1872 at the First Middle School of the First University District (which developed into Tokyo University in 1877), Horace Wilson, an American teacher, taught his students how to play baseball 1873, when it was re-named Kaisei Gakko and a playing ground was built, he reportedly enjoyed playing baseball with them. This is acknowledged as the beginning of baseball in Japan in 1876, they played a game with a foreign team comprised of Americans living in Tokyo snd Yokohama. Horace Wilson (1843-1927) was born in Gorham, Maine, in the U.S. After participating in tho Civil War as a volunteen, he made a teaching contract with the Japanese Goverment in San Francisco in 1871. He taught English and mathematics. His term of cotract was officially expired in July, 1877. In 2003, be was inducted into the Japanese Beseball Hall of Fame for his great contribution to Japanese baseball as the introducer of the game.




神保町はカレーの聖地であると共に、古本屋が立ち並ぶ街でもあります。神保町の旧町名の表猿楽町は、能楽の旧名称である猿楽に由来していたんですね。渋谷にも猿楽町という町名がありますが、これは古墳時代末期の円墳である猿楽塚に由来するのだそうです。もともと大小2基の塚があり、間を鎌倉街道が通っていました。大正時代に朝倉家がそのうちのひとつを打ち壊したところ武具が見つかり、その後当主と作業をした親方が奇病に取り付かれました。武具を埋め戻したところまもなく快復したことから、残された塚の上に猿楽神社が創建され、現在はヒルサイドテラス内に残っているとのことです。あんまり関係はありませんが。

千代田区町名由来板
(旧表猿楽町)神田神保町一丁目

神田神保町一丁目北部のうち、このあたりは、江戸時代には一橋通小川町と呼ばれ、東側は表猿楽町と呼ばれていました。「猿楽」とは能楽の古称です。高名な猿楽師であった観阿弥・世阿弥父子によって芸術性を高めた猿楽は、江戸幕府の「式楽」(儀式に用いる音楽・舞踊)に指定されました。それが、観世座・宝生座・金春座・金剛座、および喜多流の「四座一流」です。このうち観世座は、徳川家康と縁が深かったこともあり、筆頭の地位を得ていました。その家元観世太夫や一座の人々の屋敷がこの界隈にあったことから、「猿楽町」という町名が生まれたとされています。明治五年(1872年)、この一帯に猿楽町という町名が付けられました。当時、このほかに猿楽町一〜三丁目・裏猿楽町・中猿楽町という町名があり、現在の神田神保町一〜二丁目から西神田一〜二丁目まで、その趣のある名を冠した町が広がっていたのです。明治四十四年(1911年)、猿楽町はいったん表猿楽町となりましたが、関東大震災後の区画整理の際に、西神田一丁目と神保町一丁目に変わりました。神保町という町名は、江戸時代に神保長治という旗本が住んだことに由来しています。また、この区画整理で、町割も変わりました。道路を中心にしてその両側が町域になる、「両側町」という伝統的な方式が採用されました。そのため、靖国通りをはさんで南に奇数、北に偶数の番地が交互に振られているのです。

Kanda-Jimbocho 1-chome (formery Omote-Sarugakucho)

This area used to be known as Omote-Sarugakucho. "Sarugaku" is the name that was once used for Noh theater, one of Japan's traditional performing arts. The master and members of one of the famous schools of the art once had their residences in this area. Omote-Sarugakucho was later divided, and one section was renamed Jimbocho 1-chome, a name that derives from a well-known samurai who lived in the neighborhood.




神保町交差点の先に日本大学経済學部の校舎があります。何本か並んだ大きな柱にはプレートが埋込まれ、その中にアダム・スミスの肖像と著作である国富論について述べた彼の言葉(?)が併記されていました。何と書いてあるのかは読み取れませんでしたが。



三崎町は歴史ある町名のようです。「岬」が「三崎」に転じたというのはゴロ合わせのような気がしないでもないですが。

三崎町一丁目

三崎町という町名が誕生したのは明治五年(1872年)のことです。江戸に幕府が開かれる以前、この地にあった「三崎村」が町名の由来といわれています。江戸が開発されるまで、現在の大手町から日比谷や新橋周辺には日比谷入江と呼ばれる遠浅の海が広がっていました。三崎村は、日比谷入江に突き出した「ミサキ(岬)」だったため、この名が付いたと伝わっています。JR水道橋駅のすぐ南側には三崎稲荷神社が鎮座しています。創建は詳らかではありませんが、鎌倉時代初期の建久年間(1190年〜1199年)よりも前とも伝わっており、とても歴史ある神社です。江戸時代には、三代将軍家光が自ら三崎稲荷を崇敬するばかりでなく、参勤交代の大名たちにも信仰させたことから、参勤登城する大名は必ず、まず三崎稲荷に参拝して身を清めたそうです。ここから三崎稲荷は「清めの稲荷」とも称されています。閑静な武家地であった三崎町は、明治も中ごろを過ぎると劇場や飲食店が増え、賑やかな歓楽街へと生まれ変わります。隣町の三崎町二丁目には三崎三座と呼ばれる三つの劇場ができるなど、周辺も活気にあふれる町でした。関東大震災後の区画整理で、三崎町一丁目は昭和九年(1934年)に三崎町二丁目と統合されますが、町名は三崎町一丁目のままでした。昭和二十二年(1947年)、神田区と麹町区が合併して千代田区になると、頭に神田を付けて神田三崎町一丁目に変わります。そして、昭和四十二年(1967年)の住居表示の実施にともない、神田三崎町一丁目は分割され、旧三崎町一丁目だった区域がふたたび三崎町一丁目に定められ、現在に至っています。

Misakicho 1-chome

In the Edo Period, this area was the site of a village named Misaki-mura. The village was located on a cape (“misaki" in Japanese) that jutted out into the Hibiya Inlet, which once covered the area nearby. In the Edo Period, many samurai lived here, but later it became an entertainment district with theaters and restaurants.




水道橋交差点で外堀通りと交差します。外堀通りに沿って流れる神田川に架かる白山通りの橋が水道橋です。江戸時代には水道橋のすぐ下流に神田上水の掛樋(上空をわたすための管)が神田川の上に渡されていました。レリーフに描かれた絵には、当時の神田川の水量が豊富で流れも急だったことが見て取れます。

水道橋

水道橋の名は、江戸名所図会によれば、この橋の少し下流にかけ樋があったことに由来します。




交差点の左手先には後楽園遊園地があります。コロナ禍は未だ収まっていませんが、ジェットコースターからは黄色い悲鳴が聞こえてきます。ウイルスが飛び散らなければいいのですが。



交差点の右手先には東京工芸高校があります。都立高校にしては大きな校舎です。通常、工業高校は男子生徒の在籍率が高いのですが、ここはデザイン系の学科が多い関係上、在籍する生徒の約8割が女子生徒で占められているとのことです。卒業生には芸術関係の有名人が多いですね。東京工芸高校の裏手は高台になっていて、その上に桜蔭学園の校舎が建っています。中高一貫の女子校で、中学入試では女子学院中学校・雙葉中学校と共に「女子御三家」といわれています。2022年の大学入試において、医学部への驚異的な合格者数が話題になりました。



歩道の脇に藤田東湖の美談を称える案内板が立っています。江戸の家屋は一旦火が出ると瞬く間に燃え広がり、周辺を巻き込んで大火となることが多々ありました。東湖の母はそうならないようにと倒壊の恐れのある我が家の火鉢を始末しに戻ったのでしょうけど、それが仇になって息子は死亡。どうすれば良かったのでしょうか?

藤田東湖護母致命の処

幕末の勤皇家藤田東湖(1806年〜1855年)は、水戸の藩士で、藩主徳川斉昭の信任も、きわめてあつかった。弘化元年(1844年)藩政改革に尽力したが、逆にそれが幕府の疑惑をまねき、斉昭は謹慎に、東湖は塾居の身となった。後に許され、斉昭は藩政に復帰し、東湖は江戸詰を命ぜられ、小石川の水戸上屋敷に住み、側用人となった。安政二年(1855年)大地震がおこり、藩邸が倒壊した。東湖は母を助けて外に出たが、母がその時、火鉢の火が危ないと、再び屋内に引きかえした。東湖は母を救い出そうと家にもどった時鴨居が落ちてきた。東湖は老母を下に囲い、肩で鴨居を支え、かろうじて母を庭に出した。しかし、東湖は力つき、その下敷きとなって圧死した。その場所は白山通りで、そこに記念碑があったが、拡幅工事のため道の中になってしまった。そこでその碑は、後楽園庭園内に移された。




春日町交差点の近くに講道館のビルが建っています。入口の横に講道館の創始者である嘉納治五郎の銅像と業績を記した案内板が置かれています。

嘉納治五郎師範

万延元年(1860年)10月28日、摂津国御影村(現在の兵庫県神戸市東灘区)に生まれる。明治十年(1877年)7月、東京大学文学部入学。政治学及び理財学を修め、同十四年(1881年)7月卒業。明治十五年(1882年)5月、下谷の北稲荷町永昌寺にて講道館を創設。講道館柔道を創始する。学習院教頭、熊本の第五高等中学校長、第一高等中学校長、高等師範学校長、又貴族院議員などを歴任。大日本体育協会(現在の日本体育協会)初代会長、東洋初の国際オリンピック委員を務め、日本の体育・スポーツの普及振興に尽力すると共に、オリンピックの発展にも貢献した。昭和十三年(1938年)3月15日、エジプト・カイロに於ける国際オリンピック委員会総会で東京・札幌両大会開催の最終的承認を得、帰国の途中、同年5月4日、太平洋上水川丸船中で急逝。享年79歳。勲一等旭日大綬章。銅像は朝倉文夫制作である。

Kano Jigoro Shihan

Kano Jigoro Shihan was born in Settsu Province (now Hyogo Prefecture) on October 28, 1860. After entering the Faculty of Letters at the University of Tokyo in July,1877, Kano Shihan completed his degree in politics and economics in July, 1881. Established the Kodokan at Eishoji-temple, Kitainari-cho, Shitaya, Tokyo, in May 1882. This was the start of Kodokan Judo. Served in various roles including vice-principal of Gakushuin, principal of the Fifth Higher School, the First Higher School, Higher Normal School, was a member of the House of Peers, and held other key positions. Contributed to the diffusion and development of Japanese physical education and sports, and also the Olympic movement as the first president of the Japan Amateur Athletic Association (now Japan Sports Association) and the first Asian member of the International Olympic Committee (10C). Obtained final approval to hold the Tokyo and Sapporo Olympic Games at the 10C meeting in Cairo, Egypt in 1938. Passed away suddenly on the passenger ship the Hikawa-maru while sailing home over the Pacific Ocean on May 4, 1938 in his 79th year. Kano Jigoro Shihan was awarded the Grand Cordon of the Order of the Rising Sun by the Japanese government. This bronze statue was created by Asakura Fumio.




春日町交差点で春日通りと交差します。白山通りには、都電35系統の他に都電2系統・都電18系統が南北に通っていました。大塚から来た都電16系統は交差点を直進し、池袋から来た都電17系統は交差点で右折して数寄屋橋方面へと向かっていました。都電17系統の線路は交差点のかなり手前で春日通りから右へ分岐し、交差点の南西角に三角形のスペースを作り出していました。これが待機場所の役目も果たしたようで、三角形の真ん中には電車を捌く信号塔が立っていました。その跡地でしょうか、現在でもかなり広い三角形の緑地があり、そこに大きな石と案内板が置かれています。

神田上水の石樋の石

ここに使われている石は、江戸時代に神田上水で使われていた石樋の一部で、昭和六十二年、外堀通りの工事中に現在の水道橋付近から発掘されたものです。神田上水とは近世都市の江戸で最初に整備された上水道であり、コ川家康が江戸入りと同時に造らせたと言われています。水源となる井の頭池の湧水を、大洗堰(現在の文京区関口)を経てから水戸屋敷(現在の小石川後楽園一帯)に入れ、そこから先は暗渠(地下の樋)で通しています。この暗渠で使われていたのが、石樋(石で作った樋)です。なお、お茶の水坂からは、掛樋(木で作った樋)で神田川の上を横断させて、神田・目本橋方面に飲料水として給水されていました。




春日町の地名は、江戸時代初期に大奥で権勢を振るった春日の局に因んでいます。

旧春日町(三丁目) (昭和三十九年までの町名)

むかしは野原であったのを、寛永七年(1630年)三代将軍家光の乳母春日局が、幕府に願い拝領し、お付きの御下男30人の住まいとした。春日局とのゆかりで、古くは春日殿町と呼ばれ、のちに春日町となった。拝領になったとき、その鎮守のために稲荷社が祭られた。局の出世にあやかり「出世稲荷」と呼ばれ、現在も町の人にあがめられている。




八千代町電停の名称の元になった「旧八千代町」の町名については、次の経緯があります。さすがに「掃除町」という町名では肩身が狭かったのでしょう。

旧八千代町(昭和三十九年までの町名)

むかし、小石川村の内で、元和九年(1623年)伝通院領となる。寛文三年(1663年)、伝通院内御廟所(伝通院は徳川将軍家の菩提寺で、コ川ゆかりの婦人たちの墓が多い)掃除の人16人、永代役屋敷を拝領し、町並家作を起し、伝通院御掃除町と称した。明治二年、御掃除町の御をとり掃除町とした。明治五年、築地馬場(小石川馬場とも)を併せた。馬場は江戸時代からのもので、理立てて馬場とした。大正十四年、町名掃除町を八千代町と改称した。末永い発展を祈ってのことであろう。


白山下交差点の手前に厳浄院というお寺があります。「目には青葉 山ほとゝぎす 初がつお」の俳句で知られる山口素堂のお墓があるそうです。

山口素堂の墓

当山に山口黒露が建立した墓がある。山口素堂(寛永十九年〜享保元年、1642年〜1716年)。甲斐国(山梨県)の生まれ。俳人。名は信章、通称は勘兵衛。素堂は号。和歌、茶道、書道にもすぐれていた。若くして江戸に出て漢学を修め、寛文の頃(1661年〜1673年)京都で誹諧、和歌などを学んだ。松尾芭蕉が無名の頃から親しく交わり、芭蕉が没するまでかわることがなかった。天和二年(1682年)の大火で、深川の芭蕉庵が焼失した時、庵を再建し友情を示した。素堂は、“蕉風”といわれる芭蕉独自の誹諧の確立に、大きな影響を与えたといわれる。谷中感応寺に葬られたが、墓は現存しない。人々に親しまれている句に“目には青葉 山ほとゝぎす 初がつお”がある。句碑は、墓所のわきにある(昭和五八年5月建立。杉崎雨泉筆)




厳浄院の隣に蓮華寺があります。次のような話が伝わっているそうです。

江戸時代・徳川三代将軍家光公は、この白山の地を選ばれ、しばしば魔狩りに来られました。家光公は当山境内の古井戸(別名・鏡の井戸)から滾々と湧き出る清水を大層お気に召され、楽しまれた様子が伺えます。その折り、現在の本堂前の木槲(かしわ)をお手植えになられ、その樹木にお釈迦さまの石像を安置されたと記述されております。ある時家光公は、歯が痛み泣きじゃくる少女に出会った際、前述の清水をお稲荷様に捧げ少女の口に含ませましたところ、その痛みはたちどころに癒え、この評判は町中にひろまり、多くの参詣者で賑わいを見せました。



白山通りは、白山下交差点で白山通りと旧白山通りに分岐します。旧白山通りは昭和五十九年(1984年)までは白山通りでしたが、現在の白山通りが名称を引き継いだために、白山下交差点から千石駅前交差点までの区間は旧白山通りと名称変更になりました。この辺り一帯の白山一丁目〜五丁目(三丁目は除く)の町域は、かって指ケ谷町という町名でした。家光の話はウソっぽいですけど。

文京区 旧町名案内 旧指ケ谷町(昭和四十一年までの町名)

古くは、小石川村に属した。元和九年(1623年)伝通院領となった。寛永(1624年〜1644年)のころには、木立の茂った谷地であった。ある時、三代将軍家光が鷹狩に来て、「あの谷も遠からず人家が出来るであろう。」と指し示したことから、指ヶ谷の地名ができたといわれる。ェ永十一年(1634年)町屋ができ、指ヶ谷一丁目・二丁目・指ヶ谷南片町と称した。明治二年、白山前町の内、千川屋敷・円乗寺・蓮華寺・浄雲寺・正福院などの門前を併せて指ヶ谷町とした。




この区間の旧白山通りは坂道になっていて、しかも坂の上で左に急カーブしています。おまけに道幅も狭く、都電の運転手さんは苦労されたことでしょう。旧白山通りから京華通り商店街が分岐しています。その先には白山通りに面して中高一貫教育の京華学園があります。京華学園は、明治三十年(1897年)に京華中學校として創立されました。「京華」とは、「東京の華」という意味で、創立当時の相談役であった品川弥二郎子爵(内務大臣)によって命名されたとのことです。各界で活躍する多彩な人材を輩出しています。映画監督の黒澤明・画家の前田青邨・歌舞伎の二代目尾上松緑・作曲家の武満徹・経団連初代会長の石川一郎などなど。



白山下から白山上に続く旧白山通りの坂にはいろんな名前が付けられています。

薬師坂(薬師寺坂、浄雲寺坂、白山坂)
白山一丁目と五丁目の間

「妙清寺に薬師堂有之候に付、里俗に薬師坂と相唱申候」(「御府内備考」)。坂上の妙清寺に薬師堂があったので、薬師坂と名づけられた。また、坂下に浄雲院心光寺があったので、浄雲寺坂とも呼ばれた。また近くに白山神社があり、旧町名が白山前町で、白山坂ともいわれるなど、別名の多い坂の一つである。「新撰東京名所図会」には、「薬師堂は、土蔵造一間半四面。「め」の字の奉額、眼病全快者連名の横額あり」、と明治末年の姿を記している。このお薬師は特に眼病に霊験あらたかであったようである。土蔵造は、江戸の防火建築で、湯島本郷辺の町屋が土蔵塗屋づくりを命じられたのは、享保一五年(1730年)の大火後である。現存するものには無縁坂の講安寺本堂がある。




白山上交差点で旧白山通りは国道17号線に合流し、ここから先は国道17号線と併称して千石駅前交差点で白山通りに合流します。なお、千石駅前交差点で国道17号線と合流した白山通りは、この後も国道17号線と重なって西巣鴨交差点まで続いています。



白山上交差点を左折し、坂を下ったところに東洋大学があります。東洋大学は明治二十年(1887年)に井上圓了によって創設された私立哲学館が前身となって、明治四十年(1928年)に設立された大学です。哲学研究においては日本有数の実績を持っています。スポーツ強豪校としても知られ、特に箱根駅伝の「山の神」と呼ばれた柏原竜二選手が圧倒的な強さを見せた5区の激走は今でも語り草になっています。



山手線・宇都宮線・高崎線の半地下線路を跨ぐ巣鴨橋を渡ります。橋を渡った右手に巣鴨駅の駅舎があります。



巣鴨地蔵通商店街入口と白山通り・国道17号を挟んだ向かいには、都営バスの巣鴨自動車営業所があります。巣鴨営業所は、かっての都電巣鴨車庫の跡地にできました。都電時代は白山通り上に巣鴨車庫電停があり、ここから車庫へ直接出入りしていましたが、現在のバスは白山通りから車庫の脇道を通って出入りするようになっています。都電35系統はこの巣鴨車庫電停で終点となります。巣鴨車庫は大正二年の開設で、震災直前の頃には都心方面への7つの路線を受け持つ一大拠点となり、震災後は板橋方面への路線延伸を支えたターミナルとして機能しました。全盛期には100両近い都電が広々とした車庫スペースを出入りしていました。都電巣鴨車庫の廃止は都電35系統の最終運転日となった昭和四十三年2月で、現在見られる都営バス営業所の建物は戦後に建て替えられた都電車庫時代の建物がそのまま使われています。



ということで、都電35系統跡の歩きを終えます。神田橋電停から巣鴨車庫電停までの区間は都電18系統と併走していましたので、重複するところが多くありました。何度歩いても新しい発見があって、それはそれで楽しいです。




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