- 都電36系統跡コース
- コース 踏破記
- 今日は都電36系統跡を歩きます。都電36系統は築地から錦糸町までを結び、その路線は主に新大橋通りと四ツ目通りを通っていました。都心を東西に横断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。また、多くの都電がこの区間を重複して走っていました。
都電36系統
都電36系統の全長は6.3kmで、昭和46年3月18日に廃止となりました。
都電36系統の電停(路上の駅)は、築地・築地二丁目・新富町・桜橋・西八丁堀・茅場町・蛎殻町・水天宮・浜町中ノ橋・浜町二丁目・新大橋・森下町・菊川一丁目・菊川二丁目・住吉町一丁目・住吉町二丁目・毛利町・錦糸堀・錦糸町駅でした。
都電36系統の起点である築地電停はどこにあったのでしょうか?ネットの情報では、築地四丁目交差点のひとつ東銀座寄りの交差点から新大橋通りの西側を平行に延びる平成通りに面した「つきじ植むら」の前にあったとのことです。都電36系統は大橋通りを走っていましたので、晴海通りから築地四丁目交差点を経由して新大橋通りに入ったとは考えられず、恐らくは京橋築地小学校の横を通り、築地本願寺正門の向かいで左折して新大橋通りに入っていたと思われます。築地電停には標識以外は何もなく、道路中央に停まって発車を待っていたそうです。余談ですが、平成通りは平成元年に設定された道路名で、都電36系統が走っていた昭和の時代には別の道路名(名称はなかった?)だったようです。また、「つきじ植むら」本店は、ビルの建て替えのため現在は休業中とのことです。
入船橋で築地川を渡ります。といっても、築地川はとっくの昔に埋め立てられ、現在は跡地が公園や空き地になっています(三吉橋から先は首都高の専用道路になっています)。
鍛冶橋通り・永代通りと交差し、茅場橋で日本橋川を渡った先に蠣殻町交差点があります。交差点から1本の道路が日本橋川と平行に延びています。「とうかん堀通り」は、かって存在した水路跡にできた道路です。「とうかん」は漢字で書くと「稲荷」となります。
稲荷堀(とうかんぼり)
小網町と蛎殻町一丁目の境にあたるこの辺一帯は、昔は掘割になっていました。その河岸の端に稲荷神社があったことから、稲荷を音読みで「とうか」とか「とうかん」と読んで、堀をとうかん堀と呼んだと伝えています。この地域は、この堀を利用して、各種の荷物が船で運ばれたために問屋が集り、特に瀬戸物問屋の多かった所です。堀の出入口にあった行徳河岸は、寛永九年(1632年)以来、この堀と下総(千葉県)行徳村とをむすんできました。この水路は行徳からの塩の受入地となり、また江戸から下総への唯一の交通路となって、行徳行きの人と塩などを積んだ船が出入りする賑やかなところでした。この堀は、最古の江戸図といわれる「寛永江戸図」にも見られます。また、この堀に沿って姫路藩十五万石の藩主として知られた酒井雅楽頭(うたのかみ)の屋敷が幕末までありました。酒井家の屋敷の一部は、明治維新の後、明治六年(1873年)十月まで西郷隆盛の屋敷となりました。なお、東華小学校(現、日本橋小学校)の校名は稲荷堀の稲荷(とうか)をとって東華(とうか)と名付けられたといわれています。
水天宮前交差点で水天宮通りと交差します。水天宮は、江戸時代には芝・赤羽橋の有馬藩邸内にありましたが、明治になって藩邸が新政府に没収され、明治四年8月に赤坂へ移り、明治五年にこの地に移り、同時に水天宮も移ってきました。明治十一年5月、官許を得て以来、現在でも「水天宮さん」と呼ばれて親しまれ、特に安産を願う人達でにぎわっています。
歩道脇に蠣殻町の名所・旧跡の案内板が立っています。
日本橋蠣殻町二丁目 名所・旧跡案内
Nihonbashi-kakigaraocho 2-chome Scenic Spots and Places of Historical Interest Information
谷崎潤一郎生誕の地
Junichiro-Tanizaki's Birthplace
明治十九年(1886年)、人形町に生まれた。日本的な伝統美に傾倒し、和辻哲郎と「新思潮」を創刊し、短編小説・戲曲を発表して王朝文化の息吹を現代に生かした新しい境地を開いた。
日本橋人形町1−7−10
鉄造菩薩頭
A head of a Buddhist saint made of iron
総高170cm、面幅54cmの鋳鉄製。鎌倉の新清水寺に存した観音像であったが火災に遭い、頭部のみ掘り出されたのち明治九年現在地に安置された。関東特有の鉄仏の中でも優秀な遺品。
日本橋人形町1−18−9
町名案内
Origin of Town Name
日本橋人形町
Nihonbashi-ningyocho
江戸時代、多くの人形師が住んでいて、人形を作り、売る店が並んでいたので、俗称で人形町と呼ばれていたのが、正式町名になりました。
旧)日本橋浪花町
Fomer) Nihonbashi-naniwacho
このあたりは慶長(1596年〜1614年)の頃、大阪方面からの回船が多く着き、町名は謡曲の難波に由来します。明治四年に難波町と同裏河岸を合併して浪花町と改称しました。
旧)日本橋芳町
Fomer) Nihonbashi-yoshicho
江戸時代の初めごろまで、ヨシなどの群生する所で、町名は江戸期の俗称です。
旧)日本橋蠣殻町
Fomer) Nihonbashi-kakigaracho
昔は魚師の小網の干し場であり、その殻の堆積した海浜であったらしいですが、町名の由来は明らかではありません。
濱町神社は日本橋浜町にある神社で、再開発されたトルナーレ日本橋浜町の敷地内にあります。この地は、安政年間に徳川幕府から島津家へ土地の引き渡しがあり、土地に祀られていた天明年間に創始と云われる稲荷を島津稲荷として崇敬してきたといいます。関東大震災後浜町神社を改称していたものの、戦災により焼失、昭和二十八年に濱町神社として改めて建立されました。ありとあらゆる御利益があるとのことです。
濱町神社由来記
濱町神社は、昔時、天明年間(西暦1781年〜1789年)に、島津家下屋敷庭内の守護神にして、島津稲荷大神として、奉齋してありしを、明治二十年(西暦1887年)同所を分譲地として浜町三丁目となりて後も、引き続いて浜町の守護神として、厚く奉齋せり。大正十二年(西暦1923年)九月一日の関東大震災に於いて、ご社殿その他を烏有(うゆう:全く何もない状態になること。特に、火災ですべてを失ってしまうことをいう)に帰してその後、昭和三年(西暦1928年)五月御社殿を再建の際、当時、神田区西福田町に鎮座せる、山田稲荷を合祀して稲荷神社と改称する。その後、戦災に依り、不幸にも、再度消失す。故に、昭和二十七年、発起人有志多数の協賛を得、町内各位の浄財に依り神社を再建し、昭和二十八年(西暦1953年)三月十五日、名称も濱町神社と改称する。当地区の再開発に伴い、平成十二年四月十二日(西暦2005年)、濱町神社の遷座祭を行い、現在の様式にて、再建する。稲荷神社の御祭神である稲荷大神(倉稲魂神)は、五穀豊穣、産業興隆、家内安全、商売繁盛、子孫繁栄、学業成就、交通安全、火災除け、災難除けの神様としてのご利益も伝えられています。
新大橋で隅田川を渡ります。最初の新大橋は江戸時代に隅田川3番目の橋として架橋されました。「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられました。その後、明治十八年(1885年)に新しい西洋式の木橋として架け替えられ、更に明治四十五年(1912年)7月19日にはピントラス式の鉄橋として現在の位置に生まれ変わりました。竣工後間もなく市電が開通し、アールヌーボー風の高欄に白い花崗岩の親柱など特色あるデザインが見られました。現在の橋は昭和五十二年(1977年)に架け替えられたものです。
新大橋の中程にある主塔に新大橋の由来を記した銅板が埋込まれています。
新大橋の由来
新大橋は、元禄六年(1693年)十二月七日に現在地よりやや下流に、はじめて木の橋が架けられた。両国橋が、万治二年(1639年)に架けられて、その当時「大橋」と呼ばれていたので、その下流に新しく架けられたこの橋を「新大橋」と称した。その頃、新大橋近くの深川に住んでいた俳人松尾芭蕉は、新大橋の架橋を喜んで次の句をよんだ。
初雪や かけかかりたる 橋の上
ありがたや いただいて踏む 橋の霜
以来、新大橋はたびたび架けかえられたが、明治四十五年(1912年)七月十九日、現在位置に鉄橋の新大橋が誕生した。この鉄の橋は、関東大震災(1923年)および太平洋戦争の大空襲(1945年)にも耐え、橋上において多くの人々の命が助かったため、「人助けの橋」といわれるようになった。その鉄橋は、六十有余年の間、道路橋としての使命を十分に果たして、昭和五十二年三月二十七日、現在の橋に架けかえられた。なお、その鉄橋の一部は、愛知県犬山市の「明治村」に保存されている。
江戸時代の木橋の様子と明治時代に掛け替えられた鉄橋のレリーフも添えられています。橋の幅が全然違いますね。十分な橋梁架設技術も資材もなかった江戸時代に隅田川に木の橋を架けるのは困難だったことでしょう。架設後も20回以上も破損・流出・焼落を繰り返していたそうですから、橋の維持管理には莫大なお金が必要だったと思われます。
新大橋を渡ると、すぐに森下町電停があったであろう都営地下鉄新宿線・大江戸線の森下駅前に到着します。森下町電停では同じ線路を走っていた都電9系統(延長運転)が終点となり、福神橋から月島通八丁目(現在の勝どき駅前)に向かっていた都電23系統と交差していました。
その都電23系統が走っていたのが清澄通りです。別名二ツ目通りといわれていました。
二ツ目通り(清澄通り)の由来
明暦三年(1657年)江戸の大半を灰にした例の明暦大火の後、幕府は市街地の区画整理を行いました。万治二年(1659年)、江戸城の再興と共に開始された大事業は寛文元年(1661年)に完了しました。 開拓は道路と河川を一体的に整備したもので東西及び南北を軸とした、直線的な計画がなされていました。その中で、深川地区は堅川の掘削の後、架けられた橋に西から一之橋、二之橋・・・・・・五之橋と名付けられました。その後各々の橋の通りが通り名となったようです。二ツ目通りは堅川二之橋通りと呼ばれ、その後簡略化され、二ツ目の橋通りを経て、二ツ目通りと呼ばれるようになりました。江戸名所図絵には五間堀に架かる立派な弥勒寺橋と共に堅川二之橋通りの名が残されています。
三ツ目通りは、墨田区の水戸街道の言問橋東交差点と江東区の湾岸道路の辰巳交差点を結び、清澄通りと同様に南北方向に延びる都道です。都営新宿線の菊川駅付近を通っています。
大横川を渡り、住吉二丁目交差点を左折して四ツ目通りに入ります。
首都高7号線の高架を抜けたところに錦糸堀電停がありました。
錦糸町駅前に着きました。都電36系統の終点である錦糸町駅電停はどこにあったのでしょうか?ネットの情報によれば、四ツ目通りと京葉道路が交差する錦糸町駅前交差点の先で、JR線のガード手前に位置していたようです。PARCO(楽天地ビル)の真ん前といったところでしょうか?ところで、錦糸堀電停と錦糸町電停はどのような関係だったのでしょうか?実は、都電36系統は当初は錦糸堀電停が終点でしたが、総武線の錦糸町駅との乗り換えが不便だったために、昭和三十三年に錦糸堀電停から100mほど延伸して錦糸町駅電停ができたとのことです。
ということで、都電36系統跡の歩きを終えました。丸井錦糸町店の地下に2017年にオープンしたジャパンミート生鮮館で食料品の大量買いをして帰るとしますかね。ちなみに、ジャパンミート生鮮館は「肉のハナマサ」を傘下にしていることもあって、松阪牛やイベリコ豚などの高級肉も販売されています。なお、丸井錦糸町店は1983年9月に都電錦糸堀車庫跡に開店しました。錦糸堀車庫はかつて城東地区における東京都交通局の一大拠点でした。都電歩きの後でイベリコ豚のしゃぶしゃぶが頂けるのも何かの縁ですかね。
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