- 都電37系統跡コース
- コース 踏破記
- 今日は都電37系統跡を歩きます。都電37系統は三田から千駄木町までを結び、その路線は主に日比谷通り・本郷通り・靖国通り・外堀通り・国道17号線(中山道)・神田明神通り・中央通り・【広小路〜七軒町】・不忍通りを通っていました。都心を南北に縦断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。また、多くの都電がこの区間を重複して走っていました。
都電37系統
都電37系統の全長は9.4kmで、昭和42年12月10日に廃止となりました。
都電37系統の電停(路上の駅)は、三田・芝園橋・芝公園・御成門・田村町四丁目・田村町一丁目・内幸町・日比谷・馬場先門・和田倉門・大手町・神田橋・美土代町・小川町・淡路町・松住町・旅篭町・末広町・黒門町・広小路・上野公園・動物園・七軒町・宮永町・八重垣町・千駄木町でした。
都電37系統の起点である三田電停はどこにあったのでしょうか?ネットの情報によりますと、JR三田駅から遠く離れた芝五丁目交差点の日比谷通り上にあったようです。現在の港区立港勤労福祉会館の前辺りでしょうか?とすると、第一京浜を走っていた都電1系統などとの線路接続はあったのでしょうか?三田には都電1系統・都電2系統・都電3系統、それに都電37系統を管轄する三田電車営業所がありましたが、跡地は現在、港区立港勤労福祉会館と都営住宅になっています。そして三田電停前には、明治元年の江戸城明け渡しに際して西郷隆盛と勝海舟の会談跡地を示す記念碑が今も残っています。
三田といえば、NEC(日本電気)の本拠地ですよね。日本電気本社ビルは、1990年に完成した、高さ180m・地上43階・地下4階の高層ビルで、日本電気株式会社(NEC)の本社が入居し、NEC SUPER TOWER(NECスーパータワー)の愛称を持っています。一般に「風穴」、愛称「ウインドアベニュー」と呼ばれる建物中央部に巨大な開口部があるのが特徴です(但し、日比谷通り上からは開口部は見えません)。
芝園橋の先に芝公園の敷地が拡がっています。芝公園は、都内の公園の多くを手掛けた長岡安平が設計しました。長岡安平は明治時代の造園家で、日本における公園・庭園設計の元祖とも称される人物です。
明治の造園設計家 長岡安平
長岡安平は、明治から大正に活躍した造園家です。「公園」という新たな概念に明快な答えを出せない時代に、東京府・東京市の公園技術者として「公園かくあるべき」と確固たる信念のもとに、旧来にとらわれない独自の発想で、これまでにない、庶民が等しく豊かな緑と触れ合える場を創り出しました。その結果、長岡安平の名声は東京のみにとどまらず全国に広がり、日本各地の公園・庭園の設計を手掛けることとなります。
芝公園には長岡安平の代表的な作品である「もみじ谷」が現存しています。
◆長岡安平と芝公園もみじ谷
〜唯一都内に現存する貴重な長岡安平遺構〜
長岡安平が手がけた都内の公園は、関東大震災や戦災、その復興計画などの影響も受け、彼が手がけた当時の面影がいまも残るのは芝公園もみじ谷(19号地)が唯一です。設計・施工は、明治三十八年(1905年)〜明治三十九年(1906年)のことで、完成時長岡は65歳。円熟の極みに達していた時の作と言えます。竣工から約110年。
長岡安平が手掛けた公園は、東京都以外にも26道府県にも及びます。特に、秋田県は突出した多さです。
日本の公園文化の先駆者となっていく長岡安平
長岡の千秋公園設計は高い評価を受け、東京市転職後の明治三十二年(1899年)に広島県から公園設計を依頼されます。その後病気療養による休職1年間をはさんだ明治三十七年までの5年間、秋田・広島両県の公園や個人庭園などの設計依頼が集中。まさにひとつの設計評価が次の設計依頼につながる状態となり、それが明治三十九年以降は日本各地へと広がっていきました。新しい公園制度を定めた太政官布達から20年以上を経ても、地方に公園設計技術者は不足し、長岡安平は60歳を超えてなお精力的に各地へ赴き、訪れた地域は26道府県におよびます。これは、長岡が現代につながる新たな公園文化の礎を日本各地に築いていったことに他なりません。
芝公園内には徳川家康公を祀った東照宮も鎮座しています。芝東照宮は徳川家康を祭神とし、日光東照宮・久能山東照宮・上野東照宮と並ぶ四大東照宮のひとつとされています。芝公園の一角にあり、元来は増上寺内の社殿でした。徳川家康が慶長六年(1601年)に還暦を迎えた記念に自らの像を刻ませた「寿像」を自身が駿府城に於いて祭祀していました。元和二年(1616年)家康は死去に際して「寿像」を祭祀する社殿を増上寺に建造するよう遺言しました。同年10月に着工し翌元和三年(1617年)2月に竣工しました。この社殿は家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」より「安国殿」と呼ばれました。これが芝東照宮の起源となっています。その後、三代将軍家光により寛永十年(1633年)に新社殿が造営され、旧社殿は開山堂となりました。寛永十八年(1641年)には移転改築がなされました。駿府城より移築された惣門・福岡藩主黒田忠之が寄進した鳥居、本殿の周囲に拝殿・唐門・透塀が造営され豪奢な社殿が整いました。明治初期に神仏分離令により、増上寺から切り離されて芝東照宮となりました。昭和二十年(1945年)5月25日の東京大空襲により「寿像」と神木のイチョウを残し、あとは全て焼失しました。昭和四十四年(1969年)に現在の社殿が再建されました。
御由緒
御祭神 徳川家康公 御神像
慶長六年元旦 御年六十歳の時 家臣に命じ
之を彫刻せしむ 東京都重要文化財指定
御鎮座年月
永世国家を守護し国民の繁栄を祈願せんとの
仰せにより元和三年三月に当地に奉安す
祭日
例大祭 四月十七日(御逝去日)
月次祭 毎月一日 十七日
社殿
権現造り 昭和四十四年八月完成 鉄筋コンクリート
旧社殿は国宝なりしが戦災により焼失す
公孫樹
ェ永十八年三代将軍家光公の手植
昭和五年文部省指定天然記念物
以上
芝東照宮
公園の中に港区の「ちぃまっぷ」が立っています。
芝地区ちぃまっぷ
芝東照宮
芝東照宮は、都の有形文化財である家康公の座像が安置されています。また、本殿の右手前には、徳川家光が植えたといわれる樹齢300年のイチョウの大木があります。
Shiba-toshogu
The sitting statue of Tokugawa leyasu (the first Shogun who established Edo regime) which is one of the tangible cultural properties of Tokyo is installed. A three hundred year-old big ginkgo tree said to be planted by Tokugawa lemitsu (the third Shogun) is located on the right front of the main shrine.
尾崎紅葉生誕の地
「金色夜叉」などの小説で有名な尾崎紅葉(本名徳太郎)は、慶應三年(1867年)12月16日芝中門前二丁目25番地(現芝大門2−7−4)で生まれました。「紅葉」とは増上寺境内の紅葉山からとって号したものです。
Birthplace of Ozaki Koyo (a famous novelist in Meiji period)
Ozaki Koyo (Ozaki Tokutaro in real name) who is famous with novels such as "Konjiki Yasha" in Meiji period was born on December 16, 1867 in 2-25, Shibanakamon-zen (present 2-7-4, Shibadaimon), His pen name Koyo (meaning autumn red leaves or maple trees) was named after "Momiji-yama (maple tree hill)" in Zojo-Ji Temple, a famous temple in the area.
平和の灯(区立芝公園)
子どもたちからアイディアを募集し、そこから得られたキーワードの「地球」「火」を活用し、「水と緑の地球に、核兵器の廃絶と世界の恒久平和を願う火が灯されている」様子を表現したものとなっています。
Light of Peace (Minato Public Shiba Park)
Minato City collected the ideas from children and picked up the key words, Earth and Fire. By using those key words, the light of peace expresses the state that the wish of ever lasting peace and diminish of nuclear weapon lightens the earth of water and green.
芝公園内には、2005年に芝ゴルフ場跡地に誕生した地上33階建て・高さ104メートルのザ・プリンスパークタワー東京も立地しています。プリンスホテルグループにおいて最上級グレードの宿泊施設である「ザ・プリンス」シリーズのひとつです。日本最大級の宴会場があり、市川海老蔵&小林麻央・松本人志&伊原凛・東貴博&安めぐみなど、芸能人の結婚披露宴が多数行われていることでも知られています。
芝公園の中には徳川家の菩提寺である増上寺があります。ここにはいろんな見所が散在しています。
彫刻 木造仁王像 二躯
重要文化財「旧台徳院霊廟惣門」の左右に安置している寄木造り、砥粉地彩色の仁王像で、方形の台座に乗った岩坐の止に立っています。平成十六年から十七年に行われた修理の際に、体内から修理銘札が発見され、元は埼玉県北足立郡戸塚村(現在の川口市西立野)の西福寺(真言宗)仁王門に安置されていたもので、寛政元年(1789年)、弘化三年(1847年)の二度にわたり修理が行われていることがわかりました。さらに安政二年(1855年)の暴風で破損したまま同寺の観音堂の片隅に置かれていたものを、昭和二十三年(1948年)、同寺三重塔の修理と同時期に三度目の修理が行われた後で、東京浅草寺に移されたことも記載されています。その後の経緯は詳らかではありませんが、昭和三十三年ごろまでにはこの惣門に安置されたと考えられます。本像は十八世紀前半までには江戸の仏師によって制作されたと推測され、江戸時代の仁王像として破綻のない作行きを示す貴重な作品です。
像高 阿形243.5センチメートル
吽形247.0センチメートル
仁王像が威風堂々としていますね。
一方で、今にも朽ち果てそうな門にも歴史の重みが感じられます。
増上寺旧方丈門(黒門)
増上寺の方丈(庫裡)の表門であったので方丈門とよばれ、また全体が黒漆塗であったために黒門ともよばれた。四脚門で、建造年代を明らかにする棟札などの記録は見出せないが、江戸時代初期の特徴を示す様式から十七世紀後半のものと推測される。蟇股(かえるまた)には唐獅子や牡丹が浮彫されていて、精巧で写実的な図柄は、近世の建築彫刻の特色を示している。長年の風蝕のため、古色をおびているが、桃山建築の豪華さのおもかげがうかがえる。
現在(歩いた時点)、増上寺では「本堂屋根瓦総葺き替え工事」が行われています。これは、浄土宗の開祖である法然上人(1133年〜1212年)が承安五年(1175年)に立教開宗して以来、850年を迎える令和六年(2024年)に合わせての慶讃事業のひとつとなっています。増上寺の大殿本堂は、昭和四十九年(1974年)の建立以来半世紀を迎えます。長年の風雪に耐えた屋根瓦は傷みが激しく、瓦の総葺き替えが必要不可欠となっていました。今回の総葺き替えでは、瓦の素材に丈夫なチタンを用い、厚さ0.3ミリメートルに加工して瓦を葺くことにより屋根の圧倒的な軽量化を実現し、さらには耐震補強を施して災害に耐えうる安全な本堂を目指しています。増上寺大殿屋根の施工面積は4,235u、チタン瓦の枚数にして約6万枚です。この数はチタン製屋根瓦の葺き替え例としては世界最大規模となります。(工事は2021年11月に無事竣工しました。)
山門の横に案内板が2つ立っています。
三解脱門
慶長十六年(1611年)に徳川家康公の助成により、江戸幕府大工頭・中井大和守正清によって建立され、元和八年(1622年)に再建されました。この門は、増上寺で唯一の江戸時代初期の面影を残す建造物で、重要文化財に指定されています。三解脱門は別名「三門」と呼ばれ、三つの煩悩「貪欲(とんよく・むさぼり)、瞋恚(しんに・いかり)、愚痴(ぐち・おろかさ)」の三悪を解脱する悟りの境地を表しています。建築様式は三戸楼門、入母屋造、朱漆塗。唐様を中心とした建物に、和様の勾欄などが加味され、見事な美しさを見せています。その大きさは、間口十間余(約19メートル)・奥行五間(約9メートル)・高さ七丈(約21メートル)の二重建て構造。さらに左右には三間(約5.4メートル)の山廊を有しています。上層部(楼上)内部には、中央に釈迦三尊像、脇壇に十六羅漢像が安置されています。
三縁山 広度院 増上寺
浄土宗の七大本山の一つ。三縁山広度院増上寺(さんえんざんこうどいんぞうじょうじ)が正式の呼称です。開山は明徳四年(1393年)、浄土宗第八祖西誉聖聡(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に浄土宗正統根本念仏道場として創建され、文明二年(1470年)には勅願所に任ぜられるなど、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に大きく寄与してきました。江戸時代初期、増上寺法主第十二世源誉存応(げんよぞんのう)上人、後の「観智国師」が徳川家康公から深く帰依を受け、手厚い保護を受けました。慶長三年(1598年)に現在の地に移転し、徳川将軍家の菩提寺として、また関東十八檀林の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となりました。その規模は、寺領一万石余、二十数万坪の境内地、山内寺院四十八宇、学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学する大寺院でした。現代でも浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活動のほか文化活動も幅広く行われ、建造物・古文書・経典など多数の重要文化財を所蔵しています。
港区役所前交差点の先、東京プリンスホテルの前に中世鎌倉時代を思わせる赤門が聳えています。
有章院(徳川家継)霊廟二天門
現在の東京プリンスホテル敷地には、戦前、六代将軍家宣の文昭院霊廟と並んで、七代将軍家継の有章院霊廟がありました。プリンスホテル正面の二天門は有章院霊廟の惣門です。霊廟は八代将軍吉宗が享保二年(1717年)に建立しました。その結構(全体の構造や組み立て・構成の意)は日光に劣らぬと伝わる程でしたが、昭和二十年(1945年)に東京大空襲で焼失しました。この焼け残った二天門は銅板葺・切妻造りの八脚門で、左右に仏法守護の役目を持つ広目天・多聞天の二点が祀られています。焼けた文昭院霊廟の門に持国天・増長天が置かれ、合わせて四天王として祀られていました。
日比谷通りが環状二号線と交差するところから虎ノ門ヒルズが眺められます。虎ノ門一帯には超高層ビルが続々と建てられていて、これから街の景観は一変することでしょう。
西新橋交差点で外堀通りと交差します。昔、このあたりは田村町と呼ばれていました。日比谷シティは、昭和四十八年(1973年)7月末限りで「NHK放送センター」となって渋谷区神南に移転した旧日本放送会館の跡地に昭和五十六年(1981年)に開業しました。富国生命ビル・日比谷国際ビル・日本プレスセンタービルで構成され、ショッピングモールはこれら3つのビルにまたがる地下街となっています。日比谷シティ広場「サンクンガーデン」は現在に至るまで都内で唯一の屋外イベントスペースがあるオフィス空間として存在しています。かつては冬季になるとニューヨークのロックフェラーセンターのようなスケートリンクが広場に出現し、都内では珍しくビル街にスケートリンクがありました。現在このリンクはやはり冬季に日比谷シティフットサルとして利用されています。
日比谷シティの前に鈴なりの鈴を付けた鉄塔が建っています。カリヨンと言うのだそうです。
足長カリヨン
カリヨンとは、複数のベルを組み合わせてメロディーを奏でるようにしたものを言い、ヨーロッパでは10〜12世紀頃から教会を中心に学校・公園等に設置されております。ここに取り付けられましたカリヨンは、ベル造りの伝統の国オランダでも代表的なプティアンドフリッツエン社特製のもので、時を告げるメロディーを奏でます。この<足長カリヨン>は、全国より非常に多数寄せられました愛称の中から選ばれたもので、日比谷シティのシンボルとして、皆様に末永く親しまれれば幸いであります。
市政會舘は、日比谷公園内に位置する鉄骨鉄筋コンクリート構造の多目的建築物です。かつては同盟通信社や、その後身の時事通信社が本社を置いたことで知られています。大正九年(1920年)12月に東京市長に就任した後藤新平は、地方自治についての調査・研究を行う独立公正の機関の新設を構想しました。後藤はニューヨーク市政調査会を範として、大正十一年(1922年)2月に東京市政調査会(後に後藤・安田記念東京都市研究所に改称)を設立し、自らは初代会長に就任しました。後藤は初代安田善次郎から350万円の寄付を受け、日比谷公園内に本拠を置きました。当初は公園の北東部に建築される予定でしたが南東部に変更され、建築物の北側部分は公会堂(日比谷公会堂)、残りは会館となりました。公会堂は東京市が、会館は東京市政調査会がそれぞれ管理することとなりました。
日比谷公園の南側入口の直ぐ横に巨大な岩が置いてあります。
烏帽子岩
この石は、江戸時代、江戸城外郭市ヶ谷御門の石垣の中にあったもので、形が鳥帽子(昔、元服した男子のかぶりものの一種)に似ていたため、人々から鳥帽子石と呼ばれて珍重されていたものです。明治時代、道路拡張に伴い石塁が取りこわされた際、永く保存するためこの公園に移されました。
Eboshi Stone Monument
This stone was located inside the Ichigaya-mon Gate, one of the gates of the Edo Castle outer stone wall, during the Edo period. Because its shape resembles that of eboshi, a black headwear worn many years ago by coming-of-age men, people lovingly called the stone the "Eboshi Stone Monument", and treated it with good care. When the stone mound of the castle was demolished to accommodate road extension work in the Meiji period, "the Eboshi Stone Monument" was moved to the park to preserve it for long.
東京ミッドタウン日比谷は、東京ミッドタウン(六本木)に続き、都心部における複合用途型の街づくりブランド「東京ミッドタウン」の第2弾として、平成三十年(2018年)3月29日に、三信ビルディング・日比谷三井ビルディング(旧三井銀行本店)という歴史ある建物の跡地にオープンしました。東京ミッドタウン日比谷の奥には、屋上から延びる尖塔が象徴的な二代目東京宝塚劇場があります。年配の人はNHKの紅白歌合戦の舞台となった初代東京宝塚劇場を思い出しますね。
皇居の日比谷濠に面して、巨大な方柱10本が並んで一際存在感を示しているのが第一生命館の建物です。初代ビルは昭和十三年(1938年)に竣工し、第一生命保険本社として使われました。戦後は米軍に接収されて連合国軍最高司令官総司令部の本部になりましたが、返還後、平成元年(1989年)から平成七年(1995年)にかけて順次DNタワー21として再開発されました。マッカーサー司令官が執務した部屋は現在でもそのまま残されているそうです。
馬場先門交差点の角に建つ明治生命館は、昭和九年(1834年)に竣工し、古典主義様式の最高傑作として高く評価され、平成九年(1997年)5月に昭和期の建造物としては初めて国の重要文化財に指定されました。戦後は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に接収され、アメリカ極東空軍司令部が置かれましたが、昭和三十一年(1956年)に返還されました。平成十三年(2001年)から改修工事が行われ、隣接地に30階建ての明治安田生命ビルを建設して一体的に利用することで、歴史的建造物を活用しながらの全面保存が実現しました。第一生命館と同様に歴史的建造物が後世に残るということは素晴らしいですね。
和田倉門交差点にやってきました。東京駅丸の内中央口から皇居前内堀通りまでを結び、和田倉門交差点で日比谷通りと十文字に交差する道路は、天皇が行幸するため東京駅までの移動に利用した道路であるところから行幸通り(「ぎょうこうどおり」または「みゆきどおり」)と呼ばれています。和田倉門交差点から東京駅前の東京駅中央口交差点までの区間は、正式には東京都道404号皇居前東京停車場線と呼ばれる特例都道となっています。幅員約74mというこの都道の内側の車線はふだん通行止めになっていますが、皇室行事と外国大使の信任状捧呈式の馬車列が東京駅から皇居に向かうときだけ使われています。
日本橋川に架かる神田橋に面して江戸城三十六見附のひとつだった神田口門(後に神田橋門に改名されました)がありました。橋の脇に案内板があります。明治初期の写真には今にも崩れ落ちそうな木橋が写っています。こんなところを将軍様が通ったのでしょうか?
神田橋門跡
ここは、芝崎口門・神田口門・大炊殿橋門とも呼ばれ、将軍が上野寛永寺に参詣に行くための御成道となるため、門の警備は厳重でした。門は、寛永六年(1629年)に下野真岡藩(現在の栃木県)藩主稲葉正勝によって構築されました。対岸の鎌倉河岸は江戸城築城の資材を荷揚げする河岸場だったので、この門の役割は重要でした。明治六年(1873年)に櫓門が撤去され、明治十七年(1884年)に木橋が架け直されました。道路の拡張と市電の開通に伴い改修され、関東大震災で焼け落ちた後に新たに架橋されました。現在の橋は昭和五十五年(1980年)に改架されたもので、木橋風の意匠に、灯龍風の親柱、石造風の高欄を組み合わせています。
Remains of Kandabashi-mon Gate
This was also called Shibasakiguchi-mon Gate, Kandaguchi-mon Gate, or Ooidonobashi-mon Gate. Due to being part of the Onarimichi the road used by the shogun (the military leader of Japan) to visit Ueno Kan'eiji Temple, security around the gate was tight. The gate was constructed in 1629 by the feudal lord of Shimotsuke Mooka Han (now Tochigi Prefecture), Inaba Masakatsu. As the Kamakura Riverbank on other side of the river was the port where the materials for the fortification of Edo Castle were unloaded, this gate had an important role. The Yagura Gate (a two-story gate with a room on the second story) was taken down in 1873, and the wooden bridge was rebuilt in 1884. It was repaired when the road was widened and the trams began running, and was built anew after it was destroyed by fire in the Great Kanto Earthquake of 1923. The current bridge was reconstructed in 1980, and as such combines a design in the style of a wooden bridge, main pillars like lanterns, and a handrail like that of a stone bridge.
日比谷通りは神田橋で終点となり、そこから先は本郷通りとなります。内神田一丁目の先の狭い町域が美土代町です。美土代町はもとは神田橋から南北に細長く延びる町域でしたが、昭和四十一年の住居表示で大半が内神田一丁目の一部となったものの残地は旧町名のまま残り、現在も美土代町交差点北東側が神田美土代町の町名になっています。字面も読みも美しいこの町名は、古くこの付近一帯に神社の神田(しんでん=みとしろ)があったと伝えられることに由来するもので、神田の地名がそもそもそうした伝承に由来することから、神田美土代町という現在の町名表記は同義語をふたつ重ねているという解釈にもなるようです。
小川町交差点を右折して靖国通りに入ります。その後、淡路町交差点を左折して外堀通りに入ります。
神田川に架かる昌平橋を渡ります。橋の袂に案内板が立っています。
昌平橋
昌平橋は、江戸城外堀(現在の神田川)に架かる橋の一つで、寛永年間(1624年〜1644年)に架けられたと伝えられています。橋際から駿河台に登ると一口(いもあらい)稲荷(現在の太田姫稲荷神社)があり、一口橋とも呼ばれました。他にも、相生橋という呼称もありました。その後、元禄四年(1691年)に湯島に孔子廟が設けられてからは、孔子誕生地の昌平郷にちなんで昌平橋と呼ばれるようになりました。少し下流にあった筋違門とともに、中山道・日光御成道の主要通路として利用されており、橋の南側は「八つ小路」と呼ばれる広場として賑わいました。
Shoheibashi Bridge
Shoheibashi Bridge is one of the bridges that crossed Edo Castle's outer moat (current-day Kandagawa River) and is said to have been built in the Kanei Era (1624-44). It was also called Imoaraibashi Bridge as Imoarai Inari (current-day Otahime Inari Shrine) stands on Surugadai upwards from the bridge. It was also referred to as Aioibashi Bridge. It later came to be known as Shoheibashi Bridge after Shoheikyo, the birthplace of Confucius, following erection of a shrine to
Confucius in Yushima in 1691. Along with Sujikai-mon Gate, which was a short distance downstream, the bridge was used as a major thoroughfare for the Nakasendo Road and the Nikko Onarimichi Road, and there was a bustling public square called Yatsukoji at the south end of the bridge.
昌平橋を渡り、短い区間国道17号線(中山道)を進みます。神田明神下交差点を右折し、これまた短い区間神田明神通りを進みます。かなりくねくねと曲がった線路だったのでしょう。
秋葉原電気街の中央通りに出ました。秋葉原は第二次世界大戦後、闇市として発展しました。高度経済成長とともに、多様な電子機器や部品を取り扱う店舗などが建ち並ぶ日本一の電気街として発展しました。その後、バブルの崩壊や大型家電量販店・ディスカウントストアの台頭などによる家電市場の衰退で電器店は主力商品をパソコンに移していきました。これによって、パソコンマニアが集中し、秋葉原は一転してオタクの街として変貌を遂げました。世界的な観光地としても注目されるようになりましたが、2010年代以降はネット販売の普及と地価上昇、それに昨今のコロナ禍などでオタク向けの小売店が軒並み閉店し、代わって大資本によるコンセプトカフェが進出し、区画整理の推進などもあって今ではオフィス街に変貌しつつあります。
アキバの中程の中央通りに面するドンキ秋葉原店8階にAKB48劇場があります。AKB48専用のライブハウスで、2005年12月8日にデビュー公演が行われました。ドンキと劇場とは意外な組み合わせですが、これには建物の8階が構造上ドンキにとって営業しずらかった点と、逆に天井高や広さがライブハウスの設備に適合していたことから選ばれたそうです。私は入ったことはありませんが。
歩道脇に千代田区町名由来版が立っています。
五軒町
江戸時代、この界隈には、上総久留里藩黒田家上屋敷、下野黒羽藩大関家上屋敷、安房勝山藩酒井家上屋敷、播磨林田藩建部家上屋敷、信濃上田藩松平家下屋敷と、五つの大名屋敷が並んでいました。「五軒町」と呼ばれていたのはそのためです。明治維新のとき、政府によってこれらの屋敷は召し上げられ、桑や茶の植え付け地となりました。明治五年(1872年)、この地は神田五軒町と名付けられ、人家が立ち並ぶようになります。明治三十年代には、てんぷらの名店や寄席などができ、町はおおいに賑わいました。明治四十四年(1911年)町名は神田が外されいったん五軒町となりましたが、昭和二十二年(1947年)に神田区と麹町区が合併して千代田区になると、ふたたび神田五軒町に戻ります。そして、昭和三十九年(1964年)、住居表示の実施にともなって外神田六丁目となりました。
Gokencho
This area was known as "Gokencho", which literally means a town of five houses. The
name derives from the fact that five large samurai residences were located here in the Edo Period. At the time of the Meiji Restoration in 1868, the land was confiscated and planted with tea and mulberry trees, but later it became home to a famous tempura restaurant and theater.
中央通りに面したビルの角に案内板が立っています。ここに日本初の喫茶店があったそうです。
日本最初の喫茶店「可否茶館」跡地
明治二十一年(1888年)4月13日、日本人による初めての喫茶店が、鄭永慶(別名・西村鶴吉)によりこの地に設立された。二百坪の敷地に五間と八間の二階建ての木造洋館であった。一階には「トランプ、玉突き、クリケット、碁、将棋」を揃え、また硯に便箋や封筒もおき、更衣室・化粧室・シャワー室・調理場などの設備の他に、「内外の新聞、雑誌類、その他和漢洋書、書画を蒐集縱覧に供す」部屋を設け、二階が喫茶室で、丸テーブル・角テーブルを配置、椅子は籐であった。コーヒーは一杯一銭五厘、牛乳入りが二銭であり、一品料理・パン・カステラなども出していた。ちなみに当時、「もりそば」は八厘であった。設立者の鄭永慶は、近松門左衛門作の「国性爺合戰(こくせんやかっせん)」で有名な鄭成功の弟、七左衛門を先祖にもち、庶民のためのサロンとして、また知識も学べる広場(コーヒーハウス)とすることを理念としての開店であった。
中央通りに面した「うさぎや」というお店の前に行列ができています。ラーメン屋の行列は珍しくはありませんが、ここは和菓子屋さんのようです。「喜作最中」と「どらやき」がお店の看板商品だそうで、「喜作」は二代目店主のお名前だとか。なみなみならぬ思いがあるのでしょう。藤井聡太先生が「うさぎまんじゅう」を注文したら爆売れででしょうね。
「うさぎや」と中央通りを挟んで斜め向かいに上野松坂屋・PARCO・TOHOシネマズが入居する上野フロンティアタワーの高層ビルが建っています。「松坂屋上野店」南館跡地に建てられ、2017年11月4日に開業しました。上野のイメージとは異なる景観ですが、周辺のコミュニティと連携して「新しい下町文化」の創出と地域活性化を目指すとのことです。
歩道脇に旧町名由来案内板が立っています。「黒門」の町名は、上野に寛永寺が創建され、その門前町として発展してきたという由来があるのでしょう。
下町まちしるべ 旧 西黒門町
東叡山寛永寺が創建されたのにともない、寛永三年(1626年)に同寺の門前町として上野新黒門町ができた。この命名については御府内備考が「東叡山御門前に相成、元黒門町に引続町屋に御成候に付新黒門町と唱候哉」と述べられているのに由来する。上野新黒門町は、御成道(現在の中央通り)の両側に形成されていたが、明治二年(1869年)御成道を境にして東西に二分され上野西黒門町、上野東黒門町として新たに発足した。明治五年、上野西黒門町は伊勢亀山藩上屋敷と武家屋敷を合併して町域を広げ、明治四十四年には上野の二字を略し、西黒門町となった。
上野四丁目交差点を左折して不忍通りに入ります。そのまま素直に不忍通りを進めば、終点の千駄木二丁目交差点に至るのですが、都電37系統は交差点の先から不忍池のある上野公園に入っていったようです。現在は車止めがあって車は入れませんが、恐らくはここに都電の線路が敷かれていたのでしょう。
公園の入口に旧町名由来案内板が立っています。「上野恩賜公園」というのが町名だったんですね。実際には住民はいなかったと思いますが。
下町まちしるべ 旧 上野恩賜公園
江戸時代初期、この地は津軽・藤堂・堀家の屋敷であったが、徳川三代将軍家光は天海僧正に命じて寛永寺を建てさせた。寛永二年(1625年)のことである。その後大きな変化もなく幕末を迎えるが、慶応四年(1868年)の彰義隊と官軍の戦争により寛永寺が焼失、一面焼け野原と化した。荒れ果てた姿のままであったが明治六年一月の太政官布告により公園に指定されたことから公園地となった。恩賜公園のいわれは、大正十三年に帝室御料地だったものを東京市へ下賜されたことにちなんでいる。その後規模・景観はもとより、施設など我が国有数の都市型公園として整備された。面積六十二万平方メートル余り。上野公園生みの親がオランダ人医師のボードワン博士。病院建設予定地であった上野の山を見て、その景観のよさから公園にすべきであることを政府に進言し実現したものである。
公園の入口横に「下町風俗資料館」の建物が建っています。「フーゾク」でなく、「歴史」とか「文化」の方が誤解を受けなくていいと思うのですが。
下町風俗資料館の概要
古き良き下町の文化を永く後世に伝えるために・・・
明治・大正ころまでの下町には江戸の名残がありました。しかし大正十二年(1923年)の関東大震災、昭和二十年(1945年)の戦災によって、ほとんどその面影をなくし、さらに目覚しい復興を遂げた戦後、特に昭和三十年代後半には東京オリンピックを契機とする再開発が積極的に進められ、街はすっかり様変わりしました。人びとの暮らしもまた時代とともに変化し、便利さを取り入れた代わりに、古い時代の大切なものが忘れられようとしていました。古き良き下町の文化が失われつつあることに憂いの声が上がったのは昭和四十年代のことでした。「下町風俗資料館」、それは次第に下町を愛する人びとの間に広がり、やがて庶民の歴史である下町の大切な記憶を次の世代へ伝えるための資料館設立の構想が生まれたのです。これを実現するために台東区内外からたくさんの貴重な資料が寄贈されました。そして、多くの人びとの長い歳月をかけた願いが実り、台東区立下町風俗資料館は、昭和五十五年(1980年)10月1日に、ここ不忍池畔に開館いたしました。
都電37系統の線路がどの辺りに敷設されていたのか分かりませんが、不忍池キワキワのところか、動物園通りとの境界線に沿っていたのではないかと思われます。当時の車内からは今林立している高層マンション群など想像もできなかったことでしょう。
不忍池の辺に石造りの記念碑が建っています。日本で最初の駅伝が行われたことが記されています。ちなみに、奠都(てんと)とは、新たに都を定める事をいいます。明治維新に際して、明治天皇が京都から東京に移った時は、京都を都として残す形をとり、遷都(せんと)ではなく、東京奠都が行われました。
駅伝の歴史ここに始まる
我が国、最初の駅伝は、奠都五十周年記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競走」が大正六年(1917年)年四月二十七日・二十八日・二十九日の三日間にわたり開催された。スタートは、京都・三条大橋、ゴールは、ここ東京・上野不忍池の博覧会正面玄関であった。
不忍池の中に、弁財天を祀った弁天堂が建つ弁天島があります。寛永寺の開祖である天海が不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえて弁天島(中之島)を築かせ、そこに弁天堂を建てたといわれています。創建当初は橋がなく、弁財天への参拝は船で行われていましたが、不便だという理由で寛文十年頃に陸道が造られました。
不忍池沿いの広場は上野動物園の入場ゲートにより行き止まりになっています。ここから都電37系統の線路が動物園通りに出て行ったとは考えられず、恐らくは動物園の中を通り抜けていったのではないかと思われます。そして、現在上野動物園モノレールの西園駅があるところに「動物園電停」が設置されていたのではないかと推測されます。蛇足ですが、上野動物園モノレールは車両が特殊な上に経年劣化が激しく、2019年11月1日から運行休止(恐らくは廃止の運命)になっています。併せて記しておきますと、上野動物園モノレールは正式名称を「上野懸垂線」といい、日本で最初に開業したモノレールとのことです。上野動物園モノレールは動物園の遊技施設ではなく、鉄道事業法に基づく交通機関として東京都交通局の運営により営業運転を行っていました。
都電37系統は上野動物園の敷地を通り抜けて、上野グリーンクラブ売店前の道路に出て、池之端二丁目交差点から不忍通りに入っていたのでしょう。
池之端二丁目交差点の手前に小さな児童遊園があり、往年の都電車両が展示されています。ここは、かっての池之端七軒町電停跡です。昭和三十年代の都電全盛期の時代には、都電20系統(江戸橋〜須田町)、都電40系統(神明町車庫前〜銀座七町目)、そして都電37系統と、三つの路線が池之端七軒町電停(廃止時は池之端二丁目電停に改称)に発着していました。フェンスに掛けられた案内板には、当時の池之端七軒町電停に停車している都電20系統の写真が添えられています。行き先表示が「江戸川橋」となっていることから、電車の後方が上野動物園で、手前のカーブした先の池之端二丁目交差点から不忍通りに入っていたのでしょう。
旧都電停留場(池之端七軒町)
ここ、池之端児童遊園は、かつて都電停留場(池之端七軒町)のあった場所です。昭和三十年代の都電全盛期の時代には、20系統(江戸川橋〜須田町)、37系統(三田〜千駄木二丁目)、40系統(神明町車庫前〜銀座七丁目)と三つの路線が走っていた区間でしたが、昭和四十二年(1967年)12月に37・40系統が廃止、昭和四十六年(1971年)3月には20系統も廃止になり、池之端七軒町(廃止時は池之端二丁目に改称)の停留場は姿を消しました。平成二十年3月、都電停留場だったこの場所に都電車両を展示し、地域の歴史が学べ、まちのランドマークとなる児童遊園として整備しました。使用したレールは、東京都交通局荒川線で使われていたものを再使用しました。
池之端児童遊園に展示されている都電の車両は7500形で、つい最近まで荒川線で走っていたそうです。
都電7500形(7506号車)
ここに展示された都電は7500形といわれる形式で、昭和三十七年に製造された旧7500形を車体更新したものです。旧7500形は昭和五十九年以降、台車と主要機器を流用した車体更新が施され(て)現在の7500形となり、都電で初めて冷房装置が搭載されました。この車両は、平成二十年1月末まで都電荒川線(三ノ輪橋から早稲田)を走行し、平成二十年2月1日東京都交通局より台東区に譲渡されました。
終点の千駄木二丁目交差点にやってきました。千駄木町電停がどこにあったのかは分かりませんが、交差点付近としておきましょう。都電37系統は、これまで踏破した幾つかの系統跡と同じ区間を共有して走っていましたが、新たな発見もありました。淡路町から外堀通りに入り、神田明神下交差点を経由して中央通りに入るまでの区間は都電37系統だけが走っていたようで、右に左に曲がる様はなかなかの見物だったことでしょう。
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