都電38系統跡コース  

コース 踏破記  

今日は都電38系統跡を歩きます。都電38系統は日本橋から錦糸町までを結び、その路線は主に永代通り・【南砂二丁目交差点〜南砂三丁目交差点は専用軌道:現在は南砂緑道公園】・明治通り・【大島中央通り入口交差点手前の緑道入口〜水神森交差点は専用軌道:現在は亀戸・大島緑道公園】・京葉道路を通っていました。都心を東西に横断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。  

都電38系統

都電38系統の全長は9.7kmで、昭和47年11月17日に廃止となりました。

都電38系統の電停(路上の駅)は、日本橋・茅場町・新川一丁目・永代橋・佐賀町一丁目・永代二丁目・門前仲町・不動尊・富岡町・木場一丁目・木場三丁目・洲崎・東陽公園・南砂町四丁目・南砂町一丁目・南砂町三丁目・境川・北砂町一丁目・北砂町二丁目・大島一丁目・大島三丁目・竪川通・水神森・亀戸駅・錦糸掘・錦糸掘車庫でした。


都電38系統の始点となる電停は、日本橋交差点の近くにあったと思われます。現在のコレド日本橋の前辺りでしょうか?かって日本橋交差点の角には白木屋(しろきや)百貨店が建っていました。白木屋は、越後屋(現三越)・大丸屋(現大丸)と並び、江戸三大呉服店のひとつで、日本の百貨店の先駆的存在でもありました。江戸時代から昭和にかけて営業しましたが、昭和四十二年(1967年)に東急百貨店に買収され、「東急百貨店日本橋店」へと改称されました。その後、平成十一年(1999年)1月31日に閉店し、336年の歴史に幕を閉じました。跡地にはCOREDO日本橋が建設され、平成十六年(2004年)3月30日に開業しました。



日本橋兜町に複合施設「KABUTO ONE」というビルができました。(歩いた当時は建設中でしたが、2021年8月24日に竣工しました)。永代通りと平成通りの交差点に面するアトリウム(エントランス)は、高さが約14mあり、3層吹き抜けのガラス張り空間には、世界最大規模のキューブ型LEDディスプレー「The HEART」が天井から吊り下げられています。ここに金融マーケットの情報などを表示し、時々刻々と変わる市場の動きを可視化しています。



新川一丁目交差点近くに「河村瑞賢屋敷跡」の案内板が立っています。

河村瑞賢屋敷跡

江戸時代、この地域には幕府の御用商人として活躍していた河村瑞賢(1618年〜1699年)の屋敷がありました。瑞賢(瑞軒・随見とも書く)は、伊勢国の農家に生まれ、江戸に出て材木商人となりました。明暦三年(1657年)の江戸大火の際には、木曽の材木を買い占めて財をなし、その後も幕府や諸大名の土木建築を請負い莫大な資産を築きました。また、その財力を基に海運や治水など多くの事業を行いました。瑞賢の業績の中でもとくに重要なのは、奥州や出羽の幕領米を江戸へ廻漕する廻米航路を開拓して輸送経費・期間の削減に成功したことや、淀川をはじめとする諸川を修治して畿内の治水に尽力したことがあげられます。晩年にはその功績により旗本に列せられました。斎藤月岑の「武江年表」によると、瑞賢は貞享年間(1684年〜1688年)頃に南新堀一丁目(当該地域)に移り住み、屋敷は瓦葺の土蔵造りで、塩町(現在の新川一丁目二十三番地域)に入る南角から霊岸島半丁一円を占めていたと記されています。表門は今の永代通りに、裏門はかつて新川一丁目七番・九番付近を流れていた新川に面し、日本橋川の河岸には土蔵四棟があり、広壮な屋敷を構えていたようです。「御府内沿革図書」延宝年間(1673年〜1681年)の霊岸島地図を見ると、瑞賢が開削したとされる堀割に新川が流れ、その事業の一端を知ることができます。




永代橋の直ぐ手前に特徴あるビルが建っています。かって山一証券が入っていたビルですが、現在は「RBM茅場町タワー」という看板がかかっています。RBMという名前はあまり馴染みがありませんが、「レジデンス・ビルディングマネジメント株式会社」の略で、高品質なオフィス・高層住宅を社会へ提供することで街に新しい価値を創造するという社訓を掲げた独立系総合不動産会社です。ちなみに、前身は秀和株式会社です。



永代橋の手前に「船員教育発祥之地」の石碑が置かれています。

船員教育発祥之地

内務卿大久保利通は、明治政府の自主的な海運政策を進めるにあたり、船員教育の急務を提唱し、三菱会社長岩崎彌太郎に命じて、明治八年十一月この地に商船学校を開設させた。当初の教育は、その頃隅田川口であり、海上交通の要衝でもあった永代橋下流水域に、成妙丸を繋留して校舎とし全員を船内に起居させて行われたが、これが近代的船員教育の嚆矢となった。爾来百年、ここに端を発した商船教育の成果は、我が国近代化の礎となった海運の発展に大きく貢献してきたが、その歴史的使命は幾変遷をへた今日、江東区越中島にある現東京商船大学に継承せられている。




永代橋を渡ります。永代橋からは佃島の超高層マンションが望めます。よくあんな中州に超高層住宅を建てたものです。隅田川が氾濫したらどうやって避難するのでしょうか?



永代橋を越えた先に大島川西支流が流れています。昨年(2020年)歩いた川で、懐かしいですね。



永代通りの歩道のガードには、永代橋や美人画をイメージしたレリーフ装飾がなされています。急に下町になったなと実感させられます。



門前仲町といえば魚三酒場ですね。魚介類のメニューは豊富でしかも安い!無愛想なご主人ですが、午後4時の開店と共に店内にダッシュするのが常連客です。瓶ビール(勿論大瓶です)と熱燗2杯とおつまみ2〜3品(鮪のぶつ切りとあら煮、それに締めのおつゆは必須)位を注文し、1時間くらいでサクッとお勘定するのが流儀。



深川不動尊は、正式には「成田山東京別院深川不動堂」といい、成田市にある成田山新勝寺の東京別院になります。江戸時代初期、歌舞伎役者の市川團十郎が不動明王が登場する芝居を打ったことなどにより、成田山の不動明王を拝観したいという気運が江戸っ子たちのあいだで高まりました。これを受けて、元禄十六年(1703年)、1回目の成田不動の「出開帳(現代風にいえば「秘仏特別公開)」が富岡八幡宮の別当・永代寺で開かれました。これが深川不動堂の始まりです。その後、出開帳は江戸時代を通じて12回行われましたが、そのうち1回を除いて深川永代寺が会場となりました。明治維新後、永代寺は神仏分離令により廃寺となりましたが、不動尊信仰は止むことがなく、明治十一年(1878年)に現在の場所に成田不動の分霊を祀り、「深川不動堂」として存続することになりました。ちなみに、「門前仲町」という地名は「永代寺の門前町」という意味です。



富岡八幡宮は「深川八幡宮」とも呼ばれています。江戸最大の八幡宮で、八月に行われる祭礼「深川八幡祭り」は江戸三大祭りのひとつになっています。また、富岡八幡宮は江戸勧進相撲発祥の神社で、境内には「横綱力士碑」をはじめ大相撲ゆかりの石碑が多数建立されています。

富岡八幡宮 (TOMIOKA HACHIMAN SHRINE) 由来

この神社の3年に一度の本祭りは、夏祭りにふさわしく神輿に水をかけながら練り歩くので、「水かけ祭り」の名もあり、50基余の連合渡御は江戸三大祭りのひとつとして有名です。寛永元年(1624年)当時永代島と呼ばれた小島に、京都の公卿が八幡神像を奉安したのが始まりといわれています。境内には、「横綱力士碑」、「力持碑」、「木場角乗碑」など深川にまつわる石碑等があります。




大鳥居の先の境内に伊能忠敬の銅像が建っています。

伊能忠敬銅像

近代日本地図の始祖である伊能忠敬先生は、事業に成功したあと50歳のとき江戸に出て、当宮近くの黒江町(現在は門前仲町一丁目)に隠宅を構えていました。約200年前の寛政十二年閏四月十九日(陽暦では1800年六月十一日)の早朝に当宮に参拝して蝦夷地(北海道)測量の旅に出かけました。忠敬先生はこのときを含めて全部で10回の測量を企画しましたが、遠国に出かけた第八回までは、出発の都度必ず、内弟子と従者を率いて富岡八幡宮に参詣して、無事を祈念したのち、千住、品川宿など測量開始地点に向かって歩き出しました。当宮は伊能測量にとってたいへん御縁の深い場所であります。伊能測量開始200年にあたり、「伊能ウォーク」、地図・測量、土地家屋調査士、伊能忠敬研究会などの関係者が中心となって、広く一般から浄財を公募して建立されました。




境内右手の一段高いところに歴代の大関力士を顕彰する大関力士碑が建っています。大関力士碑は、昭和五十八年(1983年)10月5日に完成し、宝暦七年(1757年)10月の番付表に大関として記されている雪見山堅太夫を初代とし、琴欧洲勝紀までの114人の四股名と出身地が刻まれています。刻名は現役引退後に行われるため、横綱に昇進した力士や看板大関(江戸時代に相撲の大関不在時の穴埋めとして大きくて見栄えがするというだけの理由で番付に大関として記載した力士)は刻まれていません。

大関力士碑

当宮は江戸勧進相撲発祥の地として知られ、明治年間には歴代横綱の名を刻んだ横綱力士碑(本殿に向かって右側の奥)が建立されましたが、この大関力士碑は歴代の大関を顕彰し(横綱に昇進した力士と実際に取組みには入らなかった看板大関を除きます) 昭和五十八年に建てられた碑で、九代目市川団十郎と五代目尾上菊五郎が明治年間に寄進した仙台石を利用しています。




富岡八幡宮では一年を通して様々な行事が行われていますが、毎年8月15日前後に開催される「深川八幡祭り」は、赤坂の日枝神社の「山王祭」、神田明神の「神田祭」とともに「江戸三大祭」のひとつに数えられています。3年に1度渡御が行われる本祭りでは、八幡宮の御鳳輦と53基の町神輿が勢揃いして連合渡御をします。正面参道沿いの神輿庫では、ガラス越しに日本一の黄金大神輿を見ることができます。

富岡八幡宮本社御神輿(日本一の大神輿)

当八幡宮には、江戸時代深川に屋敷のあった紀伊国屋文左衛門より三社託宣に因み八幡造り・神明造り・春日造りの三基三様の神輿が奉納され、みこし深川と云われて参りましたが大正十二年の関東大震災で惜しくもその全てを焼失してしまいました。それ以来、御本社神輿の復活は深川っ子の念願でありましたが、平成の御世になり漸く、昔に優るとも劣らない豪華な大神輿が復活致しました。

○型の名称   屋根延神社型金地塗神輿
○台輪幅    五尺
○高さ     十四尺五寸
○重さ     4.5トン(渡御時における推定)
○屋根の大きさ 最大幅十尺(蕨手装着時)
○担ぎ棒    十本(本棒二本・縦添棒四本・横添棒四本)
●ダイヤモンド
  鳳凰の目(四カラット二個)・鳳凰の火焔(七カラット)
  狛犬の目(三カラット二個、一対)
  隅木の目(一カラット二個、四体)
  小鳥の貝(一カラット二個、四体)
●ルビー 鳳凰の鶏冠(2、010個)




汐見橋で平久川を渡ります。平久川は、木場三丁目の亀久橋手前で仙台堀川から分流し、大横川と交差し、汐浜運河に接続して終わる水路です。北端の木場西側の区間は江戸以来のものですが、大正末から進展した埋め立てにつれて平久川も延長され、現在の姿になりました。汐浜運河に合流する南端部に平久水門があります。



大島川は現在は大横川という呼称で、江戸時代に隅田川左岸で最も下流に開削されました。西支流はさきほど渡りましたが、こちらは東支流になります。ここに架かっていたのが舟木橋です。入舟町の「船」と、木場町の「木」をとって「舟木」という橋名にしたそうです。

舟木橋跡

舟木橋は、江東区木場二丁目地内の大島川東支川に架けた旧入船町と木場町を結ぶ橋長25.2m、幅員33.8mの橋であった。橋名の由来・創架年月ともに不詳であるが、入船町と木場町に架かる橋なのでこの名を得たと言われている。昭和五年に鋼橋に架替えられたが、 平成十四年3月に老朽化に伴い撤去した。




首都高深川線の高架下に「下木場」という一枚板の屋根付看板が建っています。

下木場欅一枚板看板

この付近は、地域の俗名で「下木場」と呼ばれており、三年に一度開催される深川八幡の本祭りでは神輿を展示するお仮屋が設置されます。木場の川並(材木を河川で筏に組み運搬する職人)文化と「下木場」という名を後世に伝えるため設置しています。




沢海橋は大横川(旧大島川)に架かる橋です。昨年(2020年)「東京の河川を歩く」で通りました。大横川に沿った遊歩道には沢山の桜の木が植えられていて、桜の名所になっています。ただ桜の木はソメイヨシノではなく、河津桜です。大横川沿いの河津桜はそれぞれの木で開花の時期に差があり、花期が長いのが特徴です。



東陽町駅前交差点の脇に、この付近の施設を紹介した案内板が立っています。区役所の宣伝も忘れてはいませんね。

江東区観光協会

産業会館内にある江東区観光協会は、江東区内の観光に関する情報の収集や発信、まちあるき案内事業、観光イベント等を通じて江東区の観光事業の振興を図っています。江東区内の観光スポットやイベント情報等のパンフレットも充実しており、江東区観光キャラクターコトミちゃんのグッズ販売もしています。

Koto City Tourism Association

Koto City Tourism Association is located within Business Center. Information on sightseeing spots within the city, guided walking tours, noteworthy events and promotional activities are gathered, organized, and relayed here. Aside from various pamphlets and guides, the office also sells Kotomi-chan merchandise (Kotomi-chan is the official Koto City Tourism mascot).

江東区役所

江東区は、親水公園など豊かな水辺と緑が暮らしの中に息づく「水彩都市」です。江戸文化の風情を残す下町のイメージがある一方で、臨海部では未来型の都市整備が進んでいます。区では、「SPORTS & SUPPORTS KOTO City in TOKYO スポーツと人情が熱いまち江東区」をブランドコンセプトに国内外に区の魅力を積極的に発信しています。

Koto City Office

Koto City is filled with greenery and waterways, making it a "waterscape city". While the older parts of town still retain their traditional atmospheres from the Edo period, the bay area showcases a modern cityscape that continues to grow and develop. The city's branding concept is "SPORTS&SUPPORTS KOTO City in TOKYO", which encapsulates the city's love for sports and the active support of its warm communities.

東京イースト21

憩いと潤いのある街、東京イースト21は1992年開業。ホテル、ショッピングモール、オフィスビルを有する大型複合施設です。ホテルは多彩な客室と大型宴会場、プール、結婚式場を備えるラグジュアリーホテル。ショッピングモールはスーパーマーケット、レストランなど多様なテナントやイベントスペースで構成され、地域住民、オフィスワーカーの生活をサポートしています。

Tokyo East 21

Tokyo East 21 opened for business in 1992. This complex contains a hotel, a shopping mall and office buildings. The hotel has various luxurious guest rooms, a large banquet hall, a pool, and ceremonial rooms for weddings, while the shopping mall contains many restaurants and event spaces, which are utilized often by the workers in the attached office buildings.

GALLERY A4(ギャラリー エー クワッド)

竹中工務店東京本店内にある公益財団のギャラリーです。一般の方から専門家まで「建築・愉しむ」をコンセプトに、環境や教育など暮らしの周辺に広がる様々な事象を建築やアートを通して紹介します。また展示に関連した講座やワークショップを開催しています。

Gallery A-quad

This gallery in Takenaka Corporation Tokyo head office is operated by the Public Interest Foundation. Their concept is "Architecture Blessing", and they introduce various Phenomena around the environment, education and others through architecture and art from professionals but also everybody. They also host lectures and workshops related to exhibitions.

木場公園

広い園内には、シンボルの木場公園大橋、イベント広場、冒険広場、ふれあい広場、都市緑化植物園などがあり、憩いの広場となっています。また、毎年10月に行われる「江東区民まつり」のメイン会場でもあり、園内の北側には、「東京都現代美術館」もあり、多くの人でにぎわいます。またバーベキュー場やドッグランも併設されています。

Kiba Park

This wide space, used by many for recreation and relaxation, features the representative Kiba Park Ohashi Bridge, a playground area, a barbecue area, a dog park, and a botanical garden. Every October, the Koto City Community Festival is held here to great excitement. The north part of the park leads up to the Museum of Contemporary Art Tokyo, another popular destination.




都電38系統は南砂二丁目交差点で永代通りを離れ、南砂三丁目交差点まで専用軌道を走っていました。現在は専用軌道の跡地が南砂緑道公園になっています。南砂緑道公園は遊歩道公園になっていて、片道1kmほど続く遊歩道は自転車用と歩行者用に分かれていて、安心して散歩を楽しむことができます。遊歩道沿いにはたくさんの植栽が溢れていて、四季によって全く違う景色を楽しむことができます。特に春の桜の時期に、風に舞う桜吹雪を見物しながらのお散歩は格別です。



遊歩道の片側はタイル敷の歩行者用歩道、もう片方は自転車用の車道になっています。



遊歩道脇の植え込みの中に大砲が展示されています。アンヴァリッドは、正式にはオテル・デ・ザンヴァリッドといい、1671年に当時のルイ14世が傷病兵を看護する施設として建てた施設です。ドーム教会の地下に設けられた墓所には、ナポレオン・ボナパルト(フランス皇帝ナポレオン1世)の柩が置かれています。フランス軍事博物館が併設され、中庭には馬関戦争でフランス帝国海軍によって押収された長州藩の大砲の一部が展示されています。

長州藩大砲鋳造場跡

パリのアンヴァリッド(廃兵院)に、長州藩主毛利家の紋章がある青銅の大砲が保存されています。この大砲には、次のように刻まれています。

十八封度(砲)(ジュウハチポンドほう)
嘉永七歳次甲寅季春(かえいしちさいじこういんきしゅん)
於江都葛飾別墅鋳之(こうとかつしかべっしょにおいてこれをちゅうす)

「江戸切絵図」を見ると、現在の南砂ニ〜三付近に長州藩主松平大膳大夫の屋敷があったことがわかります。「葛飾別墅」とは、この屋敷をさしています。長州藩では、嘉永六年(1853年)十二月、三浦半島の砲台に備えつける大砲を鋳造するため、鋳砲家を江戸へ呼び寄せました。翌七年(安政元年)正月、幕府の許可を得て、佐久間象山の指導のもと、砂村の屋敷内で大砲の鋳造を始めました。当時、尊皇攘夷の急先鋒だった長州藩は、この大砲を三浦半島から下関に移し、砲撃により関門海峡を封鎖しました。これに対し、元治元年(1864年)イギリス・アメリカ・フランス・オランダの連合艦隊が下関の砲台を攻撃、陥落させました。パリの青銅砲はこの時、フランス軍により海を渡ったものです。




大砲が置かれた石の台には碑文が刻まれています。こんなに大きくて重たい大砲をどうやって江戸から下関まで運んだのでしょうか?

このモニュメントは、パリのアンヴァリッドに保存されている大砲をモデルにしたものです。実際の大砲は、長き約3メートルです。



南砂緑道公園の出口手前に、レールに乗った車輪が置かれています。その横に案内板が立っています。

この緑道公園は、もと都電(城東電車)の走っていた用地に、みどりといこいの散歩道として建設されたものです。城東電車は大正六年から設置され、この緑道公園の区間は昭和二年にしかれましたが、昭和四十七年11月に廃止されるまで、チンチン電車の愛称で広く親し まれていました。

この車輪は都電に使用されたものです。
車軸 昭和二十八年8月製造
車輪 昭和四十年10月(ギャ側)製造
   昭和四十一年4月(アクスルカラー側)製造




藤棚の先に、JR貨物専用の越中島線の軌道が頭上に架かっています。昭和四年(1929年)に小名木川の水運との物流連絡のため、亀戸駅から小名木川駅まで開業し、その後越中島駅(現在の越中島貨物駅)まで延伸されました。



南砂三丁目で明治通りに出ます。その先で葛西橋通りと交差します。



弾正橋は仙台堀川に架かる橋でした。今は仙台堀川は埋め立てられて親水公園になっています。「弾正」とは今で言う警察的な意味合いですが、江戸時代にこの城東地区にそのような機関があったとは思えず、名前のそもそもの由来はよく分かりません。

弾正橋由来

弾正橋は、大正時代、城東電機鉄道の鉄道橋として砂町運河に架設され、その後、明治通りの道路整備に伴い、昭和五年に道路及び鉄道橋として鋼橋に生まれ変わりました。この橋のすぐ西側には、木橋で架設された秋山橋があり、住民の通行の手段でしたが、この道路整備に伴い秋山橋も撤去されました。弾正橋の名前の由来は、もともと境川に架かっていた橋の名前でしたが、大正十三年からの震災復興事業のため境川が埋め立てられ、取り壊されたことを惜しみ、つけられたものです。なお、現在の南砂付近一帯は江戸時代から明治時代にかけ砂村新田と呼ばれ、その中に八つの地区があり、その一つが「弾正」でした。この橋の下を流れる仙台堀川は昭和五十三年からの埋め立てに伴い、同五十七年に親水公園となり地域の人々に親しまれてきました。平成の世となり、弾正橋も撤去の必要が生じ、ここに橋名板と、当時の橋の偲かげのレリーフを残し、橋の歴史を永くとどめるものとしました。




明治通りと清洲橋通りが交差する境川交差点の名前に残る境川の周辺は、江戸時代には砂村新田と呼ばれていました。万治二年(1659年)、砂村新左衛門が宝六島(現在の南砂一丁目付近)を中心にして436石の新田を開拓したことから、開拓者の名前をとって名付けられました。小名木川から水を引いて中川に注ぐように、新田の中央に幅約19mの水路を設け、砂村新田の八右衛門・久左衛門・亀高・大塚の4ヵ村の南を境にして流れていたことから、境川という名前で呼ばれていました。その後、田畑の減少や舟運の減少等に伴って、境川は水路としての必要性が薄れ、廃川となって昭和五年(1930年)に清洲橋通りへと変わりました。交差点脇にふたつの案内板が置かれ、長年の風雨に晒されて文字はよく読み取れませんでしたが、境川の歴史と地域の野菜の促成栽培について記されているようです。かっては長閑な田園地帯だったのでしょう。



砂町銀座商店街入口の横に「海幸」があります。お昼時には行列ができる寿司居酒屋さんです。新鮮で美味しい魚介類を使った丼ものが人気ですが、品数限定のランチメニューは直ぐに売り切れになります。砂町銀座商店街は明治通りと丸八通りを結び、全長約670mの両側に約180店舗が軒を連ねています。戸越銀座商店街・十条銀座商店街と共に、都内の三大銀座商店街に数えられています。今もなお昭和の面影を色濃く残した下町の商店街です。毎月10日には「ばか値市」と呼ばれる大安売りを行っていて、平日で1日延べ15,000人、休日になると延べ2万人が訪れます。砂町銀座商店街の名物は激安が売りの「魚勝」で、お昼前の開店と同時に買い物客が店内になだれ込み、押すな押すなの大混雑となります。他のお店にない珍しい魚介類もあり、早い者勝ちです。午後二時過ぎになると売り場は閑散とし、残り物は割引になってお得です。お婆さんが店番をする「あさり屋さん」の浅利めし、「手作りの店さかい」のマグロメンチ、「増英蒲鉾店」の超塩辛いすじなどなど、お惣菜や食材も大人気です。



砂町銀座商店街の先の明治通りに小名木川駅前交差点があります。といっても、近くには駅は見当たりません。小名木川駅は平成十二年(2000年)に廃止され、跡地は再開発によってマンションとショッピングモール「アリオ北砂」になりました。アリオ北砂(ARIO)は、イトーヨーカ堂の大型ショッピングセンターで、ARIOとしては都内三番目の店舗になりますが、貨物駅の跡地に立地するのは初めてとのことです。



進開橋で小名木川を渡ります。小名木川は、隅田川と旧中川を結ぶ運河で、徳川家康の命令で開削されました。天正十八年(1590年)頃、江戸城を居城に定めた徳川家康は、兵糧としての塩の確保のため行徳塩田(現在の千葉県行徳)に目を付けました。しかし行徳から江戸湊(当時は日比谷入江付近)までの江戸湾(東京湾)北部は当時砂州や浅瀬が広がっていて船がしばしば座礁していたため、大きく沖合を迂回する他ありませんでした。また、沖合を迂回した場合でも風向きによっては湾内の強い風波を受けて船が沈むことがあり、安全とは言えませんでした。そこで家康が小名木四郎兵衛に命じて行徳までの運河を開削させたのが小名木川の始まりです。運河の開削によって行徳から江戸まで安全に塩を運べるようになると共に、航路が大幅に短縮されました。そのため、小名木川は、別名「しおのみち」とも呼ばれました。小名木川沿いには遊歩道が整備され、護岸上は北砂緑道公園になっています。



今日は三月の中旬です。桜の蕾も一気に弾け、開花間近といった感じです。自然の摂理はコロナとは関係ないですね。



小名木川を越えた先で都電38系統は明治通りを離れ、再び専用軌道に入って行きます。途中で新大橋通りと交差しますが、水神森交差点で京葉道路に出るまでは専用軌道が続きます。現在は専用軌道の跡地が大島緑道公園(亀戸・大島緑道)として整備されています。大島緑道公園は桜の名所として知られています。



専用軌道は、明治通りから弧を描くような形でダイエーの横を通り、新大橋通りと交差していました。

大島緑道公園

この緑道公園は、昭和四十七年(1972年)11月に都電が廃止され、その後みどりといこいの散歩道として建設されたもので、清掃等についてはみどりの協定により、地元のみなさんにお願いしています。




新大橋通りに面したダイエー大島店は都電29系統を歩いた時は閉店セールをやっていましたが、現在はお店の周囲に工事用の柵が設けられています。ダイエーは昔は全国チェーンの一大スーパーマーケットでしたが、バブル崩壊後の1990年代から経営不振になり、平成二十七年(2015年)1月からイオンの完全子会社となってイオングループに入りました。現在でも都内のところどころにダイエーの名を冠したお店はありますが、大島のお店は遂に閉店してしまいました。ダイエーは創業者の中内功が生まれ育った阪神地区を中心に店舗を展開し、ショッピングセンターや総合スーパーといった業態を日本で初めて導入して、戦後の日本の流通・小売業界を発展させた代表的な企業として知られています。創業以来一貫して「価格破壊」をスローガンとし、「よい品をどんどん安く」や「お客様のために」をスローガンに、「主婦の店」という商号で一世を風靡しました。ダイエー大島店の跡地は、現在の情報では建て替え計画はなくなり、50階建ての超高層マンションが建つみたいです。



都電38系統は、竪川を専用橋で渡っていました。都電廃止後は人道橋となり、それも竪川が埋め立てられた後に撤去されました。現在は橋の跡地に欄干の模型が置かれ、その横に案内板が立っています。添えられた写真には、専用橋上を走る都電の勇姿が見えます。竪川はドブ川のようで、橋も貧弱な造りに見えます。昭和三十年頃の風景とのことですが、戦後の混乱期からようやく復興を始めた時代を反映していますね。

橋の記憶

ここには、かつて川があり、橋がありました。橋には都電が走っていました。時の流れとともに、都電は廃止され、高速道路が建設されました。やがて、川は埋め立てられ公園となり、役目を終えた橋が撤去されました。長年、みなさんに親しまれた橋の思い出を次の世代に伝えていくため、ここに「橋の記憶」を設置します。

経緯  大正10年 1月  路面電車の専用橋として架設
    昭和46年 3月  高速道路の開通
    昭和47年11月  都電の廃止
    昭和50年 2月  歩行者・自転車専用橋として再整備
    昭和59年 4月  堅川河川敷公園の開園
    平成23年 9月  橋の撤去




案内板には、竪川人道橋の場所と都電の路線図が添えられています。



また、専用橋を走り抜ける都電の勇姿と人道橋になった後の橋の写真も添えられています。鉄橋が今にもドブ川に崩れ落ちそうに見えますね。



遊歩道の脇に、かって竪川専用橋を渡っていた都電の姿をモチーフにした欄干の模型が置かれています。デザインは素晴らしいのですが、作り込むには大変な手間がかかったことでしょう。紙切り細工でもできるかな?

竪川専用橋と竪川人道橋の歴史

かつてこの場所には、路面電車が走るための「竪川専用橋」が水神森〜大島間の開通に合わせ、大正十年一月より架設されていた。当初の運営は大正二年十月に設立された城東電気軌道(株)で、昭和十七年二月に東京市営、同十八年七月に都営となった。ところが、昭和二十年の大空襲により甚大な被害を受けた。しかし復興に努め、昭和二十四年には区内全域が開通した。「チンチン電車」と呼ばれて親しまれ、便利だった都電も昭和三十年代の高度経済成長政策の頃から、自動車交通の急激な発達により道路が渋滞し、輸送力低下による赤字決算の連続となった。その結果、昭和四十七年、区内全線が廃止された。そして、昭和五十年、この橋は歩行者専用橋として改修され「竪川人道橋」と呼ばれるようになり、同五十四年、橋の南北の軌道敷は緑道公園に生まれ変わった。以来、この橋は平成七年の景観整備工事にて都電をモチーフに修景され、地域の歴史を伝えるモニュメンタルな橋として地域に親しまれてきたが、老朽化が進んできたこともあり、竪川河川敷公園の大規模改修に合わせ一体整備されることとなり、平成二十三年に橋は撤去され、現在の姿となっている。なお、モニュメントのレールの一部は「25系統」の亀戸九丁目で使われていたものを再使用しており、車輪は当時の写真等を参考にオブジェとしてデザインされたものである。




遊歩道には線路の一部が再現され、引き込み線の先にはかって都電で使われていた車輪の複製が2組展示されています。



水神森交差点で左折して京葉道路に入ります。亀戸は激安&爆盛弁当の聖地らしく、ド派手な看板の弁当屋さんには全国各地から訪れる人があとを絶たず、熱狂的なリピーターが多いそうです。私もいつか海苔で包まれた1kgのブラックホールのようなお握りを食べてみたいものです。



亀戸駅の先に、京葉道路を高架で横断する鉄道があります。JR東日本が運行する総武本線の越中島貨物支線で、越中島貨物駅と小岩駅とを結んでいます。現在も運行されているとのことですが、私は列車が走っているところを一度も見たことがありません。



横十間川に面して巨大な箱形の建物があります。城東地区の医療の拠点である都立墨東病院です。昭和三十六年(1961年)に設立され、現在は765病床数の規模があります。尾身茂新型コロナウイルス感染症対策分科会長が研修医として勤務したことがあるそうです。



終点の錦糸掘車庫電停は現在の丸井錦糸町店前にあったようです。実は、丸井錦糸町店は城東地区における東京都交通局の一大拠点だった都電錦糸堀車庫跡に1983年9月に開店したのです。恐らくは、電停付近から車庫に引き込み線が延びていて、そこから出入りしていたのでしょう。



錦糸町駅南口広場に伊藤左千夫の詩碑と案内板があります。詩碑の意味は、「天気のよい日には庭でブランコ遊びをし、雨の日には家中をとどろかして大騒ぎしながら遊ぶ子供等よ。」ということらしいです。家族への温かい視線が感じられますね。なお、「とよもして」とは、「響して。なりひびかせて。声高く騒いで。」のことです。

よき日には
庭にゆさぶり
雨の日は
家とよもして
児等が遊ぶも

左千夫

伊藤左千夫牧舎兼住居跡

この地には、明治時代の歌人で小説家としても活躍した伊藤左千夫の牧舎と住居がありました。左千夫(本名幸次郎)は、元治元年(1864年)八月十八日、上総国武射郡殿台村(現在の千葉県山武市)に生まれました。明治十八年(1885年)から、東京や神奈川の七か所の牧場に勤めて酪農の知識を深めました。明治二十二年二十五歳のとき本所区茅場町三丁目十八番地(現在地)の牧舎と乳牛三頭を購入し、四畳半一間と土間のついた仮小屋を建て、乳牛改良社(茅の舎、デポン舎とも称した)を開業しました。随想「家庭小言」には開業当時の様子について、毎日十八時間の労働をしたことや、同業者の中で第一の勤勉家という評を得たことなどが書かれています。左千夫が歌の世界に入ったのは、明治二十六年ごろ同業の伊藤並根から茶道や和歌を学んだことがきっかけでした。明治三十三年三十七歳の頃には正岡子規の門下生となり、根岸派の有力な歌人として多くの作品を発表しました。また、子規没後の明治三十六年には、機関誌「馬酔木」を創刊。明治四十一年には後継誌「阿羅々木」(のちに「アララギ」と改題)を創刊して根岸派、アララギ派の中心となり、島木赤彦、斎藤茂吉など多くの歌人を輩出しました。小説では処女作でもある「野菊の墓」が知られています。この作品は政夫と民子の青春、悲恋を描き、近代文学の名作として読み継がれています。この地は低地で湿地が多く、水害がたびたび発生しました。写生文「水害雑録」には、明治四十三年八月十二日の水害時における家族や乳牛の避難といった当時の苦労が記されています。経営の問題から、明治四十五年に南葛飾郡大島町(現在の江東区大島)に牧舎を移し、程なくして茶室「唯真閣」(現在は千葉県山武市に移築)を残して家族とともに転居しました。大正二年(1913年)七月三十日五十歳で没しました。隣に立つ「よき日には」の碑は、昭和五十八年(1983年)に「伊藤左千夫記念会」が建てたものです。刻まれている歌は、明治四十一年十月「阿羅々木第一巻第一號」の「心の動き二」に掲載した一首で、家で遊ぶ子供たちの様子を詠んだ作品です。親として子供に寄せる左千夫の思いがうかがわれます。




という訳で、都電38系統跡の歩きを終えます。折角なので、丸井錦糸町店の地下に2017年にオープンしたジャパンミート生鮮館で食料品の大量買いをして帰るとしますかね。ちなみに、ジャパンミート生鮮館は「肉のハナマサ」を傘下にしていることもあって、松阪牛やイベリコ豚などの高級肉も販売されています。都電歩きの後でイベリコ豚のしゃぶしゃぶが頂けるのも何かの縁ですかね。




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