- 都電39系統跡コース
- コース 踏破記
- 今日は都電39系統跡を歩きます。都電39系統は早稲田から厩橋までを結び、その路線は主に新目白通り・目白通り・【白鳥橋交差点〜安藤坂〜電通院前交差点は一般道】・春日通りを通っていました。都心を東西に横断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。
都電39系統
都電39系統の全長は7.3kmで、昭和43年9月29日に廃止となりました。
都電39系統の電停(路上の駅)は、早稲田・早稲田車庫・関口町・鶴巻町・江戸川橋・石切橋・大曲・伝通院・富坂二丁目・春日町・真砂町・本郷三丁目・春木町・天神下・広小路・御徒町三丁目・西町・竹町・小島町・三筋町・桂町・厩橋でした。
早稲田電停は三ノ輪橋電停のように、乗車と降車で線路が分かれていないので、ホームがやけに長くなっています。1本の線路の両側にホームがあり、それぞれ乗車専用と降車専用になっています。ラッシュ時には乗り降りの操作で運転手さんも忙しいでしょうね。早稲田電停は新目白通り上にあります。新目白通りは目白通りのバイパスとして計画され、昭和五十九年に全区間が開通した比較的新しい道路です。ただ、早稲田電停から江戸川橋電停までは、大正七年(1918年)に東京市電が開業していました。それまで徒歩通学しか手段のなかった早大生には大きな恵みになったそうです。
江戸川橋交差点に着きました。新目白通りはここで終点となり、この先の大曲電停までの短い区間は目白通りを進みます。かって、神田川は江戸川と呼ばれていました。この「江戸川」という地名は千葉県と東京都の境を流れる江戸川とは別物で、現在の神田川の一部、飯田橋付近(船河原橋)から関口大洗堰(現在の大滝橋)までの区間が「江戸川」と呼ばれていたことの名残りです。
江戸川橋の袂に旧町名案内板が立っています。大洗堰は江戸川橋の直ぐ上流にある堰です。井の頭池を源流とし、途中で善福寺川と妙正寺川を合わせた神田上水は関口の大洗堰で水位をあげ、白堀(開渠:蓋のない地上の水路)で水戸上屋敷に入り、そこから地下に埋設された樋を使って神田や日本橋方面に給水されていました。
旧関口水道町
むかし、関口村の内であった。鷹匠細田加右衛門他2名の知行所であったが、延宝年間(1673年〜1681年)以前から村方町屋となった。貞亨二年(1685年)町屋が許され、町奉行、代官両支配となった。そして、武蔵国豊島郡関口水道町となる。明治五年、造兵司(江戸末からの大砲製造所−明治二年政府の東京関口製造所と改称、明治三年竹橋内吹上に移転、砲兵工廠の前身)や武家屋敷地その他を併せた。明治十一年、小石川区に編入した。江戸時代に水番所があり、大洗堰の神由上水の水門の差蓋揚卸の役を勤めていた。上水の管理運営にあたる人が住んでいたので、水道町の町名ができたといわれる。
江戸川橋北詰の左手に江戸川公園があります。目白台の高台の突端部がすぐ北側に迫り、台地の斜面には雑木林が自生し、江戸川沿いには桜並木が続いています。この辺りの神田川流域は、明治四十三年に大洪水に見舞われ、その後の大正二年から大正八年にかけて大掛かりな護岸改修工事が行われました。江戸川公園の開園は護岸改修完了後の大正八年で、昭和五十九年には神田川の拡幅工事に伴い、再び改修されました。
公園の入口広場にある公衆トイレ(素晴らしく綺麗)の目隠板に近隣の名所が紹介されています。
@肥後細川庭園
熊本藩主細川家の下屋敷で、1882年に細川家の本邸となった地です。起伏の変化を利用した回遊式泉水庭園で、素朴さの中に江戸時代の武家庭園の面影をとどめています。
Higo-Hosokawa Garden
This was the suburban residence and became the principal residence in 1882 of Hosokawa family who was the feudal lord of Kumamoto. This circuit style garden utilizes the ups and downs and still keeps the Edo period Samurai garden in simplicity.
A松聲閣
旧熊本藩細川家の学問所として使用されていました。現在の建物は、歴史性を活かして保存・修復を行うとともに、耐震性を確保し、平成二十八年にリニューアルオープンしました。
Syouseikaku
It was used as a school of Hosokawa family who was the feudal lord of Kumamoto. This building reopened in 2016 after completing the preservation renovation and acquiring the earth-quake resistance without losing historicity.
B関口芭蕉庵
江戸時代を代表する俳人・松尾芭蕉は、1677年からの3年間、神田上水の改修工事に携わり、この地の「水番屋」に住んだといわれています。後に芭蕉を慕う人々により「龍隠庵」という家が建てられました。
Sekiguchi Basho Hut
Matsuo Basho who represents haiku poet of Edo period is said to have been involved in the renovation work of Kanda-Waterworks for 3 years from 1677, and lived in "Mizu-Banya" here at this place. People who worshiped him later built a house called "Ryuin-Ann" here.
C永青文庫
熊本藩主細川家の下屋敷跡です。刀剣や美術工芸品など、細川家伝来の文化財と16代護立氏のコレクションを収蔵し、展示公開しています。国の重要文化財クラスも数多く所蔵しています。
Eisei-Bunko Museum
The former residence of Hosokawa family who was the feudal lord of Kumamoto was located here. The collection of the museum includes important cultural heritages Ilike swords and arts of Hosokawa family as well as collections of the 16th lord Moritatsu. There are a lot of nationally important cultural properties.
D野間記念館
講談社創業者の野間清治氏が収集した「野間コレクション」や出版文化資料を中心に、珠玉の作品が展示されています。季節を彩る庭も見どころのひとつです。
Noma Memorial Museum
Here, works of art mainly from "Noma Collection", which was gathered by Seiji Noma who was the first president of Kodansha, and publication culture assets are exhibited. The garden, to show case the four seasons, is also a must-see.
E成瀬記念館
赤煉瓦のロマネスク調の記念館では、日本女子大学創立者・成瀬仁蔵の生涯を紹介する常設展に加え、企画展も随時開催しています。
Naruse Memorial Hall
This is a Romanesque memorial Hall of red Brick, In addition to the permanent exhibition to introduce the life of Jinzo Naruse, the founder of Japan Women's University, planned exhibition is also held time to time.
F鳩山会館
1924年に政治家・鳩山一郎が建てた鳩山家の洋館です。ハトをモチーフにしたステンドグラスとバラが美しい庭は必見です。
Hatoyama Hall
Ichiro Hatoyama, a politician, constructed this Western-style house in 1924. The beautiful garden with a pigeon motif stained glass and roses is a must-see.
G東京カテドラル聖マリア大聖堂
ドイツ・ケルン市の信者たちの寄進をもとに、1964年に丹下健三の設計で建造されました。ステンレス・スチール張りの外装で、内部には1本の柱もないというユニークでダイナミックな造りです。
St. Mary's Cathedral Tokyo
It was constructed after Kenzo Tange's design in 1964, on the basis of donations by believers in Cologne, Germany. The structure of the building is dynamic and unique with stainless-steel-walled exterior, and there is no pillar inside.
Hホテル椿山荘東京
起伏に富み、山の造形美を誇るこの庭園は、推定樹齢500年の椎の木、100種1,000本の椿の他、桜やモミジなどの木々が茂り、さながら森のような都会のオアシスです。 国登録有形文化財の三重塔や、伊藤若沖下絵の羅漢石など、木・石造の史跡も点在しています。
Hotel Chinzanso Tokyo
This hilly garden reminds one of the beauty of mountains. In this urban oasis, you feel like you are in the woods with a vertebral tree estimated 500 years old, 1,000 camellia trees of 100 different kinds, cherry blossoms and maples. There are also historical sites made of wood and stone, such as the national registered three-story pagoda and the Rakanseki by Jyakuchu Ito.
I水神社
言い伝えによれば、水神が八幡宮社司の夢枕に立って、「我水伯(水神)なり、我をこの地にまつらば堰の守護神となり、村民をはじめ江戸町ことごとく安泰なり」と告げたため、ここに水神を祀ったという神社です。
Sui Shrine
According to the legend, God stood in the Hachiman Shrine's Chief Priest's dream, and said "I'm Water God, If you enshrine me at this land, I'll be the Weir's Guardian God and save the town of Edo and the villagers" , And thus, this shrine was built here.
江戸川公園に入りますと、目白台の高台の突端部がすぐ北側に迫り、川沿いの桜を中心に緑が多くなっています。このあたりの神田川流域は、明治四十三年に大洪水に見舞われたといわれますが、その後の大正二年から大正八年にかけて大掛かりな護岸改修工事が行われました。江戸川公園の開園は、護岸改修完了後の大正八年で、早稲田方面への電車の開通とほぼ同時期ということになります。公園の中に記念碑が建っています。
目白台・関口の歴史 〜川の歴史に思いをはせる〜
大井玄洞の胸像
かつて江戸川と呼ばれていた神田川は、たびたび洪水をおこし、沿岸の人々にとって治水事業は、永年の願いでした。明治四十三年(1910年)の大洪水の後、大井玄洞(1855年〜1930年)は人々の願いをかなえるため、治水に尽力しました。大正二年(1913年)に護岸工事着手し、大正八年(1919年)に完成させています。人々は、この治水事業の功績を称え、昭和三年(1928年)神田川沿いの江戸川公園の当所に玄洞の銅像を建てました。
神田上水
日本最古の神田上水(神田川)は、徳川家康の命により大久保藤五郎によって開かれました。井の頭池を水源とし、下流の大滝橋あたりに大洗堰を築き、水位を上げて上水を水戸屋敷に入れ、樋で地下を神田や日本橋方面に流しました。園内の左手を進むと、石組みの池を見ることができます。その石組には、大洗堰の石柱を使用しています。更に、先を進むと「関口色蕉庵」や「水神社」に出会うことができます。「関口芭蕉庵」は、神田上水の改修工事に携わった松尾邑蕉が「龍隠庵」と呼ばれる水番屋に住んだといわれ、これがいつしか「関口芭蕉庵」と呼ばれることになったそうです。「水神社」は、いい伝えによれば、水神が八幡宮社司の夢枕に立って、「我水伯(水神)なり、我をこの地にまつらば堰の守護神となり、村民をはじめ江戸町ことごとく安奏なり」と告げたため、ここに水神を祀ったといわれています。
江戸川橋から下流の神田川には、比較的短い間隔で橋が並びます。華水橋・掃部橋・古川橋と過ぎると、次が石切橋で橋の南詰に石切橋電停がありました。石切橋は、寛文年間(1661年〜1673年)の架橋といわれる古い橋で、このあたりの橋としては最も幅員の広い橋だったことから江戸期には大橋とも呼ばれたようです。「石切」とはすなわち石工のことで、付近にそうした職人が住んだことによるとされています。石切橋を渡ると、すぐ右手にうなぎ店「はし本」があります。江戸後期から明治期にかけてこのあたりの神田川沿いには多数のうなぎ店が軒を連ねたことで知られ、中でも「はし本」は江戸期からの老舗で、看板には「うなぎ」と書かずうなぎの姿を模した「う」の文字だけを書くのが伝統でした。
石切橋の由来
この橋は、江戸時代の初期、寛文年間(1661年〜1673年)に架けられたといわれ、かつてこの橋の周辺に石工が住んでいたことからその名がついたともいわれますが、定かではありません。明治時代中頃の記録によれば、この橋は長さ8間半、幅3間(およそ長さ15m、幅5m強)の木橋で、当時この付近では最も幅が広く大きい橋でした。中流域にあたるこの付近では、昭和四十年くらいまで神田川を「江戸川」という名で呼んでおり、この橋も元は江戸川大橋と呼ばれていたそうです。
石切橋を過ぎると神田川が区の境界となり、右岸側が新宿区、左岸側が文京区となります。石切橋の次の橋が西江戸川橋です。江戸川橋から東に位置するのに「西」とは不思議ですが、橋名は神田川左岸に昭和三十九年まで西江戸川町の町名があったことに由来します。神田川には江戸川の別称がありましたが、この先の大曲から下流方向の川沿いにはかつては江戸川町の町名があり、その西隣りということで西江戸川町となりました。橋の袂に案内板が立っています。案内板には明治期の地図が添えられています。
西江戸川橋の由来
この橋は、明治後期の資料によると、西江戸川町(現在の文京区水道二丁目)と牛込五軒町(現在の新宿区西五軒町)との間に架けられた木橋であったそうです。橋が架けられた時期などは定かではありませんが、橋の名はこうした地名に因んで付けられたものと推察されます。また、明治初期の資料にはこの橋の記載はありませんが、明治二十年(1887年)頃の地図ではこの橋と見られる橋が、現在よりやや上流に記されています【左図参照]。
西江戸川橋の次は小桜橋で、その次が中之橋です。明治時代には、この付近の両岸は桜の名所だったそうです。案内板には当時の写真も添えられています。
中之橋の由来
この橋が架けられた時期は明確ではありませんが、江戸時代初期に(1670年頃)刊行された「寛文江戸図」の中には無名ながらこの橋を見つけることができます。当時はまだ現在のようにたくさんの橋はなかったので、この橋が下流側の隆慶橋と上流側の石切橋の間にあることになり、「中之橋」と名が付けられたといいます。明治時代中頃、この橋を挟む両岸一帯に桜が植えられ、明治末頃まで、東京市内屈指の桜の名所として知られていました。
神田川を斜めに渡す新白鳥橋を過ぎると神田川は大きく右へ急カーブし、その曲がり角に架かる白鳥橋の袂に大曲電停がありました。都電39系統は白鳥橋を渡った後、安藤坂を登り、電通院前交差点を右折して春日通りに入っていきました。白鳥橋付近は古くから大曲と俗称されましたが、これは文字通り神田川の急カーブに由来する地名です。明治期までは、白鳥橋も大曲橋と呼んだようで、大正初年からの護岸改修工事で橋の架け替えが行われ、白鳥橋と改められました。この付近は神田川左岸の小日向台地と右岸の牛込台地に挟まれた谷地ですが、古くはここに白鳥池と呼ばれた大きな沼があり、明暦三年(1657年)の大火の後に埋め立てられ、その後に町家や武家地に変わっていったといわれます。白鳥橋からTOPPAN(凸版印刷)本社のビルが望めます。国内印刷業界2強(凸版印刷と大日本印刷)の一角で、世界最大規模の総合印刷会社です。大蔵省印刷局でエドアルド・キヨッソーネの部下だった木村延吉と降矢銀次郎が出資者を募ったのが始まりで、社名の「凸版」は創業当時に最新鋭であった銅凸版印刷技術(別名・エルヘート式凸版印刷)を前面に出すためにつけられたものです。「印刷テクノロジー」をベースにした「情報コミュニケーション事業分野」・「生活・産業事業分野」および「エレクトロニクス事業分野」の3分野にわたる幅広い「拡印刷」事業活動を展開しています。
「大曲」は、交差点だけでなく交番の名前にも残っています。
白鳥橋の袂に橋の由来を記した案内板が立っています。
白鳥橋の由来
この付近で神田川の流れは大きく曲がっていたために、江戸時代には大曲と呼ばれていました。明治十九年(1886年)にはここに「大曲橋」が架けられていましたが、その後架け替えられ、白鳥橋という名が付けられました。これはかつてこのあたりに、白鳥池という大きな池があったことからといわれています。
白鳥橋を渡った先のビルの裏手に小さなスペースがあり、そこに同人社跡の案内板が立っています。
都指定旧跡 同人社跡
中村正直(1832年〜1891年・号敬宇)が明治六年、邸内に私塾「同人社」を開いた。この洋学塾は慶応義塾(福沢諭吉)・攻玉社(近藤真琴)の三大私塾の一つで、全国から多くの人材が集まった。正直は天保三年江戸に生れ、昌平坂学問所に学び、学問所教授方になりイギリスに渡る。明治元年帰国「スマイルズ」の自助論を訳し「西国立志篇」を著わし、青年層に大きな影響を与えた。明治五年大蔵省に入り、明治六年同人社設立、明六社にも参加し、啓蒙思想に力をつくした。東京女子師範学校長、東大教授、元老院議官、貴族院議員など歴任した。教えを受けた人は多く、岡倉天心、嘉納治五郎、井上哲次郎等各分野にわたり、著書も多く、「江戸川の聖人」といわれた。
目白通りの大曲交差点から大きなカーブを描いて伝通院へと登っていくのが安藤坂です。安藤坂の名前の由来は、江戸時代に坂の西側に安藤飛騨守(紀州藩家老)の上屋敷があったことに因みます。当時は「安藤殿坂」とも呼ばれ、伝通院へと真っ直ぐ続く参道となっていました。安藤坂が急坂だったため、明治後期に路面電車を通す際にループ式にしないと坂を登れず、新たに開削して今のようなカーブになったとのことです。
安藤坂の坂上にある文京区立第三中学校の入口横にも同じような内容の案内板が立っています。
安藤坂
この坂は伝通院前から神田川に下る坂である。江戸時代から幅の広い坂道であった。傾斜は急であったが、明治四十二年(1909年)に路面電車(市電)を通すにあたりゆるやかにされた。坂の西側に安藤飛騨守の上屋敷があったことに因んで、戦前は「安藤殿坂」、戦後になって「安藤坂」とよばれるようになった。古くは坂下のあたりは入江で、漁をする人が坂上に網を干したことから、また江戸時代に御鷹掛の組屋敷があって鳥網を干したことから「網千坂」ともよばれた。
安藤坂の途中に旧町名案内板が立っています。
旧町名案内 旧大和町(昭和三十九年までの町名)
もと、北野神社(金杉天神・牛天神とも)の境内で、寛文八年(1668年)町屋を起こし、小石川龍門寺門前町と称した。明治元年、大和町と改め、同五年天神下白堀通り(神田上水の堀のある通り)および社寺を併せた。町内の神社について「江戸志」に次の記事がある。寿永元年(1182年)源頼朝東国平定のとき、船を現在の北野神社の崖上の松につなぎ、風波の静まるのを待った。一夜、頼朝は夢を見た。菅神(菅原道真)衣冠正しく牛に乗り、「二つの幸福あるべし」と告げた。その後、長子の誕生と平氏の滅亡があった。頼朝大いに感じてここに神社を創建した。これが北野神社のおこりである。
安藤坂の東側の歩道を登っていくと、プレートが歩道に埋め込んであります。明治十九年(1886年)頃、五千円札の肖像にもなっている樋口一葉は、安藤坂にあった中島歌子主宰の歌塾「萩の舎」で学んでいました。一葉一家はその頃菊坂下道の借家に住んでいましたが貧乏だったため、一葉は「萩の舎」で住み込み女中をしながら勉強していたそうです。
萩の舎跡
塾主中島歌子(1844年〜1903年)は、幼名を「とせ」といい、武蔵国入間郡森戸村(一説に江戸日本橋)で生まれた。夫である水戸藩士の林忠左衛門が天狗党に加わって獄死したため、江戸にあった実家の旅人宿池田屋にもどった。その後歌子は、桂園派の和歌を加藤千浪に学び、実家の隣に歌塾萩の舎を開いた。御歌所寄人伊藤佑命、小出桑の援助で、おもに上・中流層の婦人を教え、門弟1000余人といわれた。歌集に「萩のしづく」などがある。明治三十六年(1903年)歌子の死去と共に萩の舎は廃絶した。樋口一葉(1872年〜1896年)は、父の知人の紹介で14歳の時、萩の舎に入門した。明治二十三年(1892年)18歳の時、内弟子となり萩の舎に寄宿したこともあった。佐佐木信綱は、姉弟子の田辺龍子(三宅花圃)、伊東夏子と一葉の三人を萩の舎の三才媛と称した。一葉はここで、歌作と歌を作るため必要な古典の読解に励んだ。田辺龍子の「藪の鴬」の刊行に刺激されて近世・近代の小説を読み、半井桃水に師事して、処女作「闇桜」(明治二十五年)を発表し、小説家の道に進んだ。近くの牛天神北野神社(春日1−5−2)境内に中島歌子の歌碑がある。
安藤坂の坂上の先に電通院の山門があります。伝通院の正式名称は無量山伝通院寿経寺といいますが、今も昔も寿経寺の名ではどこの寺だか分からないほど伝通院の名が広く浸透しています。電通院の寺名は徳川家康の生母・於大の方に因んでいます。慶長七年(1602年)8月に於大の方が京都伏見城で死去しました。翌年、家康は母の遺骨をこの地に埋葬し、現在まで残る墓を建立しました。そして於大の方の法名「伝通院殿」にちなんで院号を伝通院としました。境内には徳川家縁の女性や子供(男児)が多く埋葬されています。墓地には巨大な墓石が幾つも並んでいます。
富坂の坂上に中央大学理工学部の校舎が建っています。以前は校舎の屋上にくるくる回る奇妙な装置がありましたが、現在はアンテナらしきものが上空をにらんでいます。大学のHPによれば、気象センサーや全天カメラなどのスカイモニターを納めたミニドームらしいです。くるくる回っていた装置も気象レーダーか何かだったのでしょう。
中央大学理工学部から文京区役所が入る文京シビックセンターの手前までの割と急な下り坂が富坂です。その横手に礫川公園があります。石垣の前に2枚の案内板が立っています。
旧小石川町
京都聖護院門跡道興准后が、「廻国雑記」(文明十八年・1486年)に次のことを書いている。「ここ(上野忍岡)を過ぎて小石川と言へる所にまかりて、我方を思ひ深めて小石河いつをせにとかこひ渡るらん」。また、「江戸砂子」(享保十七年・1732年)に、「小石多き小川が幾流もある故なり・わけて伝通院の後の流、ねこまた橋の川筋小石川の濫觴(らんしょう:物事の起こり・始まり・起源)なり」とある。むかし、千川(小石川)、江戸川(神田川)や周囲の高台から流れた細流が、現在の後楽園一帯で合流していた。これらの川は砂や小石が多かったので、この辺を小石川村と呼んだ。明治五年、小石川町とした。
富坂
「とび坂は小石川水戸宰相光圀卿の御屋敷のうしろ、えさし町より春日殿町へ下る坂、元は此処に鳶多して女童の手に持たる肴をも舞下りてとる故とび坂と云」と「紫一本」にある。鳶が多くいたので、鳶坂、転じて富坂となった。また、春日町交差点の谷(二ヶ谷)をはさんで、東西に坂がまたがって飛んでいるため飛坂ともいわれた。そして、伝通院の方を西富坂、本郷の方を東富坂ともいう。都内に多くある坂名の一つである。この近く礫川小学校裏にあった「いろは館」に島木赤彦が下宿し、“アララギ”の編集にあたっていた。
「富坂の冬木の上の星月夜 いたくふけたりわれのかへりは」
島木赤彦(本名 久保田俊彦 1876年〜1926年)
富坂を下ったところに文京区役所電停がありました。現在文京シビックセンターが建っている場所には、かって文京公会堂が建っていました。文京公会堂は、昭和三十四年(1959年)に開催された「第1回日本レコード大賞」の授与式や1970年代の人気番組である「8時だヨ!全員集合」の生放送会場としても使用されていました。ちなみに、第1回日本レコード大賞は水原弘が歌った「黒い花びら」でした。
春日町交差点で白山通りと交差します。大塚仲町から併走してきた都電17系統はここで白山通りへ右折し、数寄屋橋方面へと向かいました。都電17系統の線路は交差点のかなり手前で春日通りから右へ分岐し、交差点の南西角に三角形のスペースを作り出していました。これが待機場所の役目も果たしたようで、三角形の真ん中には電車を捌く信号塔が立っていました。その跡地でしょうか、現在でもかなり広い三角形の緑地があり、そこに大きな石と案内板が置かれています。
神田上水の石樋の石
ここに使われている石は、江戸時代に神田上水で使われていた石樋の一部で、昭和六十二年、外堀通りの工事中に現在の水道橋付近から発掘されたものです。神田上水とは近世都市の江戸で最初に整備された上水道であり、コ川家康が江戸入りと同時に造らせたと言われています。水源となる井の頭池の湧水を、大洗堰(現在の文京区関口)を経てから水戸屋敷(現在の小石川後楽園一帯)に入れ、そこから先は暗渠(地下の樋)で通しています。この暗渠で使われていたのが、石樋(石で作った樋)です。なお、お茶の水坂からは、掛樋(木で作った樋)で神田川の上を横断させて、神田・目本橋方面に飲料水として給水されていました。
春日町交差点を谷底として、春日通りは前後が坂道になっています。電通院から下りてくる坂は「富坂」ですが、本郷に向かって上る先は「真砂坂」と呼ばれます。坂下に案内板が立っています。
東富坂(真砂坂)
本来の「東富坂」は、この坂の南を通る地下鉄丸ノ内線に沿った狭い急坂である。現在は、「旧東富坂」と呼んでいる。もともとの坂は江戸の頃、木が生い繁り、鳶がたくさん集ってくることから「鳶坂」といい、いつの頃からか「富坂」と呼ぶようになったという。現在の東富坂は、本郷三丁目から伝通院まで、路面電車(市電)を通すにあたり、旧東富坂上から春日町交差点まで新しく開いたゆるやかな坂道である。この市電は、明治四十一年(1908年)4月11日に開通した。現在、文京区役所をはさんで反対側にある坂を、「富坂(西富坂)」と呼び区別している。
本郷三丁目交差点で本郷通りと交差します。この地域はかって本富士町と呼ばれていました。
旧町名案内 旧本富士町
徳川家康の江戸入り後、この地を藤堂高虎に賜り、後元和の頃(1615年〜1624年)加賀藩主前田利常に賜った。その後、加賀屋敷の東部を富山、大聖寺の両前田支藩の屋敷とした。明治四年、三邸とも文部省用地となった。明治五年、初めて町名を定め、駒込富士浅間神社が元ここにあったので本富士町とした。町内の大部分は東京大学の構内である。加賀屋敷の遺跡は、現在三四郎池(旧前田家の庭園育徳園心字池)と赤門(御守殿門)などがある。”加賀門をも一つつける御注文”(古川柳)赤門は家斉将軍の娘溶姫が、前田斉泰に嫁
入りしたときに造られた。
もうひとつ、町名案内板がフェンスに掛けられています。
旧本富士町(昭和四十年までの町名)
元和(1615年〜1624年)のころ、この地は加賀藩主前田利常に賜わった。その後加賀屋敷の東部は、富山・大聖寺両支藩の屋敷になった。明治四年、三邸とも文部省用地となった。後大部分が東京大学の校地になった。明治五年、町名を本富士町とした。駒込富士神社が元ここにあったからである。
建物の間の細長い一画に小さな社はあります。社名は分かりませんが、かっての富士浅間神社の末裔なのでしょう。
富士浅間神社
かつてこの地は明治五年(1872年)から昭和四十年(1965年)まで「本富士町」という町名であった。加賀藩本郷邸の跡地にたつ東京大学本郷キャンパスにおいて、その名残を今にとどめる赤門を入って右手に、かつて「椿山」と呼ばれる小丘があった。江戸時代、「椿山」は「富士山」・「富士塚」などと呼ばれ、富士浅間神社が祀られていた。駒込富士神社(本駒込5−7−20)は、この本郷の富士浅間神社から勧請したという伝承を有し、そのことが「本富士町」という町名の由来ともなった。明治四年、本郷の富士山やその一帯は国に接収され、祀られていた富士浅間神社は旧加賀藩邸の南西一角に屋敷を構えた前田家の敷地内に移転した。前田家が昭和三年に駒場へ移転したのちは、地元の町会である本富士会(現在の本富士町会の前身)の管理下に移された。地域住民に守られるこの小さな社は、かつて本郷に「富士山」があったことを物語る唯一の場所である。
本郷三丁目交差点の脇から続く参道入口に「本郷薬師」の赤い門が建っています。路地の奥を更に右手に入った先にありますので、普段交差点を通る人の目には触れることはないでしょう。本郷薬師には、十一面観世音菩薩が立っておわしますそうです。
十一面観世音菩薩について
この奥、ホテル機山館の入口を過ぎて右折し二十米程歩くと露座の十一面観世音菩薩がおわします。一度拝んだら忘れられない穏やかなお顔にお会い出来ますので是非ご参拝下さる様御奨めいたします。平安時代末期(源氏、平家が争って居た頃)この辺りは殆ど人家の無い大変淋しい所であったようです。そこに一軒の古くからの薬師堂が在り、ここに滋覚大師が天台宗瑞泉院真光寺(現在は世田谷に移転)を草創されました。治安の悪かった当時の事とてご多分に漏れずこの辺りでも深刻な出来事や事件が時としてあったようです。やがて徳川時代となり将軍吉宗公の頃(1720年)全国六十六ヶ所の霊場に観音経を奉納する六十六部衆という組織がありました。其の人達が昔の哀れな犠牲者達を悼み近郷近在の庄屋、名主を説き寄付金を集め薬師堂の前にご招来申し上げたのがこの観音様であります。やがて人家もちらほら建ち始めたこの地にいつしか立派な門前町が出来上がり、御薬師様の繁栄と共に十一面観音様も本郷の名物となりました。時代が変わり明治元年新政府が神仏分離を出したのに伴い、寺院に対し全国的に排仏毀釈(仏法を廃し釈迦の教えを捨てよと言う思想)運動が起こり、各地で多くの寺院、経典、仏像が破壊され、この観音様も危うく全壊の憂き目を見るところでした。そんな迫害にも莞爾として耐え、人々よ人の道を誤るな、人の心を失うな、人こそ人の基なるぞと傷だらけの佛体を晒して人々を導かれました。そして第二次世界大戦末期の大空襲で東京はほぼ一面の焼け野原と化しましたが、幸いにも観音様は焼失を免れました。然し人心荒廃の巻で短期間ではありましたが仏難ともいえる(神仏無益論)の洗礼を受け、心無い人達の迫害で損傷を受けながら我々に正しい人間の在り方を訴えてこられました。穏やかなご尊顔を拝すたびに、私共がいかに慰められ勇気付けられたことでしょうか。ようやく戦後の復興も成った今日この頃、有志相集い仏体の損傷を修復し奉り、この地の鎮めとして観音様に御安座願い私共一同力を合わせ御護り申し上げる所存です。(観音様を信じることに依って得られる感情は、安心、希望、畏敬、感謝なのであります。)
本富士警察署・本郷消防署の先に麟祥院があります。春日通りに面した参道の入口には春日局の像が建っています。麟祥院は春日局の菩提寺なのです。像の後方には文京区の石碑が置かれています。碑文には文京区と春日局の縁が記されています。
文京区と春日局
文京区「春日」の地名は春日局が乳母として仕えた三代将軍徳川家光より拝領した土地に由来し昔は春日殿町とよばれていました。また春日局の菩提寺麟祥院が湯島にあり、文京区は春日局と歴史的に深い縁があります。昭和六十四年一月(1989年)より一年間NHK大河ドラマ「春日局」が放映されました。文京区ではこれを契機として「文京区春日局推進協議会」を設置し、区民の皆様と共に区内の活性化・地域の振興を図ることを目的として種々の事業を推進しました。ここに本事業を記念して春日局像を建立することにいたしました。
麟祥院の山門前には「春日局終焉之地」と書かれた石碑が建っていて、横に「春日局の墓」の案内板が置かれています。案内板には、「哲学館跡」についても記されています。東洋大学の前身である哲学館の創立者井上円了がお寺の建物を借りて学校を始めたと記されています。山門を入り、境内を抜けた先の墓地につながる通路の横には、「東洋大学発祥之地」と書かれた石碑も置かれています。都電16系統を歩いた際に春日局の墓前にご挨拶しましたので、今回は門前にて失礼します。
春日局の墓
春日局(天正七年〜ェ永二十年・1579年〜1643年)は、三代将軍コ川家光の乳母で名はお福。稲葉正成との間に三児をもうけるが、離婚し江戸城大奥に入る。慶長九年(1604年)家光(竹千代)が生まれるとその乳母となり、生涯家光に仕えた。この麟祥院は、寛永元年(1624年)春日局隱棲所として創建され、「報恩山 天澤寺」と称した。局の死後、寺は局の菩提寺となり、法名にちなみ「天澤山 麟祥院」と改めた。墓地奥にある局の墓は、無縫塔(「無縫」とは無形無相を意味し、卵形にかたどるという意味の仏語。墓石で台座の上に卵形の石塔婆をのせた形のものをいう。)で四方に穴が貫通した特異な形をしている。
哲学館跡
明治二十年(1887年)、この麟祥院内に「東洋大学」の前身である「哲学館」が創立された。創立者井上円了は、安政五年(1858年)越後国(新潟県)の寺に生れる。明治十八年(1885年)東京大学文学部哲学科卒業。2年後の明治二十年(1887年)9月16日、哲学諸科の教授を目的として、私立学校「哲学館」を境内の一棟を借りて開校した。哲学館では、授業以外に講義録を毎月3回発行して、今日でいう通信教育を行うなど哲学の普及につとめた。円了は大正八年(1919年)大連で逝去。享年61歳。
湯島天満宮は東京の代表的な天満宮であり、学問の神様として知られる菅原道真公を祀っています。受験シーズンには多数の受験生が合格祈願に訪れますが、普段も学問成就を願う人や修学旅行の生徒達で賑わっています。境内の梅の花も有名で、この地の梅を歌った藤原亮子・小畑実による湯島の白梅は戦中時の歌として大ヒットしました。歌のタイトルのように、境内の約300本の梅の木のうち約8割は白梅となっています。
湯島天満宮から湯島駅・御徒町駅方面に繋がる春日通りの緩やかな傾斜の坂は、湯島の台地から御徒町方面への交通の便を考え、新しく切り開いてできた坂なので、切通坂という名前が付けられました。初めは急な石ころ道でしたが、明治三十七年(1904年)に上野広小路と本郷三丁目間に電車が開通してから傾斜が緩やかになりました。映画の主題歌「湯島の白梅」で、"青い瓦斯灯境内を出れば本郷切通し"と歌われ、切通坂の名前は全国的に知られるようになりました。また、かって本郷三丁目交差点近くの「喜之床」(本郷2−38−9・新井理髪店)の二階に間借りしていた石川啄木が朝日新聞社の夜勤の帰り、通った坂でもあります。この地域の旧町名も「湯島切通町」という名前だったそうです。
旧町名案内 旧湯島切通町 (昭和四十年までの町名)
湯島神社の西側、春日通りを隔てて南北にあった。南部はもと棟梁屋敷といい、北部は切通片町と称した。棟梁屋敷は、大工棟梁十人の拝領地である。徳川家康の江戸入りのとき、遠州浜松から来て、江戸城修築工事に従事した者の子孫が、享保十二年(1727年)町屋とした。この頃は松原であったという。切通片町は、元和二年(1616年)幕府中間方22名の大縄拝領地(一括してもらう広い土地)で、切通坂に沿った片側町屋なので切通片町と呼んだ。明治二年、この両町を併せて切通坂町とした。町名は切通坂からとった。麟祥院前に猿が飴袋を持つ看板の飴屋猿飴があった。
切通坂を下りた先から上野広小路の商店街が続いています。その中に、かって足繁く通った六本木のデリーのお店があります。六本木のお店といっても2021年に閉店した東京ミッドタウン店ではありません。それよりず〜〜〜っと前の時代です。タンドールチキンとカシミールカレーの組み合わせが絶品でした。カシミールカレーは辛さが選べましたが、普通の人は辛さ1倍でもヒーヒー言いながら水をガブ飲みして食べていました。5倍の辛さを食べた人は激辛王として皆の尊敬を集めていました。10倍の辛さを食べた人は激辛の神として崇拝の対象になっていました。それ以上の辛さを食べた人は死神になっていました。デリーの創業は昭和三十一年(1956年)で、今や老舗のインド・パキスタン料理専門店といえます。創業者は富山県出身の田中敏夫さんで、第1号店がこの上野店でした。当時はカレー粉を使用していないカレー料理を提供する唯一のお店として開店し、インドカレーを連想しやすくするために、当時の日本人に馴染みのあったインドの首都の「デリー」を店名にしたそうです。
昭和三十一年創業 デリー発祥の地
昭和三十一年、デリーはこの地に産声を上げました。小さく目立たず洒落っ気のない上野店ですが、半世紀以上にわたり全国のカレーファンに愛され、また「カレーの聖地」として讃えられてきました。日本人が毎日食べても飽きないカレーを追求し、スパイスの香りと野菜や果物の甘み・旨みを絶妙にブレンド。インドカレーにデリー独自のアレンジを加えた、唯一無二のオリジナルカレーをご提供し続けています。カレー好きの方にこそ味わっていただきたい渾身の一皿を、これからも心を込めておもてなしいたします。
上野広小路交差点で中央通りと交差します。中央通り上を南北に都電1系統・都電20系統・都電24系統・都電30系統・都電37系統・都電40系統の6路線が走り、春日通り上の都電16系統・都電39系統と合わせると、実に8路線が通過する交差点となっていました。上野で有名な通りといえば、アメ横の愛称で知られる「アメヤ横丁」ですね。アメヤ横丁(正式名称は「アメ横商店街連合会」)は、御徒町駅と上野駅間の山手線・その他JR線の高架橋西側と高架下の約500m〜600mを中心に約400店舗を有する商店街です。「対面販売で交渉次第で更にお安く!!」がキャッチコピーです。商店街が「アメヤ横丁」という名称で呼ばれるようになったのにはふたつの説があります。第二次世界大戦直後、砂糖が手に入りにくかった時代にマーケットの周辺で露店を出した中国からの引揚者会が飴を販売し、甘味に飢えた人々の間で大好評を博したからとか、「芋あめ」を売る店が並んでいた(飴屋横丁)ためという説がひとつ。もうひとつは、アメリカ進駐軍の放出物資を売る店が多かった(アメリカ横丁)からという説です。現在でもアメヤ横丁問屋街には飴などの菓子類を売る店があります。
つくばエクスプレスの新御徒町駅に隣接して、春日通りから清洲橋通りに至る全長330mの佐竹商店街があります。アーケード入口のゲートには、ふくろうのマスコットキャラクターが大きな目を見開いて買い物客を呼び込んでいます。ふくろうはアーケード内の支柱にもずらりと並んでいます。佐竹商店街は日本で二番目に古い商店街だそうです。明治から続く由緒ある商店街には衣料品店が目につきますが、昔は古着を扱う店舗が多かったからだということです。衣料品店の他にも、肉屋・青果店・靴店・玩具店・茶舗・煎餅屋・日用品店・文具店・甘味処など、多彩なお店が軒を連ねています。下町らしく、風鈴や手作り傘の店といったお店もあります。商店街の名前の由来は、明治初年に秋田藩の佐竹家屋敷跡に見せ物小屋・寄席・飲食の屋台等が並び、盛り場として賑わい、下町情緒豊かな商店街として発展を続けてきたことに因みます。ちなみに、喉の薬として知られる龍角散は佐竹家の家伝薬だったそうです。
江戸通りと厩(「厠:かわや」ではなく、うまやです)橋交差点で交差します。交差点の先に、年代物のレジスター機器をショーウインドウに並べたお店があります。ウインドウに書かれている「TECレジスター」とは、東芝テック製のレジスターのことのようです。東芝テックは、社名・企業形態に変遷はありましたが、大正時代に国内初の金銭登録機を発売した会社です。なお、「TEC」とは旧社名の東京電気(Tokyo Electric Company)の略称です。POS(販売時点情報システム)システムを中心とするリテールソリューション事業を展開しています。国内外でPOSシステムのトップシェアを誇っています。ここは販売店みたいですが、年代物のレジスターが並んでいたので博物館かと思いました。
厩橋は三連のタイドアーチからなる橋です。現在の橋は関東大震災後に復興事業として架けられました。蔵前と本所を渡した厩橋は明治時代に初めて架けられましたが、江戸時代には渡船が往き来していました。この付近の隅田川沿いの河岸地を御厩河岸と呼びましたが、これは幕府の厩があったことによるもので、江戸っ子は御厩を「おんまい」と発音したといわれています。初代の厩橋は木橋で、明治二十八年から二代目の鉄橋となり、その10年後の明治三十八年から電車が橋を渡るようになりました。アーチは架線を取り付けるには便利そうに見えますね。
ポールの台とか橋の欄干には、馬の飾りが付けられています。厠(かわや)と誤読する人が絶えないからなのでしょう。
厩橋の石碑には、橋の由来が記されています。
厩橋
厩(うまや)の名は、浅草の御米蔵に付属する御厩がこの地にあったことに由来する。ここには、”御厩(おんまい)の渡し”があり、地名としても、御厩(おんまい)河岸などと呼ばれていた。明治五年(1872年)に、渡し舟の転覆があって、地元の住民によって有料の木橋をかけることが計画され、明治七年(1874年)には実現した。その後、この橋は明治二十年(1887年)に東京府に寄附された。しかし、老朽化がひどかったため、明治二十六年(1893年)鉄製トラス橋にかけかえられたが、関東大震災(1923年)には橋床が焼失した。その後、復興事業の一環として、三連のアーチ形の橋が昭和四年(1929年)に完成、優美な姿を川面に映している。
都電39系統の終点がどこにあったのか分かりませんが、恐らく厩橋交差点から厩橋までの区間のどこかだったのではないかと想います。現在の都営大江戸線蔵前駅出入口A7辺りでしょうか?ただ、都電16系統の電停に、「厩橋」と「厩橋一丁目」のふたつがあり、都電39系統が厩橋の西詰で折り返していたという情報もありますので、厩橋交差点の手前にあったのかもしれません。
ということで、都電39系統跡の歩きを終えます。都電39系統の路線は、白鳥橋交差点〜安藤坂〜電通院前交差点の区間は他の都電と重なりませんでしたが、早稲田〜大曲の区間は都電15系統と、伝通院〜厩橋の区間は都電16系統と重なっていました。それでも、新しい発見がいろいろありました。都電の線路の敷設のために急坂を緩い勾配に造り変えたなど、当時の人達の先駆的な発想が面白かったです。
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