都電40系統跡コース(1)  

コース 踏破記  

今日は都電40系統跡を歩きます。都電40系統は銀座七丁目から神明町(旧町名:現在の本駒込四丁目)までを結び、その路線は主に中央通り・【広小路〜七軒町は専用軌道】・不忍通りを通っていました。都心を半円状に南北に縦断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。また、多くの都電がこの区間を重複して走っていました。  

都電40系統

都電40系統の全長は7.3kmで、昭和43年9月29日に廃止となりました。

都電40系統の電停(路上の駅)は、銀座七丁目・銀座四丁目・銀座二丁目・京橋・通三丁目・日本橋・室町一丁目・室町三丁目・今川橋・神田駅・須田町・万世橋・旅篭町・末広町・黒門町・広小路・上野公園・動物園・七軒町・宮永町・八重垣町・千駄木町・団子坂・駒込坂下町・道灌山・動坂町・神明町でした。


銀座の地名の由来は、江戸時代に設立された銀貨幣の鋳造所(銀座)にあります。駿府(静岡市)に置かれていた幕府の銀座が、慶長十七年(1612年)に江戸に移されて以来、これが地名として定着しました。「銀座」は一種の地域ブランドにもなっていて、全国各地には「○○銀座」と呼ばれる商店街がそこかしこに見受けられます。銀座七丁目交差点から都電40系統跡の歩きを始めます。



銀座七丁目の隣(新橋寄り)の銀座八丁目の中央通りに面した敷地に、地上12階建(塔屋1階)の「HULIC&New GINZA 8」という名称の商業テナントビルが建設されています(歩いた当時は建設中でしたが、2021年10月15日に竣工しました)。高さ約56m・延べ面積2459.55uの耐火木造と鉄骨造を組み合わせたハイブリッド構造で、12階建ての木造建築の商業ビルは日本初とのことです。デザイン監修は新国立競技場や高輪ゲ−トウエイ駅を手がけた隈研吾氏が担っています。銀座に木造の高層ビルとは素敵ですね。



銀座でビアホールといえば、銀座ライオンですね。ビールの本場ドイツ流のホールには格調高い雰囲気があります。

生ビールの殿堂としての風格

この建物は、昭和九年、当時の大日本麦酒株式会社の本社社屋として新築され1階でビヤホールを開店しました。建築設計者は、新橋演舞場などを設計した菅原栄蔵氏で、1階の内装は、直営ビヤホールということで特に力を入れて、独特の工夫をこらし、完成時には、建築の専門家を含めて多くの人々から絶大な称賛を受けました。壁面と柱に使用した2種類の色タイルは当時類例を見ないものであり、カウンター周りは、ドイツから輸入した大理石が使われています。正面と左右壁画には、初めて我が国でつくられたガラスモザイクの壁画を大小10面取り付けました。正面の大壁画は、タテ2.75m・ヨコ5.75m、約250色のガラスモザイクが使われています。ひとつひとつの小さなガラスモザイクの制作は、色調を整えるのに苦心をし、数百回の工程を経て約3年の日時を費やしたと言われています。この壁面に描かれているものは、ビール麦の収穫をする婦人たち、幸せの象徴であるアカンサスの花、そして遠くに見える煙突は当時の恵比寿ビール工場であると語られており、古代と現代を織り交ぜた、不思議かつ大変縁起の良い作品と言われています。戦後、約6年間米軍に接収され、米軍専用ビヤホールとして使用されましたが、昭和二十七年1月接収解除となり、再び庶民に愛されるビヤホールとして営業を再開しました。

This building was built in 1934. This beer hall was designed by Mr.Eizou Sugawara who was one of the best architects in Japan and it took three years to finish its construction. Colored tiles used for the walls and pillars were innovative in those days and marble imported from Germany was used for the counter. Ten wall paintings on both sides and the large painting in the front, for which glass mosaic tiles were used, were made after much trial and error. This beer hall, which has preserved the interior decoration of those days, has come to be loved as a symbol of "beer culture". This building was taken over by U.S. Army for 6 years and used as a designated beer hall for them until 1952. After the release, it restarted as a beer hall loved by all common people.




旧松坂屋デパートが建っていた敷地が再開発され、新しい商業施設のGINZA−SIXが誕生しました。オープン時に買い物ではなく見物に行ったのですが、あまりの豪華さに圧倒されました。屋上の遊歩道を備えたテラスからの銀座の街の眺めは格別です。



銀座には個性的な通りの名前があります。みゆき通りもそのひとつです。銀座にある高級クラブのママの名前に因んでいるのかと思っていましたら、全く違っていました。

1964年に開催された東京五輪の頃に、銀座にアイビールックの服を着た男性やロングスカートの女性が大きな紙袋を抱えて歩く「みゆき族」が誕生しました。皇居そばの日比谷公園から、銀座の中心部を抜けて築地市場の手前辺りを結ぶ「みゆき通り(全長約1.2km)」に因んだ名前です。しかしこの通りは元の名前を「山下橋通り」と言っていたそうです。戦争で幻となった1940年の東京五輪招致が決まったその数年前に、東京を世界に通用する美しい街にと考えた画家の藤田嗣治や詩人の西条八十などの文化人らが銀座を美化して世界に恥ずかしくない街にしようと企画しました。その結果、明治天皇が皇居から築地にあった海軍兵学校や海軍大学校の卒業式などに臨席する際に行幸路とされた道路を「みゆき通り」と命名しました。従って「みゆき」の漢字は「御幸」となります。銀座みゆき通りはこういった人々の熱意から生まれ、愛されて根付いた通りなのです。



花の銀座四丁目交差点にやってきました。晴海通りを境に京橋寄りの北側一帯が「銀座四丁目」にあたり、交差点の名称はこれに由来しています。晴海通りの新橋寄りの南側一帯は「銀座五丁目」となり、旧町名は「尾張町」でした。銀座四丁目交差点は、江戸時代は「尾張町四ツ辻」、昭和初期までは「尾張町交差点」と呼ばれていました。交差点を取り囲むように三越・和光本館・三愛ビル・銀座プレイスが建っています。銀座和光は、明治十四年(1881年)12月にセイコーの始祖である服部金太郎によって「服部時計店」として創業されました。本館の時計塔は銀座のシンボル的存在になっていて、時計台に設置された鐘楼からは店舗営業時間中の毎時0分にウェストミンスターの鐘を演奏して時刻数の鐘を鳴らしています。私は銀座四丁目交差点は何百回も通りましたが、鐘の音は一度も聞いたことはありません。



銀座通り(中央通り)に面して沢山の有名店が建ち並んでいますが、ミキモトもそのひとつです。ショーウインドウに飾られた真珠の首飾りは高貴なご婦人方を魅了していることでしょう。ミキモトの隣はフレンチのレカンのお店になっています。入口は隣ですが、お店はミキモトビルの地下にあります。ミキモトビルの建替えによって一時閉店していましたが、2017年に再オープンしました。お料理もさることながら、ワインの品揃えも素晴らしく、シャトー・ラ・ドミニクの奥深い味は今でも忘れられません。



銀座の地名には一丁目から八丁目までありますが、やはり、銀座四丁目は別格です。松屋本店は住所表記が銀座三丁目、三越銀座店の住所表記は銀座四丁目になっています。隣りあっていますが、路地ひとつで響きが随分と違ってきますね。ちなみに、俺の焼肉銀座9丁目店と俺のやきとり銀座9丁目店の実際の住所表記は新橋一丁目となります。架空の銀座九丁目を店名にするほど銀座ブランドへの拘りがあるんですね。



とあるビルの外壁に1枚の銅板プレートが埋込んであります。明治十五年(1882年)、大倉財閥の設立者である大倉喜八郎は「電灯がいかなるものか」を庶民に知ってもらうことが急務であると考え、日本で初めての電気街灯(アーク灯)を銀座二丁目の大倉組商会前に建設しました。このアーク灯は一般人が見た初めての電気の灯りでした。二千燭光といわれるその光源の明るさは大きな話題を呼び、「一にお天道様、二にお月様、三に銀座のアーク灯」と例えられるほどで、大勢の見物客が連夜つめかけたと言われています。その後、昭和三十一年(1956年)に電気街灯建設の地の記念灯としてアーク灯が復刻され、以降1972年・1986年と老朽化による改装を重ね、大倉本館ビルの建て替えに合わせ4年ぶりに再建されたのがこの4代目の記念灯となります。ブロンズのプレートに彫り込まれているのは、当時の様子を描いた錦絵「東京銀座通り電気灯建設之図」です。

東京銀座通電氣燈建設之圖

明治十五年11月、こゝに(初)めてアーク灯をつけ不夜城を現出した。当時の錦絵を彫刻してその記念とする。




銀座一丁目の外れ近くにきらびやかなビルが建っています。銀座・有楽町の商業施設の建設ブームの先駆けとなり、2014年10月30日にオープンした「KIRARITO GINZA(キラリトギンザ)」という名前の商業施設です。「ブリリアント ライフステージ」というキーワードを軸に、人生において「キラリと輝く瞬間」である結婚式の式場が入る商業施設として「銀座で最も幸せな場所」となる願いを込めて命名されました。銀座通りの建物では前例がない100平方メートルのオープンテラスを4階部分の通り沿いに設け、エリア最大の屋上ガーデンが設けられています。ダイヤモンドのブリリアントカットをモチーフに、光の反射で時間とともに表情を変えるファサード(建物の正面)とし、建物全体がキラキラと輝く演出が施されています。地下一階には、「俺のフレンチ」と「俺のイタリアン」のお店が向かい合っています。気分によってフレンチかイタリアンが選べていいですね。



京橋は、かって江戸城の外濠(現在の西銀座ジャンクション付近)から楓川・桜川の合流地点(現在の京橋ジャンクション付近)までを流れていた長さ約0.6kmの京橋川に架かっていた橋です。現在は埋め立てられた京橋川の跡地に東京高速道路が高架で通っていますが、銀座通りと交差する地点に京橋の親柱が3体保存展示されています。2体は銀座通りの東側、1体は西側に置かれています。この日は西側の歩道を歩きました。親柱の横に案内板が立っています。

京橋の親柱

京橋は、慶長八年(1603年)の創建とされる日本橋とほぼ同時期に初めて架けられたと伝えられる歴史のある橋です。昭和三十八年から昭和四十年にかけての京橋川の埋立て工事に伴って撤去されましたが、その名残りを留めるものとして、石造の親柱二基と、石およびコンクリート造の親柱一基が残されています。このうち、二基の石造親柱は、明治八年(1875年)に石造アーチ橋に架け替えられた時のものです。江戸時代の伝統を引き継ぐ擬宝珠の形をしており、詩人の佐々木支陰の筆による「京橋」と「きやうはし」の橋名が彫られています。また、石およびコンクリート造の親柱は、大正十一年(1922年)の拡張工事でアール・デコ風の橋に架け替えられた時のものです。照明設備を備えた近代的な意匠を持ち、「京橋」と「きようはし」の橋名と「大正十一年十一月成」の銅板プレートが付けられています。明治・大正と二つの時代に設置された親柱は、近代橋梁のデザインの変化を知ることができる貴重な建造物として、中央区民文化財に登録されています。

Main Pillars of Kyobashi

Kyobashi is a historic bridge that was built around the same time when Nihonbashi Bridge was built in 1603. Although Kyobashi was removed due to land reclamation work along the Kyobashi River from 1963 to 1965, two stone pillars and one stone-concrete pillar remain as its vestiges. The two stone pillars were installed when a stone arch bridge was built as Kyobashi in 1875. The pillars take the form of a giboshi (bridge railing-post knob) and follow the tradition of the Edo period with the characters "Kyohashi" written by poet Sasaki Shiin being carved as the name of bridge. The stone-concrete pillar was installed in 1922 during the extension work for building an art deco bridge. The pillar had a modern design with lighting facilities with the installation of a copper plate indicating that it has the name of bridge -"Kyobashi" and "Kyobashi"- and was "built in November 1922". These main pillars installed in the Meiji and Taisho period are registered as Cultural Properties of Chuo-city because they are valuable building structures that show the changing design of modern bridges.




同窓会の宴会といえば、銀座一丁目の「魚や一丁」でした。部屋は綺麗で料理も美味しく、何度もお世話になりましたが、残念ながら2021年1月にコロナ渦の影響で閉店になってしまいました。



江戸時代から昭和十年までの約270年間、京橋川にかかる紺屋橋(中ノ橋)から京橋にかけて、通称「大根河岸」と呼ばれた青物市場が存在しました。江戸近郊でとれた大根が多く荷揚げされ、この名前が付けられました。かっての大根河岸に隣接した高層ビル前の広場にマルシェの市が立っています。

京橋大根河岸

むかしも今も美味しい京橋

かつてこの地には京橋川が流れていました。遠近の村々から川伝いに運ばれた作物は、河岸と呼ばれる市場に荷揚げされ、なかでも積み上げられたたくさんの大根は、まるで白い花が咲いたようだったといいます。江戸から東京へいたる歴史のなかで、庶民の台所として栄えた「大根河岸」。京橋マルシェもまた、食を通して、人と人とを、満ち足りた心を紡いでいきます。




日本橋三丁目交差点の角のビルの一画に大きなキリンの銅像が立っています。このビルは元々は漢方薬やバスクリンで有名な津村順天堂の本社ビルでしたが、津村順天堂は2006年に移転し、現在はスターツコーポレーショングループの本社ビルになっています。昭和六十三年(1988年)に今のビルに建て替えられ、翌年に高さ6m25cmのキリンの銅像が設置されました。作者は鍛金彫刻家の安藤泉氏です。表情や佇まいがとても穏やかに見える大きなキリンの銅像ですが、何故こんなに大きなキリンの銅像をここに設置したのでしょうか?その理由は3つあるそうです。一つ目は、1976年に津村順天堂の漢方薬が保険医薬品に認定され、テレビCMによってバスクリンが成功するなど業績が好調だったことです。二つ目は、このキリンが王冠を被っているように、キリンは漢方の王様と言われていたことです。三つ目は、このビルの吹き抜けの天井を王冠にある照明器具で照らすために高さが必要だったことです。社屋移転の際にキリンの像も一緒に連れていくことは出来なかったのでしょうか?



日本橋交差点の手前に高島屋があります。三越と並び称される老舗のデパートです。地下の食品売場街にはよく行きましたね。ワインの贈り物をする際は、やはり高島屋の包み紙でないとね。



「日本橋さくら通り」は、東京駅八重洲口からすぐという好立地の桜の名所です。東京駅から茅場町方面に伸びる約1kmの細い通りですが、その歴史は古く、昭和十一年に桜が植樹されました。戦災で桜の木は焼失しましたが、昭和三十一年に改めて植樹され、その時に「さくら通り」と命名されました。昔ながらの趣のある日本橋の街並みの中で、道路を挟み約170本ものソメイヨシノが植えられています。満開になるとまるで桜のトンネルのようで幻想的な雰囲気を作り出します。夕刻には桜は周りのビルやお店の明かりで徐々に照らされ、まるで間接照明に照らされているかのように淡く輝き、日没後にはライトアップでさらにその美しさを際立たせています。



丸善旧日本橋本店は、現在「丸善ジュンク堂書店」になっています。書籍は約60万冊を揃え、文具やメガネサロンなども併設しています。3階には、丸善創業者である早矢仕有的が考案したという説もあるハヤシライス(早矢仕ライス)などを提供する「MARUZEN Cafe」があります。



かって日本橋交差点の角には白木屋(しろきや)百貨店が建っていました。白木屋は、越後屋(現三越)・大丸屋(現大丸)と並び江戸三大呉服店のひとつで、日本の百貨店の先駆的存在でもありました。江戸時代から昭和にかけて営業しましたが、昭和四十二年(1967年)に東急百貨店に買収され、「東急百貨店日本橋店」へと改称されました。その後、平成十一年(1999年)1月31日に閉店し、336年の歴史に幕を閉じました。跡地にはCOREDO日本橋が建設され、平成十六年(2004年)3月30日に開業しました。



COREDO日本橋の隣には京都西川が入っていたビルがありましたが、現在はその周辺一帯を含めて大規模な再開発が行なわれています。再開発事業の全体概要は、敷地面積1万8990平方メートルで、A〜C街区の一体的な都市再生が行なわれます。日本橋川に面するA街区には、1930年に竣工した日本橋野村ビル旧館の外観を保存しつつ、4階建てのオフィス・商業施設にリニューアルされます。隣接するB街区には、地下2階・地上7階の店舗と住宅から成る複合ビルが建設されます。A/B街区と街路を挟んだC街区には、地下5階・地上52階建てで、低層階に大規模カンファレンス施設(会議室)やビジネス支援施設、中層階にオフィスビル、高層階にウォルドーフ・アストリア東京日本橋ホテルが入ります。再開発事業の総延べ床面積は38万300平方メートルで、完成は2025年度になるとのことです。日本橋に52階建てのビルが建ったら景観はどうなるのでしょうか?



日本橋にやってきました。もう何回目でしょうかね?橋の袂にある広場に日本橋観光案内所が建っていて、その横に案内板が幾つか並んでいます。



日本橋の橋詰には5つの広場が設けられています。それぞれの広場の命名は公募により行なわれ、「滝の広場」・「花の広場」・「乙姫広場」・「元標の広場」と決まりました。

日本橋橋詰の愛称

日本橋の歴史は、慶長八年(1603年)に家康の江戸幕府開府の際、南北の交通路として木橋が架設されて以来、幾度の変遷を経て、現在の石橋が明治四十四年4月に完成し、平成三年4月には80才を迎えました。これを記念し、平成二年7月から平成三年5月にかけて広場の整備を行い、平成三年5月には完成式典が行われました。整備にあたっては地域の方々の意見をもとに、日本橋橋詰を都心のオアシスとして、人々の待ち合わせや地域の活性化になればと考え実施しました。この整備工事に合わせ、愛称を一般募集するとともに、その愛称を末長く親しんでいただくため、記念碑として保存することとしました。




慶長九年(1604年)、二代将軍秀忠によって「東海道」・「日光街道」・「奥州街道」・「中山道」・「甲州街道」の五街道が定められ、日本橋がそれぞれの起点となりました。

道の起点としての日本橋
中央区日本橋一丁目〜港区新橋一丁目

日本橋は古来街道の起点として広く親しまれ、現在も交通の要衝として知られている。慶長八年に日本橋が架設されて以来、火災などによって改築すること19回を経て、明治四十四年3月石橋の名橋として現在の橋に生れ変った。また日本橋から銀座にかけての中央通り一帯は近代的な街並で日本経済の中心地として今なお活況を呈している。


日本橋の歴史と仕様について記した案内板です。

重要文化財 日本橋 附 東京市道路元標(一基)

日本橋の創架は、徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603年)と伝えられています。翌年、日本橋が幕府直轄の主要な五つの陸上交通路(東海道・中山道・奧州道中・日光道中・甲州道中)の起点として定められました。江戸市街の中心に位置した日本橋は、橋のたもとの日本橋川沿いに活気ある魚市場が立ち並び、周辺に諸問屋が軒を連ねるなど、江戸随一の繁華な場所でした。現在の日本橋は、明治四十四年(1911年)に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、都内では数少ない明治期の石造道路橋です。橋長49.5メートル、幅員27.5メートルの橋には、照明灯のある鋳銅製装飾柱を中心に和漢洋折衷の装飾が施されています。中でも、建築家・妻木頼黄の考案に基づく麒麟や東京市章を抱えた獅子のブロンズ像(原型制作・渡辺長男、鋳造・岡崎雪声)は、意匠的完成度の高い芸術作品といえます。なお、親柱に記された橋名の揮毫は、第十五代将軍・徳川慶喜の筆によるものです。また、附指定(つけたりしてい:国宝や文化財として国から指定されている物件の価値を補完するために追加で指定すること)を受けた「東京市道路元標」は、昭和四十二年(1967年)まで都電の架線支持柱を兼ねて日本橋の中央に設置されていましたが、現在は日本橋北西の橋詰広場に移設されています。なお、橋の中央には当時の内閣総理大臣・佐藤栄作の筆による日本国道路元標」のプレート(複製は北西橋詰)が埋め込まれています。

Important Cultural Property of Japan
Nihonbashi Bridge Including the Zero Milestone of Japan

It has been reported that the Nihonbashi Bridge was first built in 1603, the year TOKUGAWA, Ieyasu established the shogunate in Edo. In the following year it was designated as the origin point of the five national roads administered directly by the shogunate (Tokaido, Nakasendo, Oshu Dochu, Nikko Dochu, Koshu Dochu). The bridge stood in the central district, where was the busiest commercial city of Edo with rows of bustling fish markets and wholesale shops along with the Nihonbashi River. The bridge that stands today is a Renaissance-style double-arch stone structure built in 1911, and one of the few Meiji-era stone bridges left in Tokyo. It is 49.5 meters long and 27.5 meters wide. The bridge has ornate cast-copper columns decorated in a mix of Japanese and European Styles.Most of all, the bronze statues of kylins (a kylins is an imaginary creature in ancient China) and the lion holding the Tokyo municipal emblem were originally designed by architect TSUMAKI,Yorinaka, which are regarded as high-leveled design art works (Original mold: WATANABE, Osao, Cast: OKAZAKI, Sessei). The bridge name inscribed on the oyabashira (thick posts located at both edges of the bridge) is modeled on calligraphy by TOKUGAWA, Yoshinobu, the 15th and last Tokugawa shogun. The Zero Milestone of Japan which is included in the national cultural property designation used to be positioned at the center of the bridge until 1967, together with the post for aerial wires for a tram line. Now it was relocated to the open space at the northwest side of the bridge. The Zero Milestone plaque was embedded in and at the center of the bridge deck pavement in 1967 with an inscription modeled on calligraphy by then-prime minister SATO, Eisaku, and also there is the replica of the plaque at the edge of the bridge on the northwest side.




昭和十一年に書かれた碑文です。何とも読みづらいですね。

日本橋由来記

日本橋ハ江戸名所ノ随一ニシテ其名四方ニ高シ慶長八年幕府譜大名ニ課シテ城東ノ海濱ヲ埋メ市街ヲ營ミ海道ヲ通シ始テ本橋ヲ架ス人呼ンデ日本橋ト稱シ遂ニ橋名ト為ル翌年諸海道ニ一里塚ヲ築クヤ實ニ本橋ヲ以テ起點ト為ス當時既ニ江戸繁華ノ中心タリシコト推知ス可ク橋畔ニ高札場等ヲ置ク亦所以ナキニアラス舊記ヲ按スルニ元和四年改架ノ本橋ハ長三十七間餘幅四間餘ニシテ其後改架凡ソ十九回ニ及ヘリト云フ徳川盛時ニ於ケル本橋附近ハ富買豪商甍ヲ連ネ魚市アリ酒庫アリ雜鬧沸クカ如ク橋上貴賎ノ來往晝夜絶エス富獄遥ニ秀麗ヲ天際ニ誇リ日帆近ク碧波ト映帶ス眞ニ上圖ノ如シ明治聖代ニ至リ百般ノ文物日々新ナルニ伴ヒ本橋亦明治四十四年三月新装成リ今日ニ至ル茲ニ橋畔ニ碑ヲ建テ由来ヲ刻シ以テ後世ニ傳フ




もうひとつ、日本橋についての案内碑があります。建設省の役人にとって初めての重要文化財指定がよほど嬉しかったのでしょう。なお、重要文化財の指定は平成十一年に行われましたが、建設省は平成十三年(2001年)に運輸省・国土庁・北海道開発庁と統合され、国土交通省となりました。

日本国重要文化財 日本橋

指定の意義

明治期を代表する石造アーチ道路橋であり、石造アーチ橋の技術的達成度を示す遺構として貴重である。また、土木家・建築家・彫刻家が協同した装飾橋架の代表作であり、ルネサンス式による橋梁本体と和漢洋折衷の装飾との調和も破綻なくまとめられており、意匠的完成度も高い。建設省国道に係る物件で初めての重要文化財指定。




日本橋の欄干には獅子をモチーフにした立派なブロンズ像が照明灯と共に君臨しています。今は機能一辺倒でこのような装飾はされませんが、昔の人は美的感覚があったんでしょうね。



元標の広場には「日本国道路元標」のレプリカが置かれていて、隣りにそれを解説した石碑があります。江戸時代、日本橋は里程の起点であり、全国の街道筋に築かれた一里塚はこの日本橋を起点として距離が測られていました。

日本国道路元標

日本橋は1603年に創架され、江戸幕府により五街道の起点として定められました。現在の日本橋は1911年に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、四隅の親柱の銘板に刻まれた「日本橋」及び「にほんはし」の文字は最後の将軍・コ川慶喜公の揮毫によるものです。1972年、日本橋中央の「東京市道路元標」がこの広場に移設・保存されました。その据えられていた跡には、内閣総理大臣佐藤栄作氏(後にノーベル平和賞受賞)の揮毫による「日本国道路元標」が埋標されました。この復製も同時に制作・設置されたものです。東京道路元標は、1999年に米寿を祝う日本橋とともに国の重要文化に指定されています。

Zero Milestone in Japan

Nihonbashi Bridge was built in 1603 and designated by the Edo Shogunate government as the starting point of five major roads in Japan. The present Nihonbashi Bridge, built in the Renaissance style in 1911, is a double-arched bridge made of stone. The calligraphy engraving "Nihonbashi" on the plaques on each of the four newel posts is based on the work of Yoshinobu Tokugawa, the last Shogun. In 1972, the original "Zero MiIestone of Tokyo City", formerly located in the middle of Nihonbashi Bridge was transferred to this square for preservation and replaced by a memorial plaque. The characters "Zero Milestone of lapan" on the plaque were taken from the writing of the then Prime Minister and Nobel Peace Prize winner, Eisaku Sato. Both "Zero Milestone of Tokyo City" and Nihonbashi Bridge, which calebrated its eighty-eighth anniversary in 1999, are designated important cultural assets of Japan.




日本橋を渡った先に三越本店の巨大な建物があります。正面から見ると船の舳先のようです。建物の歴史を記したプレートが壁に埋め込まれています。

東京都選定歴史的建造物 三越本店

三越は、延宝元年(1673年)に「越後屋」として創業した。「三井呉服店」を経て、「三越呉服店」となり、大正三年(1914年)には、鉄筋コンクリート造による大規模な百貨店の新築を行った。当時の建物はネオ・ルネッサンス・スタイルの壮麗な建築で、5階建一部6階、中央部に5階まで吹き抜けのバロック的大空間をもっていた。その後、震災で損傷し、昭和二年に復興するが、更に昭和十年全館の増改築が完成し、現在見られるような規模となった。建物中央部の吹き抜けホールは、アーチ状の天窓からの光りがホール全体を照らし、5階までの各階にはバルコニーがめぐり、アール・デコ風のデザインが目につく。そこに展開する装飾性豊かな空間は見事である。




入口の両側には三越の象徴であるライオンのブロンズ像が置かれています。銀座三越のライオン像には三越のロゴが入った特製のマスクが付けられていますが、本店のライオン像はノーマスクです。格式の違いですかね。ライオン像の台座に三越の由来を記したプレートが埋込まれています。

ライオン像

三越の正面入口を守る一対のライオン像は、ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン記念塔下のライオン像を模し鋳造されたものです。“気品と勇気と度量”の象徴として、また、ご来店のお客様の守護神として大正三年(1914年)本店のルネッサンス様式建築の本館ライオン口に設置されました。以来、東京名所の一つとして親しまれ、待ち合わせの場所としても有名です。このライオン像は、“必勝祈願の像”として、誰にも見られずに背にまたがると念願がかなうと言い伝えられ、特に受験生の間に人気があります。




谷川俊太郎は、詩人・翻訳家・絵本作家・脚本家と多彩な顔を持っています。詩集・絵本・散文集・翻訳・テレビや映画の脚本・作詞・幼小中高大の校歌などなど、その著作は膨大な量になります。

野生の威厳 谷川俊太郎

スフィンクスは問いかけて人を試したが
このライオンは人に答え続ける存在だ
私たちの心はどんな時代にも
聖俗ごたまぜの問いかけに満ちている

歴史に翻弄される私たちの前で
時の流れに洗われながらも
苛酷な天災人災にも恬然として
静かに王の威厳を保ち続け

ブロンズの肌の冷たさの奥に
ひそかに脈打つ心臓を隠している
手で触れることはできないが
心でそれに触れることができる

人智を超えたこの野性の存在は
無言でただそこにとどまることで
どんな言論にもどんな行動にもまして
勇気と自由の大切さを人に告げる




三井本館は、日本橋室町に所在する三井不動産の本社ビルで、関東大震災で建物内部が大きく損傷した旧三井本館の跡地に、三井財閥の本拠として昭和四年(1929年)3月23日に竣工しました。完成した当時は、丸ビルに次ぐ大きさでした。昭和七年(1932年)3月5日、本館入り口で血盟団の菱沼五郎から狙撃され絶命した團琢磨暗殺事件(血盟団事件)の現場にもなりました。昭和金融恐慌の際に三井がドルを買い占めたことを批判され、理事長の團が財閥に対する非難の矢面に立たされていたことが犯行の引き金になりました。



COREDO室町1・2・3に続き、三井タワーの隣にCOREDO室町テラスがオープンしました。正面入口が中央通りに面しておらず、脇道にあるのが特徴です。入口広場はテラスになっていて、天井は全体がガラスの屋根で覆われています。テラスにはバルコニーも面していて、ちょっとした南欧風の外観になっています。



日本橋三井タワーの1階には千疋屋総本店が入っています。暖房機器が置かれたテラスでは優雅なティータイムを堪能することができます。



室町四丁目交差点で中央通りと交差している脇道が本銀通リです。これを正しく読める人は希でしょう。江戸時代の町の様子を描いた錦絵が添えられています。

本銀通リ(ほんしろがねどおり)

日本橋本石町・日本橋室町・日本橋本町の各四丁目北半分に当たる場所は、江戸時代初期から昭和七年(1932年)まで「本銀町」と称する町でした。町の北は竜閑川(神田堀・神田八丁堀・銀堀とも称された神田との境をなした掘割)に、西は江戸城の外堀に面する当町は、江戸時代を通して商業の中心地となっていました。東西に広がる町屋であった本銀町(一丁目〜四丁目)は、町名の由来となった「銀細工職人」が集住するとともに、数多くの商家が立ち並んでいました。なお、本銀町の名は、神田に起立した「新銀町」と区別するために「本」の字を冠したといわれています。当町在住の商人や諸職名匠には、刀脇差細工・縫箔屋・指物屋・塗師・蒔絵師・彫物師・小細工印判師・鍔師・象嵌師・塗鞘師・目貫師・柄巻師・御楽器道具師・御仏師などがおり、武家の消費需要を賄う町人地として大いに発展しました。また、「江戸名所図会」には、明暦三年(1657年)の大火後に町の北側(竜閑川沿い)に築かれた防火用の「本銀町封彊」(高さ2丈4尺【約7.27メートル】・長さ8丁【約872メートル】の石垣土手)と松並木の痕跡を紹介している他に、本銀町・本石町の各一・二丁目辺りが「福田村旧跡」(大久保主水【藤五郎】の屋敷があった旧福田村)であることを記しています。関東大震災発生(大正十二年)後の復興事業によって、歴史ある「本銀」の町名は姿を消しましたが、幸いにも旧町を東西に貫く通りは今日まで残されました。江戸時代以来、人びとの往来に利用されてきたこの通りは、平成二十七年に名付けられた「本銀通り」(幅員11m・延長520m)の道路愛称とともに往時の歴史をしのばせています。

Honshirogane-dori Street

The area, northern half of each 4-chome of Nihonbashi-hongokucho, Nihonbashi-muromachi and Nihonbashi-honcho was a town called "Honshirogane-cho" from the early Edo period to the 7th year of Showa (1932). There was Ryukangawa River (also called Kanda-bori, Kanda-hatchobori or Shirogane-bori which was a boundary to Kanda) in the north of the town and the west side Is facing to the outer moat of Edo Castle. The town was the center of commerce through the Edo period. Silversmiths which was the derivation of the town name, were dwelling together and many merchant townhouses were built along the street, expanding in the east and west of Honshirogane-cho (from 1-chome to 4-chome). It is sald that "Hon" was prefixed as Honshirogane-cho to distinguish from Shinshirogane-cho, established in Kanda. In those days, merchants and master craftsmen who resided in the town included: katana-wakizashi saiku, nuihakuya, sashimonoshi, nushi, makieshi, horimonoshi, kozaiku inbanshi, tsubashi, zouganshi, nurisayashi, menukishi, tsukamakishi, ogakkidougushi and gobusshi. Those craftsmen satisfied demands of samurai families and the townsman area prospered. And "Edo Meisho Zue" (pictures of noted place in Edo) introduced "Honshirogane-cho Dote" (a stone wall bank for fire prevention, approx. 7.27 meters high and approx. 872 meter long) which was built in the north of the town (along the Ryukangawa River) after the big fire in the third year of Meireki (1657). And the remains of a row of pine trees were also inscribed. Besides, 1 and 2-chome vicinities of both Honshirogane-cho and Hongoku-cho were recorded as "a historic spot of Fukudamura Village'(former Fukudamura Village where Okubo Monto/Togoro had premises). After Great Kanto earthquake of 1923 (the 12th year of Taisho), the historic town name "Honshirogane" disappeared because of the reconstruction works, however, the street which runs east and west has survived fortunately down to the present. There has been a lot of comings and goings on this street since the Edo period and in the 27th year of Heisel, a nickname of the road was glve as "Honshirogane-dori Street"(11 meters of wldth and 520 meters of length) which reminds us some traces of the past.




中央通りが神田金物通りと交差する地点が今川橋交差点です。今川橋が神田堀(別名神田八丁堀・龍閑川)に架設されたのは天和年間(1681年〜1683年)との記録があります。今川橋の橋名は、架橋に尽力したといわれる名主の今川善右衛門の名によるといわれます。この橋は日本橋から中山道に通ずる重要な橋でもありました。今川橋辺りには陶磁器を商う商家が立ち並び、大層賑わったといいます。神田堀とも呼ばれた龍閑川は、江戸城外濠の鎌倉河岸東端から北東方向に、ほぼ一直線に掘られていました。龍閑の名は、外濠口に龍閑町の名があったことに因み、町家を開いた井上龍閑という幕府坊主の名によると伝えられます。堀の東端は、箱崎からの浜町川に接続し、江戸の商業中心地を貫く鉤形の運河を形成していました。その役割は非常に大きく、当時の運輸手段の主流でもありました。安政四年(1857年)に埋め立てられましたが、明治十六年に浜町川が神田川まで延長されるにあたり、龍閑川は再度開削されました。その後、戦後の昭和二十三年から再び埋め立てが始められ、昭和二十五年(1950年)には完全に暗渠となりました。三百年近く慣れ親しんだ今川橋も撤去され、現在はその面影もありません。橋の撤去からおよそ70年以上を経た現在も、交差点名や近くの郵便局名などに今川橋の名は生き続けています。因みに、今川焼発祥の地がここで、安永年間(1772年〜1780年)に近くの菓子店で売り出されたことに始まるそうです。歩道の脇に今川橋の由来を記したプレートが置かれています。

今川橋由来碑

今川橋が神田堀(別名神田八丁堀・龍閑川)に架設されたのは天和年間(1681年〜1683年)との記録があります。橋名の由来は、当時の名主今川氏の尽力により架けられたのでその名が残りました。この橋は日本橋から中山道に通ずる重要な橋でもありました。神田堀は現在の千代田区神田・中央区日本橋地域の境を流れ、その役割は非常に大きく当時の運輸手段の主流でもありました。昭和二十五年(1950年)龍閑川は理め立てられ、三百年近く馴れ親しんだ今川橋も撤去され、現在はその面影もありません。左図の絵図は江戸時代末期頃の界隈風景です。この橋辺には陶磁器をあきなう商家が立ち並び、大層賑わったといいます。




江戸時代の今川橋の様子を描いた絵が添えられています



中央通りは神田駅の高架線路と交差します。高架下の壁には神田駅の歴史を記した絵文書が何枚にもわたって貼られています。

神田驛百年 写真でたどる鉄道と地域の変遷

毎日、多くの人が行きかう駅のざわめき。高架橋の上を行きかう電車。百年前の早春、江戸からの賑わいが続く「神田」に高架鉄道がひかれた。地域とともに歴史を重ねてきた神田駅。関東大震災と戦災による苦難を乗り越えた歩みだった。残された写真から、鉄道と地域がおりなす変遷をたどってみる。

東京へ

江戸期の神田地域は、近在から物資が集積する場所で、江戸城に近いことから職人も多く住み、今川橋から筋違橋にいたる神田大通り(現・中央通り)を中心に、活気や賑わいのある場所だった。20世紀に入る頃の神田大通りには、土蔵造りの商家が建ち並び、新しい商品を扱う店も軒を連ねていた。明治十五年(1882年)には新橋・上野間を結ぶ馬車鉄道が 大通りにひかれ、明治三十六年(1903年)からは路面電車となり、須田町交差点付近は、5方面(上野行・本郷行・九段行・日本橋行・両国行)からの路面電車が集中・交差する東京一の繁華街となっていた。さらに、この交差点に面して、明治四十三年(1910年)には広瀬中佐の銅像が建設され、明治四十五年(1912年)には、中央本線万世橋停車場が開業した。これらは、江戸期にはないもので、とりわけ、駅舎は赤煉瓦による華やかな建造物であった。また、市区改正事業で拡幅された大通りには、耐火外壁による洋風建物が造られ、「東京」の街並みへと変わっていった。そして、大正三年(1914年)日本の中央停車場たる東京駅が開設され、神田地域には本州を縦貫し「東京へ」と続く高架鉄道が建設される場所となった。

誕生

大正八年(1919年)3月1日(土)、中央本線が万世橋駅から東京駅まで延伸され、神田駅が誕生した。神田駅は、汽車による長距離列車が停車しない電車専用駅としてつくられた。駅舎は独立して設けられず、駅施設は高架下に収容された。 万世橋から新橋まで続く鉄道高架橋や駅舎の外壁は、赤煉瓦と花崗岩で化粧され、「江戸黒」と呼ばれた土蔵造りの商業地にあって一大モニュメントとなった。また、神田駅構内のデザインも、白タイルによる壁面装飾や天窓など細部にいたるまで近代的な設計がなされ、新しい時代を象徴するような造りだった。開通当日、神田大通り沿いの町々は紅白幕を張り、「神田が事実上、東京の中心地になった」ことを祝すべく、鉄道院総裁等の関係者を招待して、神田区主催の大祝賀会が催された。

建設

神田が「東京の中心地」になるには、負担も大きかった。新橋・上野間の停車場を結ぶ高架鉄道は、江戸からの旧市街地をとおることから「市街線」と呼ばれた。神田地域では、東京 駅と秋葉原貨物駅を直線で結ぶ経路となったため、碁盤の目のような街区を斜断することとなり、三角形の街区が多くできた。鉄道用地の買収は、明治四十三年(1910年)に始まり、神田区内だけで一万坪余となった。これだけ大規模に既存市街地に鉄道を通す例は全国にもないが、大きな反対運動もなく、買収は明治四十五年(1912年)に終了している。工事は大正四年(1915年)11月に着手され、当時、人口増加の著しかった中央線の高架橋工事を優先し、東京・神田柳原間の基礎工事も同時施工となった。この高架橋工事は、それまでの煉瓦積から鉄筋コンクリート造りで行われた。そのため、既存の煉瓦積みによるアーチ高架橋と一体的なデザインとなるよう、赤煉瓦と花崗岩で化粧が行われた。現存する万世橋駅から新橋駅までの鉄道高架橋は、明治・大正期の姿を現在に残す「近代化遺産」というべきものである。

震災

大正十二年(1923年)9月1日11時58分、関東大震災が発生する。旧神田川区エリアでは、和泉町等を除いてほとんどが焼失してしまう。神田駅も誕生から2年半足らずで全焼してしまった。神田大通りを日本橋方面から上野方面へ避難すれば神田駅にぶつかる。それは、当時の最先端の土木技術で造られた鉄道施設で、避難民にとっては、防災拠点にも見えたのだろう。神田駅構内は避難民であふれていた。そこに入らず助かった人の後日談では、「煉瓦造のガードだから地震に崩れる心配もなし、火の方もこの人口の戸が締まれば何の不安もない」(資料10)と言われたという。だが、耐震はともかく、線路の枕木まで焼失するような大火災にあっては、「当時待合ホーム等に避難していた公衆約五百五十名は逃ぐるに途なく無惨の焼死を遂げ」(資料11)ることとなってしまった。神田駅での死者の数は諸説あるが、神田区での記録では、200余名となっている。戦前、9月1日には、神田駅で慰霊祭が行われていた。

復興

関東大震災により、東京・上野間を結ぶ高架線工事は一時中断されたが、神田川・上野駅間の電車専用線の高架橋工事は早急に進められ、予定より半年遅れで大正十四年(1925年)11月に電車線が開通した。これにより「の」の字運転はなくなり、中央線は東京駅を発着駅とする運転に、山手線は環状運転となった。この工事で、神田駅には、第二ホームが誕生し、京浜線は上野まで延伸され、第二ホームは山手線と併用で使われた。さらに、昭和三年(1928年)4月には汽車専用線2線が東側に完成し、神田駅は線路が6線構成となった。この時の高架橋工事では、「黒門町橋以南は煉瓦及石材を用ひて装飾を施したるも、其為め多額の費用と時日を要するを以て、装飾は必要に応じ他日施すこととし、工費を節約して線路の延長を謀るを急務と認め、東松下橋以北に於ては一切化粧工事を省略せり」(資料12)ということとなり、現在に至っている。また、高架下が有効活用でき、維持管理も容易で、軟弱地盤に強い、桁と脚が一体になった鉄筋コンクリートラーメン橋が震災復興以降は主流となった。現在よく見られる鉄道高架橋のデザインは神田から始まった。

戦後

震災から21年余、米軍の空襲により神田駅周辺は再び焼け野原となった。戦後まもなく、焼失した神田大通りや金物通りには生活用品を売る店が集積し、昭和二十二年(1947年)頃には震災復興の区画整理事業で誕生した神田駅東側の鉄道用地にもアツミマーケットと呼ばれた飲食業等の露店街が形成されていた。その後、昭和二十五年(1950年)にはGHQ指令で道路上の露店は取払われたが、鉄道用地のマーケットは手つかずのままだった。戦後復興も進みだすと、山手・京浜東北線を同一線路で運行するには輸送力も限界となり、神田駅付近でも鉄道用地を使いホームと線路の増設をする必要が生じた。このため、国鉄はマーケットへ昭和二十八年(1953年)3月末までに立退きを要求したが、マーケット側は借地法上の30年間の借地権を主張して譲らず、東京駅から始まった工事は、神田駅南口辺で一時中止となってしまう。昭和二十八年(1953年)12月、国鉄は裁判所に土地明渡しの仮処分を請求し、結果、マーケット側へ保障することで工事は再開され、昭和三十一年(1956年)11月10日、現在のような山手線・京浜東北線の分離運転となった。この工事により神田駅は、3面のホームと8線の線路を有する駅となり、駅構内も大規模な改修が行われ、改札内外の移動等が大幅に改善された。一方、戦後初の地下鉄建設として丸ノ内線は、昭和二十九年(1954年)1月に池袋・御茶ノ水駅間を開通させ、現銀座線神田駅に新駅を併設する延伸工事に入る予定となっていた。しかしながら、神田駅南口付近での混乱で、丸ノ内線は現在の淡路町経由コースに変更となる。これにより、神田駅は地下鉄と連携したターミナル駅になる機会を失うこととなった。

縦貫

東京市街高架鉄道は、江戸からの市街地を南北に縦貫することにより作られた。それは、本州を縦貫する鉄道建設でもあった。平成三年(1991年)東京・上野駅間に東北新幹線が開通し、その後、平成四年(1992年)に東北山形、平成九年(1997年)には、秋田・上越・北陸の各新幹線が、神田地域を縦貫し、東京駅へと乗り入れた。そして平成十四年(1998年)3月、JR東日本より「東北縦貫線計画」が発表される。それは高崎線・宇都宮線・常磐線を東京駅に乗入れ、東海道線への直通運転をはかる計画である。このため、神田駅付近では、営業中の新幹線の上、約600mにわたり高架橋に高架橋を重ねるという、既存市街地ならではの一大難工事の計画となり、壁のような巨大な高架橋が出現することとなった。東北縦貫線は、「上野東京ライン」と名称を変え、平成二十七年(2015年)3月14日に開業した。これにより、神田駅は3面の近距離電車ホームと中距離列車線、新幹線という10線の線路を有する駅となり、駅構内も大規模な改修が行われ、バリアフリーの行き届いた駅となった。踏切のない高架鉄道は、地域の交通を分断しないが、関東大震災後の区画整理で、高架鉄道が事業エリアの境となり、それを元に町界が定められ、更に色々な行政の管理境が加わり、いつしか高架鉄道が地域の境目であるかのように感じてしまう。江戸から続く「神田」は、神田大通りを中心にして一つである。神田駅が地域をつないでいく「次の百年」でありたい。




江戸時代の神田についても解説されています。

職人町の神田

江戸時代の神田駅周辺は、鍛冶町や鍋町、大工町、塗師町など職人に関する町がありました。これらの町は江戸初期に江戸城や城下町建設のために集められた職人町でした。鍛冶町は江戸幕府の鍛冶方棟梁の高井伊織がこの地を拝領して屋敷を構えたことに由来します。江戸後期もこの地域を中心に金属加工職人達が居住し、現在も「神田金物通り」というように金属加工業者の町であったのです。万治三年(1660年)に神田塗師町に創業した金物問屋の紀伊国屋三谷家は、その中心的存在で、銅や真鍮の取引に成功し幕末には巨財をなし、八代目当主長三郎は、その財産を錦絵製作につぎ込むなど文化活動に積極的に関わっていました。

清水屋絵草紙店

清水屋の長谷川常次郎は、天保三年(1832年)に神田鍛冶町一丁目五番地(現在の千代田区鍛冶町二丁目付近)で本地草紙問屋を営業していました。ここでは歌川広重、三目代歌川広重、二代目歌川豊国、三代目歌川豊国、歌川芳艶、月岡芳年、揚州周延、揚斎延一など浮世絵師の錦絵を出版していました。




絵文書の最後に江戸町火消の纏が紹介されています。東京消防庁が設けられた現在でも消防組って残っているんですね。

江戸町火消発祥の地・神田−町火消の纏−

「火事と暗嘩は江戸の華」といわれるように江戸の町は火災が多く、特に明暦三年(1657年)の大火は江戸城や城下の大半を焼失するものとなりました。江戸中期の享保三年(1718年)には大名火消や定火消とともに「いろは四十七組」の町火消が南町奉行大岡越前忠相により組織されました。下に示した各組の纏は、武将が戦場で掲げた馬印を参考とし、燃え盛る炎のなかで組を見分けるために様々な形の纏が作られました。江戸後期になると、町火消は江戸城本丸や西の丸の出火に出動し、日覚ましい活躍で褒賞を受けました。特に神田や日本橋を管轄した一番組は、江戸城の火中にいち早く飛び込んだといいます。黒船来航以降市中警備も担い、戊辰戦争時には治安維持にも活躍したといいます。明治五年(1872年)、旧十五区(千代田・中央・港・新宿・文京・台東区と墨田・江東区の一部)の江戸町火消は、6大区39組の消防組に編成され、その後他の区を加えて、現在は11区87組となっています。




<<写真多数のため、都電40系統跡コース(2)に続きます。>>




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