- 都電40系統跡コース(2)
- コース 踏破記
- <<都電40系統跡コース(1)の続きです>>
神田鍛冶町の町名由来版が立っています。
千代田区町名由来版 神田鍛冶町三丁目
JR神田駅周辺には、「鍛冶」という名を冠する町名が三つ存在します。そのうち、鍛冶町一丁目と鍛冶町二丁目は、江戸時代から「鍛冶」が付く町名でしたが、ここ神田鍛冶町三丁目は「鍋町」と呼ばれた町でした。この界隈が鍋町と呼ばれていた理由は、江戸幕府の御用鋳物師をつとめていた、椎名山城が屋敷を構えていたためと伝えられています。鋳物師とは、鍋や釜をつくる職人のことです。ほかに御腰物金具師や御印判師なども住んでいました。鍋町に住んでいたのは、このような御用職人ばかりではありません。文政七年(1824年)の「江戸買物独案内」によれば、紅や白粉などの化粧品、傘、菓子、釘や打物などを扱う各種の問屋をはじめ、馬具や武具をつくる職人まで店を構えて住んでいたことがわかります。江戸時代、この界隈は鍋のような日用品から馬具や武器まで、多種多様な商品がそろう町でした。明治のはじめ、隣接するいくつかの横町を含めて鍋町は広がりました。明治六年(1873年)、一部が黒門町に編入され、さらに昭和八年(1933年)、鍋町は鍛冶町三丁目と改称し、一部が鍛冶町二丁目になりました。昭和二十二年(1947年)には町名に「神田」が付き、昭和四十一年(1966年)に実施された住居表示で一部は内神田三丁目に編入されました。これを受けて、地域の人々は町会の名称を「神田鍛冶三会」と改め、今日にいたっているのです。
Kanda-Kajicho 3-chome
This town was once known as Nabe-cho (literally "pot-town"). It was home to a metal caster, as well as many merchants who made weapon parts and seals for the hogunate. The name was later changed to Kajicho, which brought to memory its history as a town of blacksmiths. The town today is known as Kanda-Kajicho 3-chome and Uchi-kanda 3-chome.
「須田町」の町名は、神田川沿いの砂洲にひらかれた農地である「洲田」に由来するといわれています。江戸の町の整備が本格的に始まったのは慶長年間(1596年〜1615年)に入ってからのことです。それまで、須田村と呼ばれていた神田川周辺も農村から町人の町に生まれ変わりました。しかし、昔からの地名は残されたようで、明暦三年(1657年)の「新添江戸之図」には「すた町」と記されています。江戸時代の須田町は、現在の神田須田町一丁目とだいたい同じ範囲を指していたようです。また、文政七年(1824年)の「江戸買物独案内」を見ると、江戸期の町内には、菓子屋や薬屋、塩や油を扱う問屋、神具や仏具を売る店など、さまざまな商品を扱う店があったことがわかります。現在の町内にも、東京都選定の歴史的建造物に指定されるような老舗の商店が数多く営業しています。さらに明治以降、数多くの繊維関連の問屋が軒を連ねるようになりました。その理由について、専門家のなかには、神田川南岸の柳原土手(現在の和泉橋付近)で江戸期に開かれていた古着市の伝統を引き継いだためと考える人もいます。つまりこの周辺は、江戸期以来の“商いの町”としての伝統が、いまだに生き続けている土地なのです。
神田川に架かる中央通りの橋が万世橋です。初代万世橋は、明治五年に撤去された筋違門の石塁を再利用して架橋された眼鏡橋で、現在よりやや上流に架けられていました。昭和五年に現在地に鉄筋コンクリート橋が架けられると、万世橋の名が移されたといわれています。
万世橋
現在の万世橋と昌平橋の間に江戸城の見附の一つである筋違門がありました。明治五年(1872年)に門が撤去されその石材を用いて架けられたのが萬代橋(萬世橋)です。石造アーチの形状は眼鏡橋と通称され、東京名所として錦絵などにも描かれました。明治三十六年(1903年)、現在の位置に新たに万世橋が架橋された後、石造の萬世橋は明治三十九年(1906年)に撒去されました。現在の橋は関東大震災後の昭和五年(1930年)に架けられました。甲武鉄道(後の中央線)のターミナル駅として万世橋駅が明治四十五年(1912年)に開業すると、橋の周辺は交通の要衝として大変な賑わいを見せました。
Manseibashi Bridge
Sujikai-mon Gate, one of the outer gates of Edo Castle, stood between current-day Manseibashi Bridge and Shoheibashi Bridge. The gate was demolished in 1872, and the stone used to build Yorozuyobashi Bridge (Manseibashi Bridge). The stone arch structure, popularly known as a meganebashi ("spectacles bridge" or two-arched bridge), has been depicted in color prints as a Tokyo sightseeing spot. In 1903, Manseibashi Bridge was rebuilt in its current-day location before the stone Manseibashi Bridge was demolished in 1906. The current-day bridge was built in 1930, after the Great Kanto Earthquake. After Manseibashi Station opened as the Kobu Railway (later the Chuo Line) terminal station in 1912, the area around the bridge became a very busy transport hub.
歩道の脇に千代田区の町名由来板が立っています。「田代」という地名が「神田代地」に由来するということを知っている人は地元にもいるのかな?
千代田区町名由来版 神田田代町
この界隈は、外神田四丁目になる前は、神田田代町と呼ばれていました。寛政五年(1793年)、湯島の無縁坂から出火した大火で神田川周辺にあった町が類焼し、町の一部が火除地となりました。翌年、そこに住んでいた人々が、御成道の旗本永井伊織の屋敷跡を代地として与えられて移転してきました。そのため、この一帯は神田須田町二丁目代地、小柳町三丁目代地、神田松下町一丁目代地、神田花房町代地などと呼ばれる町になりました。明治五年(1872年)、このあたりが俗に 「神田代地」とも称されていたことから、それを略して「田代町」と名付けられました。千代田区に属した昭和ニ十二年(1947年)からは神田田代町と改称され、同三十九年(1964年)に住居表示が実施された際、周辺の町の一部と合併して、現在の町名「外神田四丁目」になりました。町内の路地裏には「花房稲荷神社」があります。現在の社は戦後、地元住民が再建したものですが、 神社そのものは江戸時代からこの地にあったとされ、古くから地域のシンボルとして人々に親しまれています。
Kanda-Tashirocho
This neighborhood was once called Kanda-Tashirocho. It is said that the name derives from the fact that in the late 18th century, land that had been used by a retainer of the Shogun was offered as alternative land for people who had been displaced from a nearby town to make way for a firebreak.
万世橋を渡ると、中央通りに沿って秋葉原電気街が続いています。秋葉原は第二次世界大戦後、闇市として発展しました。高度経済成長とともに、多様な電子機器や部品を取り扱う店舗などが建ち並ぶ日本一の電気街として発展しました。その後、バブルの崩壊や大型家電量販店・ディスカウントストアの台頭などによる家電市場の衰退で電器店は主力商品をパソコンに移していきました。これによって、パソコンマニアが集中し、秋葉原は一転してオタクの街として変貌を遂げました。世界的な観光地としても注目されるようになりましたが、2010年代以降はネット販売の普及と地価上昇、それに昨今のコロナ禍などでオタク向けの小売店が軒並み閉店し、代わって大資本によるコンセプトカフェが進出し、区画整理の推進などもあって今ではオフィス街に変貌しつつあります。アキバの中程の中央通りに面するドンキ秋葉原店8階にAKB48劇場があります。AKB48専用のライブハウスで、2005年12月8日にデビュー公演が行われました。ドンキと劇場とは意外な組み合わせですが、これには建物の8階が構造上ドンキにとって営業しずらかった点と、逆に天井高や広さがライブハウスの設備に適合していたことから選ばれたそうです。私は入ったことはありませんが。
神田栄町の町名由来版が立っています。
千代田区町名由来版 神田栄町
ここはかつて、神田栄町と呼ばれていました。江戸時代には武家屋敷が立ち並んでいた地域で、幕末のころの絵図には、この一帯が豊前小倉藩小笠原家の屋敷となっていたことが記録されています。ちなみに中屋敷とは、上屋敷(本宅)に対する控えの屋敷のことで、跡継ぎなどが居住しました。この界隈が大きく様相を変えたのは明治維新後のことです。明治二年(1869年)十二月、神田相生町から出た火事によって、現在の外神田周辺は焼け野原となってしまいました。そこで明治新政府は、神田竹町・神田平河町・神田松永町などに、防火のための空き地(火除地)を設置します。それらの町に住んでいた人たちがこの界隈に移転させられ、神田栄町ができたのです。「栄」という名前は、住民が町の繁栄を祈願して付けた町名であるといわれています。明治四十四年(1911年)、町は栄町と改称しますが、昭和二十二年(1947年)、神田区と麹町区が合併して千代田区が成立した際、ふたたび神田栄町となりました。そして昭和三十九年(1964年)、住居表示の実施で神田亀住町や神由元佐久間町とともに、現在の外神田五丁目となりました。
Kanda-Sakaecho
This neighborhood was once the location of many samurai residences, but in the early Meiji Period, in the middle of the 19th century, it was transformed into an alternate site for people relocated from nearby towns to make way for firebreaks. It is believed that the residents christened the town "Sakaecho" (sakae means to prosper) to express their hopes for the town's future.
もうひとつ旧町名の案内板が立っています。亀は万年といいますが、末永くこの地に住み続けたいとの思いで名付けられた町名とのことです。ちなみに、「亀は万年」という言葉は、中国の仙豪`梵(せんがいぎぼん)という禅宗の僧が残した言葉の「鶴は千年亀は万年、我は天年」に由来しています。「千年、あるいは万年生きられるかわからないが、天から授かった寿命を全うしよう」という意味だそうです。
千代田区町名由来版 神田亀住町
江戸時代のこの界隈は、武家屋敷が立ち並ぶ地域で、幕末のころには一帯が豊前小倉藩小笠原家の中屋敷となっていました。神田亀住町は、もともと神田川の北岸に江戸時代からあった、神田六軒町・柳原大門町・神田八軒町・上野町代地が、明治二年(1869年)に合併してできた町です。その名前は、未永く生活できる場であってほしいという願いを込めて名付けられたといいます。この年の十二月、現在の外神田一帯に大きな被害をもたらした火事がありました。火災後、神田亀住町は新政府により火除地(延焼をくい止めるための空き地)にされたため、翌三年(1870年)、小笠原家の屋敷跡を代地として与えられ、神田川北岸より移転してきました。明治四十四年(1911年)の町名変更で、町名はいったん亀住町となります。昭和二十二年(1947年)にふたたび神田亀住町に戻されますが、昭和三十九年(1964年)の住居表示の実施で、神田栄町や神田元佐久間町と合併して現在の外神田五丁目になりました。町内にある亀住稲荷神社は、豊前小倉藩の中屋敷内にあった稲荷と神田八軒町にあった稲荷を一緒に祀ったユニークな社です。町の人々はこの神社に深い愛着をいだき、稲荷のための保存講を組織し、管理・運営を続けるなど、いつの時代も大切にしてきました。
Kanda-Kamezumicho
This neighborhood was once the location of many samurai residences. In 1869, Kanda-Kamezumicho was created as an amalgamation of surrounding towns. However, after a major fire struck that same year, the town was moved to this area. It is said that the name "Kamezumi", which literally means "where turtles live", expresses the wish of the residents to be able to live here for a long time.
更に町名の由来板が続いて立っています。町名にはいろんな歴史があるんですね。
旧町名由来案内 旧東黒門町
東叡山寛永寺が創建されたのにともない、寛永三年(1626年)に同寺の門前町として上野新黒門町ができた。この命名については御府内備考が「東叡山御門前に相成、元黒門町に引続町屋に御成候に付新黒門町と唱候哉」と述べられているのに由来する。上野新黒門町は、御成道(現在の中央通り)の両側に形成されていたが、明治二年(1869年)、御成道を境にして東西に二分され上野西黒門町、上野東黒門町として新たに発足した。翌三年、東京府の近代都市政策のもと、下谷第三十九番組に属し、地元指導者を中心にまちづくりが始まった。そして、明治五年(1872年)付近の武家屋敷を合併し、本町は形づくられた。明治四十四年に上野の二字をはずし、東黒門町となつた。
上野四丁目交差点を左折して不忍通りに入ります。そのまま素直に不忍通りを進めば、終点の神明町に至るのですが、都電40系統は交差点の先から不忍池のある上野公園に入っていったようです。現在は車止めがあって車は入れませんが、恐らくはここに都電の線路が敷かれていたのでしょう。
公園の入口に旧町名由来案内板が立っています。「上野恩賜公園」というのが町名だったんですね。実際には住民はいなかったと思いますが。
下町まちしるべ 旧上野恩賜公園
江戸時代初期、この地は津軽・藤堂・堀家の屋敷であったが、徳川三代将軍家光は天海僧正に命じて寛永寺を建てさせた。寛永二年(1625年)のことである。その後大きな変化もなく幕末を迎えるが、慶応四年(1868年)の彰義隊と官軍の戦争により寛永寺が焼失、一面焼け野原と化した。荒れ果てた姿のままであったが明治六年一月の太政官布告により公園に指定されたことから公園地となった。恩賜公園のいわれは、大正十三年に帝室御料地だったものを東京市へ下賜されたことにちなんでいる。その後規模・景観はもとより、施設など我が国有数の都市型公園として整備された。面積六十二万平方メートル余り。上野公園生みの親がオランダ人医師のボードワン博士。病院建設予定地であった上野の山を見て、その景観のよさから公園にすべきであることを政府に進言し実現したものである。
公園の入口横に「下町風俗資料館」の建物が建っています。「フーゾク」でなく、「歴史」とか「文化」の方が誤解を受けなくていいと思うのですが。
下町風俗資料館の概要
古き良き下町の文化を永く後世に伝えるために・・・
明治・大正ころまでの下町には江戸の名残がありました。しかし大正十二年(1923年)の関東大震災、昭和二十年(1945年)の戦災によって、ほとんどその面影をなくし、さらに目覚しい復興を遂げた戦後、特に昭和三十年代後半には東京オリンピックを契機とする再開発が積極的に進められ、街はすっかり様変わりしました。人びとの暮らしもまた時代とともに変化し、便利さを取り入れた代わりに、古い時代の大切なものが忘れられようとしていました。古き良き下町の文化が失われつつあることに憂いの声が上がったのは昭和四十年代のことでした。「下町風俗資料館」、それは次第に下町を愛する人びとの間に広がり、やがて庶民の歴史である下町の大切な記憶を次の世代へ伝えるための資料館設立の構想が生まれたのです。これを実現するために台東区内外からたくさんの貴重な資料が寄贈されました。そして、多くの人びとの長い歳月をかけた願いが実り、台東区立下町風俗資料館は、昭和五十五年(1980年)10月1日に、ここ不忍池畔に開館いたしました。
都電40系統の線路がどの辺りに敷設されていたのか分かりませんが、不忍池キワキワのところか、動物園通りとの境界線に沿っていたのではないかと思われます。当時の車内からは今林立している高層マンション群など想像もできなかったことでしょう。
不忍池の辺に石造りの記念碑が建っています。日本で最初の駅伝が行われたことが記されています。ちなみに、奠都(てんと)とは、新たに都を定める事をいいます。明治維新に際して、明治天皇が京都から東京に移った時は、京都を都として残す形をとり、遷都(せんと)ではなく、東京奠都が行われました。
駅伝の歴史ここに始まる
我が国、最初の駅伝は、奠都五十周年記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競走」が大正六年(1917年)年四月二十七日・二十八日・二十九日の三日間にわたり開催された。スタートは、京都・三条大橋、ゴールは、ここ東京・上野不忍池の博覧会正面玄関であった。
不忍池の中に、弁財天を祀った弁天堂が建つ弁天島があります。寛永寺の開祖である天海が不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえて弁天島(中之島)を築かせ、そこに弁天堂を建てたといわれています。創建当初は橋がなく、弁財天への参拝は船で行われていましたが、不便だという理由で寛文十年頃に陸道が造られました。陸道の正面に位置するのは大黒堂です。
東叡山 寛永寺 不忍池辨天堂 大黒堂
■大黒天とは
このお堂は、豊臣秀吉公が大切に護持したと伝わる大黒天が祀られる、東叡山寛永寺(天台宗)の伽藍の一つです。大黒天はもともとインド古来の「マハーカーラ」という戦争の神、時間を支配する恐ろしい神と考えられてきました。やがて日本に仏教が伝わり、民間信仰の対象となってからは、日本古来の福神の大国主命と同体である(大黒と大国は同音であるため)という考えが生まれて武神から福神へと変化し、広く親しまれるようになりました。打ち出の小槌や米俵に乗って福袋を担ぐお姿で知られる大黒天のご利益は、開運招福や家門繁栄、富貴をもたらすなどであり、また寺院の食料の守護神として祀られるようになりました。この大黒堂は太平洋戦争で焼失しましたが、ご本尊の大黒天は安泰で、昭和四十三年に旧位置に再建されました。
■大黒さまの縁日「甲子(きのえね)」
大黒天の縁日である「甲子の日」は、毎日に干支を当てはめると最初に当たる日です。そのため物事をはじめるのに縁起を担ぐ習慣が昔からあり、大切にされてきました。また大黒天が食料の守護神とされたことから、鎌倉時代にはその使いが鼠(ねずみ)と考えられるようになりました。子(ね)を鼠と結びつかせ、鼠を大黒天の使者とみなして甲子の日に大黒天祭(甲子祭)が行われ、甲子待(かっしまち)と言って、子の刻(二十三時頃)過ぎまで起きて大豆、黒豆、二股大根などをお供えし、大黒天を祀るという習慣に通じました。
■辯天さまと大黒さま
辯才天を祀る辯天堂の境内になぜ大黒天が祀られているのでしょうか。これは、大黒天と毘沙門天と辯才天が合体した「三面大黒」にその淵源を探ることが出来ます。大黒天は「食料や富を授ける」、毘沙門天は「武力や勇気を授ける」、辯才天は「美や才能を授ける」福神とされ、六本の手には衆生を救済し福徳を授けるとされる様々な道具も持っており、合体することでよりご利益が増えると考えられました。この三面大黒を最初に信仰されたのが日本天台宗の宗祖である伝教大師最澄さまであり、また豊臣秀吉公も出世を願って三面大黒を信仰したことで「豊太閤」となったと伝えられています。
☆江戸最古の七福神とされる「谷中七福神」の大黒天は、寛永寺の旧釈迦堂である護国院に祀られています。
辨天堂は、大黒堂の横手にあります。本来ならば位置関係は逆のような気がします。
弁天堂
寛永二年(1625年)天海僧正は、比叡山延暦寺にならい、上野台地に東叡山寛永寺を創建した。不忍池は、琵琶湖に見立てられ、竹生島に因んで、常陸(現茨城県)下館城主水谷勝隆が池中に中之島(弁天島)を築き、さらに竹生島の宝厳寺の大弁才天を勧請し、弁天堂を建立した。当初、弁天島へは小船で渡っていたが、寛文年間(1661年〜1672年)に石橋が架けられて、自由に往来できるようになり、弁天島は弁天堂に参詣する人々や行楽の人々で賑わった。弁天堂は、昭和二十年の空襲で焼失し、昭和三十三年九月に再建された。弁天堂本尊は、慈覚大師の作と伝えられる八臂の大弁才天、脇士は毘沙門天、大黒天である。本堂天井には、児玉希望画伯による「金竜」の図が画かれている。また、本堂前、手水鉢の天井に、天保三年(1832年)と銘のある谷文晁による「水墨の竜」を見ることができる。大祭は、九月の巳の日で、已成金という。
BENTEN-DO
This Benten-Do was constructed by Mizunoya Katsutaka in the early 17th Century. He was a lord of the present day Shimodate city, Ibaraki prefecture area. He made a man made island and made it a subsidiary of the Benten at the Hogon-ji temple on Chikubu Island in Lake Biwa (Shiga prefecture). At the time, it seems that crossings to the island were made by boat but a stone bridge was erected in the late 17th Century and since then it has been visited by many people. The original hall and important Cultural Assets were destroyed by a US air raid in 1945. It was rebuilt in 1958. The "Kin ryu (golden dragon)" on the ceiling of the hall is a work by the painter Kodama Kibo and the dragon on the ceiling of the water basin was painted by the famous early 19th Century artist Tani Buncho.
もうひとつ、辨天堂の案内板があります。
東叡山 寛永寺 不忍池辨天堂
■辯天堂の縁起
このお堂は、江戸初期の寛永年間に、東叡山寛永寺(天台宗)の開山、慈眼大師天海大僧正によって建立されました。天海大僧正は、「見立て」という思想によって上野の山を設計していきました。これは、寛永寺というお寺を新しく建立するにあたり、さまざまなお堂を京都周辺にある神社仏閣に見立てたことを意味します。不忍池は、辯天さまの持つ琵琶の形に似ている滋賀県の琵琶湖に見立てられ、また元々あった聖天(しょうてん)さまが祀られた小さな島は竹生島に見立てられ、さらに水谷伊勢守(みずのやいせのかみ)勝隆(かつたか)公と相談して、島を大きく造成することで竹生島の宝厳寺(ほうごんじ)」を見立て、このお堂を建立したのです。太平洋戦争の空襲で一帯は焼けてしまいましたが、昭和三十三年(1958年)に復興し、また昭和四十一年(1966年)には芸術院会員であった児玉希望(こだまきぼう)画伯による龍の天井絵が、また門下による季節の花の絵が奉納されました。
■辯才天の縁日「巳の日」
辯天堂にお祀りされるご本尊さまは秘仏「辯才天」です。学問や音楽と芸能の守り神として広く信仰され、また「辯財天」とも書くことから、金運上昇といったご利盆があります。なおこのお堂の辯才天は、八本の腕それぞれに悪や災難を遠ざける徳の象徴である仏具を持つ「八臂辯才天(はっぴべんざいてん)」さまです。辯才天は、もともとインドのサラスヴァティー河の神格化から生まれたインド伝来の女神です。そのため河川が曲折して土地を「蛇行」することから、水と蛇と深い関わりがあると古来より考えられました。そのためこのお堂では毎月の「巳の日」を縁日としています。またこのお堂のご本尊さまは、顔が翁で体が蛇というお姿の「宇賀神」を頭上にいただいています。辯才天と宇賀神はいずれも水と深く関わり、水は豊かな産物の元であることから、どちらも五穀豊穣につながる福神として古来より信仰されてきました。毎年九月に行われる「巳成金(みなるかね)大祭」では、年に一度の秘仏ご本尊のご開帳と、小判のお守りや福財布をお授けしています。
■七福神のはなし
不忍池辯天さまは江戸最古の七福神とされる「谷中七福神」のひとつです。七福神への信仰は江戸時代に大変に盛んになりましたが、これを広めたのが天海大僧正であったと言われています。当時は七福神が宝船に乗った絵を正月に買い求め、枕の下に敷いて「よい初夢」を期待するという風習が広く行われていました。現在も谷中七福神めぐりの期間は多くの参詣者を集めています。
弁天島には多種多様の石碑が建てられています。「めがね之碑」が何故弁天島にあるのかといいますと、慈眼大師(天海)に縁があるからとのことです。「慈眼」という称号は朝廷から賜ったとのことですが、その理由は分かりません。
めがね之碑
眼鏡がはるかに海を越え、我が日本に渡来したのは四百二十余年前のことであります。文化の発達につれてめがねの需要も増大し、文化・政治・経済に貢献した役割は誠に大なるものがあります。その間、業界先覚者の研鑽努力により今日の発展をみるに至ったことを回想。明治百年を記念して、その功績を顕彰し、慈眼大師ゆかりの地上野不忍池畔にその碑を建立し、感謝の念を新たにするものであります。
鳥塚や包丁塚まであります。弁財天様は料理の神様なのでしょうか?
話は逸れましたが、都電40系統は不忍池の先をどのように進んでいたのでしょうか?今は線路がないので分かりませんが、弁天門から不忍池沿いに西園の中を進み、上野動物園モノレール(上野懸垂線)の上野動物園西園駅傍にあったであろう動物園電停で停車し、上野グリーンクラブ横の路地に出て、池之端二丁目交差点に向かったいたのではないかと思われます。さすれば、動物園電停で下車すれば、入園料を払わなくても園内に入れた?なんかヘンだな。蛇足ですが、上野動物園のモノレールは2019年11月から長期運休しています。上野動物園で60年以上親しまれ、老朽化で運行が難しくなったとの理由です。東京都は、レールの下に車両がぶら下がる「懸垂型」を廃止し、レールの上をまたいで走る小形の「跨座(こざ)型」を計画しているとのことです。
池之端二丁目交差点の手前に小さな児童遊園があり、往年の都電車両が展示されています。ここは、かっての池之端七軒町電停跡です。昭和三十年代の都電全盛期の時代には、都電20系統(江戸橋〜須田町)、都電37系統(三田〜千駄木町)、そして都電40系統と、三つの路線が池之端七軒町電停(廃止時は池之端二丁目電停に改称)に発着していました。
フェンスに掛けられた案内板には、当時の池之端七軒町電停に停車している都電20系統の写真が添えられています。行き先表示が「江戸川橋」となっていることから、電車の後方が上野動物園で、手前のカーブした先の池之端二丁目交差点から不忍通りに入っていたのでしょう。池之端児童遊園に展示されている都電の車両は7500形で、つい最近まで荒川線で走っていたそうです。
旧都電停留場(池之端七軒町)
ここ、池之端児童遊園は、かつて都電停留場(池之端七軒町)のあった場所です。昭和三十年代の都電全盛期の時代には、20系統(江戸川橋〜須田町)、37系統(三田〜千駄木二丁目)、40系統(神明町車庫前〜銀座七丁目)と三つの路線が走っていた区間でしたが、昭和四十二年(1967年)12月に37・40系統が廃止、昭和四十六年(1971年)3月には20系統も廃止になり、池之端七軒町(廃止時は池之端二丁目に改称)の停留場は姿を消しました。平成二十年3月、都電停留場だったこの場所に都電車両を展示し、地域の歴史が学べ、まちのランドマークとなる児童遊園として整備しました。使用したレールは、東京都交通局荒川線で使われていたものを再使用しました。
都電7500形(7506号車)
ここに展示された都電は7500形といわれる形式で、昭和三十七年に製造された旧7500形を車体更新したものです。旧7500形は昭和五十九年以降、台車と主要機器を流用した車体更新が施され(て)現在の7500形となり、都電で初めて冷房装置が搭載されました。この車両は、平成二十年1月末まで都電荒川線(三ノ輪橋から早稲田)を走行し、平成二十年2月1日東京都交通局より台東区に譲渡されました。
池之端二丁目交差点から不忍通りに入ります。不忍通りと言問通りが交差する根津一丁目交差点周辺は、かって根津八重垣町と呼ばれていました。
旧町名案内 旧根津八重垣町(昭和四十年までの町名)
宝永三年(1706年)根津神社が、元根津(団子坂上の北側)から現在地(六代将軍家宣の生まれた甲府中納言家徳川綱重の山手屋敷であった)に移って、その門前に町屋が開かれ、根津門前町といわれた。明治二年、根津八重垣町と町名を改めた。それは、根津神社の祭神素盞鳴尊の歌によったといわれる。
八雲起つ 出雲八重垣つまごみに
八重垣造る その八重垣を
根津の名称は、根津神社の天井や絵馬などに、ネズミが多くかかれていることからではなかろうか。大黒天(大国主命)が祭られているが、ネズミはその使いといわれる。(「御府内備考」)
つつじが有名な根津神社の近くに、行列が出来ている一軒のたい焼き屋さんがあります。店名は「根津のたい焼き」とあります。最近、たい焼きのチェーン店はあちこちで見かけますが、「根津」を冠しているということは当地のみのお店なのでしょう。ネットには、「たい焼き史上最高の味」とのコメントが寄せられています。60年以上もの歴史があり、たい焼きの皮には一切卵を使用していないそうで、非常に薄皮でパリパリとしていて食べた時の食感が良いそうです。尻尾までねっとりした甘さが控えめな粒あんが詰まっていて、最後まで美味しく食べれるとのこと。10時〜14時の営業時間中はいつも行列が絶えないそうです。一匹買えばよかったなぁ。
団子坂下交差点周辺は、かって駒込坂下町と呼ばれていました。団子坂の名前の由来は、坂の傍に団子を売る茶店があったからなんですね。
旧町名案内 旧駒込坂下町(昭和四十年までの町名)
元文年間(1736年〜1741年)開かれた町で、千駄木坂の下にあるので、千駄木坂下町と名づけられた。明治二年に、板倉摂津守屋敷跡、明治二十四年に元駒込村字本根津下、笹原下、藪下の内及び元日暮里村飛地を併せた。明治四十四年、町名を駒込坂下町と改めた。千駄木坂は、坂上から東京湾の海が見えたから潮見坂、坂の傍に団子を売る茶店があったから団子坂、また坂下に七面堂があったから七面坂といろいろな別名がある。団子坂は、明治時代菊人形で有名であった。また坂上には森鴎外が長く住み(観潮楼・現区立鴎外記念本郷図書館)多くの名作を残した。
道灌山下交差点に来ました。道灌山は、西日暮里にある高台で、田端や王子へ連なる台地の少し高い場所にあります。名称の由来は、江戸城を築いた室町時代後期の武将・太田道灌の出城址という説、鎌倉時代の豪族・関道閑(せきどうかん)の屋敷址という説、キツネが住んでいた(または稲荷が祀られていた)ので稲荷山(とうかやま)と呼ばれたのが訛ったという説があります。道灌山上には、進学校として知られる開成学園の校舎が聳えています。
駒込には坂が多いですね。坂上の北側には、かって目赤不動尊がありました。不動坂と呼ばれるべきところを略して動坂と呼ばれつようになったということです。
動坂(堂坂)
この坂の由来については下記の通りである。「千駄木に動坂の号あるは、不動坂の略語にて、草堂ありし旧地なり」(江戸名所図絵)
元和年間(1615年〜1624年)万行上人が伊勢の国赤目山で不動明王像を授けられ、衆生済度のため諸国を回り、駒込村のこの地に庵を設けた。その後三代将軍徳川家光により現在の本駒込一丁目に移された(現南谷寺)。この本尊は江戸時代から五色不動(赤・白・黒・青・黄)として有名である。その跡には日限(ひぎり)地蔵堂がたてられ信仰をうけていたが、現在、地蔵は徳源院に移されている。明治二十六年お堂の修理中地下より土器・石器が発見され、昭和四十九年には駒込病院敷地からも多数出土している。「動坂は田畑村へ通ずる往来にあり、坂の側に石の不動像在り、是れ目赤不動の旧地なり。よりて不動坂と称すべきを上略せりなりと言う」(御府内備考)
歩道に面して小さな広場があり、ミニチュアのような社が鎮座しています。壁には駒込神明町の案内プレートが貼り付けてあります。
旧駒込神明町(昭和四十一年までの町名)
もと、北豊島郡駒込村の内であった。明治二十四年に東京市に編入された。町名は、駒込の総鎮守天祖神社の旧称である神明社のあることから名づけられた。
駒込は一富士二鷹三茄子 (古川柳)
富士は富士神社、鷹は鷹匠屋敷で現駒込病院の地にあった。また富士神社裏一帯の畑からは富士裏のなすがとれて、有名であった。
都電神明町車庫の跡地には、文京区勤労福祉会館と都営本駒込四丁目アパートが建っています。都電の車庫跡は、バスの車庫と都営住宅をセットにして利用するのが多いのですが、公共の施設を建てることもあります。まれに、民間の商業施設として売却する例もあります。何しろ、立地条件がいいですからね。
それと、跡地の一部を公園として活用する例も多くあります。神明都電車庫跡も、一部が公園になっています。神明都電車庫跡公園には、実際に使われた電車が保存・展示されています。電車の大きさと比べて、公園の敷地の広さが目立ちます。
公園に展示されているのは6000形の車両で、実際に都電40系統として運行していたものです。
都電客車の由来
ここに展示された都電は客車6000形といわれる形式で、昭和二十二年に1号車(6001号)が誕生し、昭和二十八年までに289両の車両が製造され、都内全域にわたり活躍しました。ここにある6063号は、昭和二十四年3月に63番目に製造されたものです。活躍の第1号は、昭和二十四年3月19日から青山車庫管内の路線を走行し、それから大久保、南千住車庫管内に移り、昭和二十四年9月からは、神明町車庫管内を走行し、昭和四十五年12月28日荒川車庫管内に移籍し、昭和五十三年4月27日まで約29年間活躍し、廃車となりました。
形式 半鋼性ボギー電動客車(6063号)
定員 96人(内座席22人)
面積 19.62u
最大寸法(長×巾×高) 12300X2210X3700
自重 15t
都電に貨物車があったとは初めて知りました。戦中と戦後復興期には物資の輸送に活躍したのですね。都心を縦横に網羅する都電は小物の輸送手段としては最適だったのかもしれません。
貨物車の由来
ここに展示した貨物車は乙2型といわれております。この貨物車は昭和十六年に乙10型を改造したものです。この貨物車は幸い戦火をまぬがれ、戦後も軌道敷の砕石などを輸送し、また一時は野菜、魚介類などの食料品輸送にも活躍したそうですが、昭和四十六年3月20日に荒川車庫で廃車となりました。
形式 電動無蓋四輪貨物乙2型
荷重 5t
積載容量 15立方メートル
面積 8.369u
最大寸法(長×巾×高) 7650X1980X3453
神明町電停は、恐らく都電神明町車庫の前にあったものと思います。なので、現在の本駒込四丁目バス停を都電40系統の終点とします。
都電40系統は花の中央通りを走っていましたので、沿線には見所が沢山ありました。歩いたのはほぼ1年前のことでしたので、その時と今では状況が大分違っているところがいろいろあります。たった1年ですが、都心の変貌ぶりには驚かされます。
戻る