- 都電臨時1系統跡コース
- コース 踏破記
- 今日は都電臨時1系統跡を歩きます。都電臨時1系統は三田から雷門までを結び、その路線は主に第一京浜(国道15号線)・中央通り・江戸通り・【駒形橋二丁目〜雷門】を通っていました。都心を南北に縦断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。また、多くの都電がこの区間を重複して走っていました。
都電臨時1系統
都電臨時1系統は、昭和42年12月9日に廃止となりました。
都電臨時1系統の電停(路上の駅)は、三田・東京港・金杉橋・大門・浜松町・新橋五丁目・新橋・銀座七丁目・銀座四丁目・銀座二丁目・京橋・通り三丁目・日本橋・室町一丁目・室町三丁目・本町三丁目・小伝馬町・馬喰町・浅草橋・浅草橋駅・蔵前一丁目・蔵前三丁目・厩橋・駒形二丁目・雷門でした。
都電臨時1系統の始点である三田電停はどこにあったのでしょうか?普通に考えれば、電車との接続が便利な田町駅前に電停を設置しますよね。でも、ネットにはそういった情報は見つかりません。ある記事では、かって都電の三田車庫があった跡地が港区勤労福祉会館と都営住宅になっているそうです。車庫から三田駅まで戻る訳はありませんから、車庫前が始点だったと考えられます。ということで、国道15号線(第一京浜)と日比谷通りの交点で、港区勤労福祉会館が面している芝五丁目交差点を都電臨時1系統の始点と定めます。
芝四丁目交差点から旧海岸通りが延びています。トレンディなテレビドラマの舞台にも度々登場した道路です。都会的でお洒落な響きですが、実際のところはどうなんでしょう?交差点の先に「芝地区ちぃまっぷ」が立っています。篤姫は薩摩藩一門の家に生れたんですね。NHK大河ドラマ「青天を衝け」にも登場するそうですが、篤姫を演じるのは鹿児島出身の上白石萌音さんです。私は名前が似ているので、今まで乃木坂46のメンバーだった白石麻衣さんと混同していました。
芝地区ちぃまっぷ
七曲がり
篤姫が江戸にやってきて最初にくらしたという薩摩藩上屋敷。カクカクと曲がっている「七曲がり」の形状は当時の上屋敷と西應寺との境の記憶を現在にとどめています。
Nana-magari (Seven corners)
The residence of Satsuma-han (Satsuma feudal clan) in which Atsu-hime (Prince Atsu), the wife of the 13th Shogun Tokugawa lesada, lived when she first came to Edo. The shape of Nana-magari (seven corners) remains the memory of the border between the former residence of Satsuma-han and the Saio-ji Temple.
オランダ公使宿館跡(西應寺)
安政五年(1858年)、幕府とオランダとの間に結ばれた日蘭修好通商条約によって、最初のオランダ公使宿館が西應寺に設置されました。しかし慶応三年(1867年)の薩摩屋敷焼打ち事件の際に一緒に全焼し、貴重な記録も失われてしまいました。
The place where the official accommodation for the first legation of the Netherlands was located (Saio-ji Temple)
As the result of the Treaty of Amity and Commerce between Japan and the Netherlands, the first official accommodation for the minister and the legation was placed in the Saio-ji Temple. All the valuable records, however, were burned completely when the premises of Satsuma-han (Satsuma feudal clan) was attacked in 1867.
金杉橋は古川に架かる国道15号線の橋で、現在の橋は1971年に架替えられたものです。江戸時代に橋が架けられた際、近くにあったセンダンの木が光って見えるようであったことから金杉橋と名づけられたそうです。橋の下は東京湾で営業を行う屋形船の係留場所となっていて、川面には様々な船が浮かんでいます。
新橋駅手前に環二通り(環状二号線)が国道15号線と交差しています。90年以上も前に計画された道路ですが、全線の開通(暫定ですが)は2014年のことです。このうち、新橋〜虎ノ門間は「新虎通り」とも呼ばれますが、この区間はかって「マッカーサー道路」とも呼ばれていました。現在は沿道が整備中ですが、将来的にはパリのシャンゼリゼ通りのようなお洒落な街作りを目指しているのだそうです。本当にそうなるのかは分りませんが。環二通りは立体道路制度を使って虎ノ門ヒルズの地下を通っています。環二通りを地下に通すことで虎ノ門ヒルズの建築が可能になったといっても過言ではありません。立体道路制度は、土地利用の合理化を図るための取り組みの一種で、道路の区域を立体的に定め、道路施設として必要な空間以外の空間の利用を自由にすることで、道路上下に建築物の建設をできるようにした制度です。これにより、民有地内にも道路を整備することが可能となりました。
新橋にやってきました。国道の上にはゆりかもめ線の駅舎が道路を跨いでいます。汐留地区との連絡橋の役割も果たしています。新橋交差点の手前に「芝地区ちぃまっぷ」が立っています。
芝地区ちぃまっぷ
旧新橋停車場 鉄道歴史展示室
開業当時の駅舎基礎石の遺構や改札鋏の現物などが展示されています。デジタル設備も充実し、「旧新橋停車場データベース」で、鉄道史や汐留の歴史、旧新橋停車場などに関するディープな情報も検索・閲覧できます。
Old Shimbashi Station Railway History Exhibition Hall
The foundation of the old station, the old wicket punch, and other items used at the opening time of the station were exhibited. Equipped with various digital facilities and by using the "old Shimbashi Station Data Base", you can research and take a look at the history of railway and Shiodome area and other interesting and detailed information about the old Shimbashi Station.
新橋駅前SL広場
テレビの街頭インタビューでお馴染みのSL広場は、一日中たくさんの人でにぎわう新橋の代表的スポットです。正午と15時、18時の1日3回、それぞれ数秒間にわたり「汽笛一声」を告げています。
SL Square at Shimbashi Station
The SL Square is the very popular and familiar place in which we see the TV reporters to interview people. It is also the most famous place to represent Shimbashi area with many people bustling all day long. The sound of SL whistle blows three times a day at noon, 3p.m., and 6p.m.
「新橋」の由来(親柱跡)
新橋という地名の由来は、かつて汐留川に架けられたアーチ橋「新橋」(「芝口橋」とも呼ばれた)の名前がもとになったという説が有力です。
The origin of the name “Shimbashi"
It is said that the name "Shimbashi" most probably came after the arch-shaped bridge named "Shimbashi" on the Shiodome-gawa River (also called "Shiba-guchi Bridge").
国道15号線は新橋交差点で第一京浜から中央通りに名前を変えます。花の銀座の始まりです。標識では、外堀通り(都道405号)も新橋交差点を通るように表示されていますが、外堀通りは八重洲中央口交差点が起点となり、新橋駅銀座口前交差点で直角に折れ、新橋交差点は通っていないように見えます。また、昭和通り(都道316号線)も新橋交差点は通りますが、新橋駅銀座口前交差点が正式な起点になっています。なので、この標識には少し違和感を感じます。
中央通りに入った先に、かっての汐留川を埋め立てた跡に出来た高架の東京高速道路が上空を横切っています。この地点に架かっていた橋が新橋の地名の由来となった「新橋」でした。江戸城の外堀との合流点に架かっていた「土橋」よりも後に架橋されたので「新橋」の名前が付けられたとのことです。現在は橋の欄干があったところに煉瓦塀が置かれているのみです。
銀座は銀座八丁目から始まります。銀座九丁目に立地していると標榜しているお店もありますが、行政上の町名としては存在していません。かっての花街には新橋・柳橋・霞町などもありましたが、銀座七丁目〜八丁目辺りは官公庁が近くにあったことや鉄道の始発駅だった新橋に近いということで、東京で一番の花街でした。江戸時代に「能」は幕府から優遇され, 金春・観世・宝生・金剛の四家が現在の中央区内(銀座〜京橋)に屋敷を拝領していました。室町時代からの伝統を持つ金春家は現在の銀座七丁目〜八丁目(博品館から三井アーバンホテル・資生堂ビルなどの一帯)に広大な屋敷地を拝領し、金春屋敷と呼ばれていました。金春屋敷は江戸中期(1780年頃)に麹町に移転しましたが、その跡地には芸者やその関係者が住み着くようになり、金春芸者(後の新橋芸者)と呼ばれていました。現在では銀座通り西端の一筋北側の通りが「金春通り」と呼ばれ、「金春湯」という名前の銭湯があったりしてその名残りをとどめています。道路の脇に「金春屋敷跡」の案内板が立っています。
金春屋敷跡
江戸時代、幕府直属の能役者として知行・配当米・扶持を与えられていた家柄に、金春・観世・宝生・金剛の四家がありました。能楽は室町時代に足利幕府の保護奨励を受けて発達し、安土桃山時代には熱心な愛好者であった豊臣秀吉の保護を受けて大いに興隆しました。特に、金春家は秀吉の強力な保護を受け、能楽の筆頭として召し抱えられました。江戸幕府も秀吉の方針を踏襲して能楽を保護し、金春・観世・宝生・金剛の四座を幕府の儀礼に深く関わる式楽と定めました。元禄六年(1693年)頃の江戸市中の状況を記した「国花万葉記」によると、金春大夫は山王町(現在の銀座八丁目)・観世大夫は弓町(現在の銀座二丁目)・宝生大夫は大鋸町(現在の京橋一丁目)・金剛大夫は滝山町(現在の銀座六丁目)に屋敷を拝領していたとあります。金春家は、寛永四年(1627年)に屋敷を拝領したといわれ、寛永江戸図「武州豊嶋郡江戸庄図」には「金春七郎」の名が確認でき、現在の銀座八丁目六・七・八番辺りに図示されています。後に屋敷は麹町(現在の千代田区)に移りましたが、跡地には芸者が集まり、花街として発展しました。金春の名は「金春湯」「金春通り」などと、今もこの地に残っています。
Remains of Konparu Residence
There were four families of Noh actor's under the immediate control of Tokugawa shogunate in Edo period: Konparu family, Kanze family, Hosho family and Kongo family. Noh developed under the protection and encouragement of Ashikaga shogunate in Muromachi period and prospered under the protection of Toyotomi Hideyoshi who was an earnest lover in Azuchi-Momoyama period. Hideyoshi particularly protected and employed Konparu family as the first family of Noh. Tokugawa shogunate followed the policy of Hideyoshi and fixed the four families to use in the ceremonies of
the shogunate. Konparu family is said to have received a residence in Sannou-cho (Ginza 8-chome) in 1627. The name of "Konparu Shichiro" can be confirmed in a map of Edo in Kan-ei era. "Bushu Toshima-gori Edo Shozu". The residence moved to Kojimachi (Chiyoda-ku) later, and the ruins developed as geisha district. The name of Konparu is found in the names such as "Konparu-yu" and "Konparu-dori" now.
折角なので金春通りを歩いてみようと思います。道りの脇に煉瓦と石で造られた案内碑がさりげなく置かれています。
土台の石碑には、かっての金春通りの風景がブロンズのプレートに彫られています。タイトルが「金春通と煉瓦遺構の碑」とありますので、昔の銀座には煉瓦造りの建物が普通に見られたのでしょう。
銀座は日本に二箇所しか建設されなかったきわめて貴重な煉瓦街の一つです。もう一つは丸の内の煉瓦街でした。しかし今日では残されたこうした遺構から明治時代の煉瓦街を窺い知るほかはありません。設計者はトーマス・ジェイムズ・ウォートルスというイギリス人です。フランス積みで、明治五年から十年にかけて当時の国家予算の四%弱を費やし、延べ一万メートル余もあったといわれています。この煉瓦は銀座八丁目八番地(旧金春屋敷地内)で発掘されたものでゆかりの金春通りに記念碑として保存される事になりました。下の絵は、明治初期のガス灯や張り板、提灯など当時の金春通り煉瓦街を偲ばせる古い写真を元に銅版に彫金したもので、見る角度により昼夜の陰影が出るよう微妙な細工が施されております。
銀座八丁目の中央通りに面した敷地に、地上12階建(塔屋1階)の「HULIC&New GINZA 8」という名称の商業テナントビルが建設されています(歩いた当時は建設中でしたが、2021年10月15日に竣工しました)。高さ約56m・延べ面積2459.55uの耐火木造と鉄骨造を組み合わせたハイブリッド構造で、12階建ての木造建築の商業ビルは日本初とのことです。デザイン監修は新国立競技場や高輪ゲ−トウエイ駅を手がけた隈研吾氏が担っています。銀座に木造の高層ビルとは素敵ですね。
銀座七丁目と銀座八丁目を分け、中央通りと交差する通りが「花椿通り」です。名前の由来は、昭和初期に出雲から寄与された出雲椿(ヤブツバキ)が街路樹として植えられたことからその名がつけられました。現在は、御影石がきれいに敷きつめられ、その整備の記念として椿の花を持ったポニーテールの少女「はな」の像が置かれています。出雲から寄与された8本の椿は現在も健在で、3月〜4月にかけてきれいな赤い花を見ることができます。クリスマスシーズンにはライトアップされ、恋人たちの目を楽しませています。1年を通して老若男女を問わず、各国からの観光客も訪れる活気あふれるストリートとして愛され続けています。
銀座でビアホールといえば、銀座ライオンですね。ビールの本場ドイツ流のホールには格調高い雰囲気があります。
生ビールの殿堂としての風格
この建物は、昭和九年、当時の大日本麦酒株式会社の本社社屋として新築され1階でビヤホールを開店しました。建築設計者は、新橋演舞場などを設計した菅原栄蔵氏で、1階の内装は、直営ビヤホールということで特に力を入れて、独特の工夫をこらし、完成時には、建築の専門家を含めて多くの人々から絶大な称賛を受けました。壁面と柱に使用した2種類の色タイルは当時類例を見ないものであり、カウンター周りは、ドイツから輸入した大理石が使われています。正面と左右壁画には、初めて我が国でつくられたガラスモザイクの壁画を大小10面取り付けました。正面の大壁画は、タテ2.75m・ヨコ5.75m、約250色のガラスモザイクが使われています。ひとつひとつの小さなガラスモザイクの制作は、色調を整えるのに苦心をし、数百回の工程を経て約3年の日時を費やしたと言われています。この壁面に描かれているものは、ビール麦の収穫をする婦人たち、幸せの象徴であるアカンサスの花、そして遠くに見える煙突は当時の恵比寿ビール工場であると語られており、古代と現代を織り交ぜた、不思議かつ大変縁起の良い作品と言われています。戦後、約6年間米軍に接収され、米軍専用ビヤホールとして使用されましたが、昭和二十七年1月接収解除となり、再び庶民に愛されるビヤホールとして営業を再開しました。
This building was built in 1934. This beer hall was designed by Mr.Eizou Sugawara who was one of the best architects in Japan and it took three years to finish its construction. Colored tiles used for the walls and pillars were innovative in those days and marble imported from Germany was used for the counter. Ten wall paintings on both sides and the large painting in the front, for which glass mosaic tiles were used, were made after much trial and error. This beer hall, which has preserved the interior decoration of those days, has come to be loved as a symbol of "beer culture". This building was taken over by U.S. Army for 6 years and used as a designated beer hall for them until 1952. After the release, it restarted as a beer hall loved by all common people.
旧松坂屋デパートが建っていた敷地が再開発され、新しい商業施設のGINZA−SIXが誕生しました。オープン時に買い物ではなく見物に行ったのですが、あまりの豪華さに圧倒されました。屋上の遊歩道を備えたテラスからの銀座の街の眺めは格別です。
鳩居堂は、書画用品・香の老舗専門店として知られています。寛文三年(1663年)に薬種商として創業し、蛇頂石などの民間療法薬を販売していましたが、その後徐々に業態を転換し、香や文房具を扱うようになりました。京都に本店があり、東京には銀座本店を置いています。1万点の商品があり、4・5千点は常時店内に置いているそうです。中央通りに面した東京鳩居堂本店前は、毎年路線価日本一の場所としてランクされています。屋号の「鳩居堂」は、儒学者の室鳩巣が「詩経」の召南の篇にある「維鵲有巣、維鳩居之」より採って命名したもので、カササギの巣に托卵する鳩の様子から、「店はお客様のもの」という謙譲の心で経営すべきとの意が込められているとのことです。
花の銀座四丁目交差点にやってきました。晴海通りを境に京橋寄りの北側一帯が「銀座四丁目」にあたり、交差点の名称はこれに由来しています。晴海通りの新橋寄りの南側一帯は「銀座五丁目」となり、旧町名は「尾張町」でした。銀座四丁目交差点は、江戸時代は「尾張町四ツ辻」、昭和初期までは「尾張町交差点」と呼ばれていました。交差点を取り囲むように三越・和光本館・三愛ビル・銀座プレイスが建っています。銀座和光は、明治十四年(1881年)12月にセイコーの始祖である服部金太郎によって「服部時計店」として創業されました。本館の時計塔は銀座のシンボル的存在になっていて、時計台に設置された鐘楼からは店舗営業時間中の毎時0分にウェストミンスターの鐘を演奏して時刻数の鐘を鳴らしています。私は銀座四丁目交差点は何百回も通りましたが、鐘の音は一度も聞いたことはありません。
三越デパートの入口脇に鎮座するライオン像は未だマスクをしています。このマスクは人間には大き過ぎますから、特注のものなのでしょう。誰が作ったのかな?格子目が美しい銀座プレイスビルの日産ショールームにはフォーミュラーカーが展示されています。日産自動車は今までF1には参戦しませんでしたが、2022年〜2023年シーズンのFIAフォーミュラE世界選手権でマクラーレン・レーシングにパワートレインを供給することになりました。展示されている車はそのプロトタイプなのでしょうか?
歩道脇に「日本の道100選」として、銀座通りの石柱が建っています。石柱の記述からすると、純粋な銀座通りは日本橋一丁目〜新橋一丁目までの区間を指すみたいです。
明治近代化のシンボル・銀座
中央区日本橋一丁目〜港区新橋一丁目
沿道の銀座商店街は明治始めの日本初のレンガ街を出発点として、西欧風の新しいタイプの繁華街として発展してきた。しゃれたデザインの街並みは、近代日本の象徴としてモダンなストリートライフを生み出してきた。
「銀座発祥の地」という石碑も建っています。
銀座発祥の地
銀座役所趾
慶長十七年(紀元2272年・西暦1612年)、徳川幕府此の地に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置す。当時町名を新両替町と称しも、通称を銀座町と呼称せられ、明治二年遂に銀座を町名とする事に公示さる。
銀座一丁目の外れ近くにきらびやかなビルが建っています。銀座・有楽町の商業施設の建設ブームの先駆けとなり、2014年10月30日にオープンした「KIRARITO GINZA(キラリトギンザ)」という名前の商業施設です。「ブリリアント ライフステージ」というキーワードを軸に、人生において「キラリと輝く瞬間」である結婚式の式場が入る商業施設として「銀座で最も幸せな場所」となる願いを込めて命名されました。銀座通りの建物では前例がない100平方メートルのオープンテラスを4階部分の通り沿いに設け、エリア最大の屋上ガーデンが設けられています。ダイヤモンドのブリリアントカットをモチーフに、光の反射で時間とともに表情を変えるファサード(建物の正面)とし、建物全体がキラキラと輝く演出が施されています。地下一階には、「俺のフレンチ」と「俺のイタリアン」のお店が向かい合っています。気分によってフレンチかイタリアンが選べていいですね。
とんがり帽子の交番の横に、京橋の親柱が保存されています。京橋は、かって江戸城の外濠(現在の西銀座ジャンクション付近)から楓川・桜川の合流地点(現在の京橋ジャンクション付近)までを流れていた長さ約0.6kmの京橋川に架かっていた橋です。現在は埋め立てられた京橋川の跡地に東京高速道路が高架で通っていますが、銀座通りと交差する地点に京橋の親柱が3体保存展示されています。2体は銀座通りの東側、1体は西側に置かれています。西側の親柱の横に案内板が立っています。
京橋の親柱
京橋は、慶長八年(1603年)の創建とされる日本橋とほぼ同時期に初めて架けられたと伝えられる歴史のある橋です。昭和三十八年から昭和四十年にかけての京橋川の埋立て工事に伴って撤去されましたが、その名残りを留めるものとして、石造の親柱二基と、石およびコンクリート造の親柱一基が残されています。このうち、二基の石造親柱は、明治八年(1875年)に石造アーチ橋に架け替えられた時のものです。江戸時代の伝統を引き継ぐ擬宝珠の形をしており、詩人の佐々木支陰の筆による「京橋」と「きやうはし」の橋名が彫られています。また、石およびコンクリート造の親柱は、大正十一年(1922年)の拡張工事でアール・デコ風の橋に架け替えられた時のものです。照明設備を備えた近代的な意匠を持ち、「京橋」と「きようはし」の橋名と「大正十一年十一月成」の銅板プレートが付けられています。明治・大正と二つの時代に設置された親柱は、近代橋梁のデザインの変化を知ることができる貴重な建造物として、中央区民文化財に登録されています。
Main Pillars of Kyobashi
Kyobashi is a historic bridge that was built around the same time when Nihonbashi Bridge was built in 1603. Although Kyobashi was removed due to land reclamation work along the Kyobashi River from 1963 to 1965, two stone pillars and one stone-concrete pillar remain as its vestiges. The two stone pillars were installed when a stone arch bridge was built as Kyobashi in 1875. The pillars take the form of a giboshi (bridge railing-post knob) and follow the tradition of the Edo period with the characters "Kyohashi" written by poet Sasaki Shiin being carved as the name of bridge. The stone-concrete pillar was installed in 1922 during the extension work for building an art deco bridge. The pillar had a modern design with lighting facilities with the installation of a copper plate indicating that it has the name of bridge -"Kyobashi" and "Kyobashi"- and was "built in November 1922". These main pillars installed in the Meiji and Taisho period are registered as Cultural Properties of Chuo-city because they are valuable building structures that show the changing design of modern bridges.
東側の親柱の一方の横には石碑が建っていて、「煉瓦銀座之碑」と書かれた銅板のプレートが埋め込まれています。明治五年(1872年)の大火の後、街の不燃化が計画され、銀座煉瓦街が建設されました。以後この煉瓦街と街路樹の柳は銀座の名物となりました。煉瓦街も柳も街の発展とともに姿を消しましたが、その後煉瓦が発掘されたのを契機に昭和三十一年(1956年)、当時のままの「フランス積み」という方式で再現し、そこに煉瓦の碑が建てられました。碑のそばには明治七年(1874年)に設置されたガス燈の実物が復元されています。
煉瓦銀座之碑
明治五年二月二十六日(皇紀2532年、西暦1872年)
銀座は全焼し延焼築地方面に及び焼失戸数四千戸と称せらる。東京都府知事由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企画建策し、政府は国費を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築を完成す。煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店街形成の濫觴となりたり。
警察博物館前の広場にある東側のもうひとつの親柱の横に石碑が並んで置かれています。碑文には古めかしい説明文が書かれています。
京橋親柱の碑文
京橋は古来より其の名著える創架乃年ハ慶長年間なるが如し明暦以降数々架換へられ大正十一年末現橋に改築せらる此の橋柱は明治八年石造に架換へられたる時の擬寶珠欄干の親柱として橋名の書ハ明治の詩人佐々木支陰乃揮毫に係るものなり
警察博物館は、日本の警察の始まりから現代までの歴史的な資料を展示し、現在の警視庁の活動について紹介する、来て・見て・学び・体験できる博物館です。ただし、警視庁内での正式名称は「警視庁広報センター」となっています。昔は古風な建物でしたが、平成二十九年(2017年)4月29日に1年間の改装工事を経てリニューアルオープンしました。警視庁創設者である川路大警視に関する資料をはじめ、草創期からの事件に関する資料や、制服等装備品の変遷を展示するほか、警察各分野で活動する警察官の紹介等を行っています。子供たちにも興味を持ってもらうよう、アニメーションを使った映像作品や警察官の仕事を疑似体験できる展示装置などを導入し、楽しく警察の活動を学べる施設になっています。
高級食材やワインの品揃えで知られる明治屋は、明治十八年(1885年)に創業者磯野計が横浜でシップチャンドラー(船舶納入業)として創業以来、「いつも いちばん いいものを」をモットーに、日本の食文化向上を目指してきました。日本で初めて瓶ビールの全国販売を行ってキリンビールの基礎を築き、日本で初めて防腐剤を添加しない瓶入り日本酒(月桂冠)を販売して日本酒の新たな流通形態を構築し、明治三十五年には当時まだ日本に馴染みの薄かった発酵バターである小岩井バターの一手販売を開始しました。明治屋京橋ビルは中央区の有形文化財に指定されていて、京橋二丁目西地区再開発に伴い、京橋エドグランビルの建設と共に、改装と耐震化工事を行い、平成二十七年(2015年)9月16日に新装オープンしました。
戸田建設は準大手ゼネコン(売上高が3,000億円を超えるゼネコン)の1社で、歴史的建造物など戦前から官公庁関連や大学関連に数多くの実績を持っています。京橋のド真ん中に本社ビルを建替中ですが、戸田建設は堅実経営で知られ、ゼネコン屈指の強固な財務体質を備えていますので、さほどの負担ではないでしょう。勿論、設計・施工全てを自社で行っています。手掛けた施工実績には、東京湾アクアライン・丸の内オアゾ・有楽町イトシア・日本共産党本部などがあります。共産党本部ビルの施工を受注するには余程の信頼関係がなければ難しかったことでしょう。
八重洲一丁目8番から日本橋三丁目5番までを結ぶ道路には、中央区が制定した「八日通り」という愛称が付いています。何か由緒のありそうな名前ですが、単に「八」重洲と「日」本橋を結ぶ道であることから「八日」となったそうです。つまんない。
日本橋交差点の手前に高島屋があります。三越と並び称される老舗のデパートです。地下の食品街にはよく行きましたね。ワインの贈り物をする際は、やはり高島屋の包み紙でないとね。ちなみに、高島屋S.C.の「S.C.」とは、「ショッピングセンター」の意味だそうです。元々は都市の郊外にあるショッピングセンターやショッピングモールなどの形態を先取りして玉川高島屋などに付けられました。日本橋は都心ですが、新都市型ショッピングセンターの意味を込めて命名されたようです。
かって日本橋交差点の角には白木屋(しろきや)百貨店が建っていました。白木屋は、越後屋(現三越)・大丸屋(現大丸)と並び江戸三大呉服店のひとつで、日本の百貨店の先駆的存在でもありました。江戸時代から昭和にかけて営業しましたが、昭和四十二年(1967年)に東急百貨店に買収され、「東急百貨店日本橋店」へと改称されました。その後、平成十一年(1999年)1月31日に閉店し、336年の歴史に幕を閉じました。跡地にはCOREDO日本橋が建設され、平成十六年(2004年)3月30日に開業しました。
コレド日本橋の裏手から日本橋川岸までの一帯では、現在大規模な再開発が進められています。ここには2026年3月竣工を目指して、ホテル・オフィス・商業施設・住宅・カンファレンス施設・ビジネス支援施設などで構成する地上51階・地下5階・高さ約284m・延べ面積約373,800uの超高層ビルが新設されることになっています。解体・改修を含め、全体で27棟もの建物が再開発の対象になっています。野村證券本社やコレド日本橋も改修されるんですね。ちなみに、日本橋の老舗洋食店「たいめいけん」も昭和四十八年(1973年)に建てられた6階建てのレンガ柄の本店ビルの取り壊しに伴い、2020年10月に一時休業しました(現在は仮店舗で営業中で、2025年に新店舗で再開する予定だそうです)。
日本橋は東海道のみならず、中山道や日光街道など、江戸期に五街道と呼ばれた主要街道の起点とされましたが、現在もここには日本国道路元標が置かれ、都心から各方面に向かう国道の起点となっています。街道の起点ということは、同時に里程の起点でもあり、江戸時代に全国の街道筋に築かれた一里塚はこの日本橋を起点として距離が測られていました。橋は慶長八年(1603年)の架橋といわれています。家康が江戸城東側にあたるこの付近一帯を埋め立て、町割を施した際に架橋されたのでしょう。名称の由来については諸説ありますが、諸国へ通じた起点という意味のようです。現在の橋は明治四十四年架橋の石造二連アーチ橋で、欄干の中央に麒麟、両端に獅子をあしらった青銅製の装飾がつき、平成十一年から国の重要文化財の指定も受けています。
その日本橋の袂に人魚の銅像が鎮座し、横に案内板が立っています。
日本橋魚河岸跡
日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩千魚を荷場げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。この魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心とLて、本船町・小田原町・安針町(現在の室町一丁目・本町一丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変なにぎわいをみせていました。なかでも、日本橋沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した舟が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用Lて運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売場を開いて売買を行ってきました。この魚河岸は、大正十二年(1923年)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。現在、魚河岸のあったこの場所には、昭和二十九年(1954年)に日本橋魚市場関係者が建立した記念碑があり、碑文には、右に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぷりをうかがうことができます。
Remains of the Nihonbashi Riverside Fish Market
Fresh fish and other seafood for consumption in the capital were unloaded for three centuries at the market that operated along the bank of the Nihonbashi River between the Nihonbashi and Edobashi bridges. The Nihonbashi Riverside Fish Market originated in the early Edo period as a sales point for fish left over from the supplies sent to the shogun and daimyos lived in Edo castle town by the fishers of Tsukudajima. The riverbank later became the core of a very busy fish trading district sprawling across the Honfuna-cho, Odawaracho and Anjincho neighborhoods (the present Muromachi 1-chome and Honmachi 1-chome area). The center of activity was the market area along the Nihonbashi River where numerous boats docked, fully laden with fish from nearby coastal waters. Lined with fish shops that throbbed with negotiations in the high-spirited style characteristic of Edoites, with daily transactions totaling as much as a 1000 ryo (equivalent to about 16 kilograms of silver), it was one of the liveliest spots in the city of Edo. During Edo period, the seafood brought in along the Nihonbashi River was sold to dealers aboard the hiratabune (flatboats) pulled up to the wharf along the riverbank, then displayed on stands at shops on the street side of the riverbank warehouse buildings for sale to the food trade. When Tokyo was rebuilt after the Great Kanto Earthquake of 1923, the market was relocated to Tsukiji on the Sumida River, and the Tsukiji Fish Market of Tokyo Metropolitan Central Wholesale Market continues to flourish as the city's seafood wholesaling center. As a reminder of the prosperous trading era of this site, a historical monument was erected in 1954 by people who had been affiliated with the old market, with a summary of the more than 300 years of history from the founding to the relocation of the Nihonbashi Riverside Fish Market.
日本橋を渡った先に三越本店の巨大な建物があります。正面から見ると船の舳先のようです。建物の歴史を記したプレートが壁に埋め込まれています。
東京都選定歴史的建造物 三越本店
三越は、延宝元年(1673年)に「越後屋」として創業した。「三井呉服店」を経て、「三越呉服店」となり、大正三年(1914年)には、鉄筋コンクリート造による大規模な百貨店の新築を行った。当時の建物はネオ・ルネッサンス・スタイルの壮麗な建築で、5階建一部6階、中央部に5階まで吹き抜けのバロック的大空間をもっていた。その後、震災で損傷し、昭和二年に復興するが、更に昭和十年全館の増改築が完成し、現在見られるような規模となった。建物中央部の吹き抜けホールは、アーチ状の天窓からの光りがホール全体を照らし、5階までの各階にはバルコニーがめぐり、アール・デコ風のデザインが目につく。そこに展開する装飾性豊かな空間は見事である。
室町三丁目交差点を右折して中央通りから離れ、江戸通りに入ります。
JR新日本橋駅の地下入口脇に案内板が立っています。
中央区民文化財 長崎屋跡
江戸時代、ここには長崎屋という薬種屋があり、長崎に駐在したオランダ商館長の江戸参府時における定宿でした。諸外国のうち、鎖国政策のため外国貿易を独占していたオランダは、幕府に謝意を表するために江戸へ参府し、将軍に謁見して献上品を贈りました。江戸参府は江戸前期から毎年行われており、商館長の他、通訳・医師などが長崎からにぎやかに行列して江戸に来ました。しかし、経費の問題もあり、江戸中期からは四年に一回となっています。随行したオランダ人の中には、ケンペルやツンベルク、シーボルトなどの医師がいたため、蘭学に興味を持つ青木昆陽・杉田玄白・中川淳庵・桂川甫周・平賀源内をはじめとした日本人の蘭学者・医師などが訪問し、江戸における外国文化の交流の場として、あるいは、先進的な外国の知識を吸収する場として有名になりました。この地は、鎖国下の日本における数少ない西洋文明との交流の場として貴重であり、区民史跡に登録されています。
Cultural Property of Chuo-city
Remains of "Nagasaki-ya"
Here was an apothecary "Nagasaki-ya" in Edo period. When the chief of Dutch trading house in Nagasaki prefecture visited Edo, his party stayed Nagasaki-ya. Dutch medical scientists. for example, Dr. Kaempfer, Dr. Thunberg or Dr. Seybold, joined the party. So, Japanese physicians and academic people, such as Aoki Kon-yo, Sugita Gempaku, Nakagawa Jun-an, Katsuragawa Hoshu and Hiraga Gennai, visited Nagasaki-ya to absorb advanced foreign knowledge. The remains of Nagasaki-ya is specified as a historical site in Chuo-ku, because of the rare place to interact with western civilization under the national seclusion.
歩道の脇に古めかしい石碑が建ち、その横に石碑の碑文を解説した案内板が立っています。
都重寳 石町時の鐘
江戸時代當初の時の鐘で、初め江戸城にあり、二代将軍秀忠の時是を石町に移し、地元四百十町より集めた鐘楼銭で維持され、幕末まで石町時の鐘として親しまれた。鐘楼櫓下では蕪村等が夜半亭と号して誹諧の集ひをしていた事は有名である。傳馬町牢に於ける處刑時もこの鐘を合図に執行されたが、定時に鳴るべき鐘が處刑者の延命を祈るが如く、その都度遅れたとあって、一名情けの鐘とも傳へらる。現鐘は旧楼焼損後、寛永八年に改鋳したもので、銘に寛永辛卯(かのとう・しんきんのうさぎ)四月中浣鋳物師大工椎名伊豫藤原重休とある。昭和五年九月石町寳永時鐘々楼建設会に依り、十思公園に移され、廿八年十一月都重寳に指定さる。
傳馬町牢屋敷跡
大安楽寺・村雲別院・身延別院・十思小学校及び十思公園を含む一帯の地は、江戸時代の傳馬町牢屋敷跡である。牢屋敷は慶長の頃、常盤橋際より移り、明治八年五月市ヶ谷囚獄が出来る(迄)存した。幕末の時、牢屋頭に大番衆石出帯刀御(木に豕:チョ)御用山田浅右衛門がつとめた。當時勤王志士九十六名が處刑されている。
吉田松陰先生終焉之地
長門の藩士吉田松陰先生は兵学に通じ、憂国慨世(世間の現状に怒りを感じ、その成り行きを心配すること)の念篤く、萩の松下村塾で多くの人士養成は遂に有爵者六名、贈位者十七名、有位者十四名といふ著名士を出した。先生は國事を論じた罪により、安政六年七月傳馬町牢に囚はれ、同年十月二十七日時三十歳にて惜しくも最期をとげた。
ついでに、十思公園に立寄ってみます。公園内の桜の木は4−5分咲きといったところでしょうか。公園の入口に巨大な案内板が立っています。
十思公園ご案内
東京都指定有形文化財 銅鐘石町時の鐘 一口
江戸時代最初の時の鐘で、二代将軍秀忠の時は江戸城内の西の丸でついていたが鐘楼堂が御座の間の近くで差障りがある為、太鼓にかえて鐘は日本橋石町に鐘楼堂を造って納めたのが起源で、明暦三年、寛文六年、延宝七年と三度も火災にあい破損したので、その後身として宝永八年に鋳造されたのがこの宝永時鐘である。音色は黄渉調長久の音という。享保十年旧本石町三丁目北側の新道の間口十二間奥行十九間三尺の土地に鐘楼堂を建て、時銭として一軒につき一ヶ月永楽銭一文ずつ当鐚で四文ずつを商業地區の大町小町横町計四百十ヶ町から
集めて維持していた。鐘役は最初から代々辻源七が当たっていたので、辻の鐘とも呼ばれていた。鐘楼下では俳人蕪村が夜半亭と名づけて句会を催して深川の芭蕉庵と共に有名であった。当時江戸には日本橋石町・浅草・本所・横川町・上野芝切通・市ヶ谷八幡・目黒不動・赤坂田町・四谷天竜寺の九ヶ所に時鐘があったが石町時鐘はその最古のものである。石町鐘楼堂から二丁程の所に伝馬町獄があった。囚人たちは種々な思いをこめてこの鐘の音を聞いたことであろうし、処刑もこの鐘の音を合図に執行されたが処刑者の延命を祈るかのように遅れたこともあって、一名情けの鐘ともいゝ伝えられている。幕末時鐘廃止後は石町松沢家の秘蔵となっていたが、十思後援会が寄進を受けて昭和五年九月十思公園に宝永時鐘々楼を建設し当時の市長永田秀次郎殿で初撞式を挙行した後東京都に寄進した。
東京都指定旧跡 傳馬町牢屋敷跡
伝馬町牢は慶長年間、常盤橋際から移って明治八年市ヶ谷囚獄が出来るまで約二百七十年間存続し、この間に全国から江戸伝馬町獄送りとして入牢した者は数十万人を数えたといわれる。現在の大安楽寺・身延別院・村雲別院・十思小学校・十思公園を含む一帯の地が伝馬町牢屋敷跡である。当時は敷地総面積二六一八坪、四囲に土手を築いて土塀を廻し南西部に表門、北東部に不浄門があった。牢舎は揚座敷・揚屋・大牢・百姓牢・女牢の別があって、揚座敷は旗本の士、揚屋は士分僧侶、大牢は平民、百姓牢は百姓、女牢は婦人のみであった。今大安楽寺の境内の当時の死刑場といわれる所に地蔵尊があって、山岡鉄舟筆の鋳物額に「為囚死群霊離苦得脱」と記されてある。牢屋敷の役柄は牢頭に大番衆石出帯刀、御(木に豕:チョ)場死刑場役は有名な山田浅右エ門、それに同心七十八名、獄丁四十六名、外に南北両町奉行から与力一人月番で牢屋敷廻り吟味に当たったという。伝馬町獄として未曽有の大混乱を呈した安政五年九月から同六年十二月までの一年三ヶ月の期間が即ち安政の大獄で吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎等五十余人を獄に下し、そのほとんどを刑殺した。その後もこで尊い血を流したものは前者と合わせて九十六士に及ぶという。これ等愛国不盡忠の士が石町の鐘の音を聞くにつけ 「わが最期の時の知らせである」と幾度となく覚悟した事であろう。尚村雲別院境内には勤王志士九十六名の祠と木碑が建てられてある。
吉田松陰先生終焉之地
吉田松陰先生は天保元年(西暦1830年)八月四日長州萩の東郊松本村で杉家の二男として生まれた。幼い頃に吉田家をついだ。成人しての名を寅次郎という。吉田家は代々山鹿流兵学師範の家であったので、早くから山鹿流兵学その他の学問を修め、その道を究めて、子弟の教育につとめた偉人である。安政元年三月師の佐久間象山のすゝめで海外渡航を計画し、下田から米艦に便乗しようとして失敗、下田の獄につながれたが伝馬町獄送りとなって途中、高輪泉岳寺の前で詠んだのが有名な次の歌である。「かくすればかくなるものと知りながらやむにやまれぬ大和魂」同年九月まで約六ヶ月間伝馬町獄に留置されていたが、国元萩に謹慎の身となって帰って後の松下村塾での教育が最も偉大な事業であろう。薫陶を受けた中から有爵者六名、贈位者十七名、有位者十四名等多くの著名の士が出て中でも伊藤博文・山県有朋・木戸孝允等は、明治維新の大業に勲功のあった人物である。わが国歴史の上での三大変革といえば大化の改新、鎌倉幕府の創立、明治維新の三であるが、その明治維新にこれら松下村塾生の働きが大きな力となったことを深く考えたいのである。後松陰は安政の大獄に連座して再び伝馬町獄に入牢となった。安政六年七月九日江戸の長州藩邸から始めて評定所に召出されたが、その時「まち得たる時は今とて武蔵野よいさましくも鳴くくつわ虫かな」と決心を歌にのべている。しかし幕府の役人を動かすことが出来ず、その後の三回の取調べで死刑を覚悟した十月二十二日に父・叔父・兄へ宛て永訣の書を送っているがその中にあるのが「親思ふ心にまさる親ごころけふのおとづれ何と聞くらん」の一首である。また処刑の時の近づいたのを知って十月廿五日より廿六日の黄昏までかゝって書きあげたのが留魂録でその冒頭に「身はたとひ武さしの野辺に朽ちぬともと(ど)め置かまし大和魂 十月念五日 二十一回猛士」と記してある。松陰はこれを同囚で八丈島に遠島になった沼崎吉五郎に託したが二十年後当時神奈川県令で塾生であった野村靖に手渡したものが現在残っている留魂録である。それによって当時の法廷の模様、訊問應谷の次第、獄中の志士の消息等がわかり、自己の心境と塾生の行くべき道を示したもので崇高な松陰魂の指南書ともいえるものである。安政六年十月二十七日は処刑の日であった。揚屋を出る松陰は次の詩を高らかに朗吟して同囚の士に訣れを告げたのである。「今吾れ国の為に死す 死して君親に背かず 悠々たり天地の事 鑑照明神に在り」次いで刑場では「身はたとひ」の歌を朗誦して従容として刑についた。行年三十歳明治廿二年二月十一日正四位を贈位され昭和十四年六月十思小学校々庭に留魂碑が建設された。
公園の奥まったところに時の鐘を吊した鐘楼があります。お寺の鐘に似ていますが、同じ音だと紛らわしいので、違った音色にしたのでしょう。でも、「黄渉調長久の音」って想像もつきませんね。
鐘楼の奥に牢屋敷で使われていた石垣の一部が保存・展示されています。案内板には牢屋敷の見取り図と石垣の配置が図示されています。
地下から現れた牢屋敷の石垣
江戸時代、この地には牢屋敷がありました。天正十八年(1590年)、江戸の地に徳川家康が入った当初は、牢屋敷は常盤橋門外、今の日本銀行あたりに置かれていました。この地に移転したのは慶長十八年(1613年)ころといわれ、その後は江戸時代を通じて牢屋敷がありました。明治維新後、明治八年(1875年)市ケ谷の監獄に囚人を移し、この地の牢屋敷は取り壊されました。平成二十四年、この地で中央区の施設が建設される前に、中央区教育委員会が「伝馬町牢屋敷跡遺跡」として発掘調査を実施しました。遺跡からは、ここに移築復元した石垣をはじめとして、複数の石垣の連なりが発見されました。牢屋敷は高さ7尺8寸(約2.4m)の高い塀で囲われていたようですが、出土した石垣は、さらにその内側でもしっかりと敷地内を仕切っていたことがわかった貴重な発見です。石垣には一部途切れる箇所があり、そこに門柱の礎石が見つかりました。これは、角度によって門が見えにくい「埋門」と言われる、お城などによく用いられた施設と推測されます。このほか、多数の上水木樋が見つかっています。木で組まれた水道管が地中に埋められたもので、水は井の頭池などに水源のある神田上水から引き込まれたものと思われます。ここに展示してあるのは、図中の石垣Aを出土時とほぼ同じ形に積み直して移築復元したものです。これ以外のものには、当時の姿ではありませんが、同じく牢屋敷跡から出土した石を使って積んだものもあります。石は伊豆周辺で切り出された、主に安山岩が四角錐に加工されたものです。石には切り出す際についた矢穴という窪みが見られるものもあります。
鐘楼と反対側の一画には、植え込みの中に石碑が幾つか並んでいます。「松陰先生終焉之地」と並んで、吉田松陰の人となりと生涯が短くまとめられています。
吉田松陰先生は天保元年長門の國萩の町はづれ松本村に生まれました。兄弟思ひ親思ひ忠義の志の厚かつた人です。小さい時父や叔父の教えを受け熱心に勉強して兵法の先生になりました。それから日本中を旅行したり、多くの書物を讀んだりして一層修業を積み、ある時はアメリカの軍艦に乗って外國を研究に行かうとしたこともありました。のち郷里の松下村塾で多くの人を教へましたが、その門人の中から木戸孝允・伊藤博文・山縣有朋をはじめ忠義でえらい人がたくさん出ました。先生は天子様に忠義をするために幕府をあなどったといふので、安政六年傳馬町の牢屋に入れられましたが、その年の秋、この地でりっぱな最期をとげました。時に三十歳でした。先生のまごころは永くごの土地この世に留まって忠義な人が次々に出るのを願って居ます。
十思公園の真向かいに大安楽寺があります。境内には「江戸傳馬町牢御(木に豕:チョ)場跡」の石碑が建っています。「御(木に豕:チョ)場」とは死刑を執行した場所という意味らしいです。
江戸通りに戻ります。小伝馬町交差点近くに付近の名所・旧跡と旧町名を記した案内板が立っています。
日本橋小伝馬町 Nihonbashi-kodemmacho
名所・旧跡案内 Scenic Spots and Places of Historical Interest Information
旧石町時の鐘 Kokucho Time Bell
明治維新まで江戸の人々に時を報せていた時の鐘。もとは石町(日本橋室町)にあり、近くに長崎屋があったことから、「石町の鐘はオランダまで聞こえ」の川柳があります。
伝馬町牢屋敷跡 The Remains of Demmacho Prizon
江戸時代最大の牢屋で、敷地は2,618坪(8637.4u)あり、明治八年(1875年)市ヶ谷囚獄ができるまで270年間存続。大安楽寺境内の刑場跡には地蔵尊があり山岡鉄舟筆による陽鋳銘がある。
吉田松陰終焉の地 The Place of Shoin-Yoshida's Death
幕末の長州藩士で兵学・洋学に通じ、萩に松下村塾を開いた松陰は、安政の大獄に連座し伝馬町獄に入牢となり、安政六年(1859年)この地で処刑されました。
以上、全て日本橋小伝馬町5−2十思公園内にあります。
町名案内 Origin of Town Name
日本橋本町 Nihonbashi-honcho
江戸時代初期、徳川家康が最初に地割を行った地で、江戸又は日本橋の中心的地域であることから生まれた町名です。
日本橋小伝馬町 Nihonbashi-kodemmacho
名主宮辺又四郎が伝馬役をつかさどったことに由来します。
日本橋大伝馬町 Nihonbashi-odemmacho
馬込勘解由が、家康に道中伝馬役を命ぜられて、ここに屋敷が置かれたことに由来します。
日本橋馬喰町 Nihonbashi-bakurocho
天正年間(1573年〜1591年)博労頭高木源兵衛・富田半七らが住んでいたという記事がありますが、それが町名の由来であるか明らかではありません。
「鞍掛橋」という名前の交差点があります。面白い名前なので何か由緒があるのかなと思って調べてみました。
江戸のはじめ、伝馬町は伝馬駅逓を司るところとして、俗に大伝馬町は荷物の駅、小伝馬町は人間の駅として有無相通して両町は伝統と繁栄をきづいてきました。鞍掛橋を境に、馬喰町へ通ずるかなめでした。この橋は伝馬の馬と博労の鞍ということが多いところであったため、この名前がつけられたと考えられます。つまり、伝馬駅逓や交通の要衝であったところです。付近に旅龍が多かったのもこうした関係です。
鞍掛橋は、かって日本橋小伝馬町一丁目と馬喰町一丁目の間を流れていた浜町川に架かっていた橋です。ちなみに、芥川龍之介の「妖婆」で、主人公の新蔵がお島婆の妖力で殺されそうになった場所が鞍掛橋でした。
江戸通りは、浅草橋交差点で靖国通りと交差します。交差点の標識には、浅草橋交差点が靖国通りと京葉道路の起点になるように標示されていますが、行政上の起点は両国橋とのことです。どちらが正しいのでしょうか?
浅草橋交差点を渡った先の神田川の南側は日本橋馬喰町二丁目地域ですが、そこに関東郡代の屋敷がありました。
郡代屋敷跡
江戸時代に、主として関東の幕府直轄領の、年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった場所です。関東郡代は、天正十八年(1590年)徳川家康から代官頭に任命された伊奈忠次の二男忠治が、寛永十九年(1642年)に関東諸代官の統括などを命じられたことにより事実上始まるとされます。元禄年間(1688年〜1704年)には関東郡代という名称が正式に成立し、代々伊奈氏が世襲しました。その役宅は、初め江戸城の常盤橋門内にありましたが、明暦の大火(1657年)による焼失後、この地に移り、馬喰町郡代屋敷と称されました。寛政四年(1792年)に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねることとなり、この地に居住しました。文化三年(1806年)に関東郡代制が廃止され、さらに屋敷が焼失した後には、代官の拝領地となって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。
神田川を渡ったところに小さな広場があり、そこに「浅草見附跡」の石碑が建っています。浅草見附は、江戸時代に36ヵ所あった江戸城の警備施設である見附門のひとつです。外様大名や不審者を取り締まる際に使われ、浅草観音へ向かう通り道であったことから「浅草御門」と呼ばれたこともありました。広場には「まちしるべ」の案内板があり、それによりますと、旧浅草橋の町域は神田川より北側になっています。靖国通りと神田川に挟まれた狭い町域は日本橋か神田に属するのですね。
下町まちしるべ 旧浅草橋
浅草橋という町は昭和九年(1934年)に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、榊町、新須賀町、新福井町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとつになってできた。町名は神田川に架けられた橋の名にちなんでいる。江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永十三年(1636年)のことである。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。
江戸通りと蔵前橋通りが交差する蔵前一丁目交差点脇に小さな広場があり、「下町まちしるべ」の案内板が立っています。蔵前という地名は江戸幕府の米倉があったことに由来していますが、年配の方には相撲の蔵前国技館の方が馴染みがあるのではないでしょうか?現在の両国国技館の先代にあたる蔵前国技館は昭和二十九年(1954年)に完成し、相撲だけでなくレスリングやボクシングの興業、それに柔道・剣道の大会なども行われました。キャンディーズのコンサートも行われたんですね。しかしながら、昭和五十九年(1984年)9月場所を最後に閉館し、跡地は都の下水道局の施設になっています。
下町まちしるべ 旧浅草蔵前
本町は昭和九年(1934年)、それまであった九ヵ町を整理統合してできた。蔵前という町名が最初に付いたのは、浅草御蔵前片町で、元和七年(1621年)のことである。幕府の米蔵があったことから付けられた。この米蔵は幕府の直轄領地から送られた米を収納するため、鳥越の丘をけずり、その土砂で隅田河岸を整地して元和元年のころ造られた。当時、浅草御蔵などと呼ばれ、六十七棟もの蔵があつたことから、約六十二万五千俵(三万七千五百トン)の米を収納することができた。この米は、幕府の非常備蓄米としての役割と領地を持たない旗本・御家人に支給する給料米であった。蔵前橋のたもとに浅草御蔵跡碑がある。かつて米蔵のあったところである。
広場には、もうひとつの案内板が立っています。ここには、江戸時代に幕府の天文台が置かれていたのだそうです。夜の明かりが乏しかった時代ですから、天文観測には十分な条件だったのでしょう。
天文台跡
この地点から西側、通りを一本隔てた区画(浅草橋三丁目21・22・23・24番地の全域及び19・25・26番地の一部)には、江戸時代後期に、幕府の天文・暦術・測量・地誌編纂・洋書翻訳などを行う施設として、天文台がおかれていた。天文台は、司天台・浅草天文台などと呼ばれ、天明二年(1782年)、牛込藁店(現、新宿区袋町)から移転、新築された。正式の名を「頒暦所御用屋敷」という。その名の通り、本来は暦を作る役所「天文方」の施設であり、正確な暦を作るためには観測を行う天文台が必要であった。その規模は、「司天台の記」という史料によると、周囲約93.6メートル、高さ約9.3メートルの築山の上に、約5.5メートル四方の天文台が築かれ、四十三段の石段があった。また、別の史料「寛政暦書」では、石段は二箇所に設けられ、各五十段あり、築山の高さは9メートルだったという。幕末に活躍した浮世絵師・葛飾北斎の「富嶽百景」の内、「鳥越の不二」には、背景に富士山を、手前に天体の位置を測定する器具「渾天儀」を据えた浅草天文台が描かれている。ここ浅草の天文台は、天文方高橋至時らが寛政の改暦に際して、観測した場所であり、至時の弟子には、伊能忠敬がいる。忠敬は、全国の測量を開始する以前に、深川の自宅からこの天文台までの方位と距離を測り、緯度一分の長さを求めようとした。また、至時の死後、父の跡を継いだ景保の進言により、文化八年(1811年)、天文方内に「蕃書和解御用」という外国語の翻訳局が設置された。これは後に、洋学所・蕃書調所・洋書調所・開成所・開成学校・大学南校と変遷を経て、現在の東京大学へ移っていった機関である。天文台は、天保十三年(1842年)、九段坂上(現、千代田区九段北)にも建てられたが、両方とも、明治二年に新政府によって廃止された。
THE RUINS OF AN ASTRONOMICAL OBSERVATORY
On the west side of this spot, covering the entire area in 21, 22, 23, 24 and some
area of 19, 25, 26 of Asakusabashi 3-chome, there used to be an astronomical
observatory which was a facility for the Edo feudal government to practice such
things as astronomy, calendrical art, surveying, editing topography, and
translating foreign books in the second half of the 18th century. The astronomical observatory was moved from Ushigome and rebuilt in 1782. It was originally a facility of the Tenmon-gata public office, which made calendars. It was needed for astronomical observations to produce accurate calendars. According to a historical document called Shitendai-no-ki, the astronomical observatory was about a 5.5 square meters (about 6 yd. sq.) and was built on an artificial hill which was approx 9.3 meters (about 31 ft.) in height. The circumference of the hill was about 93.6 meters (about 103 yd.) and there were 43 stone steps with handrails on both sides. The Katsushika-Hokusai (an 'ukiyoe'artist) drew a scene called Torigoe-no-Fuji (Mt. Fuji seen from Torigoe) in his Fugaku-Hyakkei series (100 scenes of Mt. Fuji), showing Asakusa Astronomical Observatory with Konten-gi, an instrument to measure astronomical positions, against Mt. Fuji. This observatory was abolished by the Meiji Government in 1869.
厩橋交差点で春日通りと交差します。右手には厩橋が見えます。厩橋全体には、馬を連想させるレリーフなどが施されています。橋名の由来は、隅田川の西岸にあった「御厩河岸(蔵前の米蔵の荷駄馬用の厩)」に因んでいます。厩橋が架かる前の江戸時代には、「御厩の渡し」で対岸と行き来していました。昔から渡し船の転覆事故が多く、「三途の渡し」と揶揄されていたこともありました。
バンダイ本社ビルの手前に浅草駒形諏訪神社があります。鳥居の神額(「扁額(ヘンガク)ともいいます」)が他の神社には見られない緑色をしています。諏訪神社の創建年代は不詳ですが、後冷泉天皇の御代(1045年〜1068年)とも、承久の乱(1221年)の後とも伝えられています。江戸時代には神社周辺の地名である諏訪町の由来ともなり、明治維新後には村社に列格していました。毛筆で書かれた長〜〜〜い文章の由緒板が立てられていますが、一字でも書き間違えたら一巻の終わりでしたね。
諏訪神社
当社の創祀は定かではありませんが、口碑に依りますと、承久の乱のあと信濃国諏訪郡に住んでいたある神主が諏訪大社の神霊を当地に奉斎したのに始まると云われています。諏訪の信仰が東国に広まるのは鎌倉時代中頃と云われ、当時諏訪大社は鎌倉幕府より、箱根権現や伊豆山権現、三島大社と共に、特別の尊崇を受けていたのです。それは諏訪大社の大祝家が源頼朝の旗上げに最初から協力し、祈祷の効を積んだからである。従がって頼朝も諏訪大社を武家守護の神として崇敬したのです。又後白河法皇の染塵秘抄にも関より東の軍神として鹿島大社と香取大社を挙げ、三番目に諏訪大社を記しています。その後幕府の執権となった北条氏は信濃国の守護職となり、諏訪郡を得、宗領とし諏訪大社の神主を得宗被官としたのです。こうした北条氏得宗家の支援によって、諏訪大社の御分社を奉斎すると共に支配する所領地にも御分社を奉斎し、神主を招き神事を執行してきたと伝われています。当社に残されています社史には当社は、天正年間神職が数代に亘って奉仕してきた事が伝えられおり、諏訪大社と同じ諏訪梶の御神紋を使用し、風祭りの神事が行われていた事が分っています。江戸時代に入ると浅草寺との関係が生れ、その寺領内に当社が鎮座しており、浅草寺の十二衆徒の一院である修善院が別当となり、当社をお守りしてきました。尚、当地は現在駒形となっていますが江戸時代以来諏訪町と呼ばれてきたのです。再訂江戸鹿子には近年度々の回禄によりて社頭は形の如くなれども、神徳は社の捐凶によらず唯霊験の灼をもって崇め祀とぞと記されています。
駒形の名物といえば、「駒形どぜう」ですね。駒形どぜうの創業は、十一代将軍徳川家斉公時代の享和元年(1801年)です。初代越後屋助七は武蔵国(現埼玉県北葛飾郡)の出身で、18歳の時に江戸に出て奉公した後、浅草駒形にめし屋を開きました。当時から駒形は浅草寺にお参りする参詣ルートであり、また翌年の3月18日から浅草寺のご開帳が行われたこともあって、店は大勢のお客で繁盛したといわれています。初代が始めたどぜう鍋・どぜう汁に加え、二代目助七がくじら鍋を売り出すなど、商売はその後も順調に続きました。嘉永元年(1848年)に出された当時のグルメガイド「江戸名物酒飯手引草」(現在のミシェランガイド)には、駒形どぜうの名が記されています。やがて時代は明治・大正・昭和と移り変わり、関東大震災・第二次世界大戦では店の全焼という被害を受けます。現在、江戸の味と建物は六代目へと引き継がれています。
お店の前には、この店を贔屓にしていた久保田万太郎の句を記した石碑が置かれています。確か、人形町の「玉ひで」にもショーウインドウに久保田万太郎のポートレートが置かれていたような。。。
久保田万太郎の句碑
神輿まつ まのどぜう汁 すすりけり
久保田万太郎の石碑
久保田万太郎先生は市井のひとを愛し とくに また ふるさとをおなじくする浅草ッ子を愛した ここに駒形どぜう 越後屋 五代 助七 その生前の厚誼をしのんで 先生をしたう情は まことに涙ぐましいものがあるが 昭和四十一年初夏 この句にゆかりの三社祭の吉日に当たって 駒形どぜうの店の前に いま 先生の句碑を立てる 旧称田原町三丁目なる先生の生家にもっともちかくこの句碑を立てられたことは さだめし先生も喜ばれていることと思われる ここにつつしんでこれをしるす者は おなじく浅草ッ子のひとり
駒形橋西詰交差点付近の駒形二丁目電停から雷門電停までが都電臨時1系統の最終区間です。距離にして約200mの短区間ですが、浅草寺で行事が開催された際などは、大いに利用されたことでしょう。現在、この道路は並木通りという名称になっています。
道路の中央に分離帯が設けられているのですが、線路の跡なのでしょうか?
ついでに、雷門を訪れます。交差点からは東京スカイツリーが間近に見えます。というか、距離的にも近いですけど。
深紅の山門に吊された大提灯は雷門の象徴です。浅草を訪れた観光客は、例外なく大提灯をバックにした写真に収まっている筈です。浅草寺の雷門は、慶応元年(1865年)に火災により焼失しましたが、松下電器の創業者である松下幸之助によって昭和三十五年(1960年)に再建されました。その後は、約10年ごとに大提灯の修復が行われてきました。現在の大提灯は、令和二年(2020年)4月17日に掛け替えられたものです。大提灯は約1年かけて造られ、高さ3.9メートル・重さ約700kgの大きさです。山門を護る雷神様の前に雷門の案内板が立っています。
雷門(風雷神門)
天慶五年(942年)、平公雅によって創建されたのが始まり。門の正面向かって右に「風神」、左に「雷神」を祀る。このことから「雷門(風雷神門)」と呼ばれる。ともに鬼面蓬髪、風袋を担いで天空を駆ける風神と、虎の皮の褌を締め連鼓を打つ雷神の姿は、お馴染みのものである。また、門の裏側には、向かって右に「金龍」、左に「天龍」の龍神像が祀られ、これら四神は、浅草寺の護法善神として、伽藍守護・天下泰平・ 五穀豊穣の守り神とされる。現在の門は、慶応元年(1865年)の浅草田原町の大火で炎上した門に替わり、昭和三十五年に松下幸之助氏のご寄進により復興された。浅草寺参詣の入口にあたる「総門」として、また、東京・浅草の顔として全国的に有名。
Kaminarimon Gate
The Kaminarimon Gate ("thunder gate"), standing at the entrance to the processional road leading to Senso-ji, is Asakusa's most famous landmark. Inside the gate on either side are enormous wooden statues of the protective Buddhist deities Fujin (wind god) and Raijin (thunder god), from which the gate gets its name. The original gate was erected in 942 but burned down several timesover the centuries. The one standingtoday was built in 1960, donated by Japanese entrepreneur Konosuke Matsushita (1894-1989).
雷門広場には浅草寺の案内板が立っています。英語表記の案内文を最後まで読んだ外国人はまずいないでしょう。
聖観音宗総本山 金龍山 浅草寺(あさくさかんのん)
御本尊 聖観世音菩薩(御秘仏) 慈悲の仏さま 浅草寺ご本尊の観世音菩薩さま
観音さまは、多くの仏さまの中でも最も慈悲深い仏さまであり、人々の苦しみを見てはその苦しみを除き、願いを聞いては楽しみを与えてくださいます。特に浅草寺ご本尊の観音さまのご利益・ご霊験は古今無双であり、ご示現より今日まで千四百年近くにわたり計り知れぬほどの人々を救われ、ご加護なさってきました。観音さまのご信仰とは、観音さまに「慈悲」のお心を頂いて生きること、すなわちすべてに「あたたかい心」で接して日々を過すことと申せましょう。
*ご参拝の際には合掌して「南無観世音菩薩」とお唱えしましょう。
縁起(由来)
時は飛鳥時代、推古天皇三十六年(628年)三月十八日の早朝、檜前浜成・竹成の兄弟は江戸(隅田川)に漁撈中、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得した。郷司土師中知(名前には諸説あり)はこれを拝し、聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依し、その後出家し、自宅を改めて寺となし、礼拝供養に生涯を捧げた。大化元年(645年)、勝海上人がこの地においでになり、観音堂を建立し、夢告によりご本尊をご秘仏と定められ、以来今日までこの伝法の掟は厳守されている。広漠とした武蔵野の一画、東京湾の入江の一漁村にすぎなかった浅草は参拝の信徒が増すにつれ発展し、平安初期には、慈覚大師円仁さま(794年〜864年、浅草寺中興開山・比叙山天台座主三世)が来山され、お前立のご本尊を謹刻された。鎌倉時代に将軍の篤い帰依を受けた浅草寺は、次第に外護者として歴史上有名な武将らの信仰をも集め、伽藍の荘厳はいよいよ増した。江戸時代の初め、徳川家康公によって幕府の祈願所とされてからは、堂塔勝の威容さらに整い、いわゆる江戸文化の中心として、大きく繁栄したのである。かくして都内最古の寺院である浅草寺は、浅草観音の名称で全国的にあらゆる階層の人たちに親しまれ、年間約三千万人もの参詣者がおとずれる、民衆信仰の中心地となっている。
SENSO-JI (Asakusa kannon Temple)
History and Mission of Senso-ji
In 628, Japan's capital was at Asuka (present-day Nara Prefecture) and what would become Tokyo was still mostly uninhabited grasslands. Two fishermen, Hinokuma Hamanari and his brother Takenari, were on the Sumida River one day when they heard a command from the heavens to cast their net. When they brought the net up, they saw that they had caught a golden statue of Bodhisattva Kannon.
Hearing of this from the Hinokuma brothers, village headman Haji Nakatomo decided that he would become a devout believer in Bodhisattva Kannon. He took vows as a Buddhist priest, remade his home into a temple and spent the rest of his life practicing Buddhism. This episode marks the birth of Tokyo's oldest temple and the start of Senso-ji's history.
In 645, the renowned Buddhist priest Shokai visited Asakusa and built a hall for the worship of Bodhisattva Kannon; that makes him the actual founder of Senso-ji. After having a mysterious dream one night, Shokai decided that Bodhisattva Kannon should be hidden from human view, and it has remained so ever since. Word of blessings bestowed by Bodhisattva Kannon spread far and wide, and many people who had heard of this came to worship at Senso-ji from all over Japan. As a result, Asakusa flourished and grew into a large district.
In the mid-ninth century, Ennin (794-864), the highest-ranking priest of Enryaku-ji, the head temple of the Tendai School of Buddhism, visited Senso-ji, created a statue of Bodhisattva Kannon identical to the hidden one and called its spirit into the new statue. Senso-ji, thus further developed by Ennin, attracted devout faithful not only among commoners but also famous samurai and persons of culture. Designated a sacred site of prayer for the shogunate by shogun Tokugawa Ieyasu (1543-1616), founder of the Edo shogunate, Senso-ji reached a peak of prosperity.
Over the intervening centuries until today, Senso-ji has remained a center of culture and worship in Tokyo. It continues to be influential in people's lives, and with millions of people visiting it every year, it is one of Japan's most familiar temples.
Senso-ji and Asakusa are intimately linked. The two names are written using the same Chinese characters (浅草) but pronounced differently, "senso" being the Chinese pronunciation and "asakusa" the native Japanese pronunciation.
About Bodhisattva Kannon
Over the years, Buddhism, which originated in the fifth century BCE, diverged into two main branches: Hiinayaana (today called Theravaada), which holds that adherents should faithfully follow the teachings of founder Buddha Shakyamuni to reach enlightenment themselves, and Mahaayaana, which teaches that the faithful should not only seek their own enlightenment but also help the suffering. Mahaayaana Buddhism spread from India to China and Korea and eventually to Japan. In that process, according to various interpretations of the Buddha's teachings, various figures of worship emerged, such as Buddhas, who had already achieved enlightenment, Bodhisattvas, who were the people's saviors as they continued religious practice in order to attain enlightenment and become Buddhas, and so on. Believers in Buddhism gave these figures concrete forms, creating sculptures of them which they worshipped.
Bodhisattva Kannon is one among many Bodhisattvas, and since early times has been widely worshipped by Japanese in particular. Bodhisattva Kannon is also the most merciful of the Bodhisattvas, sent to relieve human misery on earth. Many Japanese believe that their hopes and pleas will reach this deity.
In particular, the Bodhisattva Kannon worshipped at Senso-ji has been an unparalleled source of benefits and miracles over the centuries, and has saved and protected countless people since its appearance in this world.
Faith in the Bodhisattva Kannon, which has supported Senso-ji and drawn many people to this temple, consists of opening one's heart and living by the merciful spirit of Bodhisattva Kannon and at the same time showing mercy to others in daily life. We hope that visitors to Senso-ji will join their hands in prayer, receive the merciful spirit of the Bodhisattva Kannon into their hearts and pray that they can bestow that mercy upon others.
雷門電停は、並木通りが雷門通りにぶつかるT字路のところにあったのではないかと思います。雷門が目の前で、仲見世を通って浅草寺に行くには至極便利だったことでしょう。
ということで都電臨時1系統を歩き終えました。前半区間は都電1系統、後半区間は都電22系統と重なっていましたが、新しい発見もいろいろありました。やはり銀座を通るのは華やかで面白いですね。
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