- 都電臨時20系統跡コース
- コース 踏破記
- 今日は都電臨時20系統跡を歩きます。都電臨時20系統にはふたつのルートがあって、ひとつは通三丁目電停から神明町電停までの区間、もうひとつは広小路電停から池袋駅電停までの区間でした。広小路電停から神明町電停までの区間は重複していました。なので、都電臨時20系統跡としては、このふたつの区間を重複を含めてひとつのルートとして歩くことにします。路線としては、主に中央通り・【広小路電停〜七軒町電停】・不忍通り・都道435号音羽池袋線を通っていました。都心を半円状に斜断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。また、多くの都電がこの区間を重複して走っていました。
都電臨時20系統
都電臨時20系統は、昭和44年10月25日に廃止となりました。
都電臨時20系統の電停(路上の駅)は、通三丁目・日本橋・室町一丁目・室町三丁目・今川橋・神田駅・須田町・万世橋・旅篭町・末広町・黒門町・広小路・上野公園・動物園・七軒町・宮永町・八重垣町・千駄木町・団子坂・駒込坂下町・道灌山・動坂町・神明町・上富士前・駕篭町・丸山町・氷川下町・大塚仲町・護国寺・大塚坂下町・日ノ出町二丁目・日ノ出町三丁目・池袋駅でした。
中央通りと八重洲通りとの交差点付近に、都電臨時20系統の始点である通三丁目電停がありました。江戸の商業地のパイオニアとして、東海道に面した通り一丁目〜通り四丁目が起立したのは、江戸開府から間もない慶長八年(1603年)のことでした。日本橋から続く街道沿いの細長い町域で、江戸から明治・大正・昭和への時代変遷の中、中央通りは絶えず首都東京を代表する目抜き通りとしての顔を持ち続けました。「通り三丁目」の町名は、都電廃止後の昭和四十八年の住居表示で消滅しましたが、この交差点界隈だけは「通り三丁目」の俗称が定着し、現在も八重洲通りには同名のバス停があります。
最近、東京駅周辺のどこから眺めても視界に入る建物が「東京ミッドタウン八重洲」です。六本木・日比谷に続く3番目の複合施設で、2018年12月に着工し、2022年8月末に竣工予定です。東京ミッドタウン八重洲は、八重洲二丁目北地区市街地再開発組合がJR東京駅八重洲口前に新設するオフィス・店舗・ホテル(ブルガリホテル東京)・区立小学校・バスターミナルなどで構成する大規模複合施設で、メインとなる超高層ビルは地上45階・地下4階・高さ240m・延べ面積283、896uの規模を誇ります。超高層ビルに区立の小学校が入居するのは世界で初めてかも。なお、商業施設約60店舗のうち、地下1階の13店舗が地下2階の「バスターミナル東京八重洲」とともに2022年9月17日に先行オープンされます。グランドオープンは2023年3月の予定です。
日本橋三丁目交差点の角のビルの一画に大きなキリンの銅像が立っています。このビルは元々は漢方薬やバスクリンで有名な津村順天堂の本社ビルでしたが、津村順天堂は2006年に移転し、現在はスターツコーポレーショングループの本社ビルになっています。昭和六十三年(1988年)に今のビルに建て替えられ、翌年に高さ6m25cmのキリンの銅像が設置されました。作者は鍛金彫刻家の安藤泉氏です。表情や佇まいがとても穏やかに見える大きなキリンの銅像ですが、何故こんなに大きなキリンの銅像をここに設置したのでしょうか?その理由は3つあるそうです。一つ目は、1976年に津村順天堂の漢方薬が保険医薬品に認定され、テレビCMによってバスクリンが成功するなど業績が好調だったことです。二つ目は、このキリンが王冠を被っているように、キリンは漢方の王様と言われていたことです。三つ目は、このビルの吹き抜けの天井を王冠にある照明器具で照らすために高さが必要だったことです。社屋移転の際にキリンの像も一緒に連れていくことは出来なかったのでしょうか?
「日本橋さくら通り」は、東京駅八重洲口からすぐという好立地の桜の名所です。東京駅から茅場町方面に伸びる約1kmの細い通りですが、その歴史は古く、昭和十一年に桜が植樹されました。戦災で桜の木は焼失しましたが、昭和三十一年に改めて植樹され、その時に「さくら通り」と命名されました。昔ながらの趣のある日本橋の街並みの中で、道路を挟み約170本ものソメイヨシノが植えられています。満開になるとまるで桜のトンネルのようで幻想的な雰囲気を作り出します。夕刻には桜は周りのビルやお店の明かりで徐々に照らされ、まるで間接照明に照らされているかのように淡く輝き、日没後にはライトアップでさらにその美しさを際立たせています。
日本橋についての案内碑があります。建設省の役人にとって初めての重要文化財指定がよほど嬉しかったのでしょう。なお、重要文化財の指定は平成十一年に行われましたが、建設省は平成十三年(2001年)に運輸省・国土庁・北海道開発庁と統合され、国土交通省となりました。
日本国重要文化財 日本橋
指定の意義
明治期を代表する石造アーチ道路橋であり、石造アーチ橋の技術的達成度を示す遺構として貴重である。また、土木家・建築家・彫刻家が協同した装飾橋架の代表作であり、ルネサンス式による橋梁本体と和漢洋折衷の装飾との調和も破綻なくまとめられており、意匠的完成度も高い。建設省国道に係る物件で初めての重要文化財指定。
日本橋の欄干には獅子をモチーフにした立派なブロンズ像が照明灯と共に君臨しています。今は機能一辺倒でこのような装飾はされませんが、昔の人は美的感覚があったんでしょうね。「東京市道路元標」とある支柱は、かつて日本橋を走っていた都電「本通線」の架線柱として使われていたもので、都電廃止の翌年、昭和四十七年(1972年)の道路改修の際に移設されたものです。
日本橋室町四丁目5番地と表示のある路地の入口のポールに「時の鐘通り」というプレートが貼り付けてあります。時の鐘が移設された十思公園は、昭和通りを超えた日本橋小伝馬町にあります。
石町時の鐘 鐘撞堂跡
時の鐘は、江戸時代に本石町三丁目へ設置された、時刻を江戸市民に知らせる時鐘です。徳川家康とともに江戸に来た辻源七が鐘つき役に任命され、代々その役を務めました。鐘は何回か鋳直されましたが、宝永八年(1711年)に製作された時の鐘(東京都指定文化財)が十思公園内(日本橋小伝馬町五−2)に移されて残っています。鐘撞堂は度々の火災に遭いながら、本石町三丁目(現日本橋室町四丁目・日本橋本町四丁目)辺りにあり、本通りから本石町三丁目をはいって鐘撞き堂にいたる道を「鐘つき新道」と呼んでいました。そのことにより、時の鐘が移設された十思公園までの道が平成十四年三月に「時の鐘通り」と命名されました。近くの新日本橋駅の所には、江戸時代を通してオランダ商館長一行の江戸参府の時の宿舎であった「長崎屋」があり、川柳にも「石町の鐘はオランダまで聞こえ」とうたわれ江戸市民に親しまれていたのです。
その時の鐘が間近に聞こえたであろうところに、与謝蕪村(与謝野蕪村ではありません)が出入りしていた夜半亭がありました。
夜半亭 − 与謝蕪村居住地跡
夜半亭は、元文二年(1737年)俳諧師早野巴人(1676年〜1742年)が「石町時の鐘」のほとりに結んだ庵です。「夜半ノ鐘声客船ニ至ル」という唐詩にちなみ、巴人も「夜半亭宋阿」と号しました。この夜半亭には、多くの門弟が出入りしていましたが、なかでも「宰町」と号していた若き与謝蕪村(1716年〜1783年)は内弟子として居住し、日本橋のこの地で俳諧の修行に励みました。蕪村は、安永三年(1774年)巴人三十三回忌追善集「むかしを今」の序文で、「師やむかし、武江の石町なる鐘楼の高く臨めるほとりにあやしき舎りして、市中に閑をあまなひ、霜夜の鐘におどろきて、老の寝ざめのうき中にも、予とともにはいかいをかたりて」と夜半亭での巴人との様子を記しています。寛保二年(1742年)巴人の没により、江戸の夜半亭一門は解散、蕪村は江戸を離れ、常総地方などを歴訪後、京都を永住の地と定めます。やがて、俳諧師としての名声を高め、画業においても池大雅と並び称されるほどになった蕪村は、明和七年(1770年)巴人の後継者に推されて京都で夜半亭二世を継承しました。
尼寺や 十夜に
届く 鬢葛
とあるビルの壁に「謄写版発祥の地」と書かれた銅板がはめ込んであります。謄写版と聞いても今の若い人にはピンと来ないかも知れませんが、ゼロックスによる乾式複写機が登場するまでは、学校などの教育現場では必須の道具でした。謄写版は、米国の発明家トーマス・エジソンが1875年に謄写器(印刷器)を、1880年に製版方法をそれぞれ発明して確立した印刷技術です。製版は、パラフィン・樹脂・ワセリンなどの混合物を塗り乾かした薄葉紙、あるいは可塑性ニトロセルロースのワックスを浸潤させた不織紙などで作られた「ロウ紙(ロウ原紙)」と呼ばれる原紙を専用の金属製あるいはプラスチック製のヤスリ盤の上に載せ、先の尖った棒やヘラ状の金属を木の軸に固定した鉄筆で強く押し付けて行われます。鉄筆でヤスリに押しつけられた原紙のワックスは、ヤスリ目の形に削られてインクが透過する微細な穴を構成します。ヤスリ盤上の原紙に鉄筆を走らせる際の擬音から、日本では謄写版を「ガリ版」と俗称しました。製版作業は「原紙を切る」、あるいは「ガリを切る」などと呼ばれました。日本ではさまざまなメーカーが謄写版を商品化しましたが、この堀井謄写堂(既に廃業)もそのひとつです。
謄写版発祥の地
明治二十七年(西暦1894年)堀井新治郎父子が我が国初の簡易印刷機を発明し「謄寫版」と命名、発売と同時に鍛治町の此の地に謄寫堂を創業した。
銅板には、当時の謄寫堂の店舗が描かれています。謄写版を想わせる描き方ですね。
歩道脇に、鍛冶町二丁目の案内板が立っています。
「鍛冶町二丁目」界隈
その名が示すとおり、江戸時代や明治時代、この界隈には金物を扱う流通業者や小売業者が集まっていました。鍛冶町の名前のはじまりは江戸時代にさかのぼります。この近辺に幕府御用を勤める鍛冶方棟梁だった高井伊織が屋敷を拝領し、鍛冶職人などが数多く集まっていたのです。この二丁目界隈は、金物のなかでも、とくに刀や薙刀といった打物を扱う業者が多かったのが特徴だったようです。そのほか、鍛冶町二丁目には鍛冶職人の屋敷だけでなく、江戸後期にはじつにバラエティ豊かな店がそろっていました。文政七年(1824年)の「江戸買物独案内」には、下駄の鼻緒を扱う問屋や、書物問屋、さらには薬の小売業者までいたことが記されています。「江戸名所図会」からは、下駄の製作・販売にたずさわる職人や業者が集まっていた「下駄新道」と呼ばれる裏通りがあったこともわかります。戦後、日本の復興期には、家庭金物店、建築金物店、銅・真鍮・鉄販売店などが軒を並べ、神田駅南口から東神田までの大通りは「神田金物通り」としてにぎわっていました。昭和二十二年の区画整理で、黒門町、上白壁町、下白壁町、紺屋町、松田町、鍋町、塗師町、新石町、竪大工町、鍛冶町二丁目が統合され、「神田鍛冶町二丁目」となりました。さらに、昭和四十九年(1974年)に住居表示が施行されると、神田の文字がはぶかれ「鍛冶町二丁目」と名前を変えて現在に至っています。
Kajicho 2-chome
As suggested by the name, which means 'smithery town' this area was once inhabited
by many distributors and retailers who dealt with metal. In particular, this neighborhood was a center for merchants dealing in swords and Japanese halberds. There were also a variety of shops here, selling items such as inkstones, tung oil, wooden sandal thongs, books and medicines. In the postwar period, it was the site
of many shops selling metal items that supported Japan's reconstruction.
中央通りは神田駅の高架線路と交差します。高架下の壁には神田駅の歴史を記した絵文書が何枚にもわたって貼られています。
神田驛百年 写真でたどる鉄道と地域の変遷
毎日、多くの人が行きかう駅のざわめき。高架橋の上を行きかう電車。百年前の早春、江戸からの賑わいが続く「神田」に高架鉄道がひかれた。地域とともに歴史を重ねてきた神田駅。関東大震災と戦災による苦難を乗り越えた歩みだった。残された写真から、鉄道と地域がおりなす変遷をたどってみる。
鉄道の黎明期の話です。
東京へ
江戸期の神田地域は、近在から物資が集積する場所で、江戸城に近いことから職人も多く住み、今川橋から筋違橋にいたる神田大通り(現・中央通り)を中心に、活気や賑わいのある場所だった。20世紀に入る頃の神田大通りには、土蔵造りの商家が建ち並び、新しい商品を扱う店も軒を連ねていた。明治十五年(1882年)には新橋・上野間を結ぶ馬車鉄道が
大通りにひかれ、明治三十六年(1903年)からは路面電車となり、須田町交差点付近は、5方面(上野行・本郷行・九段行・日本橋行・両国行)からの路面電車が集中・交差する東京一の繁華街となっていた。さらに、この交差点に面して、明治四十三年(1910年)には広瀬中佐の銅像が建設され、明治四十五年(1912年)には、中央本線万世橋停車場が開業した。これらは、江戸期にはないもので、とりわけ、駅舎は赤煉瓦による華やかな建造物であった。また、市区改正事業で拡幅された大通りには、耐火外壁による洋風建物が造られ、「東京」の街並みへと変わっていった。そして、大正三年(1914年)日本の中央停車場たる東京駅が開設され、神田地域には本州を縦貫し「東京へ」と続く高架鉄道が建設される場所となった。
鉄道の発展期において、神田駅は重要な役割を果たしました。
誕生
大正八年(1919年)3月1日(土)、中央本線が万世橋駅から東京駅まで延伸され、神田駅が誕生した。神田駅は、汽車による長距離列車が停車しない電車専用駅としてつくられた。駅舎は独立して設けられず、駅施設は高架下に収容された。
万世橋から新橋まで続く鉄道高架橋や駅舎の外壁は、赤煉瓦と花崗岩で化粧され、「江戸黒」と呼ばれた土蔵造りの商業地にあって一大モニュメントとなった。また、神田駅構内のデザインも、白タイルによる壁面装飾や天窓など細部にいたるまで近代的な設計がなされ、新しい時代を象徴するような造りだった。開通当日、神田大通り沿いの町々は紅白幕を張り、「神田が事実上、東京の中心地になった」ことを祝すべく、鉄道院総裁等の関係者を招待して、神田区主催の大祝賀会が催された。
鉄道の光と影の物語です。
建設
神田が「東京の中心地」になるには、負担も大きかった。新橋・上野間の停車場を結ぶ高架鉄道は、江戸からの旧市街地をとおることから「市街線」と呼ばれた。神田地域では、東京駅と秋葉原貨物駅を直線で結ぶ経路となったため、碁盤の目のような街区を斜断することとなり、三角形の街区が多くできた。鉄道用地の買収は、明治四十三年(1910年)に始まり、神田区内だけで一万坪余となった。これだけ大規模に既存市街地に鉄道を通す例は全国にもないが、大きな反対運動もなく、買収は明治四十五年(1912年)に終了している。工事は大正四年(1915年)11月に着手され、当時、人口増加の著しかった中央線の高架橋工事を優先し、東京・神田柳原間の基礎工事も同時施工となった。この高架橋工事は、それまでの煉瓦積から鉄筋コンクリート造りで行われた。そのため、既存の煉瓦積みによるアーチ高架橋と一体的なデザインとなるよう、赤煉瓦と花崗岩で化粧が行われた。現存する万世橋駅から新橋駅までの鉄道高架橋は、明治・大正期の姿を現在に残す「近代化遺産」というべきものである。
関東大震災で神田駅は大きな被害を受けました。
震災
大正十二年(1923年)9月1日11時58分、関東大震災が発生する。旧神田川区エリアでは、和泉町等を除いてほとんどが焼失してしまう。神田駅も誕生から2年半足らずで全焼してしまった。神田大通りを日本橋方面から上野方面へ避難すれば神田駅にぶつかる。それは、当時の最先端の土木技術で造られた鉄道施設で、避難民にとっては、防災拠点にも見えたのだろう。神田駅構内は避難民であふれていた。そこに入らず助かった人の後日談では、「煉瓦造のガードだから地震に崩れる心配もなし、火の方もこの人口の戸が締まれば何の不安もない」(資料10)と言われたという。だが、耐震はともかく、線路の枕木まで焼失するような大火災にあっては、「当時待合ホーム等に避難していた公衆約五百五十名は逃ぐるに途なく無惨の焼死を遂げる」(資料11)こととなってしまった。神田駅での死者の数は諸説あるが、神田区での記録では、200余名となっている。戦前、9月1日には、神田駅で慰霊祭が行われていた。
関東大震災後の復興の物語です。
復興
関東大震災により、東京・上野間を結ぶ高架線工事は一時中断されたが、神田川・上野駅間の電車専用線の高架橋工事は早急に進められ、予定より半年遅れで大正十四年(1925年)11月に電車線が開通した。これにより「の」の字運転はなくなり、中央線は東京駅を発着駅とする運転に、山手線は環状運転となった。この工事で、神田駅には、第二ホームが誕生し、京浜線は上野まで延伸され、第二ホームは山手線と併用で使われた。さらに、昭和三年(1928年)4月には汽車専用線2線が東側に完成し、神田駅は線路が6線構成となった。この時の高架橋工事では、「黒門町橋以南は煉瓦及石材を用ひて装飾を施したるも、其為め多額の費用と時日を要するを以て、装飾は必要に応じ他日施すこととし、工費を節約して線路の延長を謀るを急務と認め、東松下橋以北に於ては一切化粧工事を省略せり」(資料12)ということとなり、現在に至っている。また、高架下が有効活用でき、維持管理も容易で、軟弱地盤に強い、桁と脚が一体になった鉄筋コンクリートラーメン橋が震災復興以降は主流となった。現在よく見られる鉄道高架橋のデザインは神田から始まった。
戦後の混乱期の物語です。
戦後
震災から21年余、米軍の空襲により神田駅周辺は再び焼け野原となった。戦後まもなく、焼失した神田大通りや金物通りには生活用品を売る店が集積し、昭和二十二年(1947年)頃には震災復興の区画整理事業で誕生した神田駅東側の鉄道用地にもアツミマーケットと呼ばれた飲食業等の露店街が形成されていた。その後、昭和二十五年(1950年)にはGHQ指令で道路上の露店は取払われたが、鉄道用地のマーケットは手つかずのままだった。戦後復興も進みだすと、山手・京浜東北線を同一線路で運行するには輸送力も限界となり、神田駅付近でも鉄道用地を使いホームと線路の増設をする必要が生じた。このため、国鉄はマーケットへ昭和二十八年(1953年)3月末までに立退きを要求したが、マーケット側は借地法上の30年間の借地権を主張して譲らず、東京駅から始まった工事は、神田駅南口辺で一時中止となってしまう。昭和二十八年(1953年)12月、国鉄は裁判所に土地明渡しの仮処分を請求し、結果、マーケット側へ保障することで工事は再開され、昭和三十一年(1956年)11月10日、現在のような山手線・京浜東北線の分離運転となった。この工事により神田駅は、3面のホームと8線の線路を有する駅となり、駅構内も大規模な改修が行われ、改札内外の移動等が大幅に改善された。一方、戦後初の地下鉄建設として丸ノ内線は、昭和二十九年(1954年)1月に池袋・御茶ノ水駅間を開通させ、現銀座線神田駅に新駅を併設する延伸工事に入る予定となっていた。しかしながら、神田駅南口付近での混乱で、丸ノ内線は現在の淡路町経由コースに変更となる。これにより、神田駅は地下鉄と連携したターミナル駅になる機会を失うこととなった。
近年の状況と将来への展望が語られています。
縦貫
東京市街高架鉄道は、江戸からの市街地を南北に縦貫することにより作られた。それは、本州を縦貫する鉄道建設でもあった。平成三年(1991年)東京・上野駅間に東北新幹線が開通し、その後、平成四年(1992年)に東北山形、平成九年(1997年)には、秋田・上越・北陸の各新幹線が、神田地域を縦貫し、東京駅へと乗り入れた。そして平成十四年(1998年)3月、JR東日本より「東北縦貫線計画」が発表される。それは高崎線・宇都宮線・常磐線を東京駅に乗入れ、東海道線への直通運転をはかる計画である。このため、神田駅付近では、営業中の新幹線の上、約600mにわたり高架橋に高架橋を重ねるという、既存市街地ならではの一大難工事の計画となり、壁のような巨大な高架橋が出現することとなった。東北縦貫線は、「上野東京ライン」と名称を変え、平成二十七年(2015年)3月14日に開業した。これにより、神田駅は3面の近距離電車ホームと中距離列車線、新幹線という10線の線路を有する駅となり、駅構内も大規模な改修が行われ、バリアフリーの行き届いた駅となった。踏切のない高架鉄道は、地域の交通を分断しないが、関東大震災後の区画整理で、高架鉄道が事業エリアの境となり、それを元に町界が定められ、更に色々な行政の管理境が加わり、いつしか高架鉄道が地域の境目であるかのように感じてしまう。江戸から続く「神田」は、神田大通りを中心にして一つである。神田駅が地域をつないでいく「次の百年」でありたい。
江戸時代の神田についても解説されています。
職人町の神田
江戸時代の神田駅周辺は、鍛冶町や鍋町、大工町、塗師町など職人に関する町がありました。これらの町は江戸初期に江戸城や城下町建設のために集められた職人町でした。鍛冶町は江戸幕府の鍛冶方棟梁の高井伊織がこの地を拝領して屋敷を構えたことに由来します。江戸後期もこの地域を中心に金属加工職人達が居住し、現在も「神田金物通り」というように金属加工業者の町であったのです。万治三年(1660年)に神田塗師町に創業した金物問屋の紀伊国屋三谷家は、その中心的存在で、銅や真鍮の取引に成功し幕末には巨財をなし、八代目当主長三郎は、その財産を錦絵製作につぎ込むなど文化活動に積極的に関わっていました。
清水屋絵草紙店
清水屋の長谷川常次郎は、天保三年(1832年)に神田鍛冶町一丁目五番地(現在の千代田区鍛冶町二丁目付近)で本地草紙問屋を営業していました。ここでは歌川広重、三目代歌川広重、二代目歌川豊国、三代目歌川豊国、歌川芳艶、月岡芳年、揚州周延、揚斎延一など浮世絵師の錦絵を出版していました。
神田鍛冶町の町名由来版が立っています。
千代田区町名由来版 神田鍛冶町三丁目
JR神田駅周辺には、「鍛冶」という名を冠する町名が三つ存在します。そのうち、鍛冶町一丁目と鍛冶町二丁目は、江戸時代から「鍛冶」が付く町名でしたが、ここ神田鍛冶町三丁目は「鍋町」と呼ばれた町でした。この界隈が鍋町と呼ばれていた理由は、江戸幕府の御用鋳物師をつとめていた、椎名山城が屋敷を構えていたためと伝えられています。鋳物師とは、鍋や釜をつくる職人のことです。ほかに御腰物金具師や御印判師なども住んでいました。鍋町に住んでいたのは、このような御用職人ばかりではありません。文政七年(1824年)の「江戸買物独案内」によれば、紅や白粉などの化粧品、傘、菓子、釘や打物などを扱う各種の問屋をはじめ、馬具や武具をつくる職人まで店を構えて住んでいたことがわかります。江戸時代、この界隈は鍋のような日用品から馬具や武器まで、多種多様な商品がそろう町でした。明治のはじめ、隣接するいくつかの横町を含めて鍋町は広がりました。明治六年(1873年)、一部が黒門町に編入され、さらに昭和八年(1933年)、鍋町は鍛冶町三丁目と改称し、一部が鍛冶町二丁目になりました。昭和二十二年(1947年)には町名に「神田」が付き、昭和四十一年(1966年)に実施された住居表示で一部は内神田三丁目に編入されました。これを受けて、地域の人々は町会の名称を「神田鍛冶三会」と改め、今日にいたっているのです。
Kanda-Kajicho 3-chome
This town was once known as Nabe-cho (literally "pot-town"). It was home to a metal caster, as well as many merchants who made weapon parts and seals for the hogunate. The name was later changed to Kajicho, which brought to memory its history as a town of blacksmiths. The town today is known as Kanda-Kajicho 3-chome and Uchi-kanda 3-chome.
「須田町」の町名は、神田川沿いの砂洲にひらかれた農地である「洲田」に由来するといわれています。江戸の町の整備が本格的に始まったのは慶長年間(1596年〜1615年)に入ってからのことです。それまで、須田村と呼ばれていた神田川周辺も農村から町人の町に生まれ変わりました。しかし、昔からの地名は残されたようで、明暦三年(1657年)の「新添江戸之図」には「すた町」と記されています。江戸時代の須田町は、現在の神田須田町一丁目とだいたい同じ範囲を指していたようです。また、文政七年(1824年)の「江戸買物独案内」を見ると、江戸期の町内には、菓子屋や薬屋、塩や油を扱う問屋、神具や仏具を売る店など、さまざまな商品を扱う店があったことがわかります。現在の町内にも、東京都選定の歴史的建造物に指定されるような老舗の商店が数多く営業しています。さらに明治以降、数多くの繊維関連の問屋が軒を連ねるようになりました。その理由について、専門家のなかには、神田川南岸の柳原土手(現在の和泉橋付近)で江戸期に開かれていた古着市の伝統を引き継いだためと考える人もいます。つまりこの周辺は、江戸期以来の「商いの町」としての伝統が、いまだに生き続けている土地なのです。
かって、中央線の神田〜御茶ノ水間に「万世橋駅」がありました。明治四十五年(1912年)に完成した赤レンガ造りの万世橋高架橋は、東京駅が開業するまで中央線の起点として栄えました。大正十二年(1923年)に関東大震災で焼失した駅舎は、東京駅と同じように豪奢な建物だったと言われています。長らく休止状態だった万世橋駅の遺構は、平成二十五年(2013年)にマーチエキュート神田万世橋として新たに生まれ変わりました。階段・壁面・プラットホームなどを活かした空間の中にショップやカフェが並ぶこれまでにないマチナカの商業施設です。
万世橋を渡ると、中央通りに沿って秋葉原電気街が続いています。秋葉原は第二次世界大戦後、闇市として発展しました。高度経済成長とともに、多様な電子機器や部品を取り扱う店舗などが建ち並ぶ日本一の電気街として発展しました。その後、バブルの崩壊や大型家電量販店・ディスカウントストアの台頭などによる家電市場の衰退で電器店は主力商品をパソコンに移していきました。これによって、パソコンマニアが集中し、秋葉原は一転してオタクの街として変貌を遂げました。世界的な観光地としても注目されるようになりましたが、2010年代以降はネット販売の普及と地価上昇、それに昨今のコロナ禍などでオタク向けの小売店が軒並み閉店し、代わって大資本によるコンセプトカフェが進出し、区画整理の推進などもあって今ではオフィス街に変貌しつつあります。
とあるお店のショーウインドウに、桜の木を描いた珍しいラベルのワインが展示されています。てっきり国産のワインかと思ったのですが、スペインのフミーリャ産なんですね。フミーリャという地名は初めて知ったのですが、スペインワインの原産地呼称制度であるデノミナシオン・デ・オリヘン(DO)の産地として登録されているそうです。フミーリャでは主にモナストレル種のブドウを使用しています(SAKURAもモナストレル種100%です)。土壌は石灰質で、夏季の最高気温は摂氏40度に達しますが、冬季には氷点下になることもあり、大陸性気候の産地となっています。年間日照時間は約3、000時間と長く、年間降水量は約300ミリメートルと乾燥しています。「フアン・ヒル SAKURA」は、フミーリャを代表するワイナリーであるフアン・ヒルのオーナーのミゲル・ヒル氏がワシントンで初めて桜並木を歩いた時に、その美しさに心を奪われ、そして偶然にもフアン・ヒル氏のブドウ畑が広がる丘の名前が「Cerezo:桜の意」であったため、ミゲル氏は深い縁を感じ、「桜」はフアン・ヒルにとって特別な存在となりました。日本限定発売の「SAKURA」は、フアン・ヒルのワインを愛する日本の人々への感謝を込めたミゲル氏からの贈り物です。
ソムリエさんのコメントです
ブラックチェリーやプラムのジャムに黒系スパイスやスモークのヒント。滑らかな完熟果実がアタックから感じられ、細やかなタンニンが骨格を成し、オークのニュアンスが味わいをより一層引き立てています。フアン・ヒルの濃厚な果実感をお愉しみください。
中央通りに面して「さざれ石美濃坂」のお店があります。さざれ石は「細石」と書き、「小さな石」の意味です。一方、長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋めることによってひとつの大きな岩の塊に変化した「石灰質角礫岩」を巌(いわお)と呼びます。「君が代」で詠まれるさざれ石は文字通り細かい石・小石の意味で、それらの小石が巌となり、さらにその上に苔が生えるまでの過程が非常に長い歳月を要する、つまり国家が永続するという比喩表現として用いられています。
中央通りに面したビルの角に案内板が立っています。ここに日本初の喫茶店があったそうです。
日本最初の喫茶店「可否茶館」跡地
明治二十一年(1888年)4月13日、日本人による初めての喫茶店が、鄭永慶(別名・西村鶴吉)によりこの地に設立された。二百坪の敷地に五間と八間の二階建ての木造洋館であった。一階には「トランプ、玉突き、クリケット、碁、将棋」を揃え、また硯に便箋や封筒もおき、更衣室・化粧室・シャワー室・調理場などの設備の他に、「内外の新聞、雑誌類、その他和漢洋書、書画を蒐集縱覧に供す」部屋を設け、二階が喫茶室で、丸テーブル・角テーブルを配置、椅子は籐であった。コーヒーは一杯一銭五厘、牛乳入りが二銭であり、一品料理・パン・カステラなども出していた。ちなみに当時、「もりそば」は八厘であった。設立者の鄭永慶は、近松門左衛門作の「国性爺合戰(こくせんやかっせん)」で有名な鄭成功の弟、七左衛門を先祖にもち、庶民のためのサロンとして、また知識も学べる広場(コーヒーハウス)とすることを理念としての開店であった。
中央通りに面した「うさぎや」というお店の前に行列ができています。ラーメン屋の行列は珍しくはありませんが、ここは和菓子屋さんのようです。「喜作最中」と「どらやき」がお店の看板商品だそうで、「喜作」は二代目店主のお名前だとか。なみなみならぬ思いがあるのでしょう。藤井聡太先生が「うさぎまんじゅう」を注文したら爆売れでしょうね。
上野広小路手前で中央通りが分岐するところに小さな公園があり、そこに町名由来案内板が立っています。「黒門」の町名は、上野に寛永寺が創建され、その門前町として発展してきたという由来があるのでしょう。
旧町名由来案内 下町まちしるべ 旧西黒門町
東叡山寛永寺が創建されたのにともない、寛永三年(1626年)に同寺の門前町として上野新黒門町ができた。この命名については御府内備考が「東叡山御門前に相成、元黒門町に引続町屋に御成候に付新黒門町と唱候哉」と述べられているのに由来する。上野新黒門町は、御成道(現在の中央通り)の両側に形成されていたが、明治二年(1869年)御成道を境にして東西に二分され、上野西黒門町・上野東黒門町として新たに発足した。明治五年、上野西黒門町は伊勢亀山藩上屋敷と武家屋敷を合併して町域を広げ、同四十四年には上野の二字を略し、西黒門町となった。
都電臨時20系統のもうひとつの路線であった、広小路電停から池袋駅電停までの区間の始点となった上野広小路にやってきました。上野寛永寺の門前町として発展した地区で、地名は明暦の大火(1657年)以後、現在の上野公園入口から松坂屋に至る道路を広げて火除地とし、広小路と呼ばれたことに由来します。江戸幕府の歴代将軍が寛永寺参拝に利用した御成道で、本郷〜浅草厩河岸〜本所へ通じる道と交差して賑わいました。当時から沿道に食料品店・料理店などが並び、日本橋とともに江戸の繁華街でした。現在、商業・歓楽地の機能などの性格をもちながらも、新宿・池袋・渋谷などにみられない江戸・明治・大正の伝統がしみ込んだ歴史的情緒がうかがわれる町として知られています。
上野四丁目交差点を左折して不忍通りに入ります。そのまま素直に不忍通りを進めば、神明町に至るのですが、都電臨時20系統は交差点の先から不忍池のある上野公園に入っていったようです。現在は車止めがあって車は入れませんが、恐らくはここに都電の線路が敷かれていたのでしょう。
公園の入口に旧町名由来案内板が立っています。「上野恩賜公園」というのが町名だったんですね。実際には住民はいなかったと思いますが。
下町まちしるべ 旧上野恩賜公園
江戸時代初期、この地は津軽・藤堂・堀家の屋敷であったが、徳川三代将軍家光は天海僧正に命じて寛永寺を建てさせた。寛永二年(1625年)のことである。その後大きな変化もなく幕末を迎えるが、慶応四年(1868年)の彰義隊と官軍の戦争により寛永寺が焼失、一面焼け野原と化した。荒れ果てた姿のままであったが明治六年一月の太政官布告により公園に指定されたことから公園地となった。恩賜公園のいわれは、大正十三年に帝室御料地だったものを東京市へ下賜されたことにちなんでいる。その後規模・景観はもとより、施設など我が国有数の都市型公園として整備された。面積六十二万平方メートル余り。上野公園生みの親がオランダ人医師のボードワン博士。病院建設予定地であった上野の山を見て、その景観のよさから公園にすべきであることを政府に進言し実現したものである。
公園の入口横に「下町風俗資料館」の建物が建っています。「フーゾク」でなく、「歴史」とか「文化」の方が誤解を受けなくていいと思うのですが。
下町風俗資料館の概要
古き良き下町の文化を永く後世に伝えるために・・・
明治・大正ころまでの下町には江戸の名残がありました。しかし大正十二年(1923年)の関東大震災、昭和二十年(1945年)の戦災によって、ほとんどその面影をなくし、さらに目覚しい復興を遂げた戦後、特に昭和三十年代後半には東京オリンピックを契機とする再開発が積極的に進められ、街はすっかり様変わりしました。人びとの暮らしもまた時代とともに変化し、便利さを取り入れた代わりに、古い時代の大切なものが忘れられようとしていました。古き良き下町の文化が失われつつあることに憂いの声が上がったのは昭和四十年代のことでした。「下町風俗資料館」、それは次第に下町を愛する人びとの間に広がり、やがて庶民の歴史である下町の大切な記憶を次の世代へ伝えるための資料館設立の構想が生まれたのです。これを実現するために台東区内外からたくさんの貴重な資料が寄贈されました。そして、多くの人びとの長い歳月をかけた願いが実り、台東区立下町風俗資料館は、昭和五十五年(1980年)10月1日に、ここ不忍池畔に開館いたしました。
都電臨時20系統の線路がどの辺りに敷設されていたのか分かりませんが、不忍池キワキワのところか、動物園通りとの境界線に沿っていたのではないかと思われます
都電臨時20系統は不忍池の先をどのように進んでいたのでしょうか?今は線路がないので分かりませんが、本当は弁天門から不忍池沿いに西園の中を進み、上野動物園モノレール(上野懸垂線)の上野動物園西園駅傍にあったであろう動物園電停で停車し、上野グリーンクラブ横の路地に出て、池之端二丁目交差点に向かっていたようです。
でも、歩いた時点では公園内を通らず、動物園通りを走っていたものと思い込んでいました。道幅が狭く、おまけに途中で直角に曲がるという電車の運行にはあり得ないルートですから、普通に考えればオカシイと思う筈ですけどね。
動物園通りを進みますと、水月ホテル鴎外荘の角で直角に左折する脇道があります。こんな角度を曲がれる電車なんてないですよね。水月ホテル鴎外荘は、その名の通り森鴎外の旧居跡に建てられています。
森鴎外旧居跡
森鴎外は文久二年(1862年)正月十九日、石見国津和野藩典医森静男の長男として生まれた。本名を林太郎という。明治二十二年(1889年)三月九日、海軍中将赤松則良の長女登志子と結婚し、その夏に根岸からこの地(下谷区上野花園町十一番地)に移り住んだ。この家は、現在でもホテルの中庭に残されている。同年八月に「国民之友」夏季附録として、「於母影」を発表。十月二十五日に文学評論「しがらみ草子」を創刊し、翌二十三年一月には処女作「舞姫」を「国民之友」に発表するなど、当地で初期の文学活動を行った。一方、陸軍二等軍医正に就任し、陸軍軍医学校教官としても活躍した。しかし、家庭的には恵まれず、長男於菟が生まれた二十三年九月に登志子と離婚し、翌十月、本郷区駒込千駄木町五十七番地に転居していった。
Remains of the former residence of Mori Ogai
Mori Ogai (1862-1922) is one of the most famous modern writers in Japan. In March of 1889 he married Akamatsu Toshiko, and from the summer of that same year lived at this site. This house still stands in the inner garden of a hotel. In October of 1889 he published the literary review "Shigarami zoshi". In January of the following year he wrote his first novel Maihime (Dancing Girl). With the completion
of these and other early works, this spot should be remembered as the site where he began his literary career. However his domestic life was not so fortunate and in September of 1890 he divorced Toshiko and moved to a new place the follwing month.
池之端二丁目交差点の手前に小さな児童遊園があり、往年の都電車両が展示されています。ここは、かっての池之端七軒町電停跡です。昭和三十年代の都電全盛期の時代には、都電20系統(江戸橋〜須田町)、都電37系統(三田〜千駄木町)、そして都電40系統と、三つの路線が池之端七軒町電停(廃止時は池之端二丁目電停に改称)に発着していました。フェンスに掛けられた案内板には、当時の池之端七軒町電停に停車している都電20系統の写真が添えられています。行き先表示が「江戸川橋」となっていることから、電車の後方が上野動物園で、手前のカーブした先の池之端二丁目交差点から不忍通りに入っていたのでしょう。池之端児童遊園に展示されている都電の車両は7500形で、つい最近まで荒川線で走っていたそうです。
旧都電停留場(池之端七軒町)
ここ、池之端児童遊園は、かつて都電停留場(池之端七軒町)のあった場所です。昭和三十年代の都電全盛期の時代には、20系統(江戸川橋〜須田町)、37系統(三田〜千駄木二丁目)、40系統(神明町車庫前〜銀座七丁目)と三つの路線が走っていた区間でしたが、昭和四十二年(1967年)12月に37・40系統が廃止、昭和四十六年(1971年)3月には20系統も廃止になり、池之端七軒町(廃止時は池之端二丁目に改称)の停留場は姿を消しました。平成二十年3月、都電停留場だったこの場所に都電車両を展示し、地域の歴史が学べ、まちのランドマークとなる児童遊園として整備しました。使用したレールは、東京都交通局荒川線で使われていたものを再使用しました。
都電7500形(7506号車)
ここに展示された都電は7500形といわれる形式で、昭和三十七年に製造された旧7500形を車体更新したものです。旧7500形は昭和五十九年以降、台車と主要機器を流用した車体更新が施され(て)現在の7500形となり、都電で初めて冷房装置が搭載されました。この車両は、平成二十年1月末まで都電荒川線(三ノ輪橋から早稲田)を走行し、平成二十年2月1日東京都交通局より台東区に譲渡されました。
団子坂下交差点周辺は、かって駒込坂下町と呼ばれていました。団子坂の名前の由来は、坂の傍に団子を売る茶店があったからなんですね。
旧町名案内 旧駒込坂下町(昭和四十年までの町名)
元文年間(1736年〜1741年)開かれた町で、千駄木坂の下にあるので、千駄木坂下町と名づけられた。明治二年に、板倉摂津守屋敷跡、明治二十四年に元駒込村字本根津下、笹原下、藪下の内及び元日暮里村飛地を併せた。明治四十四年、町名を駒込坂下町と改めた。千駄木坂は、坂上から東京湾の海が見えたから潮見坂、坂の傍に団子を売る茶店があったから団子坂、また坂下に七面堂があったから七面坂といろいろな別名がある。団子坂は、明治時代菊人形で有名であった。また坂上には森鴎外が長く住み(観潮楼・現区立鴎外記念本郷図書館)多くの名作を残した。
歩道の奥に小さな祠があり、地蔵尊を祀っています。
「坂下平和地蔵尊」由来の記
昭和二十年(1945年)三月四日朝、アメリカ空軍B29によって、この地域の千駄木・谷中に多数の爆弾が投下され、大きな被害を受けました。死者500人以上といわれています。この地には、銭湯「鹿島湯」があり、石炭貯蔵庫を防空壕に使用していました。同銭湯に爆弾が投下し、防空壕に入っていた赤ちゃんを含む23人の方が犠牲になりました。昭和三十四年(1959年)、この方々の冥福と戦争を二度と起こさぬことを誓い、近所の人々によって、この地蔵尊が建立され、「坂下平和地蔵尊」と命名されました。
道灌山下交差点に来ました。道灌山は、西日暮里にある高台で、田端や王子へ連なる台地の少し高い場所にあります。名称の由来は、江戸城を築いた室町時代後期の武将・太田道灌の出城址という説、鎌倉時代の豪族・関道閑(せきどうかん)の屋敷址という説、キツネが住んでいた(または稲荷が祀られていた)ので稲荷山(とうかやま)と呼ばれたのが訛ったという説があります。道灌山上には、進学校として知られる開成学園の校舎が聳えています。
駒込には坂が多いですね。坂上の北側には、かって目赤不動尊がありました。不動坂と呼ばれるべきところを略して動坂と呼ばれつようになったということです。
旧駒込動坂町(昭和四十一年までの町名)
もと、下駒込村に属していたが、明治二十四年東京市に編入された。町名は、町内を不忍通に下る動坂の坂名からとり、名づけられた。動坂の名称は、坂上に五色不動で有名な目赤不動があったので、不動坂と呼ばれ、略して動坂といった。
都電神明町車庫の跡地には、文京区勤労福祉会館と都営本駒込四丁目アパートが建っています。都電の車庫跡は、バスの車庫と都営住宅をセットにして再利用するのが多いのですが、公共の施設を建てることもあります。まれに、民間の商業施設として売却する例もあります。何しろ、立地条件がいいですからね。
それと、跡地の一部を公園として活用する例も多くあります。神明都電車庫跡も一部が公園になっています。神明都電車庫跡公園には、実際に使われた電車が保存・展示されています。電車の大きさと比べて、公園の敷地の広さが目立ちます。公園に展示されているのは6000形の車両で、実際に都電40系統として運行していたものです。
都電客車の由来
ここに展示された都電は客車6000形といわれる形式で、昭和二十二年に1号車(6001号)が誕生し、昭和二十八年までに289両の車両が製造され、都内全域にわたり活躍しました。ここにある6063号は、昭和二十四年3月に63番目に製造されたものです。活躍の第1号は、昭和二十四年3月19日から青山車庫管内の路線を走行し、それから大久保、南千住車庫管内に移り、昭和二十四年9月からは、神明町車庫管内を走行し、昭和四十五年12月28日荒川車庫管内に移籍し、昭和五十三年4月27日まで約29年間活躍し、廃車となりました。
形式 半鋼性ボギー電動客車(6063号)
定員 96人(内座席22人)
面積 19.62u
最大寸法(長×巾×高) 12300X2210X3700
自重 15t
都電に貨物車があったとは初めて知りました。戦中と戦後復興期には物資の輸送に活躍したのですね。都心を縦横に網羅する都電は小物の輸送手段としては最適だったのかもしれません。
貨物車の由来
ここに展示した貨物車は乙2型といわれております。この貨物車は昭和十六年に乙10型を改造したものです。この貨物車は幸い戦火をまぬがれ、戦後も軌道敷の砕石などを輸送し、また一時は野菜、魚介類などの食料品輸送にも活躍したそうですが、昭和四十六年3月20日に荒川車庫で廃車となりました。
形式 電動無蓋四輪貨物乙2型
荷重 5t
積載容量 15立方メートル
面積 8.369u
最大寸法(長×巾×高) 7650X1980X3453
東洋文庫は、東洋史と文化に関する文献資料を収集した東洋学専門図書館です。東洋文庫の基礎は、1917年に三菱財閥の第三代総帥岩崎久弥が当時中華民国の総統府顧問を務めていたジョージ・アーネスト・モリソンの所蔵する、中国に関する欧文文献の膨大なコレクション(モリソン文庫)を購入したことに始まります。岩崎久弥はモリソン文庫に加えて和書・漢籍をはじめとする東洋諸言語文献を収集し、日本を含めた東洋全域を網羅するコレクションを構築したうえで、1924年に本駒込の地に民間の図書館兼研究所である財団法人東洋文庫を設立しました。初代理事長には、同年まで大蔵大臣だった井上準之助が就任しています。設立後、久弥自身は文庫の運営に一切関わろうとはしませんでしたが、必要な図書費や研究費の支援は惜しみなく行いました。三菱の海外支店を通じて代金の支払いが確実になされるため、東洋に関する良書や貴重書が現れるや、世界中の書店が先を争って文庫に購入を持ちかけました。東洋文庫はこうして東洋学関係図書の収集・研究所の出版・国際交流などを行って地歩を確立しましたが、第二次世界大戦後の混乱期には支援者である三菱財閥の解体により経営が困難となり、蔵書は散逸の危機に瀕しました。この窮地に対して、1947年に理事長に就任した幣原喜重郎元首相の尽力により、国会が支援に乗り出し、1948年に同じく三菱財閥の支援下にあった静嘉堂文庫とともに、発足したばかりの国立国会図書館の支部とされました。これにより国会図書館は東洋文庫内に支部東洋文庫を置き、文庫の図書館部門の閲覧業務を請け負うことになりました。現在は特殊公益増進法人に認定された財団となり、その必要資金は自己資産や三菱グループからの寄付金及び国等の補助金でまかなわれています。
東洋文庫
大正十三年「東洋文庫」がここに設立された。オーストラリア人、アーネスト・モリソンは、ロンドンタイムズの通信員として中国に駐在した後、中華民国の政治顧問として活躍し、中国に関する欧文の文献四万五千冊を集めていた。これが譲渡されるに際して、欧米諸国から申し出があったのを、大正六年岩崎久弥氏(三菱三代目社長)が、これを購入し財団法人として一般に公開した。モリソンのコレクションは、中国に限られていたので、久弥氏は、これをアジア全地域に拡大し、欧文のみならず漢籍その他現地語の図書をも収集し、現在に及んでいる。また図書部の外に研究部を設けた。現在七十万冊を蔵し、アジア研究のセンターとして、世界でも有名である。
日本医師会は日本の医師であることを入会の要件とする職能団体で、本部は日本医師会館内にあります。日本医師会・日本歯科医師会・日本薬剤師会を合わせて「三師会」と称されています。初代会長は北里柴三郎です。第十一代の武見太郎は、1957年〜1982年の25年間会長の職にありました。武見太郎は世界医師会会長も歴任しました。その独裁的権力者のふるまいから、ケンカ太郎とか、武見天皇とまで呼ばれました。
文教グリーンコートは、不忍通りに面した旧理化学研究所に由来する科研製薬の工場・研究所移転を契機に、その跡地の有効利用を目的に計画され、科研製薬・日本生命・東邦生命が開発した複合施設です。公開空地は、この土地を特徴づけてきた豊かな表情をもつイチョウの林を不忍通りに面して集中的に保存・再生を図り、街に「グリーンスクエア」として、さらに後方には多くの桜の木が植栽され「さくら広場」と名付けられ、それぞれ開放されています。このほか道路に沿って歩道上空地を設け、街路樹を含めて、みずみずしい緑地環境を形成しています。植え込みの中に、かっての理化学研究所の案内板が立っています。
〜理化学研究所ここにありき〜
理化学研究所(理研)は、大正六年(1917年)財団法人として創立された。理研は歴史上に偉大な足跡を残し、今もなお日本の近代科学の推進役を果たしている。世界初の原子模型を発表した長岡半太郎博士・KS鋼を発明した本多光太郎博士・世界初のビタミンB1抽出に成功した鈴木海太郎博士・日本初のサイクロトロン建設をした仁科芳雄博士など、数多くの著名な研究者たちがここに参集した。また、ノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士・朝永振一郎博士など多くの優れた研究者を輩出した。まさに、科学者たちの楽園と呼ぶにふさわしい環境だった。理研は昭和二十三年(1948年)に改組され、仁科博士を初代社長とする株式会社科学研究所が設立された。この理研の流れをくむ科学研究所が科研製薬の前身である。
千石三丁目の交差点から不忍通りを上野方面に上るのが「猫又坂」です。かって、坂下には千川が流れ、大正七年に架橋されたアーチ式の「猫又橋」と呼ばれる石造りの橋が架けられていました。その後、昭和九年の千川の暗渠化にともない、川は道路の下を流れ、橋も撤去されました。ちなみに、猫又とは、「年老いて尾っぽが二股になった猫の妖怪」のことだそうです。
猫又坂(猫貍坂・猫股坂)
不忍通りが千川谷に下る(氷川下交差点)長く広い坂である。現在の通りは大正十一年(1922年)頃開通したが、昔の坂は、東側の崖のふちを通り、千川にかかる猫又橋につながっていた。この今はない猫又橋にちなむ坂名である。また、「続江戸砂子」には次のような話がのっている。むかし、この辺に狸がいて、夜な夜な赤手拭をかぶって踊るという話があった。ある時、若い僧が、食事に招かれての帰り、夕暮れどき、すすきの茂る中を、白い獣が追ってくるので、すわっ、狸かと、あわてて逃げて千川にはまった。そこから、狸橋・猫貍橋・猫又橋と呼ばれるようになった。猫貍とは妖怪の一種である。
役目をおえた猫又橋の親柱の袖石が歩道奥の植え込みの中に保存されています。
猫又橋 親柱の袖石
この坂下にもと千川(小石川とも)が流れていた。むかし、木の根っ子の股で橋をかけたので、根子股橋と呼ばれた。江戸の古い橋で、伝説的に有名であった。このあたりに、狸がいて、夜な夜な赤手ぬぐいをかぶって踊るという話があった。ある夕暮れ時、大塚辺の道心者(少年僧)がこの橋の近くに来ると、草の茂みの中を白い獣が追ってくるので、すわ狸かとあわてて逃げて千川にはまった。それから、この橋は、猫貍橋・(猫又橋)といわれるようになった。猫貍は妖怪の一種である。昭和のはじめまでは、この川でどじょうを取り、ホタルを追って稲田(千川たんぼ)に落ちたなど、古老がのどかな田園風景を語っている。大正七年年3月、この橋は立派な石を用いたコンクリート造となった。ところが千川はたびたび増水して大きな水害をおこした。それで昭和九年千川は暗渠になり道路の下を通るようになった。石造りの猫又橋は撤去されたが、地元の故市川虎之助氏(改修工事相談役)はその親柱と袖石を東京市と交渉して自宅に移した。ここにあるのは、袖石の内2基で、千川名残りの猫又橋を伝える記念すべきものである。なお、袖石に刻まれた歌は故市川虎之助氏の作で、同氏が刻んだものである。
騒がしき蛙は土に埋もれぬ
人にしあれば如何に恨まん
歩道の脇に旧町名案内板が立っています。
旧大塚町(昭和四十一年までの町名)
もと小石川村の内、寛永六年(1629年)町屋が開かれた。町名は、大きな塚があったので大塚と名づけたといわれる。この塚は、貞静学園の北裏から三井銀行研修所内(大塚1−3)にあった。一説には古墳といわれる。明治五年、付近の地を併せて町域は拡張したが、その内の多くは、安藤長門守の下屋敷であった。ここに陸軍弾薬庫が置かれたが、昭和四年にお茶の水から、東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)が移った。
もうひとつ、歩道の脇に旧町名案内板が立っています。
旧東青柳町(昭和四十一年までの町名)
もと、小石川村の内であった。五代将軍綱吉が、生母桂昌院の願により護国寺を建立した。元禄十年(1697年)護国寺領となり、町屋にしたが家作人がなく、後幕府が再建して奥女中の青柳という者に家作を与えた。青柳の名をとり町名としたという。護国寺の仁王門前、音羽通りをはさんでの旧音羽一丁目の両側、東の方が東青柳町、西の方が西青柳町となった。延享二年(1745年)町方支配となった。護国寺前から江戸川橋までの一直線の道路(音羽通り)は、江戸時代から道幅も広く整然としていた。将軍の護国寺への御成りの道で、1千人以上の供が従ったという。
この門は護国寺に隣接する豊島岡墓地の入口になります。明治六年、若くして亡くなった稚瑞親王(明治天皇の第一皇子)の墓所となり、以後は宮家や旧皇族の墓所として現在に至っています。近年では、平成十二年に香淳皇后(昭和天皇の皇后)の斂葬の儀が執り行われた他、つい最近では、三笠宮寛仁親王の儀も記憶に新しいところです。
護国寺惣門は大名屋敷の門を思わせる造りで、これも護国寺の格式の高さを象徴しています。元禄年間(1688年〜1704年)の建造といわれ、現在は境内にある音羽幼稚園の入口にもなっています。
護国寺惣門
この惣門は、護国寺の方丈への軸線上にあり、寺院の門と共に住宅の門という性格をあわせもっている。形式は社寺系のものではなく、江戸時代武家屋敷門の五万石以上の大名クラスの、格式に相当する形式と偉容をもっている。当寺が幕府の厚い庇護のもとで、高い格式を保持した歴史を反映している。大名屋敷表門で現存するものは、いずれも江戸時代後期のものであるのに対して、この門は、中期元禄年間のもので、特に貴重な文化財である。
不忍通りから音羽通りが分岐するところの広場奥に巨大な護国寺の仁王門が建っています。護国寺は天和元年(1681年)の創建です。後に将軍家の武運長久と江戸城護持の祈願寺となり、寺領1200石に及ぶ江戸有数の大寺となりました。本堂は元禄十年(1697年)に観音堂として建てられたもので、当時の江戸幕府の財力と権威が結集され、元禄文化を象徴するような華麗な造りを見せています。音羽通りは、護国寺への将軍御成道として開かれました。
護国寺仁王門
八脚門、切妻造で丹塗。元禄期造営の本堂、薬師堂や大師堂などから成る徳川将軍の祈願寺としての伽藍の中で、重要な表門である。建立の年代については、元禄十年(1697年)造営の観音堂(現本堂)などよりやや時代が下がると考えられる。正面(南側)の両脇に金剛カ士像(阿形像・吽形像)、背面(北側)の両脇に、二天像(増長天・広目天)の仏法を守る仏像が安置されている。
護国寺の山門の丹の圓柱
つよきものこそ美しくあれ (窪田空穂)
都道435号音羽池袋線の奥に広大な雑司ヶ谷霊園が拡がっています。前身は明治七年に開設された雑司ヶ谷旭出町墓地で、明治二十二年から東京市が管理することになり、昭和十年に雑司ヶ谷霊園と改称されました。樹木に囲まれた広大な敷地には、夏目漱石・泉鏡花・小泉八雲・竹久夢二・永井荷風・東條英機・大川橋蔵など、多くの著名人の墓所が散在しています。墓地の縁側に沿った道は、かって「御鷹部屋道」と呼ばれていました。
御鷹部屋道
この道は明和九年(1772年)「武蔵国豊島郡雑司谷村絵図」によれば
御鷹部屋道
と記されており、霊園西側約九千坪の敷地に徳川八代将軍吉宗が鷹狩りのための鷹の飼育調練に用いた御鷹部屋があったことに由来する。
現在東池袋となっている地名は、昔は旭出町とか日ノ出町とか呼ばれていました。池袋駅前から延びるグリーン大通りに続く日出通り(日の出通り・日ノ出通り)もその名残です。現在の都電荒川線と交差する地点に日ノ出町2丁目電停(現在の名称は「東池袋4丁目電停」)がありました。(池袋駅からみて)電停の手前に左へ分かれるポイントがあり、現在の荒川線脇の一画に線路が引き込まれていました。これは大塚まで行かないと車庫が無い都電17系統専用の電車留置線で、主に朝夕のラッシュ時にはここに電車が待機していました。都電17系統が廃止された後、都営バスの日ノ出町操車場として長らく使われていましたが、平成二十年に敷地が道路予定地となったことから閉鎖され、現在は跡地の一部に超高級&超高層マンションが建っています。
東池袋の有名店が首都高の高架下にある「大勝軒」の本店です。初代店主の山岸一雄さんが考案した「特製もりそば」はつけ麺の元祖とされています。昭和三十六年(1961年)に開業し、当初から行列の絶えない店として数々のメディアに取り上げられました。平成十九年(2007年)の再開発計画により一時は閉店しましたが、閉店を惜しむ声により一年後に旧店舗近くの現在の場所で復活しました。山岸一雄さんは平成二十七年(2015年)に他界され、彼が創り上げた味と心は、現在「東池袋大勝軒本店」で弟子の飯野敏彦氏が二代目店主として継承しています。
都電臨時20系統の池袋駅電停はどこにあったのでしょうか?ネットで当時の写真を見てみますと、現在のグリーン大通りの突き当たりに西武百貨店の建物が写っています。その手前のグリーン大通り上に都電が停まっていますので、恐らくグリーン大通りが明治通りに合流する交差点の手前あたり(地下街の地上出入口付近)に電停があったものと思われます。
ということで、都電臨時20系統の歩きを終えました。都電臨時20系統のルートは、都電40系統の一部と、都電17系統の一部など、幾つかの系統を合わせたものになっていました。神明車庫から大塚仲町までの不忍通りは単独区間だったように思いますが、今まで見落としていたところも発見でき、面白い路線でした。
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