都電臨時22系統跡コース  

コース 踏破記  

今日は都電臨時22系統跡を歩きます。都電臨時22系統は新橋から雷門までを結び、その路線は主に中央通り・江戸通り・【駒形橋二丁目〜雷門】を通っていました。都心を南北に縦断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。また、多くの都電がこの区間を重複して走っていました。  

都電臨時22系統

都電臨時22系統は、昭和42年12月9日に廃止となりました。

都電臨時22系統の電停(路上の駅)は、新橋・銀座七丁目・銀座四丁目・銀座二丁目・京橋・通三丁目・日本橋・室町一丁目・室町三丁目・本町三丁目・小伝馬町・馬喰町・浅草橋・浅草橋駅・蔵前一丁目・蔵前三丁目・厩橋・駒形二丁目・雷門でした。


都電臨時22系統の起点は、中央通り・第一京浜(いずれも国道15号)と昭和通り・外堀通りが交わる新橋交差点に位置していた新橋電停です。交差点のどの辺りにあったのか分かりませんので、道路標識のある辺りとしましょう。新橋交差点の手前に「芝地区ちぃまっぷ」の案内板が立っています。旧新橋停車場跡にある鉄道歴史展示室は資料が豊富で、鉄道マニアでなくても十分楽しめる展示になっています。

旧新橋停車場 鉄道歴史展示室

開業当時の駅舎基礎石の遺構や改札鋏の現物などが展示されています。デジタル設備も充実し、「旧新橋停車場データベース」で、鉄道史や汐留の歴史、旧新橋停車場などに関するディープな情報も検索・閲覧できます。

Old Shimbashi Station Railway History Exhibition Hall

The foundation of the old station, the old wicket punch, and other items used at the opening time of the station were exhibited. Equipped with various digital facilities and by using the "old Shimbashi Station Data Base", you can research and take a look at the history of railway and Shiodome area and other interesting and detailed information about the old Shimbashi Station.

新橋駅前SL広場

テレビの街頭インタビューでお馴染みのSL広場は、一日中たくさんの人でにぎわう新橋の代表的スポットです。正午と15時・18時の1日3回、それぞれ数秒間にわたり「汽笛一声」を告げています。

SL Square at Shimbashi Station

The SL Square is the very popular and familiar place in which we see the TV reporters to interview people. It is also the most famous place to represent Shimbashi area with many people bustling all day long. The sound of SL whistle blows three times a day at noon, 3 p.m., and 6 p.m.

「新橋」の由来(親柱跡)

新橋という地名の由来は、かつて汐留川に架けられたアーチ橋「新橋」(「芝口橋」とも呼ばれた)の名前がもとになったという説が有力です。

The origin of the name "Shimbashi"

It is said that the name "Shimbashi" most probably came after the arch-shaped bridge named "Shimbashi" on the Shiodome-gawa River (also called "Shiba-guchi Bridge").




中央通りに入った先に、かっての汐留川を埋め立てた跡に出来た高架の東京高速道路が上空を横切っています。この地点に架かっていた橋が新橋の地名の由来となった「新橋」でした。江戸城の外堀との合流点に架かっていた「土橋」よりも後に架橋されたので「新橋」の名前が付けられたとのことです。現在は橋の欄干があったところに煉瓦塀が置かれているのみです。高架手前に広場があり、銀座柳の石碑が置かれていて、西条八十作詞・中山晋平作曲の「銀座の柳」の歌碑が刻まれています。明治二十年頃に街路樹として銀座の街に植えられた柳は街の発展と共に銀座の名物となりました。その柳を歌ったこの歌は全国を風麗し、これを記念して昭和二十九年4月1日にこの歌碑が建立されました。広場には、かって汐留川に架かり地名の由来ともなった新橋の親柱も保存されています。

銀座柳の碑

植えてうれしい銀座の柳
江戸の名残りのうすみどり
吹けよ春風紅傘日傘
今日もくるくる人通り

新橋親柱

新橋親柱は、かつて新橋と銀座の間を流れていた汐留川に架けられていた橋で、昭和三十八年(1963年)、川の埋め立て工事とともになくなりました。現存する新橋親柱は、大正十四年(1925年)に、長さ20m・幅27mの鉄筋コンクリートで作られた橋の一部です。地域名の由来を今に残す貴重な遺構です。

Minato City Cultural Asset Pillar of the Shinbashi Bridge

This cultural asset is a pillar of Shinbashi Bridge. This area is called Shimbashi, which is the origin of this bridge. With the urban development of the Tokyo-Olympics held in 1964, the river was buried and the bridge disappeared.




銀座八丁目の中央通りに面した敷地に、地上12階建(塔屋1階)の「HULIC&New GINZA 8」という名称の商業テナントビルが建設されています(歩いた当時は建設中でしたが、2021年10月15日に竣工しました)。高さ約56m・延べ面積2459.55uの耐火木造と鉄骨造を組み合わせたハイブリッド構造で、12階建ての木造建築の商業ビルは日本初とのことです。デザイン監修は新国立競技場や高輪ゲ−トウエイ駅を手がけた隈研吾氏が担っています。銀座に木造の高層ビルとは素敵ですね。



銀座でビアホールといえば、銀座ライオンですね。ビールの本場ドイツ流のホールには格調高い雰囲気があります。

生ビールの殿堂としての風格

この建物は、昭和九年、当時の大日本麦酒株式会社の本社社屋として新築され1階でビヤホールを開店しました。建築設計者は、新橋演舞場などを設計した菅原栄蔵氏で、1階の内装は、直営ビヤホールということで特に力を入れて、独特の工夫をこらし、完成時には、建築の専門家を含めて多くの人々から絶大な称賛を受けました。壁面と柱に使用した2種類の色タイルは当時類例を見ないものであり、カウンター周りは、ドイツから輸入した大理石が使われています。正面と左右壁画には、初めて我が国でつくられたガラスモザイクの壁画を大小10面取り付けました。正面の大壁画は、タテ2.75m・ヨコ5.75m、約250色のガラスモザイクが使われています。ひとつひとつの小さなガラスモザイクの制作は、色調を整えるのに苦心をし、数百回の工程を経て約3年の日時を費やしたと言われています。この壁面に描かれているものは、ビール麦の収穫をする婦人たち、幸せの象徴であるアカンサスの花、そして遠くに見える煙突は当時の恵比寿ビール工場であると語られており、古代と現代を織り交ぜた、不思議かつ大変縁起の良い作品と言われています。戦後、約6年間米軍に接収され、米軍専用ビヤホールとして使用されましたが、昭和二十七年1月接収解除となり、再び庶民に愛されるビヤホールとして営業を再開しました。

This building was built in 1934. This beer hall was designed by Mr.Eizou Sugawara who was one of the best architects in Japan and it took three years to finish its construction. Colored tiles used for the walls and pillars were innovative in those days and marble imported from Germany was used for the counter. Ten wall paintings on both sides and the large painting in the front, for which glass mosaic tiles were used, were made after much trial and error. This beer hall, which has preserved the interior decoration of those days, has come to be loved as a symbol of "beer culture". This building was taken over by U.S. Army for 6 years and used as a designated beer hall for them until 1952. After the release, it restarted as a beer hall loved by all common people.




旧松坂屋デパートが建っていた敷地が再開発され、新しい商業施設のGINZA−SIXが誕生しました。オープン時に買い物ではなく見物に行ったのですが、あまりの豪華さに圧倒されました。屋上の遊歩道を備えたテラスからの銀座の街の眺めは格別です。



花の銀座四丁目交差点にやってきました。晴海通りを境に京橋寄りの北側一帯が「銀座四丁目」にあたり、交差点の名称はこれに由来しています。晴海通りの新橋寄りの南側一帯は「銀座五丁目」となり、旧町名は「尾張町」でした。銀座四丁目交差点は、江戸時代は「尾張町四ツ辻」、昭和初期までは「尾張町交差点」と呼ばれていました。交差点を取り囲むように三越・和光本館・三愛ビル・銀座プレイスが建っています。銀座和光は、明治十四年(1881年)12月にセイコーの始祖である服部金太郎によって「服部時計店」として創業されました。本館の時計塔は銀座のシンボル的存在になっていて、時計台に設置された鐘楼からは店舗営業時間中の毎時0分にウェストミンスターの鐘を演奏して時刻数の鐘を鳴らしています。私は銀座四丁目交差点は何百回も通りましたが、鐘の音は一度も聞いたことはありません。



歩道の脇に銀座の地名の由来を記した石碑が建っています。「銀座」の地名は、江戸時代の「銀座役所」に由来します。慶長八年(1603年)に江戸幕府を開いた徳川家康は、駿府にあった銀貨鋳造所を現在の銀座二丁目に移しました。その場所の正式な町名は新両替町でしたが、通称として「銀座」と呼ばれるようになったのです。日比谷入江といわれるように、江戸時代以前の銀座周辺は海の中でしたが、銀座は江戸前島という東京湾に大きく突き出した半島の先端部の低湿地帯に位置していました。それらの低湿地帯と日比谷入江・築地一帯を埋め立てることから江戸の町造りは始まったのです。「銀座」という座組織は幕府のために銀貨をつくる組織で、銀の買い入れや管理・事務を取り扱う役所と、銀貨の鋳造を行う工場とがありました。ちなみに金を扱う金座は現在の日本銀行本店のところにありました。「銀座」は銀を特権的に扱うために相当な利益がありましたが、「銀座」役人が幾つもの不正事件をおこし、寛政十二年(1800年)に「銀座」は日本橋蠣殻町に移転させられてしまいます。しかし銀座という通称だけは残りました。その他にも、銀座には「朱座(朱を扱う)」、「大判座(幕府から特権を受けて贈答用の金貨を鋳造する)」、「分銅座(計量用の秤に用いる標準のおもりを制作・販売する)」などがありました。大正期にできた銀座通連合会のロゴマークには8つの分銅があしらわれています。銀座は主に職人たちの住む町でしたが、尾張町周辺はたいへんな賑わいをみせました。現在の銀座通りとみゆき通りの交差点には、恵比須屋・亀屋・布袋屋といった呉服店が軒を並べ、日本橋の三井越後屋に匹敵する商売繁盛ぶりだったといいます。また、銀座には観世・金春・金剛の能役者たちの拝領屋敷があり、周囲には関係者たちが居を構えました。金春流の師匠たちがのちに金春芸者となり、現在の新橋芸者たちのルーツとなりました。さらに木挽町地域には芝居小屋が建ち並んでいました。

銀座発祥の地
銀座役所趾

慶長十七年(紀元2272年・西暦1612年)、徳川幕府此の地に銀貨幣鋳造の銀座役所を設置す。当時町名を新両替町と称しも、通称を銀座町と呼称せられ、明治二年遂に銀座を町名とする事に公示さる。




とんがり帽子の交番の横に、京橋の親柱が保存されています。京橋は、かって江戸城の外濠(現在の西銀座ジャンクション付近)から楓川・桜川の合流地点(現在の京橋ジャンクション付近)までを流れていた長さ約0.6kmの京橋川に架かっていた橋です。現在は埋め立てられた京橋川の跡地に東京高速道路が高架で通っていますが、銀座通りと交差する地点に京橋の親柱が3体保存展示されています。2体は銀座通りの東側、1体は西側に置かれています。西側の親柱の横に案内板が立っています。

京橋の親柱

京橋は、慶長八年(1603年)の創建とされる日本橋とほぼ同時期に初めて架けられたと伝えられる歴史のある橋です。昭和三十八年から昭和四十年にかけての京橋川の埋立て工事に伴って撤去されましたが、その名残りを留めるものとして、石造の親柱二基と、石およびコンクリート造の親柱一基が残されています。このうち、二基の石造親柱は、明治八年(1875年)に石造アーチ橋に架け替えられた時のものです。江戸時代の伝統を引き継ぐ擬宝珠の形をしており、詩人の佐々木支陰の筆による「京橋」と「きやうはし」の橋名が彫られています。また、石およびコンクリート造の親柱は、大正十一年(1922年)の拡張工事でアール・デコ風の橋に架け替えられた時のものです。照明設備を備えた近代的な意匠を持ち、「京橋」と「きようはし」の橋名と「大正十一年十一月成」の銅板プレートが付けられています。明治・大正と二つの時代に設置された親柱は、近代橋梁のデザインの変化を知ることができる貴重な建造物として、中央区民文化財に登録されています。

Main Pillars of Kyobashi

Kyobashi is a historic bridge that was built around the same time when Nihonbashi Bridge was built in 1603. Although Kyobashi was removed due to land reclamation work along the Kyobashi River from 1963 to 1965, two stone pillars and one stone-concrete pillar remain as its vestiges. The two stone pillars were installed when a stone arch bridge was built as Kyobashi in 1875. The pillars take the form of a giboshi (bridge railing-post knob) and follow the tradition of the Edo period with the characters "Kyohashi" written by poet Sasaki Shiin being carved as the name of bridge. The stone-concrete pillar was installed in 1922 during the extension work for building an art deco bridge. The pillar had a modern design with lighting facilities with the installation of a copper plate indicating that it has the name of bridge -"Kyobashi" and "Kyobashi"- and was "built in November 1922". These main pillars installed in the Meiji and Taisho period are registered as Cultural Properties of Chuo-city because they are valuable building structures that show the changing design of modern bridges.




東側の親柱の一方の横には石碑が建っていて、「煉瓦銀座之碑」と書かれた銅板のプレートが埋め込まれています。明治五年(1872年)の大火の後、街の不燃化が計画され、銀座煉瓦街が建設されました。以後この煉瓦街と街路樹の柳は銀座の名物となりました。煉瓦街も柳も街の発展とともに姿を消しましたが、その後煉瓦が発掘されたのを契機に昭和三十一年(1956年)、当時のままの「フランス積み」という方式で再現し、そこに煉瓦の碑が建てられました。碑のそばには明治七年(1874年)に設置されたガス燈の実物が復元されています。

煉瓦銀座之碑

明治五年二月二十六日(皇紀2532年、西暦1872年)

銀座は全焼し延焼築地方面に及び焼失戸数四千戸と称せらる。東京都府知事由利公正は罹災せる銀座全地域の不燃性建築を企画建策し、政府は国費を以て煉瓦造二階建アーケード式洋風建築を完成す。煉瓦通りと通称せられ銀座通り商店街形成の濫觴となりたり。




警察博物館前の広場にある東側のもうひとつの親柱の横に石碑が並んで置かれています。碑文には古めかしい説明文が書かれています。

京橋親柱の碑文

京橋は古来より其の名著える創架乃年ハ慶長年間なるが如し明暦以降数々架換へられ大正十一年末現橋に改築せらる此の橋柱は明治八年石造に架換へられたる時の擬寶珠欄干の親柱として橋名の書ハ明治の詩人佐々木支陰乃揮毫に係るものなり




警察博物館は、日本の警察の始まりから現代までの歴史的な資料を展示し、現在の警視庁の活動について紹介する、来て・見て・学び・体験できる博物館です。ただし、警視庁内での正式名称は「警視庁広報センター」となっています。昔は古風な建物でしたが、平成二十九年(2017年)4月29日に1年間の改装工事を経てリニューアルオープンしました。警視庁創設者である川路大警視に関する資料をはじめ、草創期からの事件に関する資料や、制服等装備品の変遷を展示するほか、警察各分野で活動する警察官の紹介等を行っています。子供たちにも興味を持ってもらうよう、アニメーションを使った映像作品や警察官の仕事を疑似体験できる展示装置などを導入し、楽しく警察の活動を学べる施設になっています。



日本橋三丁目交差点の角のビルの一画に大きなキリンの銅像が立っています。このビルは元々は漢方薬やバスクリンで有名な津村順天堂のビルでしたが、2006年に社屋を移転し、現在はスターツコーポレーション株式会社の本社になっています。昭和六十三年(1988年)に今のビルに建て替えられ、翌年に高さ6m25cmのキリンの銅像が設置されました。作者は鍛金彫刻家の安藤泉氏です。表情や佇まいがとても穏やかに見える大きなキリンの銅像ですが、何故こんなに大きなキリンの銅像をここに設置したのでしょうか?その理由は3つあるそうです。一つ目は、1976年に津村順天堂の漢方薬が保険医薬品に認定され、テレビCMによってバスクリンが成功するなど業績が好調だったことです。二つ目は、このキリンが王冠を被っているように、キリンは漢方の王様と言われていたことです。三つ目は、このビルの吹き抜けの天井を王冠にある照明器具で照らすために高さが必要だったことです。社屋移転の際にキリンの像も一緒に連れていくことは出来なかったのでしょうか?



日本橋交差点の手前に高島屋があります。三越と並び称される老舗のデパートです。地下の食品街にはよく行きましたね。ワインの贈り物をする際は、やはり高島屋の包み紙でないとね。



日本橋は東海道のみならず、中山道や日光街道など、江戸期に五街道と呼ばれた主要街道の起点とされましたが、現在もここには日本国道路元標が置かれ、都心から各方面に向かう国道の起点となっています。街道の起点ということは、同時に里程の起点でもあり、江戸時代に全国の街道筋に築かれた一里塚はこの日本橋を起点として距離が測られていました。橋は慶長八年(1603年)の架橋といわれています。家康が江戸城東側にあたるこの付近一帯を埋め立て、町割を施した際に架橋されたのでしょう。名称の由来については諸説ありますが、諸国へ通じた起点という意味のようです。



現在の橋は明治四十四年架橋の石造二連アーチ橋で、欄干の中央に麒麟、両端に獅子をあしらった青銅製の装飾がつき、平成十一年から国の重要文化財の指定も受けています。



日本橋の袂に人魚の銅像が鎮座し、横に案内板が立っています。

日本橋魚河岸跡

日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩千魚を荷場げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。この魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・安針町(現在の室町一丁目・本町一丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変なにぎわいをみせていました。なかでも、日本橋沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した舟が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売場を開いて売買を行ってきました。この魚河岸は、大正十二年(1923年)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。現在、魚河岸のあったこの場所には、昭和二十九年(1954年)に日本橋魚市場関係者が建立した記念碑があり、碑文には、右に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぷりをうかがうことができます。

Remains of the Nihonbashi Riverside Fish Market

Fresh fish and other seafood for consumption in the capital were unloaded for three centuries at the market that operated along the bank of the Nihonbashi River between the Nihonbashi and Edobashi bridges. The Nihonbashi Riverside Fish Market originated in the early Edo period as a sales point for fish left over from the supplies sent to the shogun and daimyos lived in Edo castle town by the fishers of Tsukudajima. The riverbank later became the core of a very busy fish trading district sprawling across the Honfuna-cho, Odawaracho and Anjincho neighborhoods (the present Muromachi 1-chome and Honmachi 1-chome area). The center of activity was the market area along the Nihonbashi River where numerous boats docked, fully laden with fish from nearby coastal waters. Lined with fish shops that throbbed with negotiations in the high-spirited style characteristic of Edoites, with daily transactions totaling as much as a 1000 ryo (equivalent to about 16 kilograms of silver), it was one of the liveliest spots in the city of Edo. During Edo period, the seafood brought in along the Nihonbashi River was sold to dealers aboard the hiratabune (flatboats) pulled up to the wharf along the riverbank, then displayed on stands at shops on the street side of the riverbank warehouse buildings for sale to the food trade. When Tokyo was rebuilt after the Great Kanto Earthquake of 1923, the market was relocated to Tsukiji on the Sumida River, and the Tsukiji Fish Market of Tokyo Metropolitan Central Wholesale Market continues to flourish as the city's seafood wholesaling center. As a reminder of the prosperous trading era of this site, a historical monument was erected in 1954 by people who had been affiliated with the old market, with a summary of the more than 300 years of history from the founding to the relocation of the Nihonbashi Riverside Fish Market.




日本橋を渡った先に三越本店の巨大な建物があります。正面から見ると船の舳先のようです。建物の歴史を記したプレートが壁に埋め込まれています。

東京都選定歴史的建造物 三越本店

三越は、延宝元年(1673年)に「越後屋」として創業した。「三井呉服店」を経て、「三越呉服店」となり、大正三年(1914年)には、鉄筋コンクリート造による大規模な百貨店の新築を行った。当時の建物はネオ・ルネッサンス・スタイルの壮麗な建築で、5階建一部6階、中央部に5階まで吹き抜けのバロック的大空間をもっていた。その後、震災で損傷し、昭和二年に復興するが、更に昭和十年全館の増改築が完成し、現在見られるような規模となった。建物中央部の吹き抜けホールは、アーチ状の天窓からの光りがホール全体を照らし、5階までの各階にはバルコニーがめぐり、アール・デコ風のデザインが目につく。そこに展開する装飾性豊かな空間は見事である。




室町三丁目交差点を右折して中央通りから離れ、江戸通りに入ります。



とあるビルの窓越しに、小伝馬町の歴史に残る「吉田松蔭終焉の地」と「石町の時の鐘」の垂れ幕が掛かっています。

吉田松陰 終焉の地 小伝馬町

吉田松陰(1830年〜1859年)長州藩出身。幕末の勤王家・思想家・教育者。安政四年(1857年)叔父の玉木文之進が開いていた私塾・松下村塾を引き受けて主宰者となり、高杉晋作を初め久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、吉田稔麿、前原一誠など、維新の指導者となる人材を教え育てる。安政の大獄により安政六年(1859年)に、江戸伝馬町牢屋敷(現在の十思公園)に収容され、同年安政の大獄最後の犠牲者として江戸伝馬町処刑場(現在の大安楽寺)にて刑死した。享年30歳。

身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも
    留め置かまし 大和魂

「吉田松陰 辞世の句」




小伝馬町交差点近くに付近の名所・旧跡と旧町名を記した案内板が立っています。

日本橋小伝馬町 Nihonbashi-kodemmacho

名所・旧跡案内 Scenic Spots and Places of Historical Interest Information

旧石町時の鐘 Kokucho Time Bell

明治維新まで江戸の人々に時を報せていた時の鐘。もとは石町(日本橋室町)にあり、近くに長崎屋があったことから、「石町の鐘はオランダまで聞こえ」の川柳があります。

伝馬町牢屋敷跡 The Remains of Demmacho Prizon

江戸時代最大の牢屋で、敷地は2,618坪(8637.4u)あり、明治八年(1875年)市ヶ谷囚獄ができるまで270年間存続。大安楽寺境内の刑場跡には地蔵尊があり山岡鉄舟筆による陽鋳銘がある。

吉田松陰終焉の地 The Place of Shoin-Yoshida's Death

幕末の長州藩士で兵学・洋学に通じ、萩に松下村塾を開いた松陰は、安政の大獄に連座し伝馬町獄に入牢となり、安政六年(1859年)この地で処刑されました。

以上、全て日本橋小伝馬町5−2十思公園内にあります。

町名案内 Origin of Town Name

日本橋本町 Nihonbashi-honcho

江戸時代初期、徳川家康が最初に地割を行った地で、江戸又は日本橋の中心的地域であることから生まれた町名です。

日本橋小伝馬町 Nihonbashi-kodemmacho

名主宮辺又四郎が伝馬役をつかさどったことに由来します。

日本橋大伝馬町 Nihonbashi-odemmacho

馬込勘解由が、家康に道中伝馬役を命ぜられて、ここに屋敷が置かれたことに由来します。

日本橋馬喰町 Nihonbashi-bakurocho

天正年間(1573年〜1591年)博労頭高木源兵衛・富田半七らが住んでいたという記事がありますが、それが町名の由来であるか明らかではありません。




JR総武快速線の馬喰町駅と都営浅草線の東日本橋駅の間を通る新道通り沿いは、都内のみならず日本国内でも最大の現金問屋街といわれる「横山町・馬喰町問屋街」です。江戸時代に馬喰町の公事宿に泊まる旅人のために小間物問屋などが集まって店を開いたのが始まりといわれています。現在の加盟店舗は繊維・衣料・生活用品の大小商社合わせて約300社あり、平日は仕入れにきた小売業者が大勢訪れます。「衣料品関連でないものはない」と言わしめる街です。問屋街なので基本的には業者のみの販売になりますが、個人で買える店もあります。江戸通りの脇に石碑が建っています。

手づくり郷土賞

いきいきとした楽しい街並み三十選




日本橋馬喰町二丁目は靖国通り(浅草橋交差点から東は京葉道路)と神田川に挟まれた狭い地域です。狭い割には名所・旧跡が多いですね。

日本橋馬喰町二丁目 Nihonbashi-bakurocho 2-chome


名所・旧跡案内 Scenic Spots and Places of Historical Interest Information

郡代屋數跡 The Remains of Gundai Residence

関東各地の幕府直轄地を支配した関東郡代の執務所兼住宅跡。幕府開設以来、代々伊奈氏が世襲し、徴税・勧農・訴訟の裁断・教育などを管理しました。
日本橋馬喰町2丁目付近

両国広小路記念碑 A Monument of Ryogoku-Hirokoji

明暦の大火(1657年)の教訓から避難路としで両国橋が架けられ、橋一帯が「火除け地」に指定されました。この火除け地が両国広小路となり、江戸を代表する盛り場として発展しました。
東日本橋2−26

順天堂発祥の地 The Birthplace of Juntendo Univ.

順天堂の創始者佐藤泰然(1804年〜1872年)は、長崎遊学でオランダ語と西洋医術を学び、天保九年(1838年)江戸に帰り薬研堀に居をかまえ、蘭方塾を開設しました。
東日本橋2−6−8

講談発祥の地 The Cradle of Storytelling

元禄(1688年〜1704年)の頃、講談の先祖・赤松清左衛門は浅草見附(浅草橋橋詰)の町辻で太平記を講じ、江戸講釈の発祥となりました。
東日本橋2−6−8

賀茂真淵県居の跡 The Remains of Mabuchi-Kamono's House

国学者で歌人。日本橋の浜町に住んだ。遠江(静岡)の神職の出で、京に出て荷田春満の門に入り、元文三年(1738年)江戸に下った。古典を通して古代精神を追究し、国学の基礎を築いた。
日本橋久松町9先

富塚碑 A Monument of Tomizuka

大正八年(1919年)椙森神社境内に富くじ興業を記念して建立された。現在の碑は、昭和二十九年の再建。富くじはェ永年間(1624年〜1644年)に神社仏閣の普請修理費捻出のために始まったもの。
日本橋堀留町1−10−2




浅草橋交差点を渡った先の神田川の南側は日本橋馬喰町二丁目地域ですが、そこに関東郡代の屋敷がありました。

郡代屋敷跡

江戸時代に、主として関東の幕府直轄領の、年貢の徴収・治水・領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった場所です。関東郡代は、天正十八年(1590年)徳川家康から代官頭に任命された伊奈忠次の二男忠治が、寛永十九年(1642年)に関東諸代官の統括などを命じられたことにより事実上始まるとされます。元禄年間(1688年〜1704年)には関東郡代という名称が正式に成立し、代々伊奈氏が世襲しました。その役宅は、初め江戸城の常盤橋門内にありましたが、明暦の大火(1657年)による焼失後、この地に移り、馬喰町郡代屋敷と称されました。寛政四年(1792年)に伊奈忠尊が罪を得て失脚した後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねることとなり、この地に居住しました。文化三年(1806年)に関東郡代制が廃止され、さらに屋敷が焼失した後には、代官の拝領地となって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。




神田川を渡ったところに小さな広場があり、そこに「浅草見附跡」の石碑が建っています。浅草見附は、江戸時代に36ヵ所あった江戸城の警備施設である見附門のひとつです。外様大名や不審者を取り締まる際に使われ、浅草観音へ向かう通り道であったことから「浅草御門」と呼ばれたこともありました。広場には「まちしるべ」の案内板があり、それによりますと、旧浅草橋の町域は神田川より北側になっています。靖国通りと神田川に挟まれた狭い町域は日本橋か神田に属するのですね。

下町まちしるべ 旧浅草橋

浅草橋という町は昭和九年(1934年)に茅町、上平右衛門町、下平右衛門町、福井町、榊町、新須賀町、新福井町、瓦町、須賀町、猿屋町、向柳原町がひとつになってできた。町名は神田川に架けられた橋の名にちなんでいる。江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓・門・橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の人を配置したことから浅草見附といわれた。ここ神田川にはじめて橋がかけられたのは寛永十三年(1636年)のことである。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった。




都電臨時22系統は、駒形橋西詰交差点付近の駒形二丁目電停から終点の雷門電停に進みます。距離にして約200mの短区間ですが、現在はこの道路は並木通りという名称になっています。道路の中央に分離帯が設けられているのですが、線路の跡なのでしょうか?



並木通りに面して、「かんだやぶそば」の初代堀田七兵衛の三男堀田勝三が大正二年(1913年)に創業した「並木藪蕎麦」のお店があります。堀田七兵衛が神田の店を次男堀田平二郎に継がせた際、既に京橋でそば屋を営んでいた堀田勝三には当時の有名店であった京橋の「藪金(団子坂藪蕎麦の四天王)」を譲り受け、その店を持たせました。京橋の店が借地だったために地主に土地の明渡しを求められ、浅草並木町に移転し開業した店が現在の「並木藪蕎麦」です。かんだやぶそば・池の端藪蕎麦(2016年閉店)と共に、東京の老舗蕎麦店を意味する「籔」の屋号の歴史と風格を担う「藪御三家」の一角を担う店として知られています。贔屓筋からは「雷門の藪」とも呼ばれています。今日もお店の前には行列ができています。



深紅の山門に吊された大提灯は雷門の象徴です。浅草を訪れた観光客は、例外なく大提灯をバックにした写真に収まっている筈です。浅草寺の雷門は、慶応元年(1865年)に火災により焼失しましたが、松下電器の創業者である松下幸之助によって昭和三十五年(1960年)に再建されました。その後は、約10年ごとに大提灯の修復が行われてきました。現在の大提灯は、令和二年(2020年)4月17日に掛け替えられたものです。大提灯は約1年かけて造られ、高さ3.9メートル・重さ約700kgの大きさです。

雷門(風雷神門)

天慶五年(942年)、平公雅によって創建されたのが始まり。門の正面向かって右に「風神」、左に「雷神」を祀る。このことから「雷門(風雷神門)」と呼ばれる。ともに鬼面蓬髪、風袋を担いで天空を駆ける風神と、虎の皮の褌を締め連鼓を打つ雷神の姿は、お馴染みのものである。また、門の裏側には、向かって右に「金龍」、左に「天龍」の龍神像が祀られ、これら四神は、浅草寺の護法善神として、伽藍守護・天下泰平・五穀豊穣の守り神とされる。現在の門は、慶応元年(1865年)の浅草田原町の大火で炎上した門に替わり、昭和三十五年に松下幸之助氏のご寄進により復興された。浅草寺参詣の入口にあたる「総門」として、また、東京・浅草の顔として全国的に有名。

Kaminarimon Gate

The Kaminarimon Gate ("thunder gate"), standing at the entrance to the processional road leading to Senso-ji, is Asakusa's most famous landmark. Inside the gate on either side are enormous wooden statues of the protective Buddhist deities Fujin (wind god) and Raijin (thunder god), from which the gate gets its name. The original gate was erected in 942 but burned down several timesover the centuries. The one standingtoday was built in 1960, donated by Japanese entrepreneur Konosuke Matsushita (1894-1989).




雷門電停は、並木通りが雷門通りにぶつかるT字路のところにあったのではないかと思います。雷門が目の前で、仲見世を通って浅草寺に行くには至極便利だったことでしょう。



ということで都電臨時22系統跡を歩き終えました。都電臨時22系統は、駒形二丁目電停までの区間は都電22系統、駒形二丁目電停から雷門電停までの区間は都電臨時1系統と重なっていましたが、新しい発見もいろいろありました。やはり銀座を通るのは華やかで面白いですね。




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