都電臨時29系統跡コース  

コース 踏破記  

今日は都電臨時29系統跡を歩きます。都電臨時29系統は日本橋から葛西橋までを結び、その路線は主に永代通り・【南砂二丁目交差点〜南砂三丁目交差点は専用軌道:現在は南砂緑道公園】・明治通り・清洲橋通りを通っていました。都心を東西に横断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。また、多くの都電がこの区間を重複して走っていました。  

都電臨時29系統

都電臨時29系統は、昭和47年11月11日に廃止となりました。

都電臨時29系統の電停(路上の駅)は、日本橋・茅場町・新川一丁目・永代橋・佐賀町一丁目・永代二丁目・門前仲町・不動尊・富岡町・木場一丁目・木場三丁目・洲崎・東陽公園・南砂町四丁目・南砂町一丁目・南砂町三丁目・境川・南砂町二丁目・北砂町四丁目・南砂町六丁目・北砂町七丁目・葛西橋でした。


都電臨時29系統の始点となる電停は、日本橋交差点の近くにあったと思われます。現在のコレド日本橋の前の日本橋バス停辺りでしょうか?かって日本橋交差点の角には白木屋(しろきや)百貨店が建っていました。白木屋は、越後屋(現三越)・大丸屋(現大丸)と並び、江戸三大呉服店のひとつで、日本の百貨店の先駆的存在でもありました。江戸時代から昭和にかけて営業しましたが、昭和四十二年(1967年)に東急百貨店に買収され、「東急百貨店日本橋店」へと改称されました。その後、平成十一年(1999年)1月31日に閉店し、336年の歴史に幕を閉じました。跡地にはCOREDO日本橋が建設され、平成十六年(2004年)3月30日に開業しました。



昭和通りと交差した先の首都高上に千代田橋が架かっています。現在は川底部分が首都高の路面になっていますが、かつて流れていた楓川に架かっていたのが千代田橋です。最初の架橋は昭和三年(1928年)で、首都高速道路の建設で楓川は埋め立てられてしまいましたが、千代田橋は撤去されずにそのまま残っています。都電臨時29系統もこの橋を渡っていたのでしょう。



日本橋兜町に複合施設「KABUTO ONE」というビルが建設中です(2021年8月24日に竣工済)。永代通りと平成通りの交差点に面するアトリウム(エントランス)は、高さが約14mあり、3層吹き抜けのガラス張り空間には、世界最大規模のキューブ型LEDディスプレー「The HEART」が天井から吊り下げられています。ここに金融マーケットの情報などを表示し、時々刻々と変わる市場の動きを可視化しています。



茅場町交差点の先に東京証券会館があります。東京証券会館ビルは、証券団体の活動拠点として、昭和41年(1966年)1月に竣工しました。東京証券会館ホール(342席)や会議室を備え、証券図書館や証券情報室、それにJASDAQ−OSEプラザなどの一般も利用出来る施設もあります。証券マンはグルメな方が多いようで、7階にはホテルオークラ直営のレストランニホンバシがあり、上場した企業が祝杯をあげる場所にもなっています。スペインの邸宅を思わせる佇まいの中で贅を尽くした食の饗宴が堪能できます。地中海ブルーをイメージした回廊、パラドールのラウンジを思わせる暖炉のあるセンターラウンジ、地中海にある島の名前を冠している個室などがあり、ホテルオークラの上質なおもてなしとともに欧風料理のきわみが味わえます。



永代橋を渡ります。橋の中央部分にはアーチ型の支柱がありますが、両端は開放区間になっていて架線を支える支柱がありません。都電が走っていた頃はどうやって電力を供給していたのでしょうか?永代橋からは佃島の超高層マンションが望めます。よくあんな中州に超高層住宅を建てたものです。隅田川が氾濫したらどうやって避難するのでしょうか?橋の脇に「土木學會選奨土木遺産 【帝都を飾るツイン・ゲイト(永代橋)】」と書かれたプレートが埋め込まれた石柱があります。橋梁の美しさもさることながら、技術的にも優れた日本の歴史遺産という評価なのでしょう。

「復興は橋より」、これが関東大震災後の復興事業の合い言葉でした。帝都を代表する隅田川の入口にあたる第一・第二橋梁は、筋骨隆々とした男性的なイメージ(永代橋)と優美な下垂曲線を描く女性的なイメージ(清洲橋)で演出されました。これに加えて土木学会では、次のような理由から永代橋と清洲橋をワンセットにして、第一回選奨土木遺産に選定しました。
  • 二つの橋は、近代橋梁技術の粋をあつめてつくられた震災復興橋梁群の中心的存在である。
  • 永代橋は、わが国ではじめてスパン100mをこえた橋であり、しかも現存最古のタイド・アーチ橋である。




永代橋を渡った先の大島川西支流に架かる福島橋の手前の道路脇に佐久間象山の案内板が立っています。

江東区登録史跡 佐久間象山砲術塾跡

この地は、佐久間象山が西洋砲術塾を開いた信濃国(長野県)松代藩下屋敷があった場所です。象山は松代藩士で、幕末の兵学者・思想家として著名です。文化八年(1811年)松代城下で生まれ、名は啓、通称は修理、雅号は「ぞうざん」と称したともいわれています。天保四年(1833年)江戸へ出て佐藤一斎に朱子学を学び、同十三年(1842年)、藩主真田幸貫より海外事情の調査を命じられました。おりしも、イギリス・清国間で勃発したアヘン戦争(1840年〜1842年)に衝撃を受け、おもに海防問題に取組み、九月には江川太郎左衛門(英龍・坦庵)に入門して西洋砲術を学びました。嘉永三年(1850年)七月、深川小松町(永代一丁目)の下屋敷で諸藩の藩士らに西洋砲術を教え、このころ、勝海舟も入門しました。同年十二月、いったん松代へ帰藩しますが、翌年再び江戸へ出て、木挽町(中央区)に砲術塾を開きました。門下には、吉田松陰・坂本龍馬・加藤弘之など多彩な人物がいました。安政元年(1854年)、ペリー来航に際し、吉田松陰が起こした密航未遂事件に連座して松代に幽閉されました。元治元年(1864年)に赦され、幕府に招かれて京都に上りましたが、七月十一日、尊王攘夷派浪士に暗殺され、五四歳の生涯を閉じました。




福島橋を渡ると、ビルの前に「渋澤シティプレイス永代」と書かれた広場があります。かって、ここに渋沢栄一の邸宅があったそうです。

江東区登録史跡 渋沢栄一宅跡

渋沢栄一は、明治から大正にかけての実業界の指導者です。天保十一年(1840年)武蔵国榛沢郡血洗島村(深谷市)に生まれました。二十五歳で一橋家に仕え、のち幕臣となり渡欧しました。帰国後、明治政府のもとで大蔵省に出仕しましたが、明治六年(1873年)に実業界に転じ、以後、金融・産業・運輸などの分野で近代企業の確立に力をそそぎました。晩年は社会公共事業に貢献し、昭和六年(1931年)九十二歳で没しました。栄一は、明治九年(1876年)に深川福住町(永代二丁目)の屋敷を購入し、修繕して本邸としました。同二十一年(1888年)には、兜町(中央区)に本邸を移したため、深川邸は別邸として利用されました。栄一と本区との関係は深く、明治二十二年(1889年)から同三十七年(1904年)まで深川区会議員および区会議長を勤め、深川区の発展のために尽力しました。また、早くから倉庫業の重要性に着目し、明治三十年(1897年)、当地に渋沢倉庫部を創業しました。大正五年(1916年)、実業界を引退するまでに五百余の会社設立に関与したといわれていますが、本区に関係するものでは、浅野セメント株式会社・東京人造肥料会社・汽車製造会社・旭焼陶器組合などがあげられます。




歩道のガードには、永代橋をイメージした装飾がなされています。急に下町になったなと実感させられます。



歩道脇に深川の案内板が立っています。

深川東京モダン館

この建物は、昭和七年(1932年)に東京市深川食堂として建築され、その後、内職補導所、福祉作業所として転用されました。そして、平成二十年(2008年)に関東大震災の復興建築物かつ唯一東京市営食堂の建造物として現存していることから、国登録有形文化財となりました。現在は江東区の文化と観光の拠点として、まちあるき案内事業をはじめ、展示や講座などの事業を行っています。

Fukagawa Tokyo Modan Kan

This building was first constructed as Fukagawa Cafeteria for Tokyo City back in 1932. It then went through several iterations, eventually becoming a Registered Tangible Cultural Heritage of Tokyo in 2008 for its connections to reconstruction efforts after the great Kanto earthquake of 1923, and for being the sole city cafeteria building still in existence. It currently functions as an information centre for tourists, a gallery and classrooms.

富岡八幡宮

江戸三大祭りの一つに数えられる「深川八幡まつり」で有名です。3年に一度催される本祭りでは、50基余りの神輿がまちなかを練り歩く神輿連合渡御が行われます。担ぎ手に水を掛けることから別名「水掛け祭り」とも称されるその光景は勇壮無比です。富岡八幡宮は、勧進相撲発祥の地であり相撲と縁が深く、「横綱力士碑」「大関力士碑」などが境内にあります。

Tomioka Hachimangu Shrine

This shrine is famous for being the site of Tomioka Hachiman Matsuri, one of the Three Great Festivals of Edo. The largest of the celebrations, the "Hon-Matsuri", is held every 3 years and features a parade of fifty-some portable shrines around town. The carriers of the shrines are dowsed in water as they proceed, which is a spectacle to behold. It is also known as the site of origin for sumo wrestling.

深川不動堂

深川不動堂は、千葉県成田市にある成田山新勝寺の東京別院で、「深川のお不動様」と呼ばれ古くから親しまれて来ました。毎日定時に行われる「護摩祈祷」は太鼓4台を使用し、迫力と荘厳さを備え、多くの方が訪れます。また、日本一の天井画(大日如来蓮池図)、「四国八十八カ所巡拝所」、1万体のお不動様の祀る「祈りの回廊」等見所も豊富です。

Fukagawa Fudodo Temple

Fukagawa Fododo Temple is the Tokyo branch of Narita-san Shinshoji Temple from Narita City, Chiba prefecture, and has been a beloved local structure since olden times. The greatly impressive Goma Fire Ritual is held daily at scheduled hours and features the beating of four taiko drums. The temple also houses one the greatest ceiling art of Japan, the Shikoku Pilgrimage, and a prayer hallway decked with 10,000 Buddha statues.

深川七福神めぐり

深川七福神は、3つの神社と4つの寺院にまつられています。

【おすすめのルートと徒歩所要時間の目安】

門前仲町駅(4分)⇔富岡八幡宮【恵比須神】(5分)⇔冬木弁天堂【弁財天】(5分)⇔心行寺【福禄寿】(10分)⇔圓珠院【大黒天】(10分)⇔ 龍光院【毘沙門天】(15分)⇔深川稲荷神社【布袋尊】(10分)⇔深川神明宮【寿老神】(3分)⇔森下駅

The Seven Lucky Gods of Fukagawa

The Seven Lucky Gods of Fukagawa can be found in 3 shrines and 4 temples. The recommended route to visit all of them is : Monzen-nakacho Sta., Tomioka Hachimangu Shrine (Ebisu, Protector of Crops), Fuyuki Bentendo Temple (Benzaiten, Goddess of Music), Shingyoji Temple (Fukurokuju, God of Wisdom), Enjuin Temple (Daikokuten, God of Prosperity), Ryukoin Temple (Bishamonten, God of War), Fukagawa Inari-jinja Shrine (Hotei, God of Happiness), Fukagawa Shinmelgu Shrine (Jurojin, God of Health), Morishita Sta.

東京海洋大学(越中島キャンパス)

東京海洋大学は、平成十五年(2003年)10月に東京商船大学と東京水産大学が統合した、海洋・海事・水産分野の教育・研究を担う国内唯一の海洋系大学です。昭和七年(1932年)に建てられた一号館(登録有形文化財)は歴史ある重厚な校舎が特徴です。国の重要文化財である明治丸が陸上定置されています。

Tokyo University of Marine Science and Technology (Etchujima Campus)

This university opened in October of 2003 when the Tokyo University of Mercantile Marine and Tokyo University of Fisheries were combined into one institute. It is the only university in Japan with a focus on oceanography, maritime affairs and fisheries. The main building was constructed in 1932 and holds great historical value. Meiji-maru, which is an Important Cultural Property, is kept on campus.

明治丸

明治丸は1874年英国グラスゴーで建造され、現存する国内最古の鉄船です。明治天皇が乗船されたロイヤルシップ、安全な航海のための燈台巡廻船、5,000人以上の海の若人を輩出した係留練習船のほか関東大震災、東京大空襲では多くの被災者救援に貢献した船でもあります。昭和五十三年には船舶として初の重要文化財に指定されました。

Meiji-maru

Built in Glasgow, Great Britain, in 1874, this is the oldest iron ship in existence within Japan. It was used as a royal ship for Emperor Meiji. Aside from functioning as a lighthouse patrol ship and as a training ship for some 5000 young sailors, it also saved many lives during the great Kanto earthquake of 1923 and the Bombing of Tokyo in 1945. It was the first ship to be registered as an Important Cultural Property in 1978.


「東京歴史と文化の散歩道」の案内板もあります。

下町深川散歩
SHITAMACHI-FUKAGAWA WALK

下町深川散歩は、清澄庭園から門前仲町駅までの約2.4kmのみちのりです。江戸時代に形成された閑寂な深川寺町と豪快な神輿かつぎの祭りで有名な富岡八幡宮そして木場職人や辰巳芸者の「いき」な下町をめぐる散歩道です。

深川と祭り

「水かけ祭」「裸祭」で知られる富岡八幡宮の祭礼は、夏の深川を飾る一大ページェントである。この祭礼は、寛永二十年(1643年)から行われたと伝えられ、江戸三大祭の一つに数えられた。頭衆、手古舞を先頭に、各町の氏子たちが趣向をこらした山車を引き廻し、たいへんな賑わいであった。3年に一度の本祭りには、50数基の神輿が延々2kmにわたって連なる。「ワッショイ、ワッショイ」の掛け声で8kmの道程を練り歩く様は壮観である。深川神明宮、宇迦八幡、猿江神社の例大祭も同時に行われ、祭好きの下町っ子の熱気と興奮が、深川一帯にみなぎる。

Festival in Fukagawa

The festival at Tomioka Hachimangu Shrine was one of the ????? famous festivals in Edo (Tokyo). The main festival is held in every three years. The festival is known as Mizukake Matsuri or Hadaka Matsuri.




門前仲町といえば魚三酒場ですね。魚介類のメニューは豊富でしかも安い!無愛想なご主人ですが、午後4時の開店と共に店内にダッシュするのが常連客です。瓶ビール(勿論大瓶です)と熱燗2杯とおつまみ2〜3品(鮪のぶつ切りとあら煮、それに締めのおつゆは必須)位を注文し、1時間くらいでサクッとお勘定するのが流儀。



深川不動尊は、正式には「成田山東京別院深川不動堂」といい、成田市にある成田山新勝寺の東京別院になります。江戸時代初期、歌舞伎役者の市川團十郎が不動明王が登場する芝居を打ったことなどにより、成田山の不動明王を拝観したいという気運が江戸っ子たちのあいだで高まりました。これを受けて、元禄十六年(1703年)、1回目の成田不動の「出開帳(現代風にいえば「秘仏特別公開)」が富岡八幡宮の別当・永代寺で開かれました。これが深川不動堂の始まりです。その後、出開帳は江戸時代を通じて12回行われましたが、そのうち1回を除いて深川永代寺が会場となりました。明治維新後、永代寺は神仏分離令により廃寺となりましたが、不動尊信仰は止むことがなく、明治十一年(1878年)に現在の場所に成田不動の分霊を祀り、「深川不動堂」として存続することになりました。ちなみに、「門前仲町」という地名は「永代寺の門前町」という意味です。

深川不動尊 由来

深川不動堂は真言宗で、成田山不動堂新勝寺の出張所として明治十一年(1878年)当地に遷座され、同十四年、堂宇が建立されました。元禄(1688年〜1703年)の初め頃より、江戸で成田山不動が盛んに信仰されるようになり、元禄十六年(1703年)本尊不動明王が初めて富岡八幡宮の境内で出開帳されました。以来、出開帳のたびに、その様子が錦絵に描かれ出版されるほどになりました。




明治維新後に永代寺は神仏分離令により廃寺となりましたが、実は深川不動堂の手前に同じ寺名の永代寺があります。廃寺となった旧永代寺の塔頭の吉祥院が名称を引き継ぎ、明治二十九年(1896年)に跡地に再興されたのが現在の永代寺です。

高野山 真言宗
大栄山 永代寺 略縁起

永代寺は、寛永四年(1627年)に富岡八幡宮別當寺として長盛上人(京都の人、俗姓菅原家、寛永十三年九月二十日寂)によって永代島に創建される。當時の永代島は(現在の永代橋東側一帯)隅田川河口の砂州で、長盛上人がこれを開荒し、寺社地六万五百八坪を所有し、一宇を建立する。現在の深川公園辺りは、曽ての永代寺庭園の一部であった所で、平常は非公開であったが、毎年三月二十一日から二十八日迄は弘法大師の御影供が行われ、その期間に限って「山開き」と称し林泉を開き、江戸庶民に見物を許し大層な賑わいであった様子が江戸名所図会に描かれている。又将軍家違例の時や、世子誕生の折には祈祷札を徴せられ、承応三年(1654年)からは年頭独礼の許可、元禄十二年(1699年)には乗輿御免、或は京都仁和寺修復のための富突の許可が享保十八年(1733年)に出たこと等、氷代寺に対する幕府の信任を示すものである。以上永代寺は、富岡八幡宮と共に大衆に広く知られ、多くの参詣人を集める。江戸を代表する門前町の中心であったが、明治初年(1868年)に発令された神仏分離を契機として行われた廃仏毀釈により廃寺となるも、関東五ヶ寺随一に数えられた名利を廃絶するに忍びず、同二十九年三月、塔頭(永代寺に付属する寺院をいう。十一院在り)の一つ、吉祥院(元禄五年−1692年一創建、開基宥範)を永代寺と改称し、由緒ある法灯を永く継承する。




現在の深川公園の敷地は、旧永代寺の庭園の一部だったそうです。

深川公園について

深川公園は、明治六年(1873年)太政官布達によって定められた日本最初の公園の一つです。この公園は元来、富岡八幡宮の境内で遊行の地として大変賑わい、東、西、南側の三面は小堀となり、それぞれに橋がかかっていました。西側には、油掘川より水を引き入れた汐入りの池があり、東側には、小高い丘がありました。明治十二年(1879年)には梅、桜を植え花園として整備しました。明治四十年(1907年)に、上野で開かれた東京勧業博覧会の建物を移築して、明治四十二年(1909年)に深川図書館が建てられましたが、大正十二年(1923年)の関東大震災で焼失しました。震災復興事業では、池を残して庭球場や広場になり、第二次世界大戦中に池は埋められ、運動場になりました。この漆喰画は、文化十二年(1815年)伊豆松崎に生まれ、深川で暮らし明治二十二年(1889年)深川で没した漆喰細工の名工、左官入江長八(伊豆の長八)にちなみ、伊豆松崎町の漆喰画の名工、左官山本堪一氏の手により、明治末期の深川公園の様子を、深川公園改良工事を記念して製作したものです。




歩道脇に深川の案内板が立っています(重複分は除きます)。

八幡橋(旧弾正橋)

明治十一年(1878年)東京府の依頼によって工部省赤羽製作所において鋳造された都内最古の鉄橋で、国の重要文化財です。当初は中央区に架けられましたが、関東大震災後に富岡八幡宮の東隣りに移され、八幡橋と改名されました。長さ15.7m、幅2mの小橋ですが、明治初期の橋の風格を持ち、菊の紋章が取り付けてある技術史の上でも価値の高い橋です。

Hachiman Bridge (Old Danjo Bridge)

This bridge was constructed in 1878, and moved from Chuo City to east of Tomioka Hachimangu Shrine following the great Kanto earthquake in 1923. It is the oldest iron bridge within the Tokyo metropolis and listed as an Important Cultural Property of Japan. Although it is considered small (measuring 15.7m in length and 2m in width), its early Meiji era architecture style adorned with highly technical chrysanthemum motifs makes it an extremely valuable bridge.

法乗院(深川ゑんま堂)

法乗院は、寛永六年(1629年)の創立で、江戸時代から「深川の閻魔さん」と親しまれてきました。近年復興した閻魔さまは、高さ3.5m、幅4.5mの巨大な座像にハイテク技術を内蔵し、光や音とともに閻魔さまの声で仏の教えが語られます。また、左手には金色の地蔵菩薩をいただいています。

Hojoin Temple (Fukagawa Enmado Temple)

Hojoin Temple was built in 1629 and has been a familiar local establishment since the Edo period. Many people refer to the Temple as the "Enma of Fukagawa". The newly installed statue of Enma (God of the Underworld) measuring 3.5m in height and 4.5m in width is outfitted with technological enhancements. Visitors can experience receiving advice and Buddhist teachings here by making an offering, which triggers lights, sounds, and the voice of Enma to echo through the temple.

小津安二郎紹介展示コーナー(古石場文化センター)

日本の家庭や家族のあり様を描き「東京物語」「晩春」など数々の名作を残した小津安二郎監督は明治三十六年(1903年)現在の深川一丁目に生まれました。小津安二郎紹介展示コーナーでは日本映画の至宝と云われ、世界的名匠としても名高い小津監督の写真や記録、ゆかりのある品々を通して、偉大な映像作家の足跡を紹介しています。

Ozu Yasujiro Introduction Exhibition Corner (Furuishiba Culture Center)

Yasujiro Ozu, the movie director, was born in Fukagawa in 1903. He became known for his works depicting the households and lives of Japanese families, like "Tokyo Story" and "Late Spring". The Ozu Yasujiro Introduction Exhibition Corner displays photographs and memorabilia from his life and works, and explains his importance to the world of Japanese cinema and beyond.




富岡八幡宮は「深川八幡宮」とも呼ばれています。江戸最大の八幡宮で、八月に行われる祭礼「深川八幡祭り」は江戸三大祭りのひとつになっています。江戸勧進相撲発祥の神社で、境内には「横綱力士碑」をはじめ大相撲ゆかりの石碑が多数建立されています。

富岡八幡宮 TOMIOKA HACHIMAN SHRINE

由来

この神社の3年に一度の本祭りは、夏祭りにふさわしく神輿に水をかけながら練り歩くので、「水かけ祭り」の名もあり、50基余の連合渡御は江戸三大祭りのひとつとして有名です。寛永元年(1624年)、当時永代島と呼ばれた小島に、京都の公卿が八幡神像を奉安したのが、始まりといわれています。境内には、「横綱力士碑」、「力持碑」、「木場角乗碑」など深川にまつわる石碑等があります。




汐見橋で平久川を渡ります。平久川は、木場三丁目の亀久橋手前で仙台堀川から分流し、大横川と交差し、汐浜運河に接続して終わる水路です。北端の木場西側の区間は江戸以来のものですが、大正末から進展した埋め立てにつれて平久川も延長され、現在の姿になりました。汐浜運河に合流する南端部に平久水門があります。



大島川は現在は大横川という呼称で、江戸時代に隅田川左岸で最も下流に開削されました。さきほど渡った福島橋は大島川西支流に架かる橋でしたが、こちらは東支流に架かっていた舟木橋です。入舟町の「船」と、木場町の「木」をとって「舟木」という橋名にしたそうです。

舟木橋跡

舟木橋は、江東区木場二丁目地内の大島川東支川に架けた旧入船町と木場町を結ぶ橋長25.2m、幅員33.8mの橋であった。橋名の由来・創架年月ともに不詳であるが、入船町と木場町に架かる橋なのでこの名を得たと言われている。昭和五年に鋼橋に架替えられたが、 平成十四年3月に老朽化に伴い撤去した。




首都高深川線の高架下に「下木場」という一枚板の屋根付看板が建っています。

下木場欅一枚板看板

この付近は、地域の俗名で「下木場」と呼ばれており、三年に一度開催される深川八幡の本祭りでは神輿を展示するお仮屋が設置されます。木場の川並(材木を河川で筏に組み運搬する職人)文化と「下木場」という名を後世に伝えるため設置しています。




沢海橋で大横川(旧大島川)を渡ります。昨年(2020年)「東京の河川を歩く」で通りました。大横川に沿った遊歩道には沢山の桜の木が植えられていて、桜の名所になっています。ただ桜の木はソメイヨシノではなく、河津桜です。大横川沿いの河津桜はそれぞれの木で開花の時期に差があり、花期が長いのが特徴です。特に、沢海橋付近では2月下旬から両岸に美しいピンク色の花が咲きますので、ちょっと早いお花見ができます。



東陽町駅前交差点の脇に、この付近の施設を紹介した案内板が立っています。区役所の宣伝も忘れてはいませんね。

江東区観光協会

産業会館内にある江東区観光協会は、江東区内の観光に関する情報の収集や発信、まちあるき案内事業、観光イベント等を通じて江東区の観光事業の振興を図っています。江東区内の観光スポットやイベント情報等のパンフレットも充実しており、江東区観光キャラクターコトミちゃんのグッズ販売もしています。

Koto City Tourism Association

Koto City Tourism Association is located within Business Center. Information on sightseeing spots within the city, guided walking tours, noteworthy events and promotional activities are gathered, organized, and relayed here. Aside from various pamphlets and guides, the office also sells Kotomi-chan merchandise (Kotomi-chan is the official Koto City Tourism mascot).

江東区役所

江東区は、親水公園など豊かな水辺と緑が暮らしの中に息づく「水彩都市」です。江戸文化の風情を残す下町のイメージがある一方で、臨海部では未来型の都市整備が進んでいます。区では、「SPORTS & SUPPORTS KOTO City in TOKYO スポーツと人情が熱いまち江東区」をブランドコンセプトに国内外に区の魅力を積極的に発信しています。

Koto City Office

Koto City is filled with greenery and waterways, making it a "waterscape city". While the older parts of town still retain their traditional atmospheres from the Edo period, the bay area showcases a modern cityscape that continues to grow and develop. The city's branding concept is "SPORTS&SUPPORTS KOTO City in TOKYO", which encapsulates the city's love for sports and the active support of its warm communities.

東京イースト21

憩いと潤いのある街、東京イースト21は1992年開業。ホテル、ショッピングモール、オフィスビルを有する大型複合施設です。ホテルは多彩な客室と大型宴会場、プール、結婚式場を備えるラグジュアリーホテル。ショッピングモールはスーパーマーケット、レストランなど多様なテナントやイベントスペースで構成され、地域住民、オフィスワーカーの生活をサポートしています。

Tokyo East 21

Tokyo East 21 opened for business in 1992. This complex contains a hotel, a shopping mall and office buildings. The hotel has various luxurious guest rooms, a large banquet hall, a pool, and ceremonial rooms for weddings, while the shopping mall contains many restaurants and event spaces, which are utilized often by the workers in the attached office buildings.

GALLERY A4(ギャラリー エー クワッド)

竹中工務店東京本店内にある公益財団のギャラリーです。一般の方から専門家まで「建築・愉しむ」をコンセプトに、環境や教育など暮らしの周辺に広がる様々な事象を建築やアートを通して紹介します。また展示に関連した講座やワークショップを開催しています。

Gallery A-quad

This gallery in Takenaka Corporation Tokyo head office is operated by the Public Interest Foundation. Their concept is "Architecture Blessing", and they introduce various Phenomena around the environment, education and others through architecture and art from professionals but also everybody. They also host lectures and workshops related to exhibitions.

木場公園

広い園内には、シンボルの木場公園大橋、イベント広場、冒険広場、ふれあい広場、都市緑化植物園などがあり、憩いの広場となっています。また、毎年10月に行われる「江東区民まつり」のメイン会場でもあり、園内の北側には、「東京都現代美術館」もあり、多くの人でにぎわいます。またバーベキュー場やドッグランも併設されています。

Kiba Park

This wide space, used by many for recreation and relaxation, features the representative Kiba Park Ohashi Bridge, a playground area, a barbecue area, a dog park, and a botanical garden. Every October, the Koto City Community Festival is held here to great excitement. The north part of the park leads up to the Museum of Contemporary Art Tokyo, another popular destination.


都電臨時29系統は、現在歩道橋が架かっている南砂二丁目交差点で永代通りを離れ、南砂三丁目交差点まで専用軌道を走っていました。



現在は専用軌道の跡地が南砂緑道公園になっています。南砂緑道公園は遊歩道公園になっていて、片道1kmほど続く遊歩道は自転車用と歩行者用に分かれていて、安心して散歩を楽しむことができます。遊歩道沿いにはたくさんの植栽が溢れていて、四季によって全く違う景色を楽しむことができます。特に春の桜の時期に、風に舞う桜吹雪を見物しながらのお散歩は格別です。



遊歩道の片側はタイル敷の歩行者用歩道、もう片方は自転車用の車道になっています。



遊歩道脇の植え込みの中に大砲が展示されています。アンヴァリッドは、正式にはオテル・デ・ザンヴァリッドといい、1671年に当時のルイ14世が傷病兵を看護する施設として建てた施設です。ドーム教会の地下に設けられた墓所には、ナポレオン・ボナパルト(フランス皇帝ナポレオン1世)の柩が置かれています。フランス軍事博物館が併設され、中庭には馬関戦争でフランス帝国海軍によって押収された長州藩の大砲の一部が展示されています。

長州藩大砲鋳造場跡

パリのアンヴァリッド(廃兵院)に、長州藩主毛利家の紋章がある青銅の大砲が保存されています。この大砲には、次のように刻まれています。

十八封度(砲)(ジュウハチポンドほう)
嘉永七歳次甲寅季春(かえいしちさいじこういんきしゅん)
於江都葛飾別墅鋳之(こうとかつしかべっしょにおいてこれをちゅうす)

「江戸切絵図」を見ると、現在の南砂ニ丁目〜三丁目付近に長州藩主松平大膳大夫の屋敷があったことがわかります。「葛飾別墅」とは、この屋敷をさしています。長州藩では、嘉永六年(1853年)十二月、三浦半島の砲台に備えつける大砲を鋳造するため、鋳砲家を江戸へ呼び寄せました。翌七年(安政元年)正月、幕府の許可を得て、佐久間象山の指導のもと、砂村の屋敷内で大砲の鋳造を始めました。当時、尊皇攘夷の急先鋒だった長州藩は、この大砲を三浦半島から下関に移し、砲撃により関門海峡を封鎖しました。これに対し、元治元年(1864年)イギリス・アメリカ・フランス・オランダの連合艦隊が下関の砲台を攻撃、陥落させました。パリの青銅砲はこの時、フランス軍により海を渡ったものです。




大砲が置かれた石の台には碑文が刻まれています。こんなに大きくて重たい大砲をどうやって江戸から下関まで運んだのでしょうか?

このモニュメントは、パリのアンヴァリッドに保存されている大砲をモデルにしたものです。実際の大砲は、長き約3メートルです。



今日は3月22日です。桜の開花が早くなったためか、早春の木々と満開の桜が不思議なコントラストを見せています。



南砂緑道公園の出口手前に、レールに乗った車輪が置かれています。その横に案内板が立っています。

この緑道公園は、もと都電(城東電車)の走っていた用地に、みどりといこいの散歩道として建設されたものです。城東電車は大正六年から設置され、この緑道公園の区間は昭和二年にしかれましたが、昭和四十七年11月に廃止されるまで、チンチン電車の愛称で広く親し まれていました。

この車輪は都電に使用されたものです。
車軸 昭和二十八年8月製造
車輪 昭和四十年10月(ギャ側)製造
   昭和四十一年4月(アクスルカラー側)製造




藤棚の先に、JR貨物専用の越中島線の軌道が頭上に架かっています。昭和四年(1929年)に小名木川の水運との物流連絡のため、亀戸駅から小名木川駅まで開業し、その後越中島駅(現在の越中島貨物駅)まで延伸されました。



南砂三丁目交差点で南砂緑道公園を出て明治通りに合流します。その先で葛西橋通りと交差します。



弾正橋は仙台堀川に架かる橋でした。今は仙台堀川は埋め立てられて親水公園になっています。「弾正」とは今で言う警察的な意味合いですが、江戸時代にこの城東地区にそのような機関があったとは思えず、名前のそもそもの由来はよく分かりません。

弾正橋由来

弾正橋は、大正時代、城東電機鉄道の鉄道橋として砂町運河に架設され、その後、明治通りの道路整備に伴い、昭和五年に道路及び鉄道橋として鋼橋に生まれ変わりました。この橋のすぐ西側には、木橋で架設された秋山橋があり、住民の通行の手段でしたが、この道路整備に伴い秋山橋も撤去されました。弾正橋の名前の由来は、もともと境川に架かっていた橋の名前でしたが、大正十三年からの震災復興事業のため境川が埋め立てられ、取り壊されたことを惜しみ、つけられたものです。なお、現在の南砂付近一帯は江戸時代から明治時代にかけ砂村新田と呼ばれ、その中に八つの地区があり、その一つが「弾正」でした。この橋の下を流れる仙台堀川は昭和五十三年からの埋め立てに伴い、同五十七年に親水公園となり地域の人々に親しまれてきました。平成の世となり、弾正橋も撤去の必要が生じ、ここに橋名板と、当時の橋の偲かげのレリーフを残し、橋の歴史を永くとどめるものとしました。




弾正橋は鉄道橋として架けられたとかで、橋の上部には架線らしき線が見えます。架線を支える支柱でしょうか、随分と変わった形をしていますね。



明治通りと清洲橋通りが交差する境川交差点の名前に残る境川の周辺は、江戸時代には砂村新田と呼ばれていました。万治二年(1659年)、砂村新左衛門が宝六島(現在の南砂一丁目付近)を中心にして436石の新田を開拓したことから、開拓者の名前をとって名付けられました。小名木川から水を引いて中川に注ぐように、新田の中央に幅約19mの水路を設け、砂村新田の八右衛門・久左衛門・亀高・大塚の4ヵ村の南を境にして流れていたことから、境川という名前で呼ばれていました。その後、田畑の減少や舟運の減少等に伴って、境川は水路としての必要性が薄れ、廃川となって昭和五年(1930年)に清洲橋通りへと変わりました。交差点脇にふたつの案内板が置かれ、長年の風雨に晒されて文字はよく読み取れませんでしたが、境川の歴史と地域の野菜の促成栽培について記されているようです。かっては長閑な田園地帯だったのでしょう。



境川交差点を右折して清洲橋通りに入ります。



清洲橋通りに面した砂町中央公園のトイレの衝立に、都電臨時29系統の通常路線である都電29系統の在りし日の電車の絵と共に、都電の歴史が記されています。案内板の費用の節約という意味もあったのでしょうけど、何もトイレの衝立を使う必要はなかったと思うのですが。。。

新橋〜品川間を最初の都電(当時市電)が走ったのは1903年。チンチン電車とよばれた都電は、東京の風物詩でもあり、沢山のお客さんを乗せ、のどかに走っていました。1967年、銀座線の廃止にはじまって、交通渋滞の激しい路面から都電は次々と姿を消してゆきました。前の通りを走っていた都電も、1972年に姿を消しました。



仙台堀川親水公園と交差し、荒川西岸の手前にある旧葛西橋交差点の近く、現在の旧葛西橋バス停の辺りに都電臨時29系統の終点だった葛西橋電停があったようです。都電臨時29系統の通常路線である都電29系統が開通したのは昭和三年(1928年)のことで、昭和五年(1930年)に完成した荒川放水路の工事は殆ど終わっていました。なので、荒川の手前で終点とならざるを得ませんでした。



ということで、都電臨時29系統跡の歩きを終えました。日本橋から境川の区間は都電38系統、境川から葛西橋までの区間は都電29系統と共有していました。都電29系統が須田町から靖国通り・京葉道路経由だったのに対し、都電臨時29系統は日本橋から永代通りを経由していました。同じ路線でも、通常運行の区間と臨時運行の区間が全く別ルートを辿っていたとは面白いですね。




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