都電臨時30系統跡コース  

コース 踏破記  

今日は都電臨時30系統跡を歩きます。都電臨時30系統は墨田区寺島町二丁目から中央区月島通八丁目までを結び、その路線は主に国道6号線(水戸街道)・三ツ目通り・清澄通りを通っていました。都心を南北に縦断し、沿線には名所・旧跡が数多くあります。  

注記:都電臨時30系統跡は、都合により本来とは逆向き(月島通八丁目→寺島町二丁目)に歩きました。文章は本来の進行方向に合わせましたが、写真は進行方向と逆向きに写っているものがあります。

都電臨時30系統

都電臨時30系統は、昭和44年10月25日に廃止となりました。

都電臨時30系統の電停(路上の駅)は、寺島町二丁目・寺島町一丁目・向島須崎町・向島三丁目・言問橋・吾妻橋二丁目・吾妻橋一丁目・駒形橋・厩橋一丁目・石原町一丁目・墨田区役所・東両国緑町・千歳町・森下町・高橋・清澄町・江東区役所・平野町・深川二丁目・深川一丁目・門前仲町・越中島・新佃島・月島通三丁目・月島通八丁目でした。


都電臨時30系統の始発地である寺島町は、東京府南葛飾郡にかつて存在した町で、現在の墨田区の西部に位置していました。昭和七年(1932年)10月1日に南葛飾郡全域が東京市に編入され、寺島町の区域は向島区となり、従来の大字一丁目〜八丁目に「寺島町」を冠した8町が設置されました。昭和二十二年(1947年)3月15日に向島区が本所区と合併して墨田区となり、更に昭和四十年(1965年)11月30日に町名が「八広」に変わって「寺島町」の町名がなくなりました。寺島町だった当時は農業が盛んな地域であり、特にナスの生産で名高く、蔓細千成種のナスが多く作られ、当地で作られたナスは「寺島茄子」の名で呼ばれることもありました。都電臨時30系統の始発となった寺島町二丁目電停は、ネットの情報によりますと、戦後まもなくまでは鳩の街通り商店街の入口に位置する現在の東向島一丁目交差点付近に「向島」電停の名称であったらしいです。その後線路が延伸され、国道6号線が明治通りと交差する東向島交差点の手前の墨田川高校前交差点近くに寺島町二丁目電停が設置されたとのことです。寺島町二丁目電停は、町名の変更によって最終的に「東向島三丁目」電停となりました。恐らく、現在の都営バスの「東向島広小路(すみだ生涯学習センター前)」停留所辺りと思われます。明治通りを越えて延伸されなかったのは、現在高架で走っている東武スカイツリー線の線路が明治通りを横断していたからです。



東向島三丁目交差点から墨堤通りを結ぶ通りが地蔵通りです。道路の両側に30店舗ほどで構成される商店街が続いています。「地蔵通り」の名称は、墨堤通りの入口に祀ってある子育て地蔵尊堂に由来しています。お地蔵様の縁日である、毎月4日・14日・24日には各店舗で特売が行われます。4月と10月のバッサリ市ではさらなる特売が行われ、通りは人出で賑わいます。地蔵通りの入口にお店を構える「肉の菊屋」は小じんまりとしていますが、シュウマイを初めとして揚げ物の惣菜が美味しいとのことです。



東向島一丁目交差点から墨堤通りを結ぶ通りが鳩の街通りです。「鳩の街」とはかわゆい名前ですが、元は現在の向島と東向島の境界付近にあった私娼街(赤線地帯)でした。地理的に「玉の井(戦前から昭和三十三年の売春防止法施行まで存在した私娼街)」と1kmほどの距離しか離れておらず、太平洋戦争末期に東京大空襲で玉の井を焼け出された業者が何軒かこの地で売春宿を開業したのが始まりといわれています。終戦直後は米軍兵士の慰安施設として出発しましたが、兵士が性病に感染することが多かったため、1年も経たないうちに米兵の立ち入りが禁止され、その後は日本人相手の特殊飲食店街(赤線)として発展しました。昭和二十七年(1952年)には、娼家が108軒、接客する女性が298人もいたそうです。「鳩の街」は吉行淳之介の小説「原色の街」の舞台となり、永井荷風も鳩の街を舞台にして戯曲「渡り鳥いつかへる」や「春情鳩の街」を書いています。これらの荷風の2作品は久保田万太郎の手により構成され「春情鳩の街より渡り鳥いつ帰る」として映画化され、森繁久弥・田中絹代・高峰秀子・岡田茉莉子らが出演しました。玉の井と同様に、この街も訪れる作家や芸能人は多く、吉行淳之介や永井荷風の他に安岡章太郎・三浦朱門・近藤啓太郎・小沢昭一などが出入りしたことが知られています。あくまで小説の題材探しの一環だとは思いますが。。。また、女優で歌手の木の実ナナはこの地で生まれ育っています。昭和三十三年(1958年)4月1日に売春防止法が完全施行され、すべての業者が廃業しました。最終日の3月31日には「蛍の光」を流して別れを惜しんだそうです。現在、娼家の跡地は商店街やアパートなどの住宅になっています。商店街の裏に入ると色タイルを貼った娼家風の建物が多少残っていましたが、老朽化による建て替えや改築により、当時の面影は殆どなくなりました。「鳩の街」の象徴として残っていた「旅館桜井」も解体されました。鳩の街通り商店街は、昭和三年に設立された寺島商栄会から続く、90年近くの歴史を持つ古い商店街です。東京大空襲をまぬがれたために、通りの道幅は戦前のままになっていて、昭和初期からのレトロな商店と新しいショップがある個性的な商店街となっています。昔からの伝統ある商店に加えて、近年では古い建物をリノベーションした個性的な新ショップも登場し、下町の隠れた観光スポットとして人気を集めています。また、空きアパートになっていた「鈴木荘」は改装されて商店街直営の創業支援施設「チャレンジスポット!鈴木荘」となりました。このような空き店舗活性化の取組みが評価され、経済産業省の「新・がんばる商店街77選」に選ばれました。



現在も小学校の名前に残っている「小梅」という地名は、昭和三十九年7月の新住居表示の実施により、「向島」となりました。道路脇に案内板が立っています。

すみだゆかりの地名 小梅

【名の由来】

江戸時代、このあたりから北十間川にいたる一帯は小梅村と呼ばれていました。三囲神社の縁起によると、弘法大師が投じた一粒の梅がこの付近に落ち、梅香原と呼ばれるようになったというのが巷間伝わる名の由来です。江戸時代後期に鍬形寫ヨが描いた「江戸名所之絵」には「コムメ」とあり「こんめ」と呼んでいたことがわかります。

【 村の様子 】

三井家(越後屋)が江戸進出時にその名にあやかって守護神とした三囲神社、天英院(徳川六代将軍家宣正室)が帰依した常泉寺、水戸徳川家の下屋敷の他、桜の名所の墨堤も近くにあり、浮世絵にも描かれた有名料亭も周辺に数多くありました。文人墨客たちが集い、俳人の小林一茶は「水鳥の 住こなしたり 小梅筋」・「鍬のえに 鶯鳴くや 小梅村」と詠み、浮世絵師歌川広重は「名所江戸百景」や「江戸高名会亭尽」で、当時の情景を巧みに描いています。




向島は東京スカイツリーのお膝元、路地のあちこちからタワーの全景が拝めます。



国道6号線は言問橋東交差点で直角に向きを変え、言問橋で隅田川を渡ります。都電30系統は言問橋東交差点を直進して、交差点から始まる三ツ目通りを進みます。三ツ目通りの正式名称は都道319号環状三号線です。環状三号線は港区の海岸二丁目の東京ガス前交差点から江東区辰巳二丁目の辰巳交差点まで、都内を環状に半周する道路です。”ただ、環状三号線は未だ継ぎ接ぎの状態です。全線が繋がっていないので、繋がっている区間毎に通称名が使われています。なので、辰巳交差点から言問橋東交差点までの区間を三ツ目通りと呼んでいます。ちなみに、「言問橋」という橋名は、在原業平が詠んだ歌の「名にし負はば いざこと問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」に因んでいるとされていますが、実際はこの歌を詠んだのは白髭橋付近の「橋場の渡し」であったといわれています。本当のところは、明治四年(1871年)創業で、現在もこの地にお店がある「言問団子」の主人が隅田川にちなむ在原業平をもちだして「言問団子」と名付けた団子を売り出したところ、たちまちにして人気となり、そてと同時にこの辺りが俗に「言問ケ岡」と呼ばれるようになり、それにあわせて業平を祀ったことが「言問橋」の由来となったとのことです。



源森橋の直ぐ手前の歩道脇に、日本で最初の女性医師といわれる荻野吟子が開業した医院跡の案内板が立っています。ちなみに、オギノ式避妊法を考案した荻野久作は同姓ですが、つながりはありません。案内板では触れられていませんが、一回目の結婚の後で病気になったのは、夫から淋病を移されたためです。女医の必要性を痛感したのは、当時治療を行ったのは男性の医師だけで、淋病の治療を受ける際に、女性にとっては何ものにも耐え難い羞恥と屈辱を感じ、同性の人々に自分と同じ思いをさせてはならないということから医師になることを強く決意したのです。

萩野医院跡 −日本女医第一号 荻野吟子開業の地−

荻野吟子は、嘉水四年(1851年)三月三日に武蔵国幡羅郡俵瀬村(現在の熊谷市俵瀬)の名主荻野綾三郎の五女に生まれました。幼い頃より向学心が強く、近所の寺子屋で手習いを受けた後は寺門静軒の弟子松本万年に師事して学問を身につけました。医師を志したのは一回目の結婚後のことで、自身の病気療養中に女医の必要性を痛感したのがきっかけでした。吟子は以前夫の家に仮寓していた女性画家奥原晴湖に相談して決意を固め、東京女子師範学校(後のお茶の水女子大学)卒業後の明治十二年(1879年)、私立医学校「好壽院」に入学しました。そして、女性であることを理由に二度にわたって試験願書を却下されながらも決して諦めず、同十八年三月、ついに医術開業試験に合格したのです。時に吟子三十五歳。早くもその年の五月には現在の文京区湯島に産婦人科医院を開業して評判を高めました。しかし、開業後間もなくキリスト教に入信した吟子の後半生は必ずしも安穏としたものではなかったようです。北海道での理想郷建設を目指す十四歳年下の志方之善と再婚した吟子は、明治二十七年に自らも北海道に渡り、以後しばらくは瀬棚や札幌で開業しながら厳寒地での貧しい生活に耐えねばならなかったのです。その吟子が閑静な地を求めてこの地に開業したのは志方と死別して間もない明治四十一年十二月、五十八歳の時でした。晩年は不遇でしたが、吟子は日本で初めて医籍に登録された女性として、吉岡弥生など医師を目指した後続の女性たちを大いに励ます存在であり続けました。大正二年(1913年)六月二十三日、六十二歳で亡くなりました。




源森橋はスカイツリーの絶好のビューポイントとして知られています。

源森橋の名前の由来は、現在の枕橋(本橋から約二百メートル隅田川寄りの橋)、古くは源森橋と呼ばれていたものが、明治初期に枕橋に正式決定されたことから、本橋を源森橋と呼ぶようになったことによるものである。その昔、現在の枕橋(旧源森橋)が関東郡代であった伊奈半十郎により中之郷瓦町(現在の吾妻橋地区)から新小梅町(現在の向島地区)に通ずる源森(側でなく川)(現在の北十間川)に架けられた。また枕橋(旧源森橋)北側にあった水戸屋敷内に大川(隅田川)から引き入れた小さな堀があり、これに架かる小橋を新小梅橋と呼んでいた。この二つの橋(旧源森橋・新小梅橋)は並んで架けられていたため、いつの頃からか枕橋と総称されるようになった。その後、水戸屋敷内への掘は理められ、新小梅橋もいつしか消滅し、残った旧源森橋は明治初期に正式に枕橋と呼ばれることになり、旧源森橋の東側にあった本橋を源森橋と公称した。現在の源森橋は、昭和三年に架設した鋼橋(上路式アーチ橋)が約八十年経過し、老朽化したため、平成十九年三月に鋼橋(鋼床版鈑桁)に架け替えられたものである。



都電臨時30系統は吾妻橋交番前交差点で右折し、三ツ目通りと別れて浅草通りに入ります。交差点の脇には都営地下鉄浅草線の本所吾妻橋駅があります。駅名は、付近の町名である「本所」と「吾妻橋」に由来しています。「本所」は旧本所区に由来し、現在の墨田区南部一帯(南端は両国・菊川・錦糸町地区までを含む)を指す広範な地域名として用いられました。本所吾妻橋駅周辺の地域は古くは中ノ郷と呼ばれました。中ノ郷と本所は同じ意味で、郷村の中心部を指す地名です。現在の駅南側の町名である本所は、昭和四十一年(1966年)の住居表示実施にあたり「厩橋」から改称されたもので、本所地域の一部にあたります。「吾妻橋」は安永三年(1774年)10月に隅田川に架橋され、当初「大川橋」と呼ばれていましたが、明治八年(1875年)に「吾嬬橋」に改称されました。大川橋時代から吾嬬神社の参道であったことから、人々は「あづまばし」と呼んでいました。町名となったのは、昭和五年(1930年)のことでした。



浅草通りは吾妻橋一丁目交差点から駒形橋東詰交差点まで清澄通りと重なっています。都電臨時30系統は、駒形橋東詰交差点から終点の月島通八丁目までひたすら清澄通りを進みます。石原一丁目交差点で蔵前橋通りと交差した先に横網(「よこずな」でなく、「よこあみ」と読みます)町公園があります。東京市が陸軍の被服廠(ひふくしょう:軍服などを作る工場)が移転した跡地を買収し、公園として造成を進めていましたが、その最中に発生したのが関東大震災です。まだ空き地状態だった被服廠跡地には周辺の人たちが家から布団や家財道具を持ち出し、続々と避難してきました。ちょうど昼時であったことと、台風の余波で強風が吹いていたこともあり、各所で火災が発生しました。やがてこの被服廠跡にも強風にあおられた炎が四方から迫り、その火の粉が持ち込まれた家財道具などに燃え移りました。激しい炎は巨大な炎の竜巻・火災旋風を巻き起こし、一気に人々を飲み込みました。この地だけで3万8千人もの命が失われました。関東大震災で亡くなった人々の霊を弔慰するため、四十九日に相当する大正十二年10月19日に、この地において東京府市合同の大追悼式を挙行したのがこの公園の歴史を刻む最初の出来事でした。当初「大正震災記念公園」と仮称された公園でしたが、昭和五年(1930年)に慰霊堂(当時は震災記念堂)や鐘楼・日本庭園が完成し、9月1日に横網町公園として開園しました。翌年の昭和六年には復興記念館も完成し、現在の横網町公園となりました。



本所七不思議は、江戸時代の頃から本所に伝承されている奇談・怪談のことです。江戸時代の典型的な都市伝説のひとつであり、古くから落語など噺のネタとして庶民の好奇心をくすぐり親しまれてきました。いわゆる「七不思議」の一種ですが、伝承によって登場する物語が一部異なっていることから8種類以上のエピソードが存在します。本所七不思議に挙げられているのは、
  • 置行堀(おいてけぼり)
  • 送り提灯(おくりちょうちん)
  • 送り拍子木(おくりひょうしぎ)
  • 燈無蕎麦(あかりなしそば)別名「消えずの行灯」
  • 足洗邸(あしあらいやしき)
  • 片葉の葦(かたはのあし)
  • 落葉なき椎(おちばなきしい)
  • 狸囃子(たぬきばやし)別名「馬鹿囃子(ばかばやし)」
  • 津軽の太鼓(つがるのたいこ)
です。歩道の脇に「置いてけ堀・御竹蔵跡」の案内板が立っています。

両国物語
Oiteke-bori & Site of Otake-gura

置いてけ堀・御竹蔵跡

この辺りには、幕府の資材置き場だった御竹蔵があり、その周りには掘割がありました。ある日、町人がこのあたりの堀で釣りをしたところ、たくさん魚が獲れたので、気を良くして帰ろうとすると、堀の中から「置いてけ!」という怪しい声がしました。逃げるように家に帰って、恐る恐る魚籠(びく)をのぞくと、釣れた魚が一匹も入っていませんでした。これが、本所七不思議の一つ、「置いてけ堀」の話です。話の内容や場所には諸説があり、置いてけ堀は「錦糸堀」との説もあります。作られたのは寛政年間(1789年〜1801年)といわれ、七つ以上の話が伝えられています。




葛飾北斎は現在の墨田区に生まれたこともあって、区内にはいろんなところに北斎の偉業を記した案内板が立っています。両国駅手前で東西に延びる北斎通りに面して、巨大な「すみだ北斎美術館」が建っています。北斎通りは、以前は「南割下水通り」と呼ばれていました。その名前の由来は、江戸時代に通りの中央に掘割が設けられていたからと言われています。日本を代表する画家である葛飾北斎がこの地で生まれたこともあって、現在は「北斎通り」の名前が付いています。余談ですが、この地がかって下総国葛飾であったことから、「葛飾」の画家名を名乗ったそうです。引っ越し魔ともいわれ、90歳で没するまでに90回以上も転居したそうです。



東京都江戸東京博物館は両国の国技館の隣に位置し、江戸・東京の歴史・文化に関わる資料を収集・保存・展示し、「江戸と東京の歴史や文化を伝える博物館」として平成五年(1993年)3月28日に開館しました。建物は地上7階・地下1階の鉄骨造構造で、地上部分の高さは約62mあり、明暦三年(1657年)の「明暦の大火」で焼け落ちた江戸城天守閣とほぼ同じだそうです。隣接する国技館との調和を考え、高床式のユニークな構造の建物になっています。



清澄通りがJR総武線と交差する亀沢町架道橋下の歩道に壁画が描かれています。いわゆる「だまし絵」の一種と思われますが、壁画を描くことによって落書きを防止する効果があるのだそうです。意味不明の落書きをされるよりかは、歩行者に興味を持ってもらえる壁画の方がまだマシとのことでしょうか。



都電臨時30系統は京葉道路(国道14号線)と交差し、竪川に架かる二之橋を渡ります。橋の周辺に3つの案内板が立っています。最初の案内板には二之橋の歴史が記されています。

江戸の町 二之橋

万治二年(1659年)、堅川が開削されると五つの橋が架けられ、隅田川に近いほうから一之橋から五之橋と名付けられました。そのニツ目の橋で、長さ十間(十八メートル)、幅三間(五・四メートル)ほどありました。池波正太郎の「鬼平犯科帳」では、二之橋は「ニツ目橋」という名で数多く登場します。鬼平が事件を解決するなかで、弥勤寺門前のお熊婆のいる茶店「笹や」へ行くにも、大川から舟で乗付けて軍鶏なべ屋「五鉄」に立寄るにも、この橋は必ず登場し、正に欠かせない場所となっています。現在の橋は平成十年(一九九八年)に架橋されたものです。




現在の二之橋上空には首都高の高架が通っており、ちょっと趣に欠けますが、満開の桜が多少なりとも風情を醸し出しています。

葛飾北斎 本所立川 ―冨嶽三十六景―

富士山を描いた「冨獄三十六景」シリーズの一枚です。北斎が70歳頃の版行です。江戸時代、竪川の北側(旧相生町一丁目〜二丁目付近)には、その水運を活かした材木問屋が密集していました。北斎はそれら問屋と職人たち、木材の間から覗く富士山を描きました。積み重ねられた材木の間から見える富士は、遠近法を得意とする北斎らしい構図です。右下の材木置き場には「西村置場」、その左右の材木には「馬喰丁弐丁目」「永寿堂仕入」などの墨書があり、版元名とその場所、本シリーズ(「富嶽三十六景」)の宣伝がさりげなく入っています。

A print from the Thirty-six Views of Mount Fuji series featuring scenes of Mt.Fuji. This print was made when Hokusai was about seventy years old. During the Edo Era, timberyards that used the river for transporting timber were crowded along the north bank of the Tatekawa River (nearby the former Aioicho 1-chome through to 2-chome). Hokusai has depicted a scene of Mt. Fuji seen from between the timberyards, the workers and the timber. The composition of this print with Mt.Fuji visible between the piles of timber is typical of Hokusai, who was very proficient at expressing perspective. "Nishimura Storage Yard" is written on the timber storage area at the bottom right-hand side and "2-Chome Bakurocho" and "Supplied by Eijudo" is written on the timber on the left and right of this, enabling Hokusai to casually advertise the name and address of the Thirty-six Views of Mount Fuji series' publisher.




池波正太郎の「鬼平犯科帳」に登場する場所には、大抵「鬼平情景」と題した案内板が立っています。今も昔も、お芝居には食べ物屋が登場する場面が欠かせませんね。

鬼平情景軍鶏なべ屋「五鉄」

小説「鬼平犯科帳」に登場する、鬼平の行きつけの店、本所ニツ目の軍鶏なべ屋「五鉄」の場所は、「ニつ目橋の角地で南側は竪川」とあるように、この辺りだと推定されます。鬼平とその配下の密偵たちは、ここに集まって、軍鶏なべをつついていました。その名物である軍鶏の臓物なべは「新鮮な臓物を、初夏のころから出まわる新牛蒡のササガキといっしょに、出汁で煮ながら食べる。熱いのを、ふうふういいながら汗をぬぐいぬぐい食べるのは夏の快味であった」と「鬼平犯科帳」には書かれています。




五間堀は、小名木川と竪川を結ぶ六間堀から分かれる入堀で、1600年代の半ばに開削されました。名称は当時の川幅が5間(約9メートル)だったことに由来します。六間堀とともに江戸時代から重要な水路でした。その五間堀に架かっていたのが弥勒寺橋です。

弥勒寺橋(みろくじばし)跡

弥勒寺橋は六間堀からわかれる五間堀にかけられていた橋です。この橋の初見は寛文十一年(1671年)の江戸図で、江戸時代前期には、すでに架橋されていたことがわかります。弥勒寺橋という名称は、橋の北東に真言宗弥勒寺があったことに由来します。しかし、弥勒寺は、元禄二年(1689年)に本所へ移ってきたので、弥勒寺橋と呼ばれるようになったのはそれ以降のことと考えられます。五間堀は、昭和十一年(1936年)・昭和三十年の二度の埋め立て許可により、全て埋め立てられ、その後弥勒寺橋も廃橋となりました。




清澄通りと新大橋通りが交差する森下町交差点の角に、二ツ目通り(清澄通り)の由来が記されたプレートが置かれています。

二ツ目通り(清澄通り)の由来

明暦三年(1657年)江戸の大半を灰にした例の明暦大火の後、幕府は市街地の区画大整理を行いました。万治二年(1659年)、江戸城の再興と共に開始された大事業は寛文元年(1661年)に完了しました。開拓は道路と河川を一体的に整備したもので東西及び南北を軸とした、直線的な計画がなされていました。その中で、深川地区は堅川の掘削の後、架けられた橋に西から一之橋、二之橋・・・・・・五之橋と名付けられました。その後、各々の橋の通りが通り名となったようです。二ツ目通りは堅川二之橋通りと呼ばれ、その後簡略化され、二ツ目の橋通りを経て、二ツ目通りと呼ばれるようになりました。江戸名所図絵には五間堀に架かる立派な弥勒寺橋と共に堅川二之橋通りの名が残されています。




元祖カレーパンのカトレアは、明治十年に「名花堂」の店名で深川常盤町に創業しました。昭和二年に「洋食パン」の名で実用新案として登録されたものが「カレーパン」のルーツとのことです。「元祖カレーパン」はお店の看板メニューで、甘口・辛口の2種類があり、連日行列ができるほどの人気だそうです。



森下駅前交差点先の右手に細長い鉛筆型のマンションが建っていて、その1階に魚三酒場常盤店(森下店とも呼ばれます)があります。魚三酒場というと、門前仲町の富岡店が有名ですが、実はここ常盤店と新小岩店も同じ魚三酒場なのです。まだお昼時でお店は開いていませんが、コロナ渦でも開店前には行列ができそうです。



清澄通りと交差する芭蕉深川通りの手前に「大衆鳥酒場 鳥椿 深川森下店」があります。大きな看板には、「元祖チンチロリンハイボール」と書かれています。「チンチロリン」って何でしょうね?調べたところ、サイコロゲームの一種で、サイコロの目によって勝敗を競うものたしいです。そのルールを簡素化して、最初にメニューに取り入れたのが鳥椿なのだそうです。焼酎やウイスキーを炭酸水で割った「ハイボール」を対象にしていることから、「チンチロリンハイボール」という名前が付きました。やり方は次のように決められています。

茶わんのような容器に2つのサイコロを投げ入れて、出た目によってハイボールの価格が次のように変わります。

(1)出た目がゾロ目(2つとも同じ数字)なら1杯が無料。
(2)出た目の合計が偶数なら1杯が半額。
(3)出た目の合計が奇数なら1杯が倍額(ただし、1杯の量も倍)

お客にとっては、(3)だけが損をするように見えますが、量も倍になっていますのでハイボールをもともと2杯以上飲むつもりだった人にとっては、2杯分がひとつの容器になるだけで損をしたとはいえませんね。そう考えると、お客から見るとお得なだけで損することはないゲームのようにも思えます。確率論を駆使して判定した結果、お店にとっては定価販売よりも利益率は低くなりますが、それ以上の割合を量で取り戻していることになるそうです。売り上げは増えるものの、儲けは減る可能性があるということです。ただ、飲食店のお酒の原価率はかなり低いといわれますので、売り上げ増のメリットが原価増のデメリットを上回っている可能性もあるかもしれません。



小名木川に架かる高橋(たかばし)を渡ります。小名木川は、安土桃山時代に造られた人工の河川です。徳川家康が関東に移封された頃に開削されました。1590年頃、江戸城を居城に定めた徳川家康は兵糧としての塩の確保のため行徳塩田(現在の千葉県行徳)に目を付けました。しかし江戸湊(当時は日比谷入江付近)までの東京湾北部は砂州や浅瀬が広がっていて船がしばしば座礁したため、大きく沖合を迂回するしかありませんでした。そこで小名木四郎兵衛に命じて、行徳までの運河を開削させたのが始まりです。この高橋から隅田川方向に見えるのが昭和三十六年に竣工した「新小名木川水門」です(水門とは堤防の機能を持つ制御施設)。隅田川が増水した際は、この水門が水の流れを阻害して洪水から守ります。高橋の袂に案内板が立っています。「立役」とは、男役または男役を専門に演じる俳優のことを指します。「実悪」とは、歌舞伎の役柄のひとつで、敵役のうち残忍で意志強く、後悔や変心することなく、終始一貫悪の気持に徹底する役柄、またはそれを演じる役者をいいます。

江東区登録史跡
二代目 中村芝翫(しかん)宅跡

歌舞伎役者の二代目中村芝翫は、寛政八年(1796年)江戸下谷に生まれ、嘉永五年(1852年)二月一七日に五十七歳で没しました。はじめ舞踊家で初代藤間勘十郎の門人(のち養子)になり、藤間亀三郎を名乗りました。その後、江戸で出演中の三代目歌右衛門の弟子になり、文化十年(1813年)に中村鶴助と改名、文政八年(1825年)には二代目中村芝翫を継ぎました。屋号は成駒屋です。舞台では、立役・実悪・女方・武道・荒事など、さまざまな場面で活躍し、天保七年(1836年)には、四代目中村歌右衛門を襲名しています。芝翫は、天保のころこの辺りに住んでいました。そのため、小名木川に面してあった河岸は「芝翫河岸」と呼ばれました。天保二年(1831年)に江戸の中村座で「六歌仙」を演じた時、喜撰法師(六歌仙の一人)の歌詞をひねって、「我が庵は芝居の辰巳常磐町、雨も浮世を放れ里」と住居付近の様子をおりこんでいます。




清澄庭園は、明治時代に三菱財閥の創業者であった岩崎弥太郎が関宿藩主久世家下屋敷の庭園跡を手に入れ、社員の慰安・貴賓を招待するなどの目的で造園したものです。「深川親睦園」として、隅田川の水を引き、泉水・築山・枯山水を主体にした回遊式築山泉水庭としました。この造園手法は江戸時代の大名庭園に用いられたもので、1979年に東京都の名勝に指定されました。また「清澄庭園」は、関東大震災では災害時の避難場所としての役割を果たし、多数の人命を救いました。



清澄庭園と清澄通りを挟んだ反対側に深川資料館通りが延びています。通りの奥に深川江戸資料館があり、通り沿いには深川めしを看板メニューにした江戸情緒溢れるお店が並んでいます。深川資料館通りの元々の名称は、「江東区役所通り」でした。それが昭和四十九年の江東区役所の東陽町への移転によって「元区役所通り」となり、更に昭和六十二年に江東区役所の跡地に深川江戸資料館が完成したのに伴い、現在の「深川資料館通り」になったのです。都電臨時30系統が廃止されたのは昭和四十四年ですから、「江東区役所」電停の名称を変更する必要は生じなかったのですね。



海辺橋で仙台堀川を渡ります。仙台堀川の名称は、北側の岸沿いにあった仙台藩邸の蔵屋敷に米などの特産物を運び入れたことに由来し、「仙台堀」とも呼ばれていました。昔は、砂町運河(小名木川〜横十間川間)、十間川(横十間川〜大横川間)、仙台堀川(大横川〜隅田川間)とに分けられていましたが、1965年の河川法改正によりひとつにまとめられました。



海辺橋を渡った右手に(表だけで、舞台の大道具のようですが)小さな庵と芭蕉の像があります。



歩道に面して、採荼庵(さいとあん)跡と書かれた石碑が立っています。以前書いた際には、「荼」を「茶」と誤記していました。「荼」は苦菜(ニガナ)のことで、漢代以後に四川から長江(揚子江)流域や江南へと飲茶の習慣が伝わるにつれ、ジャ(チャ)と発音してこの字を使い、唐代になってから「茶」の字になったと考えられています。「採荼」とは、集まってお茶を飲みながら俳句を詠むといった意味になるのでしょうか?

採荼庵跡

芭蕉の門人鯉屋杉風は、今の中央区室町一丁目付近において代々幕府の魚御用をつとめ、深川芭蕉庵もその持家であったがまた平野町内の三百坪ほどの地に採荼庵を建て、みずからも採荼庵と号した芭蕉(採荼庵と号したのは杉山杉風だと思うのですが。。。)はしばしばこの庵に遊び、「白露も こぼさぬ萩の うねりかな」の句をよんだことがあり、元禄二年奥の細道の旅はこの採荼庵から出立した。




案内板も立っています。

採荼庵跡〜奥の細道はここから〜

採荼庵は、江戸時代中期の俳人杉山杉風の庵室です。杉風は、名を市兵衛、または藤左衛門と称したほか、屋号を鯉屋、俳号を採荼庵、五雲亭などとし、隠居したのちは一元と名乗りました。家業は魚問屋で鯉上納の幕府御用もつとめ、小田原町一丁目(中央区)に住んでいました。松尾芭蕉の門人でもあり蕉門十哲に数えられ、「常盤屋句合」・「角田川紀行」などの著作があります。また、芭蕉を経済的に支援したパトロンとしても知られています。採荼庵があった場所については、杉風の娘婿である隋夢の遺言状に「元木場平野長北角」と書かれています。平野町は、海辺橋南詰から万年町二丁目(深川1−8)を挟んだ一画でした。説明板が建っている海辺橋のたもとより140メートルほど南西に位置します。芭蕉は奥の細道の旅に出る前、住居としていた芭蕉庵を手放し、しばらくは採荼庵で過ごしました。門人たちと別れを惜しんだのち、舟で隅田川をのぼり、千住大橋のたもとから奥州へと旅立っていきました。

Site of Saitoan

Saitoan was the hermitage of Sugiyama Sanpu, a disciple of haiku poet Matsuo Basho. Sanpu was one of Basho's top ten most gifted disciples. Saitoan was originally located 140 meters south of this sign at what is now 1-8 Fukagawa. Basho stayed at Saitoan before departing on the journey that led to his masterwork, Oku no Hosomichi (The Narrow Road to the Interior).




芭蕉が住み、奥の細道紀行へ出立した地である「深川」、芭蕉が生きた頃の「深川」に思いを馳せながら足跡をたどる「深川芭蕉コース」の案内板が立っています。

@深川東京モダン館

昭和七年(1932年)竣工の「旧東京市深川食堂」の外観イメージを色濃く残して改修し、平成二十一年10月にオープンしました。国登録有形文化財(建造物)です。タイル張りの階段まわり、床や壁面には戦禍にも耐えた建設当時の丸窓に特長があります。1階は江東区の観光・まちあるき案内スペース、2階は多目的スペースとなっています。

A採荼庵跡(さいとあんあと)

濡縁に腰掛けた旅姿の芭蕉像が迎えてくれるこのあたりに、芭蕉の高弟・杉山杉風(すぎやまさんぷう)の別荘がありました。芭蕉は、元禄二年(1689年)の2月末に芭蕉庵から採荼庵に移り、約1か月後の3月27日早朝、曾良を伴い仙台堀から千住へ、「奥の細道」の長旅に出立しました。46歳の時のことです。幕府御用の魚問屋を営んでいた杉風(鯉屋市兵衛)は、芭蕉の経済的支援者でした。絵を狩野昌運に学び、その腕はほとんど専門家の域に達していました。

B臨川寺(りんせんじ)

仏頂禅師が寛文の頃(1661年〜1672年)に創立しました(当時は臨川庵)。深川に庵(泊船堂)を定め、まだ宗房と称していた芭蕉は仏頂禅師と親交し、禅師との参禅問答から得たとされる俳号が「桃青」、そののち天和元年(1681年)、38歳の時に「芭蕉」となります。蕉門の各務支考(かがみしこう)が京都双林寺に建立した鏡塔の墨跡を、俳人神谷玄武坊が写した「墨直しの碑」などが境内にあります。

C横網通り

この一角には五つの相撲部屋があり、地元では「横綱通り」と呼ばれています。清洲橋通りから入ると「鏡山部屋」(元関脇・寺尾)、「尾車部屋」(元大関・琴風)、「大鵬道場 大嶽部屋」(元十両・大竜)、「山響部屋」(元前頭巌雄)、「高田川部屋」(元関脇・安芸乃島)と続きます。タイミングによっては、お相撲さんの姿や干されている廻し(まわし)などに出会えるかもしれません。

D萬年橋

江戸時代、富士山がきれいに見える名所として知られ、葛飾北斎の「富嶽三十六景・深川万年橋下」や歌川広重の「名所江戸百景・深川万年橋」に描かれた有名な橋です。創架時の詳細は不明ですが、江東区で最も古い橋の一つで、延宝八年(1680年)の江戸絵図には「元番所のはし」として記載されています。この名は、小名木川が隅田川と通じる出入り口にあり、寛文元年(1661年)まで橋の北詰に船番所が置かれていたことに由来するものです。現在の鋼橋は昭和五年(1930年)に震災復興橋として架けられたものです。

E芭蕉稲荷神社

松尾芭蕉が「古池や 蛙飛び込む 水の音」の句を吟じた芭蕉庵があった場所ではないかとされています。俳句の弟子・杉山杉風が提供した草庵で、のちの文久二年(1862年)の切絵図には、紀州藩下屋敷に「芭蕉庵ノ古跡庭中二有」と記されています。元禄二年(1689年)奥の細道の旅に出る芭蕉は庵を離れる直前に「草の戸も 住替わる代ぞ ひなの家」の句を柱に残したと記しています。大正六年(1917年)、この地を襲った高潮水害の後に「(伝)芭蕉遺愛の石の蛙」が出土し、地元の人々の尽力により「芭蕉稲荷神社」として祀られました。大正十年、東京府の旧跡に指定されています。

F芭蕉庵史跡展望庭園

平成七年に芭蕉記念館の分館として、隅田川と小名木川の合流地点に建設されました。台上から川面を見渡す芭蕉座像(杉山杉風が描いた肖像画を立体化)は、日中には入口の方を、夕方には清洲橋方向へと自動でほぼ90度向きを変え、ライトアップされた姿で隅田川を行く船を見送ります。一方の壁沿いには、江戸時代の和本に描かれた芭蕉をめぐるエピソードを伝える展示板や、俳号の由来を思わせる芭蕉の樹など、癒しの空間が広がっています。

G隅田川テラス

川の流れに沿った遊歩道を歩くのは心地よいものです。ベンチで一休みして、川沿いの景色も堪能できます。隅田川東岸のテラスには「大川端芭蕉句選」として、9句の句碑プレートが点々と連なっています。全て芭蕉が芭蕉庵で詠んだ句で、年代順にならんでいて上流側が新しい句となっています。句碑を前に佇んでみるのも、水辺の散歩の一興と言えるでしょう。

H芭蕉記念館

松尾芭蕉は延宝八年(1680年)江戸日本橋から深川の草庵に移り住み、この庵を拠点に新しい俳諧活動を展開しました。このゆかりの地、芭蕉稲荷神社に多くの芭蕉ファンが集まったこともあり、芭蕉の業績を顕彰することを目的として、昭和五十六年(1981年)に開館された資料館です。展示室には、芭蕉の真筆をはじめとする俳文関連の貴重な資料や「(伝)芭蕉遺愛の石の蛙」も。庭園には三井親和の書による「古池や・・・・・・」句碑の模書句碑や遊行柳、築山には芭蕉庵を模した祠など、「芭蕉さん」を身近に感じられる空気がいっぱいの世界です。




小津安二郎は深川で生まれ、日本を代表する映画監督になりました。道路の脇に案内板が立っています。

小津安二郎誕生の地

江東区の生んだ世界的映画監督小津安二郎は、明治三十六年(1903年)年十二月十二日、この地に生をうけました。生家は「湯浅屋」という屋号の肥料問屋でした。安二郎が十歳のとき、三重県松阪町に転居、中学校卒業後、尋常小学校の代用教員を一年間勤めた後、大正十二年(1923年)再び上京、深川和倉町に住み、松竹蒲田撮影所に撮影助手として入社しました。昭和二年(1927年)監督に昇進、処女作時代劇「懺悔の刃」を監督しました。その後の小津安二郎監督作品は、「出来ごころ」に代表されるような、下町特有の情緒や人情味が描かれ、またローアングルによる撮影スタイルなどによって、家族の触れ合いや日常生活を端的に描く独特の作風を作り上げていきました。昭和三十七年(1962年)「秋刀魚の味」を発表、映画人としては、初の芸術院会員となりました。この作品が小津安二郎の遺作となり、翌昭和三十八年(1963年)年六十歳で死去しました。その作品の価値は死後内外共にいよいよ高まり、世界最高の映像作家として評価されています。




公衆トイレの入口壁に時代劇の一シーンのような絵が描かれています。梅雨小袖昔八丈(つゆこそでむかしはちじょう)とは、河竹黙阿弥脚本の歌舞伎の世話物(江戸時代の市井の事件に取材し、町人や農民など一般民衆が中心で劇を運ぶ作品)のことで、明治六年(1873年)5月に中村座で五世尾上菊五郎らにより初演されました。

材木商白子屋の娘お熊は手代忠七と恋仲でしたが、家のために持参金付きの婿をとることになりました。出入りの髪結新三は忠七をそそのかしてお熊を連れ出させ、深川の家に監禁します。永代橋で新三に突き離された忠七は面目なさに死のうとし、顔役弥太五郎源七に救われます。新三は、白子屋に頼まれてお熊を取り戻しにきた源七を逆に辱しめて追い帰しますが、家主長兵衛の老獪な掛け合いには頭があがらず、しぶしぶとお熊を返します。のち源七は閻魔堂橋で新三を殺して仕返しをします。時鳥(ほととぎす)や初鰹の風物を巧みに配して梅雨明けの季節感を写し、江戸の下町風俗を淡彩に描いた傑作です。小悪党新三が「永代橋」で忠七を打ち据えるぴりっとした啖呵や、「新三内」で初め源七をやりこめながら、長兵衛には脅かされたりすかされたりしたすえ、お熊の手切れ金の半分も上前にとられるやりとりが見どころとなっています。

清澄通りをはさんだ法乗院は、江戸時代より、「深川えんま」として有名である。この画は、梅雨小袖昔八丈「髪結新三」の一場面で、描かれている橋は、「えんま堂」の前にかかっていた黒亀橋、もとの富岡橋のことである。



富岡橋は、かって油堀川に架かる橋でした。昭和五十年に油堀川は埋め立てられ、現在では首都高速9号深川線の高架用地になっています。橋が架かっていたところは小さな公園となっていて、道路脇には旧富岡橋の親柱が残されています。油堀川は、江戸時代に隅田川から木場までの水路として開削され、佐賀町や福住町の両岸に油問屋が多かったことから油堀川という川名が付けられました。



都電臨時30系統は、門前仲町交差点で永代通りを越え、越中島方向に向かいました。門前仲町交差点では東西方向に向かう都電と直角に交差していたことになります。本数も多かったので、都電が互いに交差する風景は見物だったことでしょう。



「黒船」というと、すぐにペリー艦隊を思い浮かべてしまいますが、門前仲町交差点先にある大横川に架かる黒船橋の由来とは関係ありません。すぐ近く(江東区牡丹)にある黒船稲荷神社にちなんで命名されたという説が有力のようです。桜の時期の橋からの景色は、東京でも最高のお花見スポットのひとつといわれています。

黒船稲荷神社(牡丹一丁目)

現在では、鳥居とお堂があるだけですが、江戸時代には、古木の生い茂った森で「すずめの森」として有名でした。四世鶴屋南北は、日本橋(中央区)の生まれで、一時本所に住んだこともありましたが、晩年はこの境内に住み、「東海道四谷怪談」をはじめとする名作を生み出しました。




越中島には東京海洋大学のキャンパスがあります。東京海洋大学は、海洋の研究・教育に特化した大学です。平成十五年(2003年)10月に共に120年以上の歴史を持つ東京商船大学と東京水産大学が統合し開学しました。2004年4月から学部生の受け入れを開始しました。工学部では乗船実習が義務となっています。旧東京商船大学は長年日本商船隊を支えた船乗りを輩出し、水産立国の礎を築いた旧東京水産大学とともに、現在でも海に関連する科学・工学的な専門分野における教育と研究でその良き先達となることを目指しています。越中島キャンパスには海洋工学部が置かれ、船舶職員の養成とロジスティクスの分野の教育と研究を行っています。海洋工学部(東京商船大学)の前身である私立三菱商船学校は、明治八年(1875年)11月に設立され、1925年に東京高等商船学校に改組されました。海洋科学部(東京水産大学)の前身である大日本水産会水産伝習所は、明治二十一年(1888年)に設立されました。両学部とも120年以上の歴史を持っています。当初、商船学校は永代橋袂の霊岸島(現在の中央区新川)に繋がれた成妙丸を校舎としていましたが、後に水産伝習所の校舎があった越中島に移設されました。東京高等商船学校は明治・大正・昭和を通して難関校として有名で、俗に「陸士・海兵・高等商船」と受験生から呼ばれ、陸軍士官学校・海軍兵学校と並び称されるほど全国から秀才が集まっていました。



東京海洋大学は晴海運河に面しています。その一画に明治丸記念館があり、巨大な帆船の明治丸が保存されています。明治丸は、明治政府が英国グラスゴーのネピア造船所に燈台巡廻業務用に発注し、明治七年に竣工した鉄船(現在の船はすべて鋼船)で、翌明治八年に横浜へ回航されました。一等飛脚船同様の出来と言われたこの船は、特別室やサロンを備えた豪華な仕様の新鋭船で、単に燈台業務ばかりでなく、ロイヤルシップの役目も兼ねていました。明治天皇はじめ多くの高官が乗船し、わが国近代の重要な場面で活躍しました。なかでも明治八年、小笠原諸島の領有権問題が生じた際に、日本政府の調査団を乗せ、英国船より早く小笠原に到達しました。このことによって、小笠原諸島はわが国の領土となったのです。その後の沖ノ鳥島・南鳥島の領有を含め、日本は領海と合わせて世界第6位となる447万平方キロメートルの排他的経済水域を確保することとなりました。その約3分の1に当たる約150万ヘイホウキロメートルが東京都小笠原村に属しています。また、明治九年、明治天皇が東北・北海道巡幸の際、青森から乗船され函館を経由し7月20日に横浜に安着されました。この日を記念して昭和十六年に「海の記念日」が制定され、平成八年に国民の祝日「海の日」となりました。およそ20年間を燈台巡廻船として活躍した明治丸は、明治二十九年年に商船学校(東京海洋大学の前身)に譲渡されました。それからは係留練習船として昭和二十年までの約50年間に、5000余人の海の若人を育てました。大正十二年の関東大震災や、昭和二十年の東京大空襲では、被災した多くの住民を収容し、災害救援にも貢献しています。昭和五十三年には、わが国に現存する唯一隻の鉄船であり、鉄船時代の造船技術を今に伝える貴重な遺産として、国の重要文化財に指定されました。船としての重要文化財指定は明治丸が初めてです。その後、老朽化が進んだため、再び平成二十五年12月より、東京海洋大学と文部科学省により大規模修復工事が行われました。平成二十七年3月に竣工し、その美しい姿がよみがえりました。



相生橋は越中島(島ではありませんが)と佃島を結ぶ橋です。隅田川が晴海運河方向に分岐する派川に架かっていて、橋の長さも幅も相当なものです。大正八年に市電を通すために改築したそうですが、かなりの難工事だったことでしょう。

相生橋

相生橋は、隅田川の派川に架かる橋で、1903年交通の便と月島に水道を導くために、架けられました。橋の名前は、永代橋に相対する橋として名付けられました。その後、東京湾口に埋立地が造成されるとともに、勝鬨橋、佃大橋などが架けられ、名前もその意味を失っています。1926年に架けられた橋は、1999年にトラス橋に架け替えられました。




相生橋の形式は、大正八年に市電を通すため改築した先々代の橋の姿にならい、トラス橋としました。トラス橋は、細長い部材を三角形に組みたでて橋桁とした橋です。新しい相生橋は、隅田川や中の島公園とともに多くの人々の憩いの場として親しまれるよう整備されました。橋の長さは149.1m・幅員36.8mです。平成十年12月19日に全線開通しました。

相生橋

佃島が埋立てられて月島となって人々が住む町が開けるとともに、交通の便や水道が必要になった。そこでまず深川との間にこの相生橋が架けられた。明治三十六年(1903年)のことであった。その後改修され、中の島で大橋と小橋とに分かれるようになった。隅田川がここで左右に大きく分岐するところの左側にあたっていて、川が湾曲するするため、上流から流れてきたものが滞留したところである。関東大震災の時も、今次の大戦の空襲のあとにも、さまざまなものが山のように集まった。ことに震災の時までは木橋であったため、橋も延焼した。現在の橋は、大正十五年(1926年)11月に、 震災復興事業の最初の架橋として完成した。




初見橋交差点の手前にド派手な看板の「肉のたかさご」があります。昭和二十二年に「高砂牛肉店」として創業して以来、基本方針である「品質本位」を掲げ、精肉店として70余年、初代の教え「一両の客より十文の客を大切にせよ」の教えをもとにお客様に寄り添って今日まで営業しているとのことです。特に、「東京やき豚」と「ローストビーフ」は東京みやげの新定番として好評なようです。JALショッピングでも取り扱われています。ローストビーフに惹かれるのですけど、今日のところはパスします。



新月陸橋は、清澄通りと佃大橋通りを立体交差するための陸橋です。2016年まで東京マラソンのコースでしたね。私は入船橋から佃大橋への上り勾配を死ぬ思いで走り、新月陸橋に差し掛かる頃はヘロヘロになっていました。



月島・勝どき・佃エリアには超高層マンションが林立していますが、2015年7月竣工のキャピタルゲートプレイス・ザ・タワーもそのひとつです。清澄通りに面した1階のモールには多様なお店が入っています。その中に、カジュアルスペイン料理の月島ラヴィーニャがあります。ラ・ビーニャとは、スペイン語でワイン用のブドウ園のことらしいです。本場スペインの”本物の味”を楽しむとのコンセピトで、メニューを考案するシェフはスペインで修行を積んだ経験があり、本場ならではの味付けや調理法で本物の味を再現したメニューを提供しているのだそうです。中でも「イカスミのパエリア」は、イカスミから作る自家製ソースで煮込んだこだわりが詰まった一品だそうで、味・見た目のインパクトともに満点の人気メニューとなっているのだとか。スペイン各地から厳選されたワインを揃え、世界一のぶどう栽培面積を持つスペインが誇るワインの中から産地やぶどうの品種をもとに厳選し、数多くの銘柄を取り揃え、スペイン産のスパークリングワイン「カヴァ」やシェリー酒、サングリアなども豊富に用意しているとのこと。



ウインドウ越しに銘柄を見ていきますと、スペインワインの頂点に君臨する高級ワイン産地リベラ・デル・ドゥエロのワイナリーであるベガ・シシリアの最高級赤ワインのUNICOのボトルがありますね!良年だけにしか造られない、ベガ・シシリアのワインの中でも、製法・味わい・稀少性、全てにおいて「ウニコ:ユニークの意」なスペインワインの至宝です。私は20年ほど前にバロセロナのスーパーで買いましたが、勿体なくて未だに栓を開ける勇気がありません。レストランで飲んだら1本10万円はするかも。



月島橋の袂に「タワマン反対」の立て札が立っています。月島は明治二十五年(1892年)に制定された「東京湾澪浚(みおさらい)計画」に基づき、東京湾から浚渫した土砂を利用して埋め立てられ、月島1号地(現在の月島一丁目から月島四丁目まで)として完成しました。埋め立て当時の月島は工業用地となり、運河に面した土地には工場や倉庫が多く建てられました。比較的古い時代の埋立地なので、裏通りには木造住宅が密集した地域があり、植木鉢が並んだ狭い路地は東京の下町の原風景になっています。しかし、昭和六十三年(1988年)に東京メトロ有楽町線の月島駅が開業し、平成十二年(2000年)には都営地下鉄大江戸線の月島駅が開業したことから、近年は超高層住宅の建設が盛んに行われています。古くから住んでいる住民にとっては町の急激な変化に戸惑いを感じているのでしょうね。



月島橋は月島川に架かる橋です。月島川は、隅田川から月島川水門を経て分流し、朝潮運河へと注ぐ全長530mの小さな川ですが、川幅はかなり広く、月島橋もその分大橋になっています。月島川は、明治二十五年から明治二十七年に造られた当時の月島1号埋立地(現月島)と月島2号埋立地(現勝どき)の埋め残し水面から生まれました。そのため、月島川を境として、中央区勝どきと中央区月島の町域に分かれています。



勝どき駅前交差点に着きました。都電臨時30系統の終点の「月島通八丁目電停」は交差点近辺にありました。「月島通」は、現在の勝どき交差点付近の道路名で、その後清澄通りに吸収されました。ちなみに、「月島」という地名は、築地と同様に海に新たに築かれた島「築島」が由来といわれていますが、江戸時代から江戸湊(現在の東京湾)内にあった月見の名所「月の岬」から名付けられたという説もあります。



ということで、都電臨時30系統跡の歩きを終えました。今回で、都電の通常・延長・臨時の全系統跡を歩き終えたことになります。残るは、現在運行されている唯一の都電である荒川線のみです。もっとも、この路線は既に都電27系統の王子駅〜三ノ輪橋と、都電32系統の荒川車庫〜早稲田で歩いているんですがね。




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