都電9系統(変更後)跡コース  

コース 踏破記  

今日は都電9系統(変更後)跡を歩きます。都電9系統(変更後)は、主に国道246号(青山通り)・外苑東通り・六本木通り・外濠通り・国道1号(桜田通り)・晴海通り・新大橋通りを通っていました。森下町まで延長運転がされることもありましたので、この延長区間も含めて歩くことにします。    

都電9系統(変更後)(昭和38年10月01日から昭和42年12月09日まで運転)

今日歩くのは、昭和38年10月01日から昭和42年12月09日まで運転されていた都電9系統の路線跡コースです。都電9系統は昭和38年10月1日に運転区間が変更され、更に昭和42年12月10日に運転区間が再度変更され、最終的に昭和43年9月28日限りで廃止となりました。変更前と再変更後の都電9系統跡については、それぞれ独立した路線として歩きます。

都電9系統(変更後)の電停(路上の駅)は、渋谷駅・青山車庫・南青山五丁目・明治神宮・北青山三丁目・南青山二丁目・北青山一丁目・新坂町・竜土町・六本木・今井町・福吉町・溜池・虎ノ門・霞ケ関・桜田門・日比谷公園・数寄屋橋・銀座四丁目・三原橋・築地・築地二丁目・新富町・桜橋・西八丁堀二丁目・茅場町・蛎殻町・水天宮・浜町中ノ橋(・浜町二丁目・新大橋・森下町)でした。


またまた渋谷駅にやってきました。これで何回目ですかね。渋谷駅周辺は100年に一度という大規模再開発ですっかり街の風景が変わりました。かっての東急文化会館跡には渋谷ヒカリエが建ち、銀座線の渋谷駅も東急東横店西館内から明治通り上空に移動しました。半円形のフォルムが印象的だった東横線のホームは記憶の彼方に去り、今は渋谷スクランブルスクエアを取り巻く東口歩道橋に姿を変えています。ネットの情報によれば、都電9系統の渋谷電停は何度かの移動を繰り返した後で、現在の渋谷ヒカリエ前辺りに落ち着いたみたいです。私はそこから往復共に宮益坂を経由していたんだろうと思っていましたが、実は都電9系統は渋谷駅前でループ状の線路になっていたのだということが後で分りました。渋谷に向う電車は青山通りから玉川通りに抜ける金王坂を下り、右折して渋谷電停に向かいました。そして、浜町中ノ橋行きの電車は渋谷電停を出発してから地下鉄銀座線の高架の下を通り(地下鉄なのに線路が道路の上にある!)、宮益坂下交差点で右折して宮益坂を登って行ったのです。そんな訳で、渋谷電停跡だと思っていた東口の都営バス乗り場から宮益坂に向って出発です。ところで、今回歩く都電9系統(変更後)ですが、前回歩いた変更前の都電9系統と異なるのは北青山一丁目電停から桜田門電停までの区間です。そのため、重複する区間は新たな見所があったところのみ追記することにします。



宮益坂の入口に案内板が立っています。今まで何回も通った場所ですが、この案内板には全く気が付きませんでした。

渋谷区近代学校教育発祥の地

明治八年(1875年)三月十五日に開校したとされる旧渋谷小学校は、中渋谷村の三井八郎右衛門・森島伝兵衛・野口清右衛門・鈴木喜代次郎などが中心となって、枝舎の建設に尽力し、成富清風が提供した中渋谷二番地(明治通りと宮益坂の接するところ)の451坪の土地に校舎を建てたのがはじまりとされています。明治五年の新学制に基づき第一大学区第三中学区第十九番渋谷学校という名で開校しました。渋谷区地域に初めてつくられた公立の小学校で、当初教員は校長を含め三人、生徒は八十四人であったといいます。学校の維持費は、明治十二年の町村制施行によって村独自の予算をもって賄うまで、その捻出に困り、その維持費は宮益坂下の三井八郎右衛門の水車の利益金をもってこれにあてたといいます。その後、渋谷小学校は平成九年四月に生徒数の減少などから大和田小学校・大向小学校と合併することが決まり、その長い歴史に幕を下ろし、神南小学校として生まれ変わりました。




青山一丁目交差点の角にホンダの本社ビルが建っています。今年はF1参戦の最終年になりますが、ホンダエンジンの調子はすこぶる快調で、先週のモナコGPではレッドブル・ホンダチームのマックス・フェルスタッペンが伝説のドライバーであるアイルトン・セナ以来30年ぶりの優勝を成し遂げました。ショーウインドウには、レッドブルチームの正・副ドライバー2人の写真と共に、「夢は挑戦の先にしかない」という標語が掲げられています。ところで、ビルの形状は一般のオフィスビルとは少し異なっています。オフィスビルなのにバルコニーが設けられているのです。これには理由があって、ひとつには地震の際に窓ガラスが地上に落下しないよう受け皿になること、もうひとつには社員の避難路として使用が想定されているとのことです。ビルが交差点から少し奥まった場所に建てられたのも交差点を曲る車のドライバーの視界をより確保するためだとか。ホンダの創業者である本田宗一郎の思いが詰まった建物になっているんですね。



変更後の都電9系統は、青山一丁目交差点を右折し、青山通りから外苑東通りに入ります。クランク状の道路脇に変わった形の石碑が置かれています。

赤坂消防署発祥之地

赤坂消防署は、この地に大正十五年に誕生し、以来昭和三十年までの間地域と一体となって、協力と和のもとに防災の拠点としてその任務を果たした。




乃木公園は、東京メトロ千代田線の乃木坂駅を出てすぐの外苑東通りと乃木坂に面した公園です。かっては日清・日露戦争を戦った陸軍大将乃木希典(1849年〜1912年)の邸宅地でしたが、乃木将軍の遺言により公園として東京市に寄贈され、大正二年に開設されました。旧乃木邸・馬小屋が保存されているエリアの南側には、ベンチの置かれた休憩スペースが2ケ所あり、その2ケ所の休憩スペースは階段でつながっています。階段下ではサクラの大木が枝を広げ、夏には空間を覆うように葉を茂らせて涼しい木陰をつくっています。園内の随所にステンレスパイプのモニュメントが配置され、植栽や旧乃木邸の趣と調和して美術館の屋外展示のようなアート空間となっています。園内には、旧乃木邸と馬小屋が保存されています。旧乃木邸の現存する家屋は乃木大将がドイツ留学中に見たフランス連隊本部を参考にして、自らの設計により明治三十五年(1902年)に新築されたものです。明治期の将官の邸宅は接客を目的とする豪華な建物が多かったのに比べ、旧乃木邸の外観は黒塗りの板張りで飾り気がなく、内部も極めて簡素かつ合理的に造られており、明治期の和洋折衷建築としても貴重なものとなっています。馬小屋は母屋が改築される以前の、明治二十二 年(1889年)に建てられました。煉瓦造り・日本瓦葺きの平屋建てで、母屋より立派であったことから「新坂の馬屋敷」と称されて評判になったといいます。煉瓦は英国から取り寄せるほどのこだわりぶりで、馬を大切にした乃木大将の人柄が偲ばれます。



乃木公園の先に「Johnny & Associates」のビルがあります。イケメンアイドル集団のジャニーズ事務所が入るビルです。ビルの名称は「SME乃木坂ビル」といいます。ジャニーズ事務所が入る前のこのビルにはSME(ソニー・ミュージックエンタテインメント)が入っていました。現在でも地下フロアにはソニー・ミュージック・スタジオが残り、レコーディング・マスタリングやオーサリングと、音と映像の制作作業を一貫して行えるスタジオとなっています。音響特性に優れた世界水準の大型スタジオには、デジタルの最新機器からアナログのビンテージ機器まで選び抜かれた最高の機材を揃え、スタジオ・モニターやキュー・システム等には独自開発のオリジナル機器が導入されています。音響特性だけではなく快適な居住性をも追求してデザインし、各スタジオ専用のロビーやアーティストルーム・専用駐車場・大型エレベータ等が用意されています。さらには環境問題にも配慮してグリーン電力をいち早く採用しており、最先端の音楽創造環境を実現しています。



東京ミッドタウンは、防衛庁本庁檜町庁舎跡地の再開発事業として2007年3月30日に開業しました。、オフィスやホテル・さまざまなショップおよびレストラン・美術館・レジデンス・医療機関・公園・緑地など、多様な施設から構成されています。最も大きな構造物であるミッドタウン・タワーは、地下5階・地上54階・高さ248.1mであり、それまでの東京都庁舎第一庁舎に代わり、東京都内で最高層のビルとなりました。ここは、1641年から1871年まで萩藩毛利家屋敷として使用され、明治時代に入ると1873年から陸軍の駐屯地となり、歩兵第一および第三連隊が使用しました。終戦後の1946年より米国に接収され、米軍将校の宿舎として使用されました。サンフランシスコ講和条約発効後の1960年に日本に返還され、1962年から陸上自衛隊の檜町駐屯地となるとともに、防衛庁の本庁舎も設置されました。都電9系統(変更後)が走っていた頃は武装した自衛隊員の出迎えを受けていたことでしょう。



六本木界隈には多くの多国籍飲食店が軒をつらねています。フィッシュ&チップスのMALINSもそのひとつです。新鮮素材とオリジナル製法にこだわった本格的英国スタイルのグルメ・フィッシュ&チップスのお店で、日本国内で採れた厳選素材を使い、本場英国のレシピに忠実に調理した「オリジナル・フィッシュ&チップス」は、英国から直輸入された本場のモルトビネガーをたっぷりかけていただく本格スタイルです。揚げたてのフィッシュ&チップスは、外はサクサク、中はジューシーで、油っぽさを感じさせないライトな食感はヘルシー志向の方はもちろん、幅広い世代の方が楽しめます。MALINSは1913年に英国で設立された英国国際フィッシュ・アンド・チップ協会アジア初の正式認証第一号店にもなっています。

The Malins team set out to accomplish two essential objectives: To provide Japan with a truly British, authentic fish and chip shop - one that the queen herself would be proud of - and to deliver the best tasting products in the world, using only the finest ingredients.



六本木交差点を左折して外苑東通りから六本木通りに入ります。六本木交差点の待ち合わせスポットとして有名な喫茶・洋菓子販売「アマンド六本木店」は、東京オリンピックのあった昭和三十九年(1964年)にオープンし、1階はカフェ・2階はカフェレストランで、朝9時から翌朝5時までの長い営業時間と年中無休ということで六本木のシンボル的な店として親しまれていました。ビルの建て替えにより一時閉店しましたが、2010年に再オープンしました。気のせいか、前のお店の方は情緒があったような気がします。



入口は別ですが、アマンドの地下にシシリア料理店があります。創業60年の老舗イタリアンのお店で、冷製のウニのパスタや芸術的なグリーンサラダが有名です。ここのホワイトアスパラガスは絶品だとか。



六本木には坂が多くあります。どれも道幅は広くなく、路地のような感じです。芋洗坂はアマンドの脇から続く長い下り坂です。昔は坂の途中にケントスのお店があって、ビートルズのコピーバンドが人気でした。

芋洗坂(いもあらいざか)

正しくは麻布警察署裏へ上る道をいったが、六本木交差点への道が明治以降にできて、こちらをいう人が多くなった。芋問屋があったからという。




かっては、六本木交差点から赤坂のアークヒルズに下る坂の両側には雑多な飲食店が立ち並んでいて、六本木駅までの帰り道を著しく妨げていました。それがいつの間にかほとんど姿を消してこぎれいなお店に変身し、歩道は拡張されて別世界のようなお洒落な通りになりました。通りに面しているところだけでなく、奥にあった巨大な墓地は高層マンションに様変わりし、六本木は大変貌しています。何が建っていたかも思い出せないような空き地には、数年後に巨大ホテルが誕生するのだとか。時代は変わります。



またひとつ坂があります。

寄席坂(よせざか)

坂の途中の北側に、明治から大正三年にかけて、福井亭という寄席があったために、寄席坂とよびならわすようになった。




なだれ坂は昔はなんと言うこともない坂でした。今は再開発で歩道も整備された綺麗な坂道になりました。坂の入り口付近に「竹やん」という居酒屋があります。ヤケに陽気なアジア系店員さんがいて、調子にのって朝の5時まで飲んだくれて始発で帰るお客さんもいましたね。

なだれ坂

流垂・奈太礼・長垂などと書いた土崩れがあったためか、幸国(寺)坂、市兵衛坂の別名もあった。




赤坂地区に入ると坂の名前も急にお洒落になります。アークヒルズの脇に、スペイン坂があります。この辺りは昔は谷町と呼ばれていたような気がします。確か、夏目雅子さんのご実家があったような。

スペイン坂の由来

昭和六十一年(1986年)、20年近い歳月を経て、赤坂(Akasaka)と六本木(Roppongi)の結び目(Knot)にアークヒルズ(ARK HILLS)は誕生しました。当時の民間における都市再開発事業としては最大級の規模(総敷地面積56,000u)を誇り、共同住宅・オフィス・ホテル・テレビスタジオ・コンサートホールなどを組み合わせた複合型街づくりは、その後の都心部における再開発事業のさきがけとなりました。そのアークヒルズの南側に位置するこの坂道は、六本木通りからスペイン大使館につながることがら「スペイン坂」と名付けられ、多くの人々に親しまれています。春には、両側の歩道に植えられた桜が坂道を被うように咲き乱れ、都心における桜の名所としても知られています。




桜坂といえば、福山雅治さんのヒット曲ですが、赤坂にも同じ名前の桜坂があります。ちなみに、アイドルグループの「櫻坂46」の桜坂は、六本木にあるけやき坂と並行するさくら坂から命名されたといわれています。

桜坂

明治中期に新しく作られた道筋で、坂下に戦災まで大きな桜の木があったことからこの名が付いた。




溜池交差点を右折して、六本木通りから外濠通りに入り、虎ノ門方向に進みます。



虎ノ門交差点の手前の緑地にふたつのモニュメントが置かれています。

溜池櫓台跡

溜池櫓台跡は、江戸城外堀に3つ設けられた隅櫓のうちの1つです。江戸城隅櫓はいずれも主要な道に面した場所につくられていました。残る2つの隅櫓は、筋違門と浅草門に所在していましたが、どちらも取り壊されており、唯一この石垣だけが現存しています。ただしこの櫓台も、以前は西側に溜池落口の櫓がもう1つあり、一対だったようです。一対の溜池櫓台は、寛永十三年(1636年)に因幡鳥取藩(現在の鳥取県)藩主池田光仲によって構築されたという記録が残っています。かつて、この地点は近世初期には外桜田門を起点とする小田原道が通り、溜池上水の起点にもなるなど、江戸城の防備と都市政策の両方にとって重要な地域でした。地形の上でも、この地点は西側に広がっていた溜池一常を見下ろすことができる位置にありました。溜池及び周辺の堀は明治時代に埋められましたが、近隣の文部科学省構内には3か所の石垣が残っており、かつての外堀の姿をしのぶことができます。

Tameike Tower Base Remains

The Tameike Tower base remains are from one of three corner towers built along Edo Castle's outer moat. Edo Castle's corner towers were all built in locations facing major roads. The other two corner towers were at Sujikai-mon and Asakusa-mon Gates, but both have been torn down, with these being the only remaining corner tower stone blocks. It seems, however, that this was only one of a pair of tower bases, and that in the past there was another tower on the west side at Tameike Ochikuchi. Surviving records show that Ikeda Mitsunaka, the feudal lord of the Inaba Tottori Domain (current-day Tottori Prefecture), built the pair of Tameike Tower bases in 1636. This area was once important for both the defense of Edo Castle and urban development, the pond being a source for the Tameike Waterworks, and by the fact that Odawara Road, which started at Soto-Sakurada-mon (Outer Sakurada Gate), passed through this spot in the early modern period. The lay of the land gave this spot a good view over the reservoir ("tameike") which stretched westward. In the Meiji Period, the reservoir and nearby moats were filled in, but stone blocks remain in three locations on the grounds of the neighboring Ministry of Education, Culture, Sports, Science and Technology, giving a glimpse of the outer moat in its past form.

新聞創刊の地

洋学者子安峻らが 当時虎の門外琴平町一番地の旧武家長屋に わが国初の本格的な大衆啓発紙読売新聞を創刊したのは 明治七年(1874年)11月2日である
江戸時代の情報伝達形式であった「読売瓦版」から名をとって題号と漢学にふりがなを施した平易な新聞として出発した 創刊のころ漢字教育を与えられていなかった市民から 町名番地にちなんで「千里を走る虎の門 ことにひらがなは一番なり」と歓迎された
維新後の東京に発祥した開明的な大衆紙から 今日に至るまで題号を変えず全国紙に発展したのは わが国新聞史上類例のないことである




虎ノ門交差点を左折して、外濠通りから国道1号(桜田通り)に入り、霞が関の官庁街を通ります。



農林水産省の庁舎の前に煉瓦造りの花壇があり、何やらプレートが貼ってあります。人形峠は岡山県と鳥取県との間に位置し、両県の県境を成す峠です。人形峠ではかつて天然ウランの採掘や精錬が行われていました。人形峠など各地のウラン探鉱活動で生じた微量の放射性を帯びた残土は約45万立方メートル、約100万トンに達しましたが、その処分方法は迷走を極めました。ようやく2006年に人形峠の鳥取県側に残土処理施設を新たに建設してレンガに加工処理を行うことになりました。2008年に処理施設が完成し、搬出された残土は日本原子力研究開発機構によってレンガに加工され、2010年12月13日までに約145万個が製造されました。一般向けには「人形峠製レンガ」として販売されています。このレンガにはごく微量のウランが含まれていますが、レンガの放射線量は花崗岩と同じ程度のため安全とされており、文部科学省の新庁舎のほか、現在までに各地で花壇や歩道の整備などに使われています。

人形峠製のレンガ

このレンガは、平成十八年の文部科学大臣・鳥取県知事・三朝(みささ)町長・原子力機構理事長の合意に基づき、鳥取県湯梨浜町(ゆりはまちょう)におけるウラン探鉱活動により生じた残土を使って、鳥取県三朝町に建設した人形峠レンガ加工場において製造したものです。この程、農林水産省の設置の許可を得て、このレンガを使った花壇の展示を開始することといたしました。レンガの安全性については、第三者機関である財団法人原子力安全技術センターに依頼して物性確認試験を行っており、一般に使用するに当たり安全上の問題はないとの確認を得ています。

独立行政法人 日本原子力研究開発機構




桜田門から先は変更前の都電9系統と同じルートを辿ります。桜川公園は、旧八丁堀川(桜川)の跡地に造成された公園です。八丁堀は、慶長十七年(1612年)に三ツ橋の十字合流地点より下流の亀島川に注ぎ、墨田川に通じる船入運河として開削されました。中ノ橋・稲荷橋の架けられた堀の長さが、隅田川合流地点より八丁(873m)あったことから「八丁堀」と呼ばれました。八丁堀河岸から茅場町方向一帯には、江戸町奉行所の与力・同心の組屋敷が集中していました。明治十六年(1883年)、八丁堀は楓川とつながっており、「秋のかえで」と対称される「春のさくら」から「桜川」と改称されました。入船川の機能は、昭和5年(1930)に開削された楓川と築地川の連絡運河に受け継がれた。八丁堀には、新桜橋・桜橋・中ノ橋・八丁堀橋・稲荷橋の五橋が架けられていましたが、昭和四十四年(1969年)の埋め立てと共に廃橋され、水路水運の役目を終えました。



日本橋蛎殻町一丁目の案内板と内容は全く同じですが、日本橋蛎殻町二丁目としても案内板が立っています。

日本橋蛎殻町二丁目 名所・旧跡案内
Nihonbashi-kakigaracho 1-chome Scenic Spots and Places of Historical Interest Information

谷崎潤一郎生誕の地
Junichiro-Tanizaki's Birthplace

明治十九年(1886年)、人形町に生まれた。日本的な伝統美に傾倒し、和辻哲郎と「新思潮」を創刊し、短編小説・戲曲を発表して王朝文化の息吹を現代に生かした新しい境地を開いた。
日本橋人形町1−7−10

鉄造菩薩頭
A head of a Buddhist saint made of iron

総高170cm、面幅54cmの鋳鉄製。鎌倉の新清水寺に存した観音像であったが火災に遭い、頭部のみ掘り出されたのち明治九年現在地に安置された。関東特有の鉄仏の中でも優秀な遺品。
日本橋人形町1-18-9

町名案内
Origin of Town Name

日本橋人形町
Nihonbashi-ningyocho

江戸時代、多くの人形師が住んでいて、人形を作り、売る店が並んでいたので、俗称で人形町と呼ばれていたのが、正式町名になりました。

旧)日本橋浪花町
Fomer) Nihonbashi-naniwacho

このあたりは慶長(1596年〜1614年)の頃、大阪方面からの回船が多く着き、町名は謡曲の難波に由来します。明治四年に難波町と同裏河岸を合併して浪花町と改称しました。

旧)日本橋芳町
Fomer) Nihonbashi-yoshicho

江戸時代の初めごろまで、ヨシなどの群生する所で、町名は江戸期の俗称です。

日本橋蛎殻町
Nihonbashi-kakigaracho

昔は漁師の小網の干し場であり、牡蠣の殻の堆積した海浜であったらしいのですが、町名の由来は明らかではありません。




浜町中の橋バス亭にやってきました。恐らくこの付近に浜町中ノ橋電停があったと思われます。森下町までは大した距離ではないので、このまま歩き続けます。



新大橋で隅田川を渡りますと、終点の森下町はすぐです。



ということで、変更後の都電9系統跡を歩き終えました。青山一丁目から桜田門までが変更前の都電9系統とルートが異なりますが、あまり大した発見はなかったですね。次は再変更後の都電9系統を歩きますが、これが変更前・変更後とかなり異なったルートをとっているんですね。終点も浜町中ノ橋から新佃島になり、途中の電停も資料がなくよくわかりません。どうなりますやら。。。




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