都電9系統(再変更後)跡コース(2)  

コース 踏破記  

<<都電9系統(再変更後)跡コース(1)の続きです>>  

銀座から有楽町に入ります。道路脇に千代田区町名由来板が立っています。千代田区の町名由来板は初めて見たかな?

千代田区町名由来板 有楽町

ぼくの有楽町 童門冬二

ぼくにとって戦前の有楽町は“高級な街”だった。朝日・毎日・読売の大新聞が毎日、知識の生産をつづけている。日劇(日本劇場)や東京宝塚劇場などの高級劇場が林立している。「山手線の環外は東京でも田舎だ」といわれていた。その環外に住むぼくにとって、有楽町はまさに“遠くに在りて思うもの”だった。それが突然「きみたちもおいでよ」という庶民的な街に変質したのは、なんといっても大阪からの「そごうデパート」の進出である。昭和三十二年(1957年)五月のことで、エスカレーターやエアカーテンが珍しかった。そして一躍その変貌ぶりをアピールしたのが、フランク永井の歌う“有楽町で逢いましょう”だ。本当はデパートのCMソングだそうだが、そんな気配はみじんもない。銀座と並んで日本の街にした。ちかくの都庁に勤めていたぼくは“すし屋横丁”の常連であり、いまでもその跡を懐かしく訪ねる。現実を超えて、有楽町はぼくの脳裡にしっかり根づいている。

有楽町

「有楽町」の名前は、戦国時代に活躍した武将織田信長の弟・織田有楽斎(長益)に由来します。茶人としても名をはせた有楽斎は関ヶ原の戦いのあと、徳川家康方に属し、数寄屋橋御門の周辺に屋敷を拝領しました。その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代に「有楽町」と名付けられたのです。その「数寄屋橋御門」の名前は、外堀を渡ると数寄屋町に通じることから生まれました。江戸時代、大岡越前による、いわゆる「大岡政談」で有名な南町奉行所があったのもこのあたりです。

Yurakucho

This neighborhood was named after Oda Urakusai, a younger brother of the Civil War Era-warlord Oda Nobunaga. Urakusai, who was also renowned as a tea master, received a residence from the shogun under whom he served after the great Battle of Sekigahara. Since Urakusai's residence was located at Sukiyabashi Gomon, the town was called Yurakucho.




有楽町のJR線ガード下の中でも人気のスポット「有楽コンコース」の一角に、「出没!アド街ック天国」でも紹介された「まんぷく食堂」という名前の昭和感満載のレトロな居酒屋があります。24時間営業なので、昼から飲める飲兵衛の溜り場になっています。お客さんも多国籍ならメニューも多国籍で、ナポリタンにキムチをトッピングした”ナポリ&キムチ”はもはやどこの国の料理か分からなくなる味です。お店の内外には昔の映画のポスターが沢山貼ってあったり、何故か(ミルクホールの暖簾もかかっていますが)雪印牛乳の看板とか理容所のサインポールなども飾られています。要するに雑多な雰囲気なのです。



雑多なお店の立ち並ぶガード下から数分も歩けば、そこには別世界のような高級ホテルのザ・ペニンシェラ東京があります。入口の脇には紛うことのないロールス・ロイスが駐車しています。ザ・ペニンシェラ東京の屋上にはヘリポートが設置されていて、宿泊客がホテルと成田空港などを行き来することができるようになっていますが、未だ営業免許が取得できていないためにヘリコプターを使った送迎はできないとのことです。その代わり、空港送迎などに利用できるハイヤーが各車種用意されています。ロールス・ロイス・ファントム・エクステンデ ット・ホイールベースは、英国南部グッドウッドにあるロールス・ロイスの本社工場において、熟練した職人の手により一台一台が手作業で製造され、ロールス・ロイス伝統の特別オプションシステム「ビスポーク・プログラム」を通して、ペニンシュラ独自の要件に応えた特別仕様となっています。人生に一度くらいはロールス・ロイスの後部座席にふんぞり返ってみたいものです。



日比谷交差点を渡り、日比谷公園に沿って桜田門交差点に向います。江戸城に設けられた門のひとつである桜田門は外桜田門と呼ばれています。江戸城には内桜田門という名前の門もあって、こちらは和田倉門から入った江戸城本丸のすぐ手前にあります。同じ桜田門でも場所はかなり離れています。

旧江戸城 外桜田門

現在この門は桜田門と呼ばれますが、正式には外桜田門といい、本丸に近い内桜田門(桔梗門)に対してこの名が付けられました。古くこの辺りを桜田郷と呼んでいたことに由来します。外側の高麗門と内側の渡櫓門の二重構造からなり、外枡形という防御性の高い城門で、西の丸防備のため異例の大きさで造られました(320坪)。建築されたのは寛永年間(1624年〜1644年)とされ、現存する門は、寛文三年(1663年)に再建された門がもとになっています。大正十二年(1923年)の関東大震災で破損し、復元されました。万延元年(1860年)三月三日、この門外で大老井伊直弼が水戸藩脱藩士に暗殺されました(桜田門外の変)。

Sotosakurada-mon Gate of Edo Castle

Currently called Sakurada-mon, this gate is officially named Sotosakurada-mon, soto meaning "outer" as opposed to the "Uchisakurada-mon or "inner" Gate (Kikyo Gate) near the citadel. These gates were named Sakurada-mon because the area was called Sakurada-go (town) in the past. The Sotosakurada-mon Gate has a dual structure consisting of the Korai Gate on the outside and the Watariyagura Gate on the inside with a square in-between. It covers an exceptionally large area (approx. 1,056 m2) as a highly defensive castle gate for the Nishinomaru (west compound). The Sotosakurada-mon Gate was originally built in the Kanei era (1624 to 1644), while the existing gate is based on a gate reconstructed in 1663. The gate was damaged by the Great Kanto Earthquake in 1923 and repaired it. On March 3, 1860, the Japanese Chief Minister Tairo li Naosuke was assassinated by a group of samurai who seceded the Mito-han feudal state outside of the Sotosakurada-mon Gate in an event known as the Sakuradamon Incident.




外桜田門は外枡形をしていて、内堀通りに面した外側の門は「高麗門」と呼ばれています。内側の門は「渡櫓門」で、このふたつの門が一組になって外桜田門を構成しています。

外桜田門

桜田の名は、この地が古代に桜田郷と呼ばれていたことに由来し、江戸の主要道が通過する場所でした。徳川家康入国直後の絵図にこは「小田原口」と記載されています。門周辺の石垣は、慶長十九年(1614年)真壁(現在の茨城県)藩主浅野長重によって築かれ、寛永年間(1624年〜1644年)に門が建築されました。門の周囲には、有力外様大名の屋敷が多くありました。万延元年(1860年)の桜田門外の変は、彦根藩(現在の滋賀県)藩主で大老の井伊直弼が屋敷から登城中に水戸浪士に襲撃された事件です。大正十二年(1923年)の関東大震災で門が壊れましたが、再建され現在に至っています。

Soto Sakurada-mon Gate

The name of this gate is derived from the fact that this area was called "Sakuradago" in ancient times. It was a passing place on one of the main routes through Edo(Tokyo). In an illustration of the scene immediately after Tokugawa Ieyasu entered the area, "Odawara Guchi Entrance" is noted. The stone walls surrounding the gate were built by the feudal lord of Makabe Han (now Ibaraki Prefecture), Asano Nagashige, in 1614, and the Sotosakurada-mon Gate was originally built in the Kanei era (1624 to 1644). Many residences of powerful tozama daimyo (feudal lords who had not originally supported the ruling Tokugawa house) stood around the gate. In 1860 the "Incident Outside the Sakurada-mon Gate," or the "Sakurada-mon Incident," saw an attack on li Naosuke, the feudal lord of Hikone Han (now Shiga Prefecture) and a chief minister (Tairo), by masterless samurai (roshi) from Mito Han as he left his residence to enter the castle. The gate was damaged in the Great Kanto Earthquake of 1923, but was rebuilt and still remains today.




桜田門交差点を左折し、霞が関の官庁街を進みます。警視庁・法務省・裁判所と司法関係の建物が集まっています。



霞が関の官庁街を抜け、虎ノ門交差点を渡った先に虎ノ門金刀比羅宮(ことひらぐう)があります。金刀比羅宮は万治三年(1660年)、讃岐丸亀藩の藩主京極高和が芝・三田の江戸藩邸に金毘羅大権現を勧請し、その後延宝七年(1679年)に丸亀藩江戸藩邸の移転とともに現在の虎ノ門に遷座しました。香川県にある総本宮の金刀比羅宮は「さぬきのこんぴらさん」という愛称で呼ばれ、長く続く参道の石段は本宮まで785段、奥社までだと1368段あるそうです。丹沢の大山阿夫利神社の男坂といい勝負ですね。



愛宕通りから見た虎ノ門ヒルズは普通の建物ですが、桜田通りから見ますと1階部分にトンネルの開口部があります。築地虎ノ門トンネルの出入口です。周辺は未だ工事中のところが多いのですが、全ての工事が終わった暁には東京の新たなランドマークになることでしょう。



虎ノ門三丁目交差点の先に芝地区旧町名由来板が立っています。この辺りは起伏が激しかったようで、愛宕神社が鎮座する愛宕山は標高が25.7mであり、自然の山としては23区内の最高峰となっています。ちなみに、23区内で標高が元も高いのは新宿区の戸山公園にある箱根山です。愛宕山は自然の山ですが、箱根山は池を掘った残土で造られた人工の山になります。

芝地区旧町名由来板

The origins of old town names in Shiba area.


This signboard guides the origins of old town names, each of which in most cases represents its own history of the beginning or the location.

西久保巴町

愛宕山の西北麓に位置する町域です。慶長十三年(1608年)に天徳寺門前、および元禄年間(1688年〜1699年)に下谷町と車坂町の代地となり、西久保新下谷町・西久保車坂町と唱えました。明治五年(1872年)、浜田藩松平右近将監屋敷・西久保新下谷町・西久保車坂町・天徳寺地・同門前町および幕士の屋敷を合併して、新たに西久保巴町となりました。町名は、町内が南は神谷町境に延び、東は北西に屈曲し巴の形によく似ていることに由来します。

Nishikubotomoe-cho

Consisting of both Nishikuboshinshitaya-cho and Nishikubokurumazaka-cho during the Genroku period (1688-1699), the town area was situated at the northwestern foot of Atagoyama hill. In the 5th year of the Meiji period (1872) both the towns were united to develop into a single town named Nishikubotomoe-cho, including near-by samurai residences, a temple territory and its town. "Tomoe" of the town's name meaning a comma-shaped heraldic design, it got the name because its area shape resembled the design.

葺手町

西久保巴町と西久保城山町とに挟まれ、西方は赤坂区および麻布区に接しています。 むかしは幸橋門外の二葉町の続きにありましたが、元禄四年(1691年)に用地を召し上げられ、西久保の土取場に代地を与えられました。土取場とは土木用の土砂を取り崩した場所をいい、葺手町と城山町の間の道を入った崖下にありました。町名の由来はあきらかではありませんが、町の状況から屋根職人の人が多く居住した町と推測されます。

Fukide-cho

The town moved to this substitute land in the 4th year of the Genroku period (1691) because the original site was seized by authority. It was sandwiched in between Nishikubotomoe-cho and Nishikuboshiroyama-cho, adjacent to Akasaka Ward and Azabu Ward in the west of the town. It is unknown how this town got its name. However, judging from the town's name or according to other information available, many roofers seem to have resided in this town.

西久保城山町

西久保通りから葺手町と神谷町との境の道路に入ると、左手に西久保城山町があります。もとは、葺手町の土岐邸から町内へかけてを俗に城山と呼び、むかし、ここに熊谷次郎直実、あるいは太田道灌が城砦を築いたという伝承があります。 明治五年(1872年)に池田甲斐守・小堀大膳・大久保隼人等、諸幕士の屋敷を合併して、新たに町名を西久保城山町としました。

Nishikuboshiroyama-cho

Legend has it that Kumagai Jiro Naozane or Ota Dokan constructed a castle (shiro) here in old times, and therefore this place was popularly called "Shiroyama" (castle mountain). In the 5th year of the Meiji period (1872) it was formally named Nishikuboshiroyama-cho, uniting near-by samurai residences.




神谷町から続くゆるやかな坂道を登り切って飯倉交差点を右折します。交差点の少し先に都内では珍しいベラルーシの家庭料理を出す「ミンスクの台所」という名前のレストランがあります。「ミンスク」はベラルーシの首都で、「ミンスクの台所」は2002年にオープンしたベラルーシの家庭料理のレストランです。レシピを全くアレンジせず、数多くあるベラルーシ料理の中から日本人の口にあったものだけをメニューに取り入れて家庭の味を再現しているのだそうです。スタッフは全員旧ソ連諸国の出身であるのも特徴のひとつで、ベラルーシ本場の味をグルジアやモルドバのワイン・ロシアのウォッカなどの珍しいお酒と一緒に楽しめるとのことです。



飯倉といえばロシア大使館ですね。東西冷戦時代はソビエト連邦大使館だったのですが、さすが今でも厳重な警備体制が敷かれています。



大使館は小高い台地の上に建っていますが、その脇の坂を狸穴坂といいます。偶然ですが、狸は元々極東にのみ生息する世界的に見れば珍しい動物でしたが、1928年に毛皮目的で旧ソビエト連邦に移入され、その後に北ヨーロッパや西ヨーロッパへも分布を拡大しました。ロシア大使館がこの地に建てられたのは何かの縁かもしれません。

狸穴坂(まみあなざか)

まみとは、雌ダヌキ・ムササビまたはアナグマの類で、昔その穴(まぶ)が坂下にあったという。採鉱の穴であったという説もある。




ロシア大使館のはす向かいには飯倉ビルが建っていました。建物の大きさもさることながら、クラシックな外観でかなり目立った存在でした。それが消えてしまっています。飯倉ビルの建物は昭和五年(1930年)に竣工した旧逓信省貯金局の庁舎で、設計は大蔵省営繕管財局、施工は銭高組でした。昭和十八年(1943年)から逓信本省庁舎として使用され、昭和二十四年(1949年)に二省分離(郵電分離)により発足した旧郵政省が昭和四十四年(1969年)7月まで郵政本省庁舎として使用していました。平成三十一年・令和元年(2019年)に飯倉ビルを含む一帯を再開発する「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」の開始に伴って解体されました。外苑東通りから見ますと、飯倉ビルの跡地に新しいビルが建つように見えますが、実はこの再開発事業はとんでもない規模なのです。桜田通り・外苑東通り・麻布通りに囲まれた広大な敷地で進められていて、全体の敷地面積は約63,900u、延床面積は約860,400uにも及びます。飯倉ビルの跡地に建つのは、地上64階・地下5階・高さ325m・床面積461,395uのメインタワーです。この他にも2棟の超高層ビルが建てられます。2019年8月5日に着工し、2023年3月末に竣工する予定です。メインタワーは、高さ300mの「あべのハルカス」を抜き、日本一の超高層ビルになりますが、2027年9月には東京駅近くに高さ390mの「TOKYO TORCH」ビルが完成する予定なので、日本一の期間は4年半ほどになる見込みです。


左はA街区に建設中のメインタワー、右は全体の配置図です。


飯倉片町交差点の手前に、首脳会談や外相会談の他に各種会議やレセプションなどの交流活動にも利用されている外務省飯倉公館(飯倉別館)があります。建物のある場所の地名は麻布台ですが、名称に冠した「飯倉」はこの地の歴史的名称「飯倉町」に由来しています。江戸時代幕末期の開国以来の外交資料を保管し展示する外交史料館を併設しています。



飯倉片町交差点から六本木交差点までの区間には、かってディスコやナイトクラブが乱立していました。中でも六本木共同ビル(通称、六本木ロアビル)はその象徴的な存在でした。1980年代後半の六本木ディスコブームを牽引し、2016年には20余りの店舗を持つ「六本木横丁」が開業しました。しかし耐震性をクリアできず、現在は各テナントが撤退を進めています。ですが、現在も一部のテナントが営業を続けていて、ビルの具体的な解体時期は公表されていません。



六本木交差点の手前に「ズワイガニ・生ハム食べ放題」の看板を出しているお店があります。「食べ放題」という言葉にめっぽう弱い私ですが、さすがに六本木の高級店での食べ放題には入るのに躊躇します。「ダイニングバル コダマ Steak Crab」は、2019年11月16日にオープンした、総合食品メーカーのコダマが運営するレストランです。肉のプロが目利きした肉料理とアメリカ西海岸より仕入れた蟹料理が売り物です。ランチでは、ステーキ・蟹(パエリア、コロッケ、サンドイッチ)・肉(ハンバーグ、フォアグラごはん他)・パスタ(ミートラザニア、蟹のカルボナーラ)・スープといったカテゴリーが揃えられています。どれを頼んでもサラダビュッフェとドリンクバーが付きます。



六本木交差点の手前に緩やかな下り坂があります。長さは60mほどのほぼ直線の短い坂で、坂を下っていくとそのまま芋洗坂につながっています。

饂飩坂(うどんざか)

天明年間末(1788年)頃まで松屋伊兵衛といううどん屋があったために、うどん坂と呼ぶようになった。昔の芋洗坂とまちがうことがある。




六本木交差点の角に昭和二十九年に創業以来、60年以上続く老舗のイタリアンがあります。入口は地上ですが、お店はアマンドの地下にあります。フロレンス風サラダのホワイトアスパラガスが絶品だとか。



東京ミッドタウンは2007年3月30日に開業しました。オフィス・ホテル・ショップ・レストラン・美術館・レジデンス・医療機関・公園・緑地など、多様な施設から構成されています。最も大きな構造物であるミッドタウン・タワーは地上54階・地下5階・高さ248mで、それまでの東京都庁第一庁舎に代わり都内で最高層のビルとなりました。遡れば、この地には1641年から1871年まで萩藩毛利家の屋敷があり、明治時代に陸軍の駐屯地となり、終戦後の1946年からアメリカ合衆国に接収されて米軍将校の宿舎として使用されました。サンフランシスコ講和条約発効後の1960年に日本に返還され、1962年から陸上自衛隊の檜町駐屯地になると共に、防衛庁の本庁檜町庁舎(防衛庁檜町地区)も設置されました。平成九年(1997年)に防衛庁本庁が市ヶ谷に移転したことに伴い、その跡地が東京ミッドタウンになりました。



外苑東通りは青山通りと交差する直前でクランク状に曲っています。



青山一丁目交差点の手前の道路脇に変わった形の石碑が置かれています。四角い石のオブジェは消防の纏を意味しているのでしょうか?

赤坂消防署発祥之地

赤坂消防署は、この地に大正十五年に誕生し、以来昭和三十年までの間地域と一体となって、協力と和のもとに防災の拠点としてその任務を果たした。




都電9系統は青山一丁目交差点を左折して渋谷に向います。交差点の角にホンダ本社があり、1階にはショールームが開設されています。今年はF1参戦最終年ですが、ホンダエンジンを搭載したF1カーは絶好調のようです。今年は、スクーデリア・アルファタウリ・ホンダ・チームに久々の日本人ドライバーである角田裕毅が加わりました。同じくHondaのパワーユニットを搭載するレッドブル・レーシング・チームは、マックス・フェルスタッペンが第5戦(モナコGP)終了時点でドライバーランキングで1位になっています。2015年の再参戦当初はボロボロだったのですが、絶頂期を前にしての撤退は残念としかいいようがありません。



せっかくなので、ショールームを見学することにします。中には本物のF1カーが展示してあり、全て記念すべき節目の年に走った車です。それぞれの車の横に解説板が置かれています。最初は、シャシー・エンジンを含め全て自社製造しフルワークス体制でチームとして参戦した1964年から1968年までの第1期の中で使われたRA300です。

6週間でできないか。 サーティースの提案が生んだ新マシン

排気量規定が3リッターに変更された1966年。Hondaが投入したRA273は、パワーでは他チームを圧倒したが、車両重量は規定より150kg以上もオーバー。抜本的な軽量化が必要な深刻な事態となっていた。その状況を打破したのは、翌1967年にフェラーリからドライバーに迎えた、世界チャンピオン経験者のジョン・サーティース。アルミモノコックのノウハウが豊富なローラ・カーズ社と関係があったサーティースの仲介により、 シーズン終盤に急きょ、Hondaはローラとともに新マシンを製作。インディ500用ローラT90のモノコックに、RA273のエンジンをマウントした新マシンは、RA273より60kg近くの軽量化を実現。起死回生の願いを込め、”RA274”ではなく、”RA300”と名付けられた。わずか6週間でつくりあげたRA300は、ほとんどテストができないまま第9戦イタリアGPに投入されたが、2位を0.2秒差で制する劇的な勝利を収めHondaにF1での2勝目をもたらした。




2番目は、1983年から1992年までエンジン供給を行った第2期の中で使われたLotus99Tです。

伝説のチャンピオン“セナ”との結束、日本人レギュラードライバー“中嶋”誕生!

1987年、Williamsに独占供給されていたHondaのV6ターボエンジンはLotusにも供給される。前年、アイルトン・セナは、レース中にホンダエンジンを積んだWilliamsに抜かれ、「これからはHondaの時代になる」と直感。次代のチャンピオン候補とHondaのタッグが誕生した。チームメイトは、日本人初のレギュラードライバー中嶋悟。その奮闘ぶりは海を越えて伝わり、日本はF1ブームに。鈴鹿サーキットで初開催となった日本GPは、ファンと中嶋応援横断幕で観客席が埋め尽くされた。中嶋が6位でチェッカーを受けるとグランドスタンドは大歓声に包まれ、ウィニングランではスタンディングオベーションがサーキットを1周。文字通りファンとともに駆け抜けた母国グランプリとなった。この年限りでHondaはWilliamsへの供給を打ち切り、翌1988年からセナの移籍先であるMcLarenとパートナーシップを締結。未だ塗り替えられない、16戦15勝という驚異的な記録を打ち立てることとなる。




3番目は、当初エンジン供給の形で始まり、後にフルワークス体制のホンダF1チームに移行した2000年から2008年までの第3期の中で使われたRA106です。

長い夢が現実に! バトン歓喜の初優勝

38シーズンぶりに完全ワークスチームとして参戦した2006年。ジェンソン・バトンが開幕から入賞を重ねつつも中盤戦ではリタイアも増えていたなか、第13戦ハンガリーGPで歓喜の瞬間を迎える。決勝当日、前夜から降っていた雨はいったん止んだものの、路面は完全にウエットからスタート。しかし、タイヤ選択の妙もあり、バトンのしなやかなドライビングが微妙な路面コンディションのなかで威力を発揮。ファステストラップを連発し、スタート時の14番手から徐々に順位を上げ27周目には2位へ。そして51周目、首位のフェルナンド・アロンソがコースアウト。バトンはそのまま快走を続け、ついにトップでチェッカーフラッグを受ける。バトンF1デビュー7年目、待望の初優勝を挙げた。その後、国内GTレースでも活躍したバトンにとって、Hondaマシンにおける最初の1勝でもあった。




最後は、エンジンとエネルギー回生システム(ERS)をパッケージにしたパワーユニットのサプライヤーとして参戦している2015年から2021年までの第4期の中で使われたRB15です。

「僕ら」がやったんだ! フェルスタッペンとともにつかんだ優勝

2019年、PUサプライヤーとして、Scuderia Toro Rossoに加え、Red Bull RacingへRA619Hを供給。開幕戦オーストラリアGPでHonda F1復帰後初の表彰台である3位獲得を皮切りに、着実にポイントは獲得するものの、表彰台にはあと一歩届かずというレースが続く。しかし、Red Bullの本社があるオーストリア・レッドブルリンクで迎えた第9戦。マックス・フェルスタッペンは31周目にタイヤ交換を終えると、前を行く2台を次々とパスし2位に浮上。その後トップのシャルル・ルクレールと激しい攻防を繰り広げるもオーバーテイクに成功し、そのままフィニッシュ。F1復帰以来、長く苦しい道のりを歩んできたHondaにとって、念願の初優勝だった。第20戦ブラジルGPでは、ポールポジションを獲得したフェルスタッペンが終始力強いペースを発揮し、盤石の速さで勝利。2位にはピエール・ガスリーが続き、本田宗一郎の誕生日である11月17日に、Honda F1として1991年以来の1−2フィニッシュを飾った。



写真の車は2020年モデルのRB16みたい。


ネットの情報によれば、都電9系統の渋谷電停は何度かの移動を繰り返した後で、現在の渋谷ヒカリエ前辺りに落ち着いたみたいです。私はそこから往復共に宮益坂を経由していたんだろうと思っていましたが、実は都電9系統は渋谷駅前でループ状の線路になっていたのだということが後で分りました。渋谷に向う電車は青山通りから玉川通りに抜ける金王坂を下り、右折して渋谷電停に向かいました。そして、浜町中ノ橋行きの電車は渋谷電停を出発してから地下鉄銀座線の高架の下を通り(地下鉄なのに線路が道路の上にある!)、宮益坂下交差点で右折して宮益坂を登って行ったのです。そんな訳で、渋谷電停跡だと思っていた東口の都営バス乗り場に到着しました。



ということで都電9系統(再変更後)を歩き終えました。今までと逆向きに歩くのも視点が変わって新鮮でいいですね。ホンダのショールームで、たまたま展示されていたF1カーの実物を見れてラッキーでした。2003年にモンツァ、2004年にホッケンハイム、2005年にシルバーストーン、2006年にマニクールとF1観戦したのが今となっては夢のようです。シルバーストーンの「Whittlebury Hall」というサーキットホテルに泊まった時は、アロンソやバリチェロなどのF1ドライバーと共に、多数のF1関係者が宿泊していました。ブリジストンの浜島裕英さんと間違えられたのか、ホテルの入口で現地の子供からサインを求められました。イギリスの人にとっては肌色が黄色いだけで日本人の顔は皆同じに見えたんですかね?体形は確かに似ていましたが。。。




戻る