- 都電10系統(変更後)跡コース
- コース 踏破記
- 今日は都電10系統(変更後)跡を歩きます。都電10系統(変更後)は渋谷駅から須田町までを結び、その路線は主に国道246号(青山通り)・外苑東通り・新宿通り・外濠通り・靖国通りを通っていました。沿線には名所・旧跡が数多くあります。須田町電停は多くの都電の発着所になっていました。
都電10系統(変更後)(昭和38年10月01日から運転)
都電10系統は、昭和38年10月01日から路線が変更され、最終的に昭和43年9月28日限りで廃止となりました。変更前の都電10系統跡については、独立した路線として歩きます。都電10系統の経路が変更されたのは、青山一丁目から三宅坂の区間と半蔵門から九段上までの区間の番町線の線路が撤去されたからです。昭和三十九年(1964年)に開催された東京オリンピックに伴う道路整備のためというのがその理由でした。ところで、今回歩く都電10系統(変更後)ですが、変更前の都電10系統と異なるのは青山一丁目電停から九段上電停までの区間です。そのため、重複する区間は新たな見所があったところを中心に追記することにします。
都電10系統(変更後)の電停(路上の駅)は、渋谷駅・青山車庫・青山六丁目・明治神宮・青山五丁目・青山四丁目・青山三丁目・青山一丁目・権田原・信濃町・左門町・四谷三丁目・四谷二丁目・四谷見附・本塩町・市ヶ谷見附・一口坂・九段三丁目・九段上・九段下・専修大学・神保町・駿河台・小川町・淡路町・須田町でした。
ネットの情報によれば、都電10系統の渋谷電停は何度かの移動を繰り返した後で、現在の渋谷ヒカリエ前辺りに落ち着いたみたいです。私はそこから往復共に宮益坂を経由していたんだろうと思っていましたが、実は都電10系統は渋谷駅前でループ状の線路になっていたのだということが後で分りました。渋谷に向う電車は青山通りから玉川通りに抜ける金王坂を下り、右折して渋谷電停に向かいました。そして、須田町行きの電車は渋谷電停を出発してから地下鉄銀座線の高架の下を通り(地下鉄なのに線路が道路の上にある!)、宮益坂下交差点で右折して宮益坂を登って行ったのです。そんな訳で、今日は渋谷電停跡だと思っていた東口の都営バス乗り場からスタートします。渋谷スクランブルスクエアビルの窓硝子は巨大なスクリーンになっています。スクリーンの裏側で仕事をされる人にはどのように見えるのでしょうか?
変更前の都電10系統でもご紹介したのですが、御嶽神社で新たな案内板を見つけました。明治天皇が駒場野の練兵場を視察された際に御嶽神社で休息をとられ、それを記念したもののようです。
明治天皇 御嶽神社御小休阯
ここは、明治三年四月十七日、明治天皇駒場野の練兵場天覧御幸の際、御往復供、当御嶽神社拝殿を御座所に当てられ、御小休所となった所であります。当日は、午前五時御乗馬にて、皇居を御出発され、外桜田より赤坂をお通りになり、吉井友謹邸で御小休、更に御板輿に御移乗になり、当御嶽神社に於て再び御小休、御召換になり、御乗馬にて騎馬野練兵場に向われました。午前八時駒場野御着、午前九時燈火(花火)一発を合図に、練兵を御覧になり午後三時に終了致しました。午後四時、号砲一声還御となり、前軍より次第に列を進められ、御嶽神社・吉井邸にて各々御小休され、午後六時還幸になりました。翌十八日、明治天皇の思召により、当神社に鳥居及び駒寄せの御奉納がありました。昭和十四年二月、明治天皇聖蹟記念碑を建立しました。
こどもの城は、青山通り沿いの都バス車庫(旧都電青山車庫)跡に建設された施設でした。昭和五十四年(1979年)、国際児童年を記念して厚生省が構想を作成し、昭和六十年(1985年)に新生児から高校生までの子どもたちの福祉と文化活動の拠点を目指し開館しました。建物の正面には岡本太郎作のシンボルモニュメント「こどもの樹」を設置しました。しかし、建物の耐震化の費用や子供を取り巻く社会情勢の変化などの諸事情により平成二十七年(2015年)2月1日に閉館し、現在は建物の周囲は工事用の塀で囲まれています。ですが、岡本太郎作の「こどもの樹」は今でも囲いの外にあって自由に見ることができます。このモニュメントは今後どのように処遇されるのでしょうか?
表参道交差点から入った路地の奥に善光寺というお寺があります。現在の青山は江戸時代には善光寺の門前町でした。一帯には各大名家の下屋敷が存在し、大山道(現在の青山通り)も通っていました。創立当初の善光寺は尼寺で、かつては谷中にありました。谷中の伽藍は元禄十六年(1703年)11月29日に小石川水戸邸を火元とする大火(元禄地震による火事)によって焼失し、その後徳川吉宗から青山に朱印地を拝領し、現在の場所に間口75間・奥行100間の堂宇を新築して宝永二年(1705年)12月に移転してきました。境内の桜が満開になっていますね。
青山一丁目交差点を左折し、赤坂御用地の石塀に沿って進みます。御用地の桜も満開になっていますね。
赤坂御用地の端に権田原交差点があります。名前からして何かいわれがありそうです。権田原はこの付近で古くから使われていた地名で、「権田」姓の人物が居住したことに因むとされていますが、その人物については、幕府代官権田隼人をはじめ、複数の人物が候補に挙げられているそうです。他に、道を尋ねられた農夫が誤って「権太でございます」と名乗ってしまったことに由来するという俗説も伝えられています。正保元年(1644年)、雉子橋門外から屋敷地を移された大石某三名に代地として与えられたことから、権田原三軒屋町の町名が起こり、その後は甲府宰相徳川綱重の屋敷地などにもなりましたが、幕末まで権田原三軒屋町の町名は変わりませんでした。明治五年に青山権田原町という町名に改称されますが、昭和四十一年の住居表示条例の施行により権田原の町名は消失しました。現在では、バス停の他にこの交差点に権田原の名が残っています。
明治記念館は、港区元赤坂二丁目にある総合集宴会施設で、明治神宮に附属する結婚式場として知られています。明治記念館は、明治期初頭に建てられた赤坂仮御所の別殿で、ここで大日本帝国憲法と皇室典範の草案審議の御前会議が行われました。その後、この建物は憲法制定の功績で明治天皇から伊藤博文に下賜されることになり、大井の伊藤邸内に移築されました。伊藤の死後、明治神宮外苑に再移築され、この時に「憲法記念館」となりました。戦後の昭和二十二年(1947年)に、リコー三愛グループの創始者である市村清の主導により、憲法記念館を「明治記念館」と改名し、現在では結婚式の会場のほか、宴会場・会議施設としても利用でき、レストラン等も併設しています。
信濃町といえば、慶應義塾大学附属病院ですよね。慶應義塾(現在の慶應義塾大学)創設者の福澤諭吉が研究を支援していた北里柴三郎(初代病院長)の尽力のもと、大正九年(1920年)に開院しました。現在では、一日の外来患者数3,000人、病床数960床の都内でも有数の規模を誇っています。石原裕次郎・夏目雅子・藤子不二雄・岡本太郎・遠藤周作・田中角栄・坂井泉水など、多くの芸能人・著名人・政治家も利用しました。
信濃町煉瓦館は、信濃町駅前に独特の外観で建っているドーム型デザイナーズ賃貸マンションです。最初見た時は奇抜な形状から何かの記念館かと思ったのですが、実は賃貸マンションとオフィスが同居する建物なのです。慶應義塾大学病院のすぐ隣に立ち、落ち着いた住環境なので住みやすいとの評判です。横から見るとよくわかりますが、レンガ部分は外側の壁部分のみとなっています。1995年に建てられ、清水建設が施工しました。外壁があまりに大きいので、歩道を歩いているときは建物というよりレンガの壁のように感じます。この建物は、かっての慶応病院の食養研究所跡に建てられたそうです。最近造られた建物のわりには、デザインとレンガの素材がレトロな雰囲気を作り出しています。チューリッヒ生命の建物らしいのですが、日本クレジット産業協会・日本機械学会・国際医学情報センターなど、オフィスとしても使われています。地下1階には鮨處八千代のお店もあります。設計者の清水建設の大山尚男氏は、「ゼネコンにとって煉瓦は難しい素材でみんな痛い目にあってきた。私は煉瓦の風合いが好きでたまらず、勉強を重ねました。信濃町煉瓦館の場合は、韓国から輸入されたまま何かの事情で山積みで放置されていた煉瓦が目に留まって使いたくなった」と語っています。
四谷三丁目交差点を右折して新宿通りに入ります。正面の建物は消防博物館が附属した四谷消防署です。消防博物館には江戸時代からの消防の歴史がその時代の消火道具・機器とともに紹介されています。また、消防車や消防ヘリコプターなどの実物も展示されています。
杉大門通りは、新宿通りと外苑東通りを結ぶ250メートルほどの短い通りです。小料理店や寿司店・スペイン料理店・中華料理店・インド料理店・ビストロ・居酒屋・スナック・バーなど約100店舗が軒を連ねています。杉大門通りは閉店する店があっても必ず代わりの新しいお店で埋まるそうです。昔は物販の店が多かったそうですが、今は9割が飲食店となっている「大人の街」です。
杉大門通り
江戸時代、この地の北にある全勝寺には大門があり、門に至る横町には杉の並木があった。
車力門通りは、江戸時代に松平摂津守の上屋敷があり、屋敷内に物資を荷車で運んでいたことからこの名称が付いたようです。通りの入口の門柱には、荷車を引いた人物のレリーフが飾り付けられています。
車力門通り
江戸時代、荒木町が松平摂津守の屋敷だった頃、「車力門横町」と呼ばれ、物資が屋敷へ荷車で持ち込まれていた。
四谷二丁目付近の新宿通りから、曙橋付近の靖国通りまでを南北に結ぶ通りが「津の守坂通り」です。新宿通り四谷方向と靖国通り新宿方向・外苑東通り牛込方向を結ぶ近道として利用されています。三栄町交差点から合羽坂下交差点までの通りの北半分が津の守坂と呼ばれる坂であるため、この通称が付けられました。「津の守坂」の名称は、江戸時代に隣地(荒木町周辺)に尾張徳川家の分家である美濃高須藩主・松平義行(摂津守)の上屋敷があったことに由来します。この屋敷には滝を伴った大きな池があり、この池で徳川家康(義行という説もある)が乗馬用の策(ムチ)を洗ったことから「策の池」と呼ばれました。明治時代には屋敷が退いて池や庭園が一般にも知られるようになり、荒木町一帯は東京近郊でも名の知られた景勝地となり、料理屋が軒を連ね芸者らが行き交う風情ある花街となりました。最盛期を迎えたのが関東大震災後で、他の花街が被災し客が荒木町に流れ、料理屋13軒・待合63軒・置屋86軒・芸妓252名の規模にまでふくれあがりました。しかし、太平洋戦争によって花街の営業が縮小され、昭和二十年(1945年)に空襲で壊滅し、戦後復興するも昭和四十年代(1966年〜1975年)には衰退し、昭和五十年代末(1980年代前半)に終焉しました。町域内には今でも車力門通りや杉大門通りの通り沿いや路地裏などに各種飲食店が多く見られ、かつての花街の風情の余韻を感じることができます。また「策の池」も規模はかなり縮小しましたが、現在でも津の守弁財天のところに残っています。昭和三十年代の雰囲気を色濃く残した町を訪れる人は今でも多くいます。
津の守坂通り
江戸時代、荒木町が松平摂津守の屋敷だった頃、「車力門横町」と呼ばれ、物資が屋敷へ荷車で持ち込まれていた。
「しんみち通り」は、四谷見附交差点のすぐ傍に位置し、外堀通りと直角に接して新宿方向に伸びているわずか100mほどの短い路地で、四谷駅前地区の中心的歓楽ゾーンとなっています。この通りは車一台が通れるほどの道幅しかなく、日中は飲食店が建ち並んでいるだけの大して特色のない通りに見えますが、夜になると町の雰囲気は一変します。焼鳥屋・割烹・小料理屋・カラオケスナックなどの店も多いので、地域や隣接地の麹町方面から人が繰り出してきて飲食街らしい賑わいをみせます。飲食街としての性格を強めだしたのは、昭和三十九年の東京オリンピックの頃からで、それ以前は八百屋・魚屋・履物屋・床屋などの店が多く、新宿通りよりも遙かに賑やかな地域の商店街としての存在でした。しかし、今ではビル化が進んで店舗数は約120店ほどになり、このうちの8割が飲食店舗になっています。飲食店舗には、喫茶・中国料理・洋食レストラン・西洋料理などの他、メキシコ・スリランカ・アジア・アフリカ料理などのエスニック料理の店も見かけられます。この他には、スペイン料理の店やフランスやドイツのワインハウスもあります。路地裏の飲食街にこれだけの外国料理の店が存在するのは珍しいといえます。
四谷見附交差点を左折し、外掘通りに入ります。この辺りの町名は本塩町になりますが、1943年に市谷本村町の南西部・市谷七軒町・四谷塩町一丁目を合わせて本塩町が誕生した際、それぞれの町名の一部をとって合成した地名になっています。かつては都電3系統・12系統の電停として「本塩町」がありました(町名成立前は「本村町」)。外堀通りの道幅が狭かったことから、1970年に都電が廃止されるまで道路上に乗り場はなく、車道から直接乗降していました。1980年に都営地下鉄新宿線が開通したのに合わせて外堀通りを通る代替バスも廃止され、「本塩町」のバス停も消滅しました。都電の電停と都バスの停留所は、現在の雪印乳業本社前付近にありました。本塩町の外堀通りに面した一帯は最近再開発され、コモレ四谷という名称の超高層ビルを含む複合施設に生まれ変わりました。2.4haに及ぶ敷地の中心に聳えるオフィス棟は30階建ての四谷タワーで、2020年1月31日に竣工しました。コモレ四谷には、オフィス・住居・商業・教育・公益の各施設のほか、災害時には帰宅困難者の一時滞在場所や地域住民の一時集合場所機能となる緑ゆたかな空間が設けられています。名称の「CO・MO・RE(コモレ四谷)」は、大規模複合施設が人とつながり、街とつながり、いつでも憩いと賑わいで溢れる施設に成長させたいとの思いを込めた、「木漏れ日:コモレ」と「COMMON:共同・共通」をかけた造語で、公募により募った案から地権者が投票して決定しました。
今年は例年にも増して桜の開花が早かったですね。既に葉桜になっているところもありますが、お花見の名所として知られる外堀通り沿いの桜並木は今が満開のようです。お濠の水とピンクの花がよく合います。
市谷見附交差点を右折し、外堀通りから離れて市ヶ谷橋を渡ります。
市ヶ谷橋
この橋を市ヶ谷橋といいます。市ヶ谷門に架かる見附橋です。門は寛永十三年(1636年)森長継の担当で建造され、市ヶ谷への出口であったことから門の名となり、橋の名ともなったのでしょう。また門は「市ヶ谷」・「一ケ谷口」ともかかれています。市ヶ谷の名は、市ヶ谷孫四郎の領地であったからとも、四谷第一の谷、または市が立ったので市買だともいわれています。四谷・牛込をはさんで市ヶ谷付近の濠は同じ高さなので、濠の幅を広くして敵に備えたといいます。このあたりは昔は桜の木が多く、門は「桜門」といわれていました。現在も橋をはさんで咲く土手の桜は有名です。門は明治四年(1871年)に撤去されました。現在の橋は昭和二年に架設されたものです。長さ36.4メートル・幅15.6メートルのコンクリート造りになっています。
市ヶ谷橋を渡った左手に外濠公園があります。外堀に沿って四谷から飯田橋まで続く細く長〜〜〜い公園です。桜の名所としても知られています。その入口に市ヶ谷門の案内板が立っています。
市ヶ谷門跡
市ヶ谷門は、寛永十三年(1636年)に美作津山藩(現在の岡山県)藩主森長継によって築造されました。門に付属する橋は、現在の五番町・九段北四丁目と新宿区の市谷田町・市谷八幡町を結んでいました。明治四年(1871年)に、市ヶ谷門は枡形石垣と橋を残して撤去され、のち枡形石垣も撤去されました。ここにある石は、市ヶ谷門橋台の石垣の一部です。石に刻まれた刻印は、江戸時代初期に御手伝普請で石垣を築いた大名家や職人の印と考えられています。赤坂見附から牛込橋にいたる掘や土手の遺構は、昭和三十一年(1956年)3月26日に、江戸城外堀跡として国指定史跡になっています。
Ichigaya-mon Gate Remains
Ichigaya-mon Gate was constructed by Mori Nagatsugu, the feudal lord of the Mimasaka Tsuyama Domain (current-day Okayama Prefecture) in 1636. The bridge leading to the gate connected current-day Gobancho and Kudankita 4-chome with Ichigaya Tamachi and Ichigaya Hachimancho in Shinjuku City. In 1871, Ichigaya-mon Gate was demolished, leaving only its square-stone wall and the bridge. The square-stone wall was also subsequently demolished. The stone blocks here are some of the blocks from the stone walls for the abutment of Ichigaya-mon Gate Bridge. The inscriptions in the stone are thought to be at the hands of the daimyo and masons who built the stone wall in the early Edo Period under an order for "construction assistance" imposed by the shogunate. The remains of the embankment and moat stretching from Akasaka Mitsuke to Ushigomebashi Bridge were designated as a National Historic Site, Edo Castle Outer Moat Ruins, on March 26, 1956.
靖国通りを進んだ先に、左手から一口坂がT字型に合流しています。何かいわくのありそうな名前です。
一口坂
現在では一口(ひとくち)坂と呼ばれていますが、本来は一口(いもあらい)坂という名称が正しいと言われています。「いもあらい」とは、疱瘡のことを「いもがさ」・「へも」と呼びますが、疱瘡を洗う(治す)ことを示しています。現在は痕跡がありませんが、坂の下に疱瘡の治癒に霊験のある一口(いもあらい)稲荷が祀られていたと言われ、それが坂名の由来になりました。
靖国通りは、靖国神社の前を通ることから、昭和三十七年(1962年)に「大正通り」から改名されました。その年に都内69の道路に愛称を制定しましたが、その多くは地元である程度浸透していた通称を採用したのだそうです。「靖国通り」も昭和三十年代の時点ですでにそのように呼ばれていました。この改名がなかったら、「明治通り」・「大正通り」。「昭和通り」・「平成通り(中央区の東京証券取引所前から築地二丁目に至る南北の通り)」と、元号に対応した道路の愛称名が全て都内23区内に存在したのですけどね。ただ、都内ということであれば、吉祥寺に「大正通り」という名称の道路があるそうですが。ちなみに、「令和通り」という名称の道路は全国唯一山口市にあるようです。靖国神社の長い塀に沿って進みますと、靖国通りに面して南門があります。そこから境内に入りますと、左手に第二鳥居が見えます。その奥は、神門・中門鳥居・拝殿・本殿と続いています。
南門の先に「九段上」という都バスの停留所があります。都電10系統(変更後)の電停にも同じ名前がありました。恐らくはこの辺りに「九段上」の電停があったものと思われます。ここには南の方角から大妻通りが合流しています。変更前の都電10系統(番町線)は、この御厩谷坂を麹町方向から登ってきていたのでしょう。
今日はお天気も良く、春休み中とあって都内の観光名所には多くの観光客が繰り出しています。はとバスも久しぶりに乗客で一杯ですね。もっとも、この後で再びコロナ禍のリバウンドが起きるのですが。
田安門交差点から再び靖国神社の境内に入ってみます。目の前には第一鳥居(大鳥居)が聳えています。高さ25.00m・柱直径2.50m・円周7.85m・笠木(上の横木)の長さ34.13m・笠木の直径2.70m・柱間の幅19.56m・重さ100tで、8階建てのビルに相当するのだそうです。現在の大鳥居は二代目ですが、初代の大鳥居は神社の創建50年にあたる1921年に日本一の大鳥居として造立されました。高さ21.03m・柱直径1.88m・笠木の長さ29.74m・笠木の直径2.06m・柱間の幅17.94mだったそうです。青銅製で第二次世界大戦の敗色が濃くなった昭和十八年(1943年)に「風雨による老朽化」を理由に撤去され、資材は軍事物資として供出されました。1974年10月に再建されるまで、代わりにヒノキの鳥居が立っていました。初代の鳥居は青銅製でしたが、再建された鳥居は当時の最新技術の耐候性鋼で造られました。日本最高・最大級の大鳥居で、震度7の地震・風速80mの風にも耐え、耐用年数は1200年にも及ぶそうです。32世紀に建替えるときに日本はどうなっているのでしょうか?大鳥居の奥に大村益次郎の像が立っています。1893年に大熊氏広によって制作された日本初の西洋式銅像とのことです。大村益次郎は幕末期の長州藩出身で、兵部省初代大輔(次官)を務め、日本陸軍の創始者と見なされています。靖国神社に銅像が建ったのもその功績を称えるためなのでしょう。参道入口の横に「靖國神社境内案内図」の案内板が立っています。
靖国神社の御祭神
靖国神社には、嘉永六年(1853年)以降、明治維新・西南の役など近代国家建設に尊い生命を捧げられた方々や日清戦争・日露戦争・第一次世界大戦・満洲事変・支那事変・大東亜戦争(第二次世界大戦)などの対外事変や戦争に際して国を守るために殉ぜられた246万6千余柱の神霊が、身分や男女の区別なく斉(ひと)しく祀られています。
Deities of Yasukuni Jinja
More than 2,466,000 divinities are enshrined here at Yasukuni Jinja. These are the souls of the many people who have made the ultimate sacrifice for their nation since 1853, including those who devoted their lives to the establishment of a modern state in domestic conflicts such as the Meiji Restoration and the Seinan War, and those who died in wars such as the Sino-Japanese and Russo-Japanese wars, World War I, the Manchurian Incident, the China Incident, and the Greater East Asian War (World War II) to protect their country. These men and women, regardless of their rank or social standing, are considered to be completely equal and worshipped as the venerable deities of Yasukuni Jinja.
正式参拝
本殿までお進みいただき、参拝する事ができます。戦歿者(せんぼつしゃ)の慰霊と共に、国家安泰・家内安全・厄祓い・社業繁栄などの祈願参拝も受け付けております。ご希望の方は、参集殿受付にお申し出下さい。受付を済ませた後、神職が本殿までご案内いたします。
【注記】「戦歿者」ですが、この「歿」を使うようになった理由には諸説あるようです。
- 戦歿者には陸軍の方もおられるのに、さんずい偏の漢字を使用するのはおかしい。
- 没は、沈没みたいでイメージが悪い。
- そもそも人が亡くなるのと船と同じなのはおかしい。
など。ということで、「没」でなく「歿」が使われているのだとか。細やかな気遣いといえばそれまでですけど。
Formal Worship
Visitors to the shrine can worship at the Main Sanctuary. In addition to honoring the memory of soldiers fallen in battle, specific prayers such as the security of the nation, wellbeing of family members, protection against misfortune, and prosperity in business can be requested. Applications are accepted at the counter in the Sanshuden (Assembly Hall). After you have made your application, priests will guide you to the Main Sanctuary.
遊就館
館内には、泰國神社に鎮まる英霊のご遺書やご遺品をはじめ、英霊のまごころやそのご事績を今に伝える貴重な史・資料が展示されています。10万点に及ぶ収蔵品の中には、絵画や美術品・武具甲胃・武器類なども数多く含まれています。
Yushukan Museum
The Yushukan Museum exhibits precious historical materials, such as last messages and personal effects, to convey the thoughts and circumstances of those enshrined at Yasukuni Jinja to people living in the present day. The museum stores 100,000 articles, including many paintings and other works of art, armor, and weapons.
由緒
靖國神社は、明治二年6月29日、明治天皇の思し召しによって建てられた招魂社が始まりで、明治十二年に「靖國神社」と改称されて今日に至っています。靖國神社は、国家のために尊い命を捧げられた人々の「みたま(神霊)」を慰め、その事績を永く後世に伝えることを目的に創建された神社です。「靖國」という社号も明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」・「平和な国家を建設する」という願いが込められています。
History
The origins of Yasukuni Jinja lie in a shrine called Shokonsha, which was established on June 29 in the second year of the Meiji era (1869) by the will of the Emperor Meiji. In 1879, it was renamed "Yasukuni Jinja," the name it still bears today. The shrine was established to commemorate and honor the achievements of those who dedicated their precious lives to their country. The name "Yasukuni," bestowed by the Emperor Meiji, means to preserve peace for the entire nation.
江戸城の周囲は起伏が激しかったようですが、とりわけ九段坂は急峻な勾配で眺めは良かったみたいですが、荷車を引くときなど人々は通行に苦労したようです。そんな江戸期の様子を葛飾北斎が独特の誇張混じりの版画に描写しています。
くだんざか・うしがふち 葛飾北斎
北斎は、江戸本所に生まれる。その作画領域は極めて広く、独特の高い芸術性を示しているが、寛政末頃から享和頃にかけて西洋画の技法を取り入れた、いくつかの風景版画を描いている。この画は画題と落款の平仮名文字を横に寝かせて、左書きにし、画面に入れたシリーズの最も代表的なものの一つである。右側の黄土色の急な坂は九段坂で、かっては“九段”のゆるやかな段がついていたという。この坂道に面して石垣と長屋塀の武家屋敷があり、坂道には人や家々などの陰が描かれている。その左の濃緑色の崖はさらに高く誇張し、画面の左半分は、はるばると遠景を見通す変化に豊んだ斬新な構図となっている。この画の特徴は樹木や崖に描線を用いず、陰影をつけて立体感を表わそうとしているところである。左の崖は上方が千鳥が淵、下は牛が淵、その中間を左に入る道は田安門に続き、現在は武道館への入り口となっている。空には夏雲がもくもくと湧き上がっていて、すべてが目新らしい西洋風の写生的空間表現となっている。
kudanzaka-Ushigafuchi/Katushika Hokusai
Katsushika Hokusai (1760-1849) was born in the Honjo section of Edo (now Tokyo). He produced a wide variety of art pieces which incorporated his unique sense of aesthetics. His woodblock prints from the end of the Kansei period to the beginning of the Kyowa period (around 1800) were influenced by Western art, which was a radical departure for Japanese art. This print is one of his most typical, characterized as it is by the title and the artist's name written on their side in hiragana and running from left to right. The steep, ocher slope on the right-hand side is Kudanzaka ("slope with nine steps"), which once had nine gently sloping steps. A Bukeyashiki (samurai's dwelling) with stone walling and Nagayabei (Japanese-style hedge) stands to the right, facing the slope. Silhouettes of people and other premises are also shown. On the left of the slope is a deep-green cliff, the height of which has been exaggerated by Hokusai. On the left-hand side of the print is a broad panorama, an original style of Hokusai. Hokusai used silhouettes for the trees and cliff, rather than outlining them in detail, in order to give a three-dimensional effect. The upper part of the cliff to the left of the print is called Chidorigafuchi and the lower part is called Ushigafuchi, The path going leftward leads to Tayasumon, now the entrance to the famous Budokan hall. The towering summer clouds, which depict the scene very realistically, are in the Western style that was new to Japan at that time.
明治時代になると、九段坂の周辺は賑やかになりました。明治初期に建てられた高燈籠からの眺めはさぞや素晴らしかったことでしょう。もっとも、一般の庶民が高燈籠に上れたかどうかはわかりませんが。
九段坂
古くは飯田坂と呼ばれていました。名前の由来は、坂に沿って御用屋敷の長屋が九つの段に沿って建っていたためとも、急坂であったため九つの段が築かれていたからともいわれています。明治四年(1871年)、九段坂の上に靖国神社の燈籠として高燈籠(常燈明台)が建設されました。また、高燈籠に隣接して陸軍の将校クラブである偕行社が建てられました。関東大震災後の帝都復興計画で坂を削り緩やかな勾配にする工事が行われ、九段坂は大正通り(現在の靖国通り)として東京の主要な幹線道路の一部となりました。この工事の際、高燈籠は通りを挟んだ反対側(現在地)に移設されました。
Hill of Kudan
In the past, this was called Iida Hill. It is said that the nagaya (a number of tenement houses built under one long roof) of the official residence were built on nine levels (kudan) along the hill, and that nine levels were constructed due to the steepness of the hill, hence the name Hill of Kudan. The takador0, a tall stone lantern that served as the lantern for Yasukuni Shrine, was constructed on top of Hill of Kudan in 1871, and the Kaikosha, a club for commissioned army officers was built nearby. The Imperial Capital Construction Plan after the Great Kanto Earthquake of 1923 carried out construction work that greatly reduced the hill, and created a gentle gradient. Hill of Kudan is even now an important part of a main thoroughfare in Tokyo called Taisho-dori (now Yasukuni-dori). When the construction was taking place, the takadoro was moved to the opposite side of the street, where it stands today.
明治時代の九段坂上にあった陸軍の将校クラブ偕行社と高燈籠
Kaikosha (Army Officer's Club) and Takadoro lighthouse
明治時代初期の九段坂を描いた錦絵
Hill of Kudan in the 1870's
九段坂下交差点の脇に文字の擦れた案内柱が立っています。九段坂がかっては飯田坂と呼ばれていたのは、この辺りのかっての町名の飯田町に由来していたのでしょう。
元飯田町跡
江戸築城の大工事が進んで九段坂の両側にあった飯田町は現在の築地あたりに移転を命じられ、わずかに牛ケ淵側に数軒を残すだけとなりました。しかし次第に旗本屋敷と交替しながら町屋を増やし、もちの木坂まで拡がって大変繁昌しました。ここを元飯田町、築地の方は南飯田町と呼びました。
日本橋川の手前に奇妙な像が置かれています。長大な頭をしていますね。杖にくくりつけているのは巻物かな?
寿人遊星
この彫刻は、1986年ハレー彗星の地球接近を記念し、人々の清福を望み、星と縁(ゆかり)の深い”寿老人”を模して制作されたものであり、「彫刻のあるまち・千代田」として、潤いと個性のある歴史と文化を重視した新しいまちづくりを願う久保金司氏より、神田の魅力を記録した絵本「かんだ彷徨」の浄財をもとに本区に寄贈されたものです。
俎橋は、日本橋川に架かる橋です。古くは大橋・魚板橋とも呼ばれていたといわれています。俎橋の名の由来は、江戸時代に御台所町が近くにあったことに由来するといわれています。初代の俎橋は昭和四年(1929年)12月6日に長さ25.6m・幅42.0mのコンクリ−ト橋が架けられ、現在の橋は昭和五十八年(1983年)11月に掛け替えられました。
俎橋を渡った先に、真新しい専修大学の校舎が建っています。校舎が建てられる前は、何でこんなところに細長い空き地があるのか不思議に思っていました。案内板にその経緯が書いてあります。
今川小路共同建築跡
今川小路共同建築は、かつてこの場所にあった復興建築のひとっで、通称「九段下ビル」と呼ばれていました。大正十二年(1923年)に起きた関東大震災からの復興の中で計画され、昭和二年(1927年)に完成した店舗兼住宅の建物でした。共同建築とは、一団の土地について所有権または借地権を有する複数の人が、共同で出資して建設した耐火建築のことです。震災後の東京では不燃化や耐震化が課題になったことから、積極的に建設が推奨されました。この今川小路共同建築は、東京における最初期の事例として、特に貴重なものでした。しかし、平成二十四年(2012年)、老朽化により解体され、85年の歴史に幕を下ろしました。令和二年(2020年)、今川小路共同建築の図面など関係する文書33点が千代田区指定文化財となり、その歴史を後世に伝えています。
Imagawa Koji Kyodo Kenchiku (Condominium) Site
The Imagawa Koji Kyodo Kenchiku (Condominium) is a building that once stood on this site as a post-disaster reconstruction building commonly known as the Kudanshita Building. The building comprised shops and dwellings and was completed in 1927 as part of the recovery effort after the 1923 Great Kanto Earthquake. A kyodo kenchiku is a fire-resistant building jointly financed and built by a number of people with ownership or leasehold rights over grouped land. As fire and earthquake resistance became an issue in the wake of the earthquake, city authorities in Tokyo actively promoted the construction of these buildings. The Imagawa Koji Kyodo Kenchiku was the first example of such a building in Tokyo, making it a particularly significant building. However, due to the effects of aging over time, it was demolished in February 2012, closing the curtain on its 85-year history. In 2020, 33 diagrams and other documents relating to the Imagawa Koji Kyodo Kenchiku were designated as cultural properties by Chiyoda City so that the history of this building can be known to future generations.
右側の写真は竣工直後の今川小路共同建築
The Imagawa Koji Kyodo Kenchiku immediately after completion
靖国通りに沿って、町会が設置した地元町名の案内板が立っています。木樽には消火用の水が入っているのかな?それとも、単なる重し?
千代田区町名由来板 中猿楽町
ここはかつて中猿楽町と呼ばれていました。室町時代以降、猿楽(のちの能楽)は、多くの武士たちに楽しまれるようになりました。なかでも観阿弥・世阿弥の流れを受け継ぐ「観世座」は、江戸幕府から手厚い保護を受けていました。その家元観世太夫や一座の人々の屋敷が、現在の神田神保町一丁目〜二丁目から西神田一丁目〜二丁目のあたりにあったことから、この一帯に「猿楽町」という名が生まれました。この界隈は江戸時代、おもに武家屋敷が軒を連ねていました。もともと武家地には町名が付けられていなかったため、「中猿楽町」という町名が正式に誕生したのは、明治五年(1872年)のことになります。ところで町内には、大正三年(1914年)、中国の留学生が日本国内で進学する際、欠かすことのできない日本語や英語・数学などを専門に教える東亜高等予備学校が設置されました。中華人民共和国成立後、国務院総理(首相)を務めた周恩来も、大正六年(1917年)から約二年間、この学校で学んでいます。中猿楽町はその後、昭和九年(1934年)、神保町二丁目と西神田一丁目の一部に組み込まれました。この地域の町会は、その名に「中猿」の二文字を残し、神田中猿町会と名乗っていましたが、昭和二十九年(1954年)四月、神保町と西神田の町名から「神西町会」と改めて、現在に至っています。
Naka-sarugakucho
This area was once called Naka-sarugakucho. It was named after Sarugaku, performing art that began in the Muromachi Period (1333-1568) and later gave rise to Noh theater. The residences of Kanze-dayu, the head of one of the major schools of Sarugaku, and his troupe were located in this neighborhood. In 1934, this area was integrated into Jimbocho 2-chome and Nishi - kanda 1-chome.
道路沿いの植栽の中には、商店街が寄贈した「平和の鐘」のモニュメントも置かれています。神田民は地元愛が強いですね。
「前垂会」のいわれ
今から百年程前の明治三十四年に、東京下町の神田に、町の発展を願って結成された商店主の集りがありました。それが東京で一番古い商店街といわれている「前垂会」です。名の由来は「前垂を締めて身を正し、商人の基本である頭をたれて、誠実・親切・謙虚をモットーに商売に励げもう」という心根を忘れないためにつけられました。時の流れを経たいま、「まえだれ会」の私達は昔の商人魂を忘れず、ますます一致団結して、これからも東京一歴史のある商店街として発展してゆきたいと思っています。ここに当会の100周年と江戸開府400年を記念し、世界の平和を祈りつつ「平和の鐘」を建立しました。
もうひとつ、町会が設置した案内板が立っています。ここは小川町二丁目なのですが、隣の一丁目にも同じような町名案内板があるのです。
小川町二丁目(北部)
江戸時代、小川町は神田の西半分を占める広大な地域をさす俗称でした。古くは、鷹狩に使う鷹の飼育を行う鷹匠が住んでいたことから、元鷹匠町と呼ばれていましたが、元禄六年(1693年)に小川町と改称されました。五代将軍網吉が「生類憐みの令」を施行、鷹狩を禁止したため改称されたという話も伝わっています。小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからともいわれています。江戸城を築いた室町時代の武将太田道灌はその風景を「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹をあらひこそすれ」と詠んでいます。安政三年(1856年)の絵図にも見られるとおり、このあたりには山城淀藩稲葉家の上屋敷がありました。稲葉家の屋敷前を通る道は、およそ百五十年を経た現在も、この付近で大きく湾曲する靖国通りの道筋として受け継がれています。明治五年(1872年)、周辺の武家地を整理して小川町となり、明治十一年(1878年)、神田区に所属します。町内には東京物理学校、私立鳥海女学校、東京顕微鏡院など、学校や病院がありました。東京物理学校は現在の東京理科大学の前身で、夏自漱石の小説「坊っちゃん」の主人公が学んだ学校です。また、幸徳稲荷神社は、稲葉家の屋敷神として祀られていたもので、当時は鍛治屋稲荷と称し、五穀豊穣と武運長久を祈願された由緒ある社です。昭和八年(1933年)、区画整理により、ここは小川町二丁目となります。昭和二十二年(1947年)に神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名も神田小川町二丁目となりました。
Ogawamachi 2-chome (Northern district)
In the Edo Period, the name Ogawamachi was used to indicate a huge area comprising the western side of Kanda. The name came from a body of water in the area, which was featured in a poem written by a famous warlord. In the Meiji Period, there were several schools and hospitals here.
二丁目と重複する内容もありますが、一丁目独自のことも書いてあります。
小川町一丁目(北部)
江戸時代、小川町は神田の西半分を占める広大な地域をさす俗称でした。古くは、鷹狩に使う鷹の飼育を行う鷹匠が住んでいたことから、元鷹匠町と呼ばれていましたが、元禄六年(1693年)に小川町と改称されました。五代将軍網吉が「生類憐みの令」を施行、鷹狩を禁止したため改称されたという話も伝わっています。小川町の名前の由来は、このあたりに清らかな小川が流れていたからとも、「小川の清水」と呼ばれる池があったからともいわれています。江戸城を築いた室町時代の武将太田道灌はその風景を「むさし野の小川の清水たえずして岸の根芹をあらひこそすれ」と詠んでいます。安政三年(1856年)の絵図にも見られるとおり、このあたりには山城淀藩稲葉家・豊後府内藩松平家・越前大野藩土井家の上屋敷がありました。明治五年(1872年)、周辺の武家地を整理して、西側は小川町、東側は淡路町一丁目となり、明治十ー年(1878年)、神田区に所属します。この界隈は、鍛冶屋稲荷神社(現在は幸徳稲荷神社と改称し、小川町二丁目に遷座)のほか、西洋料理店やビリヤード場・学校・印刷所などが立ち並び、周辺の雑子町・美土代町・錦町・表神保町などとともに東京を代表する繁華街として栄えました。昭和八年(1933年)、区画整理により、ここは小川町一丁目となります。昭和二十二年(1947年)に神田区と麹町区が合併して千代田区が成立すると、町名も神田小川町一丁目となりました。
Ogawamachi 1-chome (Northern district)
In the Edo Period, the name Ogawamachi was used to indicate a huge area comprising the western side of Kanda. The name came from a body of water in the area, which was featured in a poem written by a famous warlord. In the Meiji Period, this area became an entertainment district with Western restaurants, schools and printing shops.
淡路町にも町名の案内板があります。江戸時代に武家屋敷が多かったためか、当時屋敷を構えていた武家の名前が町名に残されています。
淡路町一丁目
江戸時代のはじめ、この地には将軍家と関係が深い寺院がありました。「寛永江戸図」によると、観音坂を下りきったあたりに「西福寺」・「西念寺」が記されています。西福寺は慶長三年(1598年)、徳川家康が故郷の三河から呼び寄せた寺です。一説には、永禄三年(1560年)の桶狭間の戦いの際、織田軍に包囲された家康を救ったのが同寺の了伝和尚で、家康はこの恩にむくいるため、新たな寺を寄進したともいわれています。寛永年間(1624年〜1644年)にこの二つの寺が移転したあと、ここは内藤伊賀守の屋敷となりました。そして貞享四年(1687年)以降は、豊後府内藩主である大給松平家の上屋敷となり、幕末を迎えました。明治五年(1872年)、この界隈は、神田淡路町一丁目と正式に名付けられました。この名前は、鈴木淡路守の屋敷があったことから名付けられたという「淡路坂」(現・神田淡路町二丁目)に由来しています。明治五年当時は、町内のほとんどが華族である大給近道の屋敷地だったと「東京府志料」に記されています。
Awajicho 1-chome
This neighborhood was once the site of the residences of samurai families as well as temples with close ties to the Shogun, and this tendency continued into the Meiji Era. It is believed that the name originally derives from a hill, which itself was named after a feudal lord, Suzuki Awaji-no-kami.
須田町にやってきました。ここには何系統もの都電が発着していたそうですが、電停は1ケ所だけだったのでしょうか?方向の異なる系統もありましたので、別々の電停が設置されていたのかもしれません。ま、須田町交差点附近に都電10系統の電停があったことにしましょう。
ということで、都電10系統の変更前と変更後の路線跡を歩き終えました。都電の中で系統番号を変えることなくルートが変更されたのは、調べた限りでは9系統と10系統のふたつだけです。その他、ルートが短縮された路線は幾つかありますが、これらについては短縮前のルートを歩くことにします。
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