都電荒川線コース  

コース 踏破記  

今日は現在運行されている唯一の都電である荒川線を歩きます。荒川線は三ノ輪橋から早稲田までを結び、その路線は王子駅から飛鳥山までの区間の明治通りを除き、都電専用軌道となっています。都心の西側を半周し、かっての都電27系統の赤羽〜三ノ輪橋の区間の一部と都電32系統を合体させて存続したような路線となっています。  

都電荒川線

都電荒川線の全長は9.3kmで、昭和42年12月10日から運行を始めました。

都電荒川線の電停(路上の駅)は、三ノ輪橋・荒川一中前(ジョイフル三の輪前)・荒川区役所前・荒川二丁目(ゆいの森あらかわ前)・荒川七丁目・町屋駅前・町屋二丁目・東尾久三丁目・熊野前(東京都立大学荒川キャンパス前)・宮ノ前・小台・荒川遊園地前・荒川車庫前・梶原・栄町・王子駅前・飛鳥山・滝野川一丁目・西ヶ原四丁目・新庚申塚・庚申塚・巣鴨新田・大塚駅前・向原・東池袋四丁目(サンシャイン前)・都電雑司ヶ谷・鬼子母神前・学習院下・面影橋・早稲田です。


都電荒川線の始発・終着となる三ノ輪橋電停は道路に面したところにあるのではなく、国道4号日光街道から建物の1階部分をくり抜いたような細い通路を抜けた先にあります。通路といっても、両側には小さな商店が並んだ商店街のようになっています。



通路の先には、荒川線の北側に平行して長々と延びるジョイフル三の輪商店街のアーケードが続いています。食品から衣料品・雑貨、それに飲食店などのお店が多いですね。惣菜のお店なんか、よくテレビでも紹介されます。今日は時間が早いせいか、シャッターを下ろしたお店が多く、ちょっと活気に欠けますが。アーケードの柱には、「都電荒川一中前停留所開設20周年おめでとう!」と書かれた垂れ幕が掛かっています。三の輪銀座商店街(通称:ジョイフル三の輪)は、都電荒川線の前身である王子電気軌道の開通が大きく影響して形成された商店街です。時代が移って、立地する南千住一丁目の人口減少による購買力低下が影響してジョイフル三の輪は寂れてきたということで、活性化対策の一環として新たな電停の設置が要望されました。これは、ジョイフル三の輪の一方の端にある三ノ輪橋電停から遠い側では空き店舗が目立ち、買い物客も途中で折り返してしまうという傾向が見られたからです。新たな電停で商店街を挟むことにより、都電を利用してやってくる買い物客に配慮するとともに、利用客を商店街全体に回遊させることを狙いとしたものでした。商店街の組合長を代表者として東京都に請願して都議会で認められ、電停が新設されることになりました。電停名そのものは、荒川区立第一中学校の略称名が採用されましたが、副名称として商店街の名称が付与されました。こうして平成十二年(2000年)11月11日、荒川一中前電停が開設されました。ただし、その効果はあまりなかったとされています。その理由は、元々商店街を利用していたのは地元の人達で、都電を使って訪れる買い物客は殆どいなかったからと推測されています。



通路の先は小さな広場になっていて、その入口に三ノ輪橋の駅名を記したプレートが掲げられた緑のアーチが建っています。こんなお洒落な駅名表示は日本広しといえども、ここだけでしょう。三ノ輪橋電停は、関東の駅百選認定駅にもなっています。



乗り場の手前には「三ノ輪橋おもいで館」があります。文字もレトロですが、建物も年季が入っていますね。都電27系統跡を歩いた時にお邪魔したのですが、館内の壁には都電全盛期の路線図が貼られ、高くて買えませんでしたが都電関連の本も売られていました。ミーハーなもんで、無料の記念スタンプだけは押しましたが。今日は火曜日なので、おもいで館はお休みです。



三ノ輪橋電停は、乗車専用とその先にある降車専用のホームに分かれています。同じく、都電荒川線の始発・終着となるもう一方の早稲田電停はプラットホームが両面になっていて、片側が乗車用、片側が降車用になっています。折り返しの電車が到着すると、降車用のドアが開いて乗客が降り、その後で今度は乗車用のドアが開いて乗客が乗り込むようになっているのです。



乗車専用ホームから電車が出発すると、入れ違いに降車専用ホームで待機している電車が乗車専用ホームに入って来ます。運転手さんは電車の前の運転席から反対側の運転席に移動しなければなりませんので、ラッシュ時などは結構忙しいですね。ポイントの切り替えも大変でしょうけど、駅員さんはいないので自動で切り替わるのでしょうか?



都電荒川線は、現在「東京さくらトラム」と改称されていますが、これは荒川線の実態を知らない人が名付けた名前と思います、沿線には荒川自然公園などの桜の名所はありますが、線路脇にはあちこちに薔薇の花が植えられているのです。なので、カタカナ名にするのなら、「東京ローズトラム」の方が合っています。そもそも都電をわざわざ「トラム」と言い換える必要はないと思うのですが。。。ちなみに、電停名を掲げたアーチに彩られているのは、「モッコウバラ(Rosa banksiae)」という品種で、春に一番早く咲くのだそうです。「都電荒川線沿線のバラマップ」と題した案内板が立っています。同じような案内板は、荒川自然公園二丁目・町屋駅前・荒川車庫前の電停でも見られます。

都電荒川線沿線のバラマップ

荒川区では、区の中央部分を東西に走る都電荒川線を「みどりの軸」と位置付け、バラによる緑化を推進しており、北区境から三ノ輪橋の停留場間に約13、000株を植栽しています。色とりどりに咲くバラを是非お楽しみください。

Toden Arakawa Line Trackside Rose Map

The Toden Arakawa Streetcar Line runs along the central part of the City from east to west along the "green corridor". The streetcar strives to add more green space to the city using roses, and has planted about 13,000 rose bushes between Minowabashi Station and the Kita City border. Please enjoy the beautiful rose blooms.




三ノ輪橋電停の敷地を含む周辺の広大な土地は、江戸時代には伊勢亀山藩主石川日向守の屋敷だったそうです。石川日向守の屋敷は、新開地一帯にあって、総坪数一万千四十坪(約三万六千四百平方メートル)にも及ぶ広さでした。万治元年(1658年)、主殿頭憲之の時に、三河島・三の輪・小塚原三か村のうち一万五百三十坪(約三万四千七百平方メートル)の地を拝領して下屋敷を造築し、寛文五年(1665年)に三河島村重右衛門の所有地五百十八坪(約千七百平方メートル)を買上げ、屋敷・庭園を造築しました。この石川屋敷では、四月から七月までの間に限って鉄砲稽古をしたといわれています。屋敷の敷地内には弁天池があり、その中の島に「中島弁財天」が祀られていました。現在は、弁天池の跡地は小さな公園になっています。

中島(なかのしま)弁財天の由来

当商店街至近の「元弁天湯」は大正時代創業で、関東大震災や空襲をくぐり抜けた建物は「都内最古級」と云われ、百年近く地域に親しまれてきましたが、東日本大震災で配管等に甚大な被害が出て閉業しました。その女湯の脱衣場の中庭に置かれていたのが七福神の一つ此の弁天様です。開運、商売繁盛、弁活、芸術、財神、延寿の神弁財天として安置致しました。かつて、江戸時代から明治二年の版(藩?)籍奉還まで、大名伊勢亀山藩主石川家(六万石)の下屋敷・抱屋敷として立地し、その屋敷内に大きな弁天池が有り、その中の島に祀られていた「中島弁財天」に由来するものであります。




堂内には琵琶を抱えた弁天様が立っておられます。日本では、弁天さまは最初は鎮護国家の女神として祀られましたが、本当の意味で日本人の心の女神となっていくのは江戸時代くらいからでした。庶民的で心優しい女神として民衆信仰が始まってからのことです。



「中島弁財天の由来」案内板の下に、「三ノ輪・南千住付近の歴史」と題した年表が張り出されています。それによりますと、全蓋アーケードの「ジョイフル三の輪」が誕生したのは、昭和五十三年(1978年)11月とのことです。



三河島電停(現在の荒川二丁目【ゆいの森あらかわ前】)に隣接して荒川自然公園の広大な敷地が広がっています。荒川自然公園は、東京都下水道局三河島水再生センターの上につくられた公園で、桜の名所になっています。都電を降りた後、坂道を登って公園に入ると、公園内は自然が豊かで、景色の美しさから東京都を代表する景勝地「新東京百景」にも選ばれています。公園は北側と南側の大きくふたつのエリアからなり、交通園やアスレチック、それに無料のプールなど、子どもたちが楽しめる施設が充実しています。



荒川線で桜の名所になっているのは、三河島水再生センターの周辺で、線路に沿って桜並木が続いています。今日は満開を少し過ぎた感じでしょうか。



ここにも「都電荒川線沿線のバラマップ」の案内板が立っています。荒川自然公園二丁目電停口を彩るバラは春に咲く「ツルバラ」の品種で、花の壁は圧巻です。花壇の代表的なバラである「ツル.チャールストン(Cl.Charleston)」は、花色が黄色から紅色に変化するツルバラです。



三河島水再生センターのレトロな案内板が立っています。「ポンプ」を漢字で書ける人はまずいないでしょう。

重要文化財(建造物) 「旧三河島汚水処分場喞筒場施設」

旧三河島汚水処分場は、隅田川中流に位置するわが国最初の近代下水処理場で、東京市区改正事業の一環として、東京市技師米元晋一を中心として建設が進められ、大正十一年三月に運用を開始した。当時、東京市外であった荒川区域はこの施設を利用できなかったが、誘致したことで他区よりも早く昭和三十年代にはほぼ区内全域で下水道が完備した。重要文化財に指定された旧三河島汚水処分場喞筒(ポンプ)場施設は、処分場の代表的遺構として、高い歴史的価値を有する。また、阻水扉室、沈砂池などの一連の構造物も、旧態を保持しつつまとめて残っており、近代下水処理場喞筒場施設の構成を知る上で重要である。

指定施設          五所
 阻水扉室
 沈砂池及び濾格室
 濾格室上屋        一棟
 量水器室及び喞筒室暗渠
 喞筒室          一棟
  附 ヴェンチュリーメーター   一基

 附 土運車引揚装置用電動機室   一棟
   変圧器冷却水用井戸喞筒小屋  一棟
   門衛所            一棟

 下水敷及び宅地




隣の案内板には、三河島水再生センターの施設が紹介されています。

旧三河島汚水処分場喞筒場施設

わが国最初の近代下水処理場である旧三河島汚水処分場の代表的遺構として、国の重要文化財(建造物)に指定されています。

第一沈殿池

2〜3時間かけて下水をゆっくり流し、下水に含まれる沈みやすい汚れを沈殿させます。

反応槽

微生物の入った泥(活性汚泥)を加え、空気を送り込み、6〜8時間ほどかき混ぜます。下水中の汚れを微生物が分解し、細かい汚れも微生物に付着して、沈みやすいかたまりになります。

第二沈殿池

反応槽でできた泥(活性汚泥)のかたまりを3〜4時間かけて沈殿させ、上澄み(処理水)と汚泥とに分離します。




「あらかわの史跡・文化財」と題した案内板が立っています。荒川区内には、この種の案内板が数多く設置されていて、史跡や文化財が分かりやすく紹介されています。この案内板は三河島処理場を説明していますが、最初に妻夫塚を説明しているのはちょっと不自然ですね。英語の説明では妻夫塚の説明は後半部分になっていますが、こちらの方が自然な感じです。

下水処理発祥の地(妻夫塚)

三河島字八千代田、字次郎田前と呼ばれていたこの地に二つの塚があった。妻夫塚と呼ばれるもので、正平七年(1352年)、武蔵野合戦における戦死者を葬った所と伝わるが、詳細は不明である。明治四十三年に三河島処理場の敷地に編入され、現在では正確な塚の位置を確認することができない。日本で最初の本格的な下水処理施設である「三河島処理場」は大正三年、建設に着手した。同年から始まった第一次世界大戦の影響による財政面の制約などの理由から、工事の進行に打撃を受けたが、大正十一年(1922年)、完成した。荒川区のみならず、台東区の全部、文京・豊島区の大部分と千代田・新宿・北区の一部の下水処理を行う。赤煉瓦の処理場施設は建設当時からのもの。千住製絨所(日本羊毛興業)などとともに荒川区の近代化の担い手であった。

Birthplace of Sewage Treatment and Meotozuka Mounds

The construction of Mikawashima Treatment Plant, which is the first full-fledged sewage treatment facility in Japan, started in 1914. The progress of the construction was affected by financial constraints caused by the effects of World War I that began in the same year, but the plant was completed in 1922. The plant treats sewage not only for Arakawa City but also for Taito, most of Bunkyo and Toshima, and parts of Chiyoda, Shinjuku, and Kita. The red brick buildings constructed at that time still remain and are being used. Together with the Senju Wool Factory, etc., the plant played an important role in the modernization of Arakawa City. A part of the plant was designated an important cultural property of Japan in the name of the "Pumping Station at the Former Mikawashima Sewage Disposal Plant". There used to be two mounds called the Meotozuka in this area. It is said that war dead in the Battle of Musashino in 1352 were buried in the mounds, but the details are unknown. Since the mounds were incorporated into the site of the treatment plant in 1910, it is impossible to confirm their exact location at present.




町屋駅前電停のホーム手摺りにもバラのレリーフが取り付けられています。



ここにも「都電荒川線沿線のバラマップ」の案内板が立っています。町屋駅前電停の花壇には幸せへの願いが込められた「ピース」が植えられていて、賑やかな駅前に落ち着きを与えてくれます。「ピース(Peace)」は、ほんのり桃色がかった優しい黄色のバラです。「レイニー ブルー(Rainy Blue)」の品種もありますね。稲垣潤一の曲に同名のタイトルの歌がありますが、関係はあるのでしょうか?ちなみに、このバラの苗はドイツのローゼン・タンタウ社によって生み出されたもののようです。



通りに面して絵葉書専門のお店がありますね。それも、都電の絵葉書だけを販売しているようです。今時、絵葉書を買って投函する人なんているのでしょうか?



荒川区の尾久地区の名所を記した案内板が立っています。

@荒川公園

公園の中央には、長崎の平和祈念像の作者北村西望氏の彫像「夢」があります。春には、ソメイヨシノなどの桜が咲き乱れ、花見会場として解放されています。この公園隣の「実のなる木公園」には、四季折々の実のなる木が植樹されています。

A荒川自然公園

東京都の「新東京百景」に選ばれた、荒川区立では最大の公園です。荒川区の地形をかたどった白鳥の池には、無数の鯉なども泳ぎ、本物の白鳥も優雅に羽を休め、人々にも憩いの時間を与えています。

B都電荒川線

都電荒川線は、早稲田〜三ノ輪橋を結ぶ路面電車です。発車前に「チンチン」という昔ながらの発車合図音を聞くことができます。沿線には約140種類、約1万3000株のバラが植えられ、荒川バラの会により、手入れがされています。毎年5・6月にかけて色鮮やかなバラが咲き乱れ、「荒川区の顔」として親しまれています。

C日暮里・舎人ライナー

日暮里・舎人ライナーは、交通の利便性の向上及び交通渋滞の緩和等を目的として建設され平成二十年3月に開業しました。日暮里駅と足立区の見沼代親水公園駅間9.7km(全13駅)を約20分で結びます。車両は自動制御され、ゴムタイヤを使用した「新交通システム」を採用しています。

D尾久八幡神社

創建は鎌倉時代末期の正和元年(1312年)に尾久が鎌倉の鶴岡八幡宮の領地となった頃と考えられ、神社に残る棟札からは、至徳二年(1385年)には社殿が再建された事が確認できます。農工商の神様として親しまれています。

Eあらかわ遊園

日本で一番遅いコースターがある都内で唯一の区立遊園地です。園内は「のりもの広場」「どうぶつ広場」「アリスの広場(水上ステージ)」などのエリアに分かれており、幅広い層の方々が楽しめます。




荒川線の小台駅と宮ノ前駅の間の尾久警察署の真向かいにある地蔵山墓地の門柱には宝蔵院という寺名が表示されています。お寺にしては山門もなく本堂も見当たりません。宝蔵院の本堂は隅田川に架かる小台橋の袂にあり、ここはその境外墓地らしいです。宝蔵院の開山は寛永十年(1633年)で、入口横の案内板には江戸時代の庚申塔が保存されていると記されています

地蔵山の庚申塔

地蔵山(西尾久2−25)は、旧上尾久村の共同墓地で、江戸後期作の上尾久村村絵図(八幡神社所蔵、区指定有形文化財)にも記されており、古くから信仰の場としての機能を担ってきたことがうかがえる。ここには、江戸時代の庚申塔(西尾久3−1、寶蔵院所蔵)がある。寛文十年銘は、丸彫りの地蔵の庚申塔、元禄九年銘は、地蔵の種子(仏菩薩を表す梵字)があり、地蔵信仰と庚申信仰との関連がうかがえる。ここが地蔵山と呼ばれていることと無縁ではなかろう。かつて入口にあった万治元年、寛文九年、延宝六年造立の三基の庚申塔は、風化によって破損した。その残欠のみが保管されている。




荒川遊園地前電停が最寄り駅の荒川遊園は、大正十一年(1922年)に開園した23区内で唯一の公営遊園地です。平成三十年(2018年)12月から長いことリニューアル工事が行われて長期休園していましたが、今年2022年4月21日(木)に再オープンしました。今年の1月末に「荒川区ウオーキングコース:都電とバラの花ルート(往復)」を歩いていた時に工事中の荒川遊園を見たのですが、建物は大方完成しているものの、園内の整備は未だ竣工にはほど遠い状況でした。再オープンしてから行ったことはありませんが、建物や遊具は色鮮やかに彩られ、ディズニーランドを想わせました。入口近くには都電32系統と表示された車体が置かれていましたが、当時の運用区間は早稲田から荒川車庫までの筈で、行き先表示に「三輪橋」となっているのはあり得ないと思うのですが、今はどうなっているのでしょうか?



現在の都電の車庫は荒川車庫のみとなっています。車両の入出庫や運転手の交代も荒川車庫前電停で行われ、昭和の都電車庫の景色と全く同じようです。荒川車庫には都電の営業所が併設されています。都電の電停には基本的に窓口がなく無人なので、車内に忘れ物をした時などはここに来る方が早いかもしれません。都電の電停は基本的に1電停1ホームになっています。三ノ輪橋行きと早稲田行きで電停の場所がずれることはあっても、ひとつの電停で複数のホームがあるところはありません。ですが、荒川車庫では、三ノ輪橋に向かって降車専用と乗車専用のふたつのホームが設置されています。つまり、荒川車庫電停は3ケ所にホームが設置されているのです。これは、早稲田方面からやって来て荒川車庫に入庫する電車の乗客を荒川車庫前のホームで降ろし、空の状態で車庫に入るためだと思われます。逆に、荒川車庫から出庫して三ノ輪橋に向かう電車は、荒川車庫の先にあるホームで乗客を乗せるようになっています。じゃあ、三ノ輪橋方面から荒川車庫に入庫する電車は?というと、1ケ所のホームで乗車・降車を行っています。車庫より先に行く乗客は一旦ホームに下りて次の電車に乗るのです。では、荒川車庫の手前に位置するホームから早稲田行きの始発の電車にはどうやって乗るのでしょうか?恐らく、荒川車庫から早稲田行きの始発はないのではないかと思います。実際に見ていないので断定はできませんが、荒川車庫を出庫する始発は全て三ノ輪橋行きではないでしょうか?ちなみに、荒川車庫の乗車専用の乗り場で降車しようとすると怒られます。降車専用のホームで降り損ねると次の荒川遊園地前電停まで行くしかないのです。



荒川車庫に隣接して(というか、同じ敷地内に)「都電おもいで広場」が設けられています。都電全盛期に活躍し、今は廃車となった車両が展示され、土日祝日のみ公開されています(コロナ渦で長期休業中でしたが、令和三年11月3日(水・祝)から再開されました)。中に入ったことはありませんが、都電マニアにはたまらない施設です。展示されているのは、昭和二十九年に製造され、独特の流線型の車体と低騒音・高加速の高性能を持ち、三田車庫に配属されて都電1系統(品川駅前〜上野駅前)で使用された5500形(5501号車)の車両と、昭和三十七年に製造され、都電としては珍しい2つ目のライトが特徴の旧7500形(7504号車)の車両の2両です。5501型式の車両ですが、希少な上に数奇な運命を辿ったものです。PCCカーと呼ばれ、1930年代のアメリカ合衆国で開発された路面電車車両の規格を採用して日本で生産されたただひとつの純正車両です。北アメリカの路面電車事業体や鉄道車両メーカー・機械メーカーが参加した電気鉄道経営者協議委員会によって開発され、多数の新技術が用いられた高性能車両がベースになっています。製造後、10年以上の間運用されましたが、運転時の操作方法が他の車両と異なることと、日本にない特殊な機器を備えていたため、運転と保守が難しく1967年に廃車となりました。その後、上野公園で保存・展示されましたが、野ざらしで置かれ、塗装の塗り替えなどのメンテナンスが満足に行われなかったことで劣化が進んでいきました。その後荒川車庫に戻され、一度は修復がなされたものの、倉庫代わりに使われて腐食が進んでいきました。2007年に再度車体を修復し、ここに展示されることになったのです。一方、旧7500形は、当初は青山車庫、その後は都電の路線縮小に伴って荒川車庫に配属され、引退前の数年間は主に朝ラッシュ時の通学輸送に活躍して「学園号」の愛称で親しまれました。5500形の車両の中には、模擬運転台・模擬装置操作台・都電荒川線(東京さくらトラム)沿線をイメージしたジオラマ・歴史的資料の展示ケースが設置されています。



荒川車庫前に立っているバラの案内板は他の案内板のデザインと異なっていて、荒川線の沿線に植えてある多種類のバラの品種を紹介しています。バラにもいろんな種類があるんですね。

都電沿線のバラ

荒川区では、区の中央部分を東西に走る都電荒川線を「みどりの軸」と位置付け、バラによる緑化を推進しており、北区境から三ノ輪橋の停留所間に13,000株以上を植栽しています。このうち、荒川車庫停留所と北区境の間には、四季咲きのフロリバンダやツル系を中心に植栽しています。豪華に咲き誇る色とりどりのバラをお楽しみ下さい。

荒川車庫・北区境間に植栽している主なバラ

ピンクラセビリアーナ
修景バラ「ラセビリアーナ」の枝変り種です。年間を通して多くの花が絶えることなく咲き続けるため、とても華やかです。1985年バーデンバーデン国際コンクール金賞受賞、1986年ADR受賞。

カクテル
黄色の花びらが翌日には白くなるため、底白の花にも見えます。花付きが良く耐病性に優れており、広く愛されている銘花です。名女優ロミー・シュナイダーに捧げられました。

桜霞(さくらがすみ)
花色は淡桃にサーモンピンクがのってきます。花付き・花持ちとも非常に良く、大きめの房になって花を咲かせます。古い枝にも花をつけます。1990年(財)日本バラ会国際ばら新品種コンクール金賞受賞。

ウルメールムンスター
ビロード赤の大輪の花を咲かせ、たいへん華やかな空間を作ります。丈夫で耐病性に優れ、寒冷地にも適します。枝が固く、フェンス向きです。花名はドイツの都市ウルムにある大聖堂からとられました。

紅(くれない)
春はローズピンクに徐々に紅がさす花を、秋には紅桃色の花を咲かせます。花はすらりと伸びた枝に高さをそろえたように咲きそろい、葉には細かな斑が入るので、それだけでも観賞価値があります。

サンフレーア
花付きが良く、耐病性に優れた丈夫な株です。「サンフレーア」は「太陽の炎」の意味です。1983年オール・アメリカローズ・セレクションズ(AARS)受賞。

グランデアモーレ
剣弁高芯の花形が素晴らしい正統派の赤バラで、「大きな愛」の名のとおり情熱的でロマンティックな花です。耐病性に優れており、寒冷地ではブッシュローズとしても楽しめます。2005年ADR(ドイツの国際的な賞)受賞。

新雪(しんせつ)
雪のように白い花をたくさん咲かせる古くからの銘花です。黒点病に強く、多花性で4〜8輪の房咲きになります。強健種で初心者でも安心して栽培できます。




王子駅前電停を出て左にカーブして明治通りに入ると直ぐに急坂が始まります。左手には明治通りに沿って崖が続いています。崖の上から降りてくる(崖の下から登って行く)飛鳥山公園モノレールは、飛鳥山公園山頂(山ではありませんが)とJR王子駅横の飛鳥山公園入口とを結ぶスロープカーです。愛称は、施設名があすかパークレール、車両名がアスカルゴとなっています。車両名は、ゆっくり上がる様子がエスカルゴ(カタツムリ)に似ていることから、飛鳥山公園と組み合わせて命名されました。飛鳥山公園入口から山頂までの高低差は約18m、レール延長は48mとなっており、片道約2分の乗車時間です。世界最短のモノレールとしてギネスブックに載ってもいいくらいの短さです。2009年7月17日から運行が始まり、高齢者・障害者・小さなお子様連れなど、誰もが飛鳥山公園を利用しやすくなりました。無料で乗車できることもあり、たちまち大人気になりました。冷暖房も完備され、車イス・ベビーカーにも対応しています。



荒川線は飛鳥山公園の崖に沿って急坂を登って行きます。急坂は飛鳥大坂という名前ですが、坂上の音無橋交差点で右折する車が線路内に入り込みますので、電車が坂の途中で止まってしまうことがあります。私が乗っていた電車は坂の途中で停止し、動き出そうとしたのですが馬力が足りず坂を登れませんでした。運転手さんは何回かトライした後で進むのを断念し、指令所に助けを求めました。指令所の答えは一旦バックしてから、勢いを付けて登れでした。運転手さんは電車をロックさせてから後部の運転席に移動してバックした後、再び前方の運転席に戻って出力マックスで進み出しました。また先方に車が入り込んできたらどうなるかと思いましたが、無事に坂を登りきりました。乗客からの拍手は起きませんでしたが。。。



ついでに飛鳥山公園に立寄ってみましょう。八代将軍吉宗が王子権現に飛鳥山一帯の地を寄進したのは享保八年(1723年)のことで、江戸庶民への開放と桜の植樹が進められました。現在も春になると花見の名所として多くの人が集まる光景は江戸時代から続いた春の風物詩でもあり、都電時代には美しい車窓風景となって乗客の目を楽しませたことでしょう。飛鳥山公園の敷地内には明治時代の実業界に君臨した渋沢栄一の邸宅がありました(現在でも邸宅跡が一般に公開されています)。渋沢栄一は王子電気軌道の設立にも尽力しました。東京の都市交通機関創設を目指した松本錬蔵らは明治三十九年(1906年)に王子を中心に大塚〜三輪間の軌道敷設・営業を出願しました。翌年免許を得ますが、日露戦後の不況で資金難に直面し、渋沢栄一などの後援を得て漸く明治四十三年(1910年)に王子電気軌道を創立しました。翌年開業し、沿線と隣接地域への電灯電力供給事業も開始し、資金難が続く中で事業は少しずつ進捗しました。景気回復と共に増資も行い、関東大震災の被災も軽微に収まり、昭和五年(1930年)に電車は三ノ輪〜早稲田間の直通運転を開始しました。



飛鳥山公園を左手に見ながら、明治通りは飛鳥山交差点で右にカーブして池袋方面に延びていますが、交差点からそのまま直進する道路は本郷通りになります(本郷通りの起点は飛鳥山交差点です)。荒川線は飛鳥山交差点で斜め右方向に進み、専用軌道が始まる飛鳥山電停の方に曲がっていきます。



庚申塚電停は当時も今も巣鴨地蔵通り商店街の入口(出口)に位置しています。毎月4の付く日のとげぬき地蔵尊の縁日には大勢の乗降客で混雑します。とげぬき地蔵尊の由来として、江戸時代に毛利家の女中が針を誤飲した際に地蔵菩薩の御影を飲み込んだところ、針を吐き出すことができ、吐き出した御影に針が刺さっていたという伝承があり、「とげぬき地蔵」の通称となったと伝えられています。そこから他の病気の治癒改善にもご利益があるとされ、現在に到るまでその利益を求めて高齢者を中心に参拝者が絶えません。巣鴨地蔵通り商店街には、特に女性の高齢者が多く訪れることから、「おばあちゃんの原宿」とも呼ばれています。それでは「おじいちゃんのXX」ってあるのでしょうか?



大塚は戦前の城北エリアの商業の中心地でした。JR大塚駅の東側には、かつて白木屋デパート大塚分店もありました。駅南口側に残る三業通りの名もかつて三業(料亭・待合茶屋・芸者置屋の三業種の総称)地として賑わった花町の名残です。そんな大塚駅には2ケ所の電停がありました。ひとつは都電32系統が発着していた大塚駅電停、もうひとつは都電16系統が使用していた大塚駅電停です。現在の荒川線の大塚駅前電停のすぐ横の駅南口広場端の都営バス降車専用停留所付近の路上に都電16系統が使用していた大塚駅電停がありました。都電32系統に引き継がれた旧王子電気軌道の路線は山手線高架下の現在地に大塚駅電停が設けられましたが、運営母体が異なっていたた都電16系統の折り返し場所となった大塚駅電停と旧王子電気軌道の大塚駅電停との間の線路の接続は行われませんでした。



日ノ出町二丁目電停(現在は東池袋四丁目電停)を過ぎ、専用軌道は続きます。線路は歩けませんので、路地を巡ってなるべく線路沿いの道を歩きます。左手には12ヘクタールにも及ぶ広大な雑司ヶ谷霊園の敷地が広がっています。墓石を横目にして歩くのですが、昼間ですので怖いことはありません。雑司ヶ谷霊園は、明治政府の自葬禁止・神葬地設定・火葬禁止(明治八年に解除)・旧朱引内の埋葬禁止・墓地令などの法令・布告・布達に伴って共葬墓地の必要性が生じ、東京府が東京会議所に命じて雑司ヶ谷旭出町墓地を造営し、明治七年(1874年)9月1日に開設されました。明治九年(1876年)、東京会議所から東京府が管理事務を引き継ぎ、明治二十二年(1889年)に東京市の管轄となった後、昭和十年(1935年)に「雑司ヶ谷霊園」に名称変更されました。現在は東京都公園協会が管理しています。墓地には、ジョン万次郎・小泉八雲・夏目漱石・島村抱月・竹久夢二・泉鏡花・東條英機・永井荷風・サトウハチロー・金田一京助・東郷青児・大川橋蔵・いずみたく・初代江戸屋猫八・羽仁もと子など著名人の墓が多くあり、夏目漱石の小説「こゝろ」の舞台にもなっています。



墓地の柵に「お鷹の道」と記された案内板が立てられています。雑司ヶ谷霊園は明治七年(1874年)に開設されましたので、江戸時代にはお墓の代わりに一面農地や雑木林や草原が広がっていたことでしょう。

御鷹方御組屋敷道

この道は明和九年(1772年)「武蔵国豊島郡雑司谷村絵図」によれば
御鷹方御組屋敷道
と記されており霊園西側約九千坪の敷地に徳川八代将軍吉宗が鷹狩りのための鷹の飼育調練に用いた御鷹部屋があったことと、その北方約四百メートルに鷹匠や同心などの住まう約一万五千坪の組屋敷があったことに由来する。




荒川線は鬼子母神前電停を出ますと、目白通りに架かる千登世子橋の下を潜り、明治通りと併走して学習院下に向かいます。荒川線唯一のトンネルです。陸橋となる千登世子橋は明治通りと目白通りとの立体交差橋で、都内でも土木史的価値の高い橋として「東京都の著名橋」に指定されています。東京は台地と谷が入り組んだ地形が多く見られますが、この周辺も目白台地と関口台地の境目になっており、明治通りはその切通の間を通っています。荒川線の線路は千登世子橋の下を明治通りに沿って走っていて、橋の上から見る都電の走る風景は何か懐かしさを感じさせます。



千登世子橋の東側の端に、石碑が置かれています。石碑には、千登世橋の下を走る都電の絵と橋の歴史を記した碑文が添えられています。

千登世橋は、昭和七年に橋長28.0m、有効幅員18.2mの一径間鋼ヒンジアーチ橋で架設された。この橋は、明治通りと目白通りとの立体交差橋で、都内でも土木史的価値の高い橋として「東京都の著名橋」に指定された。著名橋整備事業として、千登世小橋と共に親柱・高欄・橋側灯及び橋詰空間など、歴史的原型の保全を行い、文化遺産継続の願いをこめて修景を施したものである。



石碑の横には銅像が建っており、その台座下部に「来馬良亮君」と書かれた肖像レリーフが添えられています。来島良亮(1885年〜1933年)は、大正〜昭和時代前期の土木技術者です。大正五年に内務省に入省し、雄物川や利根川の改修工事を指揮しました。昭和二年に東京府の土木部長となり、都市計画案を策定しました。台座の側面には来島良亮の功績を記した碑文があり、また台座の前には都内の道路網が描かれています。来島良亮が策定した道路計画図なのでしょうか?

東京府土木部長 来島良亮君像

故従四位勲四等来島良亮君ハ山口縣ノ人ナリ。明治四十五年(1912年)東京帝国大学ヲ卒業シ内務技師ニ任せらる。利根川及雄物川ノ改修ニ功アリ。秋田市會議員ニ挙ケラルルコト二回。昭和二年(1927年)、東京府土木部長ニ補セラル。居ルコト6年、力ヲ都市計畫ノ諸事業、河川港湾ノ改修、府縣道ノ改良ニ致シ、業績顕著ナリ。環状道路ノ如キモ亦君ノ労苦ニ負フ所多シ。八年9月、再ヒ内務技師ニ任セラレ北海道庁技師ヲ兼ヌ。偶疾ヲ獲、十一月卒ス。享年40有九。近者知友胥謀テ、地ヲ此ニ相シ紀念碑ヲ建ツ。




高戸橋で神田川を渡り、高戸橋交差点で直角に左折し、新目白通りの中央に敷設された専用軌道に入ります。道路併走方式ではなく、車道と線路を分離した「センターリザベーション」方式になっていますので、線路の両側には仕切りが設置されています。



終点の早稲田電停に着きました。早稲田電停を入口から見ますと、1本の線路の両側にホームがあり、それぞれ乗車専用と降車専用になっています。ラッシュ時には乗り降りの操作で運転手さんも忙しいでしょうね。



ということで、現在存続している唯一の都電である荒川線を歩き終えました。思えば、都電跡を歩いてみようと最初に選んだのは2020年暮れの都電14系統跡でした。踏破記を書き終えたのは2022年の8月半ばです。「東京23区の散歩道を歩く」と平行して書いたこともありますが、随分と時間がかかったものです。文章を見直してみますと、多くの間違いや誤記が見つかりましたが、今となっては訂正する気力もなく、そのまま残しておくことは心残りです。都電の跡を歩いた人は沢山いて、ネットにも様々な情報が溢れています。引用も含めて参考にさせて頂いた記事は数知れず。先人達が残してくださった情報の恩恵に感謝しつつ、「昭和の都電跡を歩く」を完結とします。




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