東銀座・ぐんまちゃん家





今日は平成24年12月14日。タイムスリップして元禄15年に遡れば、赤穂浪士討ち入りの日となります。前々から赤穂浪士が本懐を遂げた後で、どのようなルートを通って泉岳寺に引き揚げたのかを知りたいと思っていました。色々とネットで調べた結果、かなり正確なルートが判明しましたので、今日歩いてみようと思います。江戸時代のことですから、当時のルートを忠実に辿ることは不可能です。地図と見比べながら、なるべく史実に近い道路を探しながら歩くことにします。

ルートの起点は墨田区の両国にある本所松坂町公園です。旧吉良邸のごく一部ですが、当時の屋敷を復元しています。普通の日なら中に入っていろいろな遺構を見ることができるのですが、今日は園内に長椅子が並べられ、義士祭の式典が執り行われています。人垣ができるくらいで、とても中には入れません。また日を改めて見学に来ることにしましょう。



公園入口の脇には、赤穂義士遺蹟の石碑が建てられています。墨田区のパンフレットには次のように紹介されています。

両国小学校の少し西側、旧本所松坂町・現在の墨田区両国三丁目に、なまこ壁に囲まれた「吉良邸跡」があります。元禄十五年(一七〇二)十二月十四日、赤穂の四十七士が討入りしたところで、[忠臣蔵]で知られるところです。吉良上野介の屋敷は、はじめ鍛治橋の屋敷を拝領していましたが、刃傷事件のあと、赤穂浪士が吉良屋敷に討入るという噂があり、周囲の大名屋敷から苦情が出て、元禄十四年八月御用地として幕府に召し上げられ、一時こどもの上杉弾正大弼の屋敷に身を寄せ、その後、同年九月、ここ本所松坂町の松平登之助の屋敷を拝領し移り住みました。江戸城近くの屋敷から比べれば、赤穂浪士の討入りは、格段に容易になったと世問でいわれました。

この吉良家上屋敷は、広大で東西七十三間(約一三四m)南北三十四間(約六三m)二千五百五十坪(約八四〇〇u)と記されています。吉良上野介がこの屋敷を拝領したのが、元禄十四年(一七〇一)九月三日、義士の討入りがあって没収されたのが元禄十六年二月四日と、前後一年半に満たない短期間でした。屋敷の表門は束側、今の両国小学校に面した方にあり、裏門は西側で、東・西・南の三方は周囲に長屋があり、北側に本田弥太郎、土屋主税の屋敷と地続きになっていました。建坪は、母屋が三百八十一坪(約一二八〇u)長屋は、四百二十六坪(約一四〇〇u)でありました。

現在、「吉良邸跡」として残る本所松坂町公園は二十九・五坪(約九八u)で当時の八十六分の一に過ぎません。これは昭和九年(一九三四)地元両国三丁目町会有志が発起人となって、邸内の「吉良公御首級(みしるし)洗い井戸」を中心に土地を購入し、同年三月に東京市に寄付し貴重な旧跡が維持されました。区への移管は昭和二十五年(一九五〇)九月です。公園をとり囲む高家の格式を表す「なまこ壁」と黒塗りの門が、僅かに、当時の模様を偲ばせています。

毎年十二月十四日の討入りの日には、赤穂四十七土と吉良二十土の両家の供養を行う『義士祭』が行われ、十二月の第二または第三土曜日・日曜日には両国三丁目松坂睦主催で地元商店会などの出店の「元禄市」も開かれ、大変な賑わいを見せています。また「吉良作画も催され、主君のために亡くなった吉良家家臣の冥福を祈っています。


また、吉良上野介の人物像についても書かれています。

吉良上野介義央(1641〜1702)

吉良家は、清和天皇の後裔で先祖は足利左馬頭義氏。江戸城における一切の典礼を司る高家の地位を得たのは、祖父義弥の時です。寛永十八年生まれで三郎の幼名を名のった義央は、十三才で将軍家綱に謁見しました。のちに、京への使者を任され、立派にその大任を果したことから以後有職故実の家柄として重用されるようになりました。賓客を応待することにかけては、義央はまさに天才だったようです。忠臣蔵では悪役に仕立てられた上野介でしたが、領地の三河の吉良(愛知県吉良町)では評判が高く、町の人は今でも「吉良様」と呼んで敬っている善政の殿様でした。新田の開拓や塩業の発展に尽力するなど、多くの事業で成功をおさめ、特に一昼夜で築いたといわれる長さ百八十二メートルの堤があり、この治水工事で豊作が保証されたことから、今でも「黄金堤」と呼ぱれています。領地に滞在している間は赤い馬に乗って領内を巡回するのが日課としており、「吉良の赤馬」は名君吉良様と共に今でもその名を残しています。




赤穂浪士は討ち入りの後、直ぐ近くの回向院で落ち合うことになっていました。ですが、回向院は門を閉ざし、浪士達を中に入れなかったそうです。



討ち入り前の計画では、浪士達は隅田川に架かる両国橋を渡って泉岳寺に向かうことになっていましたが、ここでも奉行によって渡橋を許されず、仕方なく隅田川の東側に沿った道を使うことになりました。その時に渡った橋が隅田川の排水路として開削された竪川に架かる一之橋でした。



一之橋を渡って真っ直ぐに延びる現在の道路は、地図の上では「万年橋通り」と記載されています。途中に小名木川に架かる万年橋があるからです。元禄時代に小名木川が存在したかどうか分かりませんが、この区間は当時と同じルートと思われます。ところで、この「万年橋通り」には別の名前が付けられています。江東区の名称では「万年橋通り」ですが、墨田区の名称は「一之橋通り」です。更に、一之橋の北側では「国技館通り」となっています。ややこしいですが、赤穂浪士が使ったルートは「一之橋通り」とするのが歴史的には妥当なようです。



万年橋通りは清州橋通りと交差しますが、ここでそのまま直進すると永代通りに突き当たります。その後永代橋を渡ったとも考えられますが、そうすると甘酒茶屋の前を通ったとする史実にそぐいません。それで、清州橋通りを右に折れ、甘酒茶屋のあった隅田川脇の「佐賀町河岸通り」に入ります。一之橋を渡った後で隅田川の川沿いに進めば、そのまま「佐賀町河岸通り」につながっていますが、実際はどうだったのでしょうか?



「佐賀町河岸通り」を進みますと、永代橋の手前に甘酒茶屋があります。茶屋といっても、本業は味噌屋です。現在は貸しビルに建て替わっていますが、ビルの前には石碑が建てられていて、その謂れが次のように紹介されています。

赤穂四十七士の一人大高源吾守葉は俳人としても有名でありますが、ちくま味噌初代竹口作兵衛本浄とは其角の門下として徘界の友でありました。元禄15年(1702年)12月14日、本所松坂町(現在の墨田区両国3丁目)の吉良邸討入本懐を遂げた後、大石内蔵助率いる義士達が一ツ目通り(現在の一之橋通り)を引き上げの途中、永代橋へ差し掛るや、あたかも當所乳熊屋味噌店の上棟の日に當り作兵衛は一同を店に招き入れ甘酒粥を振る舞い労を労ったのであります。大高源吾は棟木に由来を認め又看板を書き残し泉岳寺へ引き上げて行ったのであります。

昭和28年(1953年)2月 ちくま味噌16代 竹口作兵衛識


私は何故お茶屋さんが早朝に甘酒のお店を開けていたのか、不思議に思っていました。たまたま討ち入りの日が味噌屋さんの上棟の日に重なり、お祝い用の甘酒を用意していたんですね。それに、味噌屋さんのご主人が四十七士のひとりと俳句仲間だったことがこの逸話を生んだのだと思います。この石碑を読むと、必ずしも浪士達が味噌屋さんの前を通ったとは言い切れませんね。とすると、やはり一之橋通りを直進し、永代通りを進んでいたところを味噌屋さんのご主人がお店に招き入れたとも読み取れます。どうも、こちらが自然なようですね。



ちくま味噌ではこの日を記念し、ビルの前で自慢のお味噌を販売しています。また、甘酒の逸話に因んで、通行人に無料の甘酒を振る舞っています。雪を踏みしめて引き揚げる浪士達には何よりの差し入れだったのでしょう。私も記念に甘酒の素を買い求めました。



元禄浪士 あま酒

ちくま味噌初代作兵衛は、赤穂四十七士のひとり大高源吾と俳諧の友でした。そのため、元禄十五年十二月十四日、本懐をとげた四十七士が泉岳寺へ戻る途中、店前を通った一行を店内に招き、甘酒がゆを振る舞って労をねぎらいました。この時、源吾は返礼として、棟木に「味噌四海遍し」と書きしるし、また「ちくま味噌」の看板を書き残していきました。現在、ちくま味噌では往時をしのんで、乳熊(ちくま)ピル前に記念碑を建て、大江戸の名残をとどめています。


ここでは浪士達が店の前を通ったとあります。とすると、やっぱり「佐賀町河岸通り」を通ったのかな?

永代橋を渡って鍛冶橋通りに入り、八丁堀駅前から左折して聖路加病院に向かいます。現在、聖路加病院と聖路加看護大学の敷地になっているこの辺り一帯は、赤穂浪士の主君である浅野長政の江戸上屋敷があったところです。赤穂浪士は亡き主君に討ち入りを報告し、泉岳寺に向かったといわれています。



浅野内匠頭邸跡(都指定昭和六年六月)

所在地 中央区明石町一〇、一一地域常陸笠間(茨城県笠間市)藩主浅野長直(一六一〇〜七二)は、正保二年(一六四五)、播磨赤穂(兵庫県赤穂市)に領地替えとなり、五万三千五百石を領して内匠頭と称しました。子の長友の代に分与して五万石となります。ここから北西の聖路加国際病院と河岸地を含む一帯八千九百余坪の地は、赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった所で、西南二面は築地川に面していました。忠臣蔵で名高い浅野内匠頭長矩(一六六五〜一七〇一)は、長友の子で、元禄十四年(一七〇一)、勅使の接待役に推されましたが、三月十四日、その指南役であった吉良義央を江戸城中で刃傷に及び、即日、切腹を命ぜられました。この江戸屋敷および領地などは取り上げられ、赤穂藩主浅野家は断絶しました。

平成七年三月中央区教育委員会


築地本願寺に沿って進み、築地四丁目から晴海通りを銀座に向かって進みます。東銀座の歌舞伎座はオフィス棟がほぼ完成し、現在は正面入口が工事中です。明治座よりはマシですが、以前の格式ある屋根とは比べ物になりません。これも時代の流れでしょうけど。



三原橋交差点で左折して昭和通りに入るのですが、交差点角になにやらゆるキャラちゃんが立っていますね。今年の「ゆるキャラグランプリ」で、国内外865体が参加した中で堂々の3位に輝いた「ぐんまちゃん」です。群馬県の物産販売をやっているとかで、お店のスタッフが「ワインの試飲もできますよん」と呼び込んでいます。ナニ、試飲?赤穂浪士のことはさておいて、吸い込まれるように2階の試飲コーナーに向かいます。

重いワインをぶら下げて、ほろ酔い加減で再び赤穂浪士の引き揚げルートを辿ります。蓬莱橋交差点から国道15号線(第一京浜)に入ります。この道は旧東海道のルートになっていて、鎧・兜に身を包み、吉良上野介の生首を掲げての隊列はさぞ異様な光景だったことでしょう。途中には高輪大木戸があり、どうして浪士達が咎めなしに通れたか不思議に思っていましたが、高輪大木戸が設けられたのは1710年ということですので、赤穂浪士が引き揚げるときは未だ大木戸は存在しなかったものと思われます。ということで、本所松坂公園から泉岳寺までの「赤穂浪士討ち入り後の帰還コース」を歩き終えました。所要時間は3時間16分、歩数は29、690歩でした。



泉岳寺の参道には沢山の屋台が並び、参拝客でごった返しています。特に、四十七士が祀られている墓所の入口には行列ができています。参拝は諦めることにしましょう。今日はいろいろな出会いがあって面白かったです。来年も是非歩きたいものです。



私のお勧めのワインは次の通りです(説明文はラベルから転記しました)。

(白) 群馬県: しんとうワイン (2011)

デラウェアを主体に使用し、ぶどうのアロマ(果実香)漂うフルーティワインをお楽しみください。

  • 飲み頃の温度: 7℃前後
  • アルコール分: 12%
  • 原材料: デラウェア・砂糖
  • 酸化防止剤: 亜硫酸塩
  • 製造年: 2011年
  • 容量: 720ml
  • 生産者: しんとうワイナリー


ぐんまちゃん家の2階に設けられたしんとうワインの販売コーナーでは、ワイナリーのオーナー(?)が対面販売をしておられました。小柄なおばさんでしたが、気風がよく、試飲もガンガン勧めて頂きました。赤・白・梅ワインとあったのですが、泉岳寺までの道のりもあるし、どれか1本にしないといけません。あばさんから渋みが際立つと推奨された赤を飲んでみますと、結構酸味が感じられます。おばさんがおっしゃるには、瓶詰してから1週間しか経っていないからだと。出来立てホヤホヤなんですね。白も試飲するよう勧められます。こちらはちょっと甘めですが、美味しいです。梅ワインも飲んでみましたが、こちらは相当に甘く、デザートワインのようでした。赤にも惹かれたのですが、結局白を買うことにしました。抽選券をもらって、一等賞品の赤ワインに挑んだのですが、あえなく敗退。外れで頂いたビーフジャーキーをお供に白ワインを飲みましょう。。。



キャップシールをフォイルカッターではがし、ソムリエナイフでコルク栓を抜きます。グラスに注いでみますと、透明な色の白ワインが多い中、やや濃い黄金色です。香りはあまり感じません。口に含んでみますと、気のせいか梅酒のような味がかすかにします。少し甘めなので、蜂蜜が溶け込んだような味にも感じられます。このワインには砂糖も使われているようで、甘さが感じられるのもそのあたりから来ているのかもしれません。ヨーロッパ系のワインではあまり使われないデラウエア種の葡萄から造られていますので、日本のワインを飲みなれない方には新鮮に感じられるでしょう。



ボトルの上半分が透明なのは、飲む前に撮り忘れたためです。。。















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