北沢川コース  

コース 踏破記  

東京には多くの緑道があります。好みもあるのでそのランキングをつけることはしませんが、蛇崩川・烏山川・北沢川を暗渠化してその上に造られた緑道はどれもよく整備されていて人気があります。烏山川と蛇崩川は既に歩きましたので、今日は北沢川を歩きたいと思います。北沢川緑道はかって何度も歩きましたが、源流を辿るという発想はありませんでした。今回は源流から烏山川緑道との合流点までの完全踏破をしたいと思います。ネットで調べますと、北沢川の源流は世田谷区上北沢にある松沢病院の中にあるそうです。松沢病院といえば、昔赤堤通りを歩いた折に見かけたことがあります。確か、高い塀に囲まれて世間と分断されたような雰囲気がありました。勿論、病院の敷地に立ち入ったことはありません。地図で確かめますと、京王線の上北沢駅が最寄りのようです。今日は藤井聡太七段と師匠の杉本昌隆八段の竜王戦3組ランキング戦決勝の対局があります。決着は夜遅くになると思いますが、早めに帰りたいので電車で上北沢駅に来ました。駅から住宅地を抜けて赤堤通りに出ますと以前と街の雰囲気が違っています。10年以上前は赤堤通りからは松沢病院の塀しか見えなかったのですが、病院の手前に真新しい巨大な建物が建てられています。その先の塀で囲まれていた一帯は見通しのよい公園になっています。公園の名称は将軍池公園と表示されています。どうやら、松沢病院の敷地内にあった将軍池が病院敷地から切り離されて公園として再整備されたようです。



公園の中に入りますと、目の前に築山を備えた大きな池があります。周囲がフェンスに囲われていますので奥の方までは見通せませんが、かなりの大きさに思えました。池の畔には説明板があり、次のように書かれていました。

将軍池と加藤山の由来

この池と築山は都立松沢病院(大正八年に東京府巣鴨病院が旧東京府小石川区巣鴨駕篭町からこの地に移転し、東京府立松澤病院となりました)の第五代院長呉秀三のもと、加藤普佐次郎医師、前田則三看護師および多くの患者によって屋外作業療法の一環として造られたものです。大正十年七月から造園作業に着手し、翌年には約八割の工事を終えましたが、完成間近の大正十二年九月一日の関東大震災により、築山は当初の富士山型が崩れ、現在のなだらかな形になりました。その後、造園作業は再開され、園芸家堀切三郎の指導によりあずまやを配置するなどして大正十五年に完成しました。この将軍池と加藤山は原田治郎の英文の著書「JAPANESE GARDENS」によって精神障害者の造った素晴らしい庭園として広く世界に紹介されました。将軍池の名は、作業に参加した患者で自称「将軍」葦原金次郎にちなんだものです。また、加藤山の名は作業を指導した加藤普佐次郎医師に由来しています。




源流は確認できましたので、ここを起点にして北沢川の歩きを開始します。将軍池からどのように水が流れ出しているのか、明確な痕跡は見当たりません。池から続く芝生に一本の細い道がありますが、それらしきもあり、そうでないかも。将軍池から直線を引っ張ると東京都医学総合研究所の建物に突き当たります。



建物の反対側に回りますと、上北沢公園通りに面した上北沢地区会館の先のマンション横にT字路が延びています。その先から北沢川緑道が始まっているのです。



やれやれ、これでもう地図なしで歩けると思いきや、荒玉水道道路を越えた先で日大の広大な敷地に突き当たります。どうやら北沢川は大学(高校も附属していますが)校内に潜ったようです。大学の敷地には入れませんので、壁に沿って進みURの赤堤通り団地の前に出ます。歩道には何となく緑道の雰囲気が感じられますが、定かではありません。そのまま進んで団地前交差点で赤堤通りに出ます。ところが赤堤通りには北沢川緑道と思われるものは何も見当たりません。あちこち歩きまわっていたら、赤堤三丁目交差点の手前に赤堤通りで分断された緑道が見つかりました。こちらが本来のルートだったのです。仕方がないので緑道を逆向きに戻ってみましたら、日大の敷地の前のフェンスで行き止まりになりました。どうやら、校内に潜った北沢川はここから緑道に沿って下流に流れて行くようです。



今度は赤堤通り団地の裏手を進みます。緑道の入口に小さな広場があり、「北沢川と左内弁財天」の案内板がありました。

北沢川は、江戸時代初期に玉川上水から分水して用水として整備されました。それ以前は現在の松沢病院構内の窪地などの湧水や周辺の雨水が集まった細流で、水量も豊かとはいえなかったようです。隣の広場にある弁財天は、上北沢村の旧家で村の名主をつとめた鈴木左内家が祀っていたことから、左内弁財天といわれています。左内家の祖先は、北沢用水を開くのに尽力したと伝えられています。この左内弁財天がいつ頃から紀られるようになったのかはわかりません。このあたりには池があり、そのほとりに左内弁財天は祀られていました。農業が生活の中心であった江戸時代には水は何よりも大切なものでした。そこで、人々は用水や川や池などの水のほとりに水神や弁財天を祀り、豊かな水の恵みを祈りました。左内弁財天もそのひとつです。

この弁財天にまつわるものとして、様々な説話が伝えられています。そのひとつに次のような話があります。鈴木左内家の娘は周囲が羨むほどの美しい娘でした。ある日この娘が井の頭の池に遊びにでかけたところ、井の頭池の竜神が娘を見初めました。電神は美男子に姿を変えて娘の前に現れ、娘もその若者に恋をするようになりました。その若者が自分の正体は電神であることを娘に告げたところ、娘は始めは驚いたもののその若者に嫁ぐことを決心しました。娘は家に戻った後、病にかかりました。父母は心配しましたが、日毎に容体が悪化するのでついに諦めて娘を井の顕池に連れていきました。娘は泣きなから祈ったあと、池に身を投けました。すると水面に巨大な蛇が現れ、再び水底に消えていきました。この後、鈴木家では弁財天を祀るようになったといいます。

北沢川や弁天池では、ナマズ・フナ・ドジョウなどか獲れ、夏には蛍も見られたといいます。しかし左内弁財天の詞も戦災で焼矢したといわれ、都市化が進むとともに北沢川は汚れ、水量も減り、その周辺の様子も変わってしまいました。昭和40年代から、北沢川は下氷道として順次暗渠とされていきました。そして昭和54年には弁天池のあった部分も完全に埋め立てられることになりました。この時、この地に人々の暮らしを支えた川が流れ、その川を大切にしてきた人々によって弁財天か記られていたことを伝えていきたいという地元と人々の気持ちで、左内弁財夫が再建されました。また池があった弁財天の周囲も広場として開放されました。かつて北沢川や弁天池で子ども達が遊んだ昔か懐かしまれます。




赤堤通りを渡り、本格的な緑道が始まります。緑道の両側には手入れの行き届いた植樹がなされ、ところどころにルートを記した案内図が立てられています。



経堂駅近くから小田急線の高架と平行するように緑道が延びています。豪徳寺駅手前で世田谷線と交差するのですが、当然のことながら緑道は中断します。でも、駅構内の踏切を渡って反対側に出ますと、また緑道が再開します。この先も住宅地の間を縫うように整備された緑道が続きます。



案内板のひとつに、世田谷区の緑道一覧表が書いてありました。全部で8つの緑道が整備され、総延長は17km(世田谷区内のみ)にも及ぶそうです。最長は烏山川緑道の6.8kmとのことです。やはり、烏山川緑道・北沢川緑道・蛇崩川緑道は世田谷区の三大緑道といってもいいでしょう。



別の案内板には、昭和初期の時代の北沢川の写真が添えられていました。キ市化が進み、生活排水の流入によって水質が悪化したことと、大雨時に洪水が発生しやすくなったことから昭和40年代に暗渠化され、昭和53年頃から上部が緑道として整備されたのだそうです。平成7年から平成19年にかけて、「ふれあいの水辺」として再生されたとのこと。先人の努力があってこそ、緑道散策を楽しめるということですね。



北沢川緑道は都内屈指の梅の名所である羽根木公園の南端をかすめ、梅ヶ丘駅の先で小田急線の高架を通ります。



環七を越えますと、淡島通りまで桜並木が約150本続き、桜の名所になっています。毎年、春にはまだ川だった昔から続いている桜まつりが行われ、多くの人で賑わうそうです。緑道の片側にはせせらぎが流れています。北沢川の水が現れたのではなく、せせらぎの水源は東京都下水道局落合水再生センター(下水処理場)で水質を向上させて処理した再生水(高度処理水)を利用しているとのことです。飲むことはできませんが、せせらぎには鯉が泳ぎ、亀が甲羅干しをしています。子供達も水遊びをしていますが、大丈夫なのでしょうかね?



また、せせらぎの途中には「文学の小路」と彫られた石碑とか文人の案内板が置かれています。

この北沢川緑道沿岸には近代日本文学を担う多くの文士たちが居住していたことから、この「ふれいあいの水辺」を『北沢川文学の小路』とも呼んでいる。作家、詩人、歌人、俳人たちが普段着姿で散策した場所になっていた。代田に住んだ地下足袋姿の白髭斉藤茂吉は川縁を散策し、土地誉めの歌を多く詠んだ。その歌聖のすぐ近くの丘上には詩聖の終の棲家がある。萩原朔太郎は今でも残っている東電の鉄塔の下に住んでいた。彼の娘萩原葉子はこの家での凄惨な生活を「蕁麻(イラクサ)の家」(女流文学賞)に書き記している。複雑な家庭環境にあったらしい。女流俳人第一人者中村汀女も代田の崖線で作句した。羽根木公園にその句碑がある。「外にも出よ触るるばかりに春の月」。既成の価値に対して反旗を翻した無頼派のうち三人が河畔にいた。代沢小学校の代用教員だった坂口安吾、太宰治の墓前で自殺した田中英光、昭和文学の巨城を築いた石川淳だ。北沢八幡神社の裏手の丘に鬼才とも文学の神様とも称された横光利一が住んでいた。彼の家は「雨過山房」と言われ、、川端康成をはじめとして横光を慕う文人が多く集まった。丘の麓には宇野千代と東郷青児との愛の巣があった。モダンな白いコルビジェ風アトリエだ。彼から女性遍歴を聞いて名作「色ざんげ」が生まれた。彼女の旧居のすぐ上にいたのは「肉体の門」の作者田村泰次郎だ。日本性愛文学の驚くべき至近距離だ。コルビジェの白のすぐそばに、昔将軍も訪れた阿川家赤門がある。その丘を下がった川べりに森鴎外の愛娘、森茉莉(小説家・随筆家)がいた。新宿、渋谷にすぐ行けるという利便性、それと丘と谷と川のある武蔵野残映がこの一帯に文人を呼び寄せたのであろう。



三宿二丁目付近で緑道は大きな道路の工事現場に遭遇します。駒場方面から玉川通りに繋がる道路が新設されるようです。密集した住宅地を切り開いて道路を通すのですから、大変な工事です。完成までに何年かかるのでしょうか?



ようやく北沢川の終点が見えてきました。烏山川との合流地点です。



ここから目黒川が始まります。烏山川と北沢川は目黒川の支流という位置付けなんですね。さて、どうしましょうか?帰宅するにはちょっと早いし、頑張って目黒川も歩きましょうかね?

 




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