桃園川コース  

コース 踏破記  

今日は朝から小雨。昼前には雨は上がるとの予報です。予報通り雨が上がりましたので、ちょっと遅めの出発になりましたが、桃園川を歩くことにします。桃園川の源流(水源)は杉並区の天沼弁天池になります。荻窪駅から徒歩で7−8分でしょうか、天沼八幡通りを進んだ先に天沼八幡神社があります。6月も終わりに近づいていますので、境内に茅の輪が設けられています。知らず知らずの間に受けた罪穢を祓うための儀式だそうで、私には関係ないと思いつつ、左・右・左と輪をくぐったら目が回ってしまいました。気を取り直し、神社の近くの天沼弁天池公園に向かいます。



天沼弁天池公園は住宅に囲まれた一画にあります。入口には立派な長屋門があります。

天沼弁天池公園は元々は近くにある天沼八幡神社の敷地の一部で、敷地内には自然の湧水を湛えた池(天沼弁天池)があった。この池は同地の地名「天沼」の名の由来ともされている池で、池の中央には弁財天を祀った島があり、大正時代までは雨乞いの行事も行われていた。しかし、その後は付近の宅地化とともに、池の湧水は涸渇した。また、1955年から1970年頃までは料亭「天沼池畔亭」もあった。その後、1975年に弁財天を神社の敷地に移し、敷地一帯は西武鉄道に売却され、西武ゴルフ研修所となった。その後2007年に杉並区に売却され、既存の池のほかに広場や杉並区立郷土博物館分館などが造られた。公園正門は、敷地が西武鉄道のものだった時に造られた門です。



公園内の天沼弁天池の案内板には次のように書いてありました。

昔、この公園の敷地にはこんこんと水の湧き出る「天沼弁天池 」と呼ばれる池があり、天沼の地名の起こりとなったと言われています。場所は、公園内南側の現在は広場になったいるあたりで、広さ約300坪(直径35m程度)の円形で、約5坪(直径4〜5m)の島には弁天様が祀られていました。池の水は桃園川の水源のひとつで、大正の半ば頃までは流域の農民にとって重要な役割を果たしていたことから、雨乞いの行事も行われていました。昭和35年頃までは、スイレンなどが咲き、魚も泳ぎ、子どもたちの遊び場ともなっていました。その後、都市化の進行とともに、農地が減少し地下水は枯れ、荒れ果ててしまった池は埋め立てたれました。現在の池は公園になる以前、人工的に造られた池を残したもので、井戸水を利用しています。



現在では、弁天池の中央にあった弁天様は公園の隅っこに移されています。ちゃんと手入れがされており、地域の氏神様として崇められているようです。



公園の裏手の先でカラー舗装の歩道が始まっています。この歩道の下に暗渠化された桃園川が流れていると思われます。その先で右手の公園にも歩道が延びています。これは、青梅街道沿いを流れていた千川用水の六ヶ村分水を桃園川へ引水していたころの導水路のひとつらしいです。



天沼八幡通りを越えた先にもカラー舗装の歩道が続いています。住宅地の間を縫うように通っていますが、途中に銭湯があります。銭湯で使ったお湯を桃園川に流していたとのことです。



歩道は中杉通りに突き当たるまで続きます。問題はその先のルートです。



歩道を直線で延ばした先の路地には桃園川の痕跡は見当たりません。しかし、直ぐ先の信号を右折した先の細い路地にコンクリート板で塞がれた歩道が続いています。これが暗渠化された桃園川であれば、中杉通りの下でなだらかに繋がっているものと思われます。



コンクリートで塞がれた暗渠上の歩道は住宅の間を広く細く続いています。



河北総合病院の横を通ってなおも進みますと、中央線の高架が見えてきました。その先から桃園川緑道が始まっていますので、どうやらこのルートが正しいようです。



緑道の入口にはアーケードが架かっていました。「桃園川緑道」と書かれた石の上には口を開けた蛙のファミリーが置かれて」います。昔の桃園川の田園風景が目に浮かびます。



少し進みますと、緑道から杉並学園の建物が見えてきます。プロゴルファーの石川遼、女優の天海祐希・松原智恵子・浅丘ルリ子などを輩出した有名校です。



緑道の脇にあった石碑には次のように書かれていました

桃園川緑道の沿革

「桃園川緑道」は元来、天沼の弁天池(天沼三丁目地内)を水源として東流し、末広橋(中野区内)で神田川に合流する「桃園川」と呼ばれた小河川でした。「桃園川」の名は江戸時代初期に付近の「高円寺」境内に桃の樹が多かったことから、将軍より地名を「桃園」とするよう沙汰があったことに由来しています。その後、「桃園」は中野に移されています。)江戸時代中期には「千川上水」から分水したり「善福寺川」から「新堀用水」を開削し、導水するなどして「桃園川」沿いの新田開発が、進められました。大正末期には、この付近も関東大震災を契機とした都市化の波を受け、川沿いの地区は耕地整理が行われ、数条に分岐していた「桃園川」も流路が整えられ、それに伴い水田風景も姿を消しました。その後、「桃園川」は宅地化の進む中で大雨の度に氾濫を繰り返し、川沿いの地区に被害をもたらしましたが、昭和42年、東京下水道局により桃園川幹線として暗渠化され、以降、水害も治まり河川としての使命を終えました。杉並区では、昭和44年、この地上部分を中野区境から中央線までの区間、整備し、「区立桃園川公園」として開園しました。その後、施設の老朽化に伴い、平成元年より五ヵ年を掛け再整備を行い、緑と花のプロムナード「桃園川緑道」として新しく生まれ変わりました。




高円寺駅の南で高円寺パル商店街と高円寺ルック商店街と交差します。緑道の北側の駅に近いアーケードになっているのが高円寺パル商店街で、青梅街道に続くアーケードの途切れた南側が高円寺ルック商店街になっています。いろんなお店があって、歩くだけで楽しい通りです。



環七と交差するところには、桃園川の沿革を記した案内板と小さな広場があります。アーチの前の石柱には星の王子様を思わせる少年の像が乗っかっています。手に持っている棒は竿で、釣りの間に一休みしているのでしょうか?



中野五叉路の近くに桃園橋があります。橋の名称は、徳川八代将軍吉宗が鷹狩りでこの地に訪れた際に、多くの桃の木を植えさせて「桃園」という名称を付け、庶民にも楽しめる一大行楽地にした事が由来となっているようです。



山手通りを越えた先の緑道に「中野塔」と書かれた銅板を埋め込んだ石碑があります。江戸名所図会に描かれた中野塔だそうです。中野塔は中野寶仙寺三重塔のことで、次の歴史があります。

三重塔が最初に建立されたのは江戸初期の寛永13年(1636年)といわれており、江戸庶民にも親しまれ、歴代将軍の尊崇もあつく御鷹狩りの休憩所としても有名でした。高さ24m、屋根は檜皮葺、池上本門寺五重塔や上野寛永寺五重塔とならんで江戸時代初期の典型的な建造物であり、江戸近郊で唯一の三重塔でした。昭和20年5月25日の大空襲で焼失し、平成4年に宝仙寺の現在の境内に再建されました。この塔は焼失した塔とほぼ同じ高さですが、昔のものとは形が違います。この塔が最初に建立された時の施主は地元の農民の飯塚惣兵衛という人でした。当時一般人が三重塔を建立するのは大変珍しいことでした。



桃園川は末広橋で神田川に合流しますが、その手前の広場にかぐや姫が歌った「神田川」の歌詞を刻んだ石碑が置かれています。でも、神田川の舞台はここではないような。



末広橋から上流に向かって神田川を眺めてみましたが、桃園川の出口は見当たりません。帰ってからネットで調べてみたら、桃園川の出口は末広橋の脇をくぐるかたちで、下流側にぽっかり口をあけているみたいです。緑道を延ばすと末広橋の上流側に当たるので、下流側は全く見ていませんでした。ちょっと不完全燃焼な感じ。



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