- 神田川コース(2)
- コース 踏破記
- 今日は梅雨の合間の貴重な晴天です。夏至は過ぎましたが、予報では日照が11時間も見込めるそうです。明日からはまた雨の日が続くみたいですから、今日は先日に引き続き、神田川の後半区間を歩きたいと思います。引き継ぎ地点は中野新橋です。赤い欄干が印象的ですが、ここからは新宿の高層ビル群が望めます。この辺りは距離的に新宿に近いということと、見る方角がちょうど良いということで、都庁のツインタワーの格好の眺望スポットになっています。特に、中野新橋駅に近い川島通りという鄙びた商店街は「都庁がよく見えるスポット」として、観光ガイド本に紹介されています。
中野新橋から山手通りに向かって神田川の遊歩道(右側)を進みます。レンガ敷の遊歩道には幾つかのプレートが埋め込まれ、源流の井の頭池から隅田川の合流地点までの道のりが主要ポイントと共に表示されています。プレートは神田川の全長である24.6kmの千分の一の縮尺の24.6mの長さにわたって敷かれています。「みなもと 井の頭池」から始まって、「環八通り 佃橋」・「塚山公園 (塚山遺跡)」・「環七通り 方南橋」・「善福寺川」・「中野通り 寿橋」・「現在地 向台小学校」・「山手通り 長者橋」・「落合中央公園 (落合下水処理場)」・「妙正寺川」・「明治通り 高戸橋」・「芭蕉庵 (江戸川公園)」・「目白通り 江戸川橋」・「日本橋川」・「東京ドーム (小石川後楽園)」・「白山通リ 水道橋」・「昭和通り 和泉橋」・「隅田川」まで、神田川の見所と共に各地点の位置が表示されています。面白い発想ですね。
神田川が山手通りと交差するところに架かっているのが中野長者橋です。何やら謂れのありそうな名前ですが、次のような伝説があります。
中野長者伝説
今は昔、応永の頃(1394年〜1427年)、紀州熊野から鈴木九郎という若者が中野にやってきました。九郎はある日、総州葛西に馬を売りにいきましたところ、高値で売れました。信心深い九郎は仏様の功徳と感謝して得たお金はすべて浅草観音に奉納しました。さて、中野の家に帰ってみたところ、我があばら家は黄金に満ちていたのです。観音様のご褒美でした。それから九郎の運は向き、やがて「中野長者」と呼ばれるお金持ちになりました。その後、故郷の熊野神社を移して熊野十二社を建てたり、信心深い生活は続いていました。ところが、あふれる金銀財宝が屋敷に置ききれなくなった頃、九郎に邪念が生じたのです。金銀財宝を隠そうと人を使って運ばせて、帰りにその人を亡き者にするという悪業を働きはじめたのです。村人たちは、「淀橋」を渡って出掛けるけれど、帰りはいつも長者一人だということから、いつしかこの橋を「姿見ず橋」と呼ぶようになりました。しかし、悪が栄えるためしなし、やがて九郎に罰があたります。九郎の美しい一人娘が婚礼の夜、暴風雨とともに蛇に化身して熊野十二社の池に飛び込んでしまったのです。九郎は相州最乗寺から高僧を呼び、祈りを捧げました。すると暴風雨はおさまり、池から蛇が姿を現し、たちまち娘に戻りましたが、にわかに湧いた紫の雲に乗って天に昇っていってしまったのです。以来、娘の姿は二度とこの世に現れることはなくなったのです。九郎は嘆き悲しみ、深く反省して僧になりました。そして、自分の屋敷に正歓寺を建て、また、七つの塔を建てて、娘の菩提を弔い、再び、つましく、信心深い生活に戻りました。めでたし、めでたし・・・
長者橋を渡って神田川の細い側道を進みます。青梅街道と交差するところに架けられたのが淀橋です。税務署通りと二股に分岐する地点の西新宿側一帯は大規模再開発中です。この一画はちょっと前まではビルや住宅が密集していましたが、あっという間に更地になり、今は工事用のクレーンが林立しています。淀橋の名前の由来については中野長者伝説でも紹介しましたが、橋の袂に次のような案内板が立っています。
淀橋の由来
「淀橋」の名は、江戸時代の三代将軍徳川家光 が名づけたといわれています。古くからあるこの橋は、昔は「姿見ずの橋」とか「いとま乞いの橋」といわれていたといいます。このあたりで中野長者といわれていた鈴木九郎 が自分の財産を地中に隠す際、他人に知られることを恐れて手伝った人を殺して神田川に投げ込みました。九郎と橋を渡る時には見えた人が、帰るときには姿が見えなかったことからその名がついたといわれます。江戸時代の初めに鷹狩りのためこの地を訪れた将軍家光はこの話を聞き、「不吉な話で良くない、景色が淀川を思い出させるので淀橋と改めるよう」に命じ、これ以降、その名が定まったそうです。
先日桃園川を歩いた際に、神田川との合流点そばに架かる末広橋に開口部がないことに不思議な思いをしました。後で調べてみて、末広橋の下流側に開口部があるとのことが分かりました。今日、実際に確かめてみたら、確かに、末広橋の下流側に大きな口を開けていました。もっとも、今では桃園川暗渠を流れる水は周辺地域の汚水などが集まったもので、通常時は合流地点からは流れ出ず、別の地下管渠で落合水再生センターへ直接送られて下水処理されているそうです。神田川との合流点では、通常流れ出る水はほとんどありません。降雨時などの臨時の出口になっています。
新宿区内の神田川の側道にも小さな植栽のスペースが設けられていて、ところどころに河川をモチーフにした彫像が置かれています。おや、この人形姫にはマスクはかかっていませんね。水の中ではコロナウイルスをガードする必要はないのでしょう。
更に進んで中央線の高架下を潜ります。左手には2棟の高層タワーがそびえ立っています。昔は結婚式場で有名だった日本閣の跡地に建つマンションです。30階と31階建てだそうですが、建設当時は東中野エリアに高層ビルが少く、とても目立つ存在でした。
小滝橋の手前に神田上水公園があります。神田川沿いの細長い敷地ですが、植栽とか健康器具とかが充実しています。おや、おばさんが背伸ばしベンチで入念にストレッチをしています。あまり人には見られたくない光景です。新宿区のHPには、「延長約600mのなかに流れや遊具で遊べる空間があります。園内の桜並木はみどりの新宿30選に選ばれており、四季折々に美しいです。」と紹介されています。
小滝橋で早稲田通りを越えた先に落合中央公園があります。東京都下水道局管轄の落合水再生センターの上部に作られた人工地盤の上に建設され、野球場やテニスコートも附属する広大な公園施設です。敷地の一角には、せせらぎの里という施設もあります。
落合水再生センター
落合水再生センターは、新宿副都心に極めて近く、住宅地に囲まれた水再生センターとして環境に配慮した管理を徹底しています。処理区域は、落合処理区(3,506ヘクタール)のうち、中野・新宿・世田谷・渋谷・杉並・豊島・練馬区の一部です。処理した水は神田川に放流しています。また、一部は再生水として西新宿や中野坂上地区のビルのトイレ用水や城南三河川の清流復活事業に活用しています。発生した汚泥は、東部スラッジプラントへ圧送し、処理しています。
せせらぎの里
落合下水処理施設の地上部に作られた、広さ約8,000uの公園です。園内にはせせらぎが作られ、その周りはコナラを主体とした雑木林です。手入れの行き届いた花壇や遊具が置かれた広場などもあり、春はツツジ、秋には紅葉が楽しめ、夏は格好の水遊びの場となります。
落合中央公園の先で神田川は東に大きく方向を変えます。この先、暫くは側道が途切れます。回り道をしようとしたのですが、どう間違えたのか西武新宿線の線路に突き当たってしまいました。仕方がないので、一旦新目白通りに出ます。先日歩いた妙正寺川に架かる辰巳橋の下流側から見ますと高田馬場分水路の出口が見えます。出口にはカーテン状の覆いがかけられています。何なのか、何のためにあるのかは依然として不明です。
高田馬場分水路
高田馬場分水路は、河川沿いの高度利用が進み、河道拡幅による河道整備が困難であった神田川の中流部において、早期の治水安全度向上を図ることを目的として整備した4つの分水路の一つです。神田川にはこのほか、江戸川橋分水路、水道橋分水路、お茶の水分水路の3つの分水路があります。この分水路は、妙正寺川と神田川の分水を受け、高戸橋上流にて再度神田川本流に合流します。全区間が神田川沿いの新目白通りの地下に敷設されています。
途中で再び西武新宿線を越え、神田川の方に戻ります。東京富士大学のアカデミックな校舎の前を通りますが、側道は未だ再開していません。神田川に架かる田島橋の袂に「落合挿図」という案内板が立っています。
落合挿図
「江戸名所図会」の中に「落合惣図」と題された、二つの河川の落合う様子を描く鳥瞰図があります。落合は江戸名所の宝庫であり、落合蛍、一枚岩、藤森稲荷社、泰雲寺古事と、絵図入りで紹介されているのが4個所、さらに本文に氷川明神社、七曲坂、落合土橋があり、これら一連の落合ものの総まとめとなっている図で、鳥瞰された落合の風景の随所に、名所、旧跡の名前が書き込まれています。田島橋の名前は、昔、安藤但馬守が狩にいくときの通路に造ったことに由来しています。
高田馬場駅まで出て早稲田通りから左折して神高橋に向かいます。ようやくここから側道が再開します。高田橋で新目白通りを越え、直ぐ先の明治通りに架かる高戸橋から眺めますと、妙正寺・高田馬場分水と神田川の合流点がよく分かります。ん?数えてみるまでもなく、出口が3つ見えますね。左側は神田川の本流ですけど、右側の2つの出口は?答えは、
いちばん左が神田川の本流、まん中の暗渠出口が神田川高田馬場分水路、右側の暗渠出口が妙正寺川ということになります。下落合の辰巳橋付近で高田馬場分水路と妙正寺川の水はいったん合流し、そこから高田馬場分水路と妙正寺川の2本のトンネル(暗渠)に再び分けられて流れていきます(道路でいうと、単に一本の道が2車線に分かれているだけ)。高田馬場分水路に神田川の水が流れてくるのは雨が降って流量の多いときだけで、普段は落合水再生センターの下水処理水しか合流していません。
明治通りと都電荒川線(全く馴染まれていないが、愛称は「東京さくらトラム」という)を越え、直ぐ左折して神田川の遊歩道に入ります。「神田川の魚道」なる案内板が立っています。
神田川の魚道
以前このあたりには、川幅全体に川の流れを弱めるための段差が設けられていました。これは治水の観点から必要なものでしたが、一方で魚の遡上の妨げにもなっていました。東京都は、河川改修に合わせてこうした段差を解消し、魚などの移動経路と生息空間としての機能を合わせ持つ魚道を平成9年度に設置しました。一度は姿を消していたアユが、再び神田川で確認されるようになったのは平成4年頃からですが、この魚道の設置によって上流側の高田橋付近までアユの遡上が確認されるようになりました。
少し先に面影橋があります。案内板には次のように書いてありました。
面影橋の由来
目白台から続く鎌倉街道と推定される古い街道沿いにあり、姿見の橋ともいわれていました。橋の名前の由来には諸説あり、高名な歌人である在原業平が鏡のような水面に姿を映したためという説、鷹狩の鷹をこのあたりで見つけた将軍家光が名付けたという説、近くにいた和田靱負の娘であった於戸姫が数々の起こった悲劇を嘆き、水面に身を投げた時にうたった和歌から名付けられたという説などが知られています。なお、姿見の橋は面影橋(俤の橋)の北側にあるもので、別の橋だという説もあります。
なんか、名前の由来がイマイチ理解不能ですね。
駒塚橋からふと左手を見ますと、急峻な坂が遙か上まで続いています。距離もさることながら、勾配が半端ではありません。坂の入口には次のような案内板が立っていました。
胸突坂
目白通りから蕉雨園(もと田中光顕旧邸)と永青文庫(旧細川下屋敷跡)の間を神田川の駒塚橋に下る急な坂である。坂下の西には水神社(神田上水の守護神)があるので,別名「水神坂」ともいわれる。東は関口芭蕉庵である。坂がけわしく,自分の胸を突くようにしなければ上れないことから,急な坂には江戸の人がよくつけた名前である。ぬかるんだ雨の日や凍りついた冬の日に上り下りした往時の人々の苦労がしのばれる。
胸突坂の中腹に芭蕉庵があります。俳人の芭蕉ゆかりの庵がなんでここに?と思いましたが、松尾芭蕉は、この付近に3年ほど住んで神田上水の工事に関わったとされています。芭蕉は俳人だけではなかったんですね。
駒塚橋の先には野間記念館もあります。講談社初代社長野間清治氏が収集した「野間コレクション」と称される美術品を中心に展示し、講談社の出版事業にかかわる貴重な出版文化遺産も数多く展示されています。残念ながら令和元年7月から休館中となっていますが、敷地内に新設される新たな展示館で展示が再開される計画だそうです。
野間記念館と隣接するようにして椿山荘の裏木戸があります。殆どのお客さんは目白通りに面した正面入口から入るのでしょうけど、裏木戸から入るのも風情がありますね。
椿山荘
武蔵野台地の東縁部にあたる関口台地に位置し神田川に面したこの地は、南北朝時代から椿が自生する景勝地だったため「つばきやま」と呼ばれていた。江戸時代は久留里藩黒田氏の下屋敷だった。明治の元勲である山縣有朋は西南戦争の功により年金740円を与えられ、明治11年に購入し、自分の屋敷として「椿山荘」と命名した。
椿山荘の先に、神田川流域の中では最大規模と思われる江戸川公園があります。公園内の大滝橋付近に神田上水取入口の跡があります。江戸時代に神田上水への取水堰が設けられ、大滝のごとく神田川は流れていたといいます。この取水堰が後の文京区関口というこの界隈の地名となっています。 神田上水はここの堰で取水され、概ね神田川(江戸川)と並行して旧水戸藩後楽園内を地形等高線に沿って水道橋の掛樋に向かっていました。
神田上水取入口大洗堰跡
徳川家康の江戸入りの直後、井の頭池から発する流れに善福寺池・妙正寺池の流れを落合であわせ、関口で取水して水路を定めたのが神田上水である。大洗堰で水は二分されて分水は江戸川に落とし、他は上水として水戸殿に給水し、神田橋門外付近で二筋に分かれた。一つは内堀内の大名屋敷に給水し、他の一つは本町方面、日本橋で北の町屋に給水した。大正末年には水質、水量とも悪くなり、昭和8年に取水口はふさがれた。上水道として最も古い神田上水の、取水口である大洗堰の跡は永く歴史に残したいものである。
江戸川公園の中には、大洗堰の取水口の石柱も保存されています。取水口には上水の流水口を調節するため、「角落」と呼ばれる板をはめ込むための石柱が設けられました。ここにある石柱は昭和8年大洗堰の撤去に伴い、移設・保存されたものだそうです。
大滝橋のひとつ下流側に一休橋という人道橋が架かっています。幅も狭く、近辺ではひときわこぢんまりした橋ですが、安政年間の江戸切絵図には関口橋の名前でほぼ同じような位置にかかる橋が掲載されています。このころから別名「いっきゅう橋」と呼ばれていたようです。その後、明治時代に周辺の土地の用途の変化などの事情で廃止されましたが、ほぼ同じ附近に復活した現在の橋にもこの名前が受け継がれています。ちなみに「一休さん」とは関係はなく、左岸の川沿いに「一橋殿の抱屋敷」があったことから俗称「いっきょう橋」、それが変化して「いっきゅう橋」となったといわれています。なんだ。。。
江戸川橋から首都高5号線にそって飯田橋を目指します。この辺りから神田川は完全なドブ川の様相を呈してきます。水道橋の手前で神田川から日本橋川が分流します。まさかこんなところから日本橋川が始まるとは思ってもいませんでした。
水道橋の近くには、神田川に関わる石碑があちこちに見られます。青銅のプレートには、水道橋の名前の由来として、「水道橋の名は、江戸名所図会によれば、この橋の少し下流にかけ樋があったことに由来します」と書かれていました。図には、急流の中を川遊びする様子が描かれています。今のドブ川の風景からは想像もできません。
もうひとつ「神田上水」の石碑には次のように書かれていました。
神田上水
神田上水は、井の頭池の湧水を水源とする江戸時代初期につくられた日本最古の都市水道です。文京区関口に堰を設けて上水を取り入れ、小日向台下の裾をとおり小石川後楽園の中をぬけ水道橋の東側で神田川を掛樋でわたし、神田、日本橋方面に給水されていました。
更に、「御茶ノ水分水路」と彫られた巨岩の碑もありました。河川沿いの高度利用が進み、河道拡幅による河道整備が困難であった神田川の中流部において、早期の治水安全度向上を図ることを目的とした「神田川分水路事業」の一環で、水道橋分水路・江戸川橋分水路・高田馬場分水路と共に造られたお茶の水分水路を記念する石碑です。
更に更に、「神田上水懸桶(掛桶)跡」なる石碑もありました。石碑の右半分には当時の様子が描かれています。
江戸時代、神田川に木製の樋(とい)を架け、神田上水 の水を通し、神田、日本橋方面に給水していました。明治34年(1901年)まで、江戸・東京市民に飲み水を供給し続け、日本最古の都市水道として、大きな役割を果たしました。この樋は、懸樋(掛樋)と呼ばれ、この辺りに架けられていました。この絵は、江戸時代に描かれたもので、この辺りののどかな風情が感じられます。
順天堂大学・東京医科歯科大学の先の中央線の高架下のトンネルから神田川を渡る丸の内線の電車が見えます。大雨で神田川の水位が上がったら通行不能になるかもしれません。
秋葉原駅の手前に昌平橋と万世橋があります。「肉の万世」でお馴染みの橋です。
徳川綱吉が1691年(元禄4年)に孔子廟である湯島聖堂を建設した際、孔子生誕地である魯国の昌平郷にちなんで「昌平橋」と命名しました。
徳川将軍は、寛永寺に詣でる際に現在の昌平橋と万世橋との中間にあった筋違橋を渡っていました。筋違橋は、すぐ南にある筋違見附の付属物でした。明治5年に筋違見附が取り壊されると、翌年にその石材を再利用して筋違橋の場所にアーチ二連の石造りの橋が完成しました。当時の東京府知事であった大久保忠寛が萬世橋(よろずよばし)と命名したが、次第にまんせいばしという音読みが一般化しました。万世橋はその形状から眼鏡橋とも呼ばれています。
ようやく隅田川の合流地点である柳橋に辿り着きました。柳橋は永代橋のデザインをモデルとし、耐震構造に配慮した鋼鉄橋で建設されています。この位置に初めて橋が架かったのは、元禄11年(1698年)のことで、「川口出口之橋」あるいは近くに幕府の矢の倉があったことから「矢の倉橋」と呼ばれていました。「柳橋」と由来については、
(1) 矢の倉橋が矢之城(やのき)橋になり、さらに柳橋となる。
(2) 柳原堤の末にあったことに由来する。
(3) 橋の袂に柳の木があったことに由来する。
このように諸説ありますが、真説は不明です。明治維新後、柳橋は新橋とともに花街として東京を代表するような場所になり、新橋は各藩から出て政府の役人になった人々、柳橋は江戸以来の商人や昔の旗本といった人々が集まる所だったようです。南側橋詰に建てられた石碑の銘板には、正岡子規が柳橋をテーマに詠んだ俳句が2つ紹介されています。
春の夜や女見返る柳橋 子規
贅沢な人の涼みや柳橋 子規
今日は第61期王位戦七番勝負の初戦の木村一基王位と藤井聡太七段の二日目の対局が行なわれています。早く帰って観ないと。。。
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