渋谷川コース  

コース 踏破記  

今日も相変わらずの梅雨空です。でも、予報では夕方まで雨は降らないとのこと。ちょっと短めですが、都心の渋谷川を歩いてみたいと思います。渋谷川は、渋谷ストリーム脇の稲荷橋から広尾の天現寺橋までの2.4kmを流れる河川です。元々の渋谷川の始点は現在暗渠化されている宇田川との合流地点だった宮益橋でしたが、いろいろな変遷を経て現在では稲荷橋となっています。稲荷橋の名前の由来となった稲荷神社は、かってこの橋のすぐ近くにあった豊栄稲荷神社にちなんでいます。蛇足ですが、欅坂46のデビューシングルである「サイレントマジョリティー」のジャケット写真とミュージックビデオは、渋谷ストリームの工事現場で撮影されたそうです。



渋谷ストリームから並木橋までの渋谷川沿いには、渋谷リバーストリートと呼ばれる遊歩道が設けられ、鉄道遺構やモニュメントなども置かれています。都心を流れる渋谷川には渋谷リバーストリート以外に側道あるいは遊歩道が殆ど設けられていませんので、この区間を除けば川に近い一般道を歩くことになります。

渋谷リバーストリート

渋谷リバーストリートは、渋谷三丁目から東一丁目まで続く全長600mの鉄道の記憶を活かした遊歩道です。さらに足を延ばせば、代官山・恵比寿方面への散策も楽しめます。渋谷リバーストリートには、憩いの場とかイベントの場として稲荷橋広場や金王橋広場が設けられています。




渋谷川の護岸と川底はがっちりとしたコンクリートで固められています。普段は殆ど水は流れていませんが、大雨の時などは水位が上がり、流れも速くなります。



渋谷ストリームの先に金王八幡宮が橋名の由来とされている金王橋(こんのうばし)があります。橋の袂に設けられた金王橋広場には金王桜が植えられています。

金王桜

金王桜は長州緋桜という種類で、一枝に一重と八重が混ざって咲く珍しい桜です。金王八幡宮の社記によれば、源頼朝が父義朝に仕えた渋谷金王丸の忠節を偲び、その名を後世に残そうとして鎌倉亀ヶ谷の義朝の館にあった桜を金王八幡宮に移植したものとされています。江戸時代には江戸郊外の三名桜の一つに数えられ、現在に至るまで代々植え継がれ、現在では渋谷区指定天然記念物となっています。本桜は金王八幡宮の金王桜を枝分けし、移植したものです。




明治通りの並木橋交差点近くの並木橋は旧鎌倉道に架けられていた橋で、元々は金王下橋と呼ばれていました。六本木通り方面に登っていくと金王八幡神社の大鳥居があり、街道筋に並木があったことから後に並木橋に改称されたといわれています。並木橋交差点脇に鎌倉道の案内板が立っていました。

鎌倉道

この右手の細い道を古くから鎌倉道と呼び、源氏が鎌倉に幕府を開いて以来、東日本の各地に設けられた軍道のひとつといわれています。ここから西へ行くと、渋谷川を渡って台地をのぼり、猿楽塚の二つの築山の間を抜けて目黒川にくだり、さらに多摩川を渡って神奈川県にはいります。また、東に進むと青山学院の付近を通り、千駄ヶ谷方面に達し、さらに東北地方に向かっていたといわれています。大永四年(1524年)に相模の北条軍がこの鎌倉道を通って江戸に攻めのぼり、その時の戦火が渋谷地域にも及び金王八幡宮付近にあった城館が焼失したと伝えられます。




渋谷ストリームから渋谷ブリッジまでの区間は、以前は東急東横線の高架がありました。今でも当時の土台の一部が残されています。東横線は渋谷清掃工場の周辺で大きくカーブしていましたので、その高架跡に造られた渋谷ブリッジも建物の外形が直線でなく曲線になっています。



渋谷ブリッジから先、渋谷川の両側は殆どの区間が建物で塞がれています。ちょっとした側道らしき道があっても直ぐに行き止まりになります。仕方がないので、なるべく川に近い路地を選んで歩くことにします。



恵比寿駅に近い裏通りを歩いていましたら、神輿庫が2棟並んで建っていました。神輿は下町だけのもので、都心の町内会にはないだろうと思っていたのですが、ちゃんとお祭りの時は神輿が担がれるんですね。



庚申橋の脇の小屋に大きな石柱が納められていました。庚申橋の名前の由来は、庚申信仰や講が盛んだったころの名残りといわれています。

庚申橋供養碑

庚申橋供養碑は、寛政11年(1799年)にたてられた数少ない珍しいものです。上部の青面金剛像のほかに、四面すべてに庚申橋講中世話役や万人講及び個人の名が多数刻まれています。それらの人びとの地域をみますと、渋谷はもとより麹町・赤坂・芝・麻布・四谷・大久保・池袋・市ヶ谷方面から、目黒・中野・世田谷・荻窪といった広い範囲にわたっています。こうしたことからみますと、庚申橋を通る道は江戸時代には重要な交通路であったことがわかります。




駒沢通りを渡ると、右手に明るい虹色のネオンサインと輝く赤ちょうちんが目印の恵比寿横丁があります。アーケード付きの活気あふれる飲食店街で、焼鳥やほっとするおでん屋とか鮮魚酒場とかキノコ専門店とかワインバーまでバラエティ豊かな店が揃っているそうです。出会いの場所として知られているそうですが、私は入ったことはありません。



恵比寿横丁の先の渋谷川沿いに恵比寿東公園(通称、タコ公園)があります。その名前の通り、公園の中央にタコをかたどった滑り台が置かれています。渋谷区で唯一児童遊園とされているそうです。



恵比寿にはオフィスとかマンションの建物が密集しているのですが、とあるビルの植え込みに雨水利用システムなる説明板と昔懐かしい井戸ポンプが置かれていました。

雨水利用システム

この建物の雨水利用システムは、雨水を地下の雨水タンクに溜め、電動ポンプや手押しポンプ等で汲み出すシステムです。普段は街の緑を育てるために使われ、いざというときには街の防火用水等として活用されます。これは地域住民の方々のご協力とご指導によって実現したものであり、環境や資源を大切にし、皆様の暮らしを助け、地域のシンボルとして、末永く親しまれることを願っております。




この先、渋谷川には全く側道がないため、明治通りを歩きます。明治通りと外苑西通りが交差する天現寺交差点手前に広尾公園があります。ここには昔都電の車庫があったそうです。

都電車庫跡

このあたりには、都電の広尾電車営業所がありました。営業所は大正7年8月(1918年)に開設され、都電の車庫も兼ねていました。都電の歴史は、明治15年(1882年)6月に新橋〜日本橋間を走った鉄道馬車が起源と言われています。同36年(1903年)8月に動力が馬から電気へと切り替わり、同39年3月に信濃町〜天現寺橋までの区間が開通しました。同44年8月に東京市がそれら事業を東京鉄道から買収し、市営化して東京市電が誕生することとなります。順次路線は延び、大正2年(1913年)4月には、天現寺・伊達跡間が開通します。さらに、同13年5月までに、玉川電気鉄道(のち、東京横浜電鉄に合併)の路線が渋谷から天現寺橋まで開通しました。この渋谷〜天現寺橋間及び渋谷橋〜中目黒間は、昭和13年(1938年)10月には、経営を東京市に委託(昭和23年3月に正式に都に売却)することとなりました。同18年7月の都政施行により、通称を都電と呼ぶようになりました。昭和30年代に入ると、都電は交通渋滞の誘因ともなったことから、渋谷界隈を走っていた都電も昭和42年12月から順次廃止されてゆきました。広尾電車営業所跡は、7系統(四谷三丁目〜泉岳寺前)、33系統(四谷三丁目〜浜松町一丁目)、34系統(渋谷駅前〜金杉橋)の廃止を受けて、同44年10月に、その役割を終えます。




渋谷川は天現寺橋で笄川(こうがいがわ)と合流して終点となり、その先は古川となります。天現寺橋の袂に「清流の復活」と書かれた立派な石碑が置かれています。



石碑の横には案内板が立っていました。

清流の復活 −渋谷川・古川−

渋谷川・古川は、渋谷駅付近から渋谷区と港区の境までの区間を渋谷川といい、港区に入ると古川と名前を変えて芝公園に沿って流れ、旧芝離宮恩賜庭園付近で東京湾にそそいでいます。渋谷川は昭和の始めごろまでは灌漑の水源として、古川は小舟の舟運に利用されていましたが、都市化の進展や陸上交通の発展とともにその利用状況が大きく変化し、水質の悪化や水量の減少がみられました。そこで、平成7年(1995年)3月より東京都では清流復活事業を実施し、渋谷川・古川で清流の復活を行いました。この渋谷川・古川に流れている清流は、新宿区上落合にある落合水再生センターで高度処理した再生水を利用しています。東京都では、都民が水辺に親しむことができるとともに、水辺に多様な生物が生息できるよう、水質の向上や水量の回復によって心のやすらぐ水辺環境づくりをめざしています。




一時間ほどで渋谷川を歩き終えました。まだ昼過ぎなので、これから古川も歩いてみたいと思います。




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