- 立会川コース
- コース 踏破記
- 今日も梅雨空です。こう毎日毎日曇天だと気が滅入ります。予報では一日中曇りとのことで雨が降る可能性もありますが、昨日も一日中雨で家に籠城したし、今日はお出かけしないと体がナマってしまいます。ということで、今日は立会川を歩きます。立会川緑道は何回か歩いたことはあるのですが、立会川の源泉から河口まで通して歩いたことはありません。先ずはネットで情報収集をします。
立会川
立会川(たちあいがわ)は、東京都目黒区および品川区を流れて東京湾に注ぐ、全長7.4kmの二級河川です。昭和20年代までは魚やザリガニが棲むきれいな小川であり、子供たちの絶好の遊び場でしたが、現在では大部分が暗渠となり、道路(立会道路)や、緑の豊富な遊歩道、公園などになっています。東京都目黒区にある碑文谷池と清水池に源を発し、南東方向へ流れて品川区の西小山駅・荏原町駅・西大井駅・大井町駅・立会川駅付近を通り、東京湾の勝島運河に注ぎます。昭和後期には水量の減少と生活廃水等により汚れた川となり、1996年には生物化学的酸素要求量が都内の中小河川で最悪となっていました。しかし2002年7月からJR東日本が馬喰町駅〜東京駅間の総武線トンネル内に湧き出る地下水の下水費用(年間約3億円)対策と立会川の水量増加および水質改善を兼ねて敷設した12kmの配水管によって立会川への送水を開始しました。このことにより水質が大幅に改善し、2003年には海で孵化したボラの稚魚が大群で現れて話題になりました。立会川の名称の由来には次のような幾つかの説があります。
- その昔、川を挟んで小競り合いがあったことから「太刀会川」とした。
- 鈴ヶ森刑場へ送られる罪人の親族や関係者が最後に見送る(立ち会う)場所であることから「立会川」となった。
- 中延の滝間(たきあい)という地を流れていたので滝間川(たきあいがわ)と呼ばれ、それが現在の立会川に変わった。
碑文谷池と清水池は大して離れていませんが、立会川緑道を経由すると一筆書きでは行けません。先ずは碑文谷池に行って、その後で清水池に立ち寄って河口を目指すことにします。更に調べてみますと、立会川緑道の起点である碑文谷八幡宮あるいはその裏手にあるすずめのお宿も源泉のひとつであるという説もあります。真偽の程は分かりませんが、こちらも確かめてみたいと思います。先ずは碑文谷池に向かいます。東横線の高架を走る電車から一望できる住宅街の中の公園です。
公園の中に碑文谷池の案内板が立っていました。
碑文谷池
この池は立会川の水源です。元々は碑文谷村の村持(共有地)で、昔は土地の字名をとって「三谷の池」と呼ばれていました。江戸時代には野鴨が多く、将軍の鷹狩りの場でもありました。その後はもっぱら下流一帯の水田灌漑の重要な水源として古くから部落選出の池総代により管理され、地元の人々の奉仕によって維持されてきました。池の中島に厳島神社があり、江戸時代にこのあたりを知行していた旗本神谷氏が奉納した弁財天像が安置されています。昭和7年10月、東京市に寄付されて公園となり、その後昭和25年9月に再び目黒区に移管されました。
公園の大半は池が占めていますが、池に突き出た小島には厳島神社が祀られています。この神社には弁財天像が安置されているそうで、そのために碑文谷池は別名弁天池とも呼ばれているそうです。鳥居から続くミニ参道には赤い欄干の太鼓橋が架かっています。でも、どう見ても小島に架かる橋には見えませんでしたが。
池の南端に排水口が見えますが、ここから立会川に水が流れ出ているのでしょう。
碑文谷公園を出て東横線の高架下をくぐり、交差点から南に1ブロック行きますと、綺麗な遊歩道が延びています。「目黒区みどりの散歩道」の碑文谷・立会川コースの一部です。みどりの散歩道には、身近な公園や神社やお寺などを結んだ9つのコースが設定されています。コースの要所要所に、進路を間違えないように鉄製のプレートが路面に埋め込まれています。また、ポイントとなる地点には案内板が立てられています。次は案内板に記された内容です。
碑文谷の歴史と自然を訪ねる径 五穀の実りをもたらした碑文谷池
碑文谷公園は目黒区内で最も古い公園のひとつ。ボート遊びが楽しめる公園として人気が高い。園内の弁天池は広さ約0.8ha。江戸の昔から昭和の初めまで、この池は碑文谷の村民に五穀の実りをもたらす灌漑用貯水池として大切に管理された。一時は村の財政難を理由に池の売却案も出たが、村人の反対で廃案に。昭和7年、目黒区の誕生を機に東京市に寄贈され公園になった。池の中の厳島神社には極彩色の小さな弁天様が祀られている。
みどりの散歩道のコース設定はこの先で立会川の流れから外れ、右折してすずめのお宿に向かうようになっています。どっちに進むか迷ったのですが、今日は立会川の歩きに徹することにして、右折せずこのまま進みます。真っ直ぐに延びた歩道にはマンホールの蓋が整然と並んでいます。
目黒通りを越えますと、車道のない遊歩道になります。突き当たりに古めかしい田向公園があります。古めかしいというのは、外観も遊具も新しくないということです。立会川は現在の田向公園を斜めに突っ切るように流れていたらしく(昔は公園はなかったので)、その先公園の南端からは真っ直ぐに延びる道路が川筋だったと思われます。そのまま進んで行きますと、右手にサレジオ教会のお洒落な聖堂が見えます。随分前の話ですが、神田正輝と松田聖子がこの教会で挙式したことで知られています。
更に進みますと、左手に千年以上前に創建された碑文谷の古刹である円融寺の山門が見えます。
「目黒区みどりの散歩道」の碑文谷・立会川コースの案内板には次のように記されています。
歴史と自然のまち 碑文谷と円融寺
このコースは全長3.4kmで、立会川緑道のそぞろ歩きを楽しみながら、碑文谷の歴史と自然を探訪する。碑文谷は江戸期の目黒6ケ村のひとつ。江戸の近郊農村として、昔は筍をはじめ米麦、野菜の栽培が盛んだった。大正末から昭和初期の関東大震災、目蒲・東横両線の開通が契機になって宅地化が急速に進み、準農村から住宅や商店が混在する町に生まれ変わった。この緑道の北側に目黒区内でも有数の古刹として知られる円融寺がある。平安初期に慈覚大師が創設したと伝えられ、もともと天台宗の寺だったが、鎌倉後期に日源上人により日蓮宗に改宗。名も法華寺と改められ隆盛を極めたが、「不受布施:不受とは法華信者以外の布施を受けないこと、不施とは法華信者以外の供養を施さないこと」の教義のため徳川幕府の弾圧を受け(キリスト教と同じ「邪宗門」と位置付けられたため)、再び天台宗の寺に戻された。毎年、節分の日には大勢の善男善女で賑わう。
山門前で右折すると直ぐに立会川緑道に入ります。ここで左手に進むと下流方向になり、右手に進むと碑文谷八幡宮に向かいます。碑文谷八幡宮内に立会川の第3の源流が存在するかどうか確かめるために逆方向ですが右手に進んでみようと思います。緑道を進んで行きますと、石造りの大きな鳥居が見えます。
碑文谷八幡宮について、案内板には次のように記されていました。
碑文谷八幡宮
この神社は旧碑文谷村の鎮守で、祭神は応神天皇です。畠山重忠の守護神を家臣筋の宮野左近という人がここに祀ったのがその起源だといわれています。創建年代は不詳ですが、「四神地名録 」や「新編武蔵風土記稿 」にも記されている由緒のある神社です。社殿は、延宝2年(1674年)に建てられ、その後明治5年に再建、同20年に改築されました。本殿の右側に重忠の臣、榛沢六郎を祀った稲荷社があり、また碑文谷の地名の起こりとなったともいわれる梵字を刻んだ石(碑文谷)が保存されています。なお、当社には勝海舟筆の「額」や「のぼり」が所蔵されています。祭礼は春秋の2回で、昔ながらの目黒ばやしの音もなつかしく、神輿やだしも練り歩き賑やかです。
緑道は鳥居の前で終わり、その先は参道が神社の本殿へと続いています。すずめのお宿にも立ち寄りたいので、神社の脇の小道を進みます。神社の裏手の直ぐ先には、緑に覆われ小高く盛り上がった公園が見えます。公園の入口の横にすずめのお宿緑地公園の由来を記した案内板が立っています。
すずめのお宿緑地公園の由来
この付近は、昭和のはじめまで目黒でも有数の竹林で、良い竹の子がとれました。竹林には無数のすずめが住みつき、朝早くいづこへともなく飛び立ち、夕方には群れをなして帰ってくることからいつしか人々は、ここを「すずめのお宿」と呼ぶようになりました。この土地の所有者角田セイさんは、長年ここで一人暮らしをしていましたが、「土地は自分の死後お国に返したい」といって大事にしておられたそうです。その尊いご遺志が生かされて、角田セイさんの没後、目黒区が国からこれを借り受けて公園を造り、多くの人々の憩いの場として利用することができるようになったのです。ここに「すずめのお宿緑地公園」の由来を記して、故人のご遺志に深い感謝をささげます。
都心で竹林を見ることは滅多にありませんが、ここの竹林は本数といい、大きさといい、素晴らしいです。竹林の奥には古民家が保存されています。中には入りませんでしたが、広々とした豪邸です。こんなに部屋数があって一人暮らしであればお掃除が大変だったでしょう。ところで、この公園の中に立会川の源泉になりそうなところはないか探してみましたが、それらしき場所は見つかりませんでした。ただ、公園が周囲よりも小高くなっているので、雨が降ればそれがまとまって川の流れの源になる可能性は十分にあり得ます。
公園を後にして碑文谷八幡宮の境内に入っていきます。周囲を見回しても立会川の源泉になりそうな水源は見当たりません。鳥居の先から続いている緑道は川の跡だと思うのですが、その水はどこから流れていたのでしょうか?境内には手水舎の隣りに昔の手押しポンプがあります。境内にポンプとはあまり見かけませんが、ポンプがあるということは地下に水がある証です。ひょっとして、この地下水が立会川の第三の水源になっているのかも。
神社を後にして、再び立会川緑道に戻ります。見た目には絶対ここが立会川の始まりのように思えるのですが、どうなんでしょうか?
円融寺の前まで戻り、更に緑道を進みます。向原小学校の角で緑道から離れ、立会川のもう一つの水源になっている清水池に向かいます。緩やかにカーブした道路を歩いて行くと、道筋が何となく川の流路を思わせます。目黒七中の先に清水池公園が見えます。清水池は碑文谷池に比べると少し小ぶりながら、そこそこ大きな池です。池の周囲には大勢の太公望が釣り糸を垂れています。公園の入口の石壁には沿革を記したプレートがはめ込まれています。随分と古めかしい文章です。
清水池公園沿革
本園は武蔵野の湧水地にして舊(注:旧の旧字)碑衾町字池上部落の共有に係り古来辨天池と唱へ亦附近耕地の灌漑用水に利用せられたるを以て溜井とも稱し地名の起原を爲せり。昭和七年十月市域擴張の際擧げて公園地となし本市に寄附せられ 更に同九年一月角田長雄氏より隣接地若干の寄附を受領したり。茲(注:ここ)に本園の竣成に當り地元各位の芳志を永久に傳へんとす。
昭和十年十二月
東京市
入口横には次のような内容の案内板が立っていました。
清水池公園
清水池公園の全体の約3割を占めている清水池は、以前は湧き水が豊富な池でした。よって碑文谷池とともに立会川の水源であり、かつては碑文谷村共有の水田灌漑用の貯水池としても大切な役割を果たしていました。昭和7年、公園地としての永久保存を条件にこの地は東京市に寄附され、ここに清水池公園が誕生しました。目黒区には昭和25年に移管され今日に至っています。現在、清水池にはヘラブナが放流されて区内唯一の釣りのできる池として、区民はもとより区外の人にも親しまれ、また釣り愛好者グループの活動により順調な運営が図られています。公園西側には弁財天の祠がありますが、由来記によればこの地に守護神がいなかったことから、江戸時代初期に弁財天を祀って守護神にしたといわれています。
同じような内容ですが、「目黒区みどりの散歩道 サレジオ教会・清水池コース」の案内板もありました。
太公望と清水池公園
釣りマニアで賑わうこの公園は、広さ約5,800u。その三割を大きな池が占める。昔は自然の湧水池だったが、やがて碑文谷村共有の水田灌漑用の貯水池に。その後、東京市に寄付され、昭和10年12月、新しい公園に生まれ変わった。戦後の27年には目黒区が釣堀公園として整備し直し、区民に開放。時折、フナやコイなどが放流され、太公望が糸を垂れる。池の端の弁天様の祠は、灌漑水源の守護神として村人達が建立したものだ。
公園の奥には弁財天を祀った祠があり、その手前には池の上橋が架かっています。更に手前には鳥居があり、碑文谷池と全く同じ構図になっています。
向原小学校まで戻り、再び立会川緑道に入ります。一応、立会川のふたつの水源である碑文谷池と清水池、それにもうひとつ可能性のある碑文谷八幡宮にも行きましたので、これからはひたすら河口を目指すのみです。ここも目黒区のみどりの散歩道の一部になっているようで、緑道内に次の案内板が立っていました。
立会川と緑道
碑文谷、清水の両池を水源にして目黒区南部を流れ、やがて東京湾に注ぐ立会川。かって、この川には小魚が群れ、両岸には青々とした水田が広がって、のどかな農村風景が見られた。しかし、キ市化とともに川も姿を変え、昭和39年暗渠に。その後、散策が楽しめる緑道に生まれ変わった。目蒲線西小山駅のガード下そばから碑文谷八幡宮まで、その長さは約1km。春には両側の桜並木が見事な「桜のトンネル」をつくり、花見客で賑わう。また緑道の各所には雪見橋、月見橋など、川の流れとともに姿を消した橋の名を刻んだ石の親柱が再現され、昔の面影をかすかに偲ばせている。
西小山駅の手前で緑道は終わり、その先は一般道の立会道路になっています。一般道とはいっても、駅の周辺は桜並木になっていて歩きやすいですね。左手に南公園があります。どうということもない普通の公園ですが、この地下には小学校の25mプール50杯分もの雨水を貯めることができる調整池が設置されているそうです。1時間に50mmを超える激しい雨が降った際に、下水道から水があふれ出るのを防ぐために、流れ込んできた水を一時的に調整池に貯める施設です。この施設のおかげで、この地域ではここ20年間大雨による浸水被害は出ていないのだそうです。
荏原雨水調整池
荏原雨水調整池は、下水道管内の水位が上昇し、雨水があふれそうになった時、この施設に雨水を導き、一時溜めることにより浸水被害を軽減します。なお、この一時貯めた雨水は晴天時に下水道管に排水いたします。
更に進みますと、右手に昭和大学の巨大な病院が現れます。その先で中原街道と交差します。中原街道を渡った先から再び緑道が始まります。ただ、直ぐに東急池上線の線路に突き当たります。
回り道をして再び緑道に戻ります。少し進むと、今度は荏原町駅横で東急大井町線の線路に突き当たります。また回り道をして三間通りを横断し、再び緑道に入ります。ここから国道一号線(第二京浜)までの区間は特に緑道の道幅も広くて植栽も綺麗です。国道一号線を越えた先はまた一般道の立会道路になり、横須賀線の西大井駅横を通って大井町駅まで延びています。大井町駅で京浜東北線・東海道本線の線路に突き当たりますが、エスカレータで階上の大井町駅に上がり、中央通路を通って高架の東口広場に出て、直ぐ右手の階段を降りるとヤマダ電機の脇から緑道が再開します。立会川は駅ホームを突き抜けるような格好で流れていたようなので、昔は川の真上に駅舎があったのでしょうか?池上通りの高架下を通り、最後の緑道区間に入ります。
緑道のところどころには、休息のための小さな広場があり、川をモチーフにした像やモニュメントが設置されています。昔は緑道そばに巨大な東芝病院がありましたが、2018年に事業移管されて東京品川病院に変わったのだそうです。東芝も大変な時期でしたからね。
緑道が途切れると、立会川は暗渠から開放されます。開口部から先はコンクリート護岸になっていて、この日はほんの少し水が流れていました。この先は住宅が密集していて、川沿いに歩くことは難しくなります。
立会川橋で国道15号線(第一京浜)を横断します。国道と並ぶように京浜急行の立会川駅があります。短い駅前商店街の端っこに坂本龍馬像が立っています。2010年に放送されて一大ブームになったNHK大河ドラマ 「龍馬伝」ですが、ここ品川にも浅からぬ縁があったのです。商店街では今でも龍馬関連の商品が売られていて、龍馬ファンには根強い人気があるようです。
龍馬が世界と出会ったまち品川
ペリーが初めて来航した嘉永6年(1853年)、19歳の坂本龍馬は藩からの許可を得て江戸で剣術修行中でした。土佐藩は立会川河口付近にあった下屋敷(今の品川区東大井)警備のため、江戸詰めの武士を動員し、龍馬もその中に加わりました。同年9月には「異国船処々来り候へば、軍(いくさ)も近き内と存じ奉り候、其節は異国の首を打ち取り・・」と、父親に手紙を書いています。品川での黒船警護から、龍馬の幕末は出発したのです。
立会川 二十歳の竜馬像
嘉永6年(1853年)黒船4隻によるペリー艦隊来航の折、坂本龍馬(1835年−1867年)は土佐藩品川下屋敷の近くにあった浜川砲台の警護にあたります。当地は後に海運貿易の亀山社中の設立・薩長同盟の斡旋など、近代を切り拓いた龍馬が志を立てたゆかりの地と言えます。地元有志、品川龍馬会の人々の働きで、桂浜にあるものと同じ姿の龍馬像が高知市の寄贈により設置されていましたが、近頃の時代の閉塞感とあいまって、龍馬の事績に思いを致す人々のブロンズ像であればとの強い願いを受けて、東京京浜ロータリークラブは関係者と密に語らい議って、二十歳の龍馬像としてこれをここに建立したものです。なお、この像には、平成11年修復時の高知県桂浜の像の金属片が溶かし込んであります。
立会川駅前商店街の先で旧東海道を横断します。旧東海道は北品川駅(今の感覚では位置的に南品川になりますが、昔の品川宿を基準にすれば北品川になります)付近から鈴ヶ森刑場跡近くまで3kmにわたって延びています。旧東海道を渡った先に、立会川に架かる最後の橋である浜川橋があります。浜川橋から立合川が勝島運河に合流する地点までは100m程の距離です。
橋の袂に橋の名前の由来を記した案内板が立っていました。
浜川橋
立会川が海に注ぐこの辺りの地名の浜川から名付けられたこの橋は、またの名を「涙橋」(なみだばし)ともいいます。この橋が架けられたのは、徳川家康が江戸入府後の1600年頃と思われす。現在の橋は、昭和9年(1934年)に架け替えられたものです。
涙橋の由来
慶安四年(1651年)、品川にお仕置場(鈴ヶ森刑場)が設けられました。ここで処刑される罪人は、裸馬に乗せられて江戸幕府から刑場に護送されてきました。この時、親族らがひそかに見送りに来て、この橋で共に涙を流しながら別れたということから、「涙橋」と呼ばれるようになりました。
立会川が勝島運河に合流する地点まで行ってみますと、何やら大きな工事が行なわれています。東京都勝島ポンプ所流入管渠工事というそうで、近年の著しい都市化により汚水が増加し、また雨水が地下に浸透しない町並みにより雨水の流出量も増大しているため、雨水排水能力を増強すると共に、既設ポンプ所の放流先変更等を行って浸水対策と勝島運河の水質改善を図るというものだそうです。ということで立会川を歩き終えたのですが、ついでにすぐ近くの新浜川公園にある浜川砲台の大砲を見物してから帰ることにします。
浜川砲台(品川区立新浜川公園)
土佐藩は万治元年(1658年)頃、今の東大井に1万7千坪余りの下屋敷を入手しました。その中には立会川河口北側の荷揚場も含まれており、この下屋敷は国元からの物資保管にも使われていたようです。幕末、ペリーが来航し海防が切迫した課題となると、幕府は台場築造を急ぐと共に、諸大名に江戸湾の警護を分担させました。土佐藩は荷揚場の沖を埋立て、土台に石垣を用い、大砲を引き回し、任意の位置で撃てるよう専用通路がついた浜川砲台を築造しました。坂本龍馬もこの砲台に詰めたとも伝えられています。浜川砲台があった北側の品川区立新浜川公園には、砲台に据えられたホーイッスル砲のレプリカが置かれています。
浜川砲台の大砲
嘉永6年(1853年)6月、アメリカ合衆国はペリー提督の率いる4艘の艦隊を日本に派遣して 開国を迫った。国書を幕府に渡すと、来春、再来航するとしてペリーは去った。日本側は、次回は戦争になると想定して、江戸湾の防備に力を入れることになる。土佐藩はここに鮫洲抱屋敷を持っていたので、砲台を造ることを幕府に願い出た。嘉永7年(1854年)1月、ペリー艦隊が再来航した時、急遽、土佐藩が造ったのが浜川砲台である。6貫目ホーイッスル砲1門(復元)、1貫目ホーイッスル砲2門、鉄製5貫目砲5門、計8門を配備した砲台だった。ここに復元したのは6貫目ホーイッスル砲である。実物のない他藩では丸太を大砲らしく見せた偽物もあった中で土佐藩の装備は江戸っ子の評判も上々で、次のような 狂歌も作られている。
品川の固めの出しのよくきくは 下地もうまく なれし土佐武士
[品川の固め場(守備陣地)の良く効果的であったのは、準備もうまい熟練の土佐のサムライだからだ]
これは土佐の鰹節にかけた狂歌で堅目のダシの良く効くは、料理の下ごしらえも、上手くできる土佐ぶし(鰹節) だからだという意味である。この浜川砲台に佐久間象山塾で大砲操練を学んだ20歳の坂本龍馬がいたのである。
レプリカとはいえ、大砲はなかなかの迫力です。でも、ここからペリー艦隊には届いたのでしょうか?
いやぁ、あちこち回ったもので、思いの外時間がかかってしまいました。今日は藤井聡太棋聖が竜王獲りに挑む対局が行なわれています。早いこと帰ってAbemaTVを観なくっちゃぁ。
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