谷端川コース  

コース 踏破記  

今日も暑くなりそうです。クーラーの利いた家でまったりしようか、れそとも灼熱の緑道を歩こうかと悩んだ末、意を決してお出かけすることにしました。どの緑道という当てはありませんでしたが、以前歩いたことのある谷端川にしようかと思います。出掛けようかどうしようかと迷ったものでちょっと出遅れましたが、有楽町線の千川駅近くにある粟島神社にお昼前にたどり着けました。谷端川は総延長11kmあるそうですから、約3時間の歩きとなります。谷端川についてネットの情報をまとめてみます。  

谷端川

谷端川(やばたがわ)は、東京都豊島区および北区、板橋区、文京区をかつて流れていた河川です。現在はほぼすべての区間が暗渠の下水道幹線となっています。かつて河川としての谷端川は次のような流路で流れていました。豊島区千早と豊島区要町の境界付近にある粟島神社境内の弁天池が水源になっています。千川上水の長崎村分水が現在の有楽町線千川駅付近から樋で落とされ、粟島神社の湧水先で谷端川に合わせて南流していました。西武池袋線を椎名町駅西側で越えると流れは東に曲がって山手通りと交差し、一転して北に流れを変えました。再び西武池袋線を越えて、山手通りの東側を並行するように北東に進みました。現在の立教大学の西側、有楽町線要町駅の東側を北に向かって流れ、以降板橋区と豊島区の区界に沿って流れていました。東武東上線の手前で支流を交えると、東に転じて下板橋駅の際で東上線を越え、板橋駅の北側で赤羽線の線路を潜ります。今度は北区と豊島区の区界に沿って東南へ流れ、山手線大塚駅の北側に出ます。大塚駅の東側で山手線を潜った後、大塚三業通りを経て東京都道436号小石川西巣鴨線に沿って小石川植物園脇を流れていました。文京区千石、小石川と流れ、現在の富坂下を横切り、旧水戸藩上屋敷(現・東京ドーム一帯)を通って、外堀通りの仙台橋の下(水道橋の西)で神田川に注いでいました。延長は約11kmで、上流では武蔵野台地の河川としては珍しく南北方向の流れを持っていました。上流部には支流がいくつかありました。ひとつは現在の板橋区幸町と豊島区高松3丁目の間を東流し、中丸町に入り川越街道を斜断して熊野町に入り、さらに大山金井町を経て西前橋手前で谷端川に流入していたので、出端川と呼ばれていました。もうひとつは現大山30番(元千川上水大山橋)より大山駅線路の北側に出て東流し、大山金井町北部より西前橋先で谷端川に流れ込んでいました。また、豊島区東池袋の池袋六又交差点付近から板橋区板橋1丁目付近へ南北に走る「下り谷」と呼ばれる谷戸地形にも支流がありました。下流部にも指ヶ谷から小石川(谷端川)に流れ込む支流がありました。指ヶ谷の白山通りの東側を流れた支流は東大下水(ひがしおおげすい)などと呼ばれ、旧水戸藩中屋敷(現・東京大学農学部)からと、旧加賀藩上屋敷(現・東京大学)から流れるふたつの流れが東大下水に合流していました。現在、川の全域が暗渠化され、豊島区北大塚3丁目付近から文京区小石川2丁目付近までの大部分のルートを都道436号線が通っています。この通りは東京都心・下町と東京西北部とを急坂もなく緩やかに連絡するので、自転車等で往復するには重要な路線です。


有楽町線千川駅の手前、要町通りをひとつ入ったところに粟島神社があります。小さいですけど、綺麗な神社です。



境内に入りますと、大きな石碑に神社の由緒が書かれていました。

粟島神社(弁天様)御由緒

往昔 ここは清水の湧出する静謐の地であった。泉は溢れ川となってこの地を潤し、のちに谷端川の源泉ともなった。清泉をめぐって樹木が鬱蒼と茂り、神韻の地として畏敬された。口承によれば、鎌倉の末期頃から罔象女(水の神)が祀られ、いつか弁天様として地元民に親しまれるようになった。江戸の頃から大正末期まで旱天の折、雨乞祈祷の聖地となり?々霊験を得五穀豊饒の信仰を集めるようになり、ここからまた悪疫退散の信仰を生み出していった。神佛判然令以後弁財天に因み粟島神社を称するに至ったが、なお弁天様として蓄財利殖、具足円満、愛敬を祈る神として地元民に親しまれている。
昭和四十三年八月氏子会によって神殿が再建され現在に至っている。




神社の中程に小さな橋が架かっていて、瓢箪の形をした池がありました。片方には亀が、もう一方には鯉が泳いでいます。これが谷端川の源泉(水源)となった弁天池のようです。排水口の先は神社に沿った道路になっています。



神社から出ますと、南に向かって道路が延びています。ただ、谷端川の痕跡は何も残っていません。まるで流路を完全に埋立てて道路にしてしまったようです。そのまま進んでいきますと、椎名町サンロードという商店街に入ります。商店街の端っこは西武池袋線の椎名町駅のホーム横の踏切になっています。踏切を渡った先に公園がありますが、その手前で左折して線路沿いに進みます。



直ぐに山手通りの高架下を通り抜けます。



そのまま線路沿いを進みますと、谷端川の流れは急に北向きに変わります。この地点から谷端川は池袋を大廻りして大塚方面に向かいます。本来ならば川に流れが南から北に向かうことは低地から高地に流れることであり得ないことですが、地形の関係でしょうか。ちょうどこの地点で線路に突き当たりますので、迂回して反対側に回ります。



線路の反対側には宮下橋が架かっていたところで、ここから東武東上線の下板橋駅までの区間、谷端川緑道が始まります。マップを見ますと、随分沢山の橋が架かっていたことが分かります。



緑道はよく手入れされています。住宅地の中を通っていますので、近所の方がお世話しているのでしょうか?モニュメントもあちこちに設置されていて、いかにも緑道といった感じです。



大きく南に回りこんだ谷端川の流れは再び要町通りを越え北上します。緑道のところどころには小さな親水公園が設けられています。



緑道には遊具も多く設置されています。



谷端川緑道は池袋三丁目に入った少し先から豊島区と板橋区の境界に沿って延びています。昔の川沿いの生活を垣間見るように、橋の欄干にプレートがはめ込まれています。田植えから始まって稲刈り、野菜売り、大根洗いなどなど。緑道の両側に住宅が建ち並んだ今の様子からは想像もできません。



谷端川緑道は、川越街道と交差する地点で谷端川北緑道と谷端川南緑道に分かれています。谷端川北緑道を北上しますと、東武鉄道の操車場に突き当たります。ここで緑道は東へと向きを変え、東武東上線の下板橋駅前で再び北へ向きを変えて踏切と交差します。踏切の手前にはおびただしい数の自転車が駐輪しています。踏切を越えた先で駅前通りから離れ、右手の谷端川児童遊園方向に進みます。歩道には石が敷き詰められていて、川の流れのようにゆるやかにカーブしています。ここは谷端川を暗渠にした上部に児童遊園を設けたような感じです。児童遊園の中のベンチではおじさん達が昼間っから酒盛りをしていました。お酒とおつまみは直ぐ先のスーパーで調達したのでしょうか?



谷端川緑道は下板橋駅の手前で終わります、その先谷端川児童遊園からJR板橋駅西口と東口をつなぐ歩行者用トンネルの手前までは何とか川の痕跡が残っていますが、東口に出てからは川の名残りが全く見られない一般道を歩くことになります。板橋駅の東口といえば、昔近藤勇の墓所に立ち寄ったことがあります。久しぶりに訪れてみようかと思ったのですが、自分のいる場所が地図上でよく分からず見逃してしまいました。



板橋駅の東口から明治通りと交差するまでは、豊島区と板橋区の境界に沿って進みます。明治通りと交差する直前で工場直売の看板が目にとまりました。ケーキか何かの製造工場かと思ってよくよく見ましたら、トキハソースというソースを作る会社の工場でした。直売窓口の横にはソースの自動販売機もありました。自動販売機でソースを売っているのは日本広しといえどもここだけでしょう。



明治通りを越え、更に進むと北大塚三丁目交差点に出ます。ここから東京都道436号小石川西巣鴨線(通称千川通り)を文京区小石川二丁目の富坂下交差点まで、谷端川が暗渠化された都心の道路をひたすら進みます。ただ、どこを見ても川の痕跡はおろか暗渠の存在すら見つかりません。唯一、昔谷端川が流れていて暗渠化されなかった(つまりバイパスされた)のがJR大塚駅ガード下の先から延びる大塚三業通りの区間です。この区間は谷端川の流れを思わせる緩やかなカーブをしていて、直線的な暗渠化が難しかったからなのかもしれません。蛇足ですが、三業地とは花街のことだそうです(料理屋・待合茶屋・置屋をまとめて「三業」といいます)。大塚の三業地は戦前都内(市内)でも有数の賑わいがあったとか。ピーク時の昭和6年には、料亭22軒・待合61軒・芸妓屋68軒・芸妓数260名の規模だったそうです。



谷端川は小石川植物園に沿って流れていましたが、その途中から春日通りに向かって文京区の桜の名所である播磨坂が延びています。坂の入口には次のような案内板が置かれていました。

播磨坂のさくら並木

この通りは、戦災復興事業における付近一帯の土地区画整理によって、都市計画道路環状三号線の一部として造られました。江戸時代、この辺りは松平播磨守(はりまのかみ)の上屋敷でした。また、千川(小石川)が流れる低地一帯には「播磨田んぼ」が広がっていたことから、新しくできたこの坂を「播磨(はりま)坂」と呼ぶようになりました。立派なさくら並木(現在127本)は、昭和35年に「全区を花でうずめる運動」で植えられた若木(樹齢15年)が育ったものです。昭和47年からは、毎年4月初めに「文京さくらまつり」が行われ、多くの人々に親しまれています。平成7年(1995年)3月には、全体が「水と緑と彫刻のある散歩道」として整備され、年間を通じて楽しめる新しい名所となりました。




富坂下交差点手前には、えんま通り商店街のアーケードが延びています。こんにゃくえんまで知られる源覚寺の門前町として栄えた下町情緒溢れるお店が軒を連ねています。こんにゃくえんまのいわれは次のように伝えられています。

こんにゃくえんま

源覚寺の別称にもなっている「こんにゃくえんま像」は、像高100cm余りの木造閻魔王坐像で、鎌倉時代の運慶派の仏師の作と推定されています。文京区指定有形文化財になっていて、文京区内にある仏像でも古いものに属しています。閻魔像の右側の眼が黄色く濁っているのが特徴です。右側の目が濁っていることについては以下のような伝説があります。宝暦年間(1751年〜1764年)に一人の老婆が眼病を患いこの閻魔大王像に日々祈願していたところ、満願の夜に老婆の夢に閻魔大王が現れ、「我、日月にも等しい両眼のうち一つをえぐり取って汝に授くべし(我が片眼を汝に与えよう)」と告げたということです。その後、老婆の眼はたちまちに治り、以来この老婆は感謝のしるしとして自身の好物である「こんにゃく」を断って、ずっと閻魔大王に供え続けたそうです。以来この閻魔王像は「こんにゃくえんま」「身代わり閻魔」の名で人々から信仰を集めています。現在でも眼病治癒などのご利益を求めて閻魔像にこんにゃくを供える人が多いです。




ようやく富坂下交差点までたどり着きました。谷端川はこの先、現在の東京ドームの下を通って神田川に注いでいました。



ところで、谷端川は神田川のどの地点に注ぎ込んでいたのでしょうか?なんでも、江戸時代に今の水道橋の西に仙台橋という橋が架けられていて、その下に谷端川が流れ込んでいたそうです。今では仙台橋は存在しませんが、どこにあったのでしょうか?水道橋から西側の神田川を眺めますと、すぐ先の岸壁に凹凸があり、何やら船着き場のようにも見えます。近づいてみますと、入口に神田川市兵衛川岸防災船着場というプレートがかけられていました。



入口の脇には市兵衛河岸の案内板が立てられています。

市兵衛河岸

河岸とは、物資輸送のために水ぎわに作られた物揚場(ものあげば)などの施設のことです。この河岸の名は、江戸時代の中頃まで、現在の後楽2−1−18あたりに“岩瀬市兵衛”の屋敷があったことに由来します。市兵衛河岸は飯田橋駅近くの船河原橋から水道橋までの神田川沿いの一帯で、江戸切絵図にもこの名が見えます。この河岸は、明治8年から昭和8年まで現在の後楽園遊園地一帯にあった“砲兵工廠”の荷揚場(にあげば)として賑わいました。明治時代、この河岸から早船といわれた客船が神田昌平橋まで往復していたこともありました。町名としての市兵衛河岸は、昭和39年住居表示の施行により後楽一丁目となり、この名は消滅しました。


船着き場は施錠されていて降りてはいけませんでしたが、上からのぞき込んでみますと、岸壁に蓋のようなものが見えます。ということは、谷端川の排水口は埋め立てにより閉じられたものの、下水管か何かの出口になっているのかもしれません。岸壁には他に谷端川の合流点と思われるものは見つかりませんでしたので、この船着き場が谷端川の最終地点であると独断で決めました。前半の緑道区間、後半の街歩きと変化に富んだ谷端川の歩きとなりました。それにしても今日は暑かった。








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