- 玉川上水コース(2)
- コース 踏破記
- 昨日の続きで玉川上水を歩こうと中断地点の二字橋に向っていましたら、途中の六号通り商店街の入口に玉川上水新水路跡の案内板を見つけました。六号道路(水道道路)はよく歩いているのですが、玉川上水と関係があるとは思ってもみませんでした。
玉川上水新水路跡 幡ヶ谷二丁目50番
江戸市民の上水道であった玉川上水旧水路は、多摩川上流の羽村から四谷大木戸まで堀り割りで造られていました。近代になると、水路を管理する役人がいなくなり道路から汚水や動物の死骸が水路に流れ込み、船も通行するなど、水質汚染は著しくなったのです。明治十九年(一八八六年)にはコレラが流行したこともあって、明治政府は改良水道を早急に設置する必要性に迫られました。そこで考案されたのが、淀橋に浄水場(現東京都庁付近)を新設して、水質の確保に努めることでした。旧水路を代田橋付近から分水し、ほぼ直線で築堤水路を構築し、浄水場まで通水するための工事が行なわれ、明治二十九年(一八九六年)にはほぼ完成しました。この新水路には十六の橋が架けられ、浄水場から近い順に番号が付けられていました。新水路は戦後に道路となったため橋は現存しませんが、かってこの場所には六号橋が架けられていたことから、その通りを六号通りと呼ぶようになったのです。新水路は関東大震災等により損傷したため、甲州街道の地下に埋設した水道管に通水を開始した昭和十二年(一九三七年)にその役目を終えました。その後、新水路は道路に姿をかえ、水道道路と呼ばれるようになったのです。
今日は二字橋から三鷹まで歩こうと思い、いつもよりも早めに家を出ました。昨日の中断地点である二字橋に着いたのは午前10時ちょうど。久々に気合いが入っています。今日はお天気の崩れもないという予報で、酷暑ですけど玉川上水の歩きを楽しめそうです。
歩き始めて直ぐに緑道の左手から元気の良い掛け声が聞こえてきます。緑道に接して東京消防庁の消防学校があり、いつも消防訓練が行なわれています。
緑道は、井ノ頭通りにある大山交差点の手前で中野通り(正式には中野通りは笹塚交差点で終わっていますが)を横断します。ここから先の区間は渋谷区立玉川上水旧水路緑道(大山町地区)となります。緑道の両側には手入れされた植栽が生い茂り、路面もきれいに舗装されて歩きやすいですね。
緑道は笹塚駅に向って北西方向に延びています。笹塚駅の手前で玉川上水は四谷大木戸から続いてきた(実際は初台辺りからだと思うのですが)暗渠区間から開放され、川面が顔を出します。水量は殆どなく、繁殖した木々・雑草が両岸から迫っています。
第三号橋の近くに玉川上水の案内板が立っていました。あちこちに立っている案内板と同じような内容ですが、場所によって文言が微妙に違っています。案内板を作成した人の律儀さが感じられます。
玉川上水 笹塚一丁目23番
玉川上水は、江戸時代の承応(じょうおう)二年(一六五三年)に、多摩川上流の羽村に取水口を設け、四谷大木戸までの全長約四十三キロメートルにわたって開削された上水道です。老中松平伊豆守(まつだいらいずのかみ))信綱(のぶつな)が総奉行、伊奈半十郎忠治(ただはる)を水道奉行とし、庄右衛門(しょうえもん)・清右衛門(せいえもん)兄弟の手によって開削工事は着工されました。兄弟は難工事に失敗を重ね、信綱の家臣安松金右衛門(やすまつきんえもん)吉実(よしざね)が改めて工事を行い成功させたとの説もあります。この事業は、羽村から四谷大木戸まで掘り割りをつくって上水を引くという大工事でしたが、同年十一月に四谷大木戸まで、翌年六月には江戸市中までそれぞれ完成し、通水を開始しました。その功績によって、庄右衛門・清右衛門兄弟は玉川の姓を名のることを許されたといわれています。上水は、江戸市中の生活用水として使われましたが、その余水は農業用水にも用いられました。また、その落水を使用して水車を動かすなど、この渋谷にも限りない恩恵を与えてくれました。平成十五年に開削三百五十年周年を迎えた玉川上水は、同年八月二十七日に国指定の史跡となりました。
玉川上水は笹塚駅前からやや南方向に向きを変えます。川幅が少し広くなりますが、川全体が木々と雑草に覆われています。環七の手前で再び暗渠区間が始まり、上部は緑道と児童公園になっています。
緑道は環七で一旦中断しますが、反対側で再び緑道が始まります。離れた信号のある横断歩道を渡ろうとしたら、緑道の脇に環七を横断する歩行者専用の地下道を見つけました。これを使うと簡単に環七を渡ることができます。
緑道の突き当たりに赤煉瓦の色をした真新しいアーチ橋が架かっています。玉川上水に架かる橋としてはモダンな感じです。ここは和田堀給水所からの配水管が通る「玉川上水第一号橋」と呼ばれていた橋でしたが、老朽化に伴い掛け替えることになりました。橋名を公募したところ、「譲り合いの精神」から「ゆずり橋」となったそうです。
ゆずり橋を越えた先はまるで渓谷のような雰囲気になっています。京王線の線路の下を細い通路で潜るのですが、下を見ると玉川上水の水が流れているのが見えます。こんな地下通路があるとは知りませんでした。
地下通路を抜けた先は甲州街道となります。玉川上水は甲州街道とぶつかった地点で左に向きを変え、甲州街道の歩道の下を流れます。甲州街道の脇に狭い空き地が有り、そこに公園管理事務所の案内板が立っていました。
玉川上水の由来
今から、300年以上昔、徳川四代将軍は、江戸の水不足を補うために多摩川から水を引くことを計画しました。そこで、松平伊豆守信綱の家臣安松金右衛門の技術指導を受けた玉川兄弟によって 羽村から四谷大木戸まで武蔵野が掘り割られ、江戸八百八町に水を供給する水路が築造されました。これが玉川上水です。防水(?)用水としても使われていたということです。現在では、その下流はほとんどが埋め立てられ、世田谷区内を通る 約950mの区間も上部が緑の散歩道として生まれ変わっています。
甲州街道に出ますと、玉川上水の痕跡が見えなくなります。以前から疑問に思っていたのですが、世田谷区内の玉川上水緑道と杉並区の玉川上水公園をつなぐルートはどうなっているのか?甲州街道に架けられた歩道橋に上がって前後を見て納得しました。甲州街道とぶつかった玉川上水は、歩道橋の手前まで歩道に沿って流れ、ちょうど歩道橋あたりで斜めに甲州街道を横断していたようです。甲州街道の反対側を見ますと、緑道らしき道が延びています。
歩道橋を渡って甲州街道の反対側に降りますと、歩道から右手に延びる緑道らしき道が見えます。その先は和田堀給水所の敷地になっていて、厳重に立ち入りが禁じられています。
江戸時代にはもちろん給水所なんてなかった筈ですから、明治時代になってから玉川上水を取り込む形で浄水場(当時は浄水池)になったのでしょう。甲州街道から分岐した緑道の先を推定すると、ちょうど杉並区の玉川上水公園の入口とピッタリ合います。
玉川上水公園に入ります。少し先に井の頭線と交差するのですが、井の頭線は掘り割りの下を走っている感じなので、当然玉川上水の水位と高さが合いません。それで、線路の上部に巨大な管を渡し、その中に玉川上水の水を流しているようです。管と云っても、周囲は蔦草に覆われ、緑の筒にしか見えませんが。
玉川上水公園は玉川上水の跡に造られていますので、当然全体が細長い形をしています。
玉川上水の公園案内図
ここは、「玉川上水」の跡地です。
玉川上水は、江戸の人々に飲料水を供給するために、多大な経費と一年間の歳月をかけて、承応三年(1654年)に完成しました。西多摩郡羽村で多摩川の水を分流し、四谷大木戸の水門まで十里三十町(約42km)を運ぶ上水路でしたが、昭和四十一年(1966年)水不足の東京へ利根川から水を引く送水管を埋設するため、区内では久我山の一部を残し、その姿を消しました。その後、杉並区では東京都水道局からこの地を借りて、三つの公園とひとつの緑地をつくりました。下流から上流に向かって、天川上水公園、玉川上水永泉寺緑地、玉川上水第三公園、玉川上水第二公園の順に並んでおり、全長は約2,000mにもおよびます。
公園が幾つかの区間に分かれているのは、明治大学和泉キャンパスと築地本願寺和田堀廟所で分断されているからなのでしょう。
お盆に入ったせいか、築地本願寺和田堀廟所にはお墓参りの人達が散見されました。高級外車に乗ってお墓参りされている方もいらっしゃいましたが、それだけ格式の高いお寺なのでしょう。
築地本願寺和田堀廟所の先から玉川上水永泉寺緑地が始まります。公園内には小さな川が造られていますが、水は流れていませんでした。玉川上水永泉寺緑地の名前ですが、緑地に接して幾つかのお寺が並んでいるのですが、永泉寺というお寺は見つかりませんでした。ネットで調べてみましたら、次のような記述がありました。
永泉寺には「玉川上水の玉石伝説」が伝わる。二度の取水口選択の失敗などにより、下高井戸あたりまで掘り進んだところで資金難に陥った玉川兄弟が、資金繰りも万策尽き、下高井戸の工事現場で途方に暮れていると、工事現場に白く輝くところがある。何事かと掘ってみると10cmほどの玉石が出てきた。その玉石が怪我や眼病に霊験あらたかと、江戸市中の評判を呼び、工事への協力が相次ぎ、資金繰りもよくなり、工事が無事再開された。玉川兄弟は、これは日頃信仰の薬師如来のおかげであると、薬師堂を建て、玉石薬師と命名した。亨保4年(1719年)には、玉石薬師を護るため永泉寺を建てた。お供えの赤飯が、これまた万病に効くとのことで、赤飯を握って玉にしたものを干して丸薬とし、「玉石薬師の玉薬」として売り出したとも云われている。明治になるとお寺は廃れ、四谷塩町の永昌寺に合併された。明治43年(1910年)、永昌寺はこの地に移って現在に至る。
ナルホド、よくよく地図を見ましたら、確かに緑地の奥に永昌寺という名前のお寺がありました。
玉川上水第三公園に入ります。ここからは緑道は周囲よりも一段高くなっています。更に進んで、玉川上水第二公園に入ります。周囲は住宅地になっています。緑道の脇の石碑には次のように記述がありました。
玉川上水の変遷
ここは玉川上水の跡地です。玉川上水は江戸の人びとに飲料水を供給するため、今から三百年前、当時で六千五百両の経費と一年間の歳月をかけて承応三年に完成したもので、西多摩郡羽村で多摩川の水を分流し、四谷大木戸の水門まで十里三十町(約四十二キロメートル)をはこぶ上水路でした。その流れは清く、水に映す桜の花の姿は美しく、長いあいだ江戸の人びとに親しまれ愛されてきましたが、昭和四十一年水不足の東京へ利根川から水をひく送水管を埋設するため、区内ではその姿を消しました。杉並区では、往時を偲び、園内に小さな流れを造り、しだれ桜を植えて、上水の面影をここに残しました。
玉川上水公園は、甲州街道(国道20号線)と中央自動車道に繋がる首都高4号新宿線が分岐する地点で終わります。そこから先はどうなっているのかなぁと何か手がかりがないか探します。ふと、高速道路の下のフェンスの中を見ますと、「水道用地につき立ち入り禁止」の立て札が立っています。とすると、玉川上水の流路の上に高速道路を造ったようです。東京オリンピックの時に、高速道路用地の買収を短期間で終えるために、都内の河川の上に建設したのと同じ方式なのでしょう。つまり、この先は高速道路に沿って歩けばいいわけです。
といっても、ずっと高速道路に沿って歩けばいいということではありません。富士見ヶ丘小学校前交差点で高速道路(この時点では中央自動車道)は南西方向にカーブし、玉川上水はそのまま直進します。高速道路の左側を歩いていると分岐に気づかず、そのまま調布方向に行ってしまいます。私は調布に着く前に気が付いたのでロスは最小限に押さえることができましたが。
玉川上水は浅間橋から開渠となります。ここから先の緑道区間はよく整備されていて、格好の遊歩道になっています。緑道の両岸には巨木が立ち並び、遠くからでも緑道の存在を知ることができます。
浅間橋の次の岩崎橋の脇に、この先玉川上水に架かる橋の名前が列挙されている案内板がありました。羽村取水口まで、玉川上水にはとてつもなく多くの橋が架けられているのですが、これから先幾つの橋に出会うのでしょうか?真新しい玉川上水の案内板もありますね。昔の風景も添えられています。残念ながら私は見落としたのですが、岩崎橋の直ぐ手前に北沢分水口跡と烏山分水口跡があったんですね。案内板は写真には撮ったのですが、内容はよく見ていませんでした。残念!
玉川上水
玉川上水は、多摩川の水を江戸市中に供給するため、承応(じょうおう)二年(一六五三年)、庄右衛門・清右衛門兄弟(後の玉川兄弟)が江戸幕府から下命(かめい)され開削(かいさく)した上水路です。西多摩郡羽村(羽村市)から四谷大木戸(新宿区内藤町)まで約四十三キロメートルを開水路で導水し、そこから先は石管や木管によって江戸市内に給水しました。杉並区内の流れは、牟礼橋(むればし)から代田橋(だいたばし)に至る約六キロメートルです。工事はわずか一年有余といういおどろくべき早さで完成しました。江戸市内への都市生活用水の供給というい本来の目的を果たす以外に、水の乏しかった武蔵野台地の村々に分水することで、飲料水・潅漑用水・水車の動力として新田開発をうながし、武蔵野台地の原野を畑作地帯へと変化させました。玉川上水の分水口(ぶんすいこう)の数は、『上水記』によると、最古の野火止用水(のびどめようすい)をはじめ最盛期には総数三十三ヶ所にものぼり、杉並区内には、下高井戸村分水・烏山村分水・上北沢村分水の取水口がありました。この説明版の前方にみえるのが烏山分水口跡で、上北沢村分水口跡(現在地より下流へ約四十メートル)とともに貴重な遺構です。このうち上北沢村分水には途中に三左衛門水車が設置され、近郷近在の人々に親しまれ、「車堀(くるまぼり)」と呼ばれました。江戸の人々の暮らしを支えた玉川上水は、明治三十一年(一八九八年)、東京に近代水道が完成したため、同三十四年(一九〇一年)に廃止されましたが、水路は大部分がそのまま淀橋浄水場(よどばしじょうすいじょう)への導水路として使用されていました。新宿副都心計画にともない、昭和四十年(一九六五年)に淀橋浄水場が廃止されると、流路はさらに短縮され、現在では小平監視所(小平市中島町)から上流域のみを水道導水路とし、中流域は東京都の清流復活事業により、水再生センターの高度処理水が導水されています。
橋の中には昔のままと思われる石造りの橋もあります。雑草に覆われていますが、中央には狭いながらも道筋が付いています。架けられてからどれくらい経つのでしょうか?
玉川上水緑道のあちこちに案内板が立っています。幾つかのパターンがあって、基本事項は同じものの、立てられた場所によって一部内容が変えられています。ここの案内板では、井の頭公園付近の特徴である蛇行する玉川上水について解説してあります。
国指定史跡 玉川上水
江戸・東京の水道に果たした役割
玉川上水は、羽村取水口から四谷大木戸までの約43kmにわたる水路で、承応3年(1654年)に完成しました。これにより、多摩川の水が江戸市中の広い範囲に供給されることとなり、江戸が大きく発展することができました。その後、明治31年(1898年)に完成した淀橋浄水場(今の新宿区)への水路として、昭和40年(1965年)に同浄水場が廃止されるまで、利用されていました。現在も羽村取水口から小平監視所までは、現役の水道用の水路として、都民の生活を支えています。
貴重な土木施設・遺構としての歴史的価値
玉川上水は、約43kmの区間を約92mの標高差(100mでわずか約21cmの高低差)を利用して、水を流すように設計された長大な土木施設・遺構です。特に、小平監視所から浅間橋までの中流部には、開削当時の素掘りの水路・法面(のりめん)が多く残され、往時の姿を今日に伝えています。玉川上水は、近世の水利技術を知る上で重要な土木施設・遺構であることから、平成15年(2003年)8月、開渠(かいきょ)区間約30kmが国の史跡に指定されました。
蛇行(だこう)する玉川上水
井の頭公園からどんどん橋付近にかけては、直線が多い他の区間に比べて、蛇行する箇所が多くなっています。これは、この地域が入り組んだ複雑な地形をしており、その中で少しでも高い地点を選んで水路を引いたためです。このことからも、玉川上水が、わずかな高低差を利用して水が流れるよう設計されていることがわかります。
昭和60年(1986年)からは、東京都の清流復活事業により、小平監視所から浅間橋までの区間に下水高度処理水が流され、水辺空間が復活しています。
井の頭公園内を通る玉川上水はかなり水量があります。また、流れている水は澄んでいて綺麗です。これは玉川上水の水質を向上させようとする長年の努力の成果といえます。
清流の復活 −玉川上水−
玉川上水は江戸時代の承応2年(1653年)、人口が急増した江戸の飲料水確保のために作られた水路です。この上水は、江戸市中への飲料水の供給という目的以外に、武蔵野台地の各地に分水されて飲料水・かんがい用水・水車の動力などに利用され、武蔵野の発展に大きな役割を果たしました。水路は明治時代以降も淀橋浄水場(新宿区)への導水路として使われていましたが、新宿副都心計画による淀橋浄水場の廃止により、昭和40年(1965年)以降、小平監視所より下流は水の流れが途絶えました。その後,多摩川上流水再生センターで高度処理された再生水を利用した東京都の「清流復活事業」によって、昭和61年(1986年)8月から、玉川上水の小平監視所より下流側に再び清流がよみがえりました。
井の頭公園は巨木が生い茂り、昼なお暗しといった感じです。まさに、武蔵野を歩くという表現がピッタリです。
玉川上水はその水量の多さから、あちこちで分水され、武蔵野の大地を潤してきました。井の頭公園内には牟礼分水取水口跡が残っています。
牟礼分水取水口・分水堰
玉川上水は、江戸市中への水供給を目的とし、承応2年(1653年)に築かれました。その後、新田開発地の生活用水や古村へ農業用水を補給するために、約30ヶ所で分水され、本来地表水に乏しい武蔵野台地へ、人工河川による安定した水供給が可能となりました。江戸、東京の発展を支えた歴史的土木施設・遺構として、平成15年(2003年)には国の史跡に指定されています。牟礼分水は湧水に頼っていた不安定な農業用水を補給する目的で、延享2年(1745年)に江戸幕府へ出願し、許可されました(『上水記』東京都水道局保管:巻三)。その延長は20町(約2.2km)程で、牟礼(無礼)村1ヶ村のためだけの用水でした。明治時代にまとめられた『武蔵国北多摩郡当邨地誌編輯書上(むさしのくに きたたまぐん とうそんちしへんしゅうかきあげ)』(皇国地誌)には、牟礼村の水田の中を三筋に分かれて流れ、以前には畑であったところを水田に開墾し、明治10年(1877年)頃には、約18万平方メートル程の広さの田畑を潤していたことが記されています。現在みられる取水口は、明治43年(1910年)に改修されたものです。また分水堰は、東京市へ送水ルートの変更に伴う玉川上水の通水量の低下に伴う対策として、大正14年(1925年)頃に設置されたものです。昭和初期から進んだ農地の工場地化、また戦後の住宅街化の影響もあり、昭和33年(1958年)には取水口から約300mの範囲が暗渠化され、昭和40年(1965年)には正式に廃止され、200年余りの役割を終えました。
井の頭公園の出口にかかる橋が萬助橋です。萬助橋の名前の由来は、安政年間に下連雀村の地主であった渡邉萬助が近くの大盛寺境内の杉の木をふたつに割って橋を架けたと云われています。萬助橋から先は真っ直ぐに延びた愛称が風の散歩道という道路が延びています。玉川上水もその道路に沿って真っ直ぐ三鷹駅に向います。
萬助橋と三鷹駅の中間辺りに大正時代を想わせるこじゃれた洋館の山本有三記念館が建っています。作家・山本有三が1936年(昭和11年)から1946年(昭和21年)まで家族とともに住んだ家です。有三はここで代表作「路傍の石」や戯曲「米百俵」を執筆するとともに、自らの蔵書を利用して「ミタカ少国民文庫」を開きました。戦後、進駐軍の接収に遭い有三はやむなく転居しましたが、接収が解除された建物は研究所や文庫として利用された後、1996年(平成8年)に「三鷹市山本有三記念館」として開館しました。現在は山本有三の生涯と作品を紹介する施設として公開し、展覧会や朗読会などの事業も行っています。記念館の門の前に大きな石が置かれていますが、これは昭和12年に山本有三が中野旧陸軍電信隊付近の道端で大きな石を見つけ、この家の裏庭に運び込んだと伝えられています。ここで生まれた作品の名にちなみ「路傍の石」と呼ばれています。。。ということが石の隣りにある碑文に書かれています(私は読みませんでしたが)。
三鷹駅前広場の手前で玉川上水は駅構内の地下に潜ります。水面が見える最後の橋が三鷹橋です。この橋は昭和になってから架けられたそうです。当時の三鷹はまだ人口が少なかったのでしょうか?
旧三鷹橋 親柱、高欄
玉川上水 は承応2年(1653年)に当時の江戸市中に飲料水を送るために、43kmにわたって開削 された水路です。明治初期には物資を輸送する為の通船があり、この近くにも船着場があったとも伝えられていますが、衛生上の理由などから2年間で廃止されたといわれています。三鷹橋は昭和32年(1957年)6月に架けられ、構造材の一部に鉄道のレールを活用していましたが、駅前広場の整備に伴い、平成17年(2005年)3月に旧三鷹橋の親柱 、高欄のデザインを活かして架け替えられたものです。ここに旧三鷹橋の一部を保存し架け替えの記念といたします。
三鷹橋の脇には玉川上水の案内板が置かれています。他の場所と同じ記述がありますので、玉川上水と太宰治に関する記述のみを抜粋します。当時の玉川上水は人喰い川とも呼ばれるほど水量が多かったのですね。
国指定史跡 玉川上水
玉川上水と太宰治
玉川上水は、数多くの文人に親しまれてきました。昭和14年(1939年)から同23年(1948年)まで三鷹に暮らし、「走れメロス」や「東京八景」などの名作を発表した太宰治もその一人です。付近には、太宰の旧居跡など、ゆかりのある場所が数多残っています。また、当時の玉川上水は、現在に比べ、水が豊富に流れていたことが写真からもうかがえます。
ということで三鷹駅に辿り着きました。思いの外距離があって、結構時間がかかりました。明日は三鷹駅から先の玉川上水を歩くことにします。未知の区間もありますので、どこまで歩けるやら。。。
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