玉川上水コース(3)  

コース 踏破記  

玉川上水コースも三日目になります。今日も猛暑日となりそうな暑さです。四谷大木戸から20km位歩いてきましたが、まだまだ先は長い道のりです。今日の目標は帰宅に便利な立川市の玉川上水駅までの予定なのですが、行ったことがない羽村取水口までのルートを考えると、出来ればJR線一本で帰宅できる拝島駅まで足を延ばしたいところです。そんな気持ちもあってか、昨日の中断地点である三鷹駅に着いたのは午前9時半でした。気持ちも新たに、三鷹駅の北口にある玉川上水の開口部から出発します。三鷹駅の建物には地下部分がないそうですが、これは駅の建物の下に玉川上水の水路があるからといわれています。それが北口で姿を現しているのです。玉川上水はここから境浄水場に向って一直線に延びています。  



三鷹駅北口から延びる玉川上水に架かる最初の橋はけやき橋です。羽村取水口までに何個の橋が架かっているのか数えようかと想いましたが、あまりに多くて諦めました。本当に羽村まで歩けるのでしょうか?



境浄水場の手前の玉川上水にぎんなん橋が架かっています。橋の袂には戦前の中島飛行機工場との関わり合いを示す案内板が立っていました。

中島飛行機 武蔵製作所 工場引き込み線 橋台跡

現在の都立武蔵野中央公園から市役所あたりまでには、かつて戦前の日本を代表する航空機メーカーであった中島飛行機株式会社武蔵製作所という軍需工場がありました。工場は、昭和13年(1938年)から昭和20年(1945年)まで稼働し、零戦や隼などの軍用機のエンジンを生産していました。この工場への物資輸送のため、武蔵境駅から工場まで引き込み線が敷設されました。戦争末期、工場はアメリカ軍による激しい空襲を受けましたが、その際、この引き込み線や隣接する境浄水場も被弾しました。戦後、昭和26年(1951年)、工場跡の一角に「東京スタジアムグリーンパーク野球場」が開設され、プロ野球観戦などの観客輸送のため、引き込み線は敷き直され、三鷹駅からの国鉄「武蔵野競技場線」として生まれ変わりました。しかし、間もなく野球場は閉鎖され、引き込み線も昭和34年(1959年)に廃止になりました。その後、玉川上水から北側は、「グリーンパーク遊歩道として、また南側は「堀合(ほりあわい)遊歩道」(三鷹市)として生まれ変わりましたが、この場所には、コンクリート製の橋台だけが残されました。平成24年(2012年)都道の建設に伴い、橋台の上に「ぎんなん橋」が設置されました。この橋台跡は、工場への引き込み線の遺構で唯一残った戦争遺跡です。




少し歩きますと、境浄水場の広大な敷地が見えてきます。境浄水場は玉川上水に隣接していますが、この場所から直接水を引き入れているわけではありません。多摩川の表流水を小作取水堰と羽村取水堰から村山貯水池及び山口貯水池を通じて引き入れた水を原水としています。それにしても広大な敷地ですね。



玉川上水には数多くの橋が架けられていますが、謂れのある橋には大抵案内板が立てられています。

大橋の歴史について

この橋は、玉川上水ができた承応三年(一六五四年)以降に現在の武蔵野市域内で最初に架けられた「新橋」「保谷橋」「大橋」の内の一つとされる。その後、明治三八年(一九〇五年)と大正九年(一九二〇年)に修繕されたのち、昭和七年(一九三二年)にコンクリート橋に掛け替えられた。大橋を通る大師道は、旧保谷市と旧田無市の境界を通る道と東伏見神社の横から千川上水を越えて武蔵野市に入る道が御門訴の碑付近で一つになり五日市街道を渡る道で、大正七年(一九一八年)に境浄水場が出来るまで、西北は、田無を経て所沢・青梅に通じ、南は甲州街道の調布五宿に達し、開港後は横浜街道と称し、近郷近村の最大の便道であったとされる。また、深大寺(調布市)の元三(がんさん)大師堂へ行く道なので大師道とも呼ばれた。三鷹との境にあるので「境大橋」」とも呼ばれ、「大橋」の名の由来は、深大寺「大」の字をとったとも、旧下連雀村の小字名「大橋」という地名からきたともいわれている。この度、大橋の全面架替工事を行ったが、親柱は、修復を加えた昭和七年のものを残している。




玉川上水が完成した時点には存在しないような名前の橋もあります。国木田独歩はその代表作である「武蔵野」の冒頭部分で玉川上水に架かる桜橋を作中に取り入れています。その文章は緑道脇の一画に設けられた石碑にも引用されています。この独歩橋は国木田独歩を記念して、昭和44年に新たに架けられた橋のようです。

今より三年前の夏のことであった。自分は或友と市中の寓居を出で、三崎町の停車場から境まで乗り、其処で下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜橋といふ小さな橋がある、・・・
武蔵野 第六章冒頭の一節




玉川上水には水路の保全を行なうために、何カ所かの水衛所が設けられていました。

境水衛所跡について

水衛所(すいえいじょ)・水番所(みずばんしょ)とは

水衛所とは、江戸市中への水を確保するため、水番人(みずばんにん)と呼ばれる人が常駐していた場所です。水番人は、玉川上水に流れる水量の確認や周辺の巡回、流れてくる落ち葉の掃除などを行っていました。水衛所は、江戸時代には奉行の支配下におかれ、「水番所」と呼ばれていました。

境水衛所について

境水衛所は、明治維新後、東京市水道部(現在の東京都水道局)が管理することになったことから、明治27年に水番所を水衛所と名前を変え、引き続き職員(水衛)が常駐し、玉川上水の点検や清掃などを行っていました。その後、淀橋浄水場の廃止に伴い玉川上水への通水を停止したことから、境水衛所は昭和55年3月に廃止されました。水道局では、史跡である玉川上水をより身近に感じていただくため、境水衛所跡地を散策路として、平成24年度に整備しました。




緑道には、「史跡 玉川上水の碑」なる立派な石碑が置かれています。それだけ人々にとって重要な位置付けだったのでしょう。



玉川上水は三鷹から先、福生市まで五日市街道と付かず離れず併走しています。流路を定めるときに五日市街道の道筋を参考にしたのでしょうか?



玉川上水は開削で掘り出された土砂を両岸に積み上げて土手とし、そこに桜を植樹して江戸庶民の憩いの場としたのだそうです。そんな訳で、玉川上水のあちこちには桜の名所があります。緑道の脇に石碑と碑文を説明した案内板が立っていました。

桜樹接種碑

元文二年(1737年)頃、桜が植えられた玉川上水堤はしだいに桜の名所としてにぎわいを増してきました。しかし、百年余がたち老木化が進んだので、嘉永三年(1850年)、代官大熊善太郎は田無村・境新田・梶野新田・下小金井新田・鈴木新田に互いに協力して補植するよう命じました。村むらでは、桜の苗木を持ち寄り、それぞれの持ち場に数百本を植え足しました。この石碑は、嘉永四年三月、田無村の名主下田半兵衛が補植の経緯を後の世に伝えるとともに、桜樹が永久に植え継がれ、保護されることを願って建てたものです。石碑の表に「さくら折るべからず」槐字道人(えんじゅじどうじん)(下田半兵衛)、裏に無量老人(賀陽玄節(かやげんせつ))撰の「桜樹接種の記」が刻まれています。




玉川上水は、小金井公園の南端に沿うように流れています。小金井公園は都営の公園としては国営昭和記念公園には及びませんが、広大な規模を誇っています。また、桜の名所としても知られています。



新小金井橋の上流に架かるのが陣屋橋です。人道専用橋で、橋の袂には橋の由来を説明した案内板が立てられています。

陣屋橋

江戸時代前期の承応三年(一六五四年)、江戸の水道である玉川上水が完成した後、武蔵野の原野の開発が急速に進み、享保年間(十八世紀前半)頃に、八十二か村の新田村が誕生しました。この新田開発には、玉川上水からの分水が大きな役割を果たしました。この時、上水北側の関野新田に南武蔵野の開発を推進した幕府の陣屋(役宅)が置かれ、「武蔵野新田世話役」に登用された川崎平右衛門定孝の手代(下役)高木三郎兵衛が常駐していました。この陣屋から南に真直ぐ小金井村方面に通じる道が「陣屋道」、玉川上水に架かる橋が「陣屋橋」です。今の橋は、昭和四十八年に新設されたものですが、もとの陣屋橋は、ここから数十メートル下流にありました。また、玉川上水両岸の小金井桜は、新田開発が行われた元文二年(一七三七年)頃、幕府の命によって川崎平右衛門等が植えたものです。




小金井桜の花見に徳川の将軍様が御成り、それを記念し松を植えると御成の松となります。小金井橋を挟んで東にあるのがこの御成の松です。蛇足ですが、天皇陛下や皇族方々がご覧になった跡地に記念して植樹をした場合は「行幸の松」になります。

御成の松跡

玉川上水堤の桜並木(小金井桜)は、江戸近郊随一の花見名所として知られ、多くの著名な文人墨客等が訪れました。武士はしばしば騎馬で遠乗りを行い、文政九年(1826年)には越前丸岡藩主有馬誉純、天保十四年(1843年)には老中水野忠邦等一行が花見に来ています。天保十五年(1844年)旧暦2月25日(4月12日)第十三代将軍家定(当時世継)一行が花見に訪れました。家定側近の紀行文によると、当日はあいにく大雨でしたが、家定は馬から下りて堤を歩き御座所を設けて花見の宴を催しました。この家定の御成りを記念して里人が御座所跡に一本の黒松を植え「御成の松」と呼ばれてきました。見事な枝ぶりでしたが、惜しくも平成六年に枯れました。ここはその跡です。




五日市街道と小金井街道が交差する地点に広大な敷地のお屋敷があります。巨木が生い茂り、そこだけ森になったかのような風景です。昔、この付近を歩いた折にも印象深かったのですが、余程の旧家なのでしょうね。



小金井橋の袂には、大正13年(1924年)に国の名勝に指定された「名勝小金井櫻」の碑があります。その隣には、名勝小金井(サクラ)の案内板もあります。

名勝 小金井櫻

小金井堤の桜は、元文二年(一七三七年)頃、八代将軍徳川吉宗の時代、幕府の命により川崎平右衛門定孝が、大和(奈良県)の吉野や常陸(茨城県)の桜川など各地の桜の名所から種苗を取り寄せ、小金井橋を中心に玉川上水両岸の六キロメートルにわたり植えたものです。これは、新田の賑わいのためのほか、桜の根が土手の崩壊を防ぎ、花びらなどが水の毒を消すなどの理由によるものといわれています。植樹されておよそ六十年後の寛政九年(一七九七年)、多摩地域(現東大和市)出身の漢学者大久保狭南が「『武蔵野八景」の一つとして世に紹介すると、江戸からの花見客が増え、佐藤一斎「小金井橋観桜記」や大田南畝「調布日記」など文人による紀行文等に登場するようになりました。特に初代歌川広重が描いた「江戸近郊八景之内小金井橋夕照(せきしょう)」などによって富士山を背景とし、玉川上水に映える桜並木の風景が有名になりました。天保十五年(一八四四年)の将軍世子(せいし)(のちの十三代将軍家定)の観桜を契機に、幕府の命により近隣村々によって大規模な補植が行われ、桜並木の景観が整いました。明治十六年(一八八三年)には、明治天皇が騎馬で行幸されるなど、関東第一の桜の名所として、西の吉野と並び称され、明治二十二年(一八八九年)四月十一日、甲武鉄道が開通すると、いっそう多くの花見客で賑わいました。小金井堤の桜は、東京大学三好学博士(植物学)の調査研究により、若葉の色、花の色、形の大きさ、早咲き、遅咲きなど一本一本が異なるほど多様な天然変種があり、他に類を見ない山桜の一大集植地として、大正十三年(一九二四年)十二月九日「史跡名勝天然記念物保存法」により、吉野・桜川等と共に名勝に指定されました。この名勝指定には、小平村・小金井村・保谷村・武蔵野村の村長等を中心として大正二年(一九一三年)に設立された「小金井保桜(ほぞう)会」による官民一体となった保存活動が大きく寄与しました。戦後、名勝小金井(サクラ)は、樹木の老化や周辺の都市化などによって年々衰えましたが、平成十五年(二〇〇三年)八月二十七日に玉川上水が史跡に指定されたことを契機に、東京都・地元自治体・市民団代の協働により、吉野や桜川等の系譜を引き継ぐ山桜の苗が補植され、名勝小金井の桜並木の再生・復活が図られます。




玉川上水の遊歩道は場所によって山道を歩くような感じです。狭くなったり、砂利混じりの道になったり、必ずしも歩きやすい場所ばかりではありません。イヤになれば緑道から外れて一般道に出れば済む話なんですけど。小平市には鎌倉街道の上道が南北に通っています。ルートが分からず街道歩きでも挑戦できなかったのですが、その跡は都内あちこちで見かけます。鎌倉橋なんかもいろんなところで見かけますね。この鎌倉橋は歴史と文化の散歩道で通った筈なのですが、もう10年以上前のことなので記憶にありません。



玉川上水の案内板は、多くが地元自治体とか教育委員会の制作によるものなのですが、これにはライオンズクラブとか郷土研究会とかも加わって作成されたみたいです。それだけ玉川上水について思い入れがあるのでしょう。

玉川上水

江戸時代の前期、江戸市中へ給水する目的で、武蔵野国多摩郡羽村(現羽村市)の多摩川に取水口を設け、四ッ谷大木戸(現新宿区)までの約43km間を導水した素掘の開渠水路です。工事は玉川庄右衛門・清右衛門兄弟が請け負い、承応2年(1653年)4月に着手、同年11月に四ッ谷大木戸まで竣工したとされています。江戸市中に入った上水は、地中を木樋等で配水されて人々の生活を潤しましたが、一方で武蔵野台地の新田開発の潅漑及び生活用水としても機能しました。上水からの分水による生活用水の確保が、現在の小平の母体である小川村の成立につながりました。優れた測量技術に基づく長大な土木構造物である玉川上水は、貴重な土木遺産として、開渠部分の約30.5kmが国の史跡に指定されています。




玉川上水は鷹の台駅近くで西武国分寺線と交差します。玉川上水には当然鉄橋が架かっていますが、川幅が狭いので宙ぶらりんの線路が玉川上水を跨いでいるように見えます。玉川上水の案内板には次のように書かれています。

小平発展の基礎となった玉川上水

小平市付近は、火山灰が降り積もってできた土地で、雨がしみこみやすく、水の乏しい地域でした。江戸時代に玉川上水が完成すると、この水を利用して、小川九郎兵衛らにより、明暦二年(1656年)、小平市の前身である小川新田の開拓が始まりました。このように、玉川上水は、現在の水と緑の豊かな小平の発展の基礎となりました。




玉川上水緑道を歩いていましたら、平行して流れる小さな川に気づきました。何だろうと思っていましたら、近くの案内板に新堀用水の説明がありました。

新堀用水(しんぼりようすい)

新堀用水は、明治三年(1870年)、玉川上水の北側にあった8箇所の取水口を統合し、玉川上水からの分水量を管理するために造られた水路です。この用水は、ここから約1km上流の小平監視所から玉川上水の水を取り入れ、西武多摩湖線を横切る地点まで、玉川上水の北側を平行して流れています。新堀用水は、その先で多くの水路に分かれ、現在も周辺住民に親しまれ、潤いをもたらしています。




もう少しで玉川上水駅に到着です。ふと見ますと、緑道の一画に「清流の復活」と彫られた巨石が置かれています。その先には小平監視所の施設があります。現在、玉川上水に多摩川の水が流れているのは小平監視所までです。羽村取水口から小平監視所まで流れてきた水は東村山浄水場へ送られ、水道水になります(現在の東京の水源の大部分は多摩川水系ではなく利根川水系や荒川水系となっています)。小平監視所から久我山の浅間橋までの下流区間には下水を処理した再生水が流れています。近年まで玉川上水の水路はそのまま淀橋浄水場への導水路として使われていましたが、新宿副都心計画による淀橋浄水場の廃止に伴い、昭和40年以後小平監視所より先の下流については水がとだえていました。東京都の清流復活事業 により、昭島市に置かれた多摩川上流処理場で処理された再生水が小平監視所より下流の玉川上水に流されるようになり、清流がよみがえりました。清流の復活は、時代の変化に伴い役割を失った水路に再び水流を復活させようとした事業です。



小平監視所では野火止用水の取水も行なわれています。野火止用水は、江戸時代前期に徳川幕府の老中松平伊豆守信綱によって開削された用水路です。東京都はこの用水と周辺の緑を将来にわたって守っていくため、条例によって歴史環境保全地域に指定しています。



ようやく玉川上水駅に着きました。駅舎は真新しく、上空には多摩都市モノレールの高架が延びています。ちなみに、多摩都市モノレールは芋窪街道の上部に造られました。「芋窪街道いまむかし」という石碑が沿線のあちこちに置かれているそうです。モノレールに乗ると立川駅まで僅か15分ほどで行けます。立川駅で中央線に乗り換えれるので、このまま帰宅するには好都合です。この先、更に玉川上水を歩くと、拝島駅まで中央線に接続する駅はありません。時刻は午後1時半です。まだ日が暮れるまで余裕がありますね。明日は羽村まで歩きたいので今日はもう一踏ん張り頑張りましょう。ということで、拝島駅を目指して歩き始めます。






戻る