- 玉川上水コース(5)
- コース 踏破記
- 玉川上水の歩きは最終日となりました。今日は拝島駅前の平和橋から歩きを再開します。平和橋と並んで玉川上水に架かる線路を踏切で渡って緑道に入ります。ちなみに、この線路はJR線でも西武線でもなく、米軍専用線だそうです。この米軍専用線は、近くにある横田基地の一部ということになっています。ここには週に何回か、燃料を積載したタンク車が通るとのことですが、横田基地には沢山の飛行機が離発着していますから、使用する航空燃料も膨大な量になるんでしょうね。
玉川上水緑道は日光橋公園の中を通っています。入口にはアーチが架けられ、ウエルカムで出迎えているようです。
この公園は、別名水喰土公園とも呼ばれています。水喰土とは穏やかならぬ名前ですが、これには玉川上水掘削時の苦い出来事がありました。
玉川上水開削工事跡は、江戸幕府が承応二年(一六五三年)に江戸市中の飲料水の確保を目的として多摩川より引水し、江戸市中へ配水するために行った開削工事の跡です。開削工事の跡は、この「みずくらいど」公園に残っていますが、この遺跡は工事が失敗し、新しい堀を北側に掘り直したため当初計画した堀跡が残されたものです。この付近の土地は、古くから「みずくらいど」と呼びならわされてきました。これは、玉川上水開削のおり、この付近で水が地中に吸い込まれ、工事が失敗した土地であるとの故事により発生したといわれます。事実、承応二年以後に作成された古文書や古地図には「水喰戸」、「水喰ノ上」の文字が現れます。 開削工事の跡は、「みずくらいど公園」の北にある玉川上水五丁橋付近より立川段丘崖線に沿って南へ延び、武蔵野橋公園付近で東へ方向を変え、西武鉄道拝島駅前の玉川上水平和橋の付近まで、約一キロメートルにわたって残存していたと伝えられます。しかし、現在は、みずくらいど公園内及び付近に開削工事の跡が残るのみです。この玉川上水開削工事跡は、近世前期の大規模な土木工事の遺構として、歴史的学術的に大変貴重です。
さて、水喰土公園を出てまた玉川上水の緑道に戻るのかと思いきや、公園の出口から先は一般道になっています。玉川上水はどこかと思って周辺を見回しても迷路のような路地が続いているだけです。実は玉川上水の側道は、水喰土公園から先、福生市の中ほどまで民有地に阻まれて存在しないのです。そのため、住宅街の路地を巡りつつ玉川上水から離れないように進路を定めなければなりません。私が持っている地図は東京23区が主体で、奥多摩地方は5万分の1の縮尺になっています。住宅街の路地なんぞ判別できる訳がありません。やっと玉川上水に架かる橋を見つけても未だ両岸には側道はありません。
その後も路地に迷い込み、玉川上水に戻ろうと一般道を行きつ戻りつしていましたら、青梅橋に辿り着きました。青梅街道はこんなところは通っていない筈と思いましたが、橋の欄干にその由来を記したプレートが貼り付けてありました。
青梅橋の由来
この橋の名は 「青梅橋」 といいます。名前の由来は、この橋が拝島から熊川そして福生を通り、羽村からやがて青梅に至る「青梅街道」と呼ばれた道筋にあたることからです。現在の銀座通りが青梅街道にあたります。青梅街道とは、この地域の経済・文化の中心であった青梅に通じる道を ”青梅街道” と称し、いくつもの青梅街道が確認されています。この福生の青梅街道もその一つです。青梅橋の名は古く、寛政3年(1791年)に完成した 「上水記」 という書物に、「熊川村持場 作場橋 青梅橋とも云」 と記されています。江戸時代に玉川上水ができた時、作業のための通路を兼ねて作られたのでしょう。青梅橋は、この道筋が古くからの街道、青梅街道であることを現在に伝えてくれています。
ナルホド、青梅街道はひとつだけかと思っていましたら、この青梅街道は青梅に通じる道という意味でそう呼ばれていたんですね。
玉川上水の両側は木々に覆われて緑道(側道)は未だ現れませんが、羽村堰までほぼ平行して奥多摩街道が通っています。緑道の気分は味わえませんが、しばらく奥多摩街道の歩道を歩きます。
熊野橋からようやく緑道らしきものが始まります。玉川上水に沿って中福生公園が細長く延びていて、上水と公園の間の道路には車は通りますが一応側道気分で歩けます。
中福生公園に立ち寄ってみますと、公園の敷地は周囲よりも低くなっていて、窪地といった感じです。池などもあり、家族連れで水遊びをしていました。この暑さならさぞ気持ちがいいことでしょう。
(福生)新橋に着きました。片岸は木々に覆われていますが、平行する奥多摩道路の歩道が側道のようになっています。道路標識を見ますと、この道を進めば羽村までいけそうです。
福生加美上水公園に着きました。公園の中に緑道が通っているという感じです。「玉川八景 玉川上水」という案内板には次のように書かれていました。
●玉川上水は、羽村から新宿区の四谷大木戸まで約43kmにわたり、多摩川台地を掘り進んで造られた人工の水路です。
●江戸時代の初期、承応3年(1654年)に玉川清右衛門・庄右衛門の兄弟がいろいろな困難とたたかいながら完成させました。
●江戸の水不足を解消したこの上水は、現在でも都民の水道の一部に利用されています。
●水路の両岸にはたくさんの木が植えられ、美しいグリーンベルトを形作っています。特に取水堰そばの羽村堰下公園は桜の名所として有名です。新堀橋そばの福生加美上水公園には自然林が茂り、花・新緑・紅葉と四季を問わず美しい眺めを楽しめます。
いよいよ羽村堰に近づいてきました。フェンスに囲まれた一画があります。何かの水道施設でしょうか、
羽村堰手前に「都立羽村草花丘陵自然公園」という石碑が立っていました。多摩川と玉川上水にはさまれた中洲は桜の名所でもあり都立公園に指定されています。
羽村堰は都の水道施設です。敷地内には高い塔が建っていましたが、監視塔でしょうか?
玉川上水のすぐ横を多摩川が流れています。土手に上がってみますと、「たま リバー50キロ案内図」という案内板が立っています。どうやら、ここ羽村堰から多摩川の河口まで50kmあるみたいです。
「かたらいの路」という案内板もありますね。多摩地方を中心に設置されている遊歩コースのようです。私のような平地歩きにはちょっと厳しそうなコースが多そうです。
羽村堰にやってきました!多摩川が一望の下に見わたせます。川幅は広いですけど、以外と浅そうですね。岩場では家族連れが水浴びをしています。コロナ渦の折、プールや海水浴場を避けてここに遊びにきたのでしょうか?
公園の一画に玉川兄弟の銅像が建っています。左手の測量用の杖(間竿:けんざお)を持って片膝をついているのが弟の玉川清右衛門、右手の測量用の縄(間縄:けんなわ)を持って立っているのが兄の玉川庄右衛門です。兄は羽村堰の方向を指し示していますね。台座の後ろには玉川兄弟の功績を称える碑文があるそうですが、前面しか見ていなかったもので見落としてしまいました。残念。
羽村堰は取水口ということなので、てっきり多摩川の脇から取水しているものと思っていました。ところが、上流から流れてきた多摩川の水は羽村堰でせき止められ、一度すべて玉川上水へ入り、その後、上水の水量を調節する水門と余分な水を多摩川へ戻す水門とで二手に分けられているのです。本流に戻った水は、再び多摩川の流れとなります。どうりで取水門の水量と水音はハンパなかったです。
堰の筏通場(せきのいかだとおしば)
「きのう山下げ きょう青梅下げ あすは羽村の堰落し」と筏乗り唄にうたわれたように、多摩川上流から伐り出す青梅材を江戸(東京)に搬出する筏乗りにとって、羽村の堰は最大の難所でした。亨保3年(1718年)、江戸幕府は筏が通過することにより堰が破損するという理由で筏通しを全面禁止しました。その後、羽村以西の三田領42ヶ村の筏師仲間が幕府へ堰通過の再開を嘆願したことなどもあり、亨保6年(1721年)に新たに筏通場が設置され、特定の日時を限っての通過が許可されました。以来堰を下る壮観な筏落しの風景は、大正時代(1912年〜1926年)の末ごろまで見かけられました。
公園内には玉川上水に関するいろいろな案内板が設置されています。
牛枠(うしわく)(川倉水制:かわくらすいせい)
昔の人たちは、祖先から受け継いだ知恵と自らの経験とに基づき、身近な素材を生かし自然と対話しながら、川を治めてきました。そうした治水の技術のひとつが、水の勢いを弱め、堤防が崩れるのを防ぐ「川倉」です。かたちが馬の背中に似ているところから「川鞍(かわくら)」と名づけられ、のちに「川倉(かわくら)」と呼ぶようになったこの仕組みには、さまざまな種類がありますが、最も一般的なものは「牛枠(うしわく)」と言われています。「牛枠」は、堤防に植えた河畔林を切り出し組立てます。木材だけでは水中で浮き上がるため、水の勢いに負けないよう、川床の玉石をつめた蛇籠(じゃかご)で固定します。堤防を強化する林が同時に治水の材料を提供する、優れた知恵によるものです。かつて「牛枠」のほかにも、「聖牛(せいぎゅう)」「笈牛(おいうし)」・「鳥脚(とりあし)」などの「川倉」があり、あちこちの川で働いていました。しかし今日では、ほとんどその姿を見ることができなくなっています。
改めて取水口をのぞき込みますと、その大きさに驚かされます。取り込まれた多摩川の水はとうとうと水音を立てて流れ下っていきます。この水は現在でも都民の何パーセントかに水道水として供給されているそうです。
多摩川から取り込まれた水は多摩川上水だけでなく、いろんなところに分水されています。
多摩川の原水の流れ図由来
羽村取水堰
この堰は、多摩川をせき止め水道用の原水を玉川上水路に引き入れるために造られたもので、固定堰や投渡(なげわたし)堰と呼ばれる珍しい構造の堰からできています(投渡堰は、川に鉄の桁を渡し、これに松丸太、そだ(木の枝を束ねたもの)、砂利などを取り付けてつくります)。
玉川上水
玉川上水は、羽村取水堰から新宿区の四谷大木戸に至る延長約43kmの上水路で、1654年(承応3年)当時、江戸の飲料水供給のために造られたものです(現在は、羽村取水堰から小平監視所までの間約12kmが上水路として利用されています)。
ということで、ようやく玉川上水の歩きを終えました。最初は羽村まで歩けるのかという不安もありましたが、なんとかここまでたどり着けました。それにしても、玉川上水の工事は凄いとしかいいようがありません。このような土木工事を江戸時代初期に一年余り(羽村堰から四谷大木戸までの開削はタッタの7ケ月!!!)という短期間で成し遂げたというのは驚くべきことです。掘削工事だけでなく、流路を定めた測量技術も素晴らしいと思います。歩きは大変でしたけど、先人達の苦労と努力の跡をたどれたことは何よりの収穫でした。
戻る