荒玉水道コース(1)  

コース 踏破記  

今日は荒玉水道を歩いてみたいと思います。荒玉水道は河川でもないし、一部区間は既に使用されていません。でも水に関係があるのでよしとしましょう。荒玉水道は、板橋区の大谷口から中野区の野方を経由して世田谷区の喜多見まで敷設されましたが、現在では大谷口から杉並区の堀ノ内(確かではありませんが)までの区間は閉鎖されています。今ではその痕跡さえ辿るのは困難です。ただ、堀ノ内から喜多見までの区間は送水管の上部に造られた荒玉水道道路が今でも使用されていますので、それに沿って歩くことはできます。ということで、今日はルートは不確定ながら、大谷口から堀ノ内まで歩くことにします。大谷口にある大谷口給水所は、池袋駅西口から日大病院行きの国際興業バスに乗って「水道タンク前」で下車すると目の前にあります。千川駅から歩いても10分ほどです。昭和初期に造られた大谷口配水塔は一度取り壊され、2011年(平成23年)に大谷口給水所として再建されました。昔話に出てきそうな巨大な塔は見る人を圧倒させます。歩き始める前に、荒玉水道についてまとめてみます。  

荒玉水道

荒玉水道(あらたますいどう)とは、大正時代から昭和中期にかけ、多摩川の水を世田谷区の喜多見から中野区の野方と板橋区の大谷口に送水するために使用された地下水道管のことです。当時、東京の発展に伴う人口の増加による上水の需要増に対応するために敷設されました。また、喜多見から杉並区梅里までは、荒玉水道に沿って「荒玉水道道路」(東京都道428号高円寺砧浄水場線)が通っています。「荒玉」の「荒」とは荒川、「玉」とは玉川すなわち多摩川を指しています(計画当初は大谷口から更に荒川まで延伸することになっていました)。配水塔が野方と大谷口にあり、大谷口配水塔は一度取り壊されましたが、意匠を継承した塔が新たに造られました。野方配水塔は現在でも用途を変えて残っています。




大谷口から荒玉水道道路の起点(正確には梅里一丁目)である堀ノ内までのルートは分かりません。水道管はほぼ一直線上に敷設される筈なので、大谷口給水所から野方配水塔を経由して荒玉水道道路の起点である堀ノ内まで地図上で直線を引き、そこを大きく外れない道を辿っていくことにしました。大谷口給水所から野方配水塔を経て新井五叉路交差点までの区間は都道420号(中野通り)がよく一致していますので、そこを歩くことにしました。大谷口給水所から要町通りまで進みます。要町三丁目交差点から都道420号線に行こうかと思ったのですが、千川駅横に緑の路地が見えます。こっちに行ってみましょう。すると、幅はそうでもないのですが、緑道らしき小道が続いています。千川親水公園というそうです。小道に入った少し先に案内板がありました。この緑道はは千川上水の跡みたいです。

千川上水跡

かってここを流れていた千川上水は、江戸六上水のひとつで、元禄九年(一六九六年)に幕府の命により河村瑞賢が設計したといわれ、千川太兵衛・徳兵衛の普請によって造られたものである。全長は七里六町三十九間(約二十八キロメートル)に及び、保谷村(保谷市)で玉川上水から分流し、石神井村・下練馬村・長崎村などを経て、板橋町・巣鴨町より下谷・浅草に達していた。この上水は、湯島聖堂・上野東叡山・小石川白山御殿・浅草寺御殿などに給水することを目的とし、余水は流域の武家・寺社・町家の飲料水として使われた。宝永四年(一七〇七年)には、流域の村々の嘆願により、農業用水としての利用が認められるようになり、区内では長崎・池袋・巣鴨の各村がその恩恵を受けた。千川上水は、享保七年(一七二二年)に江戸への給水が中止され、安永八年(一七七九年)に再開されたが、天明六年(一七八六年)には上水としての利用は廃止された。その間、流域の灌漑用水としての利用は続き、明治期以降は工場の産業用水としても利用された。また、上水の堤には千数百本の桜が植えられ、花見の名所としてにぎわっていたが、戦後のキ市化の進行とともに、区内では昭和二十八年(一九五三年)から三十四年にかけて暗渠化工事が行なわれ、桜のほとんどが伐採され、流域の景観は一変した。平成元年(一九八九年)、上水跡に区立千川親水公園が開設され、近隣住民の憩いの場となっている。




緑道は途中で左に折れ、公園の端っこまで延びています。私が向っている方向と違いますので、公園を出て都道420号線に戻ります。都立千早高校に沿って緑の並木道を進みます。



西武池袋線を越え、更に千川通り・目白通りを渡って野方配水塔のある「みずのとう公園」を目指します。



都道420号線は、目白通りと交差する南長崎六丁目交差点から中野通りとなります。中野通りを挟んで東側が新宿区、西側が中野区になります。江古田一丁目に大谷口給水所と同じ「水道タンク前」というバス停があります。野方配水塔は水の塔公園の中に聳えています。周囲に高い木々が生い茂っているので、裏手から見ないとその全貌はつかめません。大谷口の給水塔よりかは小ぶりということですが、住宅地の中で圧倒的な存在感を示しています。



野方配水塔については、次のようにまとめられます。

大正時代から山の手地域は人口が急増しました。そのため水道の敷設が急務となり荒玉水道が敷設されました。これは世田谷区喜多見から多摩川の水を引いて中野・杉並・豊島・板橋・練馬・北区に水道供給をするためのものでした。野方配水塔はこれらの地域に配水するために昭和4年(1929年)に建てられました。高さ約34メートル・径約18メートルの円筒形の塔は約2,000トンの水を貯水することができます。各戸への配水はこの塔の中に水を溜めて水圧による自然降下によって行うものでした。現在はその役目を終え、地域のランドマークとして、また東京の都市形成の過程を示す遺構として重要なものとなっています。

公園の中に入って後ろ側から塔を見ましたら、案内板が立っていました。

野方配水塔

空襲時の弾丸の傷跡が残されている配水塔です。関東大震災後、都市化による水の需要に応えるため、この地にあった給水場に給水塔が造られました。この給水塔は1966年(昭和41年)に配水を止め、その後、災害用給水塔として使われてきました。


弾丸の傷跡?どこに付いていたのか分かりませんでした。



中野通りは新青梅街道に突き当たると、クランクのように向きを変えます(新青梅街道と100mほど重なった後で蓮華寺下交差点で南下する)。でも、水の塔公園から直線を延ばすとピッタリ蓮華寺下交差点に繋がるんですね。中野通りをクランク状に曲げたのは野方配水塔を避けるためだったのではないかと思います。中野通りはそのまま新井五叉路交差点まで直線的に延びています。ここからは私の推測ですが、新井五叉路から中野通りは若干向きを変えているので、荒玉水道は中野通りと平和公園通りの間の住宅地の中を通っていたのではないかと思います。そうすると、現在の東京警察病院の横をかすめて中央線の線路を越え、高円寺南一丁目の先で荒玉水道道路にきれいに繋がるのです。今となっては確かめるすべはありませんが。



私は今まで中央線を越えるには、中野駅の高架下を通るか、高円寺駅手前の環七の高架下を通るしかないと思っていました。ところが、中央線の線路を渡る歩道橋があったんですね。これを使うと、大廻りしなくても簡単に線路の反対側に行くことができます。



ということで、青梅街道と環七が交差する高円寺陸橋下交差点に来ました。ここから(私が想定する)荒玉水道道路の起点である堀ノ内まで直線で結ぶと梅里公園や妙法寺を縦断しなければなりません。厄除けで知られる妙法寺は江戸時代から存在しましたので、まさかお寺の敷地の中に水道管を敷設するということはなかったでしょう。してみると、(行政上の起点である)高円寺陸橋下交差点からひとつ阿佐ヶ谷寄りの細い道路に水道管が通っていたのでしょうか?疑問に思いながらも緩くカーブした道路をお寺の塀に沿って歩きます。



(私が想定する)堀ノ内の荒玉水道道路の起点にやって来ました。ここから先は砧浄水場まで一直線に延びた道路になりますので、荒玉水道のルートについて疑問の余地はありません。振り返って道路の反対側を見ますと、直線の先は妙法寺の塀で遮られています。荒玉水道のルートは、本当のところはどうなんでしょうか?ま、解けない疑問ですけど、明日はここから喜多見の浄水場まで歩くことにします。






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