- 荒玉水道コース(2)
- コース 踏破記
- ということで、今日は昨日に引き続き荒玉水道の後半区間を歩きます。前半部分は(想像も含めて)荒玉水道の跡を辿りましたが、今日歩く後半部分は荒玉水道道路になります。荒玉水道の上に造られた道路ですから、ルートについては間違えようがありません。それにしても、水道管のためとはいえ、これだけ一直線に延びる道路は他に例がありません。と言いたいところですが、私の知る限り、一番長く直線的に延びている道路は旧東金街道だと思います。徳川家康が鷹狩りに行くために2ケ月で造らせたといわれています。なにしろ、船橋から東金までの総延長37kmがほぼ直線で、家康の命で用地買収が不要だったとはいえ驚異的なことです。あと、井ノ頭道路も境浄水場から和田堀給水所までがほぼ直線です。井ノ頭道路に繋がる多摩湖自転車歩行者道もそうかな?いろいろありますが、荒玉水道道路についてまとめてみます。
荒玉水道道路
東京都道428号高円寺砧浄水場線は、杉並区梅里から世田谷区喜多見に至る特例都道です。道路の地下に荒玉水道の水道管が埋設されている水道道路で、ほぼ全線が一直線の道路形状となっています。通称は荒玉水道道路で、東京都の通称道路名ではありませんが、自治体などにより通称として使われています。1934年(昭和9年)に竣工し、当初は歩行者専用道路でした。1962年(昭和37年)より自動車が通行可能となりましたが、水道管保護のため車両の重量制限が設けられ、車両幅1.7m−1.8m(区間により異なる)を超える車両の通行を制限する交通規制が取られており、他道路との交差部等にポールが設けられているのが特徴です。一部区間では車両の重量規制の他に、埋設に関して特別な補強がなされてもいます。荒玉水道道路は砧浄水場から杉並区梅里まで8,979mとのことです。
歩き始めて直ぐに道路上に懐かしいプレートを見つけました。歴史と文化の散歩道で使われている標識です。この標識に従って進路をとれば歴史と文化の散歩道でコースに迷うことはありません。これもいつか剥がされてしまうとは残念です。
荒玉水道道路は善福寺川を渡って和田堀公園の横を通ります。この辺りは起伏があるのですが、高低差を利用した上水と違って水道管に水圧を加えることによって水を流しているので多少の高度差は気にならないのでしょう。
和田堀公園に隣接して大宮八幡宮の広大な境内が広がっています。大宮八幡宮の脇を通った荒玉水道道路は住宅地の中を真っ直ぐに延びています。一応車も通行できますが、小型車に限定されています。
大宮八幡宮
源頼義により建立された武蔵国の三大宮の一つで「多摩の大宮」とも呼ばれ、境内は約15,000坪と都内でも3番目の広さを持つ。子育て・安産に特に御利益があるとされ、遠方からも多数の参拝客が訪れる。東京のほぼ中央に位置するため「東京のへそ」という異名も持つ。善福寺川に接し、かつて湧出していた御神水は「多摩乃大宮水」と称される。
そのまま進むと、井ノ頭通りと交差します。ここはその名の通り、荒玉水道交差点となります。
井ノ頭通りを渡って直ぐに京王井の頭線の線路と交差します。踏切の横は京王バスの車庫、線路の先には永福町駅が見えます。井の頭線の過密ダイヤを思うと、線路の下に埋設された水道管には相当な補強がなされていることでしょう。
井の頭線を越えた先に神田川が流れています。ということは、水道管は神田川の川底に埋められているということでしょうか?神田川を渡った先の杉並区の区民集会所の前に「神田川と古代遺跡」と題した案内板がありました。この前、神田川を歩いたときは川沿いだけ見ていたのでこの案内板には気づきませんでした。
神田川と古代遺跡
この運動場(旧東京電力総合グランド、現下高井戸おおぞら公園)の北側を流れている川が神田川です。神田川は、武蔵野市と三鷹市にまたがる井之頭池を水源としており、途中で善福寺川と妙正寺川に合流し、中央区の両国橋付近で隅田川に注いでいます。区内での延長は約7.7キロメートルを計り、かっては久我山・上高井戸・下高井戸・永福寺・和泉・和田の旧6箇村を貫流していました。江戸時代に入ると神田川は、江戸市民に飲料水を供給するための水道源として神田上水と呼ばれ人々に親しまれてきました。この神田上水は江戸期では最古の水道施設で、天正18年(1590年)頃に小石川の目白台下に堰を築き、上水路を開さくして分水を行っていました。なお上水としては、明治34年まで利用されていました。一方、神田川流域は区内でも遺跡の宝庫として昔から知られ、向ノ原遺跡群、久我山東遺跡群、高井戸東遺跡群、下高井戸塚山遺跡、向方南遺跡、釜寺東遺跡など、旧石器時代から縄文時代、古墳時代に至る多くの遺跡が調査・報告されています。この下高井戸運動場内も蛇場美遺跡として知られ、平成2年に発掘調査されています。発掘調査では、旧石器時代から縄文時代および中世にかけての遺物が出土しており、複合遺跡であることが解りました。特に蛇場美遺跡では、全国的にも数少ない縄文時代草創期(約12,000年前)の隆起線文系および爪形文系土器、中世の館跡の存在を示唆する堀跡等も検出されており、注目されています。このように神田川は原始・古代から生活の場として、あるいは生活の手段として利用されてきました。最近では水田を見ることもなくなり、川で野菜類を洗う光景を目にすることもなくなりましたが、このように歴史を見つづけてきた神田川を大切に守り続けたいものです。
更に歩いていきますと、先日歩いた玉川上水に出会います。玉川上水に水が流れていた時代には水道管はどのように交差していたのでしょうか?玉川上水第二公園の直ぐ先は甲州街道が通っています。大型車が引っ切りなしに走っていますので、振動とか重量とか、水道管にかかる負担は相当なものでしょう。
甲州街道を渡った先は東京都水道局の用地になっています。間隔をおいて石柱が埋め込まれていますが、これは大型車の通行を制限するためなのでしょう。それにしても、随分と年季の入った石柱ですね。江戸時代の庚申塔みたいです。
道路は直ぐに京王線のフェンスで行き止まりとなります。ここでも水道管は線路の下に埋設されていると思われますが、長大な編成と過密ダイヤの京王線ですから、水道管の保護は厳重なのでしょう。
荒玉水道は京王線を斜めに横切り、桜上水駅の横から再び砧浄水場に向って一直線に延びています。ちなみに、桜上水駅の名前の由来は、駅の北側に流れていた玉川上水の堤に桜並木があったことから名づけられたといわれています。踏切から続く車の列は、如何に京王線のダイヤが過密かを物語っています。
少し進みますと、見覚えのある緑道が荒玉水道道路を横切っています。都立松沢病院の敷地内にある将軍池から流れ出た水が源泉となっていた北沢川ですが、今は埋立てられて住宅地の格好の散歩道になっていますね。
更に進みますと、今度は烏山川緑道と交差します。「東京の河川を歩く」シリーズで最初に歩いたのは6月の中旬でした。あれから季節は巡り、今や8月の下旬で夏も終わろうとしています。でも、暑い!
荒玉水道道路は環八に突き当たります。ここも環八を斜めに一直線に横切っています。ビルの隙間が荒玉水道であることが一目瞭然です。
環八を越えた先に笠森公園があります。何気なく公園の中にあった案内板を読んでみましたら、谷戸川について書いてありました。谷戸川という川の名前は初めて知ったのですが、結構歩きやすいようですね。今度挑戦してみようと思います、
谷戸川の由来
公園の下を流れる水路は、岡本静嘉堂の先で丸子川に合流する谷戸川の上流です。谷戸川は、その昔この公園あたりの旧小字(あざ)で、東山野という丘から湧出する泉を水源とする流れでありました。時のうつりかわりと共に、その流れも姿をかえて、現在では山野小学校付近から上流は暗渠化され、それより下流に水面を見ることができます。この公園の井戸は谷戸川の水源を想定して身近に”水”と親しむことを目的に設置しました。
荒玉水道道路は小田急線と交差します。ここは高架区間なので震動対応は関係ないですね。
案内板を読んだつもりでしたが、山野小学校の先で谷戸川を確認し忘れました。次に川を見たのは仙川に架かる大蔵水道橋を渡ったときです。大蔵水道橋の上流側に荒玉水道の送水管が見えるとのことでしたが、覆いがあったためか見落としました。
大蔵水道橋を渡った先で世田谷通りと斜めに交差します。
世田谷通りを渡りますと、荒玉水道道路は野川に向って急勾配で下っていきます。途中に橋らしきものが架かっていますが、下は道路になっていて、いわば陸橋のような感じです。ここでも荒玉水道の送水管が姿を見せているということですが、見落としてしまいました。大分、暑さで注意力が散漫になってきたようです。
荒玉水道は野川を水道橋で渡るのですが、今は工事中で通ることはできません。その工事というのが東京外かく環状道の東名ジャンクション建設です。地上の工事もケタ違いの規模ですが、地下の大深度にはシールドマシンも使われているそうで、いつ完成するか見通しもつかないそうです。
野川を渡った先で荒玉水道道路は多摩堤通りと交差します。両方を斜めに横断する形で次太夫堀公園の緑道が通っています。次太夫堀は江戸時代初期に開削された六郷用水の別名で、世田谷区が用水路を復元し、野川からポンプで取水し野川へ戻しているそうです。
次太夫堀公園
次大夫堀公園の名の由来ともなっている「次太夫堀」とは、稲毛・川崎領(現神奈川県川崎市)の代官であった小泉次大夫の指揮により、慶長2年(1597年)から15年の歳月をかけて開発された農業用水です。正式には六郷用水といい、多摩川の水を取り入れ、世田谷領(現狛江市の一部・世田谷区・大田区の一部)、六郷領(現大田区)を流れるものでした(全長23.2km)。世田谷領内を流れる六郷用水は、江戸時代、沿岸の14ヶ村の水田で利用され、土地の人からは次太夫堀と呼ばれていました。以後も昭和に至るまで350余年の間、周辺住民の農業・生活用水として欠かせない存在だったのです。現在、区内の六郷用水(次太夫堀)は、丸子川として一部分のみ残っています。この公園ではかつての流路600mを復元しました。
次大夫堀公園から先はまだまだ続きます。いい加減くたびれてきましたね。喜多見公園の先に目指す砧浄水場がありました。浄水場はどこも広大な敷地の中にありますが、ここも広そうですね。浄水場の先に多摩川が流れている筈ですが、ここからは全く見通せません。
ま、ともかくも荒玉水道を歩き終えました。都心を一直線に斜断していますので、水分補給やトイレなど、歩くには楽でしたね。途中で谷戸川など新たな発見もありましたし、結構楽しめました。暑さには閉口しましたけど。
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