- 石神井川コース(2)
- コース 踏破記
- 昨日に続いて石神井川を歩きます。用事で出遅れましたが、中断地点の豊島橋にやってきました。時刻は午前11時過ぎです。昨日は結構な距離を歩いたのですが、途中で無駄足を踏んだためにあまり距離は稼げませんでした。隅田川の合流地点まで残りはどれくらいあるのでしょうか?王子駅から先の下流区間は歩いたことがないので時間の予測がつきません。ま、無理することもないので行けるだけ行きましょう。それにしても、ここら辺りの石神井川の遊歩道はよく整備されていますね。残暑の中、今日の歩きを開始します。
豊島橋は何か由緒ありげな名前ですが、これはかって武蔵野を支配した豊島氏から由来しているものと思われます。豊島橋の直ぐ北には豊島氏が居城とした石神井城がありました。その跡は、今では石神井池と三宝寺池を含む石神井公園になっています。三宝寺池はかつて石神井川の主水源とされ、豊島氏もこの水の支配の為に三宝寺池の南の台地に築城したとされています。歩き始めてまもなく、遊歩道の一画に武蔵野の路の案内板がありました。15年くらい前にも千川・石神井川コースを歩いた際にこの案内板を写真に撮りました。当時と比べても全く劣化していないですね。
武蔵野の路 千川・石神井コース
このコースは武蔵野市多摩湖自転車道入口から練馬区石神井川長光寺橋までの河川沿い約8.9kmの平坦なコースです。コース周辺には武蔵関公園、善福寺公園、石神井公園など水と緑の豊かな都市型レクリエーション施設が点在しています。また史跡・寺社などの文化遺産が数多く見られます。
石神井川の川岸には沢山の桜の木が植えられています。大分樹齢は上がっていますが、今でもお花見の季節には満開の桜が楽しめそうです。
練馬高根台駅辺りで石神井川は流路を北に向けます。遊歩道は普通の道路になり、住宅の建ち並ぶ殺風景な街中を進みます。石川橋で急に道路は行き止まりになり、塀に沿って迂回を余儀なくされます。直ぐに川に戻れるだろうと思って塀沿いに進みますが、塀は一向に途切れません。もの凄く大廻りしたと思ったら、塀の隙間から巨大な人形が幾つも見えます。いつの間にか豊島園まで来てしまったようです。大廻りして正門の前に行きましたら、閉園のお知らせがゲートの柵に架けられていました。私は一度も入園したことはありませんが、園内にはどんな施設があったのでしょうか?
正門から坂を下っていきますと、石神井川が園内から流れてきています。石神井川は石川橋から中之橋まで豊島園の真ん中を貫通して流れています。なので、この区間は入園しない限り見れない訳です。私には豊島園の施設よりも石神井川の流れの方が興味ありますけどね。
石神井川には川そのものの案内板が少ないように感じます。少なくとも、源泉からここまで辿ってひとつも案内板を見ませんでした。ここでようやく練馬区が設置した案内板というかモニュメントを見つけました。大した内容ではありませんが、一応石神井川の名前の由来が書かれています。隅田川との合流地点までの距離が表示してあるのは歩く上で目安が立って嬉しいですね。
石神井川−いこいの水辺−
“ふるさとには川がある”
私たちのくらしは、昔から川と深く結びついて発展してきました。川は私たちに豊かな自然の恵みをもたらし、心にうるおいを与えてくれます。都市の変化とともに、私たちから遠ざかってしまった河川を身近なものに取り戻し、ふるさとの川として大切にしていきましょう。
名前の由来
石神井川は、石神井村を流れていたので、この名になったと言われています。石神井村の起こりは、その昔、井戸を掘ったところ石棒が出たので、これを石神としてあがめ、その井にちなんで石神井となったと伝えられています。また、一説には三宝寺池から出たとも言われています。
川の規模
延長は25.2kmあり、流域の面積は61.6平方kmです。
遊歩道の真ん中の囲みの中に大きな松の木が立っていました。その脇に練馬の名木として、この松のいわれを書いた案内板がありました。説明書きを読んでみたのですが、クロマツと婆さんと蛇と咳止めの関係がよく分かりません。この後、同じ堰婆さんの別の案内板を読んでクロマツと咳止め以外は納得しましたが。
ねりまの名木 堰婆さんのクロマツ
石神井川の堰守り婆さんが住んでいたところ。婆さんは蛇になったと伝えられ、のちに住まい跡に祠が建てられ、人々が咳止めのお参りをするようになったといわれています。この由来を偲んで指定されました。
樹の高さ 11m 幹の太さ(周囲の長さ) 1.5m
練馬総合運動場の入口近くに大橋が架かっています。大きな橋ではありませんが、その手前に不動明王を祀った一画がありました。沢山の草花に囲まれて地域の人達の信仰を集めているようです。
不動王座像と敷石供養塔明
石神井川に架けられる「大橋」は、江戸時代後期には存在しており、埼玉道(さいたまみち)から現在の新桜台駅辺りで分岐して北西に伸び、ふじ大山道(おおやまみち)へ至る旧道(田中道)が通っていました。向かって中央の不動明王(ふどうみょうおう)座像は、文政(ぶんせい)四年(一八ニ一年)二月二十八日に旧下練馬村早淵(はやぶち)(現在の早宮二丁目および早宮一・三・四丁目の一部)の念仏講中が建立したものです。正面には「不動明王を造立し奉り村人の安全を祈る所」と刻まれています。向かって右側の敷石(しきいし)供養塔は、寛政(かんせい)四年(一七九ニ年)閏(うるう)二月十一日に八日溝中・念仏講中によって建立されたもので、その後享和(きょうわ)三年(一八〇三年)二月に宮ヶ谷戸(みやがやと)(現在の早宮三・四丁目の一部および練馬三・四丁目の一部)の玄覚(げんかく)という人が金三両(りょう)一分(ぶ)を寄進したことも刻まれています。正面には上部に不動明王を表す梵字(ぼんじ)「カーンマン)」の一字が刻まれ、その下に「建立し奉る鋪石(しきいし)供養塔」と刻まれています。言い伝えによれば、相模(さがみ)の大山(おおやま)(神奈川県伊勢原市)へ詣でる人がここで禊(みそぎ)を行ったといいます。かって早淵や宮ヶ谷戸の人々が、「大橋」のたもとで交通の安全を祈願し、道や橋に敷石を行って整備していたことがわかります。
武蔵野の路には、石神井川を歩くコースがふたつあります。ひとつは前述の千川・石神井川コースで、もうひとつはここに掲示してある石神井川コースです。但し、重複する区間はありません。
石神井川コース
このコースは練馬区内石神井川長光寺橋から荒川の江北橋までの、主に石神井川に沿った約16.7kmのコースです。市街地のなかの水と緑を楽しめるコースで、周辺には豊島園、城北中央公園等の都市型大型レクリエーション施設や板橋、飛鳥山公園、名主の滝、旧古河庭園等の名所、旧跡があります。
武蔵野の路の案内板の向かいに、堰ばあさんのもう一枚の案内板がありました。内容は前述の案内板と同じですが、こちらの方がより詳しく説明されているようです。ひょっとして、「咳」は「堰」に引っかけたものか?
堰ばあさん
高稲荷の台地から西へ500mほど石神井川をさかのぼったあたりを糀屋(こうじや)といい、その昔、村人たちは、田畑に水を引くための堰をつくりました。村人は長い間、堰の番をしていたおばあさんを「堰ばあさん」と呼んで大事にしていました。ある時、堰ばあさんの姿が見えなくなり、心配して小屋をのぞくと大きな蛇がいました。村人たちは蛇は堰ばあさんの化身に違いないと思い、堰の安全と堰ばあさんの供養のために小さな祠(ほこら)をたて、「堰ばあさん」とよんで、花や線香をあげました。ここにお参りすると咳(せき)が治るといわれていました。
城北中央公園の中に茂呂遺跡の案内板が立っていました。案内板の後ろで遺跡が発見されたのでしょう。鈴木遺跡もそうですが、古代の日本人にとって石神井川が恵みの存在であったことは想像に難くありませんね。
茂呂(もろ)遺跡
昭和二四・二五年の群馬県岩宿遺跡の調査で赤土の中から石器が発見され、縄文時代よりも古い先土器時代(旧石器時代)と呼ばれる時代が日本にも存在したのではないかという可能性が提起されました。翌年(昭和二六年)三月、瀧澤浩氏(考古学者 当時中学生)がこの地域の茂呂山(正確には「オセド山」という)の道路の切通しから黒曜石製石器一点と礫群を発見したことを受けて、同年七月の明治大学と武蔵野郷土館が実施した共同発掘調査で関東ローム層中から石器群が確認されました。これらの石器群は南関東地方における旧石器時代資料の初例となるもので、茂呂遺跡の調査は、日本列島においてローム層中に旧石器文化が普遍的に存在することを実証しました。とりわけ出土したナイフ形石器は「茂呂型ナイフ形石器」と命名され、茂呂遺跡は旧石器時代の標準遺跡として知られています。東京だけでなく日本列島の旧石器時代を解明した記念すべき遺跡です。
石神井川は上の根橋で環七と交差します。この先、隅田川との合流地点までは未だ8km近くありますので、今日はこの辺で石神井川の歩きを終えたいと思います。今日歩いた区間は遊歩道がよく整備されていたということもあって、昨日に比べて楽な歩きでした。でも、距離はイマイチ物足りませんでしたねぇ。今日は藤井聡太二冠対谷川浩司九段の対局があります。早く帰ってAbemaTVを観なくっちゃぁ。
戻る