- 石神井川コース(3)
- コース 踏破記
- 石神井川の歩きの残りは10kmほどです。今日は曇りで、夕方から雨になるとの予報ですので、ちょっと早めに出掛けます。昨日の中断地点である上の根橋にやってきたのは9時過ぎ。日曜日ということもあって、環七の交通量は少なめです。石神井川はこの辺りまで来るとすっかり都心の川といった感じです。川の両側に道路が通り、周囲は住宅街になっています。
これといって特記するような見所もなく、淡々と歩いて行きます。とある橋に差し掛かると、下頭橋という橋名になっています。10年ほど前に武蔵野の路の石神井川コースを歩いていたときに通りかかったのですが、その名のいわれは橋の袂に鎮座する神社の境内の案内板に記されています。
ちなみに、この案内板は令和二年(つまり今年)に立てられたものですが、前回訪れた時に見た平成六年作成の案内板と内容が微妙に違っています。平成六年度版には何か表現に差し障りがあったのでしょうか?
下頭橋(令和二年版)
弥生町には江戸時代の川越往還が通っています。そのうち、大山町の境から当地までの街道沿いは上板橋宿となっていました。石神井川に架かる下頭橋は、寛政十年(一七九八年)に近隣の村々の協力を得ることで石橋に架け替えられています。境内にある「他力善根供養」の石碑はその時に建てられたものです。橋の名の由来については諸説があります。一つ目は、旅僧が地面に突き刺した榎の杖がやがて芽を吹いて大木に成長したという「逆榎」がこの地にあったという説。二つ目は、川越往還を利用する川越藩主が江戸に出府の際に、江戸屋敷の家臣がここまで来て出迎え頭を下げたからという説。三つ目は、橋のたもとで旅人から喜捨を受けていた六蔵の金をもとに石橋が架け替えられたからという説の三つが伝わっています。ここにある六蔵祠は六蔵の遺徳を湛えて建てられたものです。下頭橋と六蔵祠は昭和六一年度に区記念物(史跡)に登録されました。
令和二年三月
板橋区教育委員会
下頭橋(平成六年版)
弥生町を縦断する道が旧川越街道で、大山町境から石神井川迄が上板橋宿跡である。宿端の石神井川に架かる下頭橋は、寛政十年(一七九八年)近隣の村々の協力を得ることで石橋に架け替えられ、それまで頻発していた水難事故も後を絶ったという。この境内にある「他力善根供養」の石碑はその時に建てられたもの。橋の名の由来については諸説がある。一つ目は、旅僧が地面に突き刺した榎の杖がやがて芽を吹いて大木に成長したという逆榎がこの地にあったから。二つ目は、川越城主が江戸に出府の際、江戸屋敷の家臣がここまで来て頭を下げて出迎えたから。三つ目は、橋のたもとで旅人から喜捨を受けていた六蔵の金をもとに石橋が架け替えられたからというもので、六蔵祠はこの六蔵の道徳を湛えて建てられた。同橋と六蔵祠は昭和六一年度の板橋区登録記念物(史跡)に認定された。
平成六年八月
板橋区教育委員会
下頭橋の先で東武東上線の線路の下を潜ります。この辺りの石神井川は幅を広げ、水量は少なめですが、河床一杯に水が流れています。水も澄んでいて、都心部を流れる川としてはとても綺麗です。河床の段差の先に筏みたいなものが敷設されていますが、それも水質浄化のためなのでしょうか?
遊歩道の脇に板橋十景と書かれた石柱が立っていました。世田谷百景というのもありましたが、それに似たようなものですね。この辺りは5番目の石神井川の桜並木ということですが、石神井川にはあちこちに桜が植えられていますので、どこが一番かということは人によって意見が異なるところでしょう。今の季節は残念ながら桜の木の落ち葉を感傷的に眺めるだけですね。
板橋十景
平成15年2月に区制70周年を記念して区民応募により「板橋十景」を選定しました。(板橋区)
1.赤塚溜池公園周辺(赤塚5丁目)
2.板橋(本町)
3.いたばし花火大会(荒川河川敷)
4.志村一里塚(志村1丁目)
5.石神井川の桜並木
6.松月院(赤塚8丁目)
7.田遊び(徳丸北野神社/徳丸6丁目)
田遊び(赤塚諏訪神社/大門)
8.高島平団地とけやき並木(高島平2・3丁目)
9.東京大仏(乗蓮寺/赤塚5丁目)
10.南蔵院のしだれ桜(蓮沼町)
隅田川の合流地点まで残り5.2kmと書かれた石柱が立っていました。同じような標識が所々に立っていて、距離感が掴めて便利です。ここはいわゆる板橋ではありませんが、板橋の名前の由来が記されたプレートが石柱に貼り付けられていました。
板橋
板橋の地名は、「源平盛衰記」、「義経記」などの鎌倉から室町時代にかけて書かれた軍記物に登場することから、平安末期にはすでに知られていたことになります。当時の橋が具体的にどの橋を指しているかははっきりしませんが、一般には中山道が石神井川を横切る板橋宿の中宿と上宿に架けられた板橋を指していると言われています。
石神井川は昔はかなり蛇行していて、大雨になった際にはあちこちで氾濫していたそうです。その後、水害を防ぐために流路の改修が行なわれ、蛇行区間を直線に造り替える工事が行なわれてきました。中山道(その上に首都高5号線が通っている)の手前に、流路の直線化によって切り離された旧河川が釣り堀になっています。川の水の代わりに人工の滝が設けられ、その水が釣り堀に供給されています。釣り堀の先は石神井川に繋がっていますので、常に水が入れ替わっているのです。太公望には天国のような施設です。
中山道を越えた先に木の欄干の橋が架かっています。これが板橋で、仲宿から続く旧中山道が通っています。
橋の袂に木柱が立っていて、片面に「距日本橋二里二十五町二十三間」、もう片面に「日本橋から十粁六百四十二米(10km642mの距離)」と書かれています。その横には案内板が立っていて、板橋の歴史が記されています。橋の欄干が木製なのも架けられた当時を再現しているのでしょう。
板橋
この橋は板橋と称し、板橋という地名はこの板橋に由来するといわれています。板橋の名称は、すでに鎌倉から室町時代にかけて書かれた古文書の中に見えますが、江戸時代になると宿場の名となり、明治22年に市制町村制が施行されると町名となりました。そして昭和7年に東京市が拡大して板橋区が誕生した時も板橋の名称が採用されました。板橋宿は、南の滝野川村境から北の前野村境まで20町9間(約2.2km)の長さがあり、この橋から京よりを上宿と称し、江戸よりを中宿、平尾宿と称し、三宿を総称して板橋宿と呼びました。板橋宿の中心は本陣や問屋場、旅籠(はたご)が軒を並べる中宿でしたが、江戸時代の地誌「江戸名所図絵」の挿絵から、この橋周辺も非常に賑やかだったことがうかがえます。江戸時代の板橋は、太鼓状の木製の橋で、長さは9間(16.2m)、幅3間(5.4m)ありました。少なくとも寛政10年(1798年)と天保年間の二度修復が行われたことが分かっています。近代に入ると、大正9年に新しい橋に架けかえられましたが、自動車の普及に対応するため、昭和7年に早くもコンクリートの橋に架けかえられました。現在の橋は、昭和47年に石神井川の改修工事の際、新しく架けかえられたものです。
石神井川が大きく蛇行する曲がり角に帝京大学医学部の附属病院が建っています。周囲を圧する建物で、千床を越える規模なんだそうです。なんでも、病床数は全国で13位、都内では3位なんだとか。
地名は加賀に変わります。名前からも想像できるように、江戸時代にはこの地に加賀藩の下屋敷がありました。明治時代になってからは、下屋敷の跡地に陸軍の火薬製造所が造られ、それをモニュメントとしたコミュニケーションステージが遊歩道の奥に設けられています。
コミュニケーションステージ
このモニュメントは、明治から大正時代に建てられた煉瓦建造物の一部を利用しています。明治時代から太平洋戦争の敗戦まで、加賀1・2丁目には日本陸軍の火薬製造所(東京第二陸軍造兵廠板橋製造所、通称「二造」)がありました。製造所は、江戸時代の旧加賀藩下屋敷の広大な敷地を利用して作られていました。内部には、火薬の事故に備えて土塁で囲まれた建物や煉瓦造りの建物などが立ち並んでおり、その一部には、戦後の払い下げ後も学校や工場、研究所の建物として利用されていました。ここの敷地にも、当時の建物が工場として残されていましたが、日本の近代建築史を伝える貴重な煉瓦建造物を保存・活用するため、その一部をモニュメントとして利用することになりました。
更に、その先には南極の石を展示したモニュメントがありました。月の石なら直ぐに盗まれてしまうでしょうけど、南極の石は今のところ無事なようです。案内板の下部には「加賀のまちづくり」と題した説明書きが添えられていました。
南極の石
国立極地研究所は、1973年(昭和48年)から2009年(平成21年)までの、30年以上にわたり、加賀の地で極地に関する総合研究活動を続けてきました。この南極の石は、加賀のまちに国立極地研究所があったことを知っていただくために、国立極地研究所から加賀まちづくり協議会へ記念品として寄贈されたものです。
種別 : 縞状黒雲母片麻岩
「しまじょうくろうんもへんまがん」
観測隊次 : 第25次南極地域観測隊
初代「しらせ」が就航した最初の南極観測隊
採取場所・時期: 南極・ブライト湾にて1984年2月採取
〜加賀のまちづくり〜
平成7年に発足された加賀まちづくり協議会では、加賀の地に住まい・働かれている方、行政関係機関、民間事業者等が参加し、この地を訪れる方にとってより良いまちづくりをめざした協議・提案を継続的に行なってきました。この南極の石は、加賀のまちの歴史をより多くの方に知っていただけるよう、加賀のまちづくりの一環として、様々な方のご協力を得て、ここに展示していただきました。
金沢橋の袂に加賀公園の入口がありました。案内板があって、「加賀藩前田家の下屋敷跡: 江戸時代、中山道の板橋宿の東側に21万坪という広い敷地の加賀藩前田家の下屋敷がありました。加賀公園は、その下屋敷の跡に造られています。」と書かれていました。21万坪というとピンときませんが、東京ドーム15個分の広さに当たります。尚更ピンときませんね。
石神井川に架かる埼京線の線路下をくぐったところにかなり大きな排水口があります。案内板によりますと、現在は休止されていますが、千川上水から石神井川に繋がる暗渠の放流口だそうです。玉川上水から千川上水、そして石神井川と多摩川の水は巡り巡ってこんなところまで流れていたんですね。
千川上水の放流について
東京都では、水と緑にあふれる水辺環境の整備を図るため清流復活事業を行なっています。千川上水にも玉川上水・野火止用水に引き続いて清流がよみがえりました。千川上水は、武蔵野市関前地先で玉川上水から分水しており、分水点から練馬区関町南地先までを清流復活区間として開水路を流れています。その下流は管きょとなっており、練馬区・板橋区内を経て、対岸の雨水管を利用し、石神井川に戻しています。
石神井川の歩きは北区に入ります。川の周辺にもいろんな施設が造られています。都心には珍しい蓮田も見かけます。蓮の実は日常的にはあまり食用にされませんが、実は大変美味しいのです。蓮は花が枯れた後に実をつけます。秋になると花が枯れて、茎が分厚くなった花托(かたく)が大きくなり、その中に実をつけます。花托はだんだんと肥大化し、表面にたくさんの通気口となる穴が空いてきます。この穴の中で、どんぐりのような緑色の実が育ちます。これが蓮の実です。蓮の実は、でんぷん質が豊富で、トウモロコシのような食感があります。また、ビタミンB1、カルシウム、カリウム、食物繊維も含まれています。私が子供の頃、晩夏のお祭りなどでよく屋台で見かけました。花托ひとつがお小遣いで買える位の安さで、お八つ代わりに食べたものです。東京では滅多に見かけませんが。
石神井川は王子駅の手前で音無親水公園の中を流れます。でも、本流はその手前で分流し、飛鳥山公園の下を流れて王子駅の先で再合流しています。石神井川は北区付近ではかって「音無川」と呼ばれ親しまれ、古くからの春の桜・夏の青楓と滝あび・秋の紅葉など四季の行楽の名所・景勝の地でした。しかし、戦後の経済の復興・発展とともに石神井川も生活排水などで汚れた川となり、洪水による被害を防ぐ目的で、昭和30年代から始まった改修工事によって緑の岸辺は厚いコンクリートの下へと消え、典型的な都市河川となりました。この改修工事で、飛鳥山公園の下に2本のトンネルを掘り、石神井川流路のショートカットが行われ、残された旧流路に「かつての渓流を取り戻したい」として音無親水公園ができました。夏の盛りは過ぎましたが、今日も水遊びの家族連れで賑わっています。
公園には人工の滝が造られ、その流れの先には水車がありました。水量が少なくて回ってはいませんでしたが。
音無親水公園から流れ出た水は王子駅の手前で駅舎の下に潜ります。その先はどうなっているのかというと、明治通りを渡った先の都電王子駅横に堀があって、そこに流れ出ているのです。今まで何回も王子駅には来ていましたが、こんな堀が石神井川のなれの果てだとは夢にも思いませんでした。水も殆ど流れていないし、単なる窪地と思えるのも当然です。というか、その窪地ですら全く印象に残っていません。
その窪地の先は直角に折れ曲がっています。そこには窪地の他にふたつの排水口が見えます。石神井川本流から分流された2本の支流のようです。どちらも極めて汚染がひどく、ゴミが水面にプカプカ浮かんでいます。音無親水公園の手前まであんなに綺麗だった水はどこでこう汚れたのでしょうか?何年か前に王子駅の駅トイレの配管を間違えて、汚水がそのまま石神井川に流れ込んでいたということが発覚し、当時の石原都知事が激怒したというニュースがありましたが、今でも改修されていないのではないかと思えるほどの酷さです。3本の流れを束ねた石神井川は隅田川の合流地点に向って最後の旅に出ます。
溝田橋で明治通りを渡ります。石神井川の両岸はフェンスで囲われていますが、その中に細い通り道がありました。その先にはテラスが設けられていて釣りをしている人も見かけます。こんな汚れた川で魚を釣ってどうするのでしょうかね?
テラスの先で遊歩道は行き止まりとなり、やむなく近くの路地を迂回します。道に迷いながらも路地を巡って新堀橋に辿り着きました。石神井川に架かる最後の橋です。首都高中央環状線の高架下がちょうど石神井川と隅田川の合流地点となります。この辺りの水は割と綺麗です。きっと隅田川の水で石神井川の水の汚れが薄められたのでしょう。
ということで、足かけ3日を要した石神井川の歩きを終えました。小平市から25km(実際に歩いた距離は38kmになりましたが)、景色は変化に富み、見所も沢山あって面白かったです。東京の河川を歩くシリーズも随分と行動範囲が広がりました。次はどの川にしましょうかね?
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