- 野川コース(1)
- コース 踏破記
- 石神井川の次はどこにしようかと思ったのですが、武蔵野の路:野川コースで一部区間を歩いたことのある野川を選びました。野川を源泉から全区間歩くのは初めてです。源泉がどこにあるのかも分かりません。そこでいつものようにネットで調べてみます。
野川
国分寺市東恋ヶ窪一丁目の日立製作所中央研究所敷地内の湧水が源とされ、近接する市道の休憩所には案内板が設置されている。年2回の一般公開や地元小学校の見学などが行われている。南下して西武国分寺線・JR中央本線の盛土を抜け、住宅地を抜けて東へ向きを変え、国分寺街道の不動橋で真姿の池湧水群からの湧き水を合わせる。鞍尾根橋で東京経済大学国分寺キャンパスの新次郎池からの湧水が合流するとともに、国分寺市から小金井市へ入り、河川管理境界も東京都北多摩南部建設事務所へと移る。以降、多摩川との合流点まで河川緑道が整備され、さらに多摩地区内は河道と河川敷が親水エリアとして整備されている。小金井市に入り、武蔵野公園にさしかかるあたりから南東に流れ、西武多摩川線と交差し、野川公園に入る。小金井市と調布市の間を何度も縫ってその後三鷹市を流れ、再び調布市に入る。京王線と交差し、調布市と狛江市の境を何度も縫い、調布市入間町付近で支流の入間川を合わせる。世田谷区に入り、神明の森みつ池からの湧水を合わせて小田急小田原線をくぐり、東名高速道路と交差する。世田谷区鎌田で北から流れ来る仙川を合わせ、多摩川と並んで二子玉川で国道246号新二子橋や二子橋をくぐり、東急田園都市線・東急大井町線二子玉川駅のホーム下で右岸が、世田谷区玉川一丁目付近で左岸が多摩川に合流する。野川は南岸が平坦、北岸が急斜面となっていて、両岸の高さが違う。北の崖は武蔵野段丘面を多摩川が削りこんで作った国分寺崖線である。「ハケ」と呼ばれる崖の斜面からはかつてに比べれば大幅に減少しているものの、深大寺から成城みつ池にかけて多くの清水が湧き、都内でも珍しい自然が残っている。
ナルホド、国分寺にある日立中央研究所の敷地内の湧水が源泉ということですか。10年以上前に歴史と文化の散歩道:府中国分寺コースを歩いた際に、研究所の正門から中を覗いたことがあります。構内は数万本を数える樹木で覆われ、遠目には塀に囲まれた森林のように見えます。研究所を創設するに際して、創業社長の「よい立木は切らずによけて建てよ」という意志を受けて構内の樹木は極力守られたそうです。残念ながら構内は年に2回しか公開されませんので、源泉の湧水を見る訳にはいきません。長大な塀に沿ってぐるりと回り道をし、研究所とJR中央線の間にある市道に向います。なだらかな坂道の中央付近に休息所がありました。ちょうど、向って正面の塀の内側に湧水を集めた大池というのがあって、そこから市道とJR中央線の土手の下を通って野川に水が流れ出しているのだそうです。気のせいか、休息所付近の地下から水の流れる音が聞こえるような気がします。休息所の横に案内板がありました。
野川の水源
ここ「日立中央研究所内」の湧水が野川の始まりです。この坂のあたりは国分寺崖線(通称ハケ)の一部です。ハケ下の周辺には湧き水がいたるところに見られ、「姿見の池」「真姿の池湧水群」などの水が集まって野川の流れとなっています。
国分寺崖線
国分寺崖線は通称“ハケ”と呼ばれています。この崖線は古多摩川の浸食によって出来た崖の連なりで、国分寺市の西町五丁目あたりから目立ち始め、世田谷区あたりまで続いています。国分寺市にいちばんはっきりあらわれているので「国分寺崖線」と呼ばれていました。
湧水
ハケ上の台地に降った雨は水を通しやすい火山灰層(関東ローム層)を通り、下の砂利層(礫層)にたまります。その下には水を通しにくい地層があるため、たまった地下水は砂利層を横に流れ、崖線のすそからしみ出してきます。これが湧水です。野川の両岸では旧石器時代から縄文時代の遺跡が数多く発掘されています。野川は古代から豊かな実りをもたらす大切な川であったのだとされています。
野川の源泉は研究所内にある大池となっていますが、野川は他からも水が流れ込んでいます。研究所から1kmほど西国分寺駅寄りにある姿見の池もそのひとつです。それなら、是非とも足を延ばしてみたいものです。市道の坂を下って西武国分寺線のガード下を下り、住宅地の中を進みます。ほどなく、姿見の池と書かれた標識が見えました。入口付近は草で覆われて水面は見えませんでしたが、奥に入ると小さいながらも水をたたえた池が見えます。鯉や鴨の姿も見られます。
池の畔に姿見の池の名前の由来が書かれた案内板がありました。
姿見の池とその伝承
姿見の池は、かつて付近の湧水や恋ヶ窪用水が流れ込み清水を湛えていました。その名の由来は、鎌倉時代、恋ヶ窪が鎌倉街道の宿場町であった頃、遊女達が朝な夕なに自らの姿を映して見ていたという言い伝えによります。また、この池は「一葉松」の伝承の中にも登場します。源平争乱の頃、遊女の夙妻太夫と板東武者で名将といわれた畠山重忠とが恋に落ちました。ところが太夫に熱をあげるもう一人の男がいて、その男は重忠が平家との西国の戦で討ち死にしたと嘘をつき、あきらめさせようとしましたが、深く悲しんだ太夫は姿見の池に身を投げてしまった言い伝えられています。更に時代が下って、江戸時代に描かれた「江戸名所図会」に、このあたりの風景が道興准后の歌を添えて登場しますが、その中に姿見の池らしきものが描かれています。このような伝承に彩られた姿見の池は、昭和四十年代に埋め立てられましたが、平成十年度、環境庁及び東京都の井戸・湧水復活再生事業費補助を受け、昔の池をイメージして整備されました。また、ほかに湿地、用水路、水辺林等を、周辺の東京都指定「国分寺姿見の池緑地保全地域」の雑木林等と一体になるように整備し、かっての武蔵野の里山自然を回復し保全してゆくものです。
池の水はどこから出ていくのだろうかと思って探してみましたら、入口横に細い排水口がありました。水は殆ど流れてはいませんでしたが、排水口の先は日立中央研究所の敷地に延びています。ひょっとして、この水が大池に流れ込み、野川の源泉のひとつになっているのかもしれません。
JR中央線の土手には反対側に抜けるトンネルはありませんので、国分寺駅の近くまで引き返してJR中央線の上に架かった陸橋を渡ります。線路に沿って西国分寺駅方向に戻ろうとしますが、民家で遮られ路地に入り込みます。ようやくそれらしい位置まで辿り着きましたら、目の前に急な下りの階段が現れます。電車に乗っていると分からないのですが、この辺りは高低差のある谷が入り組んでいて、階段の上り下りが激しいのです。急な階段を降りたところには樹木が生い茂った民家があって、何やらミニ峡谷のような感じです。ここに大池からの水が流れ込んでいるに違いないと思ってバチバチ写真を撮りまくります。でもどう見ても水が流れているようには見えないのです。民家の先にある一段高い道路に上がってみましたら、橋が見えます。そこには字は消えかかっていますが、紛れもなく野川と書かれた立て札が立っています。上流側を見ますと、JR中央線の土手下は見えませんでしたが、きっと通水口がある筈です。やはり、先ほどの民家にあったミニ渓谷は単なる木々の生い茂ったところだったようです。
橋の下流側には両岸に民家が建ち並んでいるため、人が通れるような側道はありません。ここは例によって川と付かず離れず路地を伝って回り道をします。
最初は細かった川幅も段々と広がり、河川らしくなってきます。でも、川底には水草が生い茂り、水質もイマイチな感じです。
路地を回り道していましたら、右手に小さな堀があり、水が流れています。ドブ川みたいですが、「名水百選 ほたるのすむ川 カワニナをとらないで!!」という立て札が立っています。尚、カワニナとは巻貝の一種で、淡水に棲む細長い巻貝の一種です。ゲンジボタルやヘイケボタルといった水生ホタル幼虫の餌としても知られています。水の流れてくる方向を見ますと、お鷹の道・真姿の池湧水群に繋がっているように思えます。これが野川の第二の源泉みたいです。ネットには次のような説明があります。
真姿(ますがた)の池は、東京都内では青梅市の御岳渓流と共に環境庁の「名水百選」に指定された「お鷹の道・真姿の池湧水群」の一部であり、東京都の国分寺崖線緑地保全地域にも指定されています。真姿の池の由来は、嘉祥元年(848年)不治の病に苦しんだ玉造小町が病気平癒祈願のため国分寺を訪れて21日間参詣すると、一人の童子が現れ小町をこの池に案内し、この池の水で身を清めるようにと言って姿を消したので、そのとおりにしたところたちどころに病は萎え、元の美しい姿に戻った。それから人々はこの池を「真姿の池」と呼ぶようになったという伝説からきています。真姿の池は「新編武蔵風土記稿」に「広さ2間四方許、池中(ちちゅう)の狐嶼(こしょう)に弁天の祠宇(しう)を置、この池水も田地へそそく」とあります。周辺の雑木林は下草の刈り払いが行われ管理が行き届いており、国分寺崖線の雑木林景観が良く保存されています。国分寺から小金井・三鷹・調布・狛江を経て世田谷の等々力渓谷に至る標高差約15mほどの崖線で「ハケ」と呼ばれています。東京を代表する湧泉の価値を文化財として評価された最初の自然地理的名勝です。
野川と真姿の池から流れ出た水が合流する地点は、お城の枡形門みたいなクランク状の形をしています。ほぼ直角に向きを変える野川(右側)の先に真姿の池から流れ出た水(左奥)が合流しているのです。合流地点の上に「田用水堰記念」と彫られた石碑が立っていました。大正12年(1923年)3月に竣工した田用水堰を記念してここに置かれたようです。
野川は再び川幅を狭め、住宅地の中を流れて行きます。
とある路地の入口に歴史と文化の散歩道:府中・国分寺コースのモニュメントが置かれていました。10年以上前に通りかかった筈ですが、もはや記憶には残っていません。
くらぼね坂と野川が交わる鞍尾根橋脇に野川3番目の源泉である東京経済大学構内の新次郎池から流れ出た水が合流しています。くらぼね坂の側溝みたいで、あまり水量はありませんが、昔はどうだったのでしょうか?
東京経済大学校内にある新次郎池は、池を取り囲むように5ヶ所から水が湧出しています。以前はわさび田として利用されていました。北澤新次郎学長(1957年〜1967年在任)の時代に池として整備され、新次郎池と呼ばれるようになりました。2003年1月、都内の名湧水の保全回復を目的として東京都より選定された「東京の名水57選」に選ばれました。湧水の量は季節によって変化します。くらぼね坂は、東京経済大学の東側と貫井神社の西側の間の坂道です。国分寺市との境界でもあります。今の貫井北町や小平・国分寺方面から府中方面に行くこの道は、急坂の東が切り立つような赤土の崖で、雨の降る時などは人も馬も滑って歩けなかったといわれます。鞍(馬)でも骨をおるとか「くらばね」断崖の連続した段丘崖を意味するともいわれ、諸説があります。
源泉からここまで、野川には殆ど側道はありませんでした。鞍尾根橋から下流には立派な遊歩道が整備されています。野川を歩くには、国分寺からではなくて鞍尾根橋からスタートするのがお薦めです。途中、一カ所で迂回しますが、それ以外では川沿いを外れることはありません。
鞍尾根橋は河川管理の境界でもあります。これより上流側は北多摩北部建設事務所、下流側は北多摩南部建設事務所となっています。大した違いには思えませんが。
まだまだ残暑は厳しいですが、季節は秋に向っています。春には満開だった桜の木も今は落葉の佇まいです。遊歩道を埋めた枯れ葉にこれまた季節が終わった蝉さんがご臨終の時を迎えています。これも自然の摂理ですね。
鞍尾根橋から下流の道のりで唯一迂回を余儀なくされるのが新前橋です。ここまで開口で流れてきた野川は前原小学校の校庭の下に潜ります。右手にも川筋がありますが、こちらは旧野川なのだそうです。前原小学校をぐるりと迂回した先で野川は再び姿を現します。
遊歩道には野川の案内板は多くないのですが、珍しく2枚並んでいるのを見つけました。「はけの森」と書かれたプレートにはふたつの穴が開いていて、「この穴からのぞいて見てください」と書いてありました。その時は見過ごしたのですが、覗いていたら何が見えたのでしょうか?
はけの森
目の前に帯状に続く緑は、国分寺崖線の樹林で、はけの森とも呼ばれ、人々が利用しながら維持してきたものです。コナラやクヌギの雑木林では堆肥にする落葉や薪が集められ、シラカシやケヤキの林は屋敷林として維持され、竹林とともに農具や建築材料などを供給してきました。
野川の左岸に続く国分寺崖線は”はけ”とも呼ばれ、古多摩川の浸食によってできた武蔵野段丘と、そこから一段低い立川段丘との間の高さ15m〜20mの崖です。はけには豊かな樹林が残されており、はけの下からはあちこちで湧水が沸き出しています。野川はこれらの湧水を集めて流れる川です。
小金井新橋にやってきました。視界の左右には広大な森が広がっています。これが都内かと思われるような一面の緑です。
橋の袂に遺跡の案内板が立っていました。野川中洲北遺跡というのだそうです。旧石器時代の石槍や縄文時代の遺構が発掘されているとかで、水のある所には必ず人間の暮らしがあるということですね。土手の脇には古代の暮らしぶりを描いた巨大な銅板のレリーフがコンクリートの壁に取り付けられていました。
野川中州北遺跡
この遺跡は立川段丘面にあり、旧野川の河道である低湿地に囲まれた中州上に立地しています。昭和六十一年から六十三年に、野川調整池の工事に先立って発掘調査が実施され、旧石器時代から近世までの遺構・遺物が多数発見されました。旧石器時代(約一万〜三万年前)では、関東ローム層中から石槍・ナイフ形石器等の石器、礫群と呼ばれる調理場の跡が多数出土しました。また、低湿地に堆積した泥炭層中から、氷河期の寒冷気候を示すカラマツ・トウヒ・チョウセンゴヨウ等の針葉樹や花粉の化石が多数発見され、当時の自然環境を明らかにすることができました。縄文時代(約二千三百〜一万年前)では、草創期・早期・後期の遺構や遺物が出土しています。他にも古代(平安時代)・中世・近世の遺物も発見されており、野川のほとりに暮らした人々の歴史を物語る貴重な遺跡です。
平常時の野川は水量も少なくおだやかな流れですが、大雨時には氾濫も起こしかねないらしく、あちこちに溢れた水を一時的に溜めておくための調整池が設けられています。通常は川岸に水の取り入れ口を設けますが、ここでは遊歩道を一段低くして、大雨時に遊歩道を越えて調節池に水を流し込むようにしています。随分と乱暴な方法ですが、遊歩道を越えるような野川の増水は滅多にないでしょうからいい方法かも。
武蔵野公園は広大ですが、隣接する野川公園もその倍位の広さです。細長い曲がったピーナツのような形状をしていますが、うまく地形を活かして自然観察園が造られています。
野川公園自然観察園
- 野川と国分寺崖線(ハケ)にはさまれた細長い敷地が自然観察園です。
- 自然観察園内では、都市化の中に今も残る「ハケ」から湧き出る湧水が観察できるほか、「ハケの自然」を観察できるように湿地帯には木道を、そして水路や池などを設けてあります。そして観察園内にある「ほたるの里」では、そこからとびたつゲンジボタルが観察できます。
- むかしはどこにでも見られた自然の風景も、今では貴重なものとなっています。
- 身近な自然の中で四季折々の変化を楽しみながら、自然の姿やしくみ、そして自然の大切さを学び、自然とふれあう場所として自然観察園をおおいにご利用いただきたいと思います。また、自然観察センターでは、野川や国分寺崖線(ハケ)を中心とした自然や人文についての展示・解説サービス・自然教室・自然観察会などを実施しています。ぜひ、センターもご利用ください。
遊歩道からフェンス越しに池が見えます。あか池というのだそうですが、何故「あか」なのかは分かりません。
あか池(別名ハス池)
このあか池(別名ハス池)では「2千年バス」といわれている古代のロマンを秘めた大賀ハスが美しい花を咲かせ、池にいる小魚をとりにきたカワセミがハスの花で羽を休めるといった優雅な風景を見ることができた場所です。湧水の激減と不用意な生き物の持ち込みにより、ハスも小魚も、そしてそれまでここにいた多くの動・植物が危機的状況にさらされています。ここは動・植物にとってとても貴重な場所です。不用意な生き物の持ち込みは絶対にしないで下さい。
自然観察園の入口横に野川について説明された大きな案内板が立っていました。川沿いでは一番大きいかも。
野川のあらまし
野川は、国分寺をみなもとに、小金井・府中・三鷹・調布・狛江・世田谷と流れて多摩川に注ぐ、約20kmほどの河川です。その流域には、国分寺崖線と呼ばれる多摩川の河岸段丘崖(「はけ」とも呼ばれます)が連なり、その崖下からは清らかな湧水が湧き出ています。野川の流域には、縄文あるいはそれ以前の遺跡があり、昔から多くの人々が生活していたようです。また、最近まで豊かな水を利用して稲作が行なわれ、ワサビも栽培されていました。今でも野川のまわりにはたくさんの野鳥や植物が見られ、豊かな自然環境が残されています。武蔵野の面影が残る水と緑が一体となった野川の自然をいつまでも大切に守り育てましょう。
野川公園は国際基督教大学のゴルフ場を買収してできた都立公園です。細長い形状はそれを良く表しています。国際基督教大学の敷地に隣接し、今でも構内から湧き出た湧水が野川に注いでいます。日立中央研究所内の大池、お鷹の道・真姿の池湧水群、東京経済大学の新次郎池に続く4番目の主要な水源ですね。
人見街道と野川が交差する御狩野橋の袂に武蔵野の路:野川コースの案内板が立っていました。この近くには近藤勇の生家跡が残されていて、産湯を使った井戸もありました。
三鷹市に入りましたが、田んぼなんかもあって川沿いには長閑な風景が広がっています。実りの秋はもうすぐです。
遊歩道沿いには大学の厩舎でしょうか、一頭の馬がつながれています。馬も大変ですけど、日々お世話をする学生さんはもっと大変ですね。
野川は三鷹市と調布市の境を流れています。調布市側には調布飛行場の管制塔が、三鷹市側には国立天文台のドームが見えます。
武蔵境通りと野川が交差するところに架けられた橋が御塔坂橋です。ここから狛江市の谷戸橋までの遊歩道にサイクリング道路が設けられています。河川敷のサイクリング道とは違って歩行者道と兼用ですので、スピードは出せませんがこれからの季節には快適な走りとなるでしょう。
甲州街道と野川が交差する手前に、大正時代の線路跡が記念碑と共に残されていました。線路跡といっても、何の痕跡も残っていませんが。
午後の3時半を回り、夏の終わりと相まって既に夕暮れのような感じです。残りは未だ10kmほどありそうなので、今日の野川の歩きは甲州街道に架かる馬橋で中断したいと思います。上流区間は路地巡りばかりでしたが、鞍尾根橋からは快適な遊歩道の歩きが楽しめました。馬橋から先の遊歩道も整備されているといいのですが。
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