- 日本橋川コース
- コース 踏破記
- 野川を歩いた次はどこにしようかなと考えた末に、都心部を流れる日本橋川を選びました。神田川を歩いた際に水道橋駅の手前の三崎橋で分流する日本橋川を見て、余りの汚さに驚いたキ市河川です。都心だから仕方ないかと思いますが、今まで歩いた郊外の清らかな流れの川(一部例外はありますが)とは随分と印象が違います。ただ、都心の川なので見所もそれなりにあるのではないかと思います。先ずはネットで日本橋川について調べてみます。
日本橋川
日本橋川は、千代田区と中央区を流れる一級河川で、亀島川とともに神田川の派川(分流)です。JR水道橋駅西口近く、千代田区と文京区の境界にある小石川橋(三崎橋が正しいと思うけど)で神田川から分岐し、ここを起点として真南に流れます。以降はほぼ全流路に渡って首都高速道路の高架下を流れています。分岐直後から河川上空を首都高速5号池袋線の高架が覆っています。本郷台地と麹町台地北部(九段坂)の間の低地沿いを流れ、靖国通りと交差後に南東方向に流れを変えます。雉子橋周辺では皇居の内堀(清水濠)に30mまで接近し、この付近から首都高速都心環状線の高架下となります。神田橋・日本橋・江戸橋などを通過し、亀島川を仕切る日本橋水門付近でようやく川面が開けますが、空を望める川面は僅か500m弱で、中央区の永代橋付近で隅田川に合流します。徳川家康が関東に移封され、後に江戸幕府が開幕して平川(現在の神田川上中流)につながる神田川開削の天下普請が行われました。このとき、三崎橋から堀留橋までが埋め立てられ堀留となりました。これは飯田堀・飯田川とも呼ばれていました。以降、近代に至るまで流域は経済・運輸・文化の中心として栄えました。堀の両側には河岸が点在し、全国から江戸・東京にやってくる商品で賑わいました。上流から鎌倉河岸・裏河岸・西河岸・魚河岸・四日市河岸・末広河岸・兜河岸・鎧河岸・茅場河岸・北新堀河岸・南新堀河岸などがありました。河岸には、現在でも周辺に小網町・小舟町・堀留町など当時を思わせる地名が残っています。明治になると、道三堀の西半分と外濠(現在の外堀通り)が埋め立てられ、飯田堀は開通した鉄道の飯田町駅との運河としても使われました。1903年(明治36年)、市区改正事業によって埋めた区間を再度神田川まで開削し、神田川の派川として日本橋川と呼ばれるようになりました。
ということで、三崎橋から日本橋川の歩きを始めます。
三崎橋から下流を眺めますと、JR中央線の鉄橋と首都高の橋脚が続き、今まで歩いた自然の川とは随分と趣が異なります。
江戸時代、この辺りには高松藩の上屋敷があったそうです。高松藩は水戸光圀公の長男の松平頼常が藩主を務めたことがあり、後に平賀源内も仕えた藩でもあります。蛇足ですが、上屋敷は主に藩主とその妻子などが居住し、中屋敷は主に隠居や世継ぎなどの住居用、下屋敷は国元からの荷を揚げるため主に水辺につくられた蔵屋敷と区別されるのだそうです。
飯田町遺跡周辺の歴史
江戸時代以降、この地域には日本橋川や神田川があり、近くには水道橋の名前の由来となった神田上水が流れていました。1620年(元和6年)、幕府は江戸城下の中心部を洪水から守るために、神田川の流路を船河原橋のあたりで東へ曲げて、駿河台を掘りぬく運河の「神田川」を切り開きました。この工事によって、日比谷入江に注いでいた平川を掘留(現在の掘留橋)で神田川から切り離し、江戸城外堀としました。2000年(平成12年)に行なわれた飯田町遺跡の発掘調査では、讃岐高松藩上屋敷跡とともに、江戸時代初期の石垣や土留め坂の護岸を持つ、幅10mの堀が発見されました。この堀は「正保年中江戸絵図」に見える平川の名残と考えられ、1657年(明暦3年)の明暦の大火直後に埋め立てられたことがわかりました。
讃岐高松藩上屋敷の土蔵跡
飯田橋二丁目から三丁目に広がる飯田町遺跡からは、讃岐高松藩(現在の香川県)の上屋敷跡が発掘されました。上屋敷は1706年(宝永3年)に幕府から与えられたもので、藩主が住み、政務を執り行なった屋敷です。12万石の領地を支配した高松藩松平家は、初代藩主松平頼重が水戸藩2代藩主徳川光圀の兄にあたり、徳川御三家である水戸藩ゆかりの大名でした。発掘調査では御殿をはじめ、庭園跡、上下水道跡、土蔵跡などが見つかっています。土蔵跡の基礎には、大きな礎石の下に木の土台が用いられていました。その礎石は、現在川沿いの遊歩道のベンチに再利用しています。
案内板を読まなければ、ただのベンチにしか見えませんが、そんな歴史があったんですか。更に、庭園跡の案内板も立っていました。
讃岐高松藩上屋敷の庭園跡
1999年〜2000年に行なわれた飯田町遺跡の調査では、讃岐高松藩上屋敷の暮らしぶりを彷彿とさせる様々な発見がありました。そのひとつに屋敷内の庭園に造られた遺跡があります。池には神田上水を引き込み、岸には石垣や竹の土留めなどを用い、池の南端には景石(庭石)を置いていました。この石は国元から運ばれた可能性が考えられます。また池の中からは漆塗りの浮きが出土し、この池で釣りをしていたことがわかりました。さらに池の近くからは国元で焼かれた理平衛焼の陶器碗や皿も発見されています。
日本橋川が靖国通りと交差する地点に俎橋が架かっています。橋の名前に何やらいわくがありそうですが、はっきりとはしていないようです。
俎橋
俎橋は難読として知られています。橋銘は「爼」となっていますが、一般的には「俎」と表記されることが多いです。他に「俎板」や「魚板」などとも書かました。稀に「姐」と誤記されることもあります。名前の由来は、橋が2枚の俎(まないた)を渡したような板橋であったことによるとする説と、近くに存在した台所町との関連で名付けられたとする説があります。
日本橋川には周遊クルーズのボートや緊急用の船が航行することがあります。両岸のところどころには船着き場が造られています。震災で道路が渋滞した時など、非常用の物資の輸送には使えるかも。
日本橋川が専大通りと接するところに共立女子学園の校舎が聳えています。私には縁はありませんが、伝統ある女子教育の学び舎です。かって、フォークの聖地だったとは知りませんでしたが。
共立女子学園
共立女子学園は鳩山春子などの当時の教育者34人により、1886年に「共立女子職業学校」として設立されました。共立女子学園講堂(通称:神田共立講堂)では、著名人を招き講演などが行われます。また1970年代には日本のフォークシンガーの聖地とされ、ここでは吉田拓郎・かぐや姫・アリス・ガロなどがコンサートを開催しました。現在は学校関係者以外には貸し出していませんが、2009年7月20日に、再結成したアリスが一夜限りのライブを行いました。
日本橋川は竹橋の手前で大きく東に向きを変えますが、そこに架かる橋が雉橋です。漢字に疎い人には俎橋とならんで読み辛い橋名です。
雉(きじ)橋門跡
家康が朝鮮からの使節をもてなすための雉をこの附近の鳥小屋で飼育したことが橋名の由来です。1629年(寛永6年)に江戸城外郭門のひとつである雉子橋門が築造され、橋が架けられました。橋は1903年(明治36年)に鉄橋に改架されました。1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で被災したため、1926年(大正15年)に新たに架けられたのが現在の橋です。
ふと川面を見ると、ちょうど日本橋クルーズのボートが航行していました。4連休の最後とあって、ボートの座席は殆ど埋まっていました。コロナ渦で長いこと続いた外出自粛の反動なのでしょうか?
一ツ橋の地名は、日本橋川に架かる一ツ橋(一橋)に由来しています。一ツ橋付近はもともと日本橋川と小石川(現在の白山通り)の合流地点であり、合流点を表す「一つ」がこの地点に架かる橋の名称となり、さらにこの付近の地名になりました。一ツ橋が架かっている護岸には江戸時代の石垣が残されています。今にも崩れ落ちそうに見えますが。
日本橋川が明大通りを越える錦橋の先から大手町川端緑道が始まります。私は緑道の存在を今まで全く知らなかったのですが、2014年4月22日に開通したのだそうです。随分前から存在していたのですね。大手町川端緑道は、UR都市機構が進める大手町土地区画整理事業(施行面積:約17.4ヘクタール)の一貫として日本橋川沿いに整備された延長約780mの歩行者専用道です。親水空間を取り巻く4つの「環境」(自然・都市・歴史・生活)をキーワードとして快適な歩行空間の創出が図られました。「自然環境」の面では、皇居から隅田川を経由して東京湾へ至る水と緑のネットワークの一部となる緑量を確保し、また皇居やその周辺に生息する生き物の中から出現頻度の高いチョウ類や鳥類を誘致指標種に設定し、食餌植物を織り交ぜた植栽計画で歩専道内への誘致を試みています。「都市環境」の面では、保水性舗装の導入や浸透桝の設置、ポールスポット灯による木漏れ日のような夜間照明などにより、光や陰や温度や湿度などが快適にコントロールされる空間づくりが行なわれています。「歴史環境」の面では、江戸小紋をモチーフにした石張舗装、江戸後期の地図と現在の地図を重ねて表示した案内サインなどにより、まちの地歴を景観要素として活用しています。「生活環境」の面では、周辺のオフィス街の人々に安らぎを提供する場として、四季の季節変化が楽しめる植栽や昼食時にキッチンカーが進入できる空間の整備などが行われています。そして、これら4つの「環境」と歩専道内で想定される様々なアクティビティをちりばめた街の風景を一幅の絵巻物「日本橋川環境絵巻」として紡ぎ出すことを目指しています。さらに、その絵巻物を緩やかに蛇行する敷地形状と立地特性をきっかけにして丁寧に「折り込む」ことで、総延長が長い歩専道空間のアクセントとして賑わい拠点となる十箇所の見所をしつらえています。
緑道の入口には気象庁の庁舎があります。気象庁は、生物季節現象(気温や日照など季節の変化に反応して生物が示す現象)を目や耳で確かめて、その現象が確認できた日を記録する生物季節観測を行なっています。「自然環境」のコーナーに案内板が立っていました。
気象庁旧生物季節観測の木
生物の状態が季節によって変化する現象を生物季節現象といい、これを観測することによって、気象状況の推移を知ることができます。気象庁では、1953年から全国各地の気象台などで、植物12種類、動物11種類の生物季節現象を調べて、季節の遅れ具合や進み具合を長期的に観測しています。ここに植えてあるソメイヨシノ(3本)とイロハモミジは標本木としてその役目をはたしました。
[植物12種類]ウメ、ツバキ、タンポポ、サクラ、ツツジ、フジハギ、アジサイ、サルスベリ、ススキ、イチョウ、カエデ
歴史環境のコーナーには、江戸城城門の案内板がありました。
神田橋門石垣跡
多くの堀に囲まれた江戸城には、「三十六見附」と呼ばれるように、道路と堀の交差する場所に敵の侵入を防ぐための城門がありました。神田橋門もそのひとつで、外堀(現在の日本橋川)に架かる外殻門で、芝崎口・神田口・大炊殿橋とも呼ばれ、寛永6年(1629年)に下野真岡藩主稲葉正勝によって構築されました。特にこの門は将軍が寛永寺や東照宮に行くための御成道に位置するために、その警備は重要でした。明治5年(1872年)に門は取り壊されましたが、地中には城門石垣の一部が残されており、ここに並べた石は工事中に出土した石垣を城門想定位置に配置したものです。
同じく、歴史環境のコーナーに、江戸城外堀石垣の案内板がありました。
江戸城外堀の石垣
雉子橋から常磐橋までの日本橋川は、かって江戸城外堀の一画でした。関東大震災や首都高速道路建設による護岸改修によって、現在その面影はありませんが、錦橋から神田橋の右岸(南)には昭和期に改修された外堀石垣が点在して残っています。この石列の下には、江戸時代の石垣が高さ約6m、長さ約100mにわたり地下に保存されています。
ここにも大手町川端緑道の案内板が立っていました。再開発事業の全体にUR都市機構がかかわっていたんですね。
大手町川端緑道
大手町川端緑道は、大手町連鎖型キ市再生プロジェクトとして独立行政法人キ市再生機構が施行している大手町土地区画整理事業により、日本橋川沿いに整備された歩行者専用道(延長約780m、幅員約12m)です。大手町は、江戸時代以降日本の行政・文化の中心地として、東京の歴史的な記憶を内包しながら発展した場所です。大手町川端緑道での今後の様々な活動が絵巻物のように物語として展開されるという意味を込めて「日本橋川環境絵巻」というコンセプトのもとにデザインしました。
鎌倉橋から新常磐橋にかけての一帯には、かって逓信博物館とかNTTビルがありました。その広大な敷地は再開発され、今では巨大なビルが林立しています。そこにも江戸城の痕跡が残っています。
江戸城外堀の石垣と荷揚げ場跡
横を流れる日本橋川は、かって外堀川と呼ばれ、江戸城外郭に位置していました。そのため、現在も旧外堀石垣の一部が残され、この沿道にも一部石垣が残されています。また、橋のたもとには荷揚げ場として使われた痕跡が残っています。対岸にある鎌倉河岸は、江戸城築城資材などの荷揚げ場で、そのほか魚や青物のような生鮮食品をはじめ材木などの物資も集まり、近隣には青物市場など町人地が広がっていました。宮本公園に移築された、昭和2年(1927年)頃の建築の「遠藤家住宅」(千代田区指定文化財)は、江戸期以来鎌倉河岸で材木商を営んだ商家の建物です。
JRの高架を越えた先で、真新しい橋の工事が行なわれていました。親柱に彫られた橋名は古い字体で読めません。帰ってから調べてみましたら、常磐橋の復旧工事なんだそうです。
日本橋川には、「ときわばし」と名の付く橋が3つもあるのですが、まん中に架かるのが「常磐橋(旧常盤橋)」です。一番昔から橋が架かっていた場所で、江戸時代にはこの場所には江戸城外郭の枡形門・「常盤橋門」があって、ここに木橋が架かっていました。明治の世になり、江戸城の他の外郭の門は取り壊されていきましたが、その壊された他の門の石垣の石材が利用され、この橋は明治10年に木橋から石橋に架け替えられました。西洋の文化が橋に表現された最初の橋とされています。その後の大正時代、この橋の両隣には関東大震災の前に新常盤橋、震災後に常盤橋が道路橋として架かりました。この時、昔からあった真ん中の橋は、橋を区別する上で「磐」の文字が正式に使われるようになったという説がありますが、異説も多くあります。その後、常磐橋は今日まで常盤橋門の城門の石垣とともに保存され、都内に残る石橋としては最も古い橋となっています。しかし、2011年の東日本大震災の地震が橋の石積みに影響してしまったことがわかり、復旧のための工事が始まって今に至っています。復旧工事のやり方は、個々の石に元ある場所の印をつけて一度解体し、橋台などの基礎の部分から構築し直したあとに石を元の場所に戻す、という途方もない作業です。路面に石を敷く作業では、寸法を合わせるために電気ヤスリやトンカチで石を整形する作業が行われました。石積みの橋なので、ひとつの石にズレがあると全体に影響してしまう可能性があり、精密さが要求される作業でした。今は橋の上部の親柱や欄干の設置作業が行われていて、それらの多くはできるだけ補修してそのまま使い続けますが、痛みの激しい部位は新しい材料に取り替えられます。日本の石橋のほとんどは九州に分布しているので、東日本で見ることのできる石積みの橋としてはこの橋はとても貴重です。そしてさらに、その復旧の作業というのはなかなか見ることができません。
たまたま石橋の改修工事の現場を見ることができてラッキーだったんですね。
常盤橋の向かいには日本銀行の古めかしい旧館(本館)が建っています。設計者は建築学界の第一人者であった辰野金吾博士です。辰野博士は、日本銀行の支店や東京駅・旧両国国技館などの設計も手がけました。日本銀行は開業当初は日本橋川が隅田川に注ぐ永代橋の袂にありました。昭和57年(1982年)11月に創業百周年を記念して開業地に記念碑を設立しましたが、日本橋川を歩き終える直前に偶然にも歩道の隅っこに置かれているのを見つけました。
日本橋は昔から商業の街として繁栄してきました。そこに日本橋川を挟んで西河岸地区と裏河岸地区が形成されました。
西河岸橋
このあたりは、江戸時代より我が国の商業・経済の中心地として栄えてきました。この橋は、日本橋から一石橋までの日本橋川右岸地域が西河岸町という地名であったことから西河岸橋と名付けられたものです。初代の橋(明治24年架設)は、弓弦形ボウストリングトラスという当時最新式の鉄橋でした。関東大震災により被害を受けた西河岸橋は、大正14年に現在の橋に架け替えられました。中央区では、架設後65年を経過したこの橋を平成2年度において痛んだ部分を修復し、さらに伝統的な木造建築様式の木組みを採りいれた意匠で整備しました。
裏河岸
明治十年(1877年)十二月、東京府 は「日本橋ヨリ以西一石橋迄」の河岸地(西河岸の対岸)を「裏河岸」と命名しました。江戸時代初期の寛永江戸図には「北かし」と記されていますが、この北側には北鞘町と品川町があり、御府内沿革図書では、一石橋側を「北鞘町河岸」、日本橋側を「品川町裏河岸」としており、いくつかの俚俗名を確認することができます。なお、「江戸名所図会」によると、品川町裏河岸の通りには、釘・金物の店が多く、釘店とも呼ばれていたと記されています。
日本橋にやってきました。今年のNHKの大河ドラマは「麒麟がくる」ですが、日本橋の麒麟の像は橋のシンボルになっています。日本の道路の起点となる日本橋から飛び立つというイメージから、それまでの麒麟の作品には見られなかった羽を付けることになりましたが、翼と背びれとを検討した結果、羽が生えたような形の背びれを採用することになりました・・・とのことです。麒麟は動物園で見るキリンだとばかり思っていたのですが、本当は中国の神話に現れる伝説上の動物(瑞獣)だったんですね。大河ドラマで室町時代末期に生きた明智光秀とか足利義輝がなんでアフリカに生息するキリンを知っていたのか不思議に思っていました。泰平の世に現れる伝説上の動物のことを麒麟と言っていたんですね。救世主のように言っていた意味が初めて分かりました。私と同じような疑問を持っている人も沢山いるのではないかと思って、恥ずかしながら書き添えます。
日本橋は江戸時代に五街道の起点として定められました。元標の広場には日本国道路元標の碑が置かれています。
日本国道路元標
日本橋は1603年に創架され、江戸幕府により五街道の起点として定められました。現在の日本橋は1911年に架橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、四隅の親柱の銘板に刻まれた「日本橋」及び「にほんはし」の文字は最後の将軍・徳川慶喜公の揮毫によるものです。1972年、日本橋中央の「東京市道路元標」がこの広場に移設・保存されました。その据えられていた跡には、内閣総理大臣佐藤栄作の揮毫による「日本国道路元標」が埋標されました。この複製も同時に制作・設置されたものです。東京市道路元標は、1999年に米寿を祝う日本橋とともに国重要文化財に指定されています。
日本橋の東端に魚河岸跡の案内板と乙姫の像が置かれています。何で乙姫様の像かというと、龍宮城の住人である海の魚が舞い踊るごとく日本橋に集まったという意味を込めて選定したとのことです。
日本橋魚河岸跡
日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売りだしたことに始まります。この魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町・小田原町・安針町 (現在の室町一丁目・本町一丁目一帯) の広い範囲で開かれ、大変な賑わいをみせていました。なかでも、日本橋川沿いの魚河岸は近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢のよい取引が飛交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売場を開いて売買を行ってきました。この魚河岸は、大正十二年(一九二三年)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。現在、魚河岸の有ったこの場所には、昭和二十九年に日本橋魚市場関係者が建立した記念碑が有り、碑文には、右に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぶりをうかがうことができます。
(写真)日本橋から見た震災前の魚河岸(左端)と日本橋川の様子、奥は江戸橋。
江戸橋の南端付近にオフィスビルに混じって真新しい倉庫ビルがあります。日本橋界隈は、江戸開幕以来水運の中心地になり、物資の荷捌き所や倉庫が立ち並んでいました。江戸橋倉庫ビルは1930年(昭和5)年に竣工しましたが、個性的な外観で屋上のファンネル(漏斗:容器に液体を注ぐための壺状もしくは円錐形の道具)や船首を思わせる曲線など船体を感じさせるデザインで東京都選定歴史的建造物に指定されていたビルでした。今でこそ当たり前になったトランクルームの先駆け的存在でもありました。竣工から約80年にわたって日本橋川の景観でしたが、老朽化により解体され、外観だけ残したハリボテ方式で解体・保存された日本橋ダイヤビルディングに生まれ変わりました。
日本橋ダイヤビルディング(旧三菱倉庫江戸橋倉庫ビル)
三代広重が「古今東京名所」で描いた煉瓦造りの「江戸橋三菱の荷蔵」(明治13年築)が、大正12年の関東大震災により飛び火で焼け落ちたため、昭和5年に、耐震耐火に優れた鉄筋コンクリート造(一部フラットスラブ構造)の近代的都市倉庫である「江戸橋倉庫ビル」(地下1階・地上6階建)が建設されました。船橋を模した屋上の塔屋や上層階の半円窓など、船体を思わせる個性的な外観を持つ、表現主義の影響を受けた代表的な作品でした。日本橋川をロンドンのテムズ川に見立て、外国航路の本船が停泊しているのがこのビルのモチーフとする見方があり、横光利一 著「家族会議」(昭和10年)では、「三菱倉庫のそびえるあたりの静かな波はベニスに似ている」と表現されました。併設の「トランクルーム」は、昭和6年、三菱倉庫株式会社が考案・命名し、「江戸橋倉庫ビル」に於いて、本邦で最初にトランクルーム事業を開始しました。「江戸橋倉庫ビル」は建設以来80有余年が経過し、環境も変化したため、平成23年に外観の約7割を保存して建替える再開発に着手し、平成26年に地上18階建のオフィスビル「日本橋ダイヤビルディング」として竣工しました。
倉庫ビルの先に小さな神社があります。兜神社だそうです。尚、証券会社が建ち並ぶ兜町の地名の由来については諸説あります。源義家が奥州征伐から凱旋した際(つまり東征の後)、自身の兜を納めて平和を願った兜神社の境内の塚に由来するとか、俵藤太が平将門に打ち勝った際、将門の兜を埋めた塚に由来するとか。神社の説明とは微妙に違いますね。
兜神社の由来
- 御社号
- 兜神社
- 鎮座地
- 中央区日本橋兜町一番十二号
- 御創立
- 明治十一年五月(一八七八年)
- 御祭神
- 主なる祭神は商業の守護神とたたえまつる倉稲魂命である。合祀の神は右に大国主命左に事代主命をまつる。
- 御例祭
- 毎年四月一日
- 御由緒
- 明治十一年ここ兜町に東京株式取引所(東京証券取引所の前身)が設けられるに当たり同年五月取引所関係者一同の信仰の象徴および鎮守として兜神社を造営した。御社殿に奉安してある「倉稲魂命」の御神号は時の太政大臣三條實美公の揮毫になるものである。当社は御鎮斎後一度換地が行われたが昭和二年(一九二七年)に再度換地を行ない、兜橋々畔の現在地約六十二坪(約二〇五平方米)を卜して同年六月御遷座を行ない鉄筋コンクリート造りの社殿を造営した。昭和四十四年(一九六九年)五月高速道路の建設に伴ない御影石造りの鳥居を残して旧社殿を解体し、同四十六年(一九七一年)三月現在の鉄筋コンクリート・一間社流造・向拝付きの社殿を造営した。屋根は銅板葺とし、玉垣・参道敷石などは御影石をもちいた。
- 兜岩の由来
- 境内に安置してある「兜岩」についてはその昔前九年の役(一〇五〇年代)のころ源義家が東征のみぎり、この岩に兜を懸けて戦勝を祈願したことに由来すると伝えられ、兜町という町名はこの「兜岩」に因んで付けられたといわれている。
兜の次は鎧です。何だか物騒な地名が続きます。鎧橋の袂に東京証券取引所の石壁の建物があります。JPXとしか表示されていないので、何のビルだか分からない人もいるでしょう。Japan Exchange GROUP,Inc.(株式会社日本取引所グループ)の略だそうですが、JEGの方が日本人にはしっくりきますね。
鎧橋の名前は案内板によりますと、「鎧の渡し」に由来するそうです。また、東京証券取引所と道路を挟んだ先には、鎧橋とレリーフされた大きな石造りのモニュメントと年代を感じさせる地蔵尊(鎧橋地蔵)が祀られています。鎧橋から身を投げた人を供養する地蔵様かと思ったのですが、特にいわれはないみたいです。
鎧の渡し跡
鎧の渡しは、日本橋川に通されていた小網町と茅場町との間の船渡しです。古くは延宝七年(一六七九年)の絵図にその名が見られ、その後の絵図や地誌類にも多く記されています。伝説によると、かつてこの付近には大河があり、平安時代の永承年間(一〇四六年〜一〇五三年)に源義家が奥州平定の途中、ここで暴風・逆浪にあい、その船が沈まんとしたため、鎧一領を海中に投じて龍神に祈りを奉げたところ、無事に渡ることができたため、以来ここを「鎧が淵」と呼んだと言われています。また、平将門が兜と鎧を納めたところとも伝えられています。この渡しは、明治五年(一八七二年)に鎧橋が架けられたことによりなくなりますが、江戸時代に通されていた渡しの風景は『江戸名所図会」などに描かれており、また俳句や狂歌等にも詠まれています。
縁日に
買うてぞ帰る
おもだかも
逆さにうつる
鎧のわたし
和朝亭 国盛
三崎橋からずっと日本橋川の上に架かっていた首都高速道路は茅場町駅の先の霊岸橋附近でほぼ直角に向きを変え、北東方向に延びて行きます。一方、日本橋川はそのまま直進しますので、ここから先の隅田川との合流地点まで初めて橋脚のない本来の水面を見ることができます。
永代通りから一歩入ったところに架けられているのが湊橋です。写真ではよく見えませんが、案内板下部の絵図には沢山の人達と御神輿の行列が描かれています。山王祭りの様子を俯瞰したものみたいです。海抜ゼロメートル地帯ですが、江戸時代に俯瞰できるような高い場所はあったのでしょうか?
湊橋
この橋は霊厳島(現在の新川地区で通称こんにゃく島とよばれていた)と対岸の箱崎地区の埋立地(隅田川の中洲)とを結ぶために、延宝7年(1679年)に架けられました。この地域は、江戸時代から水路交通の要所として栄え、とくに江戸と関西を結んだ樽廻船によって酒樽が輸送されていました。「江戸名所図会」によるとこの橋は、当時の湊町を形成した日本橋川河口の繁栄を象徴しており、また橋を挟んだ川岸には倉庫が立ち並び、当時の賑わいが偲ばれます。橋名は、江戸湊の出入口に由来しています。現在の橋は関東大震災の復興期に再建され、平成元年の整備事業で装いを新たにしました。
湊橋から隅田川との合流地点に向う途中に赤い鳥居の小さな神社があります。案内板には次のように書かれていました。
高尾稲荷起縁の地
江戸時代、この地は徳川家の船手組持場であったが、宝永年間(1708年)の元旦に下役の神谷喜平次という人が見廻り中に川岸に首級が漂着しているのを見つけ、手厚く埋葬した。当時、万治2年(1659年)のころより吉原の遊女高尾太夫が仙台候伊達綱宗に太夫の目方だけ小判を積んで請出されたのになびかぬとして隅田川三又の舟中で吊し斬りにされ、河水を紅に染めたといい伝えられ、世人は自然高尾の神霊として崇め唱えるようになった。そのころ盛んだった稲荷信仰とも結びついて高尾稲荷社の起縁となった。明治のころ、この地には稲荷社および北海道開拓使東京出張所(後に日本銀行開設時の建物)があり、その後現三井倉庫の建設に伴い社殿は御神体ともども現在地に移された。
神社の先の歩道の脇に小さな石碑が置いてありました。日本銀行は都心から外れたこんな場所で創業したんですね。それにしても簡素な碑文です。
日本銀行創業の地
明治十五年十月十日日本銀行 はこの地で開業した
明治二十九年四月日本橋本石町の現在地に移転した
創業百周年を記念してこの碑を建てる
昭和五十七年十月
日本銀行総裁 前川春雄
ようやっと隅田川との合流地点に架かる豊海橋にやってきました。橋のすぐ先には隅田川が迫っています。日本橋川は、上流・中流域では汚れたキ市河川でしたが、ここでは隅田川によって薄められたのか、水質はそんなにひどくはありません。やはり東京を代表する川は隅田川ですね。
ということで、日本橋川の歩きを終えました。自然の川もいいですが、都心の川にも見所が沢山あるのを実感しました。今夜は藤井聡太二冠と羽生九段の王将戦挑戦者決定リーグの幕開け対局があります。早く帰ってテレビで観たいところですが、この後さらに亀島川を歩きます。急がなくっちゃぁ。
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