- 隅田川コース(1)
- コース 踏破記
- 東京で一番有名な川は何でしょうか?多摩川?江戸川?それとも荒川?いや、やっぱり隅田川でしょう!作詞・武島羽衣、作曲・滝廉太郎の「花」の歌詞の一番部分、「春のうららの隅田川 のぼりくだりの船人が 櫂のしづくも花と散る ながめを何にたとふべき ・・・」は明治時代の隅田川の風情を詠んだものですが、実は源氏物語の中の「胡蝶」の巻で詠まれた和歌「春の日の うららにさして 行く船は 棹のしづくも 花ぞちりける」を元にしているのだそうです。平安時代の京の川(海かもしれないですけど)を明治時代の隅田川に置き替えても、少しも違和感のないところが作者である紫式部の時代を超越した才能といえるでしょう。ということで、今日は隅田川を歩きます。今までも隅田川テラスなど、部分的には何度も歩いたのですが、隅田川の始点から歩くのは初めてです。例によってネットで情報収集をします。
隅田川
隅田川(すみだがわ)は、北区の岩淵水門で荒川から分岐し、東京湾に注ぐ全長23.5kmの一級河川です。途中で新河岸川・石神井川・神田川・日本橋川などの支流河川と合流します。古くは墨田川、角田川とも書きました。元々、隅田川は東京湾へ注ぐ旧入間川の下流部でした。江戸時代に入ると、吾妻橋周辺より下流は大川(おおかわ)とも呼ばれていました。寛永6年(1629年)に荒川を入間川に付け替える瀬替えにより、隅田川の河道には荒川の本流が流れるようになりました。明治末期から昭和初期にかけて、洪水を防ぐために岩淵水門から河口までの荒川放水路が開削され、昭和40年(1965年)に出された政令によって荒川放水路が荒川の本流となり、分岐点である岩淵水門より下流の河道は「隅田川」に改称されました。
隅田川の始点が岩淵水門というのは間違いありません。ですが、岩淵水門には旧岩淵水門と新岩淵水門のふたつがあって、旧岩淵水門は大正13年(1924年)に運用が開始され、その後300mほど下流に造られた新岩淵水門は昭和57年(1982年)に完成し、旧岩淵水門から運用を引き継いでいます。ネットで調べてみますと、隅田川の始点は岩淵水門となっています。新岩淵水門は通常「新」を付けずに岩淵水門と呼ばれますので、新岩淵水門が隅田川の始点ということになります。私としては、今の隅田川の河道は昭和40年に政令により定められたものですので、旧岩淵水門を隅田川の始点にするのが妥当かと思います。そんなことはどうでもいいと言われる方も多いとは思いますが。
左は赤水門と呼ばれる旧岩淵水門、右は青水門と呼ばれる(新)岩淵水門です。
旧岩淵水門から土手を越えたところに荒川知水資料館があります。中に入ったことはないので、隅田川についての資料が展示されているかどうかは分かりません。
荒川知水資料館の横に「岩淵みんなの散歩みち」と書かれた案内板がありました。そこに描かれた地図によると、旧岩淵水門は隅田川が荒川と完全に分岐していない位置にあるように見え、新岩淵水門の方が隅田川の入口のようにも思えます。ですが、実際に現地で見てみると、最初に造られた旧岩淵水門の方がより荒川と隅田川の分岐点に位置しています。実際、絵の通りなら隅田川と荒川を分離する水門としての役割は果たせないと思いますがね。
同じく、荒川知水資料館の前に下半分埋められた格好の船堀閘門頭頂部の実物が展示してあります。ヨーロッパの中世の城門を思わせます。閘門とは、水面に高低差がある河川や運河の間で船の行き来を行なう場合に設置する施設のことです。固定された閘室(前後を仕切った空間)内の水位を変えることで船を上下させることができます。
船堀閘門(こうもん)頭頂部
荒川には、放水路開削前から隅田川から小名木川・新川(船堀川)を通じて江戸川に至る船運ルートがあり、江戸の発展、沿岸の産業や物資輸送に寄与してきました。そのルートが荒川放水路開削により、左右岸の堤防で遮られてしまうため、荒川と綾瀬川・中川・小名木川が接する部分には、従来からの船運を確保し、洪水時に逆流を防止するため、右岸側に小名木閘門・小松川閘門を、左岸側に新川水門・船堀閘門を設置しました。荒川と中川を隔てる背割堤上にある船堀閘門は、高水時に両川の水位が異なる場合、これを船で連絡するためにつくられたものです。
「東京の河川を歩く」では、川の左岸・右岸のどちらを歩くか、いつも迷います。鋪装の有無、合流する河川の見え方、案内板の有り無しなど、どっち側を歩くかによって満足度合いは変わってきます。ちなみに、左岸・右岸とは、河川を上流から下流に向かって眺めたときに左側を左岸、右側を右岸と呼ぶのだそうです。地図を見ますと、隅田川の場合は左岸よりも右岸の方が川沿いの遊歩道や側道が整備されているように思えます。それで、新河岸川が隅田川に合流する手前に架かっている新志茂橋を渡って右岸を歩くことにします。橋を渡りますと、隅田川沿いに背の高いコンクリート製の堤防が果てしなく続いています。視界が遮られ、隅田川の様子は全く分かりません。
長く続いた堤防が切れたところに、川沿いに設けられた遊歩道が現れました。隅田川テラスと呼ばれるものです。遊歩道にはカラフルなブロックが敷き詰められ、歩きやすく綺麗です。
ところどころに船着き場もあります。遊覧船の発着場のところもありますが、ここは防災船専用のようです。水門のような構造物もありますが、地図を見てもこの辺りに川は見当たりません。工場の排水施設でしょうか?
隅田川は都心を縦断しますので、各所で主要な道路と交差します。最初の橋が環七の通る新神谷橋です。さすがに車の通行量がハンパないですね。
橋が架かっているところでは、橋の下を通り抜けられるところと、遊歩道が行き止まりになったり、護岸工事中で閉鎖されて通り抜けられないところがあります。その場合は土手を上がって横断歩道で橋を渡り、再び遊歩道または側道に入ることになります。新神谷橋は橋の下を通り抜けられましたが、船着き場の先で工事中のためか遊歩道はフェンスで締め切られ、その先は進めません。一旦川沿いから離れて住宅地の中を回り道します。
大廻りした先の新田橋から側道が再開します。既に10月ですが、土手に植えられたキンモクセイの強烈な香りが周囲に漂っています。
新豊橋の手前から再び綺麗な遊歩道が現れます。新豊橋の名前からは、近くに豊橋があって、それと別に架けられたので新豊橋としたのかと思ったのですが、橋の北岸が足立区新田で南岸が北区豊島なので、両岸の地名にちなんで名づけられたとのことです。平成19年(2007年)に供用が開始されたとのことですので、隅田川に架かる橋の中では一番新しいかも。新田地区には高層マンションが建ち並んでいますが、ここは近年工場の跡地を再開発し、ハートアイランド新田という大規模高層住宅街に変貌させたとのことです。
隅田川が蛇行して180度向きを変える豊島橋の先に、荒川に架かる優雅な五色桜大橋が見えます。世界初の2層構造のダブルデッキニールセンローゼ橋だそうで、上層部が内回りで下層部が外回りになっています。首都高中央環状線が川口線とトライアングル状に分岐する地点に架かっているのと、橋が上下2車線に分かれているので遠望すると美しい構造に見えるのです。尚、橋名に「五色桜」が付けられているのは、この付近の荒川堤一帯がかつて五色の桜が咲く名所だったことに因んでいます。
遊歩道の川沿いに水草が生茂る小さな一画があります。ワンドというそうですが、初めて目にする言葉でどういうものなのか全くわかりません。案内板には次のような説明文が書いてありました。
東豊島公園のワンドについて
この水辺は、隅田川水辺の自然環境の回復を願って北区が整備したものです。また、荒川・隅田川の水辺全体の中で生きものが移動し生きていくための、大きな自然のネットワークの一部になっています。岸辺に沿って入江状になった水辺は一般的にはワンド(湾処)と呼んでいます。このワンドは、潮の影響を受けた隅田川の水位が日々変化することによって形成された干潟を特徴としています。干潟には、フトイ・ヒメガマ・ヨシ・オギなど水辺に適した直物が繁茂します。また、クロベンケイガニ・ゴカイなど多くの生き物が生息します。これらの植物・底生生物を求め、コガモ・イソシギ・コサギなどの水鳥もやってきます。
豊島橋の先で側道がなくなり、暫く川筋を離れて路地を巡ります。突然、川に出会います。隅田川に戻ったのかと川沿いに歩き出したのですが、どうも様子が違うことに気が付きました。なんと、この間歩いた石神井川が隅田川に合流する手前の新堀橋に来ていたのです。そのまま歩いて行けば王子方向に行ってしまうところでした。
新堀橋を渡って隅田川の側道に戻りたいのですが、石神井川の帰りにも道に迷ったように、堀船界隈は工場や住宅が混在し、路地も入り組んでいてどこを歩いているのかよく分かりません。巡り巡って福性寺というお寺の脇の細い通路を通り抜けて白山神社のある小さな公園に出ますと、隅田川に通じる堀船周回ロードという緑道があります。その脇に案内板が立っています。
梶原の渡船場跡
この奥の隅田川沿いには、明治・大正・昭和にかけて、対岸の宮城村(足立区)との間を結ぶ渡船場(とせんば)がありました。明治四十一年(一九〇八年)、現在のキリンビール東京工場の敷地に下野紡績の工場ができ、対岸からも人々が工場へ通勤するようになりました。そこで、両岸の梶原・宮城地区の住民有志が出資して造った船の発着場が、この梶原の渡船場です。子供の頃から父親とともに、船頭をしていた方の話によると、最初、運賃は大人一銭・子供五厘・荷車一銭五厘・自転車一銭だったそうで、この渡しができたことで、地域の住民の交通の便が非常に良くなりました。また、荷車という運賃があるように、駒込にあった市場に野菜を出すための交通路としても利用され、毎日十五台以上が隅田川を船で往復していたそうです。第二次世界大戦中には、足立方面などに軍需工場が多くなり、工場へ通う通勤者の行き帰りの足として混雑したそうですが、交通手段の整備とともに、渡しが使われることも少なくなり、昭和三十六年(一九六一年)、その姿を消しました。
堀船周回ロードから隅田川の側道に復帰しました。向こう岸を見ますと、石油精製塔のような巨大なプラントが見えます。こんな内陸に石油の精製工場?と思ったのですが、東京都の下水道局みやぎ水再生センターとのことです。水の再生にそんな巨大なプラントが必要なんですかね?
再び隅田川沿いに遊歩道が現れます。土手の上も歩道になっていて、桜並木(?)が続いています。遊歩道には柳の木も植えられています。
右手に巨大な観覧車が見えます。あらかわ遊園に設置された大観覧車のようです。動いている気配はありません。敷地はぐるりと工事用の鋼板で囲われています。あらかわ遊園は23区で唯一の公営遊園地だそうで、現在は2021年夏頃の再オープンを目指してリニューアル工事を進めているそうです。豊島園みたいに閉園しなくて良かったです。
尾久橋が見えてきました。平行して舎人ライナーの鉄橋も架かっています。舎人ライナーは、荒川区の日暮里駅と足立区の見沼代親水公園駅を結ぶ案内軌条式鉄道(AGT)路線で、都営の新交通システムになります。
尾竹橋の手前で遊歩道はフェンスで行く手を阻まれます。
尾竹橋の先は川添いの道があったりなかったりで、住宅地の中の路地を歩きます。荒川区立第五中学校の校門の横に見慣れない表題の案内板が立っています。ハンノキって朝鮮語かなと思ったのですが、れっきとした日本語のようです。
ハンノキ山
区立第五中学校(町屋一―三七)から都下水道局の町屋ポンプ所にいたる、隅田川に沿った一帯はかって「ハンノキ山」と呼ばれた。ハンノキとはハリノキの変化した語。元来山野の湿地に生育する落葉高木で、高さ十五メートルほどになる。隅田川沿岸のハンノキノ林は、護岸を目的に江戸時代に植えられたともいわれる。昭和の初めころまで、この付近には数十本のハンノキが残っていた。小川や水溜まりには小魚やカニ、蛙といった生き物がたくさんおり、子供たちにとっての格好の遊び場だった。
五中の先に、三河島水再生センターの広大な敷地が広がっています。大正11年(1922年)に稼動を開始した日本で最初の近代的な下水処理場だそうです。敷地面積は20万平方メートルにも及んでいます。処理水は隅田川に放流しているそうです。
千住大橋にやってきました。アーチの上には「大橋」とだけ書いてあります。江戸時代初期には隅田川に架かる大橋はひとつしかなかったのですが、今の橋が出来た時には既に他の大橋もあった筈なんですけど。一番古い橋ということで敢えて橋のプレートには千住の名を冠しなかったのでしょう。でも、道路標識は千住大橋となっています。橋の袂には立派な石碑が置いてありました。ただ、表面がツルツルで文字も薄いために読みづらいのなんの。
千住大橋
千住大橋は「千住の大橋」とも呼ばれている。最初の橋は、徳川家康が江戸城に入って四年目の文禄三年(1594年)に架けられた。隅田川の橋の中では一番先に架けられた橋である。当初はただ「大橋」と呼ばれていたが、下流に「大橋」(両国橋)や新大橋がつくられてからは千住の地名を付して呼ばれるようになった。江戸時代の大橋は木橋で、長さ六十六間(約百二十メートル)、幅四間(約七メートル)であった。奥州・日光・水戸三街道の要地をしめて、千住の宿を南北に結び、三十余藩の大名行列がゆきかう東北への唯一の大橋であった。松尾芭蕉が奥州への旅で人々と別れたところもここである。現在の鉄橋は、関東大震災の復興事業で昭和二年(一九二七年)に架けられ、近年の交通量の増大のため、昭和四十八年(一九七三年)、新橋がそえられた。
荒川区の案内板も立っています。
千住大橋
文禄三年(一五九四年)、徳川家康が江戸に入った後、隅田川に初めて架けた橋。架橋工事は伊奈備前守忠次が奉行を務めたが、工事は困難を極めた。忠次が熊野神社(南千住六丁目)に祈願したところ、工事は成就し、以来橋の造営の度に残材で社殿の修理を行うことが慣例となったと伝えられる。また、この架橋を機に、江戸中期まで行われていた小塚原天王社(現素盞雄神社)天王祭の神事「千住大橋綱引」が始まったという。当初は今より、二〇〇メートル程上流に架けられた。単に「大橋」と呼ばれたが、下流にも架橋されると「千住大橋」と称されるようになったと伝えられている。千住大橋は、日光道中初宿、千住宿の南(荒川区)と北(足立区)とを結び、また、江戸の出入口として位置付けられ、多くの旅人が行き交った。旅を愛した松尾芭蕉もここから奥の細道へと旅立ち、真山青果の戯曲「将軍江戸を去る」では、最後の将軍徳川慶喜の水戸への旅立ちの舞台として表現されている。現在の鋼橋は、昭和二年(一九二七年)、日本を代表する橋梁技術者増田淳の設計により架け替えられた。ブレースドリブ・タイドアーチ橋の現存する最古の例である。「大橋」のプレートは、四〇〇年にわたる千住大橋の歴史を伝えている。
(絵)千住の大はし「名所江戸百景」(荒川ふるさと文化館蔵)
荒川区俳句のまち宣言
「行春や鳥啼魚の目は泪」
(注)春が過ぎ去ってしまうことに鳥は鳴いて悲しみ、魚の目には涙が浮かんでいるの意。
元禄二年3月、この句を矢立初めの句として、松尾芭蕉はその生涯をかけ「奥の細道」へと旅立ちました。芭蕉が渡った千住大橋は江戸と東北の地を結び、私たちを俳句の世界へといざなう大橋として、昔もいまもこれからも隅田川に架かります。私たちの暮らすまちには人々が行き交い、芭蕉の想いと四季折々の美しさに導かれ、子規が一茶が山頭火がこの地で俳句を詠みました。「五・七・五」17文字の無限に広がる世界の中で、私たちは思いを伝える力をもちます。新しいものを創りだす力をもちます。世界中の人たちと心を結ぶ力をもちます。荒川区は、俳句の魅力を次代につなぐ架け橋として、子どもから大人まで俳句文化のすそ野をひろげ、豊かな俳句の心を未来に伝えることを誓い、「俳句のまち あらかわ」を宣言します。
日暮れには未だ早いのですが、この先電車に乗るには浅草まで歩かなければなりません。今日は千住大橋で隅田川の歩きを中断することにします。次回は河口まで歩くのですが、隅田川の河口はどこかというのがまた難題。ネットで調べてもどこにも書いてないのです。ま、自分で見て決めるしかないですね。
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