隅田川コース(2―1)  

コース 踏破記  

ここのところお天気に恵まれずお散歩は控えていましたが、今日は曇り空ながら雨は降らなさそうなので隅田川の後半区間を歩きたいと思います。先日の中断地点である千住大橋にやってきました。



千住大橋の近辺はくまなく見たと思っていたのですが、ひとつ案内板を見落としていました。隅田川(当時の荒川)は水運の要だったんですね。

千住の河岸

江戸時代、千住大橋袂の河岸には、秩父から荒川の水運を利用して運ばれてきた材木を取り扱う家が並んだ。古くからこの地で材木商を営んできた旧家に伝わる文書(「両岸渡世向書物」荒川区指定文化財)からは、これら千住の材木商が農業の合間を利用して材木を取り扱うようになったことにはじまり、それが材木問屋に発達するに至った経過などがうかがえる。材木問屋は、千住大橋袂の熊野神社門前に多く、江戸への物資集散の拠点となるに至った。熊野神社には、弘化二年(一八四五年)、千住の材木商が寄進した手洗鉢(荒川区登録文化財)や常夜灯が残り、材木商たちの信仰の一端をうかがい知ることができる。これらの材木問屋は、江戸時代の千住宿や近代以降の南千住の発展に大きく寄与した。




千住大橋から先、暫くは川沿いの側道はありませんので、マンションと倉庫が建ち並ぶ路地を通って行きます。二股路のところに小さな神社が建っています。境内には、恐らくは日本で唯一と思われる虫歯の痛みに耐えかねて切腹した武士の祠があります。お腹を切らずに虫歯を抜けば済んだと思うのですが。

山王清兵衛(日枝神社)

日枝神社は、江戸時代山王社とよばれた旧中村町(千住宿)の鎮守であり、正和五年(1316年)に建てられたと伝える。この社の入り口にあたる旧砂尾堤土手北端に歯神清兵衛を祀った小祠がある。いずれかの藩士清兵衛が虫歯の痛みに耐えかねてこの地で切腹し、遺言によってその霊を祀ったという。俗に山王清兵衛とよばれ、歯痛に悩む者が祈願して効き目があれば、錨をくわえた女性の絵馬を奉納する慣わしで、千住の歯神として有名であった。




神社の左手の隅田川の堤防に沿った細い道を進みます。堤防が高くて隅田川は全く見えません。



常磐線・つくばエクスプレス・日比谷線の鉄橋下を抜けた先から遊歩道が始まります。白鬚橋まで続く整備された綺麗な遊歩道です。汐入公園の桜並木はお花見シーズンには大勢の家族連れで賑わいます。

隅田川の堤防を歩きながら、水辺に親しみ、花や緑や水鳥など自然を楽しむ、白鬚橋折り返しの往復4.6km(約7,700歩)のコースです。



遊歩道の入口手前には千住検車区があり、日比谷線の車両が所属している東京地下鉄(東京メトロ)の車両基地になっています。日比谷線の南千住駅行きの電車はこの車庫に入庫します。オフピーク時にずらりと並んだ電車を見るのは壮観ですよ。



遊歩道は土手の上の歩道と隅田川テラスのふたつがあります。テラスにはカラフルなタイルが敷き詰められていて、間近に川面を眺めながらの散策は気持ちがいいですね。



かって、東京製鐵の千住工場があった跡地にアメージングスクエアという遊園地があったそうですが、そこに隣接して千住関屋ポンプ所が造られています。何年か前には巨大クレーンが林立していましたが、既に主要な工事は終わっているみたいです。浸水被害から街を守るための雨水ポンプ所だそうで、隅田川幹線というシールドトンネルを掘り、下水管に流れ込んだ雨水を一時的に貯留して、たまった雨水を千住関屋ポンプ所に送って隅田川に放流する仕組みになっています。遠くから眺めると何もないように見えますが、地下では壮大な工事が行なわれていたんですね。



遊歩道の中程に水生植物が繁茂している一画があります。上流でも見たワンズですね。河岸に植えてある場所もありますが、ここでは遊歩道の一画をワンズにしているようです。



岩淵水門から歩いてきて初めて隅田川の距離標識を見つけました。上流から下流を見て右側が右岸・左側が左岸なので、ここは右岸で確かに合っています。全長が23.5kmですから、未だ半分も来ていないことになります。



遊歩道の先に橋が見えてきました。千住汐入大橋という橋名で、隅田川に架かる24番目の橋として平成18年に開通しました。この場所は、かって「汐入の渡し」が行き交い、荒川区と足立区を結ぶ交通の要となっていました。遊歩道は橋の下を潜って延びています。



隅田川が東から南に大きくカーブした先に水神大橋が架かっています。橋の名前は、対岸にある「隅田川神社(水神宮)」に因んでいます。もともと「水神の渡し」という渡船場があった場所でもあります。橋の創架は平成元年(1989年)3月です。橋の組み立てを陸上で行い、橋桁を台船に乗せて干満の差を利用して橋脚に乗せるという方法を利用しました。水神橋の手前の河川敷には、「水害防止」のためにかつては隅田川の水面と人との関わりを阻んでいた旧防潮堤(カミソリ堤防)の一部が残されています。このあたりは、通称である「汐入」という地名のごとく、ゼロメートル地帯で水害に悩ませられていました。今でも、土手を造る十分な土地が確保できないところでは同じようにしていますけどね。



隅田川から水を引き込んだ入り江に架かっている橋が瑞光橋です。この辺りには、かつて運河があり、水門の一部がモニュメントとして残っています(見落としました)。



明治通りの手前に巨大なガスタンクが三基並んでいます。かってはこの地でガスを製造していたそうですが、今はどこから入ってくるのでしょうか?私は都市ガスは海外から輸入された天然ガスをそのまま使っているものとばかり思っていました。



隅田川に架かる明治通りの橋が白鬚橋(白髭橋ではありません)です。後述の2番目の隅田川テラス周辺案内図に解説が載っています。



橋の袂に2つの案内板が立っていました。

橋場の渡し

対岸の墨田区寺島とを結ぶ、 約百六十メートルの渡しで、「白鬚の渡し」ともいわれていた。「江戸名所図会」によると、古くは「隅田川の渡し」と呼ばれ、「伊勢物語」の在原業平が渡河した渡しであるとしている。 しかし、渡しの位置は、幾度か移動したらしく、はっきりしていない。大正三年(一九一四年)に白鬚木橋が架けられるまで、多くの人々に利用された。

対鴎荘跡

隅田川畔の橋場一帯は、風光明眉な地であり、かつては著名人の屋敷が軒を連ねていたという。対鴎荘もそのひとつで、明治時代の政治家三条実美(一八三七年〜一八九一年)の別邸であった。「征韓論」をめぐって、政府内に対立が続いていた明治六年(一八七三年)の十月、太政大臣の要職にあった実美は心労のあまり病に倒れ、この別邸で静養していたが、同年十二月十九日明治天皇は病床の実美を気遣い、この邸を訪れている。隣の碑は、この事跡を顕彰して、のち対鴎荘の所有者となった一市民の尽力によって建立されたものである。高さ三メートル余。側面に「昭和六年歳次辛末五月建之石井久太郎」、裏面に「多摩聖蹟記念館顧問中島利一郎謹撰 上条修徳謹書」の碑文が刻まれている。対鴎荘は、昭和三年(一九二八年)、白鬚橋架橋工事に伴い、多摩聖蹟記念館(多摩市連光寺)に移築された。


(注記)対鴎荘の「鴎」の字は当て字です。本当の文字はUnicode形式になるので便宜的に「鴎」の文字を使いました。



隅田川テラスには場所毎に近辺の名所・旧跡を解説した案内板が置かれています。全部で幾つあるか分かりませんが、できるだけ紹介してみたいと思います。先ずは、白鬚橋の袂にある隅田川テラス周辺案内図です(多分、これが上流から数えて最初の案内板と思います)。

◆隅田川テラス

隅田川では河川テラスを順次整備しています。この河川テラスを歩くと、勝鬨橋から白鬚橋まで隅田川を眺めながら散策することができます。川沿いには、江戸東京の歴史や文化を今なお残している町があり、テラスを歩くと、今まで知らなかった隅田川のすばらしさ、なつかしい面影に出会うことができるかもしれません。この付近には、重厚な雰囲気を漂わせる鳥居が目印の石濱神社があり、白鬚橋の対岸には向島百花園があります。

◆白鬚の渡し

“白鬚の渡し”は、白鬚橋のたもとのところにあった“橋場の渡し”から少し下流にあった渡しです。白鬚橋は隅田川に架かっている他の大橋の中でも、歴史的に比較的新しく、大正の初期木橋で架かっていました。ただし無料ではなく、渡橋料として一銭・二銭を支払ったところが変わっていました。白鬚橋架橋によって、“橋場の渡し”はまもなく廃止になり、白鬚の渡しも同様に廃止となりました。




白鬚橋西詰交差点を渡って隅田川沿いの側道を進んだ後、階段を降りてテラスに入ります。ここから両国橋袂まで快適なテラス歩きが続きます。早くも2番目の隅田川テラス周辺案内図がありました。

白鬚橋

白鬚橋の“白鬚”は地名ではなく向島の鎮守・白鬚神社に由来しています。一説ではこの橋がはじめて架けられたのは治承4年(1180年)、源頼朝が旗揚げした時で、“江戸太郎・葛西三郎”に命じて数千の舟を集めさせてこの近くに架けさせた船橋とのことです。初代の木橋は、大正3年(1914年)土地の人々が基金を集め「白鬚株式会社」を資本金10万円で創設し架けた有料橋でした。現在の橋は昭和6年(1931年)に架けられた鋼橋で、骨太な感じは永代橋と似通っていており、重量感があります。

橋場不動尊

不動明王を祀る“橋場不動尊”は、宝亀4年(773年)に寂昇上人が不動尊像を携え上総国へ向かう折、この地で不動明王の夢告を受け、安置したのが起源とされています。現在の本堂は江戸時代に再建されたもので、歴史を感じさせる外観と周囲の静けさとが相まって、何とも言えない雰囲気をかもし出しています。また、浅草名所七福神巡りの一つとして、中国唐の時代の実在の禅僧であり、弥勒菩薩の化身とされた布袋尊が祀られています。




隅田川の護岸を利用して様々な展示がなされています。隅田川ウォールアートギャラリーというのだそうです。壁面を一杯に使って3枚の絵が並んでいます。

このウォールアートギャラリーは、江戸東京博物館所蔵の「錦絵」を利用して、江戸から昭和初期に至るまでの浅草北部地域(主に今戸周辺)の文化や町並みを主に展示しています。桜橋の船着場付近から上流側の階段付近にかけて、展示作品が制作された年代順に展示しています。



桜橋の手前に3番目の隅田川テラス周辺案内図があります。

早慶レガッタ

隅田川早慶レガッタは、明治38年(1905年)に始まる伝統のボートレースで、河川の汚濁により17年間中断されていましたが、昭和53年(1978年)に復活しました。レースは早稲田・慶応の各クルーが参加し、両国橋から桜橋間の3,000mのコースで、毎年4月中旬に行われます。

橋場の銭座

“橋場の銭座”は、寛永13年(1636年)に開業し、一時中断しましたが天保6年(1835年)以降は天保通宝を鋳造していました。近くの石浜神社付近に移転した後も、大阪造幣局ができるまで引き続き天保通宝(明治20年頃まで使用した)を鋳造していました。




桜橋の袂に4番目の隅田川テラス周辺案内図があります。

桜橋

桜橋は、台東区今戸と墨田区向島との間で、隅田川両岸の“隅田公園”を結ぶ、隅田川では最初の、そして唯ーの歩行者専用橋です。橋は昭和60年(1985年)、隅田公園の施設の一つとして、台東区と墨田区の共同事業で架けられました。形状は平面のX字形の特異な形をしています。花見のシーズンには、両岸の桜を楽しむ多くの人がこの橋を渡ります。

待乳山聖天(まつちやましょうでん)

浅草寺の北、隅田川沿いの小高い丘に立つ“待乳山聖天”は、歴史の古い由緒あるお寺です。縁起によると推古天皇9年(601年)、十一面観音が大聖尊歓喜天に化身し、干ばつにより苦しみ喘いでいた人々を救ったことから、「聖天さま」として祀ったのが起源とされています。待乳山聖天の立つ小丘は、江戸時代には東都随一の眺望の名所とされ、多くの浮世絵や詩歌などの題材となりました。また、浅草名所七福神巡りの一つとして、仏教世界の四天王の一人である毘沙門天が祀られています。




リバーサイドスポーツセンターの横手に水門の跡らしき構造物が残っています。ちょうど山谷堀公園の延長線上にあって、かつて存在した山谷掘の河口ではないかと推測されます。山谷掘は、江戸初期に荒川の氾濫を防ぐため、箕輪(三ノ輪)から大川(隅田川)への出入口である今戸まで造られました。現在は埋め立てられ、日本堤から隅田川入口までの約700mが台東区立の「山谷堀公園」として整備されています。



吾妻橋の手前に5番目の隅田川テラス周辺案内図があります。

吾妻橋

吾妻(あづま)の名は、古来、東国・関東地方を総称するアズマの語に由来しています。また立花の吾嬬神社にもゆかりをもっています。もとは“竹町の渡し”のあったところで、安永3年(1774年)に住民によって有料の橋が架けられ、大川橋と呼ばれていましたが、後には吾妻橋と通称されました。明治9年(1876年)には、吾妻橋を正式の名称とし、その後明治20年(1887年)に鉄製のトラス橋として完成しました。現在の橋は、昭和6年(1931年)に架け替えられました。

船祭(三社祭)

“船祭”というのは、昔の浅草の“三社祭”のことで、“観音祭”ともいわれました。今の三社祭も隅田川のすぐ傍で行われていますが、昔の三社祭の船祭は、その名の通り神輿を舟に乗せて隅田川を漕ぎ上がったので隅田川が舞台でした。丑・卯・巳・未・酉・亥の一年おきが本祭で、正和元年(1312年)から、三社の神話にもとづき、船祭が始められたといわれています。この船祭は江戸末期まで続きますが明治に入って廃絶し、明治5年に再開され近年は5月17・18日に近い金、土、日曜日に祭礼を行い、氏子各町に神輿の渡御を行うようになりました。




吾妻橋の手前に隅田川クルーズ船の船着き場がありますが、ここから眺めるスカイツリーはベストビューポイントと思います。スカイツリーの左側には墨田区役所の建物、右側にはアサヒビールの本社社屋とホール棟と、構図が抜群です。アサヒビール本社社屋は、形や色がビールジョッキになっています。金色の液体に泡がモコモコしている様子はまさしくビールです。ホール棟の屋上にある金のオブジェは、“アサヒビール社員の燃える心”をイメージした「金の炎」だそうです。フランス語では「フラムドール」というのだとか。何も知らない観光客は絶対にそうとは思わないですよね。下の黒い部分は「聖火台」だそうで、そこはビアレストランになっており、キンキンに冷えた工場直送ビールをいただけます。私も頂いたことがあります。飲み比べセットがお得ですよ。



以前は隅田川の右岸テラスは吾妻橋の手前で途切れていましたが、最近(2016年頃開通?)吾妻橋の下に人道トンネルが出来て、おまけにその先にもテラス新設されています。浅草には何度も行ったのですが、全く気が付きませんでした。



吾妻橋の下を抜けたところに、6番目の隅田川テラス周辺案内図があります。

雷門 大提灯

左右に風神、雷神を祀ってあることから風雷神門と呼ばれていましたが、いつの頃か略して“雷門”と呼ばれるようになりました。広重の錦絵に描かれた雷門は寛政7年(1795年)に建造されたものですが、慶応元年(1865年)に焼失し、 その後長い間再建されませんでした。昭和35年、95年ぶりに松下幸之助の寄進によって再建されました。風神、雷神像の頭部は、慶案年間(1648年〜1652年)の作で、胴以下は明治8年(1875年)に補刻されたものです。昭和53年(1978年)の開帳1350年を記念して、門の裏側に平櫛田中作の天竜、金竜の二神が安置されました。




吾妻橋のすぐ先のテラスに赤いレンガ壁を背にした水のオブジェがあります。都営地下鉄浅草線内からの湧き水を流しているのだそうです。月平均2万立方メートルの水量だといいますから、隅田川の水がトンネル内に漏れているのかも。尚、レンガ壁には「都営地下鉄構築物河底横過標識」というプレートが埋め込んであり、都営地下鉄浅草線が隅田川の川底深くを通っていることを示しています。



駒形橋の先に7番目の隅田川テラス周辺案内図があります。

駒形橋

駒形(こまがた)の名は、浅草寺に属する駒形堂に由来します。土地の人々によれば、コマカタは清く発音してコマガタと濁らないと伝えています。ここは古来より交通の要地で、“駒形の渡し”のあったところです。江戸の巷説に有名な「君はいま 駒形あたり ほととぎす」の句は、文芸・美術などの上で、駒形堂とともに、この辺りの雰囲気を伝えるものです。関東大震災の後、復興事業の一環として、この地に新しく優美なアーチ橋が設計され、昭和2年(1927年)に完成しました。

駒形堂

“駒形堂”は宝形土蔵造りで、昭和8年(1933年)に再建され、さらに平成15年に再再建されました。本尊馬頭観世音菩薩は、藤原末期の木彫と伝えられ、慈覚大師の作と言われています。お堂は元禄の頃には隅田川に向かって建っていましたが、その後川を背に建てられ現在に至っています。お堂の前は船着き場で、多くの参拝者は、駒形堂に上陸してから浅草寺に向かったと言われています。江戸の古地図には“駒かけ堂”と記されたものが多くあり、江戸っ子は「こまんどう」と呼んでいました。




隅田川には多くの屋形船が係留されていますが、とある係留所の前に立っていた看板には「東京で一番美しく隅田川・スカイツリー・屋形船がみえる処」と書いてありました。スカイツリーだけでなく、屋形船の入っているところがミソですね。



厩橋の手前に手書きの案内板がありました。

うまやの渡し跡

江戸時代は幕府の政策により橋の数が少なく、かわりに各所に「渡し船」がありました。ここには、「うまやの渡し」があり、多くの人々を渡しました。春のお花見の頃は「墨堤の桜」を見に行く多くの人々が利用しました。




厩橋の袂に8番目の隅田川テラス周辺案内図があります。

厩橋

台東区蔵前と墨田区本所の間で、春日通りが隅田川を渡る橋です。この橋の創架は明治7年(1874年)で、それまでこの付近にあった“御厩(おんまい)の渡し”に代わって架設され、隅田川では6番目の橋となりました。厩橋の名称は御厩の渡しからきていますが、厩とは馬屋のことで、この一帯には幕府の御米蔵があり、専用の厩があったことから御厩の名称が使われるようになりました。現在の厩橋は昭和4年(1929年)に震災復興橋梁として架設されたものです。親柱には馬をデザインしたステンドグラス風のガラス細工が組み込まれているほか、橋の各所に「既」にまつわるオブジェが配されています。

石川雅望墓

石川雅望(1753年〜1830年)は江戸後期の国学者、狂歌師です。旅館槽屋七兵衛こと浮世絵師石川豊信の子として生まれ、六樹園、五老斎などと号しました。国学を津村淙庵、狂歌を太田南畝らに学び、狂名を宿屋飯盛といいました。天明年間に狂歌檀に台頭し、狂歌四天王に数えられます。「源註余滴」や「雅言集覧」を著し、「(百人一首)古今狂歌袋」などの狂歌絵本や「万代狂歌集」などの狂歌撰集の他「草まくら」などの紀行文もあります。石川雅望の墓は、榧寺(正覚寺)地内にあり、都の旧跡に指定されています。




テラスの手摺りに沿って何枚かの案内板と錦絵や浮世絵が展示されていました、最初は「力持」です。尚、御蔵前八幡宮(※蔵前神社のこと)は、勧進相撲の発祥の地とされています。

御蔵前八幡宮ニ於而 奉納力持

この錦絵は、文政7年(1824年)の春に、御蔵前八幡宮(現・蔵前神社、旧・石清水八幡宮)で行われた「力持」の技芸の奉納を描いたもので、作者は初代歌川豊國門下の三羽烏と言われた歌川國安(1794年〜1832年)です。素人の力持は文化後期より流行し、この浮世絵が描かれた頃に絶頂期を迎えたように素人の力持を称える文化がありました。左の絵の「大関金蔵」は、当時有名な素人の力持で、神田明神下の酒屋・内田屋の金蔵と思われます。これらの錦絵は、奉納力持の記念として制作されたものですが、絵の中に当時の日本酒の銘柄が入った酒樽が描かれていることから、これら3枚の錦絵は、そのまま宣伝用のポスターとして使用されたのではないかとも言われています。また、この奉納力持が開催された御蔵前八幡宮は、天保4年(1833年)に本所回向院が定場所となるまでは、回向院、深川八幡と共に、勧進大相撲が行われた3大拠点の一つでした。この場所では幾多の名勝負が繰り広げられ、なかでも天明2年2月場所では、63連勝中の谷風梶之助が小野川喜三郎に敗れ、江戸中が大騒ぎとなりました。




続いては、「御馬屋河岸の渡し」です。

榧寺の高灯籠 御馬屋河岸乗合

現在の厩橋は江戸時代には無く、渡し舟により人々が行き来していました。この浮世絵では、御厩川岸の渡しと呼ばれた風景を描写しています。対岸は本所荒井町・番場町あたりで、手前は浅草黒松町か諏訪町となります。渡し舟は後から乘った人から先に降りなければならず、一艘はこれから本所側を離れようとし、手前の舟は間もなく浅草側に到着しそうな情景となっています。この渡しの目印は榧寺の盆名物の高燈籠で、仏となった者は燈籠を目印に帰ってくることから高く掲げた方が良いとされていました。御厩川岸の渡しはいつも満員で転覆することもあったため、別名「三途の渡し」と呼ばれていたようです。なお、この浮世絵には江戸時代の雰囲気を詠った2つの狂歌が示されています。右の絵の句は、目印となった高燈籠を詠み、左の絵の句は、渡し舟の様子を詠っています。

 志けりあふ色も萌黄能かや寺に 火燭と見ゆる燈籠乃影
(繁りあう色も萌黄の榧寺に 火燭と見ゆる燈籠の影)

 ろ能おとに雁こきませてわ多し舩 あとの可先へあかるのり合
(櫓の音に雁こき混ぜて渡し船 後のが先へ上がる乗合)




<<写真多数のため、隅田川コース(2―2)に続きます。>>




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