- 隅田川コース(2―2)
- コース 踏破記
- <<隅田川コース(2―1)の続きです>>
続いては、「首尾の松の鉤船 椎木の夕蝉」です。
首尾の松の鉤船 椎木の夕蝉
首尾の松とは、御米蔵の4番堀と5番堀の中間にあった枝ぶりの良かった松の木のことです。江戸時代は、吉原へ舟で行くことが粋とされ、吉原帰りの客が昨晩の首尾(物事のなりゆき、結果)を思い出す所、吉原に向かう客が今宵の首尾を思い描く所でした。また、吉原往還の目印のほか、釣りの穴場としても有名でした。このほか、浮世絵には大川の対岸に瓦屋根を葺いた平戸新田藩の上屋敷(現:同愛記念病院)の椎の巨木が描かれています。また、左の絵の松の枝辺りには、入堀に架かる石原橋や辻番屋、三河国拳母藩内藤家の下屋敷も描かれています。なお、この浮世絵には江戸時代の雰囲気を詠った2つの狂歌が示されています。左の絵の句は、美しい松と釣りをする美しい女性を掛けた句となっています。右の絵の句は、椎の巨木に蝉が往く夏を惜しむように鳴いている様子を詠っています。
美し佐松者千と世越延あ可里 延阿可り見類舟能たをやめ
(美しさ松は千歳を延上がり 延上がり見る舟の女)
時ま多記見あくる椎乃青空に とこ路定め須蝉の志くるゝ
(時跨ぎ見上げる椎の青空に 所定めず蝉のしぐるる)
蔵前橋の手前の橋の袂に9番目の隅田川テラス周辺案内図があります。
首尾の松
浅草御蔵の四番堀と五番堀のあいだの隅田川岸に、川面にさしかかるように垂れていた「首尾の松」がありました。その由来については、以下の諸説があります。現在の厩橋は昭和4年(1929年)に震災復興橋梁として架設されたものです。
- 寛永年間に隅田川が氾濫したとき、3代将軍家光の面前で謹慎中の阿部豊後守忠秋が、人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り見事対岸に渡りつき、家光がこれを賞して勘気を解いたので、傍らにあった松を「首尾の松」と称した。
- 吉原に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、途中この松陰によって「首尾」を求め語ったところからの説。
- 江戸時代、このあたりで海苔をとるために「ひび」を水中に立てたが、訛って首尾となり、近くにあった松を「首尾の松」と称した。
蔵前国技館跡
両国国技館(2代目)が造られるまで、東京での大相撲の本場所を開催していた場所です。2階建て建物の外観は純和風で独特の雰囲気のあるものでした。昭和24年(1949年)10月より建設を開始、翌年「仮設」のまま蔵前国技館として開館し、正式に完成したのは昭和29年(1954年)年9月のことで、昭和59年(1984年)までの30年間は、蔵前の街は大相撲のメッカとしての役割を果たしていました。やがてNHKによる大相撲テレビ実況中継も始まり、相撲史に残る数々の名勝負が繰り広げられるなど、蔵前国技館が使用されていた時代は、戦後の大相撲を大いに盛り上げた時代でもありました。跡地は現在、東京都下水道局の処理場と「蔵前水の館」になっています。
蔵前橋を越えた橋の袂に10番目の隅田川テラス周辺案内図があります。
蔵前橋
蔵前(くらまえ)の名は、幕府の御米蔵がこの地にあったことに由来します。その蔵の前の地というのが地名になりました。この御米蔵は、元和6年(1620年)に大川(隅田川)端を埋め立てて建てられましたが、幕末には67棟もの蔵が建ち並んでいたといいます。 大震災復興事業の一環として、新しい構造の橋が昭和2年(1927年)に完成して、今に至っています。橋詰めには“首尾の松”と彫られた石碑と松が植えられています。
浅草御藏跡
この区域は、今の蔵前橋を中心に柳橋2丁目4番から厩橋手前に至る一帯で、敷地約12万平方メートル、弘化年間(1844年〜1848年)には67棟、356戸あったといわれています。ここで収納された米は旗本、御家人への支給米や、幕府の非常備蓄米で勘定奉行支配下に置かれました。御蔵の8筋の掘割は大正初期までありましたが、その後護岸工事のため埋められていました。 蔵前橋西詰に浅草御蔵跡碑があります。
蔵前橋の先のテラスに水門らしき構造物と排水口の上に架かっているのでしょうか赤い欄干の小さな橋がありました。近くに神社は見当たりませんが、これは何でしょうか?
総武線の鉄橋が見えてきました。川面にはガラス張りの水上バス、鉄橋には電車、高速道路には車、絵になりますね。
両国橋の手前で神田川が合流します。そのため、一旦テラスから上がって神田川に架かる柳橋を渡ります。現在の橋の名称は柳橋ですが、かっては浅草柳橋という橋名でした。案内板の隣には石塚稲荷神社があります。表札に「火伏神」とありますが、これには次の言い伝えがあります。「昔、稲荷大神のお告げにより堀井戸から宝石が出てきたので、この稲荷社を創建したと云われる。火除けの神様の火伏神の名前が付けられた由来は、元々浅草御蔵前元旅籠町に鎮座していたが、浅草御蔵火除御用地に召し上げられ現地に移されたことによるもの。」とのことです。戦後に柳橋料亭組合と柳橋芸妓組合などが寄進して再建されました。
旧浅草柳橋
いくつかの町が整理統合され、昭和九年に誕生した。町名の由来は、神田川の隅田川合流点近くに「柳橋」と称する橋があったのにちなんだ。柳橋の名は、江戸中期の頃から花街として人によく知られ、橋のほとりには船宿が並んで販わっていた。ひところは、料亭および芸者衆も多く、隆盛を誇つたものである。「柳橋」は、元禄十一年(一六九八年)に初めて架けられた。その当時は、川口出口之橋と呼ばれていたが、橋のほとりに柳が植えられていたことから、いつしか柳橋と呼ばれた。現在の橋は、昭和四年に架けられたものである。
柳橋を渡って再び隅田川テラスに降ります。直ぐ先に両国橋が架かっています。親柱の上の丸い石のモニュメントが独特です。地球儀を模したものだそうです。両国の橋名は、最初に架けられた当時、武蔵国と下総国のふたつの国をつなぐ橋という意味から付けられたそうです。地球儀に四角い帯が巻き付いているのは、地球儀に描かれた国と国をつなぐ橋の意味もあるようです。
両国橋の先に11番目の隅田川テラス周辺案内図があります。
両国橋
両国橋の名は、武蔵と下総の二国を結ぶ橋であることからこう呼ばれましたが、正式にはただの“大橋”でした。しかし、新大橋などもつくられたため両国橋が正式の名となりました。明暦の大火(1657年)では橋がなく逃げられずに多数の死者が出たため、大火の後にこの橋が架けられました。回向院はその人々を弔うために建てられ、後に勧進相撲が催されることとなったのです。現在の橋は、昭和7年(1932年)に完成しました。
柳橋
“柳橋”は、神田川が隅田川にそそぐところに架設されたので、はじめは“川口出ロ之橋”あるいは近くに幕府の矢の倉があったことから“矢の倉橋”と呼ばれていました。明治維新後、柳橋は新橋とともに花街として東京を代表する場所になりました。現在の橋は昭和4年(1929年)に架け替えられた鉄橋です。昭和初期の震災復興計画の中で、耐震構造に配慮した周田川に架かる永代橋をモデルに建設されました。中央区では、平成3年度に傷んだ親柱を復元し、欄干は花街に因んで“かんざし”を飾り、歩道には御影石を貼って再生しました。
首都高6号向島線と首都高7号小松川線が分岐する直下に巨大な水門があります。堅川と隅田川を仕切る竪川水門です。
その先に浜町公園があります。土手に上がりますと、明治座が遠望できます。隅田川テラスの堤防の壁には、創建当時の明治座を描いた錦絵の巨大なレプリカが貼られています。菰樽と洋式の建物とのアンバランスが面白いですね。
浜町公園の脇に新大橋が架かっています。最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年(1694年)です。隅田川に架かった3番目の橋で、「大橋」と呼ばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられました。新大橋は関東大震災の際に隅田川の橋がことごとく焼け落ちる中で唯一被災せず、避難の道として多数の人命を救ったため、「人助け橋(お助け橋)」と称されています。水天宮の御神体もこの橋に避難して難を逃れたと言われています。
清洲橋の袂に12番目の隅田川テラス周辺案内図があります。
清洲橋
大正14年に起工、工費約300万円(当時)を費やして昭和3年3月に完成しました。長さ186.2m、幅25.9m。ドイツのライン河に架かる世界の美橋、ケルン市の吊り橋をモデルとして設計された優美で女性的な橋です。橋名は深川の清澄町と日本橋中洲町を結ぶ橋であることから、その町名の頭字を一字ずつとってこの名が付けられました。
平賀源内電気実験の地
平賀源内は江戸時代を代表する発明家であり、その名を聞くと「エレキテル」と反射的に頭に浮かぶ方も多いと思います。エレキテル(摩擦発電気)はオランダから日本に伝わったものですが、それを自作し実験を行ったことから、平賀源内の代表的な発明品として後世に知られるようになりました。平賀源内は深川の自宅にて電気実験を行ったことから、現在その跡地には電気実験の地の石碑が建っています。
隅田川大橋の手前に13番目の隅田川テラス周辺案内図があります。
隅田川大橋
隅田川大橋は、首都高速道路(9号線)と都道47号線が重なった2段構造の橋となっており、上段部分が首都高速道路の高架橋、下段部分がいわゆる“隅田川大橋”です。また、地下に東京地下鉄半蔵門線が通っています。昭和54年(1979年)に完成したこの橋は、京浜・京葉地帯を結ぶ湾岸道路に通じ、隅田川に架かる橋のうち唯一の2階建ての珍しい橋です。
水天宮
本来は水難除けの神として船乗りの守護神でしたが、現在では安産にご利益がある神社として有名です。総本社は福岡県久留米にあり、700年以上の歴史をもつ由緒ある神社です。もとは文政元年(1818年)に久留米藩主が江戸藩邸に水天宮を勧進したことにはじまります。現在地に移ったのは、明治新政府により久留米の江戸藩邸が接収された明治5年(1872年)のことです。関東大震災により社殿を焼失しました。現在の権現づくりの社殿は昭和42年に建てられました。
隅田川大橋の袂にもうひとつ、14番目の隅田川テラス周辺案内図があります。
スーパー堤防
大地震等に対して、より安全性を高め、水辺に親しめる環境が再生されるよう、土台の強化、コンクリート壁の切断、盛土などを行い、幅の広い緩傾斜型の堤防の整備を進めています。このうち、とりわけ規模の大きいものをスーパー堤防と呼んでいます。スーパー堤防や緩傾斜型堤防の整備にあたっては、広い用地を必要とするため、背後地の再開発事業等のまちづくりと一体となって整備を進めています。
日本銀行創業の地
明治15年10月日本銀行はこの地で開業しました。明治29年日本橋本石町の現在地に移転しました。本石町にある日本銀行本店本館は、辰野金吾の設計で、昭和49年国の重要文化財に指定されました。
日本橋川が隅田川に合流する先に緩やかな弧を描いた永代橋が架かっています。その手前の箱崎河岸緑道の一画に、江戸時代の橋の風景を描いた絵と説明文を付した案内板が置かれていました。
永代橋
元禄11年(1698年)に架橋された木造の水代橋は、現在の永代橋の場所よりも約150m上流のこの付近に架けられていました。橋名の由来は、当時このあたりが永代島と呼ばれれていたことからと名付けられたようですが、一説には五代将軍綱吉の50歳を迎えた記念として名を付けられたとも伝えられています。江戸時代には橋桁が高く取られたこともあり、橋上からは“西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総、限りなく見え渡り眺望よし”などといわれるほどの美しい景色が広がっていました。歌川広重が江戸後期に描いた「東都名所永代橋全図」には、隅田川河口のこの辺りに多数の廻船が停泊している様子がうかがえます。また、永代橋西詰のにぎわいとともに、幟が立つ高尾稲荷社へ参詣する入びとの姿などもみられ、詩情豊かな情景が描かれています。なお、永代橋が現在の場所に移されたのは明治30年(1897年)のことで、道路橋としては初めてとなる鋼鉄橋に生まれかわりました。その後、開東大震災で被災したため、大正15年(1926年)に現在の橋へと架け替えられました。上流に架かる清洲橋の女性約で優美な雰囲気とは対照的に、男性的で重厚感あふれる永代橋は、隅田川の流れとともに広く都民に親しまれています。
永代橋の袂に15番目の隅田川テラス周辺案内図があります。
永代橋
永代橋は、元禄年間に「深川の大渡し」に代わって架けられ、佐賀町付近(現在の佐賀一丁目付近)が昔、永代島と呼ばれていたため、永代橋と名付けられました。橋の両際には、広小路を設けて橋番屋が設けられ、高札を立て、武士、医師、出家神主以外の通行人から橋銭を取る有料橋でした。上流の清洲橋の女性的な優美さに相対し、男性的な重量感を持っています。隅田川と一体となって地域のランドマークとしての役割を果たすとともに、建設された時代の特色を表していることから、1999年に東京都選定歴史的構造物に選定されました。
日本橋川
日本橋川は、江戸時代には物流の中心として市民のくらしを支え、築地に移転する前の魚河岸や、多くの河岸(かし)があり、たいへん賑わいました。また現在も、明治・大正時代に架けられた著名な橋梁や、周辺には当時の栄華をしのばせる西洋建築物が現存するなど、江戸・東京の歴史を残す川となっています。金融、証券の中心である東京証券取引所や日本銀行本店なども、この川沿いに立地しています。
中央大橋の手前で隅田川はふたつに分流します。佃大橋方向へは隅田川本流、そして相生橋方向へは晴海運河となります。晴海運河の入口には大島川水門があります。
ひときわ高い支柱の橋は中央大橋です。1994年に開通した架橋で、隅田川に架かる橋で平成時代に初めて建造された新規の架橋です。夕刻から夜10時までは、白色の水銀灯と暖色系のカクテル光でライトアップされているそうです。私は見たことはありませんが。
亀島川合流地点の手前に15番目の隅田川テラス周辺案内図があります。
向井将監ゆかりの地
1590年、豊臣秀吉が小田原北条氏を征伐したとき、向井忠勝は徳川家康の武将として東海道の水軍をひきい、北条方の水軍鵜殿兵部を破りました。さらに慶長、元和両度の大坂陣には、同様に水軍をもって淀川河口の防備にあたり、大いに軍功を賞されました。忠勝はこれらの功により、代々将監と称して幕府水軍の総帥的地位につきました。
江戸湊の碑
江戸時代、江戸に集まる物資は主として舟運によるものでした。関西方面をはじめ各地方から江戸に物資が集中し、日本橋、京橋地区の河岸地に陸揚げされました。幕末に横浜が国際貿易港として開港したのに対して、東京の開港は遅れ、ようやく1941年に開港の運びとなりました。
中央大橋の袂に16番目の隅田川テラス周辺案内図があります。
八丁堀の歴史
現在は埋立てられている京橋川の下流端から、隅田川まで開削された掘割の長さが八丁(約870m:1丁≒109m)あったため、八丁堀と称されました。堀割の北側一帯を本八丁堀、南側同岸地沿いを南八丁堀と名付けられました。最初は寺社地でしたが、のち武家地となり、町奉行与力同心の組屋敷が置かれ、「八丁堀の旦那」といえば、町奉行配下の与力同心をさすようになりました。
亀島川水門
亀島川は、日本橋川から分かれ、隅田川へ合流する全長1kmほどの川です。この川の上流端には日本橋水門(1971年完成)が、下流端には亀島川水門(1968年完成)があります。高潮あるいは津波時には、両水門を閉鎖して亀島川流域住民の生命・財産を守ります。
徳船稲荷神社
徳川期、この地には、三方を掘割に囲まれた越前松平家の広大な下屋敷がありました(旧町名越前掘はこれに由来する)。 その中に小さな稲荷が祀られていたそうです。御神体は徳川家の遊船の舳を切って、彫られたものと伝えられています。
亀島川に架かる南橋を渡った先に17番目の隅田川テラス周辺案内図があります。
鐵砲洲稲荷神社
江戸時代には、江戸湊に面して鎮座する稲荷神社として人びとの信仰を集め、1868年に現在地へ移転しました。関東大震災によって被害を受けた境内は、1935年から復興・整備され、現存する主要な建物はこのとき建造されました。
南高橋
南高橋は、1932年に亀島川に架けられた鉄橋です。橋の本体には、1923年の関東大震災の被害を受けた隅田川の旧両国橋の中央径間部分がそのまま使用されています。
佃大橋の手前に18番目の隅田川テラス周辺案内図があります。
江戸湊の歴史
江戸時代、江戸に集まる物資は主として舟運によるものでした。関西方面をはじめ各地方から江戸に物資が集中し、日本橋、京橋地区の河岸地に陸揚げされまし。幕末に横浜が国際質易港として開港したのに対して、東京の開港は遅れ、ようやく1941年に開港の運びとなりました。
佃島渡船跡
佃の渡しは、江戸時代初期に船松町(個大橋西詰付近)と対岸の佃島との間に通ったのが始まりです。1876年には、渡し銭一人五厘の掲示札の下付を許可され、1926年東京市の運営に移り、翌年に無賃の曳船渡船となりました。1964年の佃大橋の完成によって、300年以上の歴史を持つ佃島渡船は廃止されました。
佃大橋、懐かしいですね。第二回東京マラソンに出走し、佃大橋を渡る時には走るというか、歩くというか、ヘロヘロの状態でした。あの上り坂には本当にへたりました。
佃大橋の先に19番目の隅田川テラス周辺案内図があります。
スーパー堤防事業
大地震等に対して、より安全性を高め、水辺に親しめる環境が再生されるよう、堤防基礎の強化、盛士・修景などを行い、幅の広いスーパー堤防の整備を進めています。スーパー堤防の整備にあたっては、後背地の再開発等のまちづくりと一体となって整備を進めています。
アメリカ公使館跡
横浜開港ののち明石町付近に、1868年外国人居留地が開かれました。アメリカ公使館も、1875年から1890年にかけてこの地にありました。記念碑は五基あり、十三星や鷲、盾など、独立当時のアメリカ合衆国を象徴するデザインが、国産の石材に彫られています。
隅田川テラスから見上げると、隅田川を見下ろすように2棟の高層ビルが建っています。2棟まとめて聖路加ガーデンとなっていますが、片方はレジデンスでもう一方はオフィスビルになっています。レジデンスといっても普通のマンションではなく、有料の老人ホームらしいです。また、32階−38階にはホテルが入っています。レジデンスとオフィスビルを地上100mの渡り廊下で結ぶ理由が分かりません。そもそも性格の異なるビル間で渡り廊下を使って行き来する人なんているのでしょうか?火災時の避難用?
聖路加ガーデンの先に20番目の隅田川テラス周辺案内図があります。
築地の歴史
築地は1657年の明暦の大火以降埋め立てられました。この時に本願寺が浅草横山町から移って東都の信仰を集めました。かつての南小田原一丁目(現在の築地六丁目付近)は幕府の軍艦操練所があった所で、明治に入ってからは海軍造兵廠が置かれ、築地五丁目に海軍兵学寮、海軍大学校、海軍水路局など海軍関係の諸施設が集中しました。また、震災後、魚河岸が移り、賑わいを見せています。
蘭学事始の地
1774年、豊前国(大分県)中津藩医の前野良沢が杉田玄白、桂川甫周らと共に、オランダ語の解剖書「ターヘル・アナトミア」を築地鉄砲洲にあった中津藩奥平家中屋敷内(現在の明石町)で翻訳し、「解体新書」が完成しました。当時の翻訳の様子は、玄白の著書「蘭学事始」に記されており、この地は近代医学発祥の基礎を築いた場所といえます。
築地外国人居留地跡
安政五力国条約締結の結果、築地鉄砲洲の地に居留地が設定され、1868年に築地外国人居留地が完成しました。この辺りには、公使館、学校、教会、病院などが建ち、宣教師、教師、医師たちが多く住み、東京のキリスト教系学校の多くが創立しました。1899年に条約改正され、居留地は廃止されました。
勝鬨橋で右岸の隅田川テラスは行き止まりとなり、他に迂回する道路もありませんので、一旦晴海通りに出て橋を渡り、左岸を歩くことになります。勝鬨橋の袂には広大な旧築地市場の敷地が広がっています。既に市場の建物は勝どき門駐車場ビルと築地市場厚生会館を除いて全て取り壊され、周囲は工事用の綱板で覆われています。かって水産物運搬の大型トラックが行きかっていた入場門には今や警備員のおじさん以外は誰もいません。ちなみに、対岸から見ても建物ひとつ見当たりません。
勝鬨橋が架かる前は、隅田川を隔てた月島と往来するために渡し船が運航されていました。
勝鬨の渡し
明治二十五年(一八九二年)、銀座・築地方面と月島との間には「月島の渡し」が開設されましたが、月島側の発展にともない、両地の交通はこれのみではさばけない状態でした。明治三十八年(一九〇五年)、日露戦争の旅順要塞(中国東北部)陷落を契機に、京橋区民の有志が「勝鬨の渡し」と名付けて渡船場を設置し、東京市に寄付しました。当地にある石碑は、この時に建てられた記念碑です。石碑の正面に「かちときのわたし」とあり、側面には「明治三十八年一月京橋區祝捷會挙行之日建之京橋區同志會」と陰刻されています。設置された勝鬨の渡しの渡船場は、ここから約一五〇メートル西の波除稲荷神社の辺りにありました。対岸にある月島側の渡船場は、月島西河岸通九丁目(現在の勝どき一・三丁目の境)の辺りにあって、この間を渡船が運航していました。勝鬨の渡しは、住民や月島の工場へ通う人々の重要な交通機関として大いに利用されていました。とくに、月島への労働人口の集中を容易にさせることになり、月島が工業地帯として発展する基となりました。大正十二年(一九二三年)の関東大震災後、架橋運動が起こり、船が通過する際に跳ね上がる可動橋が架せられることになりました。勝鬨の渡しは橋の架橋まで運航され、昭和十五年(一九四○年)六月、勝鬨橋の開通とともに廃止されました。勝鬨の渡しの名は橋名に受け継がれて今もその名を残しています。
勝鬨橋の袂に石原晋太郎元都知事の署名入り石碑が置かれています。東京市の時代の建造なので、何故に石原元知事の署名が必要だったのか分かりません。
勝鬨橋
勝鬨橋は、東京港修築工事の一環として、海運と陸運の共栄を意図し、建造された、中央二連がハの字形に跳ね上がる日本国内において唯一のシカゴ型二葉式跳間橋等で、昭和十五年(一九四〇年)六月に竣功した。勝鬨橋の特筆すべき点として、我が国最大の可動支間を有し、大規模でかつ技術的完成度の高い構造物であり、上部構造は中央二連の中路式可動桁及び機械装置よりなる跳開橋と、左右一連の拱曲線を放物線とした下路式ソリッドリブタイドアーチからなる。下部構造は直接基礎の鉄筋コンクリート造で内部に機械装置を収め、可動桁の端部が回転する空間を備える橋脚二基と、杭基礎の橋台二基からなる。建造工事は、東京市が施工し、設計者は東京市嘱託員成瀬勝武の指導のもと同技師瀧尾達也及び安宅勝らである。
勝鬨橋から先の右岸には歩行者用の通路はありませんので、初めて勝鬨橋を渡って隅田川左岸に行きます。橋は堅固ですが、やはり跳ね橋の構造のためか、中央付近では車が通る度に橋が壊れるかと思う位の振動が伝わってきます。
勝鬨橋を渡っても、左岸側の遊歩道は直ぐになくなります。振り返って勝鬨橋を眺めて見ると、ツインアーチの形状は本当に綺麗です。
勝鬨橋の左岸袂に21番目の隅田川テラス周辺案内図があります。
勝鬨橋
築地と月島の間を渡していた渡船場が、1905年の日露戦争での戦勝を記念し、「勝鬨の渡し」と命名されました。1930年に架橋が計画され、大型船の通航ができるように、シカゴの双葉跳開橋にならってはね橋とし、1940年に開通しました。1970年から大型船の通航もなくなり、また交通渋滞の緩和のため、「開かずの橋」となりました。隅田川と一体となって地域のランドマークとしての役割を果たすとともに、建設された時代の特色を表していることから、1999年に東京都選定歴史的建造物に選定されました。付近にある「かちどき・橋の資料館」は勝鬨橋を開くために使用していた変電所を改修したもので、この勝鬨橋をはじめ、隅田川の橋について貴重な資料や関連情報を展示、公開しています。
十辺舎一九墓
十辺舎一九(1765年〜1831年)は、江戸の滑稽本の代表作である、弥次喜多の活躍する「東海道中膝栗毛」などの作品で知られる江戸時代の戯作者です。1930年、東陽院の移転により浅草から現在地に移されました。墓石には5名の戒名が刻まれており、右から2番目「心月院一九日光信士」が一九の戒名です。左側面に辞世の句「この世をば、どりゃお暇に線香の煙と共に、はいさようなら」が刻まれています。
同じような内容ですが、隅田川を歩いた後、新月島川に向う途中の街角で、十辺舎一九墓の案内板を見つけました。「はい」はやっぱり「灰」と書かないと洒落になりませんね。
十返舎一九墓
所在地 中央区勝どき四丁目十二番九号 東陽院
江戸時代後期の戯作者として知られる十返舎一九は、本姓を重田といい、明和二年(一七六五年)駿河国(現在の静岡県)に生まれました。その後、江戸に出て日本橋の出版業者・蔦谷重三郎のもとで黄表紙を発表し、以後多くの黄表紙・洒落本を書きました。中でも「東海道中膝栗毛」はよく知られ、主人公の弥次郎兵衛と喜多八が日本橋から東海道を旅し、伊勢参宮の後、京都へたどりつくという旅行記の形式をとる物語です。この作品は続編に続編を重ね、一九の代表作となりました。一九は、天保二年(一八三一年)に没し、浅草永住町(現在の台東区元浅草)の東陽院に葬られました。東陽院は関東大震災後、当地に移転し、墓も移されています。なお、墓石には次の辞世が刻んであります。
此の世をは とりやお暇に 線香の
煙とともに 灰さようなら
一九の墓は、区の歴史や文化に関わりの深いものとして中央区民文化財に登録されています。
東京オリンピック開催を巡ってすったもんだした環状2号線ですが、コロナ禍により東京オリンピックの開催が1年延期になったことで全区間の完成がなんとか間に合いそうです。そんな環状2号線を隅田川に渡すために築地大橋が造られました。隅田川で最も下流に位置する橋梁となります。これで勝鬨橋の通行量もうまく分散されることでしょう。
隅田川の河口がどこか、決着の時です。隅田川と朝潮運河と東京湾が豊海町の端で交ざり合っているので、どこが河口か断定しづらいのです。なので独断で間をとって水産埠頭のあたりと定めます。水産埠頭には東京海洋大学の実習船が停泊していました。朝潮運河の先にはレインボーブリッジが遠望できます。岩淵水門から2日かけて隅田川を歩きましたが、さすがに東京を代表するキ市河川ですね、案内板の多さには驚きました。写真から文字を起こすのも大変でしたが。隅田川テラスはよく整備されていますので、一部だけ歩いてみても楽しいですよ。
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