- 大島川西支流コース
- コース 踏破記
- 中の堀川に引き続いて大島川西支流を歩きます。大島川西支流は清川橋の手前で仙台掘川から分流し、最終的に大島川水門手前で大横川に合流します。大島川は元々は独立した名称でしたが、法律により大横川に一本化され、その支流にのみ大島川の名前が残ったのだそうです。ただ、大横川の隅田川の合流地点には大島川水門の名前が残されていて、かろうじて昔の名残りをとどめています。Wikipediaには記載がありませんが、松永橋近くには私が見逃した大島川西支流の案内板があるそうです。
大島川西支流
大島川西支流は、江戸時代に大島川と称された本川の一部であり、現在の永代二丁目一番から福住二丁目八番に至る的820メートルから成っている。大島川の名称の由未は、右岸の町名大島町にちなむもので、元禄十二年(1699年)、深津八郎右衛門により付近の埋立てと同時に開削され、いつの頃か福住海岸と称され、渋沢栄一邸などがその海岸に建てられており、荷物の積みおろしなどで大変にぎわっていた。昭和四十年の河川法により本川の大島川は、正式名称として大横川とよばれることとなり、大島川の名称は東西両支流の名に残るのみとなった。
松永橋から歩き始めて直ぐに中の堀川との合流点に着きます。その先には首都高9号深川線の高架が大島川西支流の上を通っています。高架の手前の橋は元木橋です。側道はありませんので、一旦遊歩道から高架下の道路に出て横断します。
道路を渡った先には橋全体が緑色に塗られた緑橋が架かっています。何故緑色に塗られているのかというと、「松の緑」を意味する近隣の松賀町の地名に因むらしいとのことです。現在では松賀町は佐賀という地名になっています。
永代通りの手前に佐久間象山の砲術塾跡の案内板がありました。案内板の写真を見ると、西洋人のような顔をしていますね。
佐久間象山砲術塾跡
この地は、佐久間象山が西洋砲術塾を開いた信濃国(長野県) 松代藩下屋敷があった場所です。象山は松代藩士で、幕末の兵学者・思想家として著名てす。文化八年(1811年)松代城下で生まれ、名は啓、通称は修理、雅号は「ぞうざん」と称したともいわれています。天保四年(1833年)江戸へ出て佐藤一斉に朱子学を学び、同一三年(1842年)、藩主真田幸貫より海外事情の調査を命じられました。おりしも、イギリス・清国間で勃発したアヘン戦争(1840年〜1842年)に衝撃を受け、おもに海防問題に取組み、九月には江川太郎左衛門(英龍・坦庵)に入門して西洋砲術を学びました。嘉永三年(1850年)七月、深川小松町(永代一)の下屋敷で諸藩の藩士らに西洋砲術を教え、このころ、勝海舟も入門しました。同年一二月、いったん松代へ帰藩しますが、翌年再び江戸へ出て、木挽町(中央区)に砲術塾を開きました。門下には、吉田松陰・坂本龍馬・加藤弘之など多彩な人物がいました。安政元年(1854年)、ペリー来航に際し、吉田松陰が起こした密航未遂事件に連座して松代に幽閉されました。元治元年(1864年)に赦され、幕府に招かれて京都に上りましたが、七月十一日、尊王攘夷派浪士に暗殺され、五四歳の生涯を閉じました。
大横川に合流する手前の巽橋周辺には、隅田川が近いこともあって小舟とか屋形船が係留されています。大横川には練兵衛橋が架かっていますが、その横には越中島連絡橋も平行して架かっています。大横川を歩いた時に出会った橋ですが、随分と前のような気がします。
正確には大横川西支流の終点は大横川と合流する手前の巽橋ということになるのでしょうけど、本来は大島川水門だろうと思います。ま、数メートルの違いですが。ということで、大島川西支流を歩き終えました。仙台堀川・中の堀川・大島川西支流と、一日に3本まとめて歩きましたけど、それぞれに関係があって面白かったです。松永橋の袂の案内板を見逃したのは悔やまれますが。
水害のない町に 大島川水門
大島川水門は、大横川が隅田川と合流する地点に位置し、周辺流域を高潮の侵入から守るための防潮水門です。台風などによる高潮や津波が発生し河川の水位が上昇したとき、地盤高の低い地域では浸水などの災害が起きる恐れがあります。このようなときに水門を閉鎖して水害を防ぎます。また、大きな地震があったときも直ちに閉鎖して津波に備えます。
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